-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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14.カモフラージュ

 その日も、大佐嬢のサポートのため、テッド=ラングラー少佐はめまぐるしく動き回っていた。

「もう。あの人の感覚だけで進むのワケわかんねぇ」

 取らねばならぬプリントがあり、経理班側にあるコピー機に立ちつつ、ちょっとばかり密かにぼやいてみる。
 あの大佐嬢……。デスクは雑然としているし、頭の中きっちり時間割が出来ているのかと思ったらそうでもないし。……だけど、ちゃんと上手く収まってしまっているのが不思議。そして、それが誰よりも上を行ってしまうので敵わない。なにがどうなれば、あんなになれるのか解らない。

 今日だって、テッドが綺麗に書類を揃えてやりやすそうな順番に積み重ねておいたのに……。
 一時間もすれば、机の上に三つ、四つぐらい平面に並べてしまって、『今、どれをしているのですか?』と聞けば、『全部』という返事だった。
 なにか手伝おうと近づいたテッドとしては、どれを一番先に手伝って良いのかさっぱりの状態になる。それで結局、彼女に指示を仰いでしまう。本当なら、先読みをして彼女が楽になるようにサポートするのが目標なのに。

 それで今も『じゃあ、これ、コピー取ってきて?』と頼まれて、こうしてやってきたのだが。なかなか思うような自分になれなくて、いや……彼女にならせてもらえないよう阻まれているようで、時々、なんだか情けなくなったり、悔しくなったり。今、まさにそれだった。

「今、怒っているだろう?」

 丁度、コピーを取り終わったところで、後ろからそんな声。
 振り向くと、そこには隼人がいた。

「澤村中佐」

 まったくその通りの所を見抜かれて、テッドは少しばかり頬を染めつつも、意地を張って目を逸らした。

「ま、出来たら野放しが一番かもな。必死になりすぎないことだ。余計なエネルギーを使わされるだけだぞ」
「はい……」

 彼に背中をぽんと叩かれる。
 彼女の扱いなら右に出る者無しの側近中佐だ。
 それに……彼女の恋人だし。なんでも分かっているような余裕がいつも羨ましく思ってしまう男性。こちらにもいつまでも敵わない感覚だ。

 それにしても──。彼が一人でこうしてコピーを取りに来るなんて珍しいな? と、テッドは思った。
 勿論、彼も事務仕事をしているのだから、急いでいれば自ら取りに来る姿はおかしくはないのだけれど? それでもアシスタントがいる今はそう頻繁でもない。
 そしてそんなテッドの違和感は、当たっていたらしい。

「テッド。少しだけで良いから、付き合ってくれないか?」

 背を向けたまま、隼人が小さく呟いた。
 そして、もう一度──背を向けたまま、彼が言う。まるで誰かには聞かれたくないかのような声で……。

「三十分後にカフェで待っている。上手く言って『彼女』に気がつかれないように、抜け出してきてくれ。頼む──」
「中佐?」

 ものすごく……何かに急いでいるかのような声。そして、差し迫っているような雰囲気。
 テッドは驚いて隼人を眺めていたのだが、隼人はたった一枚のプリントを取るとテッドの肩を叩いて、たいしたお喋りなどしなかったという素振りで去っていってしまった。

 テッドの返答も都合も関係ないような、ものすごく一方的な申し出。
 だけれど、それだけあの冷静な中佐が何かに対して凄く危機感を抱いて、切羽詰まっているような気がしてきた。
 そうなると、テッドも気になってくる。
 隼人がそれだけ不安に思うほどの事が、大佐嬢に……?
 今や、彼女の側に密着しているのは『俺だ』と自負しているテッド。……プライベートは除くが。その『除いている部分』で何かが起きたのだろうか?

 徐々にテッドの中でも不安が広がってきた。
 急いで大佐室に戻る。
 既に素知らぬ振りで仕事をしている隼人を傍目に、テッドも雑務をそれとなく急いで片づけた。

「あの……大佐」
「なに?」

 例の如く、三つか四つの書類を同時に眺めつつ一人でじっと考えている大佐嬢に声をかける。
 只今『考え事真っ最中』といったふうの彼女の返事は、素っ気ない。

「外の用事に出かけてきて良いですか?」
「いいわよ」

 各部署へと廻る仕事もいくつか任されるようになっていた。
 それを理由にテッドは外に出た。

 隼人はデスクにまだ座っていたが……約束の三十分後には間違いなく来るだろうと、テッドはカフェテリアへと足を向けた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 とりあえずコーヒーを一杯オーダーして、空いている席に座る。
 ランチの時間帯でもなく、中休みの時間帯でもなく……まさに何処でも今の時間帯は勤務時間。だからカフェとしては今がアイドルタイム。ホールはがらんとしていた。

