-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

TOP | BACK | NEXT

10.闇の花嫁

「これは隼人様のものですよね」
「違うよ。俺、そんな洒落たの持っていないから。エドか真一じゃないのかなあ」

 『そうでしたか、てっきり……』──この一軒家を一人で取り仕切っていたジュールが、家中に散らばっている『私物』の整理を始めた。
 彼が隼人の元に持ってきたのは、地模様が洒落ているソックス。隼人はシンプルな白やグレーが多い。

「あ、それ私のだよ。ジュール」
「え、お父様のでしたか」

 側で荷物をまとめていた亮介が覗き込んでそう言ったので、ジュールと隼人は一緒に驚く。
 あんな若々しいのを履くんだなあと、隼人はちょっと驚いてしまった。

「ねえ! ジュール! 俺のあのティシャツ知らない!?」
「はい。どのようなものでしたか?」
「この胸のところに、ワンポイントあるの。黒猫の!」
「ああ、あれでしたら……二階のベッドの上に置いておきましたよ」
「ないんだもん、見たけどないよ!」
「では、探して直ぐに持っていきますから、ほんのちょっとお待ち下さいね」
「あ、出かけるまでに見つかればいいよ。……えっと、我が儘ごめんなさい」
「いいえ、気にしないでください。大丈夫ですよ。直ぐ探しますから」

 ジュールと真一が二階の寝室に上がっていった。
 直ぐに見つかったようでジュールだけが降りてきた。どうやら、真一が丸めていた毛布の中に紛れ込んでいたそうで、隼人はジュールと一緒に笑ってしまった。

 真一はすっかりジュールやエドにも甘えっぱなしのようだった。
 実の父親である純一の前でもなにげなく甘えている様子は垣間見るが、それでもそれが『男親と息子』なのか変な意地張り合いをしたり、皮肉ったりして、真一はちょっと背伸びをしている時がある。だが、その分、彼等の前では、すっかり子供に戻ってしまうよう……。
 だが、エドもジュールも嫌な顔などしないし、むしろ可愛がっている。それもエドが特に。彼等の年齢は不詳なのだが、隼人が見る限りジュールは幾分か上で、エドは同世代か年下のようだ。そう思うのも、エドのセンスが若々しいのだ。その点では真一はエドにひっついてはファッションや年頃のお洒落については、なんでもエドに聞いているようだ。ああ、そうだ。エドの本業は『医師』だ。その点でも医学生の真一とは話が合うらしい。真一のお相手『守り役』はエドと言ったところだ。

「さて、いよいよこの家ともお別れですね」
「あっと言う間だった気もする」

 今、こうして皆がバタバタと荷物をまとめているのは、いよいよ葉月が山崎の病院に移動するからなのだ。
 あちらも一軒家で、今度は葉月を含めた『大所帯』になる予定。

「ジュール、ご苦労様。完全に主夫業だったよなあ。でも料理も美味いし、家事の手際も良いし、すっかり甘えてしまったな」
「とんでもない。隼人様もお上手だと真一様からお聞きしましたよ」

 隼人が見ても、彼の手際は素晴らしかった。なのでそんなふうに言われてやや照れたのだが──。正直、『これは凄い』と脱帽状態だ。
 ジュールも凄いが、エドの器用さには隼人は驚くばかりだった。この中で誰が料理上手かと言えば、もう『エドが一等賞』だ。隼人もこれは脱帽した。聞けば、二人とも『下積み時代に全て覚えた』と言う。なんとも、素晴らしいと隼人も男ながらにちょっとした闘志が芽生えたぐらいだ。

 そんな彼等にお世話になったこの家をもうすぐ出るのだが、どうやら向こうでもこの状態でお世話をしてくれるらしい。

「葉月にもやっと会えるな。彼女もジュールのことを何度も口にして、早く会いたいと言っていたよ」
「そうですか。ええ、私も楽しみにしております。ですけれど……」

 ジュールが笑顔を見せてはくれたのだが、『ですけれど……』と言うところで表情を曇らせてしまった。隼人も首を傾げる。そして、ジュールが溜息をつきながら呟いた。

「どれだけ痛ましいお姿になっているかと思うと、長年見守ってきた私としては、それを目にしたら……もう、腹立たしくなり、どうしようもなくなる事でしょう」
「──当然だ。俺だってそうだから」
「……隼人様にもお知らせしましたが、やはり、『あの男の足跡』は、まったくのようです。それが歯がゆくて……。いつもこうなのです」
「そうか……」

