-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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9.静かな目

 年が明けていた──。
 それでも空は変わらない。
 ここのところ晴天が続いているせいか、この病室から見える青空もとても綺麗だった。

「もう、いいわ」
「いいのか? 見ていたいならこのままにしておくけれど」
「眩しいから──」

 まだ酸素マスクをしている葉月が、それでもそっと微笑みながらそう言う。

 数日前から、葉月は目を覚ましている時間が長くなってきていた。
 だが胸の傷は深く、息苦しそうで、そして少しでも動けばその顔を苦痛でゆがめる。
 それでも『空が見たい』と言うようになり、こうして隼人が窓辺のカーテンを開けて、彼女と一緒に空を眺めていた。

「──ねえ。年、越えているのでしょう?」
「ああ」

 まだ日にちや時間感覚が掴めないぐらいに、眠ることと目覚めることを繰り返している葉月。
 だけれど徐々に、言葉はしっかりとしてきたし、自分なりに時間感覚も現実に戻ってきた感覚も、一人で黙々と噛み砕き、整理しているような気がする。そんな顔をしてじっと目を開けているのだ。
 何を考えているだなんて。問うても無駄だろう。彼女には今、考えなくてはいけないことが沢山あるに違いない。それもきっと『考えたくないこと』と向き合っているのだ。

 だが、隼人が見る限り……彼女は落ち着いていた。
 それどころか、葉月のそんな眼差しは、しっかりと輝きを取り戻し、何かをちゃんと捉えている眼をしていた。
 登貴子と心配していたような、気がはっきりしてくるほどに取り乱したり、あるいは現実逃避をしたり……。そんなことも覚悟はしていたが、いたって普通の、そう、むしろ大佐室にいるような時の『大佐嬢の顔』をしているのだ。

 隼人はただ側にいて見守っている。
 天井ばかり眺めている『物思い』は疲れてきたのだろう。
 気分が少しでも明るくなりそうな空色を眼にして、葉月はただ安らかな顔でじいっと見つめ続けているのだ。

 ただ一度だけ、葉月がその苦痛を露わにした時があった。

 

 ──話は、右京と彼女が再会した晩に戻る。

 

『ほっかいどう かざん 』

 葉月が必死に伝えようとしたこの一言が、かなりの波紋を広げたあの後。
 右京はまた出かけてしまい、そして純一も暫くは帰ってこなかった。
 夜明け前──。また、葉月がふと目を覚ました。
 その時はまだ、純一は戻ってきていなかった。

「──にいさまたち は?」
「今、出ている」

 彼女がうっすらと額に汗を浮かべていたので、隼人は側にあったガーゼタオルでそっと拭った。
 葉月がふっと目を閉じて、すこし気持ち良く安らいでいるように見えた。それだけで隼人もホッとする。
 だけれど、次には葉月の目が輝いた。それは何かに突き進もうとする時の、彼女特有の目。

「わたしが いいたいこと わかった?」

 目覚めるなり、葉月はそこに話を戻そうとしている。
 先ほど、なにも伝えられなかったことに少しばかり焦っているように見える。
 だけれど、もう──兄達とある程度の推測は立てられたのだ。

「有珠山の火山村で何かを見た。例えば、お前を……」

 ──刺した犯人の顔を。
 そこで出会って、忘れていたのに衝撃が頭痛として襲って、とりあえずはまた奥底に沈めることが出来た。
 だけれど、その男が何故か葉月の前に横須賀で現れて、そこで思い出した。

 そう言いたいのに、本当に葉月がそのように思い出しているのかが怖くて言えなかった。
 しかし葉月は『有珠山の火山村』と隼人が言っただけで、ちゃんと伝わっていた! とホッとしているようだ。
 そしてさらに葉月から切り込んできた。

「そう みた の──」
「! な、なにを……」
「わたしの 肩に傷つけた おとこ」
「……」

 それは右京にも告げていた事だから、隼人はここでさらに驚くことはなかったけれど。それでも、彼女が重傷であるのにもかかわらず、あまりにも落ち着いて告げたので、隼人はなにも反応できなかった。

「頭痛 きっとそのため──。そのときはそれだけ。刺される時に、思いだし・・・」
「もう……いい。それ以上は辛いだろう? それに流石、お前を長年見てきた兄さん達だな。直ぐに察してきっとそうだろうと推測が出来ていたよ」
「でも きいて。まだある……!」

