-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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2.未来は怖くない

 波打ち際のさざ波の優しい音と、海原まっただなかの揺れる波の音。
 同じ海の波なのに、どうしてこんなに音が違うのだろうか?

 キィという鉄の固まりがどこかで軋んだような音も──。
 一週間もすれば、それは自然で気にならない夜の音。

 時々目が覚めるのも、職務で泊まることになったなら割と当たり前なことだった。
 丸い船窓がひとつだけある四畳もない小さな部屋。
 鉄パイプの二段ベッドが二つ。そのひとつのベッドを、歳が近い後輩と使っていた。

 葉月の上に寝ているのはテリー。
 彼女らしい落ち着いた寝息が波の音に混じって聞こえてくる。
 よく眠っているようだ。
 隣の二段ベッドは誰もいない。──いないが使っている女性がいた。
 小笠原でも葉月を診てくれている産科医の女医先生だ。
 まだ勤務しているのか戻ってこない。職業柄なのだろうか。

 寝返ると首元から『しゃらり』とした心地よい音が耳に届く。
 ちょっとひんやりとした感触が葉月の胸元から首もとへと滑って、シーツへと落ちていった感触も。
 それをおもむろに握りしめる。
 丸い小さな窓からは、甲板の照明が少しばかり入ってくる。
 そこに向けて、葉月は握った拳をひらいて、優しく手のひらの中にあるものを指でつまんで照らした。

「……隼人さん」

 銀色のクロスに輪をかけるように交差している銀色のリングが、夜灯りの中煌めき揺れた。

 きっと、まだ起きている。
 今夜はどっちにいるの?
 私の家? それとも官舎?
 いない間も勝手に入って泊まっても良いからね……と、言い置いてきた。
 私がいない部屋で、私のことを探してくれている?
 私も今……貴方の匂いを探している。

 目を閉じたら──。
 ふんわりと被さってくる柔らかい貴方の姿が、こんなにも鮮明に見えるわ……。

 葉月は銀色のリングに口づけた。
 いつも彼に口づけるように。
 そうして彼のことを思っていると、不思議とまたまどろみそうになる。
 本当に側にいるみたい。
 こんなに側にいるって確信できるのは初めて──。
 彼が私を想ってくれているのではなくて、私が貴方を強く想っていることに誇りを感じられる──『愛』という誇りを。

 目を閉じれば、そこは彼と分かち合ってきた時に一緒に体感できた花色の世界が葉月を包み込む。
 ふと乳房の先がちくりとする。彼が忘れないようにと施した痛みある印。その痛みさえも幸せを感じさせる。
 彼が何度も刻印したくちづけ。熱くて柔らかい感触が……残っている。
 葉月の身体のあちこちに。そして心の中に。隼人の感触が息づいたまま。まるで彼に抱きしめられている錯覚に陥ることが出来る。
 だから、ホッとする。それだけでホッと出来る。
 毎晩──そうして、安定した眠りを手にしていた。
 時々目が覚めるのは、『軍人』として意識が強く働いている証拠なのだ。
 だが、身体に辛さは残らないし、そして今はモチベーションも高くキープ出来ている。

 

『いい顔になった』

 それは十二年ぶりに再会した恩師の第一声だった。

 

 十六歳の少女で訓練校生だった時は、シビアに男女の隔たりはない『訓練生』として扱ってくれていたが、時にはまったくの『お嬢ちゃん扱い』をしてくていた教官。
 義兄ほどの歳の男性だから、子供扱いされても当然のこと。
 だけど、今の葉月がそれをされたら、彼に対してかなり幻滅するかも知れなかった。
 だけれどもその恩師は今回、葉月の顔を見るなり『いい顔になった』と一言いってからは、今までの完全たる『可愛いお嬢ちゃん扱い』はみせなくなった。
 今までも彼の口調から『綺麗なレディになったかな』とか『可愛い女にならなくちゃな』とかいう、からかいであったかもしれなくても、そんな『教え子以外にも男性の目で女性として見た時の期待』を彼が持っていたことを葉月は感じていた。だが再会した教官は葉月を見ても『綺麗なレディになった』という女性へと成長していることに関する言葉は一度も言わなかった。そこで教官との関係は改めて『師弟』として確立したと思えた。
 ジェフリーはこの一週間、葉月を対等の大人で大佐として向き合ってくれ、なおかつ、『ここは年輩の俺がやらねば、言わねば』と言う時はきちんと師として向かってくれる。
 過去を知られてしまい、そして葉月がどれだけの生き方をしてきたか存分に見抜かれていた恩師に対して、少女時代から戸惑い躊躇っていた部分を全て払拭出来たこと。そして恩師に『よし、お前は頑張ってきたな』と認めてもらえた今回の再会は、葉月にとっても意義があったことで、そして──躊躇いを振り払って再会することが出来た自分にも満足していた。