 ジュールが唇を噛みしめ、眉間に皺を寄せる。
 そんな彼等をこうまでする『ゴースト』とやらは、本当に『黒猫の天敵』と言ったところらしい。

 実際に、北海道へ行ったきりの右京から届いた連絡では、葉月から聞いた情報を元に、火山村土産店が委託している海鮮業者を突き止めたのだが、その男は数日前に辞めていて、会社に届け出ている住所先も既にもぬけの殻。むしろ、その住所も名前すらも『偽りだった可能性がある』と右京は言う。だが聞けば、その会社には一年はいたという。勤務態度も良く、人付き合いも愛想も良いとは言えないが真面目に働いてたとのこと。本社員ではない臨時雇用で配達員として雇われていたとか。他に同じように雇っている者も辞めていく時はさっと辞めていくのだそうだが、会社側としても前振りもなく突然辞めていったことを不思議がっていたそうだ。さらに『何年も定住している様子はなく明らかに余所者の感じだった。職も定まっていない感じで、他に仕事をかけもちしているようにも見えた』という海鮮業者の仲間達の話。
 そうなると、少なくともあの男は、一年は北海道を拠点にしていた事になる。それを『仮定』として、右京はそのゴーストの生活圏だっただろう噴火湾周辺での調査をしている最中だった。こちら本島にはちっとも帰ってこない。それほど、手間取っているようだ。
 言いたくはないが──『手がかりは途切れた』様な気がしてならない。せっかく葉月が必死になって伝えてくれたのに。そしてそのように誰もが感じ口惜しく思っているのだが、誰もそこを認めようとはしていなかった。

 さらに右京は『偶然ではない可能性も捨ててはおけない』と偶然じゃない方向性についても慎重に調べているが……。おそらくそうは調べながらも右京も『なんという偶然』と思っていることだろう。
 それは隼人も同じだ。『ゴーストがあの地域に居着いていた』事と『その被害を負わせた女性が、恋人とたまたまその地に出向いてきた』事で、二人が再会してしまったことは『もの凄い偶然』にしか思えなかった。
 純一の見解も右京と隼人と同様で、彼が言うには『偶然に出会ってしまったから、ゴーストも驚いて、あのような犯行に及んだに違いない』だった。そうでなければ、もっと計画的に犯行時も自分の匂いは残さずやるはずと彼が言うのだ。ゴースト男の気持ちになれば、『今すぐにでも葬る』という勢いだったのではないかと。

 そう思うと……葉月とその男がとても強く引き合う関係があるようで、隼人はなんだか妙な気持ちにさせられる。変な意味での『深い繋がり』に、隼人は純一と彼女以上の『適わない関係性』にとてつもない不安を覚える。
 まるで、その男が葉月を握りしめたまま『闇から出してくれない』ような気がするのだ。
 そう思うと、また身体が震える。また彼女を連れ去られるような状態になるのではないかと、そういう恐怖感を煽られていた。

 ともかく──彼等が先に名付けたように『幽霊』のような感触は、隼人にも凄く重くのしかかってきていた。

「帰ったぞ」
「お帰りなさいませ、ボス」

 純一が帰ってきた。

「義兄さん、お疲れさま」
「おう。いよいよだな。部屋も落ち着く雰囲気に整った」
「有り難う、義兄さん。葉月が喜ぶよ」
「なんのこれしき。葉月が落ち着く部屋にすれば、気分も良くなり治りも早くなるかも知れないだろうからな。そうだ、チビはどうだ」
「元気だよ。顔をみせてやってくれよ。義兄さん」
「わかった。では、行って来る。部屋の内装もデジカメに収めてきたから、見せてやらなくては」

