-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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4.ノーミスお姉さん

 今日は会議に各部署へのミーティングなど、かなり重なっている。
 どうしてこうも重なるのか? もっと上手く時間割作れないのかよ──達也はそう思う。
 それぞれの部署が『この時間が一番良いだろう』と思って提示してきた時間のようだが、実際はかなりバランスは悪い。かといって、各部署、各議題なんて本当に数え切れない程あるのだから、他の会議などと重ならないように予定を立てるのが精いっぱいといった所、時間が重ならないなら『良い時間を選んだ』となるのだろう。

 達也は朝から、机の上にある会議のレジュメに資料に各プリントをバッサバッサとまとめていた。
 以前は大佐嬢が一人で全てを背負い込むような運営をしていたが、こうして隼人や達也が来てからは、山中にジョイも含め、それぞれの担当は全面的に任せてくれるようになり、彼女は『甲板』に集中している。
 近頃は、月例会である『中隊長会』以外の会議は、ほとんど達也に任されていた。
 そこで顔を出せば、おじさん達は『大佐嬢、この頃、出てこないね』なんてがっかりしている顔もみるが、そんな彼等の輪の中に達也が馴染んだのはあっと言う間だった。そういうところ、かなり『得意』だ。
 だから葉月が『きっと、私が行くより良い』と任せてくれたのだろう。

 今日も沢山の人間と顔を合わすだろう。
 さて──それでも真面目な話になったら、相手がおじさんだろうとお偉いさんだろうと、この中隊の為にならない事には、達也が『この口』で守って行かねばならない。

「お茶でございます」
「お、サンキュ」

 書類をまとめている朝。
 最近では達也が口を出さなくても、後輩達が自主的に『朝の一杯』を出してくれるようになった。
 それも大佐嬢の為だけだったはずなのに、彼等は達也や隼人といった重役側近にも入れてくれるように……。

 と、達也はそこで『お茶でございます』と言った声が、いつもの品良い青年の声でなく女性の声だったので顔をあげた。

「小夜ちゃんか」

 気が抜けたように呟くと、目の前の女の子がムッとした顔に。
 達也は思わずハッと我に返る。

「……ちゃん。は、やめて下さい」
「あはは。そうだった」

 今、一番、側に置いて『鍛えている隊員』ではあるのだが──。
 どうも気が抜けると『一人の女の子』として扱ってしまうのだ。
 その時、この人一倍元気な女の子には、こうして逆に怒られてしまったりする。
 勿論、仕事という枠になったら達也も容赦ないし、そこは彼女も真剣に構えてくれている。
 だから、たまには気の抜ける呼び方でもいいじゃないか? と、それだって達也のちょっとした『楽しい冗談』のつもりなのに、どうも彼女はそういった『女の子扱い』が気に入らない様だ。

 達也は溜め息をつきながら、コーヒーカップを手にしようとして……。

「っあつ!」

 カップに突き当たるどころか、伸ばした指先が直接液体に触れてしまった。
 そして無惨にも……カップが倒れ……。

「うわーっ、うわー! やっちまった!!」

 達也のデスクに茶色の液体が、アメーバーのように急速に広がった。
 運良く大事な書類は束ねていたが、それと一緒に必要だった自作の概要メモやら参考プリント数枚が『犠牲』となっていく……!
 それだって端役だが、俺には重要なアイテム──! 達也は手に束ねていた書類を手放してまで、手遅れになったプリントもまだ助かるプリントも、両手でザッと『救出』。……だけど、順序良く束ねていた重要な書類の方が床に落ちてバラバラになった。

 仕事と向かえば、しゃきんとした風格を放つ達也だが、こうして同世代の同僚達に囲まれてちょっと気を抜いている時は、かなり騒々しい方。
 だからそこでわーわーと騒いだ達也に皆が振り返った。