 そう──『過去』はもう、怖くない。
 沢山のことから、いろいろな形で逃げて直視することを避けてきたが。
 それも、もう……怖くない。その間違った姿から、間違ったからこそ得られる他にはない答えも出せるのだと。
 今の葉月は、もう、自分も愛せると思えた。

(ああ、今すぐ。隼人さんにそう話したい……)

 今は心に閉じこめないで、沢山の言葉を使って彼に伝えたいだけ怖がらずに伝えるられることも、葉月の喜びのひとつともなっている。
 そして彼が黙って聞いてくれて、『よかったな』と笑顔で言ってくれたり、『そうかな。俺は違うと思うな』と、葉月だけでは見つけることが出来ない様々な形に見せてくれることも、今は楽しいこと。
 それが今すぐ出来ないなんて、そこはもどかしい。
 せめて──携帯電話でも使えたらいいのに。

 本当に眠気が差してきた。
 これで明日の朝も、爽やかに目覚めることが出来そうだ。
 葉月は胸の上でリングのネックレスを握りしめたまま、まどろみの中へ──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ビーストーム1、発進します」

 管制員の報告。

「いよいよブライアンか。どれどれ、小笠原に送ってどれだけ変化があったことか」

 ジェフリーが楽しそうに顎を撫でたが、どこかで彼を試して楽しもうとしているちょっと意地悪そうな笑みを浮かべていた。

「ミラー中佐が来てから、こちらのフライトチームにも大きな良き影響を与えてくれました。最初はなかなか……私もフライトチームもミラー中佐も、どう歩み寄って良いのか色々ありましたけど」

 彼が小笠原に来てからの様子を葉月は告げる。
 すると葉月がどきりと緊張するくらいに、ジェフリーの顔が『ふむ』と真剣になり眼差しが鋭くなった。
 陽気な彼が、なにかをぎゅっと掴み取ろうとする……なにやら獲物を照準に捕らえたかのような眼。
 葉月としては何も言えなくなる。

「よし。うちのパイロットと暫く対戦させてみるか」

 葉月とウォーカーが共に連れてきたパイロットは、ビーストーム一個隊ではなく、他の小笠原チームからも選抜して連れてきた。
 ベテランのミラーを筆頭に、空にはだいぶ慣れてはいるが、まだこれからもう一歩という発展途上の若手を数名。その中にはリュウもいる。
 この日までは、その若手をこちらのパイロットに預けるような形で訓練を見てもらっていた。
 だが、本日から小笠原チームの真打ち『ブライアン=ミラー中佐』が登場と言ったところなのだ。

 小笠原でしているような訓練が始まる……。
 いつも甲板で監督していたことが、空母の管制室で繰り広げられる。
 各所から報告される各機の様子。結果。
 ミラーが投入されてから、小笠原チームの動きが明らかに変わった。
 葉月はジェフリーと並んで、大きないくつもの電光板をチェックしつつ眺めているのだが、目の前で直接的な指示と判断をしているウォーカーが満足そうに振り返って一言。

「流石だ。彼は誰と組んでも上手くやってくれる。俺と飛んでいる時もそうだった」

 この前まで、まとまりがなくなったビーストームの為に、引退から一時復帰してくれたウォーカー中佐。ミラーとタッグを組んでくれていたウォーカーだからこその感触のようだ。
 それは一緒に飛んだこともない葉月にもミラーはその手応えをもたらしてくれる。
 彼はリュウを始めとした後輩パイロットを調和させるリードを見せていた。