 純一はそれはそれは丁寧にぬかりなく……まるで身体が動かない義妹の代わりとばかりに、準備に奔走していた。

 移転したら『入籍したい』という二人の意志は、いつの間にか御園の家族、親族にも知れ渡っている。
 たぶん、純一が知らせたのだろうなと隼人は思う。
 特に亮介と登貴子は、それ一色になりつつある。勿論、娘の容態も気にしているが、奇跡の生還を果たした後と言うことと、娘自身が強く望んでいるということから、もう、それは『それ今だ!』という勢いなのだ。
 それから隼人も時々様子を見に来てくれていた父の和之にも『移転をした頃、入籍だけでもする予定』という意向を伝えておいた。父も『お前達二人で決めたことなら、そうしなさい』と笑顔で承知してくれた。父も葉月が家族以外立ち入り禁止のHCUを出て、融通が利く入院先で再会できるのを楽しみにしていた。

 葉月のそんな幸せそうに回復していく雰囲気が、一族を明るくさせ始めていた。
 葉月自身も楽しそうで、時折、純一が顔を見せに来た時も、今はもう可愛らしい妹の顔で彼と言葉を交わしていた。その時は勿論、隼人も一緒であることが多く、三人一緒の時には真一も交えて笑い合うと、彼女は本当に幸せそうな顔をする。それが誰が見ても安心させるものなのだ。

 そして、時々──とてつもなく暗い顔になる。それも皆がいなくなり、隼人と二人きりの時に。
 その落差を隼人の目の前だけで見せてくれることは、ありのままの自分を隼人の前では我慢することなく見せてくれているという嬉しさもあるのだが。その顔を垣間見ることが出来る隼人は、とてつもなく胸が苦しくなる。

 幸せの続きがあったように、彼女には悪夢の続きもあったのだから。
 その最高と最悪に挟まれて、どんな気持ちでいることかと思うと──。

『葉月。空、見ようか』
『うん……』

 そんな時は、隼人はカーテンを開けて、二人で一緒に青い空を眺めた。
 ただ黙って傍らにいるだけで、葉月は隼人を見て、ふと笑顔に戻ってくれるのだ。

『結婚、嬉しいのだけれど……。本当はなんにもいらない。ドレスも新しい指輪もいらないの。貴方だけ側にいれば……』
『分かっているよ……葉月』

 お互いに今の指輪をしている左手を重ね合い、微笑み合う。

 彼女が本当に欲しいのはきっと……。
 隼人もそこに思いを馳せて、空を見上げる。

『綺麗ね』
『ああ、綺麗だな』

 何も要らない彼女が望んでいるのは、悪夢の終焉に違いない。

 そんな葉月がふと隼人に一言漏らした。

「あの男。もう見つからないわよ。今までのようにね──」

 そんなことをもう、葉月はすんなり受け止めているようだった。
 隼人が思っているように『もう手がかりはなくなった』と感じているのに、それを認めるものかと必死になって探している兄達とは異なる落ち着きようだった。
 一人でじっくりと葉月が思い耽っている時。隼人は絶対に話しかけないし、何を考えているか予想はするが、決して質問もしなかった。そしてその後も『何を考えていた』なんて追求もしない。だから、時々こうしてついて出てくる葉月の一言で、初めてその考えを知ることになるのだが。
 ──やはり、葉月はとても落ち着いている。今まで以上に『現実を素直に受け止めている』のが、かえって心配だった。

 そしてその男が『ずっと兄様達にも捕まえることが出来なかった』程の男であることも分かっているだろうに、そこで再度、巡り会い襲われるかもしれない可能性も分かっているだろうに──。なのに、怯えてなんかいないのだ。

 もう『目』だけじゃなかった。
 彼女の様子の全てが『湖のように静か』で、落ち着いているのだ。

 そんな葉月を見て、隼人は思うのだ。
 『本当に、心も静かなのだろうか』と。
 また彼女一人で何かを考えて、隼人の手が届かぬところや、目の届かぬところに一人で行ってしまうような気がしてならない。
 だがそれなら隼人と『直ぐ結婚したい』だなんて言わない気もする。彼女は確かに『貴方と一緒に生きていきたい』と言ってくれているのだから、今度はいざと言う時は隼人を置いていかずに、考えていることを話してくれると隼人は信じているのだ。