 また意を決したのか葉月の瞳が輝きを増す。
 隼人は……そんな葉月の意志を強く感じ、そっと酸素マスクに耳を寄せた。

「無理しない声で、言ってご覧」

 無理はさせたくないが、葉月はとてもそこでもどかしそうだった。
 無理をしてでも伝えたいようだし、隼人ももっと確かな情報があるなら、それをきちんと葉月から聞き取って、彼女の代わりに手足になって動いてあげたい……。それでなくても、これから一緒に人生を歩んでいこうと誓い合ったのだ。彼女の気持ちは隼人の気持ちだ。
 すると葉月が息だけの声に抑えながら『有り難う』と呟いてきた。隼人は耳を寄せたまま、そっと葉月の手を『大丈夫だ』と握りしめる。

 そして葉月が息だけの声で話し始めた。

「火山村の土産店 仕入れをしていた 漁師のような格好 店の人 慣れていた」
「──!」

 息だけの声になると、割とスムーズに言葉を連ねた葉月。
 だが、その内容に隼人は『それはすごい手がかりだ』と驚き、葉月の顔を見た。でも、葉月は怯えてなんかいない。本当にしっかりと目を光らせ、その事実を受け止めているようだ。そして彼女が『まだよ』と言ったので、隼人はもう一度、彼女の口元に耳を寄せ直す。

「蟹の足買った……三軒先の店よ」
「三軒、先? お前がしゃがみ込んでいた方向だな?」
「そう あの男 ハンカチ拾ってくれた けど その時は頭痛だけ  思い出せなかった」
「……葉月」

 『思い出せなかった』──。と言うことは『思い出したのは』と隼人の胸にとても辛い思いが押し寄せてきた。ほんのちょっと彼女と離れてしまったあの時。葉月がたった一人でその瞬間を、それも『一番思い出したくない男』と向かい合い、その男がナイフを振るったあの時に『思い出したのだ』と衝撃を受けた!

「──何故、こんな事に。葉月」

 そんな彼女が痛ましいばかりで……。
 隼人は顔を寄せているそのまま、彼女のぱさついてしまっている栗毛に指を通しながら、葉月の頬を撫でた。

「だいじょうぶ よ」
「葉月……」

 思った以上に落ち着いている気がする。
 もっと精神的にバランスを崩すかもしれないことは、登貴子のあの不安を側で見ていた隼人も『覚悟』はしていたのだが。本当に、葉月は落ち着いている。その上、まだ隼人に伝えてくる。

「四十前半ぐらい 白髪多かった 目、うすい緑っぽい 日本人ぽくない顔 けど日本語上手かった 顔 少し変わっていた気がする でも判った」
「そうか、分かった。お母さんが戻ってきたら、兄さんに直ぐに伝えに行く!」
「ダメ、いま いますぐ! にいさま なにもしらず 動いているから」

 今、二人きりだったので隼人は離れるのを躊躇った。だが葉月が『早く!』と声ある声で叫び、強い眼力で隼人を睨むことで促す。

「分かった。そこにエドが常に待機しているんだ」
「かれ も きているの」
「ああジュールもな。彼等ともすっかり親しくなったよ」
「それなら はやく!」
「いいか。ナースコール、握らせていくから。何かあったら押すんだぞ」

 後ろ髪引かれる思いだった。またほんのちょっと離れている隙に……。もし、何かがあったら!?
 他の誰も付き添っていない時に──。

「はやく! にいさま おしえて!!」

 だが葉月がそれを強く望む。
 隼人は頷いて、急いで外に出た。
 階段の踊り場にいつもいるエドのところに向かい、葉月が教えてくれた『男』の情報を手早く伝える。エドは驚きながらも、すぐに真顔になり、サッと手帳にメモをとって彼も飛び出していった。
 隼人も急いで病室に戻る。たった一人、今、葉月は何を思っているだろうか。落ち着くまでは……いや、葉月は落ち着きすぎている。それが余計に不自然のような気がしなくもなく、隼人は急ぐ。ほんの一、二分ぐらいの早さだったと思う。

 だが、病室に戻ると──。

「……ぐっ んぐ!!」

 葉月が腕を振り上げて、激しくベッドを叩きつけているのだ!
 そんな声が聞こえて隼人は驚いて、ベッドに駆け寄った。

「葉月──!? 苦しくなったのか?」

 喋らせすぎたのかと思って、駆け寄ったのだが──。

「ぐ んぐぐ!!」

 ナースコールを握った拳を、歯を食いしばった顔で何度も何度も叩きつけている。
 彼女の目から涙も……。そしてとても悔しそうな顔。

「葉月、葉月、やめろ!」

 その拳を隼人は掴みあげ、激しく錯乱しかけている動きを隼人はなんとか止める!
 それでも葉月は首を起こしあげるような勢いで、まだ拳を叩きつけようとしていた。

 一人で思い返し、どうにもならない気持ちになったのだろう。
 それとも、今、彼女は今まで以上の『恐怖』と『憎しみ』と戦っているのだろうか!?
 ……やっとそれらしい感情を外に出している葉月。
 隼人の力を振り払うような強さで、葉月の腕はまだ暴れたがる。

