-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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15.愛しているから

「いらっしゃい。お忙しいところ、お呼びしてごめんなさい」
「いいえ、いつも彼女がお世話になっております」

 『初めまして、澤村です』と挨拶をすると、金髪の女医が穏やかな微笑みで迎え入れてくれた。

 今、隼人は医療センターの『産婦人科』に来ていた。
 ものすごい抵抗があった。去年のことも僅かにトラウマではあるが、それ以上に……男がこの科に一人で来るというのが気恥ずかしい。
 外には隊員達の夫人であろう妊婦が、軍服姿でやってきた隼人をちょっと不思議そうに見たり。これで側にパートナーでもいれば男が一緒でも違和感がなかろうに……。

 今朝のことだった──。
 隼人のデスク直通の番号で外部署からかかってきた内線音。
 今、数々の外部署と仕事をしている隼人にとっては珍しくはないことで、なにげなく出てみれば──『話があるので、大佐嬢には判らないよう、産婦人科に来て欲しい』などと、恋人の会ったこともない担当医からいきなりの申し出。
 驚かないわけがない。
 葉月との会話の中で、何度も出てきてどのような『先生』か聞かされていても、今の隼人にとっては『それは葉月側のおつきあい』として首は突っ込まないようにしていた。本当はちょっとは気にはなってはいたが?
 一度は会ってみたいと思っていたとは言え、その先生から『会いに来て欲しい』と突然言われると、いざとなって戸惑う。
 それも『産科医』。

(なにがあったんだよ〜)

 凄く重い気持ちだった。
 それも患者であるはずの彼女に伏せてやってこいだなんて。
 当の本人ではなく、男女間のパートナーである男の隼人に密かに来いだなんて?
 そんなに葉月には言えないほどの『産科のお話があるのか』と──。

(まさか……)

 駄目なのか。やっぱり駄目なのか。
 つまり彼女が『決定づけられても、それならそういう自分であると知っておきたい』と決意したあの検査の結果が判り、『どうも無理ですね。諦めて欲しい』とか? 本人に言えないから、ワンクッション置いて恋人の『俺』にまず言って、彼女に告げてくださいと?

 なんだがゾッとしてきた。
 今まで葉月がナーバスに避けていた気持ちが、『当事者』になって隼人も初めて判る。
 こんなに……寂しい気持ちになったり、切なくなったり、哀しくなったり。どうしようもない喪失感が漂うものなのだ。一度、失った者としては……。愛している彼女の中で息づいた『分身』だったから、よけいにだ。
 昨年、味わったあの渋くて苦くてしょっぱい、それこそ『血の味』でも感じるかのような嫌な思いが蘇って、隼人はさらに震えた。

 隼人ですらそうなのに。それをこんな想いを引きずっている俺の口から、さらに僅かな希望を握りしめて自ら痛いところに挑んでいる葉月に『終わり』を告げろと?
 なんて残酷な役所だ。
 ……だが、やはり『俺』しかいないのだろう。そうだ、俺しかいないじゃないか。そしてそれは他の誰にも代わって欲しくない役所でもある。

 隼人は腹をくくって、仕事に出かけるふりをして、ちょっとした時間に医療センターにやってきたと言うわけだ。

 

「どうぞ、お座りになって。午後の診察まで時間ありますから」
「お邪魔致します」

 先生の事務室ではなく、診察室に通された。
 金髪を結い上げて大きなバレッタでまとめている眼鏡の女医。いかにも女医といったふうで、横顔はとてもクールだった。
 だけれど微笑むと目元にとても暖かさを感じさせる静かで柔らかい大人の女性を思わせた。
 白衣を着てきっちりとしている姿はとても凛々しく、初対面の隼人は少し緊張する。

「ごめんなさいね。男性が一人でここにくるのはちょっと躊躇ったでしょう?」
「はい。なんだか苦手……ですね」

 男性として普通に感じるだろう苦手もあるが、隼人の場合はそれに上乗せ『喪失感』を感じてしまう苦手も含まれている。

「そうね。おめでたいことばかりがある場所ではないものね」
「そうですね……」

 葉月から聞いているだろう。今の恋人との間に出来た子供も流産したことぐらい。
 だけれど、先生はそこを解っていながら直接には触れず、そうして一般論的な言い回しで隼人の気持ちを汲んでくれたようだ。
 なるほど──葉月が信頼する大人というわけかと、隼人もなんだか納得だった。

「あの本日は」
「ええ、貴方にお伝えしておきたいことと、教えて欲しいことがあって来て頂いたの」
「──勿論、彼女のことですよね?」
「そうね。でも、安心して。『産科』のことではないから」