 それまではただ、彼女の側で見守っているつもりだ。
 そして決して、一人にはさせない。

 もしもの時は、今度は──『俺も一緒』と強く心に決めていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 あれから、純一の脳裏には山崎院長の言葉が離れない。

『偶然なのか、だとしたら葉月嬢はラッキー、かなりの強運の持ち主だ。だがワザとなら……まるで彼女を殺す気はないけど刺したとも思えなくもなく、気になりましてね』

 葉月とあの男が北海道で鉢合ってしまったのは、まさに『因縁尽く』だと思っている。
 だが、この『急所外し』には偶然的な強運はまったく感じられないのだ。

(焦って手元が狂った? まさか)

 その男は、皐月をひと突きで殺害した男だ。
 今まで純一が見てきた限りでも『手抜かりは絶対にない男』なのだ。いや……そんな彼でも葉月と鉢合った『偶然』には敵わなかったようだが。
 葉月が顔を思い出した。だから、殺さねばならない。葉月をどのようにして窺っていたのかは不明だが、横須賀で一人になった隙を逃さずに刃を振るい、目撃者だって残してしまったというその『彼らしからぬ不手際さ』にも疑問だ。それともそんな『不手際をしたからこそ』……急所を外してしまったのか? そんなはずはない。しかし、ともなると今度は『意図的に外した』となる。横須賀まで執拗に葉月を追いかけてきたのに? 目撃者を残すという不手際をしてしまっても、彼にとってはまさに『一瞬の隙でも絶好の好機』であったはずで、『トドメを刺す』ならその一瞬があれば決して『外す』事などないはずなのだ。──なのに。

 このことは、ジュールにだけ打ち明けてある。
 それを聞いたジュールも目を丸くして、『それはおかしい』と言ったぐらいだ。
 するとそのジュールがこんなことを言い出した。

「マルソー先生に伺ってみては如何でしょうか? あの先生、元は心療内科の先生だったようですよ」

 それは純一も知っていた。ロイがそんな女医を引き抜いて非常勤として医療センタで働いてもらうことにしたと言う話も知っていた。それが義妹の葉月に思わぬ効果をもたらしている──という報告も聞いていたのだ。
 ロイとしては義妹の為だなんてそんな意図で引き抜いた訳ではなく、本当に女性隊員の為の『新しい試みの一環』だったのに、葉月がその女医と向き合い始めたら、今まででは考えられない意志を持つようになったと言う。ロイとしては本来の目的に関しても、葉月に対しての思わぬ成果に関しても、『女医効果は大成功』と言うところだったらしい。
 そんな効果をもたらしてくれた女医ではあるがロイはあっさりと手放してくれ、また新しい女医を捜し始めている。まあ、葉月のためと言うよりかは、女医の強い意志を尊重してのようでもある。その他でもロイは『あの右京と、そうなってしまうなんて』と言った感じのようだ。それは純一も同感だ。
 幼馴染みでもあるあの右京が……。十八年前の事件後はどこか心を置き去りにしてふらりふらりと放蕩息子ぶりを見せてばかりで、仕事でも異性に関しても懸命になる本気を見せたりはしなかったというのに。ロイも言っていたが『相手の女性もそれほどに惹かれ合ってしまったようだし、そこを無理して小笠原の為にいて欲しいなどと、引き留めようとは思えなかった』と。純一もそこはロイと一緒に頷いたところだ。
 そうしてジャンヌも今は山崎と共に、あちらの治療スタッフの中に混じって葉月の受け入れを待ちかまえている。なんと山崎がジャンヌを『スタッフリーダー』に任命したらしく、彼女の指示で動くようになるようだ。主治医は山崎だが、ジャンヌは『看護の主任』と言ったところのようだ。