 目の前の席にいる澤村中佐も、唖然としている。
 キッチンでお茶入れをしていた小夜ちゃんにテッドも、目を丸くしてこっちを見ていた。

「おはよう」

 最後に出勤してくる大佐嬢が、やっと現れた。
 その彼女が自分の席へと向かおうと、こちらを向いて……達也の不様な格好に眉をひそめた。

「なに。その格好」
「うーん。レスキューをしとりました」
「は? 足元、すごい散らかっているわよ」
「分かっていますよん、大佐ちゃん」

 いつもの調子良い喋り方に、葉月はいつもの冷めた横顔をつんと向けて、関わりたくないなんて言いたげな可愛くない顔のまま大佐席に向かっていく。
 彼女のこんな反応の仕方なんて、もう十何年も見てきたのだ。今更腹も立たないし、当たり前。だけど彼女のそこを崩してやろうと思って騒々しくしたり、ふざけたりしていたのも事実で、それも習慣だった。

「あー。やっちゃいましたね。拭きますね」
「ああ、有り難う」
「らしくないですね? 私が熱く入れすぎましたか」
「いや、違う。完全に俺の不注意だな。残念、吉田が入れてくれたブラック、飲めなかった」
「拭き終わったら、入れ直しますね」

 先程、女の扱いをして睨まれた吉田小夜が、ふきん片手にやってきて、丁寧に達也のデスクを拭き始める。
 彼女は、どこかガサツなんだけれど、やると決めたらまっしぐらの集中力を持っているし、頑張り屋。それにコツを掴んだ後の手際の良さと言ったら天下一品だ。
 その手つきで、彼女がピカピカにしてくれた。もたつきなく、あっと言う間で、達也も見ていて気持ちが良くなる。

「達也? 抱え込んでいるなら、ひとつふたつぐらい、私が出るわよ」

 大佐席についてバインダーを広げた栗毛の大佐嬢が、優雅な物腰でこちらに微笑みかけてきた。

 きらめく朝の日射しの中で、ふっと何かが薫るかのような微笑みを見せる彼女の眼差しに、達也は思わずドキリと心をときめかせた。
 近頃、彼女はもの凄く変わった。
 どこか余裕が出てきただけでなく、丸みも出てきたし……。なんと言っても、血が通い始めたように明るくなった。それだけならまだしも、華やかさを備えて綺麗になった。この上ないのだ。
 ずっとその彼女をみつめていたいのだけれど。達也はふっと目を逸らし、床に散らばった書類をかき集める。

「大丈夫だ。年度始めだから、たて込んでいるんだよ。こんなのフロリダでも当たり前のスケジュールだったぜ。ここ一、二週間で落ち着くだろうさ」
「そう? 貴方だって他にいろいろ携わっているんだから、無理しないでよ」
「ああ」

 床に向かい合って書類を集めているうちに、感じていた彼女の視線が離れていった気配を感じた。
 何故かほっとしている自分がいる……。

『中佐。これ、お願いね』
『はい、大佐嬢』

 もう一人の中佐と彼女のやりとり。
 少し前までは、同じような短い会話でも、どこか固さもぎこちなさも漂わせていた二人。
 今は、その短い会話の中で、彼と彼女だけが通じる『たくさんの意味と信頼』が滲み出ている気がする。そんな柔らかで暖かい雰囲気なのだ。
 夏が始まった頃から、二人の断ち切れていた何かが徐々に修復されている気配を、達也はひしひしと感じ始めていた。
 彼女のプライベートの一環である『音楽会に行ってみたい』と願い出たのも──その焦りだったか? 今頃、そんなふうに思ったりしている。

 だけど、彼女とはどうにもならなかった。
 彼女に振られたというよりかは、『俺からも何もできない状態で、どこか納得してしまった』気持ちだったり、『葉月があまりにも幸せそうだから、触れなかった』というのもある。

(兄さんも、変わったな)

 上官で恋人でもある大佐嬢と短い会話をすませた後は、もう自分のことにまっしぐら。
 あんなに『いつでも葉月と大佐嬢』だけを見据えていた男だったのに。

 達也はふと、隼人にも置いて行かれてしまった感覚に陥ることがある。
 それがどんなものなのか自分でもよくわからなくて、時々もやもやしているものが胸を覆うときがある。