「ごめん、離れるべきじゃなかった。大丈夫だ、俺、ここにずっといるから!」
「──さん ・・・は やとさん……」

 そう呟きながら、葉月の腕がすうっと柔らかくなるように力がなくなり、静かにベッドに横たわった。
 その手を握りしめ、隼人はいつもの位置にある椅子に座り直し、葉月を見つめた。

「でも、我慢は良くない。葉月……怖かったら怖いと、口惜しかったら口惜しいと俺に言ってくれ」

 大人しくなった葉月が、またあの落ち着いた目でじいっと隼人を見つめている。
 なんだかドキリとした。その目は良く知っている目だけれども、だからこそ──。湖のように静かで、そして夕焼けのようにしっとりと飴色に輝く彼女の茶色い瞳。それが妙に静かになったのが、まるで『大佐室の彼女』に戻ったようで……。

「・・す して」
「え?」

 聞き取れなくて、隼人は再び身をかがめ、酸素マスク側に耳を寄せる。

「キス して」
「!?」

 隼人は面食らってしまい、思わず──身体を起こし、葉月を唖然と見つめ返してしまった。
 だけれど、葉月はあの目で、あの静かな目で隼人を見ている。『私、おかしな事、言っていないわ』と……そんな彼女の声が聞こえてきそうだ。

「あなた 顔 見ると……落ち着くわ」
「葉月──」
「あ んしん して。 わたし 負けない!」

 その『負けない!』と言いきった言葉に、葉月の声が戻ってきていた。
 それだけ強く力を入れて言ったのだと──。彼女は、どんなに苦しくて痛くて目を逸らしたくても、あんなふうに悔しくて暴れたくなっても、それでも現実と向き合う『覚悟』は、きちんと静かに受け止めている!──そう伝わってきた。

 居たたまれなくなって……。でも、そんな彼女が、いじらしくて。隼人は泣きそうになる。
 そんな運命を背負ってしまっている彼女を痛ましく思いながらも、それでもこうして生還してきた彼女が『負けない』と向き合おうとしているその健気さに……。

 だから──また、身をかがめ、彼女の頬に隼人はそっと唇を落とした。
 それだけじゃない。それは葉月も同じように望んでいるのか、頬へのささやかな口づけなどでは不満そうな目をしているから、少しだけ、隼人は微笑んでしまった。
 隼人は酸素マスクをそっと除ける。

「俺がついている」
「あなた が…… いるわ」

 その囁き合いで、そこの空気がふわっと優しく柔らかになったのが分かる。
 暫く、二人で鼻先をこすり合わせるようにして、瞳と瞳で視線を重ね合う。
 そしてまぶたを一緒に柔らかに閉じようとしていた時、彼女の唇がふっと……こんな状態だけれど悩ましげに小さく開いた。そこに隼人はほんわりと優しく柔らかく唇を重ねる。
 でも、実際に重ねると、可哀想なぐらいに葉月の唇は荒れていた。この前まで人工呼吸器をがっちりと喉まではめ込み、それを固定していた太いテープが彼女の唇を荒らしてしまったのだ。口角なんか真っ赤になっている。それがいつ見ても痛々しい。だから隼人はつい……。そこを猫にでもなったような気持ちで、舌先でそっと撫でてしまっていた。やはり血の味がする。こんな熱い舌で撫でたら、その熱でしみそうだ。それでも隼人は艶を失った彼女の唇に、潤いを与えるように……今度は唇まで吸ってしまっていた。

「あ・・」

 そんな葉月のちょっと悩ましい声。
 いや、やはり熱が染みて痛かったのかと、隼人はハッと我に返って離れてしまった。

「──い、痛そうだったから」
「……うん 痛がゆいから 気持ち良かった」

 葉月がふっと頬を染めて、照れたように横を向いてしまった。
 でも、なんだか嬉しそうに微笑んでいた。

「素敵 だった」
「・・そ、そうか? うん、お、俺もつい」
「そばに いてね」
「勿論──」
「やっぱり ひとりは 辛いから。頑張るけど あなた 必要……」
「当たり前じゃないか。俺にも必要だ!」

