-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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13.雪のザナドゥ

 この日は晴天。
 十二月の澄み切った冬の空に、真っ直ぐに飛行機が飛び立つ空港。

 二人の旅の行く先は──『北海道』。
 冬の北海道だ。

 思いつかなかった。
 それにまさか帰ってきてこんなに直ぐに?

 まだ呆然としている葉月は、ただ隼人にひっついていつの間にか千歳便に乗り込んだと言う感じ。
 いつの間にか隼人に窓際の席に座らされ、彼が上の棚に荷物を詰め込んでくれているし──。

「おい、大丈夫か? ベルト締めていないじゃないか」

 座っても呆然としている葉月を見かねた隼人が、『いい加減覚悟しろ』とでも言いそうな顔で隣に座り、シートベルトまで締めてくれる。
 ──まるで子供だった。そして隼人は、そんな小さなお嬢ちゃんを連れているパパみたいだった。

「そこまで驚かれるとはな」
「……航行から帰ってきてから、驚きの連続なんだけど」

 葉月がやっとそう呟くと、隼人が隣で急に楽しそうに笑い出した。

「あれだろ、あれ! 達也と泉美さんとお母さんだろ!」

 葉月はまだ唇が上手く動かなくて、こくこくと頷く。
 それにも隼人が抑えた声で笑っていた。

「惜しいなー。俺も、そっちの事で驚く葉月も見たかったんだけどな」
「──リボン作戦ってなに。皆が知っているし」
「え──」

 驚かすなら、こっちもかなり驚いたわよ。と、葉月は冷めた目つきで隼人を見つめた。
 あんなに周りの人間を巻き込んで実行していたなんて……。『俺達二人っきりで旅行に行きます』と大々的に公言してきたようなもの。
 葉月がそこを無言で責めているのが、隼人も分かったらしく、『──らしくなく触れ回った』事は、彼自身もちょっと照れくさいようだった。

「ええっと。そうでもしないと休暇が取れないじゃないか。アメリカ隊員の冬の行事に合わせた長期休暇の調整を取らないと。一週間なんて」

 隼人のその照れている様子を見ると、本部員達にかなり冷やかされたのではないかと、葉月は感じた。
 それに『大佐と中佐』としては、かなり思い切った休暇の取り方だ。そこを大佐嬢の葉月にも相談無しに突っ走った事は『側近』として反省している様子。
 葉月はそんな戸惑う隼人を見て、ちょっと『仕返し』出来たかなと、ひっそりと微笑んだ。

「それで? 何泊するの? 北海道の何処に行くの? それもまだ教えてくれないの?」

 シートにやっとゆったりを身体を任せた葉月を見て、隼人も楽しそうな笑顔に戻る。

「どうする? 知りたいなら、教えるけど。ミステリーツアーにしたいなら俺にお任せを」
「んー、じゃあ。質問。温泉?」
「ああ、温泉。いいだろう」

 葉月は笑顔でウンと頷く。
 雪の温泉なんて、初めてと……。

「札幌は行くの?」
「ああ、最後にな。札幌観光で一泊、翌日は小樽散策をした後、千歳へ直行で帰る予定」
「え? じゃあ今日は?」
「千歳を降りたら、乗換駅に移動。そこで『スーパー北斗』に乗り換え──。さて、どこでしょうか」

 まだミステリーにすると返事はしていないのに、お互いにその傾向で楽しんでしまっていた。

「まあ、でもこれ。参考にしたらいい」

 そろそろ離陸のアナウンス。
 話もそこで切り上げて、隼人が手に持っていた雑誌に文庫本の中の一冊を葉月に差し出した。
 北海道専門の旅行雑誌だった。あちこち折り目がついているので、それが『ヒント』らしい。
 葉月もそれを心躍らせながら受け取った。

「それを見て、行きたいとか、食べたいとかあったら教えてくれよ」
「うん、有り難う」

 キャビンアテンダントの女性達が離陸前のチェックで客席を見回り始めていた。

「やっと離陸だな。千歳に着いたら、昼過ぎているな」

 眼鏡をかけたままの隼人が腕時計を見る。
 夏に腕にしていた腕時計。
 葉月はそれを見て、自分は耳たぶをそっとつまんだ。
 あの時にもらったピアスはずっとつけたまま。あれから替えたことがない。今日も特別なお出かけだけれど、替えは持ってこなかった。
 そして……水色のニットの下には、いつもの『リング』。
 あの日のまま、何も変わらずに揃っていることが葉月には嬉しかった。

 今日の彼は、ハイネックのカットソーに、真っ白で柔らかいニット素材で出来たジップアップのカーディガンを襟を立てて着込んでいる。
 なんだかいつもマンションでラフにしている彼とは違っていた。ちゃんとしたお洒落。隼人らしくない気もするけど、似合っている。
 彼に白はとても似合う。