 そうだ。今は彼もそうしているように仕事、仕事。

 達也は汚れたプリントを手にして大佐室を出ようとしたら、キッチンから小夜が顔を出した。

「中佐、それ私が打ち直しますよ」
「いや、外に持っていく。今やっている仕事、やってくれ」
「……そうですか。分かりました」

 彼女のしぼんだ声。
 汚れたプリントは小夜が打ち込んでくれたものだが、彼女は今、大佐室を出ても残っている雑務がある。なので、さっとやってくれるところに持っていくのだと言う意味を彼女も嗅ぎ取ったのだろう。

 小夜も自分の実力はちゃんと理解しているし、そして達也もそこはシビアに切り替える。

 それで『急いでいる』として、今一番側にいるアシスタントを差し置いて向かう場所は──これまた小夜の元部署『経理班』だったりする。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「いずみさん。これ、お願いしてもいいかなあ」

 達也は申し訳なさそうに言いながら、汚れたプリントを『笹川泉美』に差し出した。
 黒髪のごくごく平凡な三十歳を過ぎた落ち着きある女性だ。
 その彼女が仕事をしている手を止めずに、キーボードを打ちながらちらりと目だけで見上げてきた。
 そしてまた、キーボードへと視線を戻してしまった。

「いいわよ。置いていって」

 いまや『隊長代理』に指名されるほどになった『海野中佐』に対して、敬語もなしに冷たい対応。どこか偉そうに聞こえるだろうが『達也と彼女』の場合は、これで良いのだ。

 彼女はそんな短い一言だけを呟いて、仕事に戻っていく。
 達也も黙って彼女の机の端に汚れたプリントを置いて去ろうとする。
 それを置いたときに動いたわずかな空気からは、コーヒーの匂い。
 彼女がそれに反応した。

「あら? 汚しちゃったの?」
「ああ、うん。うっかり」

 すると彼女が可笑しそうに笑い出す。

「海野君らしくないわね」

 達也はぎこちない笑みだけを浮かべ、そこから去っていく。

 肩越しにチラリと振り返ると、彼女は暫く、そのコーヒーで汚れたプリントを優しい目つきで眺めている。
 それがなんだか不思議に思えて、達也はそのまま眺めてしまっていた。
 だけど彼女はすぐに先ほどの素っ気ない『経理の女』の顔になり、机に向かい始める。
 ただし、先ほどの仕事ではなく達也のプリントを手にして、それを眺めながらの作業に切り替えていた。

 勿論、なるべく早く作り直してほしい。
 達也が持ってきたと言うこと。それだけで『なるべく早く』と言うのが彼女には既に通じている。
 それが通じたように、黙っていても優先してくれたのは有り難く思えた。
 だからといって、達也は彼女に『直してくれて有り難う』は言っても、『優先してくれて有り難う』は言わないだろう……。

 彼女は達也よりも二つ年上で、三期先輩にあたる。
 葉月の経歴を追いかけるようにしてフロリダ特別訓練校を卒業した後、これまた葉月を追いかけるように希望した基地『小笠原総合基地』への入隊がかなったのは21歳の時。
 その時、笹川泉美は既にこの一隊にいた。

 経理班の先輩である『河上洋子大尉』の一番部下として、経理にずっといる。
 そして彼女も葉月にずっとついてきた部下になるのだろう。いや、洋子についてきたと言った方がいいかもしれないが。

 達也が昨年、再び葉月の元で働くことになり小笠原に帰ってきたら、彼女がまだいたので驚いたのだ。

 二十代の小笠原時代にも彼女はいたけれど、存在感ゼロだし、はっきりいって地味だった。
 今でも『普通かな』と思う。
 それでも彼女も女だからだろう。二十代の駆け出し女性隊員の時よりもずっと女性らしい身なり身だしなみになっていて大人の落ち着いた女になっている。
 だけど女性が皆、女性らしくあるだろうごくごく普通の雰囲気だ。

 だけど達也が小笠原に戻ってきて、彼女に関して驚いたことが一つ。
 彼女はこの若きエリートが育ち始めている注目の一隊になりつつある『御園嬢本部』で、一つだけ素晴らしい存在感を作り上げていたのだ。