 それを聞いて、隼人は『え?』と……なかなか見られなかった『産科女医』をやっと真っ正面から見ていた。
 彼女がにっこりと優しく微笑む。

「大佐嬢と私の関係性は、そうね……『彼女と貴方』から見れば、『産科のお医者さん』と『ちょっと相談が出来る年上の女性』ぐらいしか浮かばないから、驚いていているのでしょう?」

 なかなか。感じたことをサッと先に言われてしまい、隼人としては『これはやはりなかなかの先生だ』と判ってきて、ここは素直に『その通り』とばかりに頷いた。
 回転椅子に座っている先生は、ふと微笑むとちょっとやるせなさそうな溜息をついていた。

「私ね。実は昔、『心療内科医』だったのよ」
「! ええ? では……」
「そうね。勝手だけれど、少しばかり『葉月嬢』と向き合ってしまったわ」
「──葉月は」
「知らないわ。まったく知らずに私と話しているの」

 とても驚いた。だから暫く、それをどう受け止めて良いのか隼人には分からなくなる。
 産科医と見せかけて、実は『葉月の心奥底』を、勝手に覗いて観察していた──。とも、聞こえた!
 だけれども。葉月は、それはそれはこの先生の言うことに信頼を寄せていて『ちょっと先生とお話ししてくる』と、定時後の夕方に出かけることがたびたびある。そして帰ってくると、とてもすっきりした笑顔を見せて『安心した』とか言ったり、『先生はお姉様みたいに、女性として楽しめそうなこともいろいろ教えてくれる』と、とても楽しそうだった。
 それを思い返すと『勝手に覗いたな!』──とは、言えなかった。
 つまり、ちゃんと効果はもたらせてくれていたのだと隼人には思えたからだ。

「……認めてくれるの?」

 まただ。隼人が何で戸惑っていたかも、しっかり見抜かれていたし、次にどう思うかも先手を取られていた。
 いや──これはなかなか手強い先生だと、冷や汗が出てきた。
 ここは始終素直にすんなりと話を受け入れた方が良さそうだと、隼人もなんの覚悟かわからないが、覚悟した。

「彼女、先生のこと、とても頼りにしていますよ」
「そう、嬉しいわ。お役に立てて」

 それが『恋人としても認めた』という返事であり、そして先生もにっこりと嬉しそうに笑ってくれた。

 さて──本題だ。

「それで? 先生。産科でなければ、その『彼女のメンタル』な部分でなにか?」
「近頃、気になることは?」
「……」

 また隼人はドッキリさせられた。
 何もかも見透かされているではないか? この人、本当に初めて会った人間なのだろうかとさえ思ってしまい、言葉が直ぐには出てこなかった。
 だけれど、それは隼人にとってはふと『救いの手』のようにも感じられてきたから、正直に答えた。

「あります。彼女がちょっと寝付きが悪かったり。それだけならいつものことなのですが、仕事中にも一度──妙な様子になって」
「そうなの?」

 先生の顔色が僅かに変わった。
 表情を変えない医師らしい落ち着きをみせていた先生が、僅かでも顔色を変えると、それがとても大変な事のようにも思えてしまうではないか?
 ほんとう、なんだか心臓に悪いぞ。と、隼人は始終緊張しっぱなしだった。

「例えば……。その時、どのような様子だったの?」
「夜と一緒ですよ。寝入りばなに、眠りに落ちていけなくて唸っている。それが大佐席でそのまま。彼女、仕事中はそんなこと『眠気がさしてしまう隙』など滅多にないので、直ぐに変だなと気がつけたんですが」
「苦しそうだったのね?」
「はい。唸っていましたからね。それはまるで、急に気でも失ったかのように……」

 いつのまにか先生がカルテでも書き込むように手元にメモを取り始めていたので、隼人は落ち着かなくなってくる。
 だが、先生は淡々と続けた。

「中佐。貴方、彼女をこのまま隔離される空母艦に送り出すこと、心配じゃないの?」
「心配していますよ……。とても。だけれど、だからって……」
「お兄様と同じ事を言うのね」
「はい?」

 急ぐようにメモを殴り書きしていた先生が、またあの安心感をもたらしてくれる柔らかい笑顔を見せてくれた。だけれどそれ以上にも『可笑しいわね』と言いたそうな、ちょっと楽しそうな笑い声を立て始めたので、隼人は首を傾げた。

「あら、ごめんなさい──。実はね。今日、中佐にこうして報告したように、つい最近、鎌倉のお兄様にも私の事は知っておいてもらおうと、お会いしたばかりなのよ」
「そ、そうだったのですか!」
「お兄様も『心配だけれど、葉月には日常的な事でそれほど騒ぐことではない状態で、仕事を止めることは出来ない』と言っていたから」