「どうした?」
「ううん。久しぶりだから、じっと見ていただけ」

 葉月が笑顔でそういうと、急に隼人が驚いた顔。

「な、なんだよ……。そんなに見なくても嫌と言うほど一緒にいるだろ」
「うん、嫌になるほど一緒にいたい。まだぜんぜん足りないもの」

 それにも隼人がもっと驚いた顔をして、ついに顔を背けてしまった。
 ちょっぴり耳が赤くなっているのを見て、葉月は小さく笑いをこぼした。

 ついに機体が動き出す。

 隼人の話では、本日の北海道札幌の気温は氷点下2度。葉月は身を震わせる──。自分が持ってきたもので防寒が間に合うだろうか? さらに聞けば、数日前にかなり積もったのだそうだ。それにも葉月は震え上がった。
 せっかく日本海を抜け出して帰ってきたのに。また北国に逆戻りだ。

 だけれど──海原には雪は積もらないけれど、今度は白銀の世界が見られそう。
 いつも温暖な土地に住んでいた葉月には、それは珍しい景色。
 葉月は雑誌を抱きしめて、その今から迎えるだろう銀世界に思いを馳せる。

 どこまでも真っ白な世界。
 どんな気持ちで迎えるだろうか……。

 走り出した機体。
 いつもは自分が操縦しているけれど、今日は乗っている。
 隼人と一緒に飛行機に乗るのは、これが初めてではないのに。なんだか初めてのような感覚。
 瞬く間に過ぎていく窓の景色を眺めた後、葉月はふと目を閉じた。聞こえてくるのはエンジン音。そのエンジン音が高まっていく中、もうすぐ機体が陸を離れ、ふわっとした感触が身体に感じられるはず。
 ──その時だった。肘掛けに腕を乗せてる葉月の手の上に、隼人の手が重なった。

「今から俺と葉月、ふたりきりだ──」

 彼の手先が葉月の指先を優しく包んだかと思ったら、次にはぎゅっと握りしめてくれる。

 ──機体が宙に浮いた。
 今、二人は一緒に飛び立った。

 今から私達は二人きりで、『真っ白なザナドゥ』に向かうのだって。
 黒く煌めく隼人の瞳をみつめながら、葉月の胸はもう……熱くなって、張り裂けそうだった。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 機体が上空に落ち着いて、葉月はひたすら北海道観光の雑誌を眺めていた。
 葉月が気にして見ているのは、隼人が折り目を付けたページ。
 札幌の市内観光、小樽、それから函館、そして登別温泉に、洞爺湖温泉に、定山渓温泉に……。どこもかしこも有名どころは折り目が付けられているが、どうやらあまり北へ行くようではないことは、判った。だけれどだった。

(これ、全部行く気?)

 確かに日数はたっぷりあるけれど、北海道の一部とは言え、そんなに廻ること出来るのだろうか? と、葉月はちょっと不安になって隼人をちらりと見つめた。
 彼は既に、いつも通りに眼鏡の横顔で文庫本を読みふけっている。

「なんだ。質問か?」
「え、ううん……」

 隼人がニヤリと口元を上げた笑みを見せた。
 『どうだ分からないだろう?』と言っているように聞こえて、葉月は強がってそっぽを向ける。
 葉月の耳に、彼の楽しむような小さな笑い声が届いた。

 そのうちに、機内のドリンクサービスでキャビンアテンダントの女性達がエプロン姿で回り始めていた。
 葉月と隼人の側にもやってきて、隼人がコーヒーを頼み、葉月はオレンジジュースを。
 それを手にして窓の風景を眺めていると、隼人の視線を感じて、振り返る。
 そこに葉月を笑顔で見つめている彼がいた……。

「あのな。今回の旅でひとつだけ言っておきたいことがあるんだ」
「なに」

 笑顔ではあるけれど、急にそんな改まったように言い出されると、何があるのかと葉月は構えてしまった。
 けれどそれは一瞬──。彼の穏やかなまま崩れない笑顔を見ていると、何があっても大丈夫と思えてきて、葉月も笑顔で待ってみる。

「そんなにあちこちは廻らない。二人でじっくり過ごしたいと思っている。観光は重視していない。ごめんな」
「ううん。私もゆっくりしたいから、ぜんぜん構わないわ」

 葉月は膝に置いている雑誌に視線を落とした。
 これだけ迷って考えていたみたいなのに。だとしたら、隼人がそこを重点にした『決め手』とは何なのだろうと思った。

「葉月にゆっくりとしてもらいたいというのも俺の目的なんだけれど。俺、どうしても行きたいところが出来たから」
「そうだったの? 隼人さんが行きたくて、北海道にしたの?」

 隼人がこっくりと頷く。
 『北海道』に決めたのには、彼自身が『行きたかったから』と聞いて、葉月は驚く。
 いつだって自分のことは後回しにしてきた彼が『俺が行きたい』と思って選んだ土地だった。この旅は、彼にとって大きな意味が込められていると知って、葉月は急に気が引き締まる思い。

