-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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5.ほのか咲き

 二晩が経とうかという夜明け──。
 葉月の容態は一向に変わらない。
 時々不安定になり、両親である亮介に登貴子でも面会を閉ざされるのが続いた。

 その度に、一族は生きた心地がしない想いで、時間が経ち葉月が持ち直したという報告がくることを願いながら待つ。
 隼人もずっと、彼女の元には行けずじまいだった。

 一日経った今の方が、一番、ぐらついているような気がする。
 昨日より、彼女の命の火が消えかかっているような……。

(いいや。今、葉月はその危機を乗り越えようと……)

 たった独りで。また、たった独りで闘っているのだ。
 彼女の側に行きたい……!
 隼人はICUの方向に向かって祈る。そして葉月に意識を飛ばすように叫ぶ。

(行くな……。葉月、行くな……!)

「葉月、葉月……葉月……」
「大丈夫だよ、登貴子」

 登貴子はずっと泣きっぱなしで、娘の名を呼び続けていた。
 ……本当に駄目なら、医師から『最後のお別れ』のお呼びもかかるはずだ。隼人はそう勝手に考え、『まだ大丈夫なのだ』となんとか良い方向に考えるよう努める。

 何時間かして、医師がやってくる。
 『なんとか持ち直しました』と。
 皆のホッとした安堵の一息が揃った。

 隼人もがっくりと力を抜く。
 ある意味、これは危篤状態。その間、隼人もずっと身体中を強張らせ、力をめいっぱい入れているのだろう。
 この力……彼女に分けてあげたい。俺の力を、少しでも。なのに、それが出来ないもどかしさ。

 朝方、やっと面会の許可が下り、亮介と登貴子と……そして隼人と真一の四人で出向いた。
 待機室を出る前に、隼人は『義兄さんも……』と言おうとしたが、それを察知したかのように純一がまたスッと何処かに姿を消してしまった。

「あのね。きっとまだ『勘当状態』だって……。許された訳じゃないって思っているんだよ、親父」

 真一のその一言にハッとさせられる。
 だけれど、亮介はともかく、その『勘当』を強く言い渡した登貴子が、今は娘のことで精一杯。『許してあげてはどうでしょうか』なんて、隼人からもとてもじゃないが言えそうもなかった。それに義兄さん的には、隼人にそれをされるのも受け入れがたいものかもしれない。
 きっと彼なりに、自分のことは自分で始末を付けたいだろう。逆に隼人ならそう自分で思うだろうから。

 致し方なく、隼人は彼女の両親と甥っ子と一緒に、持ち直した彼女の元へ向かう。

「葉月──」
「葉月ちゃん……っ!」

 昨日よりもっと、哀れな姿になっているように見えた。
 頬に艶はなく、唇も水分を失って……彼女の中の潤いがなくなっていた。
 それはもう、急に歳でも取ったかのような姿。

 そんな変わり果てた娘に、そして若叔母に、登貴子と真一がすがりつくように飛びついた。
 まるで逃げていかないように、二人で捕まえると言った感じにも見えた。

「頑張ったわね。頑張ったわね。葉月、苦しいだろうけれど、負けちゃ駄目よ」
「葉月ちゃん、葉月ちゃん。聞いてる? 俺だよ、俺……。お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、隼人兄ちゃんもいるよ!」

 祖母と孫が並んで、葉月の手を一緒に握りしめる。
 二人は葉月の名ばかり呼んで泣いていた。
 それを見守る隼人は亮介と顔を見合わせ、一緒に俯いた。

「隼人君も、会いたかっただろう。きっと葉月も……」

 『話してあげておくれ』──と、亮介に背中を押される。
 だが、登貴子が葉月の手を握ったまま離そうとはしない。そこを押しのけてまで彼女に触れたいとは思えない隼人は、そのまま跪いている登貴子と真一の背中化から、葉月を見下ろして呟く──。

「葉月、独りじゃないよ。皆がいる……」

 そう言うと、登貴子も頷きながら『そうよ、そうよ』と……娘の手を握りしめ、隼人がそうしていたようにずっとずっと頬ずりをしていた。
 亮介も時折、葉月の頬を撫でたりして、『帰っておいで』と呟き続ける。

 だけれど、葉月の姿はもう……あの美しい水色の彼女ではなかった。
 昨日より、生気がなくなっている気がする。
 認めたくないが、どうしてもそんなふうに見えてしまい、そして気持ちが下へ下へと落ちていく。
 そんな重い重い暗闇へと引きずり込まれていくようで、隼人の心は昨日以上に乱れそうだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 二回目の朝を迎える。
 そろそろ皆、疲れを見せ始めている気がした。

「兄さん。申し訳ないが、一度、私は戻るよ」
「そうしてくれ。京介」

 兄の亮介が来るまで、葉月の父親代わりとして立ち回っていた京介が、一度、訓練校に戻ると言い出した。それを兄の亮介も勧める。
 京介が出ていった後、隼人の父も横浜の様子を見に一度戻ると言い出した。