 まさにその通りの事を口にしようとしていた隼人。
 先生の先読みには驚かされるばかりだ。それに、右京と先生が既に繋がっていて、それでいて右京も同じ心配をしてくれていたことを知り、何処か一人で不安だった隼人の心はふっと和らいでいく気がした。

「では、右京さんも、心配だけれど大丈夫だと思っていると?」
「そうではないわ。そこは今の貴方と一緒ね。そんな心配は常にあることで、だからとて、ここで騒ぐ状態でもない……かしら」

 全くその通り、と、隼人はもうなにも言わなくても話が進みそうで、妙な『気楽さ』を感じてしまった所だ。
 だからそのまま先生に委ねてみようと、隼人は自分からあれこれ言うのはやめてみる。

「少しね。備えておいた方が良い時期に来たかと思って……」
「備える?」
「……中佐。貴方は何故、彼女が今そんな『妙な状態』になりつつあるか解る?」

 それが解れば苦労しないよと心で呟き、隼人は『いいえ』と首を振る。
 そして先生がやっと椅子を回転させて、正面を向いてくれた。
 その先生が、隼人をとても優しくみつめて微笑んだ。

「──彼女が幸せだからよ」
「?」

 幸せだから悪夢を見るようになった?
 なんだかしっくりしなくて、隼人はさらに首を傾げた。

「これは幸せな証拠なの。きっと貴方のおかげで、彼女は今までにないとても良い状態になっているのね」
「それが、彼女の妙な兆候とどういった繋がりなのですか?」

 すると今度は、そんな隼人の質問を避けるかのように……。せっかく向き合ってくれた先生がまた回転椅子を回して、机のメモに向き直ってしまった。
 そしてその横顔は女医そのもののとても硬い表情に。

「──蓋がなくなってきているのよ」
「蓋?」
「そう。捨てる方法が判らない、または、判っていても上手く捨てられないものがあったとしたら、そんな『見たくないもの、忘れたいもの』は、どこか見えなくなる所にしまいたくなるでしょう? それと一緒で彼女もそれを『何重も何層も』蓋を重ねて隠してきたの」

 その例え……隼人にはすぐにピンと来た。
 先生は『蓋』と言ったが、隼人の中で例えるなら『何層もの鎧』だろうか?
 それを隼人は引っぺがした時もあったし、脱がせられなくて諦めた時もあったし……。上手く剥がれて彼女が良くなって喜んだこともあれば、昨年のように無理強いに剥がして、お互いに傷ついたりした。つまり、そういうモノのことを言っているのだと。隼人には先生の言っていることが通じてくる。

「例えば。その蓋はどのようなものになるのですか?」
「例えば? それは貴方の方が詳しいと思うわ。きっと様々な『蓋』があって、その姿は『回避出来る物、回避できる場所、回避出来る人間』があったと思うわね。大佐嬢がどれだけそれを持っていて、どの形でどのような物や人で揃えていたかはプライベートな部分でのことが多いでしょうから、今の私には分からない。でもそうね、私が確実にそうだと思った『蓋』は、『コックピット』かしら?」
「──コックピットですか。なるほど」

 確かに……と、隼人も唸る。
 葉月はそこに執着して、そこで命をかけることで気を紛らわしていることは隼人にもなんとなく分かっていた。
 だけれど先生がそんなことをのんきそうに考えている隼人を、変わらぬ鋭い眼差しで見つめたままだ。そしてついにはちょっと呆れた溜息を落とした。

「貴方は気がついていないの?」
「……な、なにをでしょう?」

 凄い圧迫感──。
 恋人として『ちゃんと気がつきなさいよ』と叱られるかのような気持ちになってきたではないか。

「今まで、コックピットに一番執着を持っていたと私は思うわ。そこで彼女は『なにもかも忘れるほどに戦っていた』のよ」

 そして先生は、隼人がハッとすることを言った。

「彼女は既にその戦いにピリオドを打っているように私には思えるわ。大佐嬢はもう、コックピットに戻る気が全くなくなっていると」
「──!」

 隼人の身体に、なにかぴりっとした身を改めさせられる電流が走った気がした。
 そういえば……! 今まで怪我をしても絶対に戻りたいと復帰を頑張ったりもしていた彼女が、甲板指揮になったからと思っていたが、『戻りたい』とか『いつになったら、もう一度乗せてもらえるのだ』とか、まったく呟いたことがないことに気がついた。
 ただ、細川の許可が出ないから文句を言わずに大人しく従って、甲板指揮に集中しているだけだと思っていたが──確かに! 葉月がコックピットを降りてからもうすぐ一年、経つではないか? 私生活を分かつ時期が暫しあったとしても、職場でもまったくその気持ちを見せたことがなかったと……。
 そして先生は、さらに隼人を怖がらせることを言い放った。

「パイロットという彼女の『一番の蓋』がなくなったのよ。回避する場がなくなったら、直視するしかないということ……」

 『直視』──!
 彼女があらゆる形でそこから逃げていた様々な物がなくなってきているから『直視』。
 それで悪夢を呼び起こしやすくなっているのか? と、隼人も寒気がしてきた。

「他にも握りしめていたものがあったのでしょうけど、それも『彼さえいれば』と思って、手放してしまっているのではないかと……感じていたけど。どう?」

 確かに、葉月は取り返したものもあっただろうが、握っていた物もだいぶ手放したと思う。純一もそうだろうし、ピルだってそうだったのだろうし、それでコックピットも……?