 葉月がにっこりと頬を染めて微笑んでくれた。
 隼人はもう、泣きたいぐらいにその笑顔に感激してしまい。つい──もう一度、葉月に口づけていた。

 彼女も息苦しそうだけれど──。
 隼人から溢れ出てしまった情熱に合わせるように、葉月も今度は積極的に絡めてきてくれる。
 つい、本当につい、夢中になっていた。
 でも、息が切れてきた葉月にすぐに酸素マスクをかぶせる。長い口づけは出来ないけれど、その代わりに隼人は彼女の頬を包み込み、栗毛を何度も手で撫でたりして慈しんだ。

 やがて、葉月が微笑みながら……また、目を閉じてしまった。
 ただ疲れて目を閉じていたようだったが、暫くして本当にまた眠ってしまったようだ。
 その間も隼人はずっと葉月を撫でていた。
 彼女が安らかで満ち足りた顔で眠りについてくれて、隼人は頬染まるその微笑を携えた顔を、ずっと見つめていた。

 もう、夜が明ける。
 朝になったら、彼女の両親と交代だ。

「澤村!」

 純一が帰ってきた。
 たぶん、隼人が伝えた情報を聞いて、驚いてすっ飛んできたのだろう。

「……眠ったのか。葉月、大丈夫だったか!?」

 ネクタイもしていない乱れた胸元、そして純一は息を切らして、額には汗を浮かべていた。
 『葉月は、大丈夫か』──その慌てた彼の言葉に隼人は思う。情報に驚いたというよりかは、確実に正確に犯人を憶えている義妹がどんな状態なのか、心配で堪らなくすっ飛んできた。そんな感じだった。
 無理もないと隼人も思う。今、彼女は安らかに落ち着いたけれど、でも隼人の目の前でも取り乱しはしたのだ。
 きっと、彼を始めとする彼女の家族は、何度もあのような『末娘』を見てきたのだろう。

「大丈夫。彼女、しっかり受け止めているようで『負けないから、安心して欲しい』と──。少しばかり感情に起伏はあったけれど、彼女、頑張っていた」
「そ、そうか……」

 純一ががくっと力んでいた肩の力を抜いた。

「義兄さん。俺、少し休憩してきていいかな。下でコーヒーを飲んでくるから、ここ頼むよ」
「あ、ああ……」

 座っている椅子を彼のために空ける。
 すると、純一は安心したのかホッとした息を吐いて、そこに座り込んだ。
 座るなり、葉月の顔ばかり見ている……。

「じゃあ、行って来る」

 隼人は病室をそっと出た。
 ふと振り返ると、やはり純一は葉月の顔ばかり見ている。

 きっと、隼人がいなくなったら、手でも握りしめて、眠っているだけの義妹にいろいろと話しかけているに違いない。
 ──彼はまだ、義妹を愛している。
 ずっと一緒にいた隼人には、充分にそれが通じてしまっていた。彼は隼人より前には出ないし、いつだって後ろに下がって……。それでもじっと義妹のことを第一に考えてくれているのだ。
 だから──。あんなふうに慌てて駆けつけてきた彼だから。愛しい義妹は眠ってしまったけれど、それでも……側に寄せてあげたくなったのだ。

 

 ──それが右京が再度、出ていった晩の明け方にあったことだった。
 犯人の輪郭が出てきた。
 その情報はすぐさま右京にも知らされたようだ。

 

 

 それから数日──。
 年が明けた。

 葉月が錯乱しかけたのはあの晩一度きりだった。それ以降はあの『静かな目』で落ち着いている。
 まだ起きあがれないが、目も長い間覚ましている。けれど、じっと黙って何かを考えている日が続いていた。

『空が見たい』

 そうして淡々と日々を重ねている彼女を、隼人も静かに見守っていた。
 少しばかり穏やかな日が戻ってきたとさえ思える昼下がりだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 葉月は徐々に、回復してきていた。

「葉月。リップクリームを買ってきたんだ」

 あの一軒家へとジュールがこしらえる昼食を食べに出向き、この病棟に戻ってくる途中、コンビニエンスストアに寄ってきた隼人。
 そんな余裕さえ出てきた。
 今は一緒に登貴子が付き添っていて、叔父の京介が見舞いで持ってきた花を花瓶に生けているところだった。