 和之は、亮介に挨拶をすると『またすぐに伺います』と待機室を出ていこうとした。
 その入り口でたたずんでいる純一にも……。

「お兄さん。せがれをよろしくお願い致します」
「いえ──。お気を付けて……」

 父が既に『お義兄さん』なんて呼んで、彼に息子を頼むと頭を下げたので、隼人は『げ』と顔をしかめてしまった。
 それに父に見抜かれている気がした。今、隼人がどことなく心を寄せているのは、この義兄さんだと。そんなこと、自分でも解っているが自分だけにしておきたい気分のところ、しかも父親に見抜かれているとは、なんとも……。
 純一の顔を見ると、彼と目が合う。だけれど、彼はふいっと顔を背けて、またそこから姿を消してしまった。

(落ち着かない人だなあー)

 彼はじっと座って待ってなんかいない。
 つねにうろうろして、何処かを行ったり来たりしている。
 ……まあ、組織の頭にいるのだから、連絡など忙しいのだろうと思うのだが。しんみりと哀しむ間など、彼にはないようだし、彼自身もそうならないようにしているようにも見える。

「……ふう。眠ってしまったよ」

 そんな亮介の声。
 正面の長椅子に座っている夫妻を見ると、登貴子が肘掛けに顔を埋めるようにして眠っていた。力尽きたと言った感じだった。

「少しは休まないとね。葉月を待つのだから、こちらが倒れちゃいけないしね。隼人君も合間も見て、少しでも眠りなさい」
「……はい」

 昨夜は危篤状態が続いたので、眠っていない。
 そうだ、座ったまま、うとうとでも良いからそうしようか──。
 隼人は眉間をつまんで、ふとそう思った。

「亮介おじき、これ。使ってくれ」
「有り難う、純」

 純一が戻ってきて、毛布を手にしていた。
 それで隼人はハッとした。先ほどスッといなくなったのも、既に登貴子が眠りに入ろうとしていたのを見て、そうして毛布を持ってこようと気遣って出ていったのかと──。
 彼は皆の間に入ってくると言うよりかは、少し離れた場所にいて、息を潜めて見守っている気がしてきた。
 そして何かがあれば、サッと動く──『黒猫』。本当に黒猫の様な気がした。

 そして亮介も、まるで息子でも呼ぶかのように『純』と……。優しい微笑みを見せながら、彼が差し出す毛布を笑顔で受け取る。
 亮介がそっと、静かに、登貴子をくるむように毛布をかぶせた。

「伯父貴。俺が相談したことだけれど、進めても良いか?」
「しかし、葉月が……意識を戻さないと」
「意識を戻して、ある程度安定してからでは遅いと思う。今、『親父さん』は動けないだろう? 俺が動くから任せてくれないか」
「……純、すまないね。いつも」
「構うものか。俺がそうしたいんだ」

  純一は今はもう、『葉月が気がついたら』という段階に進んでいる。亮介の様子も、やっぱり既に『婿』だか『息子』だかと言った『一族の一員』という慣れたものだった。

「では、頼んだよ。純」
「ああ。では、早速──」

 亮介に『頼んだよ』と言ってもらえる男がここに……。『家族なんだ』と、改めて思わされた。
 隼人がそうして、一人で要らぬ考えを巡らせていると、純一に呼ばれた。

「澤村──。行こうか」
「え?」
「葉月の為の準備を始めるんだ。お前さんが先頭で動かなくてどうするんだ?」
「……えっと」
「お前、夫になるのだろう。来い」

 義兄から、『夫』と言う言葉が出てきて、隼人の方がヒヤリとしてしまった。
 だけれど純一にとっては、もう既に『当たり前のこと』のように、落ち着いていた。
 そんな義兄さんの様子にはなんだかいちいち敵わない。だけれど、彼のその思っていることも、思っている先も読みとれると、隼人も『それもそうだ』と同意してしまうことばかりだ。

 二人でエレベーターに乗り込んだ。

「あまり側を離れたくないのだけれど」
「分かっている。一時間もかからないだろう」

 彼が腕時計を、シャツの袖口をめくって眺める。
 黒い石のカフスボタンが目に付いた。
 彼によく似合っているカフスボタン……。
 彼は腕時計をずっと眺めていた。何かを頭の中で計算しているような様子に、隼人は声がかけられない。

 また一緒に病棟の外に出た。
 勿論、駐車場にある彼の車に向かう。
 運転席ではエドが待機していた。

「エド。外に出て彼に見せようと思うから、運転してくれ」
「イエッサー」

 ただつられるままに、隼人は純一と一緒に後部座席に乗り込んだ。

「遠いのかな?」
「いや、すぐそこだ」

 『すぐそこ』に、何しに行くのだろう? と、隼人は首を傾げた。
 だけれど、この基地医療センターの警備口を出て、このセンターの基地の塀をぐるりと半周して、本当にすぐそこで車が停まった。

