-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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14.水色の恋人

「ご予約の澤村様でございますね」

 隼人と共に辿り着いたのは大きな温泉ホテルだった。
 彼にチェックインを任せて、葉月は後ろで待っている。

「二泊のご予定で間違いございませんか」
「はい。お願いします」

 ──二泊!?
 葉月はそれを耳にして、また驚いていた。
 この土地に彼のこだわりがあるのだろうか?
 そう聞きたいのだけれど、着物姿の仲居さんが荷物を手にして客室へと案内してくれるとかで二人きりにはなれず、葉月は黙って隼人についていく。

 案内された部屋は和室だった。
 そして目の前の窓辺には、湖がいっぱいに広がっていた。
 遠くには冠雪の山も見える──。

 仲居さんが隼人にあれこれと案内をしている間に、葉月は真っ先に窓辺に駆け寄ってしまった。

「とっても綺麗……」

 葉月がひとこと窓辺でそう言うと、隼人と仲居さんが微笑ましい笑顔で葉月を見て笑っていた。

 やがて、仲居さんが『ごゆっくり』と頭を下げて出て行く。
 部屋はとても静かで、喋らなければ、とてもしんとしていた。
 いつまでも葉月がその窓辺で湖を眺めているので、隼人も窓辺にやってきた。
 葉月の背に、彼の体温がじんわりと伝わってくる距離。触れていないのに、そんな温度を感じる。
 そしてそっと隼人が葉月の頭の側のガラスに手をついた。今日はどうしてかいつも一緒にいるのに、隼人の背丈がとても高く感じる。そんな隼人を葉月はそっと彼の腕の下から見上げた。
 彼も眼鏡の奥の眼差しを細めながら、遠い雪山を見つめている。

「羊蹄山だ。蝦夷富士ともいうのかな」
「ほんとう。小さな富士山みたい。雪をかぶっている姿までそっくりで綺麗」
「うん。そうだな──」

 湖の向こう遠くに単独でそびえている小高い山は、その名の通り、蹄の形をしているように見えなくもなく……。だけれど、その左右対称のなだらかな線は富士山にも負けない美しさだった。

 だけど、葉月は隼人が『蝦夷富士』と言った瞬間に、あることを思い出してしまいドキンとした。
 隼人には一度も言ったことはない。昨年、葉月が義兄と何処で過ごしていたか……と言うことを。なのに、彼はそれを知らないはずなのに、今回もあの時と同じように『湖と冠雪の山』がある場所に、愛する男性と一緒にいるだなんて。何か繋がっているのだろうかと思ってしまった。
 ……それでも。と、葉月は冷たい窓ガラスに手をついた。

 その手をついた窓ガラスに隼人の顔が映っていて、彼は景色を見ているかと思ったら、葉月の後ろ姿をひたすら見つめてくれている。
 葉月は振り返り、隼人に向かった。

「隼人さん──。私を抱きしめて」
「……葉月」

 まだ、戸惑っている隼人の顔。

「葉月、どうしたんだ」
「どうして? 私、おかしい? 思ったままを言っているのに!」
「いや、その……そうなのだろうけれど……」

 本当に隼人が困惑している。
 そんなに困ること? 本当だったら昨日、小笠原に帰ってきてすぐに抱きしめて欲しかったし、夜はもっと……。こうして今日、一緒に旅をしている間も楽しかったけれど、どれだけの気持ちが溢れ出しそうになったことか。先ほどのマフラーのキスの時だって、あれで抑えるのが精一杯。本当はもっと、もっと……触れたくて、もっと隼人に触れて欲しくて……!
 葉月のじれったい想い。今はもう、こんなに隼人しか見えていないのに。あの空母艦での様々な試練に出会っても、毎日、隼人のことを想って過ごしてきた。

 ──葉月は水色のニットの下に忍ばせている『リング』を、そんな胸が焦がれるまま強く握りしめ、唇を噛みしめた。

 どうすれば、隼人にこの想いが伝えられて。
 もう、どれだけ隼人だけの日々になっていると分かってもらえるのか。
 そして、うんと貴方に抱きしめてもらいたい『ウサギの気持』、隼人なら誰よりも知ってくれているはずなのに……!