「待たせたな」

 テッドが落ち着いてから十分程で隼人もやってきた。
 そして彼は飲み物も頼む様子もなく、そのままテッドの向かい側に座り込んだのだ。
 やはり、それほどに? お茶を挟んでじっくりという事ではなさそうだ。
 それを感じたテッドは……飲もうとしていた一杯を味わう気にはなれなくなり手放してしまった。
 そんな雰囲気を、隼人が運んできたのだ。

 隼人が黒カフスをめくって、腕時計をちらりと眺める。

「時間がないから手短に話す」
「はい」

 じっくり話していては、長い離席の間に何をしていたのかと大佐嬢にも悟られてしまう。そういう『急ぐ』なのだろう。
 だから、彼はすぐさま切り込んできた。

「葉月から、テッドには昔の話を打ち明けてあると聞かされているんだけど」
「……は、はい」

 なんだか胸がドキドキしてきた。
 この件については、葉月と向き合っていても触れることはないし、彼女の身近な関係の中で誰が知っているという様子を掴んでも、そんな人達とも話し合ったことはない。
 なのに一番この件には精通しているだろう彼女の恋人から、真っ正面から話題にされたのだ。
 心の準備という物が出来ていない。だけれど、彼はとても急いでいるようで、そんなテッドの様子に構わずに進める。

「やはり、色々あるんだ。普段はあんなふうにして、心を強くして大佐嬢として頑張っていても。心の奥に置き去りになっている『小さな彼女』が悲鳴を上げることもあるんだ」
「……そ、そうなんですか」

 予想はしていた。
 あれほどの事件に遭ってしまった被害者であるならば、多かれ少なかれ『心的外傷後ストレス』と言ったようなこともあるのではないかと。
 だけれどこうしてプライベートで密着した生活を共にしている彼女の恋人の口から聞かされると……哀しいくらいに生々しくて、テッドはとても落ち込む気持ちにさせられた。

「特に夜──。寝付きが良くなくて、時々、酷くうなされている。はっきりしない悪夢をみてしまうようで」
「頻繁なのですか?」

 隼人は『いいや』と、首を振った。
 そんなに頻繁でないのに、何故、そんなに今、切羽詰まっているのだろう? と、テッドは首を傾げる。

「時々ではあるのだけれど。側に『知っている人間』がいれば……すぐに彼女も正気になる。だけれど、どうも最近……それらしい反応が頻繁にみられるようになった気がして」
「それで……何故、俺に?」

 すると彼が……中佐の彼が、いつにないとてもすがるような眼差しでテッドを見つめてきたので、ドキリとした。
 その不安そうな顔、そして崩れそうな眼差し……。震えているような口元。
 いつも冷静でなににも揺るがないほどに大佐嬢を強く強く支えてきただろう男性には見えなかったのだ。

「航行中の就寝時間──。そんなふうにならないかと心配なんだ。いや……あいつも、母艦航行は初めてではないし。大佐嬢である限りは、彼女自身も気を張っているから大丈夫だろうとも思えたんだけれど。どうも最近……様子が今までと違う気がして。俺の杞憂だといいんだが」

 隼人がため息をはきながら、やや疲れた様子で黒髪をかき上げている。

 この時、テッドにはある日の事が頭に過ぎった。
 あの日──葉月が三度子供を駄目にしている過去があるのを知った日だ。
 同時に長年の付き合いである海野中佐が小笠原の代表として選ばれたことに彼女が喜んでいた日でもあった。
 それでもテッドに真摯になって過去を話してくれた時に『崩れかけた彼女』の事が心配になって、大佐室に彼女のご機嫌伺いに出向いてみれば……。二人きりの大佐室で、あれほど職務中には恋人の匂いは一切漂わせなかった大佐嬢と澤村中佐がはばかることなく抱き合っていた。その時のことを……思い出した。
 テッドの悪い予感は的中していたのだろうが、直ぐ側で彼女の急降下をキャッチしてしまう男性が彼女を救っていたのだ。それも『取り込み中だ』だなんて、堂々と言い放ちやがった……。
 最初は『ったく。仲直りをしたとはいえ、近頃の二人はちょっと崩れすぎなのではないか?』とやや憤慨していたものだが、やがてそれは、テッドの中でもちょっとした違和感として残った。
 なにか──余程の事なのだろうと、思えるようになっていた。
 あのバランスをとり続けていた二人が、仲直りをしたぐらいで職場で好き放題するはずもないじゃないかと、冷静に受け止められた。

(もしかして──!?)