「え? なんだよ。義兄さん」
「とりあえずの俺達の家だ」

 車が停まったのは、その塀の沿道にあるちょっとした住宅地。そこの道に面した少しばかり古い一軒家だった。そこからICUがある病棟が塀越しに見えるぐらいに直ぐ側だった。

「昨日、ジュールが買い取ったばかりだ」
「買い取った?」
「いつまでも待機室というわけにいかないだろう? 葉月の意識が戻るまでは、登貴子伯母さんにも亮介伯父貴にも、お前さんにも。たとえ数日でもここで寝泊まりなどをしてもらおうと思ってな」
「まじで……? それで『買い取った』!?」
「不動産なら、ジュールにお任せだ。大抵のことはやりのける」

 隼人は『うわ、マジで?』とおののいた。
 確かに少し古そうだが、ごく一般的な二階建ての一軒家。だが、それでも買うとなったら一般市民には直ぐに買えるようなものではない。それも昨日の今日で買い取ったなど、とんでもないことを実行している彼等におののいた。

「時代は過ぎている代物だが、中は結構、良かったぞ」

 純一がドアの前に立ち、インターホンを押した。

「俺だ」
『お待ちしておりましたよ、ボス』

 その声……! 隼人はハッとした。
 いつか聞いた声。いつかまた会ってみたいと思った声だ。

 そしてドアの鍵が開く音。ドアが開く。

「いらっしゃいませ。澤村様」

 そこに、黒いスーツ姿の金髪の彼が立っていた。

「またお会いできましたね。金猫さん」

 隼人が微笑むと、ジュールもにっこりと微笑み返してくれた。
 だけれど隼人の横で、純一が渋い顔。『金猫ってなんだ』と……。その上『黒猫より良さそうじゃないか』なんて、ちょっと納得できないと言った様子でぶつぶつ言いだした。

「なにをいっているのですか、ボス。澤村様も、その呼び方はおやめ下さい」
「その『様』も、俺……困るんだけれど」
「そうとしかお呼びできません。私達は……。お許し下さい」

 彼が丁寧に頭を下げる。
 彼等には彼等の中で決められたことや、貫きたい信条があるのだろう。それが分かるから、隼人は仕方がないかと諦めた。
 ジュールと挨拶を交わしている間に、純一はさっさと靴を脱いで上がってしまっている。隼人も後に続いた。

 玄関の直ぐ目の前が狭い階段で、上を見上げると二階の窓から光が射している。
 それを純一も見上げていた。

「二階に寝室を二部屋、整えておきました。あと全て、清掃済みです。キッチンはエドに任せております」
「うむ。いいだろう」
「居間も昨夜の間に、エドが東京のスタッフと共に整えました。昨日、買ったとは思えないほどに、整っていますよ」

 隼人はそんなジュールの報告に、目が丸くなるばかりだ。
 それにこの家。本当に昨日まで空き屋だったのか? と言いたくなるぐらいに、ぴかぴかだし、玄関の下駄箱には若いセンスを思わせるお洒落な花瓶にグリーンが生けてあるし、既に誰かが長い間暮らしてきたかのような雰囲気だった。

「お客様がそのリビングでお待ちです」
「分かった。澤村、行くぞ」

 ただ呆然としている隼人を見かねたのか、義兄さんに背中を押される。

「医者を紹介する」
「医者?」
「葉月が安定したら、医療施設の移転をさせる。軍の医療センターでは、治療に限りがあるから、民間のもっと整った病院に任せる。軍医もその意向で進めてくるだろうしな。その任せられる医師をエドが連れてきてくれたんだ。そこだと、だいぶ個人的な我が儘を聞いてくれるらしくてな。軍内だと俺達独自の警備もやりにくい」
「そんな条件を受け入れてくれる病院があるんだ?」
「だが、お前さんの許可がなければ、任せない方針だ」
「俺の……許可……」

 純一のその説明を聞きながら、リビングに向かった。
 そこまでして『お前は義妹の夫になる男だから』と、気遣ってくれているのがひしひしと伝わってきた。それに義兄さんは先へ先へと葉月が帰ってくる準備を進めていることに驚かされる。……これでは、隼人も葉月の側で嘆いてばかりいる場合でもないと、気が引き締まってきた。彼のように立ち回ることは出来ないが、そうして『ここはお前さんが判断しろ』と言われるならば、力無くとも隼人も『婚約者』として、頑張りたいところだ。

 日本のごく一般的な一軒家だから、すぐ目の前の扉だった。だが、扉を開けた向こうの部屋は、本当に……ずっと誰かが住んでいたかのように整えられている! カーペットもセンターテーブルも応接用のソファーも! 食器棚にダイニングテーブルまで! 一目見れば、そこは若い夫妻が住んでいそうなクールでスタイリッシュな内装に整っているのだ。隼人は『これがエドのセンス?』と、また目を見開いたまま絶句するしかない。──見事な内装で『俺、こういう部屋に住みたい』と思ったぐらいだ。
 だが、それどころじゃない。そこのソファーに、スーツ姿の男性が座っていた。