「あの……。どうしてかも、ミステリー?」

 恐る恐る聞いてみると、隼人が笑い出した。

「まさか! そこまで徹底していないよ。……ちゃんと葉月にも付き合って欲しいものだよ」
「私にも……」
「そう、葉月と一緒に確かめたい。いいや、俺が確かめたい。その俺の側で──」

 隼人がそこで一時言葉を止めたが、微笑んでいたその顔が急に真剣になり、葉月を強くみつめてくる。

「その俺の側で、見守っていて欲しい──」
「隼人さん……?」

 何を確かめたいのか──。それが察することが出来なくて葉月は首を傾げたのだが、そこは隼人は口をつぐみ、そして顔すらも逸らしてしまった。
 まだ、言いたくないのだと、葉月にはそう思えた。

「分かったわ。私、貴方の側で一緒にそれを見届けるわ」

 今度は葉月から、隼人の手を包み込んだ。
 彼が『有り難う』と、眼鏡の奥の瞳を嬉しそうに滲ませる。
 葉月も暖かい笑顔が自然と浮かんでいた。

 この旅は楽しむ旅だけではないようだ。
 二人にとって、沢山の意味があるように思えてきた。

 でも──。それがとても楽しみだ。
 私達は、どのようなものを見つけて帰ってくるだろうか。
 甘いオレンジジュースを一口、口にして、葉月は窓辺の青空に微笑みかける。
 雑誌のあちこちの風景写真も、美味しそうなその土地の料理にも、とても心が躍るのだけれど──。

『すみません、毛布を貸していただけますか』
『はい、お待ち下さいませ』

 そんな彼の遠い声。

 やっと『糸』が切れたみたいだ。
 昨夜は眠れなかったし、隼人に会ってからも暫くは興奮状態だったのだろう。だけれど、ふっと切れたみたいだ。
 葉月はいつのまにか、まどろんでいた。

 彼が乗務員の女性に毛布を頼んで、丁寧に身体にかけてくれたのすら、気が付かなかった。
 だけれど、葉月の手は本を読んでいる彼の手をずっと離さなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『葉月……』

 そんな隼人の声で、葉月はふと目覚める。

「もう着陸だ」
「え……?」

 そこで初めて、寝てしまったのだと気が付いて、葉月は起きあがる。

「やだ、もう……。せっかく隼人さんとの時間。話したいこといっぱいあったのに……」

 『勿体ない!』──葉月が、小さくこぼすと、また隼人が笑っている。

「寝ると思っていたよ。だいたいにして、昨日、航行から帰ってきたばかり。しかも昨日の今頃は沖縄だったんだろう。一日で南から北だ。なのに、こうした計画を立ててしまったからな。疲れさせるだろうなと心配していたんだ。少しでも眠ってくれた方が俺は安心だ。良く眠っていたみたいだから、良かった」

 確かに、昨日も沖縄から帰ってきたばかりで、夜も眠らずだった。寝てしまって当然だったかもしれない。
 それに、隼人の側に落ち着いたらなんだか身も心もぽかぽかと暖まってきたみたいに気持ちが良くって……。それでついうとうとと。
 隼人はそう言うけど、やっぱり『勿体ない』。いろいろと話したいことがいっぱいあったのに……。葉月がそうして溜息ばかりついていると、隼人が『着陸だからベルト閉めろよ』と、また葉月のベルトを確認する。今度は自分でちゃんと締め直した。

「そうそう。次の特急でも眠っていていいかなら」
「な、なんでよ。ますます勿体ないじゃない」
「──夜、寝させないから」
「!」

 さらっと言い放った隼人のその顔。また余裕げにニンマリとしていて、葉月は唖然。

「な、何言い出すのよ」

 隼人は赤ウサギになったと笑っている。だけれど今日の彼は容赦ない。今度は葉月の耳元で可笑しそうに小さく囁いて、楽しそうだった。

「勿論、疲れているなら、寝ても良いぞ。俺、勝手にするから」
「や、やめてよっ。そんなこと」
「そうはいくか。だいぶ我慢しているからな。俺、たまって・・・」

 葉月は慌てて、隼人の口を塞いだ。
 キャビンアテンダントの女性がやってきて、毛布を回収してくれる。
 隼人は流石にそこでは葉月から離れたが、なんだかわざとらしい澄まし顔。そしてその女性が去ると、また葉月を見下ろしてニンマリ。変な意味でゾッとしてきた。いったい今夜……どうなるのだろう!? と。

 だけれど……。
 そんな冗談なのだけれど。
 密かに身体が熱くなってしまった。
 一人で恥じらっている葉月の事すら、隼人は見透かして楽しんでいるように見えてしまう。
 ちょっと憎たらしい。
 そんな隼人のからかいで、すっかり目覚めてしまった。

