-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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6.翼の楽園

 ふと目覚める。
 そこはひんやりとしている場所のようだ。

(ああ、来たことがあるわ)

 そう思った。
 身体がゆらゆらと何処かを漂っている。
 とても心地が良い。
 もう一度、目をつむって眠ってしまおうかとも思った。

 朝、目が覚めた時のように、暫くぼんやりして見えるものをただ何も考えずに、見つめていた。

 キラキラと揺れる水面。
 マリンブルーの水。
 眩しい太陽の光が明るく射してくる水の中。
 小魚の群が悠々と通り過ぎていく。

 彼女は、前の記憶を辿るように、そっと手をその水の中で上げてみた。
 ひんやりと、そしてとっても滑らかで、まるでシルクの布をさっと撫でたような心地よい感触だった。

「前はもっと、凍るように冷たくて……重くて……」

 ──そして暗かった。
 彼女の、そう遠くはない記憶がそう言っていた。

「ヴァイオリンを抱えたまま……」

 ──沈もうとしていた。
 それはいつのことだっただろうか?

 なのに今は、こんなに軽やかで心地がよいこの海の中は?
 身体を丸めると、とても懐かしくて暖かい気持ちにさえなれる。
 出来ればここにずっと居たって構わないぐらいの気持ちよさだ。

 あの時のように水は冷たくはなく、暖かい。
 あの時のように暗くはなく、自分の周りは眩しい光が射し込んできて煌めいている。
 魚たちの群れがすぐそこに、手に届きそうにも思える。綺麗に煌めいている水は重くなく、とても滑らか。

 ほら……。動こうと思えば、こうして自由に泳げるわ。

 彼女はその気になれば自分の意志で、こんなに自由に泳げることに気がついていた。
 あの時は、全く身体が動かなくて……。ただ動こうという気持ちも全くなくて。暗くて重い水に引きずり込まれるように沈もうとしていた。
 だけれど、今は、こんなに──。明るい海が私をこうして歓迎し、愛してくれているように、私の意志を見守るように、自由に泳がせてくれる。

 あの時は下から眺めていただけの小魚の群の中に近づいて、彼女はそこでくるりと宙返りをするように、美しい水の中で舞っていた。
 こんなに軽やかに自由に思うままに動けるのだって……。身体も心も目覚めてきた。
 それならば──あの煌めく水面に行ってみよう。彼女はまたスイッと両手を大きく掻いて、光り輝く水面を目指した。

 あの海面に出たら、きっと綺麗な世界が広がっているはず。そんな希望で溢れていた。

 ……なのに。

 キラキラと青く揺らめく美しい海面を目の前に、太陽の光を掴み取るかのようにして、勢いよく水面へと身体を飛び出させる。
 顔を出して、彼女はその光景に目を見張った。

 ただ真っ白な何もない景色。
 上を見上げると、水中で見えていた太陽など無かった。
 音もなく、景色もなく、ただ真っ白。良く言えば静かで無垢で、悪く言えば味気なく空虚な……。
 あれ、おかしいな? と思って、もう一度水中に戻って確かめようと思ったら──。なんと、もう海ではなく、彼女はその真っ白い地面の上に足を降ろして居るではないか?
 海面から上がった覚えもないし、こんな真っ白で訳の分からない世界よりかは、あの水の中の方が居心地よかった。出来たら、戻りたい──。
 不安に駆られて、裸足の足下の白い地面を掘るようにして両手で掻いた。だけれど、もう何処にも、あの居心地の良い水の楽園は見つからない。弾き飛ばされたのか、はたまた、いったん出たら戻れないものだったのか。

 無性に悔しくなってきて、悪あがきと分かっていても両手で白い地面を掘って掘って掻いてみたのだが、やっぱり駄目だ。
 その代わり、掻いている内にその白い地面からふわふわとしたちいちゃい白いものが、彼女の周りを取り囲むように舞い始める。
 ふよふよと舞い上がったそれらは『羽毛』だった。

 柔らかくて、どこか頼りなげで、でもふわっと一度舞い上がると何処までも漂ってなかなか落ちてこない。
 そんな雪のような羽毛が、彼女を柔らかに包む。

「素敵──。どこかで、見たわ。こんな感じ、何処かで見たわ!」

 ふわふわと舞う雪のような羽毛が巻き上がる。
 彼女はなんだか嬉しくなってきて、あんなに惜しく思った水の楽園の事など忘れてしまい、その沢山の羽毛を追いかけた。

 そうしてその何もない真っ白な大地を走り出すと、動くたびに足下から羽毛が沢山舞い上がってくる。
 まるで冷たくない雪の世界。ふわふわ、ふよふよ、いつまでも舞っている羽毛が身体に舞い降りるとくすぐったくて、なんだか抱きしめたくて、そして心も舞い上がりそう。
 舞っている羽毛を彼女は、抱きしめてみた。