 ジュールに言われて、純一は早速ジャンヌを訪ねてみた。
 彼女は既に山崎病院内の一軒家で寝泊まりをしているとのことだった。

 病院の敷地内ではあるが、本当に広い敷地の片隅にある木々に囲まれた一軒家だった。
 風が吹けば、冬の枯れた木立の音が微かに聞こえる。とても静かな場所だ。
 ──既に、純一の部下が何人か、掃除夫や庭師、看護師などに扮してうろうろはしている。皆、ジュール直属の部下で、しっかりと仕込まれている優秀な男達だ。ボスの純一が来ても、彼等は部員としての匂いは決して出さない。むしろ『こんにちは。良い天気ですねー』なんて、それぞれが扮している職人になりきった自然体で話しかけてくるのだ。純一も『今日は暖かいですね』と、訪ねてきた時に言葉を交わす程度のただの顔見知りのふりをする。……なんてしたところで、ゴーストには『お前のことは良く知っている。周りの男達も部下だろう』なんて見破られているだろうが、そこはあからさまな警備はしないのが鉄則だ。
 そんな一軒家はそれほど現代的な新しい建物ではなかった。十五年か二十年前の匂いがする落ち着いたたたずまいの洋館風。蔦の葉が二階の窓辺に絡まっている。なのに庭は池がある日本庭園風で、なんとも古風な和洋折衷を感じるものだった。
 玄関ではなく、そんな庭園を通って窓を開け放してあるリビングのテラスへと純一は向かった。藤の棚がある縁側となるテラスを上がって、リビングを覗いた。すると真っ白なテーブルクロスがかけてあるダイニングテーブルで、花を飾っている白衣のジャンヌを見つけることが出来た。純一は『こんにちは』と声をかけた。

「あら、ボス。いらっしゃいませ」
「お疲れさま、先生」

 葉月が右京と再会できたあの晩、初めて待機室で挨拶をした時は、彼女は髪をラフにおろしきっていた『女』以外何者でもないほどに、右京だけを見ていた姿だった。
 だが、今、純一の目の前にいる彼女は、きっちりと髪を結い上げ、眼鏡をかけ、そして隙のない凛とした白衣姿でそこにいた。まさに『女医』だった。

「だいぶ人が住まうような雰囲気になりましたね」
「贅沢な病室ですが……。でも、私は今回のこの形式は『警護のため』以外でも賛成です」
「そうですか」

 そんな彼女が、もっともっと女医の顔になって純一に言った。

「葉月さんにとっても、今度は『逃げ道なき戦い』になることでしょう。今まで自分の心と静かに向き合うことも避けてきたようですから。一度はこうした静かな場所で、愛する人に囲まれて、じっくりと向き合う時間があっても良いと思いますから」
「私も、そう思いました」
「やはり、義兄様である貴方様もご心配、ずっとしてきたのでしょうね……」

 『右京のように……』。彼女が最後にそう言いそうだったが、そこは女医である時は言わないようだった。

「お任せ下さい、ボス。私もいろいろ思うところがありまして、葉月さんを見守ることは、実は……私の為でもあるのです」
「そうですか。是非、宜しくお願い致します」

 彼女の『私のため』はよく判らないが、義妹との関わりには彼女なりの重要性があるのだろうと、純一は置いておく。

「先生。実は……今日はお聞きしたいことがありましてね」
「まあ、どのようなことでしょうか」

 彼女が早咲きの野花を差したばかりの小瓶のすぐ側に、純一は山崎から借りたレントゲン写真を置いてジャンヌに見せた。
 産科医で元心療内科医である彼女に、そんな外科的な負傷部位を診察させるかのようにレントゲン写真を差し出したことは、ジャンヌも訝しそうだった。
 だが、純一はその部位を指さして、山崎が示唆してくれた『偶然かワザとか』という話をジャンヌにする。右京から『一族の事情』をあらかた聞かされていると言う彼女は、葉月が向き合わねばならぬ『ゴースト』という敵のことも既に熟知しているとか──。
 すると──。そんな純一の話を聞いた途端に、彼女がレントゲン写真を手にして、もの凄い怖い顔になった。

「偶然──。手元が狂った──。あるいは、わざと意図的か──。ですね?」
「先生。義妹と男が鉢合ったのは偶然と思っているのですが。『殺害目的』で義妹を追ってきただろうに、しかもプロであるだろうその男が、誰の邪魔もなく一対一で向き合う程の犯行実行のチャンスに、『殺すつもりはなかった』なんて気持ちに変化して刺したりするのでしょうか? この刺し方ですよ、本当に手元が狂って『万が一のしくじり』をしてしまったのか、それともワザとずらすという意図的な意志で刺したのか。私は『万が一だった』とも『偶然だった』ともこの場合は思えないのです」