「ストロベリーとかピーチとかレモンとかメントールとかいろいろ種類があるんだな。ものすごい迷った」
「それでどれを買ってきてくれたの?」

 隼人がにんまりとレジ袋を片手に、いつもの椅子に座り込んだ。

「どれだと思う? 葉月はどの匂いがお好みだったかな」
「……ピーチかしら」

 さらににんまりとした笑みを浮かべ、隼人は『じゃーん』とレジ袋から買ってきたリップクリームを取り出した。

「当たりだな、俺。ピーチ買ってきたんだ」
「すごい。通じ合っているってこと?」

 それを登貴子が微笑ましい顔で眺めている。

「まあ、貴方達ったら、見せつけてくれるわね。ママはお邪魔かしら」
「とんでもない。実はですねえ、お母さん」

 隼人は再度、レジ袋にがさがさと手を入れる。

「実は、ひと揃え買ってきたんです。これで完璧」
「まあ、隼人君たら──! 葉月が怒るわよ」

 母親の言うとおり、既に隼人は葉月に睨まれていた。

「ずるいっ。隼人さんたら。通じ合ったと言った私が馬鹿じゃない!」
「まあ、そんなもんだろう」
「そんなもんって、なによ……!」

 葉月がむくれて、そっぽを向いてしまった。
 そんな元気が出てきた葉月。隼人は登貴子と顔を見合わせてそっと微笑み、喜びを噛みしめ合う。

「ほら。塗ってあげるから、勘弁してくれよ」

 隼人はピーチのリップクリームの包装を解いて、葉月に突き出した。
 自分で酸素マスクも取ることが出来るようになった葉月。自分の手でそのマスクを除けて、隼人に唇を任せてくれる。
 そうして隼人もスティックの先をそっと彼女の唇に滑らせた。そうすると、以前のような煌めく艶が蘇る。
 その唇に見とれてしまった隼人を、葉月がじっと見つめている。

 『綺麗だよ』──彼女の母がいるからそう言えないけれど、でもその気持ちは通じているようで、葉月は隼人の一瞬の熱い眼差しを知って、嬉しそうに瞳を輝かせる。

「日替わりで楽しめるのね」
「そうそう。そのつもりだったんだ」
「本当にぃ?」
「そうだとも」

 その会話にも登貴子がそばでクスクスと笑っていた。
 そんな母親を葉月がベッドから眺める。

「リップクリーム、いい匂い。お花も綺麗ね、ママ」

 身体はまだ思うように動かせなくても葉月の顔色は日に日に良くなり、家族とのそうした和やかな関わり合いも増えてきていた。

「叔父様、葉月の為にこんな沢山のお花を買い占めてしまったのねえ」
「ピンクのお花、素敵ね」
「華やかになるわね。この色は──。それとも叔父様、『祝福』してわざとピンクにしてくれたのかしら?」

 エレガントなグラスコードを日射しに輝かせながら、登貴子がまた二人をからかうように振り向いた。
 あんな時だったがつい『結婚します』と言ってしまった事は、葉月にも既に知らせておいた。葉月はそれについて何も言わなかったが、その後両親や義兄に甥っ子、そして見舞いに来た叔父夫妻を見て、ちょっと照れているように隼人には見えてしまった。
 だが、まだ誰もはっきりとは触れようとしなかった。葉月からも、当然、隼人もだ。
 だけれど、こうして二人が徐々に以前通りの親密な関係をみせると、亮介も登貴子も真一もからかってくる。時には純一すらも『お前ら二人、みせつけてくれるな』とぼやくことがあるぐらいだ。
 だから、また登貴子にそうしてからかわられて隼人は照れていたのだが。でも──葉月はこの時はどうしたことか、登貴子をじいっとあの静かな瞳で見つめていた。
 母親の登貴子もそれに気がついたのか、ふとこちらに身体を向けて首を傾げていた。

「ママ……。今まで、苦労かけてばかりで、ごめんなさい」
「──!」

 登貴子が驚く。そしてそこで硬直していた。

「私、彼を傷つけて……。やってはいけないことをしたわ。ママに『勘当』された意味、よく分かったの。今まで自分がとても辛い目に遭ったからって、甘えすぎていた。どうにも気持ちの行き場がないから、仕方がないのだと許されると……心の何処かでそう思って甘えていたのだって気がつかなかった。でも、どんな人間にもしてはいけないことがあるってよく分かったの。私、彼に許されても、私はずうっと彼を傷つけたことを忘れない。だけれど、ママ……信じて。私、彼に許してもらいたくて戻ったんじゃない。一人になって、やっぱり本当に彼を愛しているって分かったの」