 ──そこでふと思った。

「見たことある? 何処で?」

 真っ白な世界の中で、彼女は首を傾げていた。  

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「素晴らしい生命力ですね」

 そう言ったのはこの医療センターで救急医をしている軍医師。
 葉月をずっと担当してくれている先生だ。

 HCUのナースステーション側にあるカンファレンスルームへ呼ばれて、隼人は葉月の両親と共に長机に並び、その医師と向き合っていた。
 白衣を着ているその先生が、最初に言った一言がそれだった。

 葉月の頬にほんのりうっすらと赤みが差したのは、三回目の朝を迎えた時。
 あれからずっとその状態で、登貴子にそれを知らせると、とても驚いて亮介と飛んで見に行ったぐらいだ。
 もしかしたら、もしかしなくても──でも、そんな予断は許されない。それでもその時は素直に皆で希望に湧いて喜び合った。
 だけれど──。それだけ。ほんのり灯っただけでまったく状況は変わらなかった。

 五日目の昼を迎えていた。
 そんなとき、こうして医師に呼ばれて話を聞いているところだ。

「実は、あの二日目の晩。とても危険な状態で……。ですが、本当に良く乗り越えられましたね」

 あの時の皆の生きた心地がしない一晩を思い出し、隼人も亮介と登貴子と一緒に俯いた。

「ですが、今夜からHCUに移そうかと思っています」

 え? と、三人一緒に顔を上げた。
 医師は当然、医師らしく表情は灯していないが、それでもなんとなく目元が緩んでいる気がして、隼人は彼女の両親と顔を見合わせる。

「まだ安心は出来ませんが、一番の峠は越えたと思います」

 三人一緒に、息を呑んでいた。
 さらに息も止まっていた。
 あまりにも静かな反応の三人を目の前にして、先生が訝しそうにこちらを見ている。

「あの……。将軍……ではなく、お父様? それで宜しいでしょうか?」
「は、はい。お願い致します」

 先生が言い直したように、本当に亮介も今は一介の父親でしかない姿だった。
 そんなうちに、やはりその無表情な軍医が『それでは、失礼致します』と出ていってしまった。

「や、や、や……やったよ。まずはあのICUを出られるよ!」
「そうですね! 先生も峠は越したって言っていたし……!」

 亮介と隼人は興奮するようにして、二人で喜び合った。
 そして……登貴子も。

「まだ、まだだけれど……。葉月……良かった……良かったわ」

 勿論、予断は許されない状況だけれども──。机に泣き崩れた登貴子のその涙は、とりあえず一番の危機を乗り越えることが出来た安心から来たのだろう。

「お母さん、良かったですね」
「登貴子。もうひと頑張り、葉月を信じて待とう……」

 隼人の穏やかな一言。そして亮介の柔らかな腕が登貴子を抱きしめる。
 登貴子も泣きながら亮介の胸の中に泣き崩れていた。

 隼人は二人きりにさせようと、そのままそっと一人でその部屋を出た。

 

 その夜、葉月がICUから隣にあるHCUへと移される。

 葉月はHCUの個室へと無事に移動。今は登貴子と亮介が一緒に付き添っている。
 一昨日から、生気を蘇らせたように頬を染めている葉月の顔を見て、両親二人はそんな娘を愛おしそうに見つめていた。
 そうして見守っている父親の亮介が『眠り姫みたいだ。起きなさい』と、優しく額を撫でるなんていうちょっと和やかな一面も見られるようになった。
 だが──ただそれだけで、三日目のその変化からなにも進展はない。それでも登貴子も亮介も、それだけで娘が生きて帰ってきた心地には落ち着けたようだった。

 今夜から皆でどういう行動で看病をするか……と言う点を、皆で話そうと亮介が言うので、隼人は相変わらず前には出ないで人目のつかない場にいる純一を探しに来た。

「……義兄さん?」

 待機室を覗くと、そこには眠っている真一が父親の肩にもたれかかっていて、そして純一も──息子を肩に乗せたまま、腕を組んで眠っていた。
 隼人はそれを見て、そっと微笑む。少し遅すぎたのかもしれないけれど、二人はこうして父子としていつも一緒で、そして真一は父親純一の気持ちを良く汲み取っていて、そして皆に理解してもらおうと必死になっているのも時々目に付いた。
 そんな真一を見て、隼人はふと思う。きっと葉月もそうしてきたのだろうな……と。それを今度は真一が……。

(だけれど、もう、大丈夫だろう)

 純一はもう、今までのように極端なまでな家族との距離を取ったりはしていない。こうして今、皆の目の前で息子と居眠りをしているように。
 あまりにも微笑ましい姿なので、崩すのが勿体ない気がした隼人は、そのままにして亮介の元に戻ろうと踵を返す。

「どうした──」
「! ……義兄さん」

 隼人が踵を返した途端に、その気配を感じ取ったかのように、純一の声がした。隼人は『流石』と思いながら、振り返る。

「お父さんが、どのように交代しようかと言っているんだ。病室に来て欲しいと」
「そうか、分かった」

 眠っている真一をそっと肩から降ろし、膝にかけている毛布を静かに胸まで引き上げる純一。
 そんな優しい手つきを見せる父親としての姿を、隼人はじっと見つめていた。
 そのうちに真一がふと目覚めてしまう。