 とても不安そうな隼人の『最近、頻繁』という中には、その場も構わずに抱擁していたあの時の事も含まれているのだろうか? と、思えてきた!
 それに、たかが寝付きなのだろうけれど、この人にとっては『とても重要なこと』なのだとテッドには思えてくる。
 そんなふうにして、ずっと彼女の寝付きを見守ってきたのだろうか?

 航行に入ってしまえば、そこは隔離世界だ。
 どこに位置しているかは、横須賀基地の管制センターを通さないと誰も判らない。そして、連絡もそこを通さねば他とは通じることは出来ない。
 つまり通信手段は、そこの管制に全て握られているのだ。個人的な連絡が出来たとしても、すべて筒抜けと言っても良いだろう。
 一種、動く機密の職場でそれが24時間。もし、彼女にそんなことがあったとしてもテッドも隼人に簡単に報告し相談することは出来ない状態になる。
 そうなる前に『そんな大佐嬢もある』と、驚かないように教えてくれてもいるのだ。そして、やはりとても心配なのだろう。

「──かと言って、同じ部屋になるだろうテリーに頼みたい所なんだけれど、おそらくテリーはまだ知らないだろうと思って」
「なるほど……。そういう事でしたか」

 目の前の男性の姿は、もう……『中佐』ではなかった。
 ──『ただの男』。
 愛する彼女をひたすら純粋に心配する男の姿だった。

「解りました。すべてを話さなくても、テリーなら上手く察してくれるでしょう。それとなく教えて、気を付けるように言ってみます」
「有り難う。俺からまだ何も知らない彼女に言うと、『こんなふうに』ちょっと大袈裟になったり──」
「大袈裟じゃないですよ。俺達にとって大切なことです。それに中佐……俺達だって、少しはお手伝い出来ると思います。背負い込まないでください」
「……そうだな。有り難う」

 そんなふうに見えた。
 この男性、ずっと一人で頑張ってきたのだろうなと。
 他にもテッドのように、隼人でないとどうにもならない大佐嬢のことを、手助けも出来ずにもどかしく見守るしかない人々がいっぱいいたんじゃないかと。
 例えば、海野中佐やフランク中佐に山中中佐とか、河上洋子大尉とか……。
 きっとその人達も『いつだって協力する』と口にしてきただろう。そして、テッドもそう言わずにはいられなかった。それがたとえ『もどかしいだけの見守る立場』しかなくてもだ。
 それだけでも、隼人はふっと力が抜けて楽になったかのように微笑んでくれた。

「少し、安心した。なんだか外に出す時期になって、そんな不安が襲ってきたものだから」
「……しかし、そんな兆候。どうして出てきたのでしょう?」

 隼人は『分からない』と、また力無く頭を振ってうなだれた。

「俺達、ちゃんと大佐嬢を守りますから!」

 そりゃ、ありきたりな言葉で……まだそれほど上手く立ち回れるわけでもないのに、テッドはそう叫んでしまっていた。
 彼のように『側近』として上手く彼女を支えられなくても、負けないぐらいの気持ちはある。もう、淡かった恋心は綺麗に昇華したが、新しい使命感である『側近』と来たならば、先輩の彼が目標だ。その彼の気持ちに追いつくぐらいの負けない気持ちはある!

「良かった。テッドに言えて……。頼むな」
「はい。もし何かあっても、なんとか連絡できるようにも努力してみます」
「それは嬉しいが、職務第一で、大佐嬢を支えてくれ」
「はい、中佐」

 ホッとした彼がやっといつもの大人らしい落ち着いた笑顔を見せてくれる。
 だけれどやはり、中佐ではなかった。
 彼は『ただの男性の顔』だった。

 

 いつからなのだろう?
 彼がこうして、側近という立場から少しずつ身を退いて、全てを彼女に傾け始めている気がした。
 職場でパートナーとして恋人としての二人を二年ほど見てきて、そのバランスは素晴らしいとテッドも思っていたのに……。近頃はそのバランスは崩れたと言うよりかは『お互いにやめることにした』といったふうで、大佐嬢は昔なじみの中佐と仕事に向かい、こちらの恋人の中佐は元の専門に戻り彼女のことを『女性としてだけ』見始めている気がしたのだ。

 それはやはり──二人だけで味わってきた苦渋が、そうさせたのだろうか?
 仕事としてのパートナー。恋人としてのパートナー。
 どちらも手に入れる事なんて……やはり簡単なことではなく、そうはないことなのかもしれないとテッドは思った。
 もしそれが出来たとしても、ひとつに集中する立場に勝る立場はないのだろう。