『二人きりでも、貴方だけいてくれたら……いい!』

 そう言ってくれた葉月──。先生が言うとおりだ。『隼人さえいれば、もう他はなにもいらない』と言うことは、こういう事でもあったのだと!
 幸せにしよう、幸せにしたい、幸せになりたい──。彼女と二人、傷つけあってもそれを願って様々なことで向き合った。
 なのに、ここのところやっと、何にも囚われずに愛し合えるようになったと言うのに、それと同時に──『それは現れるべくして、現れた』と……先生が言っているのだ!

 青ざめ震える隼人を脅かしすぎたと思ったのか、先生は申し訳なさそうな顔になり、また正面に戻ってきてくれた。

「だからね、中佐──。それは彼女にとっては幸せの遠回りをさせていた『余計な物』がなくなって、彼女自身が自ら『幸せになるために生きたい』と思えるようになった喜ばしいことなのよ」
「だけれど……! それと同時に『直視』が直ぐ横で伴走しているってことなのでしょう?」

 否定して欲しい。だが、先生はあっさりと『そうよ』と冷たく答えた……。
 だが、先生は怯まない。あの冷たい眼差しで隼人に向かってくる。

「──私の心配は、隔離された世界で男性に囲まれてしまうこと。慣れていることとは言え、スイッチが入りやすくなっている今はとても不安定に陥りやすい心配がある。かといって、もう業務上、貴方は同行できない。でしょう? それに貴方もついていったとしても『中佐』にはなりきれそうもなさそうね」

 そこまでも見抜かれてしまっているなら、もう、隼人もなにも隠すことはない。
 思っているままを先生にぶつけた。

「その通りです。今の僕には『中佐と男』の両立は無理です。今まで以上に彼女を愛してしまっていて、きっと職務を忘れて彼女に全てを注いでしまうでしょう」
「愛する人を守りたいなら、その気持ちは正解だわ」
「でも中佐としては不正解、でしょ? だったらどうすれば、よろしいのですか?」

すると先生が微笑んだ。

「そのために貴方をお呼びしたのよ」
「それで?」
「安心して。連隊長の許可を得て、私が付き添い軍医として一緒に搭乗出来るようになったの。私が見守るわ」
「──! 本当ですか!」

 急に神々しいものが舞い降りてきた気分!
 葉月が『お姉さまみたい』と言っていたが、隼人も『お姉さま!』なんて、言いたくなるほどに。
 これだけの人が、葉月の側に付き添ってくれるなら隼人も安心だ。

「いや……。良かったです。なんだか先生とお話しして。驚くこともありましたが、俺もそこは一生付き添っていく覚悟はあるので。やはり避けられないと言う事と、それが判ればどうすれば良いかも考えられるし」
「そう。ちょっと厳しかったかも知れないけれど……」
「いいえ。俺……『一生、治らない覚悟』も出来ていますから」

 そう言いきると、なんだかそのクールなばかりの先生が……とても哀しそうに瞳を滲ませながら隼人を見ていた。
 なんだか、ドッキリとした。
 その目は、その先生自身が『その哀しみ』を知っているのだと直感してしまったからだ。

「……中佐、その通りよ。治る、治らないじゃないの。付いた傷は付いた時よりかは癒えたり薄れたり、上手く付き合うことは出来るけど。『付いた傷は絶対に消えない』のよ。だから傷ついたままが長引くことを、理解してあげてね」
「先生……?」

 それまで隼人を威圧させるほどの切れの良さを見せていた先生が、その思いに囚われたように隼人には見えた。
 だがハッと我に返ったかのように、慌てて顔を逸らしてしまった。

「それでね、中佐。鎌倉のお兄様から『澤村中佐には知らせておいた方が良い』という許可の元で、こうしてお話したわけですが、母艦に一緒に乗るにあたって、聞いておきたいこともあるの」
「はい。どのようなことですか?」
「トーマス大佐が恩師で彼女の最初の流産を知っていること、御園の事情を知っていることは聞いているの。あとはお兄様が把握していない大佐嬢自身の交流から、『御園の事情』を把握している隊員がどれくらいいて、どれだけ知っているのかを──教えて欲しいの」
「ああ、それなら……」