『ノーミスの笹川』
『スピードの泉美』

 彼女にはどんな用事を任せても早いしミスがないと洋子が言っている部分もあり、小夜をアシスタント候補生として使い始めたことから、こちらの女性に目をつけていた達也がそれとなく雑用を回してみると、経理以外の仕事でもちょっと説明しただけで見事に期待に応えてくれ、評判通りだ。
 葉月も達也が勝手に経理班の彼女を試していることを知っているくせになにも言わなかったところをみると、『泉美さんは良いわよ』と同じ気持ちでいてくれているのだと通じることも出来た。
 他の班と経理班が関わっている仕事でも、後輩たちは『泉美さんなら間違いない』と口を揃えたぐらい……。
 彼女がこの十年間で淡々と磨き上げてきたものは『確実』で『素晴らしかった』のだ。

 だから、彼女が達也の仕事を優先してくれたのも『彼女が自分で仕切っている範囲の中での計算のひとつ』にすぎない。
 さっさと終われる仕事は、片づけてしまえ──ぐらいなのだろうし、彼女にとっては当たり前の仕事なのだ。
 だから、礼は言わない。彼女もきっと求めていない。
 そういう『仕事』という軸での彼女との信頼というものは、ここ数ヶ月で妙に手応えがあった。

 だからこそ──。
 達也は泉美を小夜らと一緒に『海野チーム』の一員として指名したのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 さあ、今日も朝の一発目から気合いを入れて、すべてやりこなすぞ──と、意気込んでいたら、隼人が思わぬことを言いだした。
 『吉田を一度だけ貸してくれ』と、言うのだ。

「はあ? 俺も今日はずっと付き添ってもらう予定なんだけど」
「柏木がいないだろう。いきなり、連隊長室からお呼びがかかって、送り出してしまったじゃないか?」

 そうなのだ、そうなのだ。
 朝の一番から、ロイ直々の指名だとかでリッキーからお呼びがかかったのだ。
 ちょっとした接待に回してほしいという話なら、時々あることだ。
 それがこの中隊にもお声がかかったということで、葉月も達也も勿論隼人も、喜んで柏木を送り出した後だった。

「だから、俺だけでもいいかと思ったんだけれど。やはりあると助かるな〜と」

 隼人も一人でするつもりだったみたいだが、細かいサポートを付ける身分になると、あった方が手際がよいのだろう。
 それは達也も同じように感じることだ。
 空軍管理の後輩の誰かを連れて行ってもいいのだが、そこは小夜の方が今や上なのだそうだ。
 つい最近まで隼人のアシスタントを集中的にしていた女の子だ。そりゃ、使い勝手も良ければ、部下も慣れていることだろう。

「解ったよ。吉田にそう言っておく」
「悪い。工学ミーティング、ひとつだけ」
「いいぜ。ひとつだけなら」

 元々小夜に秘書的現場の雰囲気に慣れさせるのが、今の段階で目的。それで連れ添っているが、実際の雑用はやらせてはいるがまだレッスン段階。
 他中隊の上官に付き添ってきている側近に補佐官などは、速記で記録をとったり出来る者もいるようだし、パソコンでメモを取っている者もいる。そんなサポートは小夜や柏木はまだレッスン状態で、今は達也が自ら担っている状況。小夜の訓練が一回分、減るぐらいのこと。
 だから、一回だけの条件で頷いた。
 隼人も『充分、それで助かる』と笑顔で承知してくれた。

(久しぶりに、一人か……)

 そろそろ出かけようかと大佐室で支度をしていると、『泉美』がやってきた。

「海野中佐、お待たせいたしました」

 先ほど頼んだ仕事を、仕上げて持ってきてくれた。
 達也特製の『簡易メモ』だから、打ち直しだけ。彼女にしてみれば朝飯前だろう。
 コーヒーの匂いが染みついた汚れたプリントと真っ新で打ち立てのプリントを重ねて置いてくれた。

「有り難う」
「いいえ。では、失礼いたします」

 きちんとした物腰からも、30歳を過ぎた女性の落ち着きを感じさせる。
 去り際に、ふわっと揺れるセミロングの毛先。今、流行の髪型か……。でも彼女の面長で日本的な顔立ちには、とてもよく似合っていると達也は思った。

 静かで落ち着きがあって、清楚で、慎ましやかな香りがした……。

(ふうん。上手くつけてんな。香水)