 どの状態を選択するかは、本人同士の問題で自由だ。正解はないだろう。
 そして──この二人は『ただの恋人』という関係を選んだのだろうな、と、テッドも悟った。

 彼はこれから全面的に『葉月』という女性を支える覚悟なのだと……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 秋の夜長──。
 街路樹の銀杏が煌びやかな黄金色に染まっても、木枯らしが吹き始める夜になれば、少しばかり寂しくなる。

 ある公共の会館で、この日も横須賀海軍音楽隊に所属する一楽隊の公演があった。
 片づけが全て終わり、コンサートに必要な機材を積んだ運搬トラックと一緒に基地に帰ってきて、解散をしたところだ。

「お疲れさまでした、少佐!」
「打ち上げ会、行かないのですかー?」

「ああ、悪いな。野暮用」

 部下、後輩達の賑やかな誘いに、右京はちょっと申し訳なさそうにしつつも軽く断る。
 だが、皆、心得ている。だからこんな野次が飛んできた。

「今晩の少佐のお相手は、何列目の何席にご招待していたんですかー?」
「今夜は横浜でしょう〜。いいなー! お腹空いたな〜。俺達ーーっ」

「わーかったよ! 次の週末は俺のおごりだ! それでいいだろう?」

 こういうやりとりだって毎度のこと。
 若い隊員達は特に面白がり、そして右京のおごりと決まって喜び勇んでいた。
 それで賑やかな彼等から解放される。

「元気いいよなあ。昼・夜の二部公演、できるんじゃねーか?」

 若い後輩達の元気の良さに、右京は遠く目を細める。
 従妹と同世代なんだよな……と。
 自分はあの頃どうだったのだろう……なんて、今まで思いもしなかったことを考えていることに気がついた。
 どうかしているなあ、このごろ──と、ふとため息をついた。
 本当は……『約束』などない。
 ただ、独りになりたかっただけだ。

 すっかり暗くなった駐車場へと向かうと、自慢の白い愛車に金髪の女性がよりかかっていた。
 右京は思わず、笑顔で駆け寄ってしまった。

「ジャンヌ──。来てくれたんだ」

 すると眼鏡をかけていないジャンヌがにっこりと片手にチケットを掲げた。
 それは右京が『一度、見に来て欲しい』と、彼女の都合でこられるように何日分も何枚も同封して郵送した公演会のチケットだった。

「貴方のまめさには、驚いちゃって。ここまでされたら、行きたくなったわよ」
「そうなんだ。楽しんでもらえたかな」
「軍楽はね。……ちょっとね……が正直な感想。でも貴方の指揮は素晴らしい統率だったわね。それに勇ましい音楽と一般に親しまれている名曲集のプログラム。悪くなかったわ」
「なーんか、手厳しい感じ。相変わらずだな」

 一度、身体で語り合ったからとて、だから直ぐに恋人だなんてものではないのは右京も分かっている。
 それにこの先生の考えていることが解っているのに、だが……彼女は右京の思うようにはならない。

「食事まだでしょう? 今日は貴方が連れて行ってよ」
「へえ。先生から『おねだり』されたの初めてだな」

 この前も、右京が一日中彼女の官舎で待っていれば、帰ってきた彼女の一言が『まだいたの』だった。
 あまりにも予想通りだったので、痛くはなかったが。あまりにも彼女らしいのが、今度は哀しかったりだ。
 彼女には『期待』などというものは一切ない。希望もない。ただ日々を生きている。おそらく──『償い』の為なのだろう。
 だけれど、ひとつだけ変化はあった。
 医療センターの仕事から帰ってきた彼女の手には、買い物袋。
 そこに一斤の食パンと、少しの野菜とハム類、そして冷凍ピザと牛乳。

『お腹空いていない?』
『めっちゃ空いている』

 そして僅かに微笑んだ彼女は慣れた手つきで、軽食をこしらえてくれたのだ。
 慣れている。料理は存分にしてきた手つきだった。
 なのに……今はやらない。
 全てを捨ててきた世捨て人のようだ。そして彼女が今生きているのは、この世に生命を授かるためのサポートをする産科医としての使命のみで生きている。
 きっと……それが彼女の償い。それ以外の事には精力を注ぐ気は一切ないのだ。

 そんな彼女と別れる時に、右京は一言……言い置いてきた。

『誰も彼もがジャンヌを許さなくても、俺の前でだけは許されていると思ってくれないか』

 初めて……彼女のまつげや指先、唇が震えた気がした。
 今はまだ簡単に抱きしめてはいけない気がして、そんな彼女には近づけなかった。
 だから彼女をそっと独りにして、右京は本島の日常生活へと帰ってきた。
 お互いに忙しい身故、約束をしても無駄だ。ただしこちらからのアプローチは怠らなかった。