 母艦に乗る間。この先生がそれとなく見守ってくれると知って、かなりの安心が広がる。
 隼人はテッドが補佐で、今のところは彼が良く知っている事を伝える。

 その日は、そこでジャンヌという女医とは別れた。
 そしてそのジャンヌ先生は別れ際に、妙にからかうように隼人に言った。

『中佐は、帰ってきた彼女を愛でうんと癒してあげる準備をしておいてね。それが貴方の一番の使命よ』

 ──だってさ。
 隼人は顔を真っ赤にして、ジャンヌ先生の診察室を後にしてきたのだ。

 言われなくても、そのつもりだ。

 隼人はジャンヌの診察室を振り返る。
 だいぶ安心した。母艦で同性で葉月も知っていて、それでいてあれだけ『心』について見る力がある人がいるなら……と。
 だけれど──新たな不安ももらってしまった気分。

 でも今度の『敵』は、見えないから。
 そこは少し見えた気がして、それも大きな収穫には変わりはないのだろう。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 それから暫く経ち、葉月が旅立つ日が近づいていた十月も終わろうとしていたある夜。

 葉月が入浴をしている間、隼人は彼女の部屋であることを……。

「……な、何しているの! 隼人さん」

 バスローブ姿の葉月が、ミコノス部屋に帰ってきたところだ。

「え? ああ、お前、歯ブラシは何本か持っていた方がいいぞ。こんなことだろうと思った。一泊や二泊の出張ではないんだからな」
「や、やめてよ! 子供じゃないんだから!」

 葉月が隼人の手元に飛びついてきた。
 そこには、葉月が出かけるためにまとめていた荷物のバッグ。
 隼人はそこを平気で開けて、いじっていたのだ。

「だから、歯ブラシをいれてあげようと……」
「そんなもん! 一本で充分でしょ」
「なくしたらどうするんだ、なくしたら? お前、海上のイルカ経営のコンビニに行くのか?」
「そういう子供に話すみたいな言い方、やめてって、いつも言っているでしょ!」

 なんだ。でも。子供みたいにムキになっているじゃないか……と、隼人は密かに、にやける。
 こういうところも、ちょっと戻ってきたじゃないか。ウサギさんのこんなところも、本当はなくしては欲しくない愛着ある姿だ。
 だが、隼人はそんなムキになっている葉月に、今度は真顔を突きつけてみる。葉月がすっと引いて、何を言われるのかと構えて待っているのが分かる。

「……下着は、スポーティなものオンリーで、合格」
「──」

 葉月がフリーズし、暫くしてから、そのバッグごと隼人に向かって投げつけてきた。
 だが、隼人はひょいと交わして勝ち誇ったように高らかに笑ってやる。
 そして構うことなく、ムキになりっぱなしのウサギに抱きついた。
 彼女の身体がびくっとして……。

「……隼人さん」

 身体は直ぐに柔らかくなり、甘い眼差しで隼人を見上げてくれる。
 このごろは、こうしてしまえば葉月は直ぐに柔らかにほぐれ何もかもが女っぽくなる。

「寂しいな、ウサギが暫くいなくなるなんて」
「……うん」
「無茶、するなよ」
「うん」
「ちゃんと帰ってこいよな」
「うん」

 生乾きの栗毛を撫でながら、素直に頷くウサギに、愛おしさが溢れてしまった唇を彼女の素直な唇に重ねる。
 そしてそのまま、側にある彼女の水色のベッドに静かに寝かせた。
 葉月も流れるように、隼人が導く方向へと身体をしなやか従わせてくれる。
 バズローブのひもをとくと、その中身は素肌のみ。風呂上がりの火照っている素肌から熱気がふわっと漂う。そのまま胸元を開き、隼人はそこの谷間に唇を落とした。

「あ・・。ねえ……ここのところ、ずっとじゃない?」
「そうだったかな」

 その通りで、毎晩ではないがちょっと頻繁なこの頃。

「葉月──」
「っい・・た」

 『痛い』──そう言った。
 だが隼人は聞き流す。
 彼女の胸の先に口づけた後、そのままやや強い甘噛みをした。
 口の中に広がる花の甘い香りと、手のひらに吸い付く火照って熱い柔らかな乳房をもっと柔らかに崩すかのように……。

 その痛みをずっと忘れないで欲しい。
 帰ってきたらまた、直ぐに、この刻印をしてやろう。
 刻印はそれだけじゃない。ここにも、そこにも……どこにでも。

 葉月の途切れ途切れの弾むような呻き声。
 ウサギの鳴き声。
 それを隼人は耳に焼き付ける。

「早く帰って来たくなるように……」
「ん……」

 最後はやっぱりその鳴き声を止めるかのように、彼女の唇を塞いだ。
 悩ましく呻き続けるウサギの鳴き声は、まだ収まらないようだ。

 これを術でもかけるように、ここのところずっとだ。

 今夜は隼人の気分もかなり高まっていた。
 たいていはそんな『悪戯』だと気が済んで、後のご馳走として離れることも出来るのだが。
 そこで隼人は自分の衣服を解いて、すぐに葉月の身体の上に舞い戻っていた。