「待たせました」

 純一が現れると、その男性が立ち上がる。
 だが……そのスーツの男性! 隼人も良く覚えている男性だった。

「ボスは初めましてですね。そして『澤村君』は、お久しぶりかな──」

 ちょっとにやけている胡散臭い笑顔の男性。
 あの『50パーセントの希望』を隼人に教えてくれた『副院長』だった。

「先生の病院に……と、言うことですか?」

 純一が言っている葉月を今後任せる病院と医師──。それが彼と言うことらしい。

「あ、やっぱり僕みたいな胡散臭い医師では、お断りって感じだね」

 副院長は、そんなこと分かり切っているよと平然と言い除けていたが、隼人はなんとも言えなかった。
 あの時、どういうつもりだったか分からないが、この医師はなんとなしに葉月に好意を持っているようだったことを思い出させる。だが、それとは裏腹に隼人にとって大事な話を聞かせてくれた『恩』のようなものも既に持っていた。

「ほーら、エド。言っただろう? 俺は彼には気に入られていないのだよ。この話、断られても当然だと言っただろう?」
「ですけどね。山崎先生……」

 エドが彼を説得しようとしていた。彼は元より『成立しない話』と見ていながらも、エドのたっての願いで出向いてきた様だ。なるほど。またエドが連れてきたのかと隼人は納得。
 つまり、エドが日本にやってきて『一番頼れる医師、病院』と言うことなのだろう。二度も頼み込むというところに隼人はそれを感じた。
 だが、隼人に一度、気に障ることを自ら触れた経緯があっても、それでもその山崎医師もやってきたというところらしい。

「先生は、山崎さんと仰るのですか」

 隼人が真顔で尋ねると、やや投げやりにふざけ、にやけていた彼の顔が急に引き締まった。

「これは失礼致しました。山崎正吾です」
「先日のあのお話、ずっと大切に胸に留めておりまして感謝しております。澤村隼人です」

 隼人がそう言って握手の手を差し出すと、山崎医師がやや面食らった顔。それを見て、隼人は付け加えた。

「先生。ビジネスですよね? それでしたら、私から頭を下げてお願い致します」
「え」
「彼女を助けてください。お願い致します──」
「……澤村君」

 何故か哀しい目を見せてくれた先生を見て、隼人の勘はさらに動いた。『この先生に任せたい』と。だから深々と頭を下げた。
 すると先生が差し出している手をそっと握り返してくれる。

「エド君からだいたいの事情はお聞きしました。大変でしたね。私も幾分かお付き合いのあったお嬢様だったので、驚き、そして胸が痛む思いでした。お任せ下さるのなら、こちらとしても全力であたる所存です」

 『よろしくお願いいたします』──と、山崎医師は、とても誠意ある姿勢でこちらも頭を下げてくれたのだ。
 普段のあのちゃらけたような雰囲気は、彼のちょっとした騙しの姿なのか……。こちらが本当の姿なのか。どちらにしても、隼人にとっては既に『信じたい相手』となっている。たとえ、ただの勘でもだ。

「では『商談成立』だな。エド……あの通りに話を進めよう。澤村にも分かるように説明を」
「はい。ボス」

 一緒についてきていたエドが、ダイニングテーブルにある書類束を持ってこようとしていた。

「やれやれ。これで僕もついに『黒猫軍団』に片足を突っ込んだかな」

 隼人と『契約する』と決まった途端、山崎医師が、『あーあ』とぼやき、急にふてぶてしくソファーの背にひっくり返った。
 それを見た純一が少しばかり眉をひそめている。初対面なのに、黒猫のボスと聞いても、それを前にしてもちっとも態度が変わらない彼のその余裕に、隼人が逆に冷や冷やしてしまった。
 だけれど、やがて眉をひそめていた純一まで笑い出した。

「初めてお会い致しましたが、エドからお聞きしていた通りのお方ですね。先生は──」
「ボスこそ。割と普通の日本人男性でホッと致しましたよ。見たところ同世代。親近感湧きましたね」

 なんだか息があったように二人が手を差し出し、握り合う。
 それにも隼人は目を見張ってしまう。
 この人達、この『胡散臭い男共の感覚』が良く理解できない。
 そして、その山崎が黒猫ではなくても『その世界と紙一重』の思想を持っていることに……隼人はちょっとばかり不安になってきたのだが。

 ──だが、今、葉月が接している一番の問題は、そこに点在しているのだ。
 闇世界をうろついている敵と、今、接しているのが現状。
 そこを無視して、または否定しては、相手の世界を拒否し逃げることになるだろう。