 そうして彼女が来てくれた。
 そして、今夜は素直に女性らしい希望を見せてくれそうな気配──。

「何処が良いかな。先生の思うままだ」

 きっとレストランなどは望まないだろう。
 先日、駄目になってしまった地元の店に行ってみるかと思い描きながら、右京は助手席側まで回り彼女に乗ってもらおうとドアを開けた。
 だが、ジャンヌは車の中を見下ろしたまま、乗ってくれようとはしなかった。
 そんな彼女の目線は、後部座席に向けられている。

「ヴァイオリンがあるのね」
「ああ、それは手放さないな。俺の相棒だからな」
「聴いてみたいわ」
「勿論、喜んで……」

 彼女らしい格好も相変わらずで、かっちりしているマニッシュなトレンチコートを羽織っている。
 だけれど、今夜はどうしたことか髪は束ねていず、無造作におろしたまま。しかしいつも結っているその髪をほどいてしまうと、ふわっと柔らかに広がる。まるで真綿の繊維のように細く繊細で、そして腰まであってかなり長かった。
 彼女としては美容サロンにも行かずに伸ばしっぱなしにして、適当に自分で切り揃えるだけで、手入れはおろそかにしていると思っているだろう。
 だが、そうしてナチュラルに流してしまうと、そのブロンドは味気ない彼女をとても豪華に映えさせる。
 あの晩、彼女の背を上から下まで愛していると、彼女の肌の上をふわふわと舞ってはどこまでも右京の肌にもひっついてくる金髪の毛先が、右京の中で一番感触的に強く残っているものだ。

 その綿毛のようなブロンドを、あの晩のように彼女は降ろしてきていた。
 プライベートだからだろうか?
 それに眼鏡もしていないし、暗いからよく分からないが、ほんのりと化粧もしているように見えた。

 今まで右京に見せつけてきた強烈なまでの印象が今晩はないような気がした。
 そんな彼女に見とれていると、ジャンヌはやっと車に乗る意志を見せてくれる。
 手に持っていた小さなハンドバッグをシートの上に置いたかと思うと、突然、トレンチコートの結んでいたベルトを解いて脱ぎ去った。

「……! ど、どうしたんだ」

 そのコートの下から現れたのは、シンプルだけれどシックで大人っぽい黒いドレス姿の彼女。
 ウエストまではとてもセクシーに身体のラインを縁取るが、そこから下は夜風にふわりと裾が舞うフレアーライン。
 どこかフォーマルぽいのだが、彼女にはとてもよく似合っていた。

「おかしいかしら?」
「い、いいや。……素直に綺麗だ」
「お世辞ではなさそうね。嬉しいわ。でも……貴方には『古くさいドレス』と言われそうね」

 身が震えるほどの秋風が吹いているというのに素肌の部分が寒そうにさらされてしまっても、顔色ひとつ変えない堂々としている黒い淑女。
 確かにデザイン的には十年前のものかと思えたが、それほど流行を感じさせないシンプルなものだ。
 だけれど、そんなデザインも流行も、どうだっていい……。右京はそう思いながら、自然と微笑んだ。

「いいや。ジャンヌらしい……勇ましいな」

 彼女に片手を恭しい手つきで差し向けた。
 ジャンヌも……柔らかに右京に指先を預けてくれる。
 そのまま助手席へとエスコートをしたいところだが、右京はそのままジャンヌの腰をぐっと引き寄せていた。
 彼女の真綿のようなブロンドが、秋の夜風にふんわりと横に流れた。

「……この前と随分、違う」
「そうね」

 右京の鼻先に、ほのかに赤く彩られた唇が、しとやかに囁く。
 より一層、彼女の細いウエストを引き寄せ、今度は肩まで囲って抱きしめる。

「……俺を惑わして楽しみに来たわけだ」
「違うわ」
「ふうん? じゃあ、どういうことか聞いてみようか……」

 逃げも抵抗もしないところは、この前の初めての晩と同じだった。
 彼女にとって、本気でないことは分かっている。なのに身体を委ねたのは、なにか考えがあってのことなのか……。
 彼女の唇に『聞いてみよう』と、いつもの調子で挨拶のように右京はジャンヌの顔をそっと引き寄せたのだが……彼女が顔をそむけてしまった。

 この前のは『気持ちがなくても大前提』で?
 今夜の彼女は、もしかして?
 右京はそれはちょっと驚きで、まるで『慣れた男の挨拶のキス』を嫌がったかのようなジャンヌの顔を覗き込んだ。

 そこには『虚勢』を張っていたような彼女の顔はなかった。
 抱き合ったあの晩に右京があまりにも本気でぶつかりすぎていたせいか、時々翻弄されすぎて我を忘れてしまった彼女が垣間見せてくれた、とてつもなく愛らしかった彼女の顔があった。
 それには『本当のキスが欲しい』とも読みたくなる彼女の顔がある……。