「え……どうかしたの?」
「葉月が個室病室に無事に移ったから、皆でどうするか話し合ってくる。お前はここで寝ていろ」
「うん……分かった」

 父親の声に安心したのか、真一は自分から毛布にくるまって長椅子に寝ころんで、再び眠り始める。

「真一も、あの家でゆっくり眠るという気持ちにはなれないみたいだな」
「ああ。大人達がこっちにいるから、あちらで一人じゃあ、不安なのだろう」

 真一もこの五日、ずっと頑張っていた。
 そして隣の義兄も──。

(そう言えば、この人が眠っている姿、初めて見たな)

 隼人はこの五日間を振り返ってそう思った。
 その彼が、今、息子と一緒に居眠りをしていたのだ。
 彼も──疲れが出てきたのか。いや……きっと、葉月が一命を取り留め、ワンステップ、集中治療室から出られるようになったことに、安堵したに違いない。

「そろそろ右京も帰ってくるだろう……」
「これを聞いたら、お兄さんも喜ぶだろうね」

 右京はあれからずっと、葉月の側にはいなかった。
 何処に行っているかというと、隼人が渡したスケジュール通りに、二人が旅をした北海道での軌跡を辿るため、彼も北海道の旅に出ていた。

「やはり、それと言って右京も気になる点は見つからなかったそうだ」
「……」

 だろうな。と……隼人は思いたい。
 あんなに素晴らしい愛の旅の中で、そんな事……あるはずがない。
 だけれど、隼人も疑問に思っている。何故? 旅の締めくくりを迎えようとしていたあの日、あの時に葉月はあのような目に遭ったのだろうか?

「お前さんも旅の中で、何か気になることとかなかったか?」
「特には──」
「一体何処で……。それとも本当に通り魔か?」

 基地の中にわざわざ入ってくる通り魔?
 それとも隊員が通り魔に化した? いや、警察の捜査でも隊員の中で容疑がかかりそうな人物は見あたらなかったと言っているらしい。そして御園の一族は、ゴーストの存在とその一族との関わりについては、まだ警察にも匂わせていないようだった。
 もし──警察がこの一族の過去を知ることとなり、そこを気にするようになったら、どうするのだろうか?
 落ち着いてくると、ふとそんなことが隼人の頭に過ぎり始める。
 そして、もうひとつ、気になることが──。

「右京さん、もう帰ってくるころだと言っていたけれど。葉月が目覚める時にはいて欲しいと思っているのに」
「……そうだな」

 純一もちょっと溜息混じりに、納得していないような顔。そうなのだ。隼人は今回に限って、いつもの右京とは違う様な気がしてならなかった。
 もう葉月の側にひっついて、ずっと励まし続けていそうな気がしたのに。
 『俺はこれから忙しい』と言ったきり、ちっともこちらには顔を見せず、今にも命の火を消しそうな可愛い従妹の事は、心苦しいながらもとりあえず二の次とばかりに姿を消してしまったのだ。
 すると純一が『北海道に行った』と教えてくれたので、驚いた。あれは二日目の朝、隼人が純一に北海道旅行のスケジュールを手渡した日の夜に聞かされた。
 純一も引き留めたのだそうだ。『せめて、葉月の意識が戻ってからにしては』と、だけれど右京は『それでは取り逃がす』と言い張って、たった一人で北海道へ行ったらしい。

「俺の部下をつけているから、大丈夫だろうが。流石に二晩の危篤の時は、俺の『帰ってこい』に右京も揺れていたそうだ。それでも葉月を信じて、右京は今、自分の信念を貫こうとしているのだろう」

 純一とこうして右京のことを話している内に、隼人の中で『右京の執念』を見たような気がした。
 いつまでも一族を苦しめるゴーストを絶対に捕まえるのだという執念を──。

「なんだか右京さんらしくなくて。俺、心配なんだけれど」

 気のせいだろうか?
 隼人がそう言うと、純一が首を振った。

「いいや。きっとお前さんの感じてる通りだよ」
「純兄さんも……。今回の右京さんはおかしいと?」
「いや、今回が……ではない。『その時が来た』と言う感じだ。この時が来たら右京はああなってしまうと……俺もロイも心配はしていたのだけれどな」
「……! そうだったんだ。では、右京さんはずっと、そんな気持ちを抱えて……」

 純一がまた、重そうに頷いた。
 彼等同世代の『兄さん達の間』では、今に始まったことではないようだった。

「──俺も気を付けておくが、お前さんも、気を付けて見守っていてくれないか」
「わ、分かった……」

 あの右京が……。今まで何でも頼ってきた右京がそんなふうに心配されるほどに、今までの余裕を無くしていることになる。
 そしてこの隼人までもが、そんなお兄さんを影ながら見守るほどの状態になっているようだから、なんだか緊張してきた。
 一族が、今──大きな波に飲み込まれ始めているような寒気も起こる。
 隼人がこうして、この一族の一員になろうかと言う時に──。