「──いいよ、おいで」
「!」

 じれったいままでいる葉月を知ってくれたのか、隼人が柔らかに腕を広げ、葉月を包み込んでくれていた。

「隼人さん……」

 やっと、彼の匂いを取り戻した気がして、葉月はそのまま隼人の胸の中に顔を埋める。
 そして抱きしめてくれている腕に、ぽってりと頬を乗せて力を抜いた。でも……腕はちゃんと彼の背中までしっかりと回して、負けないように抱きしめる。
 あとはぐったりと全て隼人に預けて、葉月は目をつむった。

「おかえり、葉月。やっと抱きしめられた」
「ただいま、貴方……」

 ──私も、やっと抱きしめてもらえた。
 そう言いたいけど、もう、力が入らない。

「そんなに俺のこと、待ち遠しかった?」
「うん……。空母でもずっと、この日を心待ちにしていたわ」
「そうか、そうだったのか」

 隼人の鼻先が、栗毛を吸い込むような息遣いで葉月の額をこすっている。
 彼の胸から顔を上げると、黒く潤んだ彼の眼差しと目が合う。
 ──迷うことなく。葉月から目をつむった。
 隼人が『葉月……』と息だけの声で囁き、その優しい手がいつものように柔らかく葉月の頬を包み込み、栗毛をかき上げる。葉月も顔を上げて、そのまま彼に捧げるように唇を向けた。
 目をつむっていても分かる。今、隼人も静かに目を閉じて、そっと首を傾げたところ。
 そして一時、それが本当かどうか葉月の唇を確かめように、隼人が指先でなぞっている。そんなちょっと間が出来る。隼人が帰ってきたウサギの唇を眺めて確かめている……。それでも葉月は目を開けない。『貴方にあげる』──本当にそれだけしかないから、目は開けないで待っている。

「……綺麗だ」
「あ。んっ……」

 押し当てられた熱い唇。隼人の唇はもう熱かった。
 いつも何処かミントの匂いを思わすような隼人の息が、ふっと葉月の中へ吹き込まれる瞬間。
 葉月もそれを吸い込むようにして、彼の唇に自分の唇を合わせた。
 先ほど、小雪の駅前で、隼人が一瞬でやめてしまった熱い口づけの続きのよう……。だけれど、どちらかというとやっぱり何処か留め金が外れ気味になっている葉月の方が強く貪っている気がする。
 彼も負けていない。葉月が強く求めた分、もっとそれ以上の熱っぽさで返してくれる。

 囁きあうような唇と唇への柔らかな愛撫なのに、息はとても乱れあっている。

「……この後、湖を散策しようか。それとも温泉に入ってゆっくりするか……と、思っていたけど」

 思っていたけど──。唇を離さないまま、葉月の口元で囁く隼人の息が震えている。
 それを耳にして、葉月は彼が何を考えているのか解った。
 葉月はそのまま、迷っている隼人の腕と手を取って、そのまま……黒いタイツに包まれている太股へと滑らせた。
 隼人がその葉月がする『誘い』を神妙な目つきで、見下ろしている。
 そしてそのまま、太股から彼の手を使って水色のワンピースの裾をたくし上げた。
 まだ葉月の誘いのままに手を任せている力の籠もらない彼の手に業を煮やして、葉月はまるで乞うように隼人を見上げた。

 その時、葉月は自分の瞳がとても熱くて、もう彼の顔が滲みそうなほどに潤んでいると自分でも分かる。
 そう言う眼差しをしているのを、隼人もとても切なそうな顔で見つめてくれているから……。
 そして葉月はそっと囁く。

「貴方と二人きり──。それしか分からなくなるぐらいに愛して……」
「勿論」

 隼人の口元が引き締まる。
 そして漆黒の瞳が熱く揺らめき輝いた。

 その窓辺の前で、隼人に再び唇を塞がれる──。
 今度は葉月など足元にも及ばない、葉月の対抗も及ばない、彼の力強い一直線な口づけにさらわれていくよう……。 
 手先は葉月の手を払いのけ、勢いよくワンピースをたくし上げ、シルクのスリップドレスの上を乳房まで滑らせ、あっと言う間に捕まってしまう。
 そこでひとしきり葉月の身体の感触をひと通り確かめるかのように撫でていた隼人が、急に葉月を抱きかかえ、そのままそこの畳へと寝かせようと押し倒してきた。
 それは葉月が頭を打たないようにという力加減はあっても、とても勢いがあるちょっと荒っぽい押し倒し方。それでも葉月は叩きつけられたって良いとおもっている。だから隼人の首に抱きついて、彼の力の向く方向に身体を預けるだけで、もうどんなにされたって……。

 畳に押し倒されると、隼人はとても急ぐようにして葉月が着ているワンピースを上へと脱がしていき、頭をくぐらせた後は腕に巻き付けまま葉月の頭の上に放った。まるで両手を拘束されたかのように……中途半端にそのままにされる。
 だけれど、やっぱり葉月もそのまま隼人に任せた。両手は頭の上に挙げたまま、ニットワンピースをからませたまま、身体を胸元を隼人の目の前に全開にして全ての力を抜いていた。

 なにも言わない隼人の顔は、とても真剣だった。
 いつもデスクで仕事をしている時と同じぐらいにちょっと怖い顔をしている。
 眼鏡をかけたまま、彼が自分の衣服を解く──。上半身だけ素肌になり、ジーンズのボタンだけはずすと直ぐに葉月の身体の上にやってくる。