 彼女に、自分が今持っている不安を全て口にしてみた。

「その男の心理が判らないのです」

 暫く──。ジャンヌはレントゲン写真をじいっと眺めて、そこから何かを読みとろうとしていた。
 そしてやっと口を開いてくれる。

「真相は判りませんわ。ですが例えば……」
「例えば?」
「殺すつもりだったが、手元は『殺したくない』という気持ちが無意識に働いた、それが一つ。もう一つは殺すとみせかけて、生かすつもりだったという本人に明確な意志がある場合。さらに『どちらでも良かった』などのいずれかにはなるのでしょうが……」
「──と、言いますと?」
「彼にとって、葉月さんは『生かしておけない存在でありながら、生かしておきたい存在』なのではないでしょうか。そういう本心と行動が相反するものが感じられますね」

 純一は眉をひそめてしまった。そんな答え、納得できなかったからだ。

「では──。殺すつもりだったのに、生かしてしまったとか?」
「本人は気がついていないかもしれませんが? そういう可能性もあり得るかと」

 やっぱり判らない。
 だが、ジャンヌが純一も震えることを言い出した。

「その男性。今まで葉月さんが記憶喪失だったから殺さなかったと言うかも知れませんが、本当は違うのでは? そういう『急所を外したプロ』というお話を聞いて、もっと他の理由があるように私には感じましたが。もしくは『手を退かねば、こうして何度でも義妹を傷つけてやる』──そういう彼の『究極の持ち駒』なのかもしれませんね」
「持ち駒──?」
「そう。どこか彼女に執着している、彼女は生かしておきたい持ち駒」

 純一は再度、凍り付いた。
 では、彼を追いつめようとするたびに、葉月が犠牲になるのかと!
 そんな純一を目の前に、ジャンヌがさらりと真っ白いテーブルクロスの上にレントゲン写真を手放した。

「まるで幽霊に取り憑かれてしまった『人質お姫様』みたいですわね」

 彼女も深い溜息を落とし、瞳を陰らせていた。
 彼女に聞くのはどうかと思ったのだが、純一はつい不安から彼女に尋ねてしまっていた。

「この男、また義妹の目の前に現れるでしょうか?」
「右京から聞いた話から思った事──医者としてではない個人的な見解になりますが。おそらく彼は、もう葉月さんが助かったことを知っているような気がします。だからといって『今すぐ始末』は考えていないでしょう。そうでなければ、葉月さんが助かったことを知ったならば、彼女が口を割らない内にもう一度葬ろうと必死になっているはず。一度は横須賀の医療センタで騒ぎが起きていそうな気がします。だけれど起きなかった。彼にとっても『顔を思い出された』ことは、もしかすると『既に覚悟していたこと』なのかもしれません。だけれど『思い出されたからには、それなりの対処』は、ばっちり考えていたことでしょうね。それぐらい『用意周到』な男であることは、ボスの方がよくご存じでしょう」
「では……義妹は『生かしておきたい持ち駒で人質』。つまり、これからも何度でも痛めつけるつもりがあるということで、今回のは『死んでも良かったし、生きていればそれはそれでまた、恰好の持ち駒』ということで?」
「その点について、言い難いこともあるのですが……」
「なんでしょう?」

 ジャンヌが、顔を強張らせてしまっている純一をじっと見ている。
 その目はなんとも、この純一でも威圧感を感じさせられた。つまり、彼女が『精神のプロフェッショナル』と判っている部分もあるが、それでもその眼自体が彼女の特徴そのもののような……『心を読まれる眼』に怖れを抱いてしまったのだ。
 なんだか納得した。これであの右京は彼女に『裸にされてしまった』のだと。
 そして、そんな彼女は純一がどう思うか、それともこの男性にはどのように告げるのが効果的かを探っているのだと思ったのだ。
 やがて彼女がその方向性を見出したのか、そっと純一に『言い難い事』を告げた。