 インターホンを押して、婚約者と義兄ということで許可を得て、HCUに入れてもらう。
 そして葉月の個室へと向かった。

 そこで今夜は隼人と登貴子が一緒に、一晩付き添うことになる。明日の朝、亮介と純一と交代する。
 話がまとまって、亮介と純一は真一を連れてあの一軒家へと行くそうだ。

「眠り姫、おやすみ──。明日会えると良いね」

 娘を置いて離れることが辛そうな亮介。
 隼人もそういう父親を見ると『ご両親でどうぞ』と言いたくなるのだが、亮介もずっと休んでいない。だから純一が無理に連れて行くという形で決まったこの体勢だった。
 そうして亮介は葉月の額を撫でて、そこにキスをして去っていった。
 登貴子と二人になる。広い個室にベッドが一つ。消灯時間は過ぎているので病室の灯りは消され、頭の上にあるスタンドがぼんやりと葉月の顔を映しだしているだけだった。
 登貴子とパイプ椅子を並べて、葉月の側に付き添った。

「葉月、もうこっちが嫌になったの? ねえ……怖くても、もう大丈夫なのよ。ママ、今度こそ何もかも捨ててもいい。貴女を守ってあげるから」

 また娘の手を取って、登貴子は泣き始める。
 登貴子が長年苦悩してきたものが、そこにずっとこびりついているかのような言葉。
 そして……また、最悪な状態で……『勘当』と親子の縁を切っている間に、こんな事になってしまい……。
 だけれど隼人は知っている。

「お母さん、葉月はお母さんのことを愛していましたよ。俺、この耳で何度も彼女から聞いているんですから」
「隼人君……有り難う。でも、これはどうにもならない私の気持ちなの」
「はい、それも分かりますよ。お母さん……」

 隼人はそっと登貴子の背を撫でる。
 葉月が言っていたように、誰かが許してくれても自分自身でずっと許せないこともあるのだと。あの裏切りをした自分の事を、葉月はそう言っていた。
 彼女の母親もまた同じく──。誰が許しても、慰めてくれても、ずっとその罪を消せずに、己を責めているのだろう。

「こんなに可愛らしい顔に戻ってきたのに……」

 娘の手を暖めるようにさすり続ける、小さな母親の手。
 ほんのちょっとの変化があっただけ。
 嬉しかったけれど、嬉しかった分、進展がないのがもどかしく、そしてより一層に一度持った期待感がぐらついていきそうな気持ち──。隼人もそうだから、きっと登貴子も……。

 隼人も目をつむった。

(何処で迷っているんだ──)

 一度、こっちに戻ろうと振り返ったのだろう?
 何を迷っている──? そのままこっちに来れば良いんだ、葉月!

 何度、心がそう叫んだことか。

 彼女と過ごした愛の旅が、遠く遠ざかっていく五日目の晩だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「見たことある? 何処で?」 

 ──そんな疑問、直ぐになくなった。

 どうしてと聞かれても、理由も思いつかない。
 ただ、直ぐに彼女の中では『深い思考』と言うものは消え去ってしまうのだ。
 だって、ここはこんなに真っ白な世界……。すぐにこの柔らかな心地よい羽毛がなにもかも包み込んで忘れさせてしまうのだ。そう、戻りたいと思った水の楽園を忘れ去ったように。

 ずっとずっと。この羽毛に包み込まれる無重力のような真っ白な世界を、跳ね回っていた。
 だけれど、気になることが一つだけ。跳ね回っていると、時々、頭の上から『ぽーん、ぽーん』という優しく丸みがある、とても澄んでいる音が聞こえてくる。真っ白な空を見上げても、羽毛の舞しか見えない。そしてやっぱり直ぐに何を気にしていたのか分からなくなってしまうのだ。
 だけれど──ぽーん、ぽーんと跳ねるような、呼ぶような音?
 やっぱりその時は気になって、どんなに跳ね回っているのが楽しくても、立ち止まって上を見る。
 羽毛が渦巻く向こうには、何があるのだろう?
 海の中を自由に泳いで海面まで自分で行ってみたけれど、でも、ここではこうして地面を走り回ることぐらいしかできない。

 ──音が消えた。
 また、向こうまで走ってみよう。
 羽毛が舞い上がるのはすごく楽しいから。

『!』

 彼女が走り出そうと、空を見るのをやめた時。
 彼女の目の前に、小さな子供がいた。
 彼女と同じように真っ白い服をまとっている三人の子……。
 三人とも、彼女を見上げていた。

「まあ、どこから来たの? いつの間にいたの?」

 何故かその子達は、ヴァイオリンを囲んでいた。
 黒髪の子、銀髪の子、そして栗毛の子。
 皆、何処かで見たことがあるような……?

