-- A to Z;ero -- * 桜ロコモーション *

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1.蕾、ふくらむ

 いつの間にか二月に入っていた。
 葉月と北海道に行って一ヶ月、事件に遭ってからも一ヶ月が経っていた。

 葉月がHCUを出たのを機会に転院したので、状態が良くなったと判断したのか『刑事』がやってきた。

『犯人に見覚えなどは──』

 刑事のその問いに、側に付き添っていた隼人は緊張した。

『ありません』

 葉月は迷わずにきっぱりそう言ったのだ。
 誰かが葉月にそう言えと言ったのだろうか?
 亮介も登貴子も側にいたが、特に過敏に反応したり構えている様子もうかがえなかった。
 純一がそう言ったのだろうか? それが一族の方針なのだろうか? だから? 隼人には何もそう言った話が耳に入ってこないのだろうか?

 刑事が不服そうな表情を見せていた。
 隼人も無理はないと思う。
 彼等はきっと、『彼女は少なくとも見ている』と思っているだろうところを、葉月は『怖くて思い出せない』と言い放ったのだから。まあ、隼人も『その返答はどうなんだろう』と思うことは多々ある『事情聴取』だったが、ここはとりあえずグッと堪えて黙って付き添っていただけだ。
 そのうちに、刑事が側にいる隼人を気にして葉月に尋ねた。

『失礼ですが、そちらは……』
『彼は──』

 葉月がなんなく答えようと口を開いていたのに……。

『娘の婚約者で、小笠原での部下で同僚。大佐をしている娘の良き側近ですが、なにか!?』

 登貴子がわっと言い放ち、割って入ってきたのだ。
 その時の刑事の面食らった顔。『それは失礼いたしました』と、詫びの笑顔を浮かべていたが、僅かに頬が引きつっているように見えた。
 おそらく『なんでも疑ってかかれ』という刑事の鉄則の中に、隼人という『一族外の人間』としての匂いが気になったのだろう。『婿養子』になる婚約者。そういう匂いも逃さないところは流石なのかも知れない。それとも一族の『固い囲い』を感じて『部外者から崩しにかかってみる』という方法を取るならば、まずはこの『婿養子からだ』と白羽の矢を立て、その反応を見たのかも知れない。

 だから、隼人は今は一族に習って、口を固く閉ざしていることしかできなかった。
 従っている訳でもなく、そうする以外の方向性も隼人自身に定まっていないし見えていない。だから今はなにもかもが様子見だ。

 刑事が帰った後、二人きりになってから、隼人は溜息をつきながら、葉月の側の椅子に腰をかけた。

「いいのか。それで……」
「今はね。お願い──暫く、黙ってみていてくれる?」

 葉月が申し訳なさそうな顔で隼人を見ていた。
 そこには何か『思うところがある』と言う顔で、彼女なりの考えがきちんとあるのを窺わせた。

「──私はね。今まで『なんでもどうだっていい。大人達の好きなようにすればいい』と思ってきたの。分かる?」

 『ごめん、ちょっと分からない』と、隼人は小さく呟いて首を傾げてしまった。
 だが、葉月はがっかりした顔などせずに、それは当然だと言いたげに、可笑しそうに笑った顔を見せてくれた。

「なんだって良かったの。自分でなんとかしようとか、そういうことも考えもしなかったのよ。なにも考えずに皆に任せっきりでいた方が『楽だ』と思っていた生き方が馴染んでいたの」
「はっきり聞くけれど」
「なに?」
「大人達の好きなようにと言うのは、一族の名誉が傷つかないようにするのが第一とか……。そういうこと?」
「判らないわ。パパもママも、兄様達も。大人達がどういう方針で一族の囲いを築いているかさえも、私は触れようとしなかったから。嫌だったの。本当、触れたくなかったの。なにもかも。あの事件が起きてから、私はあらゆる事に深く触れるのが嫌になったの。その中には、『何故、事件が起きたか』と知るかもしれなかった。もしそれが『我が家だからこその原因』なんかあったりしたら。それを知ったらきっと私……この家が嫌いになっていた。それでなくても、両親のことを憎んだり、避けたりしてきたのに」
「そうか。うん、だんだん分かってきた」

 少しばかり苦しそうに、でも自分の中にある気持ちを告げてくれた葉月の手を、隼人はそっと握りしめる。
 今、彼女を抱きしめられない分、手を握りしめることが彼女を抱きしめるに等しい行為だった。葉月もそう感じてくれているようで、手を握ればホッとした顔になり、いつもの愛らしい顔を保ってくれる。