 だから、逆に右京が眉をひそめ、それ以上に抱きしめていた彼女を腕から離してしまっていた。

「ジャンヌ……。どうした。俺が知っているジャンヌじゃない」
「そう? 私の何を知っているというの? まだちょっとしか会っていないし。一度しか寝ていない」
「意地悪な言い方するな」

 一瞬だった。ちょっと気を緩めたようなジャンヌに見えたのは一瞬で、すぐにいつもの手厳しい彼女に戻っていた。
 けれど、今度は彼女がふんわりと目を閉じて静かに微笑んだ。

「……でも、この前の晩。少なくとも貴方は私に正面からぶつかってきてくれた。むしろ貴方の方が『遊び』で、絶対にそんな全力は出しはしないと思っていたから、驚いたわ」
「まあ、疑われても仕方がない所行をしてきたからなあ」

 悪びれない右京のとぼけた顔を見て、ジャンヌは可笑しそうに笑っただけ。
 だけれどすぐにまたいつもの硬い表情に戻ってしまった。

「今夜は、私の番ね」
「──!」
「この前、貴方が一晩中……私の名前を囁いてくれた声が耳から離れなかった……」

 ジャンヌの瞳が奥まで透き通った。
 そしてまた秋風にふわりと柔らかな金髪が舞い上がった──。

 お互いの魂の色合いが、上手く溶け合っていく感触を、右京は感じた。
 そう、この女とは『寝る』為じゃない。
 何度も会って確かめ合えば深まるわけでもない。
 ただ、触れあえば溶けあう。そしてその魂が溶けあう快感が忘れられなくなる──そんな関係。

 きっと、出会う前にお互いに『そうなってしまうだろう』と言うインスピレーションすら恐れて、避けていたのではなかったのか?
 彼女をふと柔らかに抱きしめ、そう振り返ってしまう。

 だけれど──。望んでいたはずの恋なのに。
 やはりどこかで、『駄目なのだ』という不安が急に渦巻いてくる。
 それすらも魂が溶けあうジャンヌには見抜かれてしまいそうだ。

 そうすれば、その時──俺はどうすれば良いのだろうか?

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 だけれど、そんな右京の新たなる不安はすぐに彼女に見抜かれてしまうことになった。
 それは、横浜のベイホテルで一晩すごした次の朝のことだった。

「おはよう。目が覚めたか……」
「ボンジュール……」

 今度こそ『いつもの俺』になっていた。
 しかし……それは今となっては格好つけでもなんでもなく、自然な心のままの行為。
 目を覚ました彼女の側に腰をかけ、コーヒーを一杯差し出す。
 だが、彼女ははっきりしていて『起き抜けはいらない』と首を振った。
 右京も素直に、そのままカップを下げる──。

 気温が下がっている朝の港は、霞がかっていて、今朝はやや曇りがちだ。
 まだ薄暗い部屋の中で、真っ白なベッドの上にはあのふんわりとした金髪をそこら中にはべらしているかのような彼女が素肌のまま寝そべっていた。

「いつもこんな豪華なデートをしていたの」

 彼女が寝そべったまま、呟いた。

「ああ、まあね。独りでもこうしていることが多いかな」
「御曹司ってわけね。すごいわね」
「でも、ジャンヌ。全然、平気そうな顔して。うんと凄くて驚いたと言ったかんじではなかったな」

 彼女が黙った。
 そして右京も悟った。
 このランクのデートは慣れているなと……。彼女はまったく浮かれた様子など見せもせず、何処に連れて行っても堂々としてくれ右京の隣にいてもちっとも見劣りなどはしなかったようだ。淡々と食事を進めている静かな二人の様子に、いつもの顔見知り達もやや驚いた顔をしていたくらいだ。
 まあ、それも予想はしていたから驚きはしないが、やっぱりねえ……と、ちょっとため息が出たぐらい。

 何年ぶりかしらないが、彼女がやっとその気になってドレスを着てきてくれたのだから、昨夜は『右京様のフルコースデート』をしてみたのだ。
 高級フレンチを夕食に、ホテルにやってきてシャンパンで夜景を楽しんで……。
 だけれどひとつ『彼女にだけ』やったことがある。
 それがヴァイオリンを弾くことだった。
 夜のデートで一人の女性のために、ヴァイオリンを弾く……と言うことは、いままでやったことがない。勿論、ねだられたことなど数え切れない。だけれど、そういうことは『仲間内の演奏会』に招待して、そこで大勢の中で聴いてもらうというふうにしてきた。
 もし、結構長い期間『夢中になった女性』がいたとしても、それでも右京はヴァイオリンを『二人の夜』の間には参加させなかったと思う。
 『彼女』と『ヴァイオリン』は別の世界に分けておきたかったというのだろうか? 変な例えだが、ヴァイオリンは右京にとっては『相棒』というよりかは『女房』で、『彼女達』と『女房』はまったく違う世界のものなのだと、そんな感覚に陥ったことが何度かあった。そういう例えになると、『彼女達』にとっては至って失礼極まりないのだが、つまりそういう例えが近いと思う。