 そのうちに銀髪の子が、そのヴァイオリンを拾おうとした。
 それを見た他の子供がなにやら気に入らない顔で、その手を揃って止める。すると今度は止めた二人の子が睨み合う。
 彼女が不思議そうに眺めていると、やがて三人の子達はそのヴァイオリンを巡って喧嘩を始めたのだ。

「ど、どうしたの? やめなさい!」

 だけれど三人とも必死だった。
 ちいちゃい三人の子は、それこそ両手をフル回転、そして地団駄を踏むので、三人を隠すぐらいに羽毛が舞い上がる。彼女もその煽りを受けて、羽毛に巻かれ、咳き込んだ。

「こら! 喧嘩は……!」

 やがてその羽毛の煙が止んで、三人が再び姿を現す。
 三人ともペタンと座り込んで、息をはあはあ切らしているのだ。
 どうやら勝負はつかなかったらしい。
 その愛らしくも滑稽な姿に、彼女は思わず『あはは!』と笑い声を立ててしまった。

 すると、それを見た三人の子が、揃ってにっこりと笑ってくれる。
 ……何故か。彼女の胸は切ない思いで貫かれた。

 そうしている内に、喧嘩していた三人が揃ってヴァイオリンを手にし、彼女に差し出してきた。

「私に……?」

 そのまま『有り難う』と受け取ってしまう。
 喧嘩していたのは、誰が渡そうかと争っていたのだろうか?
 だが、そのヴァイオリンを手にすると、思ってもいない重さでずっしりと彼女の手を沈めた。その落とそうとした手を、また何故か? 三人の子達が必死に支える。小さな足を揃えてぴょんぴょんと跳ねさせて『落とすな、落とすな』と言っているようだ? 彼女も重いが必死になって持ち上げた。
 すると──急に、思っていたとおりの? いいや『良く知っている重さ』になった。

 その手触りに、感触──。『馴染んでいる』と思った。そんな気持ちになった時、彼女はもの凄く焦る気持ちを初めて感じる。

「知っているわ。これ──ずっと昔に、粉々に砕いた……」

 十代の時に自分で壊したヴァイオリン。最初のお友達!
 壊すまでにこの子に八つ当たりした傷が、今ここに手にしているヴァイオリンに所々にあり、ひとつひとつを思い出す!

「そう。その後、『パパ』が新しいヴァイオリンを買ってきて……」

 それで──?
 また分からなくなる。
 また忘れそうになるが、今度の彼女は一生懸命に首を振って、その薄れていく思考能力が消えないよう必死に捉える。

 そうだ。これはフロリダで粉々に砕いた『もう存在しないはずのヴァイオリン』。
 ──何故、ここに!?

 徐々に彼女の中に渦巻く沢山の重くて苦しい気持ち。
 そして胸の辺りがちくちくと痛み始めてきた。
 そうだ……! また考えなければいい、考えなければ。また何も考えずにこの気持ちの良い羽毛真綿が舞う中を、好きなだけ走り回っていたらいいのだ。

「有り難う。これ、あげるわ」

 葉月は小さな三人の子達に、手渡されたヴァイオリンを返そうとした。
 そうしたら、銀髪の子は泣き出し、黒髪の子は彼女の足下にやってきて『いやいや』と首を振っていた。
 栗毛の子は──。泣きもしないし、むずがりもせずに、じっと彼女を見ている。口をへの字に曲げてじっと拗ねている。そしてじっと怖い目を向けてきた。
 銀髪の子も黒髪の子も、それぞれの子の反応は凄く気になるけれど、彼女は何故かその栗毛の子と真っ直ぐに向き合い、見つめ合っていた。

 そうして栗毛の子は他の子と違って、ただじっと怒ったように見つめ続けている。
 その目も何処かで見た気がする……。その目が一番、気になる! 良く知っている目。その目に畏れを抱いていた気さえする。なんて威圧感。そしてその目が嫌いじゃない。

 その子は、まだ足下で泣いている他の子を見て、ちょっとだけ寂しそうな顔になった。

「貴方もいらっしゃい」

 彼女は地面に跪いて、他の二人の子を抱きしめながら、栗毛の子に手を伸ばした。
 なのに『彼』は、哀しそうに首を振る。初めて、その子が泣きそうな顔になり、また彼女の胸は今まで以上に切なく熱く貫かれる──。
 何故? その子だけ触れられないのか? だが『彼』は必死に涙を堪え、なおかつ彼女の胸には飛び込んできてくれない。
 その代わり、彼女に向けてばっさばさと地面から舞い上がってくる沢山の羽毛を両手で集めて、彼女に投げつけてきた。

「な、何をするの?」

 ムキになって羽毛をかけてくる栗毛の子。癇癪を起こしているようにも見える。
 思い通りにならなくて、それでいて自分だけ泣きつけなくて……。拗ねているの? 怒っているの? だが彼は必死になってやめようとはしなかった。
 やがて、彼女の胸に甘えていた二人の子もハッとしたように我に返って、同じように地面に埋め尽くされている羽毛をかき集めては、彼女にばっさばさとふっかけてくる。
 彼女は『なんなのよ』と怒りながら、その三人の子にかけられる羽毛を両手で払うが、なかなかやめてくれない。しかも栗毛の子はかなり必死だ。