 火照っている肌と重なる。
 花の香りが先ほど以上に豪勢に隼人を取り巻いた気がして、すぐに身体の温度は、風呂上がりの彼女と同一化した気がした。

「あん……。お風呂、あがったばかりなのに……」
「同じことじゃないか」
「また・・・入らなくちゃいけないじゃない・・・」
「じゃあ、俺と『また一緒に』入ろう」
「……いや。意地悪ばっかりされるから」

 生意気な口を叩くウサギをすぐに黙らす事だって出来る。
 隼人は彼女の白い足を持ち上げて、構うことなく思うままに突き進んだ。
 彼女の顔が色めいて、そして身体をしならせ……もう、隼人に反抗するような口も聞かなければ、すっかりなにもかもを委ね思うままにさせてくれる。

「あ。はあ……隼人さん」
「……な、なに」
「・・・はや・・とさん」
「……」
「はあ。あ、あなた・・・」

 何度も何度も、彼女は『俺』を呼ぶ。
 いつまでも何度でも。隼人もそれを心地よく聞いて、ずっと彼女にそれを言わせるかのように愛し続けるのだ。
 時にはその優雅な指先が、隼人の肌を髪を頬を唇を、柔らかになぞって愛してくれる。
 彼女の彷徨う指先を受け入れて、ときには噛んで答えてみたりして、彼女と分かち合う。

 今回、葉月とは一ヶ月以上離れることになる。
 実際にはこれだけ離れるのは、初めてだ。
 彼女の精神的な部分の心配はあるが、それでも彼女という恋人と離れることに、なんら不安はない。
 『あれから』、ちょうど一年、経とうかとしている。
 葉月がなにもかもを捨て去るように逃避行してしまった期間はもっと短い物だった。
 それでも、もう、帰ってこないだろうと分かりつつも、彼女を信じて待っていた間は、とても辛く『一日千秋』の思いだった。
 さらに、彼女に『もう帰らない』と告げられた後の時間は……止まっていた程だ。

 あれに比べたら、今回送り出す方がずっと気持ちは軽い。
 あらゆる不安はあっても、離れてしまっても、もう『愛』に揺るぎはない。
 隼人だけじゃない。葉月が返してくれる共鳴してくれる今ここで巻き起こっている『愛』にも揺るぎはない!

 隼人の鼻先で喘いでいる彼女。

「葉月、葉月……。愛しているよ」

 その声に対する返事のように、隼人も呟きながら、愛してやまない瞳の側に口づける。
 汗ばんでしまった額に貼り付いている栗毛を指でのけると、葉月がそっと微笑み返してくる。

「う、うん……わたし、も・・・あい・・・」

 隼人はそのまま葉月の唇を強く塞いで、愛し抜いた。

「今、聞きたくない。帰ってから聞かせてくれ」

 彼女が熱く潤んだ瞳を揺らめかせて、頬を染めた愛らしい顔でこっくりと頷く。
 隼人は満足げに、葉月を抱きしめた。

 

 ひとしきりおちついて、隼人は葉月の汗ばんでしまった肌に、バスローブをかけてやる。
 そして自分は湿った黒髪をかき上げながら、ベッドの縁に座り込んだ。

 くったりとうつぶせで横たわっている葉月の足に、そっと手を滑らせながら聞いてみた。

「……葉月。空母では乗ってみようと思っていないのか?」
「うん」

 迷いのない即答に、隼人はドッキリとする。
 やはり……先日、ジャンヌ先生が言っていた通りなのだろうかと。

「乗ってみたらどうだ? 教官も喜ぶと思うな」
「そんな時間ないわよ。そうね、乗れたら乗っても良いかもね」
「……そうだな」

 やめた。
 もし、葉月が本当に『現役引退』を考えていたとしても……。今のその返答の仕方だと、隼人にもまだ『言う気はない』と言うことなのだと悟ったからだ。
 彼女が言いたくないならそれでいい。言いたい時、言ってくれる日は必ずやってくる。

 だけど隼人はそれでも言ってみる。

「──お前が飛ばなくなったら、寂しいなあ」
「そうね。もしそうなったら、私も空と別れるのは寂しいわよ」

 隼人はさらに目をつむった。
 もう、分かった。

 葉月は本当にコックピットを降りるだろうと……。
 それで敢えて、もう一言。

「その時は、俺が飛ばすからな」

 隼人が撫でていた彼女の柔らかなふとももが、きゅっと固まった気がした。
 そして背中に届いていた葉月の息遣いも、止まった?
 ふと、隼人が振り向こうとすると、もう……その背に、起きあがった葉月が抱きついていた。