 すると、隣のジェフリーが『ほう!』と感心する声。

「一匹狼が変わったなあ」
「はあ、やはり。一匹狼でしたか」
「最初は扱いにくかっただろう?」

 葉月は『いえ、まあ』と濁しはしたが、まったくその通りだった数ヶ月前を思い出し、苦笑い。
 ミラー自身も告白してくれていたが、『周りのパイロットなど関係なく、自分さえ良ければいいという飛び方をしていた』──と。それがジェフリーが言っている『一匹狼』ということなのだろう。

「俺のところでも大変だったよ。『一匹狼』である分、せっかく持っている実力が半減していたからな。勿体ないと思っていたんだ」

 だが、ミラーは変わった。
 そして訓練を重ねる毎に、葉月と組む感触はさらに一致していった。
 そのあまりの一致感にはお互いに驚きもしている。そしてその良き感触を得るたびに、ミラーとの距離も信頼関係も益々強く結びついていく実感があった。
 彼も同じようで……。今、『空の相棒』と言えば彼しかいない。
 今まで組んでいたデイブとは、まだ『先輩後輩』という壁があったが、ミラーとはそれがなかった。
 その数ヶ月で積み重ねてきた『彼』の姿が今、ここに。もう、一匹狼ではない『仲間』を意識したフォーメーションを見せてくれていた。

「良い感じだ。これは細川中将と葉月に預けて正解だったな」

 自分の手元にいた優秀な部下だっただろうに。
 潔く手放したのも、ミラー中佐の為が第一だったのだろう。
 彼が本来の潜在意識を目覚めさせ、あるべきリーダシップをとれるようになった姿。それをその目で確かめ、とっても嬉しそうなジェフリーの目尻に刻まれた優しいしわを見つめながら、『やっぱり私の教官』と葉月も一緒に微笑んでいた。

 ミラーだけじゃない。
 葉月にも良き影響を与えてくれたのだから──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 母艦航行に参加させてもらう訓練は、滞りなく進んでいた。
 訓練は小笠原でしょっちゅうやっている対戦式だけでなく、時には上空パトロール巡回に小笠原の数機を中に入れてもらうこともやっていた。
 その日のランチの時間がやってきて、葉月はジェフリーと共に食堂へと向かう。
 狭い食堂につくと、そこにはパイロット達が輪になって既に食事を進めている姿があった。
 その中には、ミラーもリュウもいたし、湾岸部隊のパイロット達もいた。
 彼等は敵対心を露わにすることもなく、本当に『研修』という目的と意味を捉えるかのようにして、落ち着いた交流を見せてくれていて葉月も安心していた。
 血気多いパイロットもいるだろうし、プライドの高いパイロットもいるだろう。対戦式の訓練をすれば『やった、やられた』が多少は出てくる。そこを腕前を向上させるために『煽る』も、ある程度で感情を抑えられるように『諭す』のも、そこは先輩や『キャプテン』の手腕にかかってくる。
 そこのところ、キャプテンに任命しているミラーと湾岸部隊パイロットのキャプテンは、上手く連携し馴染みのないパイロット達をまとめていた。
 葉月もそこは任せて安心している。流石、そこは葉月よりも先輩である彼等の方がずっと落ち着きある大人でまとめてくれている。

 ジェフリーと食事をする時は勿論、彼の側近であるラルフもいるし、葉月の側には三人の後輩がついてきている。
 だが、この日……ジェフリーは何を思ったのかラルフに『二人になりたい』と耳打ちをし、それを聞いたラルフは深くは追求しないまま頷いたかと思うと葉月の後輩三人をさりげなく……少し離れた席へとつくように誘導して行ってしまった。
 葉月は首を傾げつつも、ジェフリーと二人きりで向き合う形で席を取り、食事を始めた。