「あのね、隼人さん」
「なんだ?」

 その顔で、頬を染めながら笑顔で隼人を見上げてくれる。
 だが、その顔はすぐにちょっと気後れした顔になり、俯いてしまった。
 隼人は『大丈夫、言ってご覧』とばかりに、もっと力強く、彼女の手を握りしめた。
 そして葉月が隼人を見つめたまま、懇願するように言ったのだ。

「隼人さんは、私の味方でいてね」

 一瞬──『え?』と、隼人は首を傾げた。
 勿論、そのつもりなのに。
 それとも? そんなに彼女には信頼されていなかったのかというちょっとしたショックも感じてしまった。
 だけれど、葉月はそのすがるような顔のまま、今度は彼女から手を握ってきた。

「大人達の言っている方が正しいからって……。私を見捨てないで」

 まだ言っている意味は分からない。
 そんなふうに戸惑う隼人を知ってか、再び隼人にすがってくる。

「私、自分のことは自分ですると決めたわ。もう、家の中で流されたくないの。刑事に『知らない』と言ったのは大人達に口止めされたからじゃない。私の考えがあるの。お願い──。純一兄様ですら、時には一族の大人になってしまうのよ。だから隼人さんは私と同じ『オチビ』でいて? ねえ……お願い!」
「……葉月」

 彼女が言いたいことが分かってきた気がする。
 彼女は一族の中では真一と同じ『子供のまま』に据え置かれているのだ、きっと。
 十八年前に起きた事件から、そうしてこの一族は『閉鎖的』になっていったのだろう。それは部外者の隼人が一番良く感じてきたことではないか。部外者であった隼人がどうしても入り込めない彼女の家族が仕切っている枠に何度弾かれた? その度に、悔しい思いをしてきたではないか。そうだ。『婿養子』になれば、自ずと一族の中核へと歩み寄ることは許されてくるだろうが、そこで周りの大人達に『隼人さんを取られてしまう』と葉月は思っているのではないだろうか?

 ──と、言うことは? 葉月の『考え』とやらは、その大人達に反することなのだろうか。
 今は見ていて欲しい。そしてそれを見ても味方でいて欲しいと葉月が言う。
 それならば、隼人の答も決まっている。

「じゃあ、俺もオチビの仲間入りだな。俺はお前の側にいるし、味方だよ」
「隼人さん、有り難う」

 葉月のほっとした顔。それほどに『隼人も大人側に行ってしまいそう』という不安を抱えていたのだと、切実に感じさせられた。
 そう思わされて初めて──。隼人は『あることに葉月が勘づいている』と知って、驚愕したのだ。

(もしかして──。気がついたか、姉さんのこと!?)

 そして、隼人がそれを葉月よりも先に知ってしまっていること。
 そして、それを黙っていること。
 誰から聞いて、そして誰と同調しているかということを。

 葉月はあの静かな眼をしている間に……。もっと言うと純一に距離を置かれていることを認識し、そして義兄が『まだ、話したくない』と思っていることを感じてからは、静かに淡々としていた。その間に、大人達のあらゆる行動を見つめて、自分なりに見極めていたのだろう。だから『義兄様はまだ決心がついていない。直ぐには教えてくれない』と悟った葉月は、ある時から一人でじっと静かにあらゆる状況を繋げる整理をして、あんなに淡々としていたのではないか?
 そしてそれは何も、まだ決心をつけていない純一だけじゃない。隼人も例外なく、彼女に観察されていたのだ。

『義兄様から聞いたのね。そして、やっぱり直ぐには私には言えないことを知っているのね』

 だから、葉月は余計に不安に思ったのだろう。
 ──『隼人さんは義兄様と一緒なのね』。きっと、そう思ったのだ。それが葉月が言うところの『大人達の判断』なのだろう。
 そうとなれば、また葉月は『真実から置き去り』にされていく。記憶が戻っていることが分かっても、隼人がそうして葉月を触ろうとしなかったように、他の大人達も腫れ物に触れないようにしようと、素知らぬ振りをしているのだ。隼人も当然、その中にいたのだ。