「義兄さん。こちらの話、進めて下さい」
「そうか。分かった。エド、頼む」

 そこを見計らって、エドがセンターテーブルの中央に持ってきた書類束を置いた。
 その中の一部を山崎が抜き取り、隼人に差し出した。

「依頼を頂いたそちらのエド君からお聞きしたところ、その御園のお嬢様を受け入れさせて頂くには、そちらの澤村様の了承がなくてはお話は進められないと伺っています」

 純一がこうして連れてきてくれたのは、最終的には葉月の為になるかならないかは『お前が判断しろ』と言うことなのだろう。
 それも徐々に分かってきたので、隼人は自分の目でこの医師と結託することは決めた。だが、まだ全てではないようだった。受け入れ態勢についての許可を隼人から取るための説明を始めようとしているのだろう。急に接客姿勢になった山崎に戸惑いながら、隼人は書類を開いた。
 しかしそれは開いてみると書類と言うよりかは、『お手製のパンフレット』に見えた。中にはカラーでコピーされた一軒家と、部屋の内装の写真が掲載されていた。眺めているとなんだかこれまた不動産のパンフレットに見えなくもなく、いったいこれがこの医師の思う治療とどう関係があるのだろう? と思ったのだが。

「実はきちんとしたパンフレットやご案内は存在しておりません。その時、依頼があった時のみこのような資料を作成して、お見せしております」
「この一軒家は? なんですか?」
「私の病院内にある個室ならぬ一軒家です。そう一軒丸ごとの病室という、我が病院の『裏メニュー』ですね」
「え! では、ここに彼女を入れると?」
「はい。こちらの一族の方の今ある状況にはぴったりかと思います。それに我が院の一般病棟内での治療というのは……こちらとしても事情をお聞きしたところ、別にして頂きたい思いもありまして……」
「そうですよね。こちら一族の事情で他の入院患者に迷惑がかかっても……」
「有り難うございます。こちらの一軒家は、離れておりますから、警備はご自由に。ただ何かあった時の損害はそちら持ちという条件になっております」
「そうですか──」

 確かに、これならかなり融通が利く。
 葉月も人目を気にせずにゆったりと治療に専念が出来そうだ。警備は義兄さんの部隊がついている。一般病棟の患者や外来患者に紛れての警備は負担にもなるだろうし、先生がいうように、巻き添えなんて事もあり得るかもしれない。
 まるで別荘のような、木々に囲まれ庭もある一軒家……。

「ここ、結構、ご利用される方多いのですよ。そういう噂はそういう世界では結構広く知られているようで、色々な事情をお持ちの方から依頼があります。今、丁度空いておりますので」
「そうですか」
「そちらの『プライベートの重視』という点でも、その教育をしっかり叩き込んだ医療スタッフを特別に組んで、本院と連携した治療施設に機器も備えております。安心してお任せ下さいませ。今回はエド君側のスタッフと混合とのことですので、もっと安心していただけるかと」

「良いですね。これでお願い致します」

 隼人の即答に、山崎先生も『有り難うございます』と満足そうににっこり笑顔だ。
 ……ということは、結構な儲け話なのだと隼人はヒヤリとして純一を見てしまった。案の定、その隣で既に純一が小切手らしいものを、ジュールに渡されて、ペンを取っていた。

「では──これは、まあ、予約金というか手付け金と言いましょうか……。万が一、契約が実行されなくてもそのままお受け取り下さい」

 それをさらりと指先に挟む手軽い仕草で純一が差し出しても、山崎もなんの気後れもなく、それこそニンマリとした笑顔で『ただの紙切れ』を簡単に受け取るかのように手にした。しかも、それを直ぐに眺める。

「……噂以上ですね。確かに、受け取りました。お嬢様が入院入居出来るよう、確保しておきます」
「お願いしますよ。副院長先生」
「あ、私、秋から院長に昇格したんですよ!」
「おや。それはそれは……益々頼もしいですね」

 これまた二人の男が揃って笑い出す。
 なにが楽しいのか、隼人はついていけない世界に苦笑いだ。

 その後、純一と隼人の目の前で、エドを通した院長との『契約』と『誓約』が交わされるのを確認、見届けた。

 これで葉月が帰ってきた時の受け入れ態勢は整ったことになる。
 純一が言ったとおり、小一時間ほどで話はまとまり、山崎医師を玄関で見送った。
 玄関で靴を履いている先生を眺めていた隼人は、彼の背に話しかける。

「先生。あの時の話──本当に私の中では重みのある、自分を振り返るきっかけで、今でも本当に大切にしています」

 すると彼がちょっとまた驚いたように振り向いた。
 そして可笑しそうに笑いだした。

「いえね。そんなたいそうなつもりではなかったんだけれどね。俺はね職場でも結構、あの手を使うんだよね」
「はい? あの手?」
「ほら──。俺はあの時、君が不快になることを言ったでしょう? 『君がその気がないなら、俺が狙っちゃおうかなー』と言う男を煽る手。まったくうちの部下共も、影でこそこそと恋愛苦難劇を繰り広げているのに見かねて、男の方にそうしてね。結構、効果があって女性に感謝されちゃったりして!」