「ブライアンは、コックピット以外でも変わったな。それをこの一週間で肌で感じていたが、それは空でも同じで安心した」

 ジェフリーはパイロット達の群衆の賑わいを目を細めて微笑む。
 葉月も振り返って、楽しそうに笑っているミラーを目にして一緒に微笑んだ。
 小笠原では、彼はいつもカフェでは一人きり。コリンズチームの元メンバー達が普段から賑やかな輪を作っていただけに、そんな彼の姿は浮き彫りにされていた。
 だが──今となっては、小笠原のカフェで一番騒々しいコリンズチームのランチの賑わいの中には、ミラーの笑い声もすっかり仲間入りしていた。
 それと同じように今も、彼は湾岸部隊のキャプテンと向かいつつ、沢山のパイロット達と微笑みあっているのだ。

「……惜しいのは。シアトルでそうなってくれなかったことだ」
「教官」

 ジェフリーが珍しく、眉間にしわを寄せたやるせない顔に、深い溜息。

「ですけど、教官がこうして小笠原に送り出す決心をしてくださったおかげで……」

 ジェフリーに出来なかったことではなく、それは沢山の経過があってやっとそうなれたのだと言おうとしたのだが、その言おうとしている先をすっかり読みとったかの如く、葉月の口先を手で制してきた。

「いや、湾岸部隊でそうなって欲しかったと言う意味ではないのだな、これが」
「はい?」
「俺にとって部下がどこでどうなるというのは、良い結果なら何処だって良いと思っているんだ。だから良くなりそうならどんどん送り出す。怖じ気づいているやつには尻を叩いてな」
「……教官らしいですね」

 だから彼は『幹部育成マシン』と言われるのだろうか?
 その昔、彼が転属すると葉月に告げた時も、彼は『もっと上を目指すために、俺から離れるのだ』と別れを惜しむ葉月を諭してくれた。それを思い出せば、ほんとうに彼らしく思う。そうしてミラーも手放し、送り出したのだろう。
 自分の手元、自分の手腕で『俺が育てた』なんていう結果にこだわるのではなく、長い目と広い範囲で判断し、『こうすればもっと良くなる』と思えたならどんどん送り出すのだろう。そして彼の最高の結果は送り出した部下が、何処に行っても『最高の結果を掴み取ること』なのだろう。
 だから──シアトルでそうなってくれなかった。と言う言葉の中には、『俺の手元でそうなってくれなかった』と言う意味ではないのだと、葉月も分かった。
 だったら、何を言いたいのだろう? 葉月は再び首を傾げる。

「葉月も知っているだろうが。ブライアンには別れた妻と息子がいる」
「はい。……らしいですね」
「なにか。それについては聞いているか?」

 葉月は首を振った。
 ミラーは時々、別れた妻についてほのめかすけれど、あからさまに過去を語ることはなかった。
 ただ、ほんのちょっとほのめかしただけなのに、彼の妻を口にする時の様子は『まだ愛している』ということがありありと表れている時もある。
 それぐらいだが……。

「──でも、私。ミラー中佐はまだ、別れた奥様を愛しているのだなと感じています」
「そうか。やはりな」
「それが、なにか?」

 ジェフリーはまた、深い溜息をついた。

「ブライアンとは特に親しくしていたから、彼女のことも俺は良く知っているんだ。俺が小笠原に送ったこと、その彼女にひどく叱られたぐらいでね」
「え! では……。奥様も!?」

 そこはなんだかニンマリと教官が笑う。

「そうそう。つまりお互いに意地の張り合いだったんだよな。それにブライアンのあの性格、ついてきた彼女を褒めてあげたいところだよ。耐えられなくなった彼女が別れを叩きつけて、あの無愛想なブライアンが引き留めもせずにただ『ああ、そうか』で済ました光景が目に浮かぶだろう? だけど彼女もブライアンが本当に側にいなくなって、気がついたんじゃないのか?」
「え、え! では。もしかしたら??」
「おお、もしかしたらだぞ? 葉月」