 機体が徐々に高度を下げ始めたのを感じて、葉月は窓辺に目を向けた。
 羽田を出てきた時と違って、今は雲に囲まれている。窓の外は灰色かかった白い雲ばかりだ。

「風、強そうだな」
「雪、降っているのかしら」

 二人で一緒に窓に身を乗り出すように近づけた時だった。
 雲がサッと切れて、下界の景色が開けてきた──。
 二人揃って『わあ』と一声。
 一緒に顔を見合わせたが、その時は一緒に感動したという笑顔を揃えていた。

 真っ白な大地が広がっていた。
 どこまでも続く大地は、本島でも小笠原でも滅多にみれる物ではない光景だ。
 その何処までも続く大地が、雪で真っ白なのだ──。

「すごいな! 同じ日本とは思えない」
「本当……」

 平地から山並み、そして小高い丘に並ぶ木立の成り立ちまで。全てがこの土地特有の物なのだと思えた。
 白く平たい大地と枯れた木々の茶色の風景の味わいは、どこかユトリロの絵を思わせる。
 これが北海道──。

 いつも珊瑚礁の海が見えるマリンブルーの海に囲まれている生活。
 灼熱の太陽に、真っ赤な南国の花。
 それらの中で潮の匂いに包まれて、機体の油の匂いを滲ませた甲板での毎日──。

 それを思うと、別世界だった。
 だけれど、隣には愛しい彼がいる。
 着陸を前にして、彼がまた、手を握りしめてくれる。葉月もしっかりと握り返し、微笑みあった。
 本当に二人きりで、この別世界にやってきた──。
 今、葉月はそれを実感していた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ──無事に、新千歳空港に着陸。
 搭乗している客が慌ただしく機内を出る準備を始め、早い人はもう通路を出口へと歩いている。
 隼人と葉月はマイペース。沢山の人が通り過ぎてから席を立ち、隼人が荷物を降ろしてくれた。

 キャビンアテンダントの女性が出口で綺麗なお辞儀の挨拶をしてくれて、二人は乗ってきた飛行機を後にする。
 ──その途端だった。

「な、なんだか寒い……!」
「これでも室内だぞ。建物の中は暖かいらしいぞ」
「そうなの〜? でもすごい雪じゃないっ」

 葉月が指さした外は、横殴りの雪が降っていた。
 もうそれはやっと抜け出してきた日本海の雪を思い出させるほどの──。

「あー。たぶん……北海道では当たり前なんだ。いちいち驚くなよ」

 隼人は最初に『すごいな』と言ったきり、あとは淡泊な表情で『これが当たり前』なんて顔ばかり。それでさっさと前に行ってしまう。
 あー、そう言えば……。こういう人だったかもと、葉月も思えてきた。ここでふと思う。毎日、毎日『大佐と中佐』。職場でそれは当然のことで、プライベートでマンションにいても、その『仕事関係』というのは綺麗に払拭されることはなかったかもしれないと思った。
 と、なると? 今回は本当に『葉月と隼人』なのかなと思えてくる。
 淡泊に行ってしまった隼人の背中を見つめ、葉月はなんだかとても懐かしい気さえしてきた。フランスにいた頃、隼人はこういう淡々とした人だったと……。
 でも──。と、葉月は耳たぶのピアスをそっとつまむ。
 淡々としてるようで、本当はとっても情熱的でもあるのだって……。

「こら。ちょっと油断していると、もう離れているんだな。ちゃんとついてこいよ」
「はあい」

 振り向いたら葉月がいないのに驚いたらしい。
 隼人の背に追いつくと『まったく油断も隙もない』とぶつぶつ言っている。
 葉月は可笑しくなってそっと彼の後ろで笑っていると、急に隼人が立ち止まった。
 ふと葉月が首を傾げている間に、彼が旅行バッグの中から何かを取りだした──。

 ふわっと葉月の首下に何かが舞い降りてきた。
 なんだろうと、見下ろすと……。とても綺麗な若草色のマフラーがかけられていた。

「これ……」
「横浜に帰って、買い物している時に見つけたんだ。一目で葉月の色だと思った」

 もしかしてカシミア? とても手触りが良くて柔らかいし、薄くても暖かい。
 柄も何もないけれど、とても綺麗な若草色だけ。隼人がくれた指輪の石と同じ色。
 隼人がくれた『葉月色』。

 側にある窓に映る自分を葉月はみつめた。
 黒いコートに映える差し色で、その若草色が際だっていた。

「ありがとう。はや……と……」

 お礼を呟いたのに、そこにいると思った彼はいなかった。

「ほら、まただ。なにしているんだよ、早く来いよ」

 わざとなのだろうか? 照れ隠しの天の邪鬼。有り難うも言わせてくれないなんて──。
 葉月は『もう』とふてくされながら、歩き出す。

 今度はちゃんと、ついていく。
 彼の背中に──。
 離れないで……。彼についていく。

 