 やがて……不思議な事が起こった。
 その羽毛に巻き上げられている内に、彼女の身体がふわりと浮かび上がっていたのだ。
 三人の子が羽毛をかければかけてくれるほど、身体がふわっと宙に浮き、徐々に上へ上へと上昇し始める。
 ヴァイオリンを手にしたまま、驚く。だが、ふわりと宙に浮いたのだけれど、三人の子がちょっとくたびれてくると、また地面に足がつきそうになった。それを見た栗毛の子がもの凄く慌てて今まで以上にばさばさと羽毛をかけてきてくれる。

 ──私に、上に行って欲しいの。

 水の中ではあんなに自由に泳げたけれど、ここではただただ地面を駆け回ることしか出来ないのに。
 海のようにふわりと宙を舞うことなど出来ない空間だと思っていたのに。
 どうすれば? 飛んでいけるの?

 この子達がこんなに望んでいるのだから、なんとかしなくちゃ。
 そう思って彼女は自分の手でもまわりを舞っている羽毛を手で掬って上へ上へと巻き上げてみる。
 するともっと宙に浮き始める。もしかして水の中と同じようにすいすいと空中さえも泳げるのではないかと手を掻いてみたが……水の中よりずっと重い。空気が重いのではなく、やはり自分の身体を自分で上に上昇させるという感じで、それが重い。

 下と見るとやっぱり三人の子はまだ必死に羽毛を彼女の方へと巻き上げる。
 ……本当に栗毛の子は必死そうだ。彼の姿だけ羽毛で見えなくなるほど。
 なんだか、よく分からないけれど……涙が出てきた。

 そんなにしてまで? 私を助けようとしているの?

 そんな気さえしてきた。

 ──分かったわ。

 彼女は思いっきり重い身体を上昇させようと、真っ白なだけの空間で両手を掻いて掻いて果てしないばかりの白い上空を目指す。
 それをしたからどうなって、どこに辿り着くかだって分からない──。
 でも、行ってみる!

 行ってみる! そう思った途端だった。
 急に背中が重くなり、そこに重しがついたかのようにバランスを崩し、くるりと一回転。だけれど、身体がもの凄く軽くなる──。もう手を使わなくても、ふわりと宙に浮いていた。
 そして、あの子達も羽毛を巻き上げるのをやめた。

 彼女はそのまま上へと浮いていく。
 どうしたのかと重くなった背中を振り向くと──。

『……翼!?』

 背中に真っ白で大きな翼ある! まだ広がっていない状態で、固く閉じられていた。
 だけれど、もの凄く艶々と光っている真っ白い翼は少し濡れているよう……。生まれたての雛のように湿っていた。
 まさか!? どうやって動かすの? と思ってみたのだけれど……。もしかして? と、頭の中でイメージしながら、ゆっくりと開こうとする。
 だけれど凄く固く重い。だけれど少しずつ開いていく。
 やがて全開になったその翼を、ばさっとはためかせることが出来た。
 湿っていた翼がそうして羽ばたかせると、さらに艶を増して軽くなり、さらっと乾いてきたようだ。

 羽毛を巻き上げてくれていた三人の子供達が、それを飛び跳ねて喜んでいる。
 大はしゃぎで三人で輪を作ってくるくると回っていた。

 彼等に喜んでもらえて、彼女も嬉しい。
 そのままスイスイと水の中を泳いでいたように、この白い世界の空中も自由自在に舞い飛び、くるりと回ったりしていた。
 そうしている内に、その子達が手を振っていた。

「いかなくちゃ。行って欲しいのね」

 翼が生えた途端に、上空への渇望が激しくなってきた。
 ヴァイオリンを手にして、彼女は果てのなさそうな真っ白い上空を目指す。

「さようなら。有り難う──」

 何かに目覚めさせてくれた子達。
 さようなら、有り難う──。
 だけれどまたとてつもない切なさが胸を襲ってきた。
 何故、あの子達と出会ったのか。何故、別れなくてはならないのか。何故、こんなに名残惜しいのか……。

「早く行けよ、ばか!」

 え? 初めて子供の声が聞こえた。
 下と見ると、また──あの栗毛の子が彼女を睨んでいた。

「怖いんだろう。お前ってそういう奴だよな!」

 ちょっとむかついてきた。なんで貴方にそんなこと言われなくちゃいけないのよ! もう、いいわよ。私、もうこんなところにいる気はなくなって、上へ上へと行きたいんだから! 彼女はツンとして翼をはためかせた。
 大きくはためかせ、上へと向いた。

 ──さあ、行くわよ!