 シアトルでそうならなかったのが惜しい──とは、その修復できるかもしれない夫婦関係についてのことだと、葉月もやっと気がついた。

「それ……ミラー中佐に教えてあげたほうが」

 するとジェフリーが持っていたフォークを『ちち』と舌を鳴らしながら振った。

「そこがあれら夫婦の難しいところなんだ。だったら離婚なんてしないだろう? 本人じゃないところでは本心垣間見せているのに、本当に気持ちを伝えたい本人にはいざとなって伝えられなくなってしまう。それがもう何年も。いい大人だけに、なかなかなあ? 素直になれないのだよ」
「──そういうものなのですか?」
「お、葉月には難しい話だったか」
「なんですか、それっ。そちらから振っておいて!」

 昔同様の『子供扱い』に葉月がむくれると、ジェフリーが『それも変わらないな』と大笑い。それにも葉月はますますむくれた。

「まあ、冗談として──。でも、実際に葉月とこういう話が出来るようになるとはねえ……」
「いい加減に真面目に話してくださいませ、教官たら」

 『すまん、すまん』と言いながら、それでもまだちょっとむきになる葉月を久しぶりに楽しんでいる様子。
 葉月がいい加減呆れたところで、やっと元の真剣な顔に戻ってくれた。

「つまり、まあ……こうなってくれたなら、ブライアンも今までを振り返ったはずだ。その中にきっと彼女の存在もあったはずだ」
「……では、一度、ミラー中佐をシアトルに帰した方がよろしいです……ね……」

 と、恩師のからかいにむくれるのも程々にして、ミラーにどうしてあげればよいかを思いついた葉月はハッとした。
 そして、ジェフリーの目を答えを求めるかのように見つめてしまう。

「教官……まさか。『返して欲しい』と?」
「いいや、そこまでは俺は言わない。だが、お前も『それ以外にも大事なこと』だと気がついてしまっただろう」
「……でも、私」
「そうだな。お前とブライアンのコンビを見ているとそれも『惜しい』と思う」

 葉月は『嫌だ』と首を振った。
 やっと彼という空での相棒と出会えたのだ。
 それに数ヶ月、あまりにも大きかった隔たりを、やっとピッタリとした信頼関係へと変化させてきたのに……!
 でも……と、葉月は俯く。

「でも、きっとそれ以上に大事なことですよね。私は……そう、思います」

 パイロット同僚としては納得できない。だけれど……信頼関係を築いたのは、パイロットとしてだけではない。ブライアン=ミラーという『友人』としても。
 彼の幸せを願うならば、それは、きっと一番大切なことなのだ。
 それでも葉月はまだしっくりすることは出来ずに、力無くジェフリーに聞いてみる。

「教官もこうして沢山の人と別れてきたのですか」
「ああ、そうだな。いつまでもこいつと一緒だったら、やり甲斐ある毎日だろうと充実感を得ても、それは長く続かないこともある。それが最善の選択となることもある。一番最初に、別れを惜しむことになったのは『葉月』という少女だったな」
「教官……」

 遠いある日が葉月の脳裏に蘇る。
 今よりもっと若々しく、今の葉月ぐらいの年齢だった青年の教官の笑顔を……。
 目の前のやや歳を重ねた男性にはその若々しさはもうないけれど、でも、その年数を重ねてこなれてきた風格が定着している。
 その威厳を見せる確固たる顔で、教官ははっきりと葉月に向かった。

「でもお前だけじゃない。沢山の教え子に部下が最後には良い結果を出したなら、それが俺にとっても最高の結果だ」

 また、教えられた気がした。
 良い形をいつまでも握りしめていることが良い結果を持続することではない。
 あらゆる変化の中で、いつでもその形を留めることに執着するのではなく、時には潔く手放すことも……それも必要なことなのだと。

「分かりました。答えを出すのはミラー中佐自身ですね。航行が終わったら休暇を取らせます」
「そうだな。後は彼に任せてお前は待つしかないな。俺もだけど……」

 どうなるかはまだ分からないが、既に『手放す覚悟』を見せた葉月に、恩師は優しく微笑んでくれた。

 そうだ──。葉月にも遠く離れてしまっても想える人がいるように、ミラーにもいるのだ。
 そして彼も。気持ちがすれ違っても傷つけあっても、そして決定的な別れという選択をしても、それでもなお想える人が存在しているのだ。
 男女間は時にはすんなり上手く行かないこともままある。それでも想える人に出会えること。『夫婦』とか『恋人』という最高の形を成せない状態であっても、それでもなお想える愛を注ぎたい人がいること。