「あ……っ」
「待っていた。俺も、待っていた。葉月が帰ってくるのを……」

 かけていた眼鏡が側にあるテーブルにことりと置かれた。それが合図のように被さってきた隼人の熱い唇が、白いスリップドレスのレエスに覆われたままの乳房に吸い付いてきた。
 そんなに急いでいるのか、わざとなのか、それとも? 分からなくなっているのか? 隼人はそのシルクの生地ごと葉月の胸先を熱い吐息を含ませながら貪っている。両腕を拘束されている分、葉月の感じる方向もその一点に集中する。身体をよじってもよじっても隼人はそこから離れなかった。
 その内に、その部分の生地が湿って、葉月の胸先と乳房にじっとりとまとわりついてくる。それを両胸、どちらも急ぐような勢いであっと言う間に隼人に濡らされた。

 そこを濡らされたまま、隼人は直に愛撫しないで、そのまま真っ白なシルクの生地の上を滑らかなままに唇を滑らせて下腹部へと向かっていく。
 その合間にも隼人はきっちりと準備を整えるように、黒いタイツを葉月の白い足を滑らせるようにして器用に脱がしてしまった。
 時々、思うけれど──隼人のそうした手つきは本当に『器用』だった。もたついたりがさつになったりすることはない。いつも呼吸をするようにいつのまにかブラジャーを外されてしまうのと一緒。そうしてタイツもショーツもあっと言う間に『するり』と流されるように剥がされてしまっていた。

 やがて彼の指先が、待ちかねていたように葉月の腿の間を頂点へと滑っていく。
 そこに押し当てられた彼の指先の温度を感じて、葉月はそっと目を閉じた。

「……もう、こんなに」

 もう彼が触れる前から、葉月のそこは蜜であふれていた。
 隼人がそれを何度も何度も指先を滑らしては絡め取るようにして、確かめているよう……。

「いや……。そんなにしないで」

 彼にとっては驚いて確かめているのかもしれないけれど? ううん、本当はもう既に葉月を崩しにかけている指先かもしれないけれど? とにかくもう葉月にとっては熱くて焼けるような愛撫をされているも同然。ふと腰が浮いてしまい背を逸らし、逃れたくないのに逃れようとした。
 当然、隼人にその腰を捕まえられて引き戻される。だが、彼はもうそこに執着しないで、葉月の真上にやってきて微笑みかけてきた。

「覚えているか? 俺達が初めて抱き合った時のこと」
「覚えているわ」

 あの西日の中で抱き合った時──。
 どちらも初めての素肌だから戸惑いはあったけれども、口づけ合う空気も、お互いに素肌に触れる柔らかさも、葉月にとっては『息が合っている』と思うほどだった。二ヶ月──。この男性と一緒に真っ直ぐに向き合って、そして惹かれてしまったのは嘘じゃなくて本物で。そして、目の前の彼も、間違いなく自分と同じ気持ちを抱いてくれていた。そういう喜びはあっても……身体は上手く反応してくれないのは、いつものこと。
 それまで過ぎ去っていった男性達も皆、葉月に男としての許しを乞うかのような根気がいるじっくりとした愛し方しか術がなく、皆、そうして愛してくれてきた。
 そしてそれは初めて抱き合う隼人にも、その状況に直面することになった最初の時だった。

「あの時、本当にどうしようかと思った」
「……ごめんね。私も、どうしたらいいかって」
「でも、今はほら」

 濡れた彼の指先が、囁く葉月の唇をなぞる。
 ふわっと湿る蜜の匂いが鼻先を掠めた……。
 葉月の蜜で濡れた彼の指先。その指先で葉月の唇は蜜で濡らされる。
 隼人がその蜜を塗り込めた唇を柔らかく塞いだ。

 今はほら、こんなに……。
 貴方のために、感じることが出来るのだと。
 俺のために、こんなに甘い蜜を溢れさせてくれるのだと。
 隼人がその喜びを葉月の唇に乗せ、一緒にその愛し合える喜びを噛みしめているように思えた。

 その蜜を塗り込めた唇を、蜜ごと味わうような隼人のじっくりとした口づけにも、葉月はもうとろけてしまいそうなぐらいにして、任せっきりだった。

「もう、そんなんじゃない。ほら、こんなに情熱的な身体に……なって」
「そうよ。もう……貴方の為だけに……」

 隼人の目がまた切なそうに揺らめきながら、『葉月』と耳元で囁く。
 側にあった旅行鞄に隼人の手が伸びて、その準備をきちんとしようとしていた。
 その間も彼は葉月の耳元と口元、鼻先に口づけて放ってはおかない。葉月もそっとお返しに口づける。
 そして待ちわびているその蜜の中に、隼人がそっと潜り込もうとしている。
 ぐっと力の籠もった感触が、葉月を押し広げようとしていた。

「は、はや……とさんっ」

 そんなに力んでいた覚えはないけれど、それでもこれだけ蜜が溢れているのに、するりとは流れていかない。

「もっと、力を抜いて……!」

 そのせいか、隼人にそう強く言われる。
 その強い一声で葉月がふっと肩から腰から足先までぐったりと力を抜くと、その瞬間、激しく上に突き上げられる──!