 建物の中は暑いぐらいで、葉月はすぐにコートを脱いでしまった。
 特急の発車時刻まで多少時間があるらしく、二人はとりあえず大幅にずれてしまったランチを軽く取ることにした。
 それにしても新千歳空港も広い。ありとあらゆる店舗が並んでいた。飲食店街も充実している。
 葉月がすぐに目に付いたのは『ラーメン屋』だった。北海道の有名どころのラーメン屋が集まってるというエリアを発見。だけれど隼人に『駄目だ』と言われた。

「なんでよー。北海道に来たのだからラーメンでしょ!」
「それは札幌で食べるんだ」
「だからここでも食べて、そこでも食べて……。それにこのお店の中に、函館の塩ラーメンもあるものっ」

 隼人が顔をしかめる。
 じゃあ、隼人さんは何が食べたかったのだと葉月が尋ねると、なんとも言ってこない。だったらいいじゃないかと葉月は荷物を持って一人でその店舗群に向かって行く。今度は隼人がついてくる。
 すると後ろから隼人の力無き呟きが聞こえてきた。

「あー。雪降る町中にあるラーメン屋に寒さを癒しに行くような風情で食べたかったのになあ」
「……」

 そういう『こだわり方』だったらしい。
 葉月もそこで立ち止まる。
 なるほど。葉月みたいに『食べられたら一緒』という訳ではないようだ?
 確かに、こうして一カ所に集まっている場所だとそこまで足を伸ばさなくても良いし、便利かもしれない──。でも、その町中にあるそのお店と地方の風情を味わうというのは、本店まで行く良さなのかもしれないと思えた。
 彼には彼なりの『夢』みたなものがあるのだと分かった。

「うーん、分かったわよ。その代わり、絶対に札幌で食べさせてよ」
「当然だろ。俺もそこは外さないぞ!」

 よほどのこだわりだと、葉月はちょっと苦笑い。
 でも──きっと、そういう隼人らしいこだわりが散りばめられた旅になりそうで、葉月はやはり楽しみと微笑んでいた。

 ではどうしようと二人で荷物片手に回っているうちに、良くある洋食喫茶に入ってしまっていた。
 いつものようにそこで、葉月はサンドウィッチの軽食をオーダーする。隼人は北海道らしい鮮魚をベースにしたクリームパスタをオーダーしていた。
 二人が座ったのは景色が展望できる窓際だ。窓際一面カウンター席になっているので、二人で肩を並べて座った。
 晴れた日には北海道の山脈が遠く見える窓らしく、窓には『ここにこの山が見えます』という山脈の線画が描かれていた。残念ながら雪が降っている今日は見えない。だが、先にコーヒーを一杯味わっている二人の目の前に……。

「お! あれ空自のF-15じゃないか!」
「本当だわ。あ、そうよ! 新千歳空港と滑走路が並んでいたはずよ」
「そうだ、そうだ。うわっ、この雪の中、飛ぶのかよ……!」

 目の前の窓をイーグルが一機、二機……六機ほど次々と飛び立っていった。
 なんだか隼人と一緒に妙に興奮。

「私達、変なの。なんでこんなに喜んでいるの?」
「本当だな。嫌と言うほど飛ぶ姿も見ているし」
「嫌と言うほど飛んできたのにね!」

 六機のイーグルが飛び去っていって、二人は一緒に『良い席だったね』と暫し笑い合った。
 まだ旅は始まったばかりなのに、こんなに楽しくて良いのかなと、葉月はコーヒーカップを笑顔で傾けていた。

「……なあ、葉月」
「なに?」

 だけれど、隣の隼人はイーグルが消えてしまった上空へと視線を馳せたまま、神妙な顔をしていた。
 葉月は楽しくて仕方がないのに。隣の彼はちょっと浮かない顔。葉月は何を思っているのだろう? と、訝しむ……。

「ああ、いや。俺から言うべき事じゃないか……」
「え?」
「うん、ごめん。ちょっと寂しくなっただけだ」

 戦闘機を見上げて、哀しそうに沈んだ彼。
 そして『寂しい』と力無く緩く微笑む隼人。
 それを見て、葉月はピンと来た。

 確かに──。航行から帰ってきたら、彼にはちゃんと告げようと思っていた。
 そして出来れば、隼人が年内に計画しているという旅で。
 二人きりになったら言おうと思っていた。
 だけれど──。その旅がこんなにいきなりだったから、葉月としては『いつ言おう』という心の準備もタイミングも計る間もなかった。
 それでも、今、ここでそんな時が来たのかもしれない。

 葉月は一時、俯いて……。
 そして、顔を上げたら隣にいる彼を真っ直ぐに見つめた。
 眼鏡の奥にある黒く揺らめく綺麗なその瞳をじっと見つめて……。
 隼人も分かっているようだ。そう、葉月も分かっている。航行に出かける前に、彼はもう察していたことを感じていた。
 それでも、今日、ここで──言う決心がついた。
 今、二人で戦闘機を見て心が和んだのが『タイミング』だったのだと──。