 だけれどジャンヌには自然と『お前も一緒に行くか?』と『女房』を連れてくることが出来た。

(俺って最低だな……)

 なんだか今までを急に振り返り、我に返ってみた。

 昨夜、彼女に聴かせたヴァイオリンがソファーの上で休んでいる。
 彼女が飲まなかったコーヒーをテーブルに置いて、自分はそこで朝の一杯を楽しむことに。
 目の前にはまだ、けだるそうに横になったままのジャンヌがいる。素肌を露わにしている彼女は、身体と腕に金髪を巻き付けながら寝返って、こちらを見ていた。じっと右京だけを、妙な微笑みを携えてみつめてくる。

「なに、俺、面白い?」
「ええ、面白い」

 くすくすと笑う彼女がなにを思っているのか、右京も考えてみる。
 だがジャンヌはやっと起きあがり、大胆にもなにも羽織らずに堂々とこちらに歩いてくる。
 そして、右京が座っているソファーの側にある大きな窓の前に彼女は立って、カーテンをさっと開けたのだ。

「おいおい。確かに上の階だし、見えないようになっているのだろうけど、気を付けないと」
「ふふ」

 流石の右京も驚いてたしなめたのだが、彼女はそんな右京を試していたかのようにすぐにシャッとカーテンを閉めた。
 だけれど、まだそのまま全裸のままで港の景色を見下ろしていた。
 柔らかに微笑む彼女の顔、そして凛とたたずむ裸の線は、やっぱり強い線にみえる。身体は細身ではあるが右京にはどうもそうみえない。
 名前のせいなのだろうか? ジャンヌ=ダルク? むしろ『アマゾネスか』と右京は例えたくなる。そんな女性になりつつあった。
 だから、こうして女性の恥じらいもなにもなく、堂々としているのだろうか。
 肌を合わせていても、時々そう思わせる瞬間がある。男を食ってかかっているというか、恥じらいもなく大胆になりかけるというか。一瞬だけれど、そんな傾向の彼女がところどころに散りばめられるのは、本当にドッキリとさせられるのだ。こうして……今、やられたように。

「そうだわ……。言っておかなくてはいけないことがあって」

 ジャンヌはやっと窓辺から離れて、ベッドに向かう。
 昨夜、一度は使ったバスローブを床から拾い上げて、素肌に羽織った。

「なに? それも俺を驚かすことかな?」
「……」

 途端に彼女の顔が、女医になった気がして、右京はカップをテーブルに置いた。

「……まさか、従妹に何か?」
「もうすぐこちらにやってくる空母艦に乗り込むのを知っているのでしょう?」
「ああ。空部隊が研修するためにお邪魔することが出来たとか。それも──艦長が、葉月の訓練校の恩師だ」
「隔離された男ばかりの空母艦。心配ではないの?」
「いいや? あの教官は……信頼性はある。うちの伯父や祖父が見初めて従妹につけていたぐらいだから。それに女性が乗り込むといっても、今の時代、整備員にも厨房にも管制員にも女性はいるだろう。俺も確認したが、今回の艦にも結構いる。そういう男女間のいざこざが起きたら、艦長も重大責任だ。管理は徹底しているし、もし何かあったとしても従妹もその点はかなり鍛えているし護身術もある。そういう仕事は仕事としてやらせる方針にしている」
「そうじゃないわ」

 ジャンヌの顔が、初めて出会った時のようにものすごい硬く冷たい顔になっていく。

「ちょっとね。この前、彼女が来た時に『夢にうなされる』と言っていたわ。母艦に乗る前に少し不安だから来てしまったと言っていたわね……」
「……夢に?」

 右京も知っている。
 従妹は長年──そういう生活をしてきた。
 だが、完全に従妹を食らったことなど一度もなく、瞬発的に出てきては直ぐに消え去ってしまう程度だ。

「なんだかね、これは私の勘。恋人である側近の彼は今回はついていかないと言うじゃない。でも、知っている者が側についていた方が良い気がするのよ。スイッチが入りやすくなっている気がして、万が一、入ってしまったら職場の人間では扱いにくいことになるわ」
「だとしても……。側って? 誰が? まさか俺に一緒について行けと? そりゃ心配だが、いくらなんでもそれは出来ない。その程度の『不安』など、従妹は何年も続けているんだ。それに仕事となったら、俺顔負けの実力を発揮する」
「じゃあ、心配じゃないのね」
「……いや、その具合がよく分からないが」