 それでも結構、本気っぽい言い方だったぞ。と、またあの時のちょっとした腹立たしさが蘇りそうになったが流す。それでもちょっとした不満顔は山崎に見破られてしまったようだ。

「安心してくれよ。俺には今夢中になっている愛しい彼女もいるのでね」
「……奥様ですか?」

 すると彼がちょっと緩く微笑みながら、首を振った。
 では、それだけの独身女性が存在しているのかと、隼人もかなりホッとしたりした時だった。

「妻はだいぶ前に亡くなっていてね」
「……え」
「今、夢中な女性というのは、俺の人生最大、最高の恋愛で誕生した『娘』のことなんだよ」
「そ、そうでしたか。申し訳ありません……。余計なことを」

 だけれど、そこは彼は慣れているのか『いいんだよ』と、今までにない柔らかい笑顔を見せてくれた。
 その顔は父親の顔で……もしくは夫の顔だったかもしれないと隼人は思ってしまった。

「だからね。愛している女性を失おうとしている馬鹿男が許せない時があるんだよ。無くしたら二度と手に戻ってこない寂しさを悲しさを知らない男達にね」
「ああ、だから。そういう『手』を使われるのですね……」
「あの時の君は、まさにそれだったよ。彼女、たった一人で50パーセントの希望に向かっていたんだから。婦人科の医師が説明する時、俺も立ち合わせてもらったんだけれどね。彼女に『50パーセントの危険性がある』と説明した時に彼女が言ったんだ。『だったら逆に50パーセントの希望があると言うことですよね』と。笑顔で言ったんだ。その時、担当医の医師もおろか、俺すらも……ハッとしたぐらいだったよ。それなのに、君と来たら……ねえ」

 それはごもっともで、今となっては隼人の中ではかなりの反省点でもあった。『面目ない』の一言に尽きる。
 今となっては反省している隼人の姿も解ってくれたのか、山崎医師はそこでまた可笑しそうに笑っていた。
 さらにこんな話も付け加えてきた。

「それにうちの娘。御園従兄妹のファンになっちゃってね。そういうご縁もあるかな」
「ファン?」
「ああ。うちの娘もピアノに夢中でね。右京君に頼み込んで、彼等の音楽会に招待してもらったんだ。そこで大佐嬢と右京君の演奏に、いたく感銘したみたいで。うちの娘、その日は御園の二人にくっついてばかりいたよ。それ以来『御園のお兄さんとお姉さんの音楽会は次はいつだ』とうるさくて、うるさくて。あの右京君主催の優雅な雰囲気も、あの年頃の女の子には夢のようだったみたいでね」
「そ、そうだったのですか……!」
「なんだかね。音楽好きのお嬢さんと来て、ただのご縁に思えなくてね……」

 そして山崎は、先ほど垣間見せていた哀しい眼差しになって隼人をみつめてくる。
 その、急に精悍さを無くした彼の目に、隼人もドキリとしたぐらいの変貌振りだった。

「今の君なら、失う怖さ……言わなくても、解るだろうね」
「はい──」
「彼女の無事生還。祈っていますよ」
「有り難うございます」

 一人の人としての誠意ある最後の一言。
 それを言い残して、山崎医師は出ていった。
 隼人も再度、深々と頭を下げて、彼を見送った。

「エドの話では、彼の妻はあの病院の一人娘だったそうで。彼は婿養子なのだそうだ。彼は妻を亡くしてからもあのようにしてあの病院を支えているそうだ。さらに妻が亡くなってからは医療の発展に力を入れているそうだ」

 隼人一人に見送りをさせるために、リビングに控えていた純一が、後ろに立っていた。
 こういうところでも、彼は表立たず『影』として徹しているように隼人には感じて仕方がない。

「それは……奥さんが亡くなったことと関係が?」
「そこまでは、エドでも解らないらしい。でもきっとそうなのだろう。彼が危ない橋を渡りながら手段を選ばない時は、まあ、病院を大きくするという野心もあっての荒稼ぎもあるのだろうが、なかなか上手く行かない滞る治療のためであることが大半だそうだ。そういう度胸を右京が見抜いていたようで、エドにあたってみてはどうかと推薦してくれた医師なのだそうだ」
「度胸か……」
「彼も──守りたかったものを、守れなかったのだろうな」

 純一が何かを共感するかのように、山崎が去った玄関を、また遠い目で見つめていた。

 守りたかったものを守れなかった罪滅ぼし。
 その許して欲しい者の亡霊を追うかのように、遅すぎる度胸で彼等は世を渡って来たのだろうか……。

「さて、戻るとするかね」
「ああ。そうだね、義兄さん」

 そうだ。隼人はまだ間に合う。
 そうだ。闇世界に触れていく度胸もなくては、闇を横行するゴーストには対峙できないだろう。
 ただ綺麗事ばかりを呟いている場合でもない。
 葉月を守るためなら、危ない橋を渡る度胸だって、これからはいとわない。