「あのね、隼人さん。私……ね」
「うん……」

 やはり判っているのか、隼人の落ち着いた相づちは『それ』を待っているかのように葉月には感じた。
 だから、葉月は今度こそ──。はっきりと隼人に告げる。

「私、コックピットを降りるわ。現役引退をするの」
「そうか……」

 暫く、二人の間に静かな沈黙が漂った。
 あれこれ言わなくても、なんとなくそれだけで解り合えているような間ではあるが、葉月はまだ言い足りないし、隼人もまだ聞き足りない様子だった。
 隼人から切り出してきた。

「よく……決意したな」
「うん」
「未練はないな」
「ないわ」

 そこでまた、隼人が黙ってしまう沈黙が戻ってくる。
 けれど、葉月は今度は笑顔で彼に向かった。

「もう戦う場所は他にあるの。他に見つけたの。ううん、戦うのではなくて……私、私……」
「戦うのではなくて? なんだ?」

 流石に本人を目の前にして言えなかった。
 他の人にははっきりと言えたのに……。
 『貴方の子供が欲しいのだ』と、言えない。まだ、言えなかった。
 まだ昨年の流産の痛みは、葉月よりもずっと隼人の方が引きずっているように思えたから、葉月の一方的な望みになるのではないかと……。

「えっと……。まだ言えないわ。ごめんなさい」

 隼人がほうっと溜息をついた。

「まあ、いいや」
「でもね。もうあそこで命を削るような戦いは要らなくなったの」
「そうか」

 そこは隼人はホッとしたような笑顔を見せてくれた。
 だけれど、やっぱり葉月が最後に言い切れなかった『理由』を知ることが出来なくて、隼人は腑に落ちない顔で、コーヒーをすすっている。

「──もう少し、時間をくれる?」
「ああ、いいよ」

 もういつもの穏やかな余裕ある笑顔に戻っている隼人。
 それだけで、葉月はホッとした。
 彼も分かっているのだろう。今すぐでなくても、いつかその時は必ずやってくる。
 それは、二人がいつまでも一緒にいるはずだから、いつかはその時がやってくるのだと。『待てる』という気持ちに彼は自信を持っているのだと。
 彼のどこまでも穏やかで落ち着いている笑顔が、そう言ってくれている。

「……航行に行く前に、隼人さん言ってくれたわよね」
「ああ、言ったよ。『最後は俺がお前を飛ばす』とね。そのつもり、誰にも譲る気はないからな」
「私、貴方のためにも飛ぶからね」

 隼人は『うん』と頷いてくれた、今度は透き通る笑顔で。
 葉月も柔らかに微笑み返していた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 食事が終わり、空港内にあるJR線の駅へと向かう。
 そこへ向かう途中も沢山の店舗の前を通っていった。
 北海道の様々な物産が並べられている店先は、かなり興味をひく。

「あー。あのお菓子、美味しそう」
「帰りに買えばいいだろう?」

 また、そういう男性的な淡泊な返事が返ってきた。

「いや! 特急の中で食べるのっ」
「ああ、分かった。じゃあ、俺、トイレに行って来るから、その間に好きなだけ見繕え。言っておくけど俺はあまり食べないから自分で食べられる分だけ買えよ。これに関しては荷物持ちは拒否させて頂きます」
「結構でございます」

 葉月がツンとして返事をすると、隼人はそれでも可笑しそうに笑い、『この店の側にいろよ』と念を押して出ていった。
 まったく──。本当に子供扱い。それぐらい分かっているわよと葉月はむくれながらも、次には店先の洋菓子に目移りしていた。
 隼人がああいう釘を差したのも解る気がするほど、どれもこれも食べたくなってきた……。が、ここは葉月の大好物である『生チョコレート』を一箱だけ買った。後は帰りにいっぱい買おう……なんて密かにリサーチ。

 周りは沢山の土産店が並んでいるが、少し離れた区画には、女性の葉月が目をひく雑貨店もある。
 ラベンダー色の雑貨が目に付くお店に、ガラス工房のお店。
 空港とは思えないほど、ショッピングとして回りたくなる。そんなものだから、つい……その店先に寄って行ってしまった。

 店先に入っただけで、そそられる物が沢山あって、目が輝いてしまう。
 ああ、でも……隼人が戻ってくるまでに、先ほどの店まで戻らないといけない。葉月はその綺麗な雑貨店を後にしようとしたのだが──。

(あ……)

 ある物が目について、葉月はそれを手に取っていた。

 

「やっぱり! ここだったか……!」

 隼人に見つけられた時には、葉月はその見つけた物を購入し鞄に詰め込んだ時だった。

「つい。綺麗な物が沢山あったから……」
「だと思った。あそこにいなかったらここだろうと、トイレに行く前に思ったぐらいだ」

 ──よくお見通しで。葉月は隼人にぶつぶつと文句を言われながら、また後をついていく。

 南千歳駅から『スーパー北斗』という特急に乗り換える。
 葉月としてはそれが何処へ行く方向の物なのか未だに分からない。
 ただひたすら隼人の後をついていく。
 そのうちにその特急に乗り込んだ。