「あっ、っん……っ!」

 両腕に巻き付いていたワンピースを振り払い、葉月は隼人の背に抱きついた。その手の爪がギュッと彼の肌に食い込いこむ。

「葉月、葉月……はづ……き……」
「あ、あ、あっ……!」

 何かをお互いに囁き合いたくて、お互いに唇を開きかけるのだけれど、震える息を吐くのがやっとで、言葉にならない。
 どんどんと食い込んでくる隼人を、葉月も拒むことなく大きく開いて奥深くまで受け入れていた。
 走り出した馬が止まらなくなったかのように、隼人は力強い勢いのまま、葉月の中を駆け抜けていく──。
 ただもう、走り抜けていこうとする隼人に捕まって、振り落とされないように葉月も爪を立ててしがみついている。
 時折、痛いほどの感覚で葉月の中で走る甘くて狂おしい痺れ。それに身体が震え、唇も震え、うっすらとまぶたを開けても、もう隼人の顔が遠く霞んでいくようだった。

 真っ白な雪の世界に来たはずなのだけれど。
 今、この二人の周りだけは、いつもの熱い空気が取り巻いているように思えた。

 隼人が葉月の中を駆け抜けていく時間は、とても激しいけれど疾風のようにあっと言う間だった。
 そして最後に葉月が辿り着いたそこは、やっぱり真っ白な世界だったかもしれない──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼女の頭の上に丸められている、水色のニットワンピース。
 そして畳の上に栗色の長い髪を広げている彼女が、息絶えたようにぐったりと仰向けになっている。
 その姿は、隼人が散々荒らしたあられもない格好で、彼女の下着は濡れた染みがあちこちに点在していた。しなやかな生地の美しいランジェリーのはずで、それが彼女の身体を美しく彩るはずなのだろうに……。しわくちゃにされたまま、ただ身体に巻き付いているだけの布にしか見えないほどに……。俺が荒らしたのだと……。

 彼女の身体から離れて起きあがった隼人は、そんな横たえる葉月を眺めていた。
 でも……彼女の顔は満ち足りていて、暫くすると目が覚めたかのように、柔らかにまぶたを開ける。そして瞳を煌めかせながら、隼人を見つめてきた。

「疲れただろう?」
「うん……ちょっと」

 連れ去るようにこの遠い北国まで、一緒にやってきた。
 過酷だっただろう母艦航行から帰ってきたばかりなのに、こうして無理矢理に連れ出し、着いたら着いたでこうして彼女を奪うようにして抱いてしまった。本当ならもうだいぶ疲れているはずなのだ。なのに……。
 それでも──。隼人の中にまだ消化し切れていないような熱くて狂おしい渦が取り巻いている。
 こんなんじゃ足りない。もっと、本当は……。直ぐ側で、乱れた姿で力無く横たえている彼女を見ているだけで、また鷲づかみにしたくなる。

 だが実際──。気持はあっても隼人も旅先で落ち着いたばかり。今の『駆け抜け』でかなり消耗だ。
 隼人は腕を伸ばし、葉月の頭の上にある水色のワンピースを手に取った。
 そしてそれをちゃんと広げ直し、自分が乱し汚した白いランジェリーを隠すかのように、葉月の身体の上にかけた。

「水色は卒業したんじゃなかったのか?」
「うん……。そうだったのだけれど」

 隼人がかけたニットワンピースを、葉月が抱きしめる。

「やっぱり私の着慣れた色だから」
「うん。俺もそう思う。葉月には水色が似合うのに、なんだか卒業というのは違うような気がしていたんだ」
「そうだったの……?」

 彼女が驚いたようにして、表情を固めた。
 そしてその水色のニットを抱きしめたまま、起きあがり、隼人を困ったように見ていた。

「……ちょっと、暫くこの色は見たくなくて」
「そうなんだ」

 ニットを握りしめた両手の中に、葉月が鼻先を埋めた。
 そして、そのガラス玉の瞳を陰らせながら、葉月が黙ってしまう。
 隼人には分かっていた。
 水色は……。彼女が幼少の時から『兄達』に染められてきたカラーみたいなものだった。
 その色が似合うと決めてくれたのは、あのお洒落な従兄だと隼人も知っているが。それ以外ではと言えば、『葉月の色は』と聞いて水色を選びそうな男など、あとは一人しか思い浮かばない。その男が散々葉月を水色で飾っていたのだろう? だから……彼と離れようとした葉月は『水色』にも近寄ろうとしなかったのだと。
 だから夏に彼女から『水色は当分卒業』と聞いた時、本当に離別しようとしている彼女の姿に恋人として安心した反面……。なんだか彼女の歴史を一つ奪ってしまったかのような残念な気持にもなった。