 その香り方も控えめで慎ましやか……。フェロモンをパワーアップさせる目的でつけたようなものでなく、それもごくごく普通の『よくあるたしなみ』程度。
 達也のように自己主張をしたいがためにわざと匂わせているのでもなく、以前の葉月のように『ほんのちょっとつけて女気分』だなんて、香水の意味をなさないような付け方でもない。
 ちゃんと『私もつけています』という香水に役割を果たしている、まさに『たしなみ』だ。

 そんなところ、すごく好感が持てる女性だった。
 だけれど、そんな好感はあれど彼女は本当に『普通』なのだ。

 そうだ。普通ほど、素晴らしい『好感』はないのでは? と、達也は急に思った。

 人より飛び抜けた個性は、人々の中では大きく『好き嫌い』や『善し悪し』に分かれるもの。
 その対象が嫌いとか悪いと判断されたときは、時としては、一種の『迷惑』になるのかもしれない。
 が──『普通』には、それがないのかもしれない?
 良くもなければ、悪くもなく。嫌いという感情を与えずにも済むのだろう。つまり人様に迷惑にも嫌な思いもさせないというのだろうか。
 だが……その代わりに、決して目立たない。
 少なくとも、達也にとっては笹川という女先輩はすぐに目の前を色なく過ぎていく存在。

 だから、彼女が去っていけば、達也は今そこに彼女が居たことも来てくれたことも忘れる──。
 綺麗に蘇って舞い戻ってきた『美しいプリント』をただ眺めて、確認……。

「!」

 その『美しい』が急に新鮮に見えた。
 いつもみてきたはずなのに、達也が不注意で汚してしまったプリントは小夜がまとめたものの、それは達也がまとめたとおりに打ち込んだもの。
 その自分がまとめたはずの見慣れたプリントと彼女が打ち直してくれたプリントを並べた瞬間に……なにかが閃いた。

 達也は席を立って大佐室を出て、再び、経理班へと向かった。

「泉美さん」
「な、なに? 私……なにか間違っていた? すぐに直すわ、貸してっ」

 ノーミスの女王が狼狽える。
 絶対に間違っているはずがないという行き過ぎた自信がない証拠。誰もがそして自分もミスをするのだという心構えがあるのだと思った。
 そして達也は狼狽えている彼女にはっきりと言う。

「泉美さん、俺の会議の付き添い──やってくれない?」

 そう言うと、彼女は唖然とした顔で達也を席から見上げていた。
 そして、泉美はそのまま上座の席にいる班長である上官『河上洋子大尉』の方へと助けを求めるような目線で顔を向けたのだが……。

「いいじゃない、泉美。海野チームの一員なんだから、いってらっしゃい」

 洋子はけろりとそう言うと、自分の手元の仕事へと目線を戻してしまった。
 それにも彼女は戸惑いを見せ、今度は達也を困ったように見上げた。

 暫し、二人で見つめ合う。
 達也が目で語りかけたことはひとつ。
 『行こうよ』だ。

 そして彼女は、無言でこくりと頷いてくれていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 後悔していた。
 何故、彼女を自分が企画したチームの一員に選んでおきながら、今まで柏木や小夜と同じように、こうして本部の外へと連れて行こうと思わなかったのか……。
 きっと彼女が本部の中でだけ『ノーミスの女王』として完璧であれば……つまり、細かい仕事を完璧に支えてくれさえすればそれで良いのだと、勝手に決めつけていたのだろう。

 達也はそんな『狭い考え方』をしていた自分を呪いたくなるぐらい……。
 彼女を会議に連れて行って、ひどい後悔に襲われることになったのだ。

 彼女と会議に出た。
 驚くほどに完璧なサポートだった。
 もっと驚いたのは、柏木も小夜も出来ないパソコンでのメモ取りだった。
 彼女は『自分専用なのだ』と言って、小型のパソコンを持参してきた。
 それを膝の上に乗せ、達也の隣に座った。
 達也がメモを取っていると、その手元をすかさずみて、素早く打ち込んでいた……。