 その特急の席に二人で並んで座る。また隼人が窓際に座らせてくれた。
 列車も静かな銀世界の中、走り出した。
 今度は横窓一面、目の前に銀世界が広がっている町並みが次々と流れていく。

「本当に真っ白ね!」
「積もったばかりらしいからな。まだ汚れていないんだ。もしかしたらドンピシャの時期だったかもな」

 真っ白な世界が、私達を待っていてくれたのか。
 それとも、私達が真っ白な世界へ辿り着けるだけの『運』があったのか……。
 どちらにしても、その世界は本当に別世界に来たようなものだった。

「北海道にして良かった。俺達の日常とは真反対の世界だよな。なんだか違う世界に、葉月と来たみたいだ」
「……私もそう思っていたわ」

 同じように感じてくれていたことに、葉月は笑顔が隠せない。
 そんな満たされた気持ちで、葉月は先ほど買ったチョコレートの箱をテーブルに置いた。

「それしか買わなかったのか?」
「うん。隼人さんは要らないのよね?」
「なんだよ。それは美味そうだなと俺も思っていたんだよ。くれよ。一口くらい」

 『嫌よ』とごねながらも、結局二人で頬張った。
 そしてやっぱり二人揃って『美味しい!』と言葉を揃えていた。
 もう、笑顔しか出てこない。もうずっと笑いっぱなしのような気がしてきた。
 そうしていつまでも隼人と一緒にあれやこれやと他愛もない話をしては、見慣れない雪の景色を目にしては二人で『すごいね』と感動する繰り返し……。そのうちに、葉月が一人で喋っているのに気がついた。
 その時、隼人はただただ、あの穏やかな笑顔で葉月をじっと優しく見つめているだけだった。

「……葉月がそうして笑ってくれるだなんて。思い切って連れ出して良かった」
「隼人さん……」

 とても嬉しそうに見つめてくれている隼人の眼差し。
 その暖かい眼差しに、泣きたくなってくる。そして嬉しくて泣きたくなってくる。
 こんなふうに、私の幸せを喜んでくれる彼のその笑顔があまりにも暖かくて──。そしてその眼差しは何処までも真っ直ぐで、綺麗な黒い瞳が熱っぽく揺らめいていて……。もう、溶けてしまいそうだった。

 暫くそうして二人で見つめ合っていた。
 いつだったか、感じたように……。眼差しだけで抱き合っているような感覚に陥る。
 ここが列車の中でなければ、もう、彼に抱きついて……それで……。少しばかりはしたないぐらいの事を葉月は思い浮かべてしまっていた。
 隼人もそうだったのか、それとも葉月のそんな『熱』を感じ取ったのか。なんとかそこから逃れようとしているように視線を外してしまった。
 葉月もそこでやっと、思いとどまったかのように熱がふと下がる。それを見定めたかのように、もう、落ち着いている隼人が呟いた。

「──もういいかな。行き先は『洞爺湖』なんだ」
「洞爺湖。湖の側なのね」
「うん、有珠山も側にある」

 そこに隼人が確かめたい物があるのだろうか?
 葉月がそう頭に掠めた時、隼人がさらに言った。

「親父とおふくろの新婚旅行の土地なんだってさ。特におふくろが、望んだ旅行だったらしくて……。北海道をあちこち廻ったんだってさ。そのうちの一つが洞爺湖」
「! お父様と沙也加お母様の新婚旅行の……!」

 隼人が『うん』と、なんだか照れくさそうに頷いた。
 では、両親の新婚旅行先を廻るという事なのだろうか?
 その中に確かめたい物があるのだろうか?

 だけれどそこで隼人はまた黙ってしまい、外の雪景色をひたすら眺めていた。
 そんな隼人が窓の景色を見つめたまま、一言。

「初夏だったらしい。二人が行ったのは。列車に乗っていると、沿線は『蕗』がいっぱいで……。おふくろは沢山の新緑を眺めて『命の息吹を感じる』と、喜んでいたらしい」
「そうだったの。命の息吹……」

 あまり記憶がないという亡き母の姿を、隼人が雪景色の向こうに浮かべているのが分かる。
 今は雪に覆われて、その景色は想像することしかできない。
 だけれど隼人は、一生懸命、母が見ただろう景色を同じように感じようと眺め続けているのだと、葉月には思えた。