 なんだかそれを……。男の先輩達に、間に合わなかった先輩達に痛感させられた気がした。

「義兄さん、有り難う。俺……ちっともそこまで考えられなくて」

 ただ嘆いて葉月を待っているだけの男。
 その間、この義兄は『葉月は生還する』と信じている上で、先へ先へと動き回っていたのだから。
 すると純一がちょっと冷めた目で隼人を見ている。

「お前、葉月の夫になる意味が分かっているのか」
「……解っているよ。御園を、支えていくのだろう」
「まだ夫にもなっていないのに、上手く立ち回ろうだなんて出来るわけないだろう」
「……」

 そりゃ、そうだが。結構ぐっさりと痛く胸に突き刺さる。
 二十年弱、それに徹してきた彼に敵うはずないのだ。言われたって仕方がないのだが……。だが、彼は隼人にこう言い出した。

「出来なくて情けなく思うなら、どうすれば良いかお前さんなら、すぐに見つけるだろう。そう思って『一緒にやろう』と言ったのだから」
「……! 一緒に……」
「なにも犯人を捕まえることだけじゃないだろう。いいか、俺にも御園を支えていく気持ちは大いにある。だが俺は正式な婿でもなんでもない。だから裏方に徹する。だが、御園の表向きなことはこれからは全てお前さんの肩にかかってくるんだぞ。そこは俺にはこれからも出来ない役目だ」

 『表』と『裏』──。その二言に、隼人はハッとさせられた。

「俺達が二人で、連携して行かなくてはならない。俺にとっては、今後に関しても、表を担ってくれる『上等のパートナー』を得たと思っているがね」

 俺のことを、そこまで!? と、隼人はなんだか顔が真っ赤になっていくような気がした。そんな真っ正面から『告白』でもされたかのような気分、驚く評価だった。

「に、に、義兄さんって。そんなことを言う人だったかなあ!?」
「なにがだ。思ったことを言っているだけじゃないか」

 だけれど、やっぱり彼もはたと我に返ったのか、ぷいっとそっぽを向けてしまったのだ。
 よく見ると、ジュールとエドがリビングのドア越しでにたにたと笑っているのが見えてしまった。

「帰るぞ!」

 純一がその我に返った勢いで、玄関で靴を履いて出ていった。
 隼人もその後をついていく。

 またエドの運転で、すぐそこの医療センターに戻る。

 義兄さんのおかげで、徐々に隼人もやらねばならぬ事が見えてきた気がした。

『そうだ。俺──』

 婿養子ではあろうが、『御園の主人』にもなるのだ! と……急に責任重大な事態を背負ったことを知った気がした。
 だけれど……と、隼人は隣にいる義兄をそっと密かに見る。

 強い味方がいる。
 一人じゃないと──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 二晩目最悪の危篤状態から後は、平行線の一途を辿っていた。

「葉月、起きたら何が食べたい? ママ、なんでも作ってあげるわよ」

 何度か、登貴子と一緒に葉月の元に会いに行った。
 三回目の晩を迎えようとしていた。
 せっかく純一があの一軒家を用意してくれたものの、やはりゆっくり寝るために出向くという状態ではなかった。
 登貴子もつきっきりの姿勢以外崩さないし、勿論、亮介も、隼人も……。
 今、一番の山場。峠を越えねば、何処にだって行きたくない気持ちは、皆、一緒だし、一歩退いた位置から見守ることに徹底している純一も、場所を用意したから直ぐに使って欲しいとも言わなかった。

 純一は真一と一緒に葉月に会いに行っているようだった。
 それもなるべくおおっぴらにならないように気遣っているようで、聞くと『さっき見に行った』といつの間にか……という状態だった。それには真一がこっそりと協力しているようだった。

「葉月……。もう、ママ、離れないからね」

 登貴子がそうしてぐったりとしているままの、葉月の指先を握りしめ、頬ずりをする。
 そう言ってくれる彼女の母親の言葉に、もしかすると『勘当』は解かれるかもしれないと、隼人もホッとしていた。

「隼人君もお願い。何かお話ししてあげて」

 登貴子に言われて、隼人はその位置を交代してもらう。

「葉月。来たよ──」

 隼人も指先を握りしめ、まずは薬指に口づける。今の彼女への挨拶はそれだった。

「今、俺……義兄さんと一緒に、お前が帰ってくる準備をしているよ。帰ってきたら俺と義兄さんと一緒に、生きていこう……」

 そう思えていたから、自然に言っていたのに……。
 ふと気がつくと、登貴子がすぐ隣で隼人を見下ろしていた。マスクをしているので、目だけしか見えないのだが、その目が凄く真剣で──もしかすると、怒っているのかと思うぐらいの恐ろしい目つきというのか……。それを見て、隼人は言ってはいけないことを言ったのだとハッとした。

「貴方、そんなことを思っているの?」
「……」

 そんなことは許さないとでも言いたそうな顔だった。
 だが隼人もついに、立ち上がって登貴子を威圧するように見下ろした。

「はい、思っていますよ。俺、義兄さんのこと認めていますし、葉月には必要な存在だと思っています。そうでしょう? 二人はずっと遠い昔からお互いを気遣って愛し合ってきたのですよ」
「愛し合ってきたですって!? ええ、そうかもしれないわね。随分と歪んだ……」