 この空へと向かう感触も、何処かで感じたような?
 翼をばさっとはためかせると、急に『ぐん!』と身体が上へと引っ張られるような勢いがついた。
 先ほどまで優雅に翼をはためかせていたような心地良さが消え去る。
 まるでジェット機のようなスピードになる! 空気抵抗を軽くするためなのか翼がキュッとすぼまり、ぐんぐんと上昇を始めた。

 そうして顔を上げ、彼女も顔を引き締める。
 空へと上空へと向かうこの気持ちは、彼女が良く知っている気持ちだった。
 だけれど『あの頃』はこんなに熱い気持ちは持っていなかった。
 こんなに『なにかを掴みたい』だなんて渇望はなかった。むしろ、何処かに何かを振り払うために、捨て去りたいために飛んでいた気がする。

 身体に重力がかかる。
 こんな重力なんてことはない。
 『私は訓練されている』のだから──。
 歯を食いしばって『操縦桿』を握りしめていた感触──。

 真っ白な世界を何処までも何処までも上へと突き抜けていくうちに、やがて大気圏並みの『G』が翼と身体にかかる。
 やがてその白い世界から、宇宙に飛び出したように真っ暗で重たい世界に突入していた。

 ──そうだわ、帰らなくちゃいけなかった!

 そう思った途端に、もの凄いスピードが加速する。
 とてつもない『G』がかかる大気圏のような空間はいつまでも続くけれど、驚くほどの勢いで上へと突き進んでいた。
 これも水の世界でもそうだったように、自分の気持ち一つで飛んでいる気がした。だからこそ! ここで『苦しい』とか『駄目だ』と諦めてはいけない気がした。それを少しでも感じたら、真っ逆さまに転落し、翼が砕け散る気がした!

 

『どうして! ママ、来てくれなかったの!』

『いい? 女の子はいつでも綺麗にお姫様のようにね……』

『葉月──嫌ならまた壊してもいいんだ。だけど……だけど……』

『お前が笑うと、幸せになる人間が沢山いるんだ──笑ってくれ』

 

 あのぽーんぽーんと聞こえていた音はこれらだったのだろうか?
 暗闇の中、上へ上へと突き進む中、サッと通りすがるようにそんな沢山の声と言葉が聞こえてきた。

 

『どれだけ、自分が“幸せ者”である事か! 噛みしめなさい!!』

『葉月……お前にとって【その日】は一生消えない日だろうね? でも──その日がなかったら……俺達どうしていた?』

『あの日と戦うのは……誰でもなく葉月自身だ。だけど──あの日を否定しちゃいけない、どんなに苦しくても憎くても悔しくても! お前がどんなに醜い憎しみを刻んだ態度を現しても……俺は見ているつもりだよ? 【あの日の意味】は、今ここに向き合っている俺達のこの時間のすべてじゃないのか?』

 

 ──そうだわ。全てが【私のもの】だった。

 

『愛しているよ、葉月。俺と一緒に勇気を持って生きていこう……。独りじゃないよ』

 

 ──隼人さん!

 

 そんな人の名前が自然と頭に浮かんだ。

 

 ──僕も一緒に行く。

 

 え? と横を向くと肩にちょこんと、あの栗毛の子が掴まっていた。
 彼の背にもちいちゃい翼がぱたくたと動いていた。

「だってさ。お前、心配なんだよ。あぶなっかしくてさあ」

 なんて生意気な口!
 だけれど、その子が葉月の肩に一生懸命に掴まっているのかと思ったら、その小さな翼をぱたくたと不器用に動かしながら、実は一生懸命に葉月を手伝ってくれているようだ。
 思わず、葉月は笑っていた。

 ──じゃあ、一緒に行きましょう。

 ううん、違った。
 本当はずっと一緒だったのよね。
 なのにどうしたことか、私は海底に落ちて、貴方はその上の羽の天国で待っていてくれたのね。
 だから、もう戻ろうとしない私のことを怒っていたのね。

 暗い上空に小さな丸い青い点が一点。
 小さな星のようだと思っていたら、見る見る間に大きくなって月のようになった。
 煌々と輝く『蒼い月』。
 そこへと向かっていて、必死に手を伸ばした。

 暗闇の中で見つけたほのかな明かり。
 弱くて柔らかくて、青い微光。
 だけれどたったそれだけの光を失うことはなかった。
 時にはその光しか見えないことに絶望を感じていたけれど。
 今はこれだけの明かりでも、充分に希望を持てた!

 私達の『蒼い月』。

 小さな彼と一緒に、その青い光に手を伸ばす。
 その青い光に近づくと、急にぐんっと吸い込まれた!
 葉月は肩に掴まっているだけの、生意気な栗毛の子を咄嗟に抱きかかえる。
 吸い込まれた光は眩しくて、あんなに微光だったのに眩しくて──そして、触れた途端に『どっくん!』と何かの中に放り投げられた。

 ……また、青い水の中?