 彼女に念を押されると、急に右京も不安になってきた。

「安心して」
「え?」

 するとジャンヌが右京ににこりと微笑んだ。

「……私が。連隊長にお願いしてパイロット達の『付き添い軍医』としての許可をもらったわ。あちらの医務室の医師のお手伝いもふくめてね。女性がいるから是非とも言ってもらえたのよ」
「はあ!? じゃあ、なに! もうすぐジャンヌも乗り込むというのか?」
「ええ。それもあったので、会いに来たの。暫く、海の上だから私も音信不通になるわ」
「……」

 右京は唖然とした。なんの相談も無しに、そこまで手を打った彼女の手際よさと素早さは流石だった。
 この前まで、この見知らぬ女性が『うちの事情』にずかずかと入ってくるのをとても苦痛に思っていた。
 だが……今は……。右京はバスローブ姿で目の前に立っているジャンヌを見上げた。

「従妹にそこまでしてくれるのは……。それも罪滅ぼしなのか、ジャンヌ」
「違うわ。大佐嬢は私の『希望』よ」
「葉月が……希望?」

 真剣に首を傾げる右京に対し、今度のジャンヌはからかうような微笑みは浮かべなかった。
 彼女の冷たい灰色の瞳に哀しみの色が滲み、そして初めて彼女を知ったあの日のようにとても柔らかい哀愁を漂わせ始めたので、右京はドキリとした。

「あの子はね。私が出来なかったことへと向かっているの。あの子は後戻りが出来た。私は出来なかった。後戻りをしたあの子は、戻ってから苦しんだでしょうけれど、だからこそ輝いていくあの子がなんだか素直に愛おしいわ」

 『貴方の従妹でなくても……』と、ジャンヌが優しい微笑みを浮かべながら呟いた。

「もし、あの子が本当の意味で幸せになった姿を見届けたならば……。私も少しは赦され、前に進んでみても良いものなのかと」
「……ジャンヌ。そうだったのか」

 目の前に立っている彼女の腰を、そのまま抱き寄せようとしたのだが、何故か強く拒否された。
 気がつくと、彼女がとても冷たく鋭い眼差しで右京を見下ろしていた。何故……?

「右京」
「……!?」

 彼女が初めて名で呼んだ。
 それも初めて呼んだような声でなく、何度も呼んでくれていた慣れたような言い方。そして、迷いなく一人の人間をはっきりと指しているかのような強い声で。
 呼ばれるまま、右京は顔を上げた。

「私が貴方にだけにでも、赦されるのなら。貴方も私を置いていくような捨て身はやめてくれる?」
「!」

 心臓を鷲づかみにされた激痛のようなものが、胸に走った──!

「──むしろ、闇の中に深く沈んでしまっているのは、葉月さんではなくて貴方よ。右京」
「や、やめろ……」
「右京……。私が貴方の側にいるから。だから……」
「やめろ──!」
「もう私が知っていること、貴方も分かっているくせに。貴方の今までの人生は『全てカモフラージュ』なのよ」
「違う! 俺が好きでやってきたことだ!」
「いいえ、違うわ! だから、なにもかも捨てる覚悟でずっと生きてきたなんて……もう、やめて!」

 がしゃんと、テーブルの上に置いていたカップが倒れ、コーヒーが飛び散った。
 ジャンヌがすぐに動いて、タオルを持ってきて拭き始める。

「いいわ、それでも。だって私だってそうだもの」

 見抜かれていた……!
 やはり最初から彼女に会う前に『恐ろしい』と思っていた通りだった。
 彼女にはすぐに見抜かれた。
 数回しか会っていない。やはり魂が溶けあっているのだ。こんなに、こんなに、彼女と溶けあっているからこそ『共同体』になりつつある彼女には、すぐに見抜かれた。

 右京こそ、虚勢で生きてきて、そして──『捨てて生きてきた』のだとい言うことを。
 そしてそれは、全ては『元凶』との再会に備えていたのだと言うことまでもだ。

 ジャンヌは無言で、シミが付いたカーペットを拭いていた。
 まるで彼女の罪や右京の心の黒い点を消し去るかのように──。
 彼女にも『希望』がみえたのなら、俺もそうした方が良いのだろう?

 そうすれば、幸せに愛し合えるに違いない。

 後戻りは出来る──。
 そうなのか……? 

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