 急にそんなことを言い出した葉月のことを、隼人も登貴子も驚いたまま、見つめるだけだった。
 だけれど、葉月の目は真剣だった。そして強く強く母親を見ていた。

「……今は、こうなったから、ママはいてくれるけど。本当はそれとこれとは違うし、まだ終わっていないのよね」

 葉月がふうっと息を吐いて、天井へと目線を向ける。
 少しばかり喋りすぎて疲れたようだった。
 でも葉月は天井を見上げたまま続けた。

「ママが許してくれるまで、私、待っている。それから──」

 ──ママ、私を産んでくれて有り難う。

 葉月がそこは登貴子の方を見て、ちゃんと告げた。
 それを見届け人のようにして側で見守っていた隼人も、ちょっぴり涙が滲みそうなぐらいに感動してしまっていた。
 さて、登貴子は?

「そうねえ。葉月が元気になったら、また『勘当再開』ね」
「分かっているわ……ママ。でも、来てくれて嬉しかった。今もとっても心強いのよ」
「そう」

 登貴子は背を向けて、生け終えた花を、また直すようにあちこちいじっていた。

「そうだわ。ママ、ちょっと買い物、行って来るわね」

 登貴子がなにげなく外に出ていこうとしたので、隼人はちょっとがっかりしてしまう。

「いってらっしゃい、ママ。早く帰ってきてね」

 葉月が送り出す声に、登貴子が立ち止まる。
 その肩が震えているように見えた。

「──次にフロリダに来る時は、貴方達は夫婦になっていることでしょうね」

 そう言うと登貴子はそのまま、急ぐように病室を出ていった。
 隼人は『これは』と思って、葉月を見た。

「俺と一緒に帰ってこいと言ってくれたぞ!? 今の、勘当解除ってことじゃないのか?」
「──どうかしら。夫婦になってフロリダに来たら許してくれるってことじゃないの」

 今までそうだったように、葉月はこんな時も平坦な顔で、シラッとしていた。

「なんだよ。お前とお母さんて結構似ていないか!? 素直じゃないなあ」
「うん、時々、言われるわ」
「なるほど、なるほど。葉月の中にもお母さんがあったんだな。なるほどねえ?」

 ちょっぴり素直じゃない母娘。
 それでももう気持ちは通じ合っている母娘。
 隼人はホッとした。それに……。

「手紙じゃなくて、ちゃんと、お母さんに向かって言えたな」

 頑張った! と、葉月の髪を撫でると、葉月も達成感があるのか満足そうに微笑んでいた。

「隼人さんに見届けてもらえて、良かったわ」
「なんだかハラハラ。俺ってきっとこれからずっとこうなんだろうなあ」

 婿養子の定めか。
 葉月がちょっとだけ、可笑しそうな笑い声を立てたが、やがて少しばかり申し訳ない顔になる。

「本気なの? 婿養子。身を退くなら……」
「誰が退くか。俺も退かない、このまま行くぞ!」

 隼人が言いきると、葉月がそっと微笑む。
 また頬を薔薇色に染めて──。
 あの日の彼女が確実に帰ってきていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 だがそんな葉月も、時にかなり不機嫌になる。
 それは純一が今、忙しく外へと動き回っていることをやや不満に思っているようだった。

 葉月が時計を見た。
 直に夕方を迎える。

「義兄様はまたおでかけ? 右京兄様から連絡はないの?」

 目を覚ませば、葉月は必ず、兄達の所在を確かめる。
 ──実際に、右京はあれから北海道に行ったきりだった。しかもたまに連絡が取れなくなると純一が心配をしていた。逆に純一の部下が右京を捜索するぐらいだそうだ。まあ、大抵はすぐに見つかる程度のようなのだが、彼の部下達をかなり振り回しているようだ。なんだかそういうところ、やっぱり『御園的』で、葉月の従兄なんだなあと思ってしまう。
 そして……。純一もあれから忙しくしている。
 だから葉月が時々、残念そうに呟くのだ。

「ちっとも……私と話してくれないんだから」

 『話ってなんだよ』と、隼人は突っ込みたいところなのだが──。
 その時、葉月はいつも深い溜息をする。そしてなんだかとても釈然としない何かを溜め込んでいる顔をしているのだ。それは決して、恋しいとか言う顔ではなく、本当に聞いて欲しい話がある様な顔だった。