 それに本当は隼人も思っている。
 葉月には、水色がとても似合う。
 彼女の栗色の髪が優しく映える。
 その時に微笑んだ彼女の笑顔をふんわりと引き立ててくれる。

 だから本当は『卒業』だなんて言って、捨てて欲しくなかった。
 変わって欲しくなかった。

 それが、羽田で彼女を見つけた時に驚いた……。
 一目で判ったのも、彼女が黒いコートの下に鮮やかな水色の洋服を着ていたからだった。
 そしてやっぱりその色は彼女の栗色の髪を輝かせていたように見えたのだ。

 『卒業』──と言っていた彼女が、この日に、隼人と二人きりで出かけるという時に、水色の服を着てきた。
 その意味が、葉月に確かめずにこちらが勝手に解釈したとしても、隼人には嬉しかった。

『私の色。貴方と二人きりのとっておきの時間だから、着てきたの』

 そう言ってくれているように思えて……。
 本当はあの時、どれだけ抱きしめたかったことか……。

 そうして黙っている隼人を、じっと困ったように見つめて黙り込んでいた葉月が、やっと呟いた。

「でも、よく分からないけれど。自然と着ていたの。自然と着ていこうって思えたの」

 上手く言えないと言った、もどかしそうにしている葉月のその様子も、近頃よく見られるようになった姿のひとつだ。
 そんな時、彼女が上手に言葉に出来なくても、隼人にはちゃんと通じる。
 その煌めく瞳に、もどかしそうな唇が、心の中で溢れ出している熱い気持ちを一生懸命、なんとか伝えようとしているのが……隼人には分かるのだ。
 今もそれだった。自然と着ていたとしか表現できないウサギが、本当は『初めて水色を自分の物として、自分の手で受け入れたんだよ』──と、隼人はそう言ってあげたいのだけれど、だけれど、それを言うのは葉月なりに感じている感受性を邪魔する野暮なことになりそうで、言えなかった。

「嬉しかったよ。俺、葉月には水色を着ていて欲しかったから……。俺との時間を過ごす時に着てきてくれて……」

 『やっぱり似合う』──。
 自分が感じたことだけを伝えると、彼女が嬉しそうに微笑んだ。
 言わなくても通じ合っている。そういう事に喜びを感じてる愛らしいウサギの瞳に、隼人も微笑んだ。

「でも若草色も……好きになってきたの」
「あ、ああ。うん、それも似合いそうだけれど」

 葉月が頬を染め、満ち足りた顔で首にかけられているネックレスを握りしめる。
 そこにあるリングにはめ込まれている石は『若草色』で、隼人はその色と重ねた彼女の事も好きだった。
 隼人が贈ったリングをそこに肌身離さずつけてくれている彼女──。
 隼人が彼女を裸にすると、いつもそこにある。ない日はなかった。

 最初は肌身離さずにつけてくれていることを喜んでいた隼人だったが、近頃は、彼女の身体と肌を必死に愛している時に彼女の肌の上で跳ねるそのリングを少し気にしていた。

 葉月にとって首に提げている今でも、それは指につけているのも等しい行為。
 彼女はそれだけで幸せなのだろう。
 だが──隼人は徐々にそうは思わなくなってきていた。
 本来、あるべき場所にある物が、全く違う形で場所で跳ねるその姿が……。

「隼人さん?」

 そんなことを考えている隼人を、葉月が訝しそうに見ている。
 隼人もハッと我に返った。

「外を歩くのは明日にしよう。今日は風呂に入ってゆっくり休もうか」

 隼人の笑顔に、葉月も微笑みこっくりと頷く。
 今日の彼女は始終、頬が薔薇色──。
 見ているこちらも、心が温まってくる。
 なによりも甘い声で囁き、そして煌めく瞳を揺らめかせながら微笑むその笑顔は隼人を幸せにさせた。

 出会ったころ──。
 あんなに冷たい顔をして、固い微笑みしかみせなかった彼女が。
 今こんなに血が熱く巡り始めたように生き生きとして……。
 そして、隼人の腕に飛び込むように帰ってきてくれた。

 隼人の中で、今までのことが沢山巡ってくるのだけれど……。
 何処かでそれらの全てがもう、遠い想い出のように思える。
 痛くて苦しくて仕方ないことばかりだったかもしれない。