『その存在自体を心に持つことが出来る。それは、とても幸せなことなのだわ』

 葉月はそう思った。
 どんな形であれ『愛せる』ということは、もしかすると『愛される』ことよりも。それは幸せなことなのかもしれない……と。
 だから、友人である彼にはパイロットである前に、一人の男性としてのその幸せを掴んで欲しい。
 そう素直に願える自分がそこにいる。

 彼にもそうあって欲しい。
 友人としての気持ちだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今日も一日が滞りなく終わりそうだ。
 何事もなく、順調に日を重ねていた。

 この調子で無事に終わって欲しいと葉月は願いながら、本日の『日誌』を艦長室で記していた。
 ジェフリーは出かけていて葉月が一人。後輩達にはそれぞれの雑務を当てて、今は外を回っているところだ。
 するとノックの音がした。
 葉月は誰かと思いながら『どうぞ』と声をかけると『ミラーだ』という声と共にドアが開いた。

「ジェフから今は事務をしていると聞いてね」
「お疲れさまです。どうぞ」

 彼が笑顔で艦長室に入ってくる。
 それほど自由に出入りはできない艦長室を見渡し、彼は空いている椅子に腰をかけた。

「いつでも君は忙しそうだな。現場に内勤を行ったり来たり、大変そうだ」
「内勤となると、こういう雑務とは縁が切れませんからね。嫌でもしませんと」
「俺なんかも班室業務は好きじゃないね。コックピットが一番だ」

 葉月も『私もそう』と微笑みつつも、心の中では既に『そうだった』という過去形で響いていた。
 既にコックピットへの執着がなくなっている葉月にとって、こうした司令官としての内勤や現場指揮が新しく見定めた『目標』だから。
 ──そうして、彼等を守っていくことに決めたから。今となっては内勤の事務作業ですらもコックピットに値する重要な仕事だ。だから前ほど嫌でもなし、コックピットに戻れなくてイライラしているような落ち着きなさも既に感じなくなっていたから、以前以上に腰を落ち着けてやっている。

 そんな葉月の落ち着きと、コックピットが良いと言う自分との間に違和感を感じたのだろうか?
 ミラーがちょっと不満そうな顔をしていることに、葉月は気がついた。

「君とは一度も一緒に飛んでいない」
「……そうですね」
「今までは細川中将の元で、指揮官とパイロットという形を崩せなかったから黙っていたが……」

 葉月はそっと目をつむった。
 母艦に一緒に搭乗するとなったら、ジェフリーがそう言い出したように、そして細川も同じように言ってくれたように……ミラーもきっとそう言い出すだろうと覚悟はしていた。
 それがついに来たと思った。
 葉月が目を開けると、ミラーが真剣な顔で思っているとおりのことを言いだしていた。

「飛ばないか? これを機会に。俺と一緒に飛んでみないか? 現役を引退したわけじゃないだろう」

 葉月は暫し、黙った。
 その様子にも彼は何かを不安に思ったのか、とても焦った様子で葉月に向かってきた。

「今、ジェフにも頼んできたんだ。君も飛べる時間を作ってやって欲しいと! そうしたら……彼女が飛ぶと言ったら、そうすると言ってくれたんだ」

 葉月は心苦しく思いながら、そっと首を振る

「何故……。まさか……」

 彼の顔色が変わる。
 不安そうな顔だったのは、彼も予感していくれていたのだろう。
 だから、葉月ももったいぶらずに答えた。

「そうです。引退します。次に飛ぶ時が『ラスト』と決めています。トーマス大佐にも、そう言ってあります。だから私自身から『飛ばない』意図を聞かせるために、そう言ってくれたのでしょう」
「何故!? 君は女性だけれどまだ若いし、技術だって衰えていたわけでは……!」
「──子供を産みたいんです」