「なにか伝えたいことがあるなら、向こうの一軒家で会えた時に伝えるけれど……」
「ううん。もしそうしてもはぐらかされる気がするわ。それに今度は隼人さんも一緒に側にいて聞いて欲しいから」
「そうなんだ。じゃあ、葉月が話したがっているとだけ、言っておくよ」

 葉月が『それでもきっと難しいわね』と言いながら、ふてくされていた。

 だがその日の夜、純一が戻ってきた。

「だいぶ調子が良くなってきたみたいだな。顔色も良い」
「兄様、いったいどこを歩き回っているの」
「なんだ。澤村から聞いていないのか? 移転する病院の受け入れ態勢を整えたりしているんだ」

 それは隼人も葉月に説明したし、葉月も納得していた。
 それが葉月が良く知っている山崎医師の病院であることで、彼女は安心していたし、それに『ジュールがジャンヌ先生を引き抜いて、これからお前の世話を専属でしてくれるよ』と言う話もした。それには葉月も驚いていた。そこまでしてあの女医先生が来てくれたことに、ちょっと腑に落ちない顔はしていた。
 隼人は『ジュールが引き抜いた』と言うことにしておいたのだが、そんな『小さな嘘』をつくたびに、ちょっぴり渋い顔になってしまう。葉月が腑に落ちないのも仕方がない。あのジャンヌ先生の『私の都合』というものが、実は『右京のためでもある』と分かってしまったからだ。
 葉月は右京があの女医先生と恋仲になっていたこと、どう思うだろうか? 別にいずれ知れてしまうだうが。今はそういうことにしている。
 それで純一が今、あちらの山崎先生と一緒に受け入れ準備を進めているとの事だった。ジャンヌももうあちらの病室となる一軒家に入って、看病の準備をしたり、あちらの医師と連携を取っているとの事だった。

「軍医との話もまとまった。葉月、今週中に向こうに行くぞ」
「そう」
「心配するな。うちには搬送のプロがいるから、傷に負担がかからないよう、楽に運んでくれる」
「そう。兄様にお任せするわ」

 そこも葉月は淡々としていた。

「さて、俺はまだやることが残っている」

 純一がもう、出ていこうとしていた。
 葉月がまた機嫌悪い顔になる。

「義兄さん。ちょっとだけでいいから葉月と話してくれないか」
「向こうで落ち着いたら聞く」

 あっさりと彼は断ち切り、葉月の要望には応じない姿勢だった。
 やっぱり葉月がぶすっとするのだが、それでも純一が言うままに止めようともしないのだ。
 それ見て隼人は『ああ、今までもこうして葉月は何も言えずに置いて行かれたのかなあ』と思ってしまったぐらいだ。そこの関係性はちっとも進歩がないように隼人には見えた。

「義兄さん、ちょっとでも良いんだ。葉月の話を──」
「……なんだ」

 やっと純一が立ち止まり振り返ってくれた。
 だけれど、葉月は既に意地を張ってしまいツンとしているのだ。
 まったくどうしようもないなと、隼人は溜息だ。ここにもこういう『素直じゃない』が健在だ。

「何を拗ねている」
「別に。もういいわよ。お兄ちゃま、さっさとお仕事にいけばいいじゃない。いつだってそうよ」
「……悪い。本当に忙しいのだ」

 それでも純一がちょっとばかり悪かったという顔になった。
 それを見た葉月も……『オチビな我が儘だった』と我に返ったのか表情を和らげる。

「ごめんなさい。お兄ちゃまも、大変なの分かっているわ」
「すまない。本当に忙しいんだ」
「いいわ、もう──。行ってきて」
「ああ」

 ああ、これも今まで、そうして葉月が彼を送り出していたのだろうなあと、隼人は溜息だ。
 今だから隼人も受け入れているが、本当──この二人はこうして会っては別れてを繰り返してきたんだなあと。これは恋愛中なら辛いところだ。

 それ以上に隼人は……純一が今、葉月を避けているのも分かる気がしていた。

(記憶が戻っているんだ。姉さんのこと、もう、誤魔化せないだろう)

 『実は姉の皐月は、その男に殺された』
 それを追求されるのを避けている気がしたのだ。
 隼人からも言えない。それを聞いて、葉月はどうするのだろうか?
 純一がまた去っていく……。

「ああ、そうだ」

 だが、彼が立ち止まり、二人に振り返った。

「お前達、いつ結婚するんだ」

 思わず『え』と葉月と揃って眉をひそめてしまった。
 まさか義兄さんから突っ込んでくるなんて思いもしなかったものだから。
 だけれど、次には隼人と葉月は揃って頬を染めてしまっていた。