「その男は貴方達敵方が、どうすれば一番『悔しがり、傷つくか』をしっかり見抜いています」
「私達の弱点……ですか?」
「そうですよ。ズバリ──それが貴方が愛した『姉妹』だったのではないでしょうか。さらに今後は貴方の息子さんにも気を配った方が良いと思います」
「──!」

 なんだか純一の胸が……何かの矢で貫かれた衝撃を受けた。
 純一の一番痛いところ。十八年前は、結婚しようと思った息子の母親である幼馴染みの皐月を奪われた。それと同時に可愛がっていたその女性の妹も散々に痛めつけられた。さらに息子はその時、腹の中にいて、運が悪ければ流産だってしていたかも知れないのだ!
 『あの時、俺がきちんと別荘に行っていれば』──その後悔を何度思い返し、拳を握りしめ叩きつけ、唇を血が滲むぐらいに幾たびも噛みしめて来たことか。それと同様の怒りだってどれだけ感じ続けてきたことか!
 何故か純一の『大切なもの』にばかり、矛先が向いているような、そんな気持ちを抱き続けてきた。だからなるべく義妹のことを避け、息子に対しては親子の匂いを感じさせないようにと努めてきたのも、そんな恐怖から逃れるためだったのかも知れない。しかし、昨年。そんな純一の『壁』はとうに取り払ってしまっていた。そうなった後に、このような『危険性』が迫って来るだなんて!

「何故、俺じゃないんだ!! 何故、か弱い女性と力無い息子なんだ!!」
「……そこに満足を覚える生き方をしているのかもしれません」
「くそ──!!」

 レントゲン写真に八つ当たりをするように払い落とした勢いで、野花を生けていた小瓶も倒れてしまった。
 だが目の前の女医はとても冷静で、その小瓶が倒れた方向にちらりと眼鏡の奥の視線を動かしただけ。それ見て、純一は我に返ることが出来た。

「申し訳ありません──。つい」
「いえ。私も同じ気持ちですから……」

 本当になんとも……。彼女の目の前では『本心の自分に帰らせられる』気がする。
 またもや『あの右京』がたちまち裸の気持ちにさせられた事に同感してしまう純一だった。

 しかしジャンヌはまだ女医の顔で、話を終わらせず、まだ言い足りなかった事があったのか続きを口にした。

「それとは別の見方がありまして。そこにも、気になることがあります」

 まだあるのか? と、純一は眉をひそめ、ジャンヌの言葉を待った。

「……なんとなく。『執着』を感じるのですよね。その男に」
「義妹に対しての、ですか?」
「そう。彼女は彼にとっては好都合の持ち駒であると同時に、なんとなく生かしておきたい『殺しきれない執着』です」
「それは……義妹を手に入れたいとか?」
「いいえ。彼はとっくに『俺のもの』と思っているかも知れませんわよ? 『生きるも死ぬも俺次第。お前は俺の意志によって生かされている。または死ぬ』──そういう支配的な欲望以上の、『一体化しようとしている執着』です。むしろ『所有欲』かもしれませんわね。という心理ともなると……」

 彼女がそこで一時黙り、そうして純一を見据えてきた。
 その眼鏡の奥で冷たく涼やかな鋭い眼が、純一に『覚悟を決めろ』とでも言いたそうに光ったのだ。

「義妹さんは、持ち駒の人質姫というよりかは、彼と闇の中で強く結ばれている『闇の花嫁』なのかもしれませんわね。彼はきっと彼女をそこに押し込める事に満足を得ているのかも知れませんわよ」

 そしてジャンヌは最後に純一に念を押した。
 これは全て『憶測』であって、真相は違うかも知れない、一個人の『感じたことに過ぎない』と。

 だが、純一は額に汗を浮かべていた。
 そしてほうっと落ち着くための息を吐き、手の甲で汗を拭った。

「いえ。いろいろなお考え、とても参考になりました」
「私の感じたイメージですが……。ですが私としても、このレントゲンを見てある程度の確信は得ました。こちらこそ、知らせてくださいまして有り難うございます。これで、葉月さんともどう向き合って行くべきかに関しても、参考になりましたから」
「そうですか」