 達也が彼女を試すように連れ出す気になったのも、『ある期待』がぶわっと浮かんだから。
 それは当たっていたようだ。

 彼女は会議が終わる頃、もう清書したと言っても良いぐらいの出来上がりをみせる『達也メモ』を整理して打ち込み終えていた。

「泉美さん、それ見せて」
「どうぞ」

 彼女が柔らかい表情でそれを差し出してくれる。
 会議中の横顔は、とっても気迫があった……。
 そんなギャップを感じながら、達也は渡された小さなパソコンの画面を覗かせてもらう。

「すごいなあー。もう、このままもらいたい」
「まさか。海野君がそんなことを言うなんて。もしこのまま提出したら、出来ていない詰めが甘いと怖い雷を落すでしょ」
「そうだけど」

 彼女はすっと小さなパソコンの扉を閉じた。

「昼休み明けまでには持っていきます。海野中佐」
「うん、分かった」

 会議が終わり外に出ようとする時には、いつも入り口で『おじさん達』と一言二言なり会話を交わすのが『会議人達』の社交でもある。
 そんな中、二中隊管理班の先輩に声をかけられる。

「あれ。いつもの可愛い子じゃないね」
「はい。ササカワと申します。うちでは『ノーミスのササカワ』と言われていましてね……」

 達也の紹介に、金髪の中佐が泉美をじろじろと見下ろす。
 だが、彼女はそんな目線に気がついても怖じ気づくことなく、にこり微笑み『こんにちは、中佐』と挨拶をした。
 特に媚びを売るようなわざとらしい笑みでもなく、ぎこちない繕い笑いでもなく、本当にごく自然に。

 二中隊の金髪中佐も何かを感じたのか? いつも小夜をからかったり、柏木を脅かすといったような愛嬌からくるジョークの意地悪はしてこない。
 その代わりにこう言った。

「本当に御園嬢のところは怖いな。慣れていない若い子ばかりかと思えば、こういう落ち着き慣れている『秘蔵っ子』を時々出してくる」

 その先輩の評価に、達也はドキリとした。
 やはり──! 彼女には素質があるのだと!

「ほら、あの子達もだ。この前にあった中隊会でマクガイヤー隊長の付き添いで出て、大佐嬢と会ったけど。このごろ彼女についている栗毛の少佐。それから通信科に三年も置いていたとか言うプエルトリカンの女の子。あれも良いよ」

 そして彼は再び泉美を見て『彼女も良い』と言った。
 それにも泉美はお辞儀をして短くお礼を言っただけ。
 その静かさにも金髪の中佐はうんうんと頷いて、満足そうだった。

 そこで彼とは別れた。

「泉美さん、驚いたな。もっと早く連れてくれば良かった」
「これでも大尉の経理ミーティングの代理とか、会議のおつきあいもしていたのよ」
「そっか。そうだよな。泉美さんは洋子さんの一番部下だもんな。経理班のサブ姉さんだもんな」

 彼女はそっと笑ったが、達也としては痛いところ。
 下で支えてくれている者が、どんな業務をしてたかだなんて、把握できていないところが。
 それでよくぞ、『俺が作るチーム』だなんて言って、彼女を選んだものだ。
 それなのに、彼女の力を存分に引き出さず、本部内で出来上がった肩書きだけで満足していただなんて。

 だから『後悔』していたのだ。
 そうして自分のことを情けなく噛みしめている達也の様子を分かってか、彼女がこう言い出した。

「私としては海野チームに選ばれただけでも驚きだったわよ。そして嬉しかった……。なんだか初めて認めてもらえた気がして」
「そう? だって……泉美さんは『ノーミスの女王』じゃん。選ばない奴なんかいないぜ。本当『雑用』と言っているけど、あれほど大事な基礎である作業はないもんな。俺だってそこからスタートで怒られながらやってきたことだし。それが完璧ってすごいことだぜ!」

 何故か達也は力説……。
 ハッと我に返ってしまった。

 だけど彼女は柔らかに『有り難う』と小さく呟き、頬を紅潮させてとても嬉しそうに微笑んでいた。
 なんだか達也の胸に、ほわっとしたものが広がったのを感じた。
 達也は密かに胸を押さえる。