「早くするなら、あちらの別宅病室に移った時に入籍手続きの準備を整えてやるが?」
「え……いや、それは……」
「そうして義兄様」
「!」

 葉月の即答にも、隼人は面食らってしまった!
 確かに『元気になったら、即入籍』という約束はしたが、思ったより早い葉月の決断に、隼人はまた先を越された気分だった。だから、隼人も意を決する。

「俺も。お願いします!」

 すると葉月の顔がぱあと輝いた。
 だがそれは、葉月だけじゃない。
 隼人の目の前で、いつも厳つい顔ばかりしている純一も輝く笑顔を浮かべていた!

「そうか。ジュールと相談する。結婚指輪にちょっとしたドレス。これはエドに直ぐに注文できるように頼もうじゃないか。内輪だけでも良い。とりあえずの祝いもしなくてはな」
「義兄様」
「義兄さん」

 二人は揃って、『兄たる気遣い』に言葉を失ってしまっていた。

「おめでとう、葉月。澤村も──義妹を兄として頼む」

 純一はそれも……穏やかさが滲むばかりの笑顔を浮かべてくれていた。

「お、お兄ちゃま」
「義兄さん、有り難う。彼女のことは、必ず」

 葉月はもう泣いていた。
 流石に隼人もほんのちょっと──。
 だけれど、純一もだった。葉月のそんな涙を見て、少しばかり切なそうな眼差しに瞳を陰らせている。

「行って来る」

 純一はそれを振り払うように、いつもの人を寄せ付けないような険しさを醸し出して出ていってしまった。

 本当にまだ、いいや……きっと彼はずっとこうして義妹を愛していくのだろうと隼人は思った。
 それはもしかすると隼人にも及ばないほどの、何にも囚われない彼だけの深い愛になっているのかもしれない。
 彼が願う義妹の幸せは、『輝く笑顔であれば良い』。それだけの様な気がした。

 深く永い愛に染まりゆく、そんな愛もまた──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 純一は急いでいた。
 まだ重傷に変わりない義妹の身体に負担にならない搬送を、運輸業を営んでいる元部員のナタリーに頼む。彼女も先週から、来日して搬送準備を整えている。
 山崎の総合病院内にある一軒家の警備の準備。そしてエドが指定する医療機器の搬入、部屋の内装。
 そして……既に義妹が結婚する為の準備も、密かに進めていた。婿養子になるための手続き。その為の弁護士の選考、依頼など──。
 さらに軍医から山崎医師へ治療が移るための立ち会いなど。本当に忙しいのだ。

 葉月とはまだゆっくりは話せない。
 きっと義妹のことだ。もう沢山の疑念を抱いていて、それを知っているだろう義兄の純一に追求したくてたまらないところなのだろう。
 だが、まだ純一もそこの決意が固まっていなかった。

 それに……。山崎医師が気になることを言いだした。
 彼の院長室に数日に一度、訪ねる近頃。その時に、彼が一枚のレントゲン写真を純一に見せたのだ。

「軍医は一族の事情を知らないので、気がつかなかったようですが」

 そのレントゲン写真は、葉月のものだった。
 胸の辺りに手術の跡。糸と金属製の留め具で今はくっつけているそうで、それが写っていた。

 その傷がある位置を山崎がボールペンで指して言った。

「エドから『プロの仕業だ』とお聞きしたが……」
「ええ。まだ確定はしていませんが、おそらく間違いないでしょう」
「では、ボスに聞きますが……。貴方がプロとして『仕留める』ならば、この刺し位置、どう思われますか?」
「どういう事ですか」

 急に山崎の顔から僅かな笑みすらも消え、彼は再度、ボールペンで写真を指す。

「ここが心臓。そしてこの隣が今回の負傷部位です。この位置──プロが仕留めるとして、こんな外し方するのでしょうか? なにか手元が狂うことでも? ここだったから、義妹さんは助かったと言っても良いぐらいです。見事に心臓の横すれすれなんですよね。むしろこういう刺し方の方が難しいのではないかと思えるぐらい」
「!」
「それとも偶然なのか、だとしたら葉月嬢はラッキー、かなりの強運の持ち主だ。だがワザとなら……まるで彼女を殺す気はないけど刺したとも思えなくもなく、気になりましてね」

 純一はその山崎の見解に凍り付いた。
 確かに刺された場所は、『急所』ではなかった。 

 

 それは強運なのか? それとも……意図的だったのか!?

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