 登貴子がそこで怒り出そうとしているのが解った。だが、隼人の方が先にそれを遮る。

「そんなこと、どうしようもなかったことで、終わったことでしょう? 終わった今となっては、もう俺には関係ないですよ! 男と女だなんて事、とうに越えているんです。もう言葉では言い表せないぐらい、愛し尽くしてしまったのですよ。それに、どうであれ、少なくとも家族なのでしょう? 俺、そういうこと『今まであったこと』も『これから、あるかもしれないこと』も、彼女から奪おうと思っていませんから!」
「……は、隼人君?」
「では、僕はこれで!」

 葉月との触れあいもそこそこに、隼人は啖呵を切ったように、そこを去ってしまった。
 だが、ICUの消毒通路に出てきて、『やってしまった』と、がっくりとうなだれた。

「……な、なんで俺がお母さんと」

 一人でICUを出てきたので、亮介が首を傾げていたが、隼人は『お母さんはまだゆっくりすると言っていました』と誤魔化した。
 それに本当に、登貴子は暫く出てこなかった。
 だが、やがて帰ってきた登貴子が待機室に戻ってきて、誰かを探すように部屋を見渡していた。

「純ちゃんは……?」
「ああ、そこの階段でエドと話していたよ」

 ここに来てから、純一を無視していたのか、それどころじゃなかったのかは解らないが、登貴子が初めて純一と接しようとしていることに、亮介もそして真一もちょっと驚いた顔をしていた。
 そして登貴子が自ら彼を探しに行く。
 思わず、隼人は真一と一緒に……その登貴子の背を待機室の扉から覗き込んでしまった。ふと上を見ると、なんと亮介の顔まで……。

 階段の踊り場から、純一が戻ってきて、そこで登貴子と鉢合った。

「どうした。伯母さん。葉月の様子は大丈夫だったか?」
「ええ。先生はだいぶ落ち着いていると言っていたわ」
「そうか。このまま行けば、なんとかなりそうだと、今、エドもそう予想していて……」

 意外と、普通に喋っている。だが、やっぱりちょっとハラハラ感は鎮まらない。

「貴方も、真一と会いにいってらっしゃい。葉月も、きっと待っているわ」
「伯母さん?」
「貴方は葉月が小さい頃からずっと頼ってきた『大好きなお兄ちゃま』じゃない。行ってあげてちょうだい……」

 思わず! 隼人は真一と一緒に顔を見合わせて、微笑み合ってしまう! それ以上に、二人の頭の上で亮介が拳を握りしめて『よっしゃ』と言っていた。また隼人と真一は笑い合ってしまっていた。

「純ちゃん、私、そろそろお風呂に入りたいの。連れて行ってくれる」
「ああ、いいよ」
「その前に、会ってきなさい」
「……有り難う、伯母さん」

 登貴子から純一にお願いをし、彼が用意している一軒家へと一休みする余裕も出てきたようだ。

「お祖母ちゃん! 俺も一緒に行く!」
「そうね。真一も少し休みなさい。皆で交代でお風呂と睡眠を取りましょう。長丁場なんですから」

 隼人が良く知っている『おふくろさん』に落ち着いた気がした。
 亮介もホッとした顔をしていて、登貴子の話に賛成したようだ。

 純一も、許されたのかもしれない……。
 隼人はそっと微笑みながら見守っていた。
 だってそうだ。この人達は家族なんだから。

 

 そんな夜を越した、次の朝。
 不思議と、登貴子がそうしてどっしりとした構えで動き出すと、皆が習うようにして葉月の心配もあるがと、外へ出ていく余裕を持つようになった。
 隼人も、登貴子達と交代で、あの一軒家で入浴を済ませ二時間ほど休ませてもらうと、夜明けを迎えようとしていた。

 帰ってきて直ぐに、一人でICUに入れさせてもらう。

 血の気が無くて、徐々に真っ白な顔になってしまい、潤いも失い歳を取ったかのように変わり果てた……彼女。
 その姿でも、隼人には愛おしい女性だ。
 だが……。また、今日も。衰えていくような彼女をただ見ていることしか出来ないのだろうか。
 彼女の側にやってきた隼人は『これからも何処まで直視できるだろうか』と言う不安と戦いながら、一時、勇気を溜めるために目を閉じる。そして、今日も……と目を開けた。

『!』

 ……隼人はふと、葉月の顔を見て、目をこすった。
 彼女の頬が、頬が、ふっと赤みを差している!?
 見間違いかと何度も何度も見下ろしたが、彼女が幸せそうに頬を染めていた時と同じような、ほのかな花の色を頬に浮かべている!

 それはまるで、花のつぼみがついたかのように、また彼女の顔を愛らしくみせはじめていた。

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