(俺……。疲れているのかな)

 その『ほわっ』とした感触というのが、『癒されたのだ』という感触であるのが、自分でもはっきりと分かってしまっただけに。
 そんな女性の笑顔ひとつで、くたびれたハートが喜びそうな一歩手前な気持ちに、それほどに『和み』を欲しているのか? と、思ってしまったのだ。

「海野君」
「は、はいはい」

 公の場以外では、彼女はしっかり者の静かなお姉さん、そして達也は昔からのイメージである『やんちゃな男の子』みたいに接されてしまい、再会した今は昔以上にそんな間柄で接しているときが多い。
 今はそんな『昔なじみのお姉さんと男の子』のモードになっているようだ。
 そしてその静かなお姉さんが急にため息をこぼし始めていた。

「皆が、ノーミスの女と言ってくれるけど。本当はミスはしているのよ。そんなにパーフェクトなわけないじゃない。本当はそのネーミング、かなりプレッシャーなのよね。なんとかならないかしらって思っているぐらいよ」
「なるほどね。ああ、でも……『ミスをしている』と言っても自己カバーをして相手には損失はさせないフォローが出来ている上での『結果オーライ』なら『ミスはしていない』ということだと俺は思うな。泉美さんのミスをしているとは、そんな範囲なんだろう?」

 達也のそうした力の入った褒め言葉にも彼女は不服そうに『そうだけど』とため息をこぼした。
 ちょっと疲れた顔。いつもより顔色が白く見えるのは気のせいなのだろうか?

「泉美さん、もしかして……」

 達也がその先を言おうとしたら、彼女が何かを悟ったようにしゃんと背筋を伸ばした。

「フロリダ本部から出世凱旋した海野君が頑張ろうと選んでくれたんだもの! 私も頑張ろう──」

 静かなお姉さんが似合わぬ明るさを見せて達也はギョッとしたが、次には『そうそう、その意気』と一緒に笑っていた。
 その勢いで言ってみた。

「泉美さん、カフェで一休みしていこうよ。午前の休憩まだとっていないだろう」

 達也としては自然に言ったつもりだったのに……。
 あんなに明るさをみせたお姉さんが、また会議に行こうと言ったときのように困った顔に。

「えっと……。まだやらなくちゃいけないこと、たまっているし……。今日、急だったから……」

 自信がなさそうな小声でつぶやき、まるで達也から遠ざかるように後ずさったようにも見えたり、見えなかったり?
 しかし、実際には達也が突発的に連れ出したのであるから、彼女なりの予定も狂ってしまっていることだろう。彼女の言う通りかもしれないから、達也は『そっか』とちょっと残念そうに呟いた。

 彼女がまた疲れたようにうつむいて先を歩き出した。
 だが、二、三歩。歩いたかと思ったらふと彼女が立ち止まる。
 達也もそれに気がついて立ち止まった。

 そして泉美が笑顔で振り向いた。

「でも、海野君のおごりなら、いっちゃおうかな!」
「え?」

 その急に振り向いて浮かべた笑顔が、とても無理をして装っている不自然な明るさに見えてしまい、達也の方がそのまま固まってしまった。
 会議の後に、あの先輩中佐を頷かせるほどの落ち着いた大人の微笑みを自然と浮かべている人の、笑顔ではなかったから……。
 それに達也のその固まってしまった様子を知った彼女はとても心外そうな苦しそうな顔に豹変してた。しかしそれも一瞬で、すぐに持ち直した笑顔に戻る。
 この瞬間に様々に変化した彼女の不自然さに達也は戸惑うばかり……。

「あ、やっぱり……。私、帰え・・」
「当たり前じゃんか! これでも俺、偉くなったんだぜ! 部下にお茶の一杯や二杯。ケチらねえっつーの」
「海野君……?」
「ったくさあ。泉美さんは真面目すぎるんだよ。もっと気楽に受け止めてくれたらいいのにさ」