 まるで振り出しに戻ったかのように……。
 また水面がキラキラとしている水の中にいた。

 いたのだが! 急に胸の真ん中に激痛が走った。

「い、いたい──!!」

 胸の真ん中から、真っ赤な血がドクドクと溢れ出し、美しい水の中、水面へと鮮血が上がっていく!
 栗毛の子が小さな手で、そこを慌てて押さえている。

「ここ、最後なんだよ。ここ、最後なんだよ。お前、どうするの、どうしたいの!」

 葉月の胸に乗って、小さな手で止血してくれている。
 痛い、息が止まりそうだ。もう、嫌…………。
 でも、小さな手。胸を押さえる小さな手。
 この子が望んでくれていること。そして私が本当に望んでいること。

 胸の痛みを堪え、また歯を食いしばって、葉月は水面を目指した!

「もうすぐだ、もうすぐ!」

 葉月の胸にしがみついている子が、一生懸命に身体ごと止血をしながら激励してくれる。
 もう指先が、水面を出ようとしていた。
 だけれど、葉月はそこで……止まる。
 そのまま水面へと飛び出なかったせいか、胸に貼り付いているその子が……また、あの目、あのへの字口で睨んでいた。

 そうじゃない。怖くなって留まったんじゃない。
 葉月は止血をしてくれているその子を、胸の痛みなど構わずに引き離し、そして自分の腕で抱き上げた。

 いつからか、私と一緒にいた『私の天使』。

「私、貴方が誰だか判ったわ」

 そうして彼の頬にチュッと口づけた。 
 初めて……生意気な彼がにっこりと無邪気な笑顔を見せてくれた。

「さあ、貴方を置いていかない。一緒に行こう……」

 彼もこっくり頷いて、一緒に手を伸ばした。
 煌めく水面の上は、今度こそ太陽。
 どんなに素敵な世界を見ることが出来るだろうか──。

 一緒に、水しぶきをまき散らしながら水面に顔を出した!

 

「でもさ。僕、もうちょっと中で待っている!」

 

 

 え? そう思った時には……。

 

 

 ふっと目が開いた。

 瞼が重く、一度では開かなかった。
 ほのかな明かり、ぼんやりとした明かり。

 ……なんだろう、良く分からない。
 長い夢でも観ていたのだろうか。
 何を見ていたかも分からない。

 なんとなく目が開いてきて、動こうとしたのだが……。動けなかった。
 目は動く。口は動かない。首は起こせない。
 息は……しにくい。そして胸が痛い。

「あ・・」

 なんとか出た声。

 もどかしくて何処が動くのか、あちこちを確かめるために意識だけで動かすと、指先が動いた気がする。
 そこがとても汗ばんでいるのも分かってきた。
 誰かが握っている。だから、そこを動かしてみた。

「……葉月?」

 そんな女性の声?

「う、あ……」

 息苦しくて、そんな声しか出せない。
 声帯が上手く機能していないのか、そんな息だけのような掠れた音しか発していないことも、今、分かった。
 だからもう一度、指先を動かす。

「は、葉月……!」

 今度は男性の声。

 女性と男性の顔が上に現れた。

『ママ……』
『隼人さん……』

 そう言ったのだが、言えていなかった。

「葉月! ママよ。分かる? 分かる!?」

 やや取り乱し気味の母を確かめて、葉月は小さく頷いた。
 それを見た登貴子は途端に娘の名を何度も叫びながら、葉月の肩にしがみついて大泣きを始めた。
 そして、彼は……ずっと上から涙も見せずに、葉月の視線から目を外さずにじっと見つめてばかりいる。

 今まで二人だけで繋いできたものがそこにあった……。
 目だけで分かる気がする。見つめ合っているだけで『葉月、貴方』と声をかけ合っているような『いつもの感覚』がそこにあった!

 葉月の目も熱くなってきた。
 目頭から、熱い筋が落ちていく。
 だんだんと分かってきた。

 そうだった。私、刺されたんだった。
 だから胸が痛くて?
 だけれど、また気が遠くなってきた。
 まだ完全に自分の力では目覚められないらしい。

『握って、私の手を握って』

 声が出ないけれど、口も重くて動かないのだけれど。
 葉月はじっと見つめ合う彼に、精一杯に唇を動かして叫んだつもり。
 これぐらいじゃ言っていることは通じないだろうに。それを分かったかのように、彼が手を握りしめてくれる。
 手を握りしめたまま、隼人がそっと顔を近づけてきた。

「葉月、待っていたよ……待っていたんだ!」

 その手を口づけてくれる隼人が、やっとそこで泣き始める。

 こっちを見て。ねえ、そんなに泣かないでこっちを見て──貴方。

 また通じたように、隼人がこちらを見た。
 その彼に葉月は囁く。

『ほら。私、ちゃんと帰ってきたでしょう。ねえ、一緒に生きていこうと言っていなかった?』

 今度もちゃんと通じたか分からない。
 でも通じたと信じていた。
 だからもう一度囁く。

 ──愛しているわ、貴方。

 彼の熱い涙が幾粒も、指先を伝っていた。

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