「葉月……」
「うん。絶対よ……隼人さん。私を飛ばしてね」

 背中につうっと何が降りていく感触? 涙?
 だけれど、なにげなく葉月が拭き取ってしまったかのように背中を撫でられ、その上、葉月はバスローブを手にして『水を持ってくる』と部屋を出ていってしまった。

 これで完璧だ。

 彼女は、もう、コックピットでは戦わない。
 もう……飛ばない。
 次に飛ぶ時が最後の飛行だ。

 なんだか隼人にも涙が込み上げてきそうな切ない気持ちになって来た。

 ずっと戦う彼女を愛してきた。
 そんな彼女も間違いなく敬愛し、愛してきたから……。
 彼女がその戦いにピリオドを打てたのは、平和の中へと戻っていこうとする喜ばしい事なのかも知れない。

 だけれど、どれだけの『男達』が知っていることだろうか。
 彼女のその姿に、どれだけ勇気を与えられ、奮い立たせてもらっていたかと……。

 それでも、彼女はこれからコックピットがなくても輝いていけるだろう。
 隼人はそう信じている。
 これからそんな彼女を見届けていくのだ。

 

 数日後、葉月は横須賀へと旅立っていった。
 そこに寄港している湾岸部隊の空母艦と合流し、やがて大海原へと挑んでいくのだろう。

 隼人はただ、帰りを待つだけになる。
 でも──帰ってきた彼女を驚かせようと、目論んでいることが、『ひとつ』。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「早いな。葉月が出かけてからもう一週間か」
「本当ね。このままだと、案外、直ぐに帰ってくるように思えそうだわ」

 その日も達也と泉美は一緒に会議を済ませた所だった。
 今、達也は彼女と小夜を一緒にアシスタントとして従わせていた。
 この日の先ほどの会議では……『新しい恋人』と一緒だったのだ。

「なあ、なんだかあまり気分が良さそうには見えなかったんだけど」
「気のせいよ」
「そうして我慢するのはやめようぜ。と、約束しただろう?」

 彼女がちょっとむくれた。
 達也もそのお姉さんの顔には既に適わないと言うか恐れてしまうというか……。必要以上に身体のことを心配すると、すぐにこうなる彼女であるのが最近、分かったことだ。だから、ここでやめておく。もう、倒れた時はその時だ。腹くくる、いつも、腹くくる。
 こういうハラハラ感はじゃじゃ馬の時と全然変わらない。
 つまり泉美も結構、そういう手綱を取らせてくれない『強気な面』があることも、最近の発見だった。

「なあ。なんで眼鏡なんだよ。この前から」
「コンタクトが疲れるのよ」
「それ。家の中だけでいいじゃん……」
「なあに? 気に入らないの? 私の眼鏡」
「そうじゃなくてさあ」
「いいわよ。別に……」

 達也は『今日のお姉さん、なんか不機嫌』と、ちょっと男の子風に呟いても、いつもは楽しそうに笑ってくれる泉美はなんだか本当に機嫌が悪そうでツンと流されてしまった。
 普段はとおっても柔らかでしとやかで、優しく微笑みかけてくれるお姉ちゃんなのにーと、達也がぼやいても、にこりとも笑ってくれない。

(その眼鏡。似合っているんだよなーー)

 実は結構、お気に入り。
 達也の部屋に来た彼女が、その眼鏡をかけて家事をしたり、向き合って食事をしながら笑ってくれる顔が『俺しか知らない彼女の顔』みたいで、ものすごくドキドキして襲っちゃたりなんだり……! とにかく実は実はお気に入り。しまっておきたいのだ、隠しておきたいのだ!

 でも何故か、数日前から泉美はその眼鏡をかけて職場にやってきていた。
 それにここ数日、達也の官舎にも顔を見せてくれない。
 まあ、具合が悪いと言っていたから、そこはそっちの方が大事だから仕様がないと割り切れるのだが。

 それに……なんだ?
 横で溜息なんてついているじゃないか?