 ──『ある程度の確信をした』。
 そのジャンヌの言葉を聞いて純一も思う。
 ──『たぶん彼女の憶測は、当たっているのではないだろうか』と。

 この話については、この日はそこで途切れた。
 純一はそこで、ジャンヌに丁寧に礼を述べ、近々葉月を搬入する際の話を暫くして、その家を出て行く。

 

 闇の花嫁。
 そのジャンヌの例えが妙に頭にこびりついて、純一はその言葉を何度も反芻していた。

 実にそうだったではないかと純一は思ってしまったのだ。
 義妹はどんなに愛しても、その闇から抜けられなかった。ある程度は良くなっても、たった一握りの消えることのない闇にあっと言う間に連れ戻されてしまった年月。
 それを思えば、義妹を闇へと突き落としたゴーストにずっと握りしめられていたと例えてもちっとも違和感がない例えだ。

 闇から抜けられない義妹。それなら、俺も闇の中にいようじゃないか。そう思った時だってあった。義妹と朽ち果てても良いと思った。常日頃、一緒にいることは出来ないが、その男を始末する日が訪れても尚、葉月一人がそれでも呪縛から逃れられず朽ち果てていく時は、絶対に一人にはするものかと。
 純一も隼人のように『頑張って生きよう』と義妹を無理矢理に明るい方向へ引っ張ったことだってある。それも彼よりずっと昔、さらに長い年月だ。だが、やがてそればかりが義妹の為ではないのでは……と。どんなに明るい中へと導いても、一向に変化することのない日々の中でそう思う時がやってきたのだ。そんなくじけるような気持ちに、辿り着かない希望への途方もなく遠い道のりを悟ってしまった時、純一は『どうにも出来ずに朽ち果てていくしかないことも、あるのかもしれない』と思い、その覚悟もしてきたのだ。

 だが、義妹は『ひとつの愛』で立ち上がった。
 それは、また……その力を持つ『ひとつの愛』が、この義兄ではなかったという事だった。
 だが、朽ち果てても良い愛し方をしたことは後悔はしていない。それが純一が選んだ愛し方で、自分はそうするようになる結果しか残せなかったのだ。──今よりずっとずっと幼い義妹と愛し合った日々の中では、この義兄と義妹という関係性ではああなるしかなかったのかもしれない。
 だから義妹は、囲いの外で出会った男の傍で、大きな幅を得て、その幅の中で成長を遂げたのだろう。

 ──義兄と義妹が故に。
 その関係性がなければ、愛し合っていなかったかもしれない。
 だからこそ、男女として愛し合った時は、ああなってしまったのかもしれない。

 だから純一は後悔もしていないし、そしてその愛が最善の形ではなかったとしても、『愛』というひとつの純粋な言葉で成すだけなら、義妹と熱く愛し合った日々は今でも忘れてはいない。そしてこれからもずっと。かけがえのない……。
 そして今──。朽ち果てても良い愛し方を選んでしまった男には、今の義妹を奪う資格は何処にもない。
 それ以前に『義兄』以外の何者でもないのだ、もう。

 駐車場へと向かう、葉もない銀杏の並木を歩く中。
 義妹の囁き声が聞こえてきた。

 

『独りぼっちじゃないって、忘れないで』
『ああ、忘れない。俺にはお前がいる』

 

 純一はそこで立ち止まり、独り、ふと目を閉じ、その甘い声に耳を馳せる。

 

『兄様は独りぼっちじゃないわ。兄様がどんな男性であっても私が愛していると忘れないで』

 

 ……何度も置き去りにして、泣かせてばかりいたのに。
 彼女は絶対に純一のことを見捨てなかった。

 

『──私が愛していると忘れないで』
『独りぼっちじゃないって忘れないで』

『忘れないでね……』

 

 純一は、そこでそっと目を開けた。
 この言葉ひとつ、あの時の愛の熱さひとつで、生きていけると思った。
 そして今も、義妹のあの言葉は忘れていない。
 そしてやはり今の純一を生かしてくれている言葉だった。

 拳を握りしめ、純一は歩き出す。

 ──今度こそ、闇から義妹を救い出し、真っ白な光の花嫁にしてやるのだ。
 そして新しい花婿の手の中にも、純一が遂げられなかったように、まだ『闇』という大きな邪魔者が残ったままのようだ。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.