 惜しむミラーが声を荒げそうになったその手前で、葉月は間髪入れずにはっきりと告げる。
 当然──ミラーはその答えに固まっていた。
 男性パイロットには、ない選択だからだろう。
 呆然としている彼に、葉月は決定づけるようにもう一度言う。

「彼の子供を、産みたいんです。だから、落ち着けない危険性があるものとは決別すると決めたんです」
「……なんで。勿体ないじゃないか」
「私にとって、子供に対して危険なことのほうが、パイロットでいつづけるより……大事になったんです」

 『大事になった?』とミラーが首を傾げた。
 葉月は力無く微笑みつつ、小さく答える。

「……今まではコクピットにいることが、なによりも大事でした。好きな男性が存在していても、女性としての幸せ? そんなことさして重要でもなく、そして、なるべくそうならないように回避している自分であることに必死でしたから」
「つまりコックピットが一番だったが、今は、サワムラが……と言うことなのか?」

 葉月はミラーを見つめる。
 そして、胸の内に押さえている溢れそうな物を解放するかのように微笑んだ。

「はい」

 その葉月の笑顔がどう見えたかは分からないけれど……。
 でも、目の前のミラーはとても驚いた顔をしていた。
 暫く、そのままお互いに黙り込んでしまったが、彼が口惜しそうに呟き始める。

「くそっ。そんな女性の顔をされたら何も言えないな!」

 祝福したいけれど、彼の中ではパイロットとしての惜しむ気持ちもあり、そこで葛藤しているようだった。
 彼をシアトルの家族の元に帰すか帰さないかで揺れた気持ちを思い出させ、彼も葉月がそう感じたのと同様にどちらの気持ちも同じように持ってくれているのだと解って……嬉しく思った。

「でも」
「なんだい!」

 怒りたいけど怒れないと言ったジレンマを見せる彼に、葉月はまた笑顔で告げる。

「最後のフライト。一緒に飛んでくださいね。小笠原で飛ぶと決めています」
「大佐嬢……」
「最後は愛する彼に空へと飛ばしてもらい、最高の仲間と空を飛んで……締めくくりたく思っています」

 『最高の仲間』──。その中の一人だから、最初で最後だけれども一緒に飛ん欲しい。
 その申し出に、彼ミラーはやっと……哀しそうでも、微笑みを見せてくれた。

「勿論、喜んで。君のラストフライトのお供になれるなんて光栄だ」
「私もです。楽しみにしています」

 どこにも未練がない葉月のきっぱりとした笑顔をみたミラーは、とても口惜しそうに拳を握り、唇を噛みしめた顔で俯いてしまった。

「もっと、早く出会いたかったな」
「……」
「もっと、早く……」

 そんなにまで期待してくれていたのだと、葉月も胸に込み上げてくるものがあった。
 だけど……葉月は、心を強くして彼に向かった。

「ミラー中佐。これで終わりみたいな顔はしないでくださいますか」
「え?」
「貴方とは空ではこれからも一緒にやっていきたいと思っていますからね。覚悟していてください」
「!」
「貴方には私の心をコックピットに乗せて、空へと行って欲しいと思っていますから」
「君の心を──?」
「そうですよ。私、陸にいても貴方となら『飛んでいる』と思える感触を得ています。貴方でないと私の空への心は任せられません」

 まだ、漠然としているふうのミラーに葉月はさらに向かった。

「──正式に申し込みます。小笠原で一緒に、私と一緒にやっていきませんか?」
「小笠原で、君とずっと……?」
「シアトルにはもう帰らないで欲しいと言っているのです。以前にも『帰らないでください』と言いましたが、今度は正式に『パートナー』として申し込んでいます」
「俺が君と……小笠原で……!」
「そうです。私と一緒に小笠原の空部隊の為に貢献していきませんかと、申し込んでいます」
「いや、しかし……それは」

 実際に今でも彼は『雇われキャプテン』と言う期限付きのようなポジションのままだ。いつどこに行ってしまっても『仕様がないこと』とは思ってきたが、彼と組んで数ヶ月、葉月にとってはもう既に『なくてはならない同僚』になっている。
 だからそこを確認するように申し込んでいる。
 けれどミラーは、そこに面して初めて躊躇いを見せていた。
 きっと彼も気がついたのだろう……。『これから先、どうするべきか』と言うことから逃げられないところに、葉月に追い込まれた。そしてその先に『やり残している物がある』ことにも気がついただろう。つまりまだ心に残している女性がいること──『家族』のことを。