 前は泉美が三歩後ろをついてくるのが普通だった。
 それが今では彼女は隣にいて、肩と肘が触れ合いそうな距離感。
 しかも『俺』から寄っちゃっている。けど、彼女もその時はちょっとだけ寄ってくれる感触がある。
 職場だから限界はあるのだが。

 申し訳ないが、こんなに『ふわふわ』になれるとは予想外の達也。
 いいや、やっぱり『恋するっていいもんだな〜』なんて。い、いけない。鼻の下伸びてやしないか? と、『男・海野中佐』は表情を引き締めた。

「いず……?」

 ふと気がつくと……。
 また! 泉美の姿がない!
 もしやと達也が振り返ると、またまた、彼女が壁にもたれて俯いていた。

「泉美……!」

 やっぱり! ここのところ、ちょっと残業もさせたからだ……。それで俺の家に来て家事もしてくれたり、愛し合っちゃったり!
 達也は心を落ち着けて、泉美の襟首に指を差し入れて、革ひもを探した。
 この前のは切れてしまい革ひもじゃなくちゃ駄目だと泉美が言ったので、横須賀でのあの後二人で新しい革ひもを探しに行ったのだ。
 泉美が一緒に選んで欲しいと言うから、一緒に探して選んだ。地味な色合いを手にしていたから、達也は思い切って『赤にしようぜ』と赤色を彼女に買ってあげたのだ。そうしたら……凄く彼女が喜んで。

「う……」
「待ってろ! 今、準備するから!」

 その二人で見つけた赤い命綱を出そうとしたら、その手を彼女に止められた。
 『どうして?』と彼女を見下ろすと、彼女は心臓ではなくて……ハンカチで口元を押さえて、とても気持ち悪そうにしているだけだった。

「違うのかよ? 泉美」
「だ、大丈夫よ。海野く……ん」

 それならいいけど。と思いつつも達也はなんでそんなに体調が悪いのかと、泉美を覗き込んだ。

「いいから。そんなに覗かないで海野君……」

 だあって。そうして力無い儚い顔されると、色っぽいんだもんなー。と、達也は心の中で密かに呟く。

「海野『君』はやめて欲しいなあ……」

 俺の腕の中で、この前は『達也』って色っぽく囁いてくれたじゃん? と、泉美の耳元でワザと呟いてみた。
 すると彼女は頬を直ぐに真っ赤にして、顔を背けてしまったのだ。

「……海野君」
「なに?」

「……お父さんになるのは、嫌?」
「は?」

 さらに泉美が呟いた。

「……五週目だって」
「……」
「……たぶん、一番最初の……」
「え」

 さらに『えええ!?』と達也は二、三歩、後ずさった。
 すると泉美の表情が曇る……。

「そうよね? まだ私達、つきあい始めたばかりだし。そんな気……なかったわよね?」

 達也はまだ固まっていた。
 そりゃ、なかった。と言った方が正直な答えだ。

 だが、達也の頭の中には──忘れられない感触とあの時の彼女の熱い眼差しが蘇ってきていた。

「ちょっと来い!」

 達也はまたもや場に構わず、泉美を勝手に抱き上げた。
 当然、泉美は驚いた声を漏らしたが、それでも達也が抱き上げて走って行くまま、首にしがみついていた。
 だけれど走って向かったのは直ぐそこで、非常階段に出るドアの前。そこを開けて外に出る。そして鉄階段の踊り場に泉美を降ろした。

 小笠原の秋晴れの風が吹き上がり、青い空に戦闘機が通り過ぎていく音。
 青空に筋を描いている秋の気流雲──。
 風に流される彼女の黒髪がふんわりとなびくその麗しい姿に向かって、達也は泉美の両手をぎゅっと握った。

「一緒に、その子と一緒に生きていこう!」
「え……い、いいの?」

 それでなんだか元気がなかったのかよ? と、達也はなんだか悔しくなってきた。
 俺のこと、俺のこと……俺がもう、こんなに愛おしく思っていること、まだ通じていやしなかったんだと。

「泉美!」
「は、はい……」

 達也は自分の額の上と泉美の額の側を指さし、最後にその真ん中を指さした。

「だ、だ、だって……俺達が選ばれたんだぜ!?」
「選ばれた?」
「ここに、ここに……今、いるんだよ。来たんだよ。俺達が選ばれたんだよ!」

 なんだ、この俺の興奮は? と、達也も自分が何を言ってやっているのか分からなくなってくる。
 だけど、泉美が達也が指さしている宙をふと見上げて、何が言いたいのか分かったとばかりに、いつものあの柔らかい微笑みをやっと見せてくれる。

「私が……選ばれたの?」
「そうだよー! 俺も選ばれた! 俺と泉美が選ばれた!」

 そこには見えない天使が、ふんわりと漂っているはず。
 泉美の笑顔がとても満ち足りた喜びの笑顔に輝き出す。

「結婚……しよう」
「はい。結婚……してください」

 すぐに了解の返事をしてくれた彼女を抱きしめた。
 直ぐ真上に戦闘機が横切っていく轟音。その音に紛れるように彼女の耳元に『愛しているよ』と囁いたが、聞こえただろうか?

 だけど泉美はとても美しい微笑みを達也に向けてくれていた。
 そして彼女の口元も、轟音が轟く中、同じように動いた。

 『愛している』と──。

 

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