 それらが今日──すべてこの日のために、この時のためにあったのだと、思えてきた。
 葉月が隼人の胸に自分の力で帰ってきて飛び込んできてくれたから。

 だから──なにもかも『終わったこと』になった気がする。

「くしゃくしゃになっちゃった……」

 葉月がそれでもそのワンピースを着込んでいた。

「葉月、こっちを向いてくれないか?」

 座ったまま見繕いをする彼女が、声が聞こえるままに振り返る。

「うん。やっぱり似合う」

 水色は誰が決めた物ではない。
 葉月が自分で選んだ色になったと思った。
 隼人の一言に、彼女が嬉しそうに微笑んでいる。

 俺の恋人──。
 水色の恋人になった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夕食を前に、せっかくの温泉だから入りに行こうと言うことになった。
 荷物を整理して、二人揃って浴衣に着替えたりして、浴場へ行く準備を始める。

「……大丈夫なのか?」
「平気よ。タオルを肩にかけておけば、目立たないから」
「そうか?」

 今夜の宿は個別の露天はないホテルだった。大浴場にいけば露天はあるらしい。
 だから、温泉らしさに浸るなら、内風呂よりかは大浴場に行くと言うことになる。
 人目がある共同の浴場に、その痛ましい傷がある姿で行こうとする葉月。
 気持が駄目なら駄目で、無理することはないと隼人は思っている。
 混浴があるなら、人がいない夜にでも二人で入っても良いだろうが、それもなかった。
 だが、葉月はちっとも億劫そうではなかった。むしろ『温泉、温泉』と、愛らしい花柄の大判タオルに自分が持ってきたシャンプーを並べてすっかりその気だ。
 それでも隼人が半纏を羽織りながら、黙って眺めていると、ついに葉月がその視線に気がついてじっと見つめてきた。

「大丈夫よ。気にしないわ」
「ああ、まあ。俺だって気にしていないよ」
「私も気にしなくなったの。そうね、やっぱり航行で同じ女性と過ごした事は大きな影響を与えてくれたと思うわ」
「先生とテリーとも一緒に? 入浴したりとかしたのか?」
「うん。テリーは最初はちょっと気遣っていたみたいだけど、最後の方は今の隼人さんと一緒よ。全然平気な顔してくれていたわ」

 『そうなんだ』と、隼人はその元気な笑顔にホッとしてしまった。
 聞けばジャンヌに至っては、葉月の傷を触って『薄くはなってきているみたいだから、これからも気にすることない』と言ったとか──。なかなかチャレンジャーな女医さんだと隼人はおおのいた。医者の成せるワザなのか。
 ともかく、そうした『同性との共同生活』とは葉月にとっては『初めての経験』だったらしく、それが上手く行ったので、かなりの自信になっているようだった。
 でも隼人は『だけれどな……?』と言おうとして、口をつぐむ。
 それはテリーやジャンヌという葉月のことをある程度は知り尽くしている日常側にいる女性だからであって……。この旅先ではどういう目を向けられるか分からない。──そう言おうと思ったのだが、やめた。
 つまりそれは、やはり以前の隼人そのものだった。仕事でもプライベートでも、だいぶ彼女から一歩退いて、彼女が自分で決めてやることには遠くから見守って待つことが出来るようになったというのに。まだ、こういう『よりナーバスな問題』になると、彼女が思う以上に不安になってしまう自分がいる。

「さあっ、できた!」
「……」

 彼女にしてみれば、今の気持は『傷があって、傷がない身体の気持』なんだろうなと、思った。
 きっと、これも見守るしかないのだろうと隼人は思う。そして、それを大切にしようと。

「じゃあ、行こうか」
「うん」

 二人で揃って客室を出て大浴場へと向かう。
 北海道の日の入りは早いらしく、小笠原ではまだ明るい時間なのに、もう外は真っ暗だった。
 一風呂浴びて、葉月がより一層楽しみにしている夕食までゆっくり過ごすことにする。

「お夕食、なにかしら」
「蟹だろ、蟹。絶対に蟹」
「私はウニかなー」
「今日は熱燗だな」
「いいえ、その前に絶対に隼人さんはお風呂上がりに一杯、ビールを飲むわよ」
「お前もだろ」

 栗毛を結い上げた葉月が、浴衣姿で笑っていた。
 その日本人離れした顔で似合うのかと思っていたが、長い髪を結い上げたうなじが見えるその姿はなかなかのものだった。
 初めて見たので、隼人は時々葉月が話しかけてくるのもそっちのけで、あちこち見てしまっていた……かも、しれない。が、そこは絶対に誤魔化す、悟られないように知らない顔だ。
 その着物の袷からも……銀色のリングがちらちらと見え隠れして、揺れていた。
 本当に何処にでも着けていくのだなあと改めて思った。