 『行こう』──達也が軽く流すと、やっと彼女がホッとした楽になったような顔になった。

 今度は達也が先に歩き出す。
 彼女も遅れて背後をついてくる足音が聞こえた。

 あんなに不自然に無理に装うなんてお姉さんらしくない──達也は泉美があんな姿をみせるだなんて、ちょっと悔しい気分。
 彼女のこと、『普通、普通』とさんざん思ってきたけれど、『普通』とは何なのだろう? と達也はふと思った。
 そんな彼女は、今日初めて素敵に見えた。
 あの会議の時の横顔も、上官に見せる落ち着いた挨拶の微笑みも、そしてあの癒しの笑顔だって。
 なのに──先ほどのあれだけが、浮いている笑顔だった。
 それがどこか達也には妙に野暮ったく見えてしまったのだ。それが残念。
 仕事ではノーミスでも、落ち着きあるお姉さんとしてはミスっただろ? と言いたくなってしまうぐらいに。
 きっと男慣れしていないのだろうなと思った。

 そんな物思いをしているのに気がつき、はたと我に返る。達也の背後をついてきているはずの泉美の気配がないことに気がついた。

「泉美さん……?」

 ふと振り返ると──。
 彼女が……! 廊下の壁にもたれて胸のあたりを握りしめてぐったりとしている!

「泉美さん……!?」

 達也が駆けよると、彼女は壁に肩を押しつけたままずるずるとしゃがんで、ついには廊下に倒れきってしまった。
 横たわって白いシャツの胸元をぎゅっと握りしめ、歯を食いしばりひどく歪む顔──。

「どうして……! 何故!?」

 目の前で何が起きているか分からず、流石の達也も動揺を隠せない。
 それでも、彼女を抱き上げてすぐそこの医務室に連れて行こうと思い彼女の身体に触れようとすると、その手を払われた。

「でも……泉美さん!」
「い・・いい、の……」
「いいって!?」

 達也の助けの手を払いのけたその手が、首元へともって行かれる。
 まるでそこをかきむしるよう……。ボタンを開けたいのか、襟元がきついのか、そこが苦しいのか分からない。それでも彼女がそこで何かをしようとしている。
 その手がとてももたついている。
 そしてやっと達也にも直感が働き、彼女のもたついている手を今度は達也が払いのけ、後先考えずにその襟を力任せに開いてしまった!
 当然……女性らしい下着が少しばかり見え隠れしてしまうほどだったが、その胸元から革ひもに繋がれたピルケースがこぼれ落ちてきた。
 彼女が震える指先でそれを掴もうとしたのを見て、達也がそれを……これまた震える指先で開けてやった。

(心臓か!?)

 これで判った。
 彼女には『持病』があるのだと!

 開いたケースから薬がこぼれ落ち、彼女がやっと口にする。
 暫くすると、荒々しかった波が引いていくように徐々に彼女の息づかいも悶えも鎮まり、穏やかに静かになっていく。

 達也は……ぺたりと床に尻をついてしまっていた。
 額に汗が……。
 こんな緊迫場面、暫くなかった。それほどに驚かされた。

「い、いつから──?」
「にゅ、入隊……して、少しして」
「葉月は……?」
「知って……いる……わ」

 二人で息切れた言葉を交わしていた。

 当然、達也はすぐに立ち上がって、まだ息を整えている泉美を逞しく抱き上げた。

「海野君……だ、だいじょう……ぶ」
「大丈夫じゃない! 医務室に行こう」
「い、いつものこと……だって」
「駄目だ。そういえば顔色が良くないと思っていたんだ」
「う、うんの・・く、ん」

 そこで泉美はやっと降参したのか達也の腕の中でくったりとなった。
 すれ違う隊員達が珍しそうな目で見ていくが、達也には見えなかった。見えているのは医務室への道筋だけだ。

 その間に、すっかり身体を預けてくれていた泉美が呟いた。

「せっかく……。海野君のおごりだったのに」

 達也は『また今度、必ず』と言って、彼女を高官棟カフェの近くにある医務室に詰めていた医師に預けた。

 ふと落ち着いて、一人で本部に帰ろうと向かっている最中。
 達也の中に、ふつふつと湧き上がってきたものが……。

「あのじゃじゃ馬め〜っ!!」

 こんな大事なことを黙って隠していたのかと!
 達也は頭に血を上らせ、猛然と大佐室へと向かっていた。

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