 そのままそっと葉月も静かに黙り込む。
 そして、またそこにある彼の手を握りしめた。

 隼人が窓辺に視線を馳せたままでも、そこは今日何度もそうしたように握り返してくれる。
 二人の手が指と指の間も隙間なく埋め込むように、しっかりと握り合う。

 いつまでも目に見えぬ北の遅い春の景色を、雪景色から息吹く緑に思いを馳せて……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 やがて二人はこの旅の第一目的地である洞爺湖駅に辿り着いた。
 千歳からそれほど時間はかからなかった気がする。

 列車を降りる。
 慣れない寒さが二人の身を縮こまらせ、一緒に震え上がった。

「い、行こうか……」
「う、うん……」

 隼人にもらったマフラーを巻いて、葉月はまた隼人の後をついていく。
 改札を通り、コンコースを抜ける。
 駅の外も雪景色だった。この地域一帯、ここ数日かなり降ったことがうかがえた。

「それでもここは道南だから、少ないと聞いていたんだけれど」
「そ、そう……? 私達にすれば、十センチでも大雪よ」

 十センチどころではない、ご立派な雪山が道路脇に積まれている状態。
 流石、北国! と叫びたいところだが、なにせ葉月は北海道に来るというつもりではない格好をしていたから、震えるばかり。
 だけれど、隼人が買ってくれたマフラーの周りはとても暖かく感じていた。

「い、急ごうか」

 隼人自身は、それなりの格好ではあるようだが、それでも彼も寒そう。口元を震わせていた。

「待って。隼人さん──」

 葉月の声に隼人が振り返る。葉月はそんな隼人の目の前に立った。

「これ……。私から……」
「──!」

 それは先ほど、新千歳空港で入った雑貨店で見つけた物だった。
 隼人の首にそれをふわりとかけた。
 真っ白いアラン編みのマフラーだ。

「お返し。さっきのお店で見つけたの……。真っ白な色、似合うと思って」
「俺に?」

 驚いて見つめているばかりの隼人の視線に、葉月はちょっぴり恥ずかしげに俯いた。
 そしてその巻きかけているマフラーの両端をまだ手にしている葉月は、それを隼人の首に巻く前に、そっと自分の口元へとマフラーの両端を引っ張った。
 隼人の頬が見えないよう隠し、自分の顔も外から見えないように。
 葉月はそっとそのままつま先を立てて、マフラーの囲いの中で、隼人に小さく口づける。彼のびっくりした顔と、固まった唇。それでも構わなかった。
 そして、葉月はそのまま隼人の首にちゃんとマフラーを巻き付けた。

「……は、葉月? ど、どうして」

 突然の口づけをくらった隼人は、驚くを通り越して、困惑していた。
 葉月はただ黙って、頬を染めているだけ。
 どうしてって。そうしたくて仕方がなかったから。
 自分でも分かる。もうなんだか周りが見えていなくて隼人しか見えていないぐらいになってしまっていると。
 今の小さなキスで、感じていた寒さも飛んでいった気がした。

「……ちょ、ちょっと来い!」
「え?」

 怒ったような隼人に手を引っ張られて、駅の端へと連れて行かれる。
 ああ、やっぱり怒られちゃうのかな? と、葉月もふと我に返ったが、後悔はしていない。
 雪が沢山積まれている人気のない脇道を見つけた隼人が、そこで立ち止まった。

「……どうかしている」
「……ご、ごめんなさい」

 顔をしかめている隼人を見て、葉月は後悔はしていないけれど、周りが見えていなかった事はやっぱり反省したのだが。

「俺もな」
「え?」

 葉月が巻いたばかりのマフラーを隼人がサッと解いた。そしてそれが葉月の頭を取り囲み、グッと引き寄せられる。
 隼人がかけていた眼鏡をサッと取り去り、怖いくらいの真顔で葉月をマフラーで包み込んで、唇を重ねてきた。

「……んっ。は・・や」

 小さいキスどころじゃなかった。
 いつもの彼らしい情熱的な熱っぽい口づけ。
 ……待ちに待っていた、彼との口づけ。

 でもそれでも一瞬、隼人は直ぐに離れてしまった。
 だけど、二人でそのまま見つめ合ってばかりいた。
 このままではもう……。どうでも良くなってもう一度口づけてしまいそう……。

「行こうか……」
「うん……」

 やっぱり隼人が先に、なんとか落ち着いて葉月の暴走しそうな心を引き留めてくれる。
 物足りない口づけ。
 だけれどきっと、どんなに長く口づけたとしても、今はたぶん『物足りない』と思うほどに、ずっとずっとそうしていたくなるだろう。
 隼人が眼鏡をかけ直して、マフラーをサッと片手で巻いた。

「さあ、行こう」

 隼人が『さあ』と手を差し出してきた。
 葉月もそれをそっと手に取る。
 冷たい指先が、葉月の指先を強く握りしめて、引っ張り始める。

 小雪がちらつく町並みを、隼人と一緒に歩き出す。
 真っ白な世界がなにもかもを忘れさせてくれそうな気がしてくる。

 私達の『白きザナドゥ』──。
 旅はまだ、始まったばかり。

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