「じゃあ、先に出た方がそこで待っているのよね」
「たぶん俺が先だな」

 そのまま葉月を見送った。
 さて──温泉から出てきた時、ウサギさんが今と同じ状態で楽しそうに戻ってきますように。
 隼人は祈るようにして、男湯の暖簾をくぐった。

 

 やっと人心地? ゆったりとした大浴場は湖が見渡せる浴場で、外に出れば露天風呂もあった。
 勿論、隼人はせっかくだからそちらを堪能しようと外に出た。
 も、ものすごい寒さ──! 飛び込むような勢いで露天風呂に入った。
 既に幾人かの宿泊客がいたが、皆、それぞれ静かに浸かっている。
 隼人も深い息を吐きながら、肩まで浸かった。

 ああ、なかなか。小雪の中の露天風呂、良いものだと、小さな星が見える夜空を見上げながらくつろいだ。
 さて──。ウサギはどうしていることやら。
 肩まで浸かりながら、隼人はやっぱり気になる。
 まあ、あの調子なら『ぜんぜん平気だった』となんてことない顔で出てきそうだなと思った。

(……変わったな)

 そう思う。
 この一年、本当に彼女は変わったと思う。
 前なら、こんなことはなかっただろう。
 もし、隼人が無理に連れだしていても、泊まる部屋に閉じこもっていたのではないかと思う。
 そう思うと、なんだか笑顔がこぼれてきた。
 あんなふうに『平気よ!』と元気な笑顔で向かっていく彼女の事が、やっぱり愛おしいと思う。
 ずっとこのままでいて欲しい。勿論、また前のような彼女に逆戻りしてしまっても『どんなことになっても』──もう、覚悟は出来ているけれど。
 やっぱり辛い思いをしている彼女よりも、今日のよう頬を染めては微笑んで楽しそうな思いをしている彼女であって欲しい。
 誰よりも願っている。彼女のそんな幸せを──。
 前は『二人一緒に幸せになりたい』と思って、あんな無理を葉月に突きつけて、手放してしまったのだが。今はもう『葉月が先に幸せにならないと、俺の幸せの意味はない』と思っている。だから、彼女が先だ。

 今日の彼女は、隼人の胸に心に真っ直ぐにぶつかってくる。
 まるでたった今、恋を始めたばかりのティーンのようだった。そんな少女が気持を持てあましているみたいな暴走的突っ込みをしてくるのは驚くのだが、そこがまた──いじらしくて愛らしい。だけれども、『見ている』、『ぶつかってこられる』こっちはヒヤヒヤする。あんなに純粋になられては『お兄さん』は変な大人の駆け引きもさせてもらえず、照れるしかないと言ったところだった。

「なんだ。結局、ウサギにやられているわけか……」

 隼人はちょっと悔しくなってくる。

 露天を楽しんだ入浴を済ませて、外に出たがやはり葉月はいなかった。
 浴場前にある休憩場。そこの自販機で清涼飲料を一缶買って、涼むことにする。

 あれで結構、ウサギの入浴は長いのだ。丘のマンションでも『それが趣味か』と最近思うぐらいに、葉月の入浴は長い。あちこちをきちんと手入れしているのだ。それでも前はあそこまでは念入りではなかったと思うが、やはり近頃の女性感覚を備え始めた葉月は、身体の隅々まできちんと手入れを施している。なんでも御園の祖母がそう言う女性だったらしく、葉月もそこは幼い頃良く目にしていたし、祖母に『そういう女性でありなさい』と叩き込まれたのだと言っていたことがある。それを『今まではおろそかにしていた』と言うのだ。隼人にしてみれば今の方が『そこまでするか? 早く出てこいよ』と言いたいし、前の方が普通だったと思う。
 まあ……お陰様で。その手入れが行き届いた綺麗な肌の身体を頂いて、ちゃっかり堪能している男になるのだが。

 だが、思ったより早く葉月は出てきた。
 やはり人目のある浴場では、自宅と同様の時間をかける訳ないか……。
 いや、それよりも本当に一人で共同の浴場に入って大丈夫だったのかと、その不安の方が先立ってきた。

「待った?」
「……いや、俺もほんの少し前に出ていたところだ。あ、葉月も何か飲むか?」
「うん」

 いつもの笑顔だった。
 隼人が座っていた向かいの椅子に葉月が腰をかける。
 側にある自販機から、隼人は自分が飲んでいるものと同じ物を買って、葉月に手渡した。
 葉月も笑顔で受け取る。

「隼人さんは、露天風呂に入った?」
「え? ああ。入ったぜ。だけどあれ、入るまでが厳しいなー。むちゃくちゃ寒くて飛び込んだと言ったところだな」
「そうなの。私は無理だったわ」
「……そうか」