 そこに彼の気持ちが辿りついてきていることを、葉月は悟ることが出来た。

「私の気持ちはお伝えしました。中佐の『心残りのない返事』を私は期待しています。だからどんなお返事でも中佐が納得できる答を出してくだされば、私、本望ですから。……もし、シアトルに帰るという答えをだしたとしてもです」
「……心残りないか」

 葉月の『どっちに転んでも』と腹を決めている笑顔に、彼もその決意を固めてくれたのだろうか? 彼の顔つきが怖いくらいに引き締まり、そして葉月を真っ直ぐに見据えてきた。

「──暫く、考えさせてくれないか」
「勿論です。じっくり考えてください」

 そしてミラーは葉月が裏に含ませたことを、口にしてくれた。

「それには、別れた家族と一度じっくり話したいと思ってる」
「……そうしてください。小笠原に腰を落ち着けるとなると、今後、ご家族とはそうは簡単に会うことが出来なくなりますから。なんなら艦を降りてから休暇をあげますよ」
「分かったよ、そうする」
「そうですか」

 お互いに新たな道に進む為の決意。
 葉月はコックピットを降り、彼は心に残している女性と再び向き合う決意を。
 答えはどう出るか分からない。だけれど今、ここで見つめ合うお互いの眼差しの中には確かに……『未来がある』こと、少なくとも葉月は感じられた。

 貴方の前途を祈り。
 君の幸福を祈り。
 お互いの未来を祈り、共に向かおう……。

「有り難う。君の気持ち、嬉しかった」

 ミラーはそれだけいうと、静かに艦長室を去っていった。

 お互いに愛する者の為に。
 明日も未来という漠然とした不確かなものにも、恐れずに向かっていこう……。
 勇気ある前進を!
 葉月は胸元に忍ばせている銀のリングを握りしめ、静かに呟いていた。

 

 この艦がそろそろ日本海に出ようかというある日のこと。

 

 トーマス艦長が引き連れている湾岸部隊のこの空母艦に、一機の小型輸送機が着陸した。

 この日の天候は空は晴れていたが、北の海特有の激しい風が吹き荒れていた。
 飛行機の扉が開き、そこから紺色の軍コートの裾を翻しながら降りてきたのは、黒髪に青い目の男性。そして……。

「うっそー。聞いていたけど、想像以上に寒いじゃない!」

 同じく紺色の軍コートを着込みながらも、その激しい風に煽られながら寒さに叫ぶ金茶毛の女性が後から降りてきた。

「マリー。いちいち騒ぎ立てずに静かにしていることが同行の条件だったはずだ」
「あら? マイクは相変わらず。たったこれだけで、『うるさい』と言うわけ? 了見の狭い男ね」
「なんだって? 君だけこの飛行機に乗ってターンバック。三沢基地に帰るかな?」
「あー。早く葉月に会いたい〜。きっと葉月も喜んでくれるはずなのに、マイクにそんなちっちゃい理由で帰されたと聞いたら、素敵で優しい寛大な兄様のイメージが崩れるわねえ」

 黒髪の青年中佐は、琥珀色の大きな瞳をくるくると回して生意気を叩く栗毛の女性に向かって、チッと舌打ちをする。

「……まあいい。君も今回の訪問が有意義なものになるよう祈る。ブラウン大尉」
「勿論です。ジャッジ中佐のご配慮、無駄には致しません」

 フロリダ本部からの訪問客。
 トーマス艦長は当然、知っているが……。
 そこは何故かお互いに悪戯心が出てしまい『御園には』、『レイには』──『内緒にしておきましょう』となっていた。
 それを思いだし、マイクとマリアは一緒にほくそ笑む。

「さあて、たまにはこっちが驚かせないとな」
「楽しみ!」

 じゃじゃ馬は、まだ知らぬこと──。

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