 『無理だった』──。そう言った笑顔がちょっと無理をしているように見えた。
 そして葉月の顔がちょっと曇る。入りたかったけど入れなかったようだった。

「誰もいなかったんだけど。だからこそ外に出るのがなんだか怖くなって」
「いいじゃないか。めちゃくちゃ寒かったぞ」
「……でも、大きなお風呂、気持ちよかったわ。ああいうの、もしかすると初めてかも!」
「葉月……」
「タオルをね、こうして肩をすっぽり覆ったら全然見えなくなるし、私も気にならないし。周りのおば様達もちっとも気づいていなかったわよ」

 それだけで、大きな進歩。葉月はそう言いたいらしい。
 そして、やっぱり嬉しそうで『綺麗な夜空を見ながらのお風呂。それも大きなお風呂。かなり贅沢。もうちょっと入っていたかった』とかかなり楽しかったようだ。
 もう……今すぐ、隼人は抱きしめてあげたくなったぐらいだ。
 だから、そんな風に頑張った彼女に言ってみる。

「じゃあ、次は露天に挑戦だな。いつかは葉月と一緒に入りたいなー」

 少しずつ出来る事からやってみたらいい。
 そう言う意味で何気なく言った言葉は、葉月にもきちんと通じたようだ。

「うん。次はね……」

 そして葉月も。出来る分だけ出来たからそれで良いと分かっているようだ。
 ひとしきり、そこで涼んで二人は部屋に戻る。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夕食は豪勢な創作和食。
 北海道の食材を使った期待通りの料理に、二人揃って大喜びで楽しむことができた。
 その食事を終えて、二人は窓辺にあるテーブルに向かい合って座った。

 食事で呑んでいた日本酒を、二人揃って御猪口を手にして味わう。
 時々、葉月が楚々と浴衣姿で注いでくれる。

「本当に雪、いつでも降るのね」
「うん。明日はそれでも大雪ではないみたいだからな」
「明日は?……その確かめに行く日なの?」

 隼人は『ああ』と答え、御猪口に入っている酒を飲み干した。
 葉月が何か聞こうかという顔をしているが、葉月も葉月でそこは隼人の気持ちとしてそっとしてくれているようだ。
 明日──。そう隼人としてはそこに立った時に、葉月と一緒に感じたいから、今は……あれこれは言いたくはない。
 それを目の前の彼女も分かってくれているのだろう。

 彼女も御猪口を最後まで傾けて、呑みきったようだ。
 そして、あくびをひとつ。
 それを見て、隼人は御猪口を置いた。

「俺、もう一度、風呂に入ってくる」
「え? ここのじゃなくて?」
「ああ。入ってくるだけ。やっぱりせっかくだからなあ。葉月も行くか?」

 だが葉月はやっぱり『もういい』と首を振った。
 隼人はタオルを片手に、部屋を出ようとする。

「すぐ帰ってきてくれるでしょう」
「ああ、勿論。長い夜の為に、まずはもう一度身体を綺麗にしておかないと? お嬢さんを待たせませんよ」
「な、なに!? そういう意味じゃないわよっ」

 真っ赤になった葉月を笑って、隼人はすっと外に出た。
 そして本当にもう一度大浴場に向かって、一風呂。
 自販機で缶ビールを買って、そこで一缶空けた。

 ……そろそろ、いいだろうか?

 隼人は頃合いを見て、部屋に戻った。
 すると、既に敷かれていた布団の上で葉月が眠っていた。
 待ちきれなかったかのように、掛け布団の上、そのままに。

「やっぱりな。寝ると思った──」

 隼人はそっと笑いをこぼし、静かに足音を立てないように部屋に入った。
 ──実はそのために、ワザと外に出たのだ。
 今夜は葉月を眠らせたいと思っていた。

 飛行機の中でも、先ほども、『夜は長い』とかなんとか冗談を飛ばしていたが、それは本当に冗談。
 今夜は、眠らせるつもりだった。
 案の定──。ウサギは隼人がいなくなった途端に、眠りについたようだ。
 先ほど、眠たそうに御猪口を傾けてはあくびを繰り返していた彼女。それでも『せっかくの隼人さんとの時間だから』と頑張っているのが分かったものだから。きっとずっと起きているような気がしたのだ。

 隼人はそのまま、掛け布団を引っ張り、彼女の身体の上にかけた。
 そして自分は『もう一杯』。
 夜の寒さが増してきて、キラキラとした雪がちらついていた。
 それを眺めながら、窓辺で一人──。缶ビールを傾ける。

 ウサギの寝息が聞こえてくる。
 帰ってくるまでにいろいろあったのだろう。
 今夜、安らかに眠ってくれたらいい。

 ──明日、隼人は目的の場所に葉月と一緒に向かう。  

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