 それを知って、隼人はまだすがるような眼差しで見上げている葉月を見つめた。

「ごめん、気がつかなかった──。いつの間にか一人にしていたんだ、俺」

 リクライニングで半身を起こしているだけの葉月の両手を、そっと彼女の膝の上で握りしめた。
 葉月が静かに微笑む。

「いいのよ。だって、初めてじゃないもの」
「……え? 初めてじゃない?」
「そうよ。あの事件の後も、大人達はこんな感じだったわ。そっくりよ。きっと……誰もが思っているはずだわ。『あの時がまたやってきたようだ』と……。特にパパとママは胸を痛めているでしょうね。思い出させたくないの。私はあの時『何が起きているのか、さっぱり分からない子供』だった。いつの間にか、姉様が死んでしまっていたの。でも……きっと、パパとママは克明に見てきたはず、そして記憶しているはず。その残酷な記憶を、今、揺り動かされているのだわ」
「葉月──」

 葉月の目が、哀しそうに濡れる。
 だが唇を噛みしめながらも、葉月は歴とした顔になる。その顔で、葉月ははっきりと言った。

「──姉様が本当はどうして死んだのか。なんて、聞けやしないわ」

 隼人の胸がドクリと大きく動き、とても緊張した。
 葉月は隼人がそれを知っているのか知っていないのか窺うような眼を向けては来なかった。だが、そのかわりに隼人がいない方向をじっと真っ直ぐに見据えていた。
 それこそ──今度は、隼人が置いて行かれる気にさせられる程、『一人でも結構、子供は子供なりにやってやるわ』とでも言いたそうな『オチビの顔』がそこにあったのだ。
 それを見て、隼人はもっと葉月の両手を握りしめた。

「……葉月、覚悟は出来ているんだな」
「隼人さん?」

 彼女の視線が不思議そうに、こちらに向いた。
 隼人が彼女を捕らえた眼には、かなりの力が入っている。それは『覚悟』故の力みだった。葉月も、それに気がつく。そうして彼女はやっと『知っているのか』という、ちょっとばかり驚いた顔になったのだ。

「──黙っていることが、幾つかある」
「義兄様から聞いたの?」
「ああ。二人の間で交わされるべき話だと思っていたから」

 すると隼人が握りしめていた両手を葉月がふりほどいた。
 そしてその顔はとても不満そうで、そのまま隼人から背いてしまった。

「私、まだ──貴方にそんな気遣いをさせていたのね」

 それは隼人に不満を抱いたのではないようだった。義兄と葉月の間にあることに、遠慮をさせてしまっていること。そうして『囲いの外』にいつまでも待たせてしまっていたことに気がついたためのようだった。

「……貴方がそう思っても仕方がない今までだったと思うわ。『一族の中にいる私』、『義兄様と共にある私』。そんな囲いにいる私を知っても、本当に貴方、耐えてきてくれたもの」
「そんなこと、もう、どうでもいいよ」
「でも、もう……私と貴方、他人じゃない。私達、結婚するんだから」
「だからこそ俺は今ここで、黙っていることがあると明かしたつもりだ」

 こちらに向き直ってくれた葉月は泣いていた。
 そんな葉月に、隼人はもう一度念を押す。

「覚悟、あるんだな」

 彼女がこっくりと頷いた。

「もう、何も怖くないわ」

 そっと閉じた瞳から、すうっと頬に流れ落ちた滴が窓辺からはいる昼下がりの光に煌めいていた。
 その彼女が再びすうっと静かに瞼を開き、隼人を見つめ呟いた。

「……姉様は、あの男に殺されたの?」

 そこまで予想しているかもと隼人も解っていたが、そこまで気がついている事を葉月自身からはっきりとした明確な言葉で知らされると、流石に隼人も硬直せざる得ない。
 でも、隼人はそっと答える。

「ああ……」

 静かに答えた隼人と、そしてそれを真っ正面から受け止めた葉月との間に──冬の静かな午後の光だけが降り注いでいた。

 柔らかな冬の日射し。
 外の小さな風の音。
 庭先の木立の枯れた枝先をそっと揺らす音。
 それだけが、二人の間をなんとか繋げているようだった。

 その間、その柔らかな日射しに透き通る葉月の茶色い瞳は大きく見開いたまま、隼人を見つめていた。
 その瞳が今、彼女が静かな眼で淡々と過去と向き合っていた中での『一番、あって欲しくない幻想』を、『実像』として変換しているよう……。
 あまりの悲しさに瞳が濡れるだろうところなのに、逆にその透き通った瞳から潤いが奪われて乾いていくように隼人には見えてしまった。

「・・っう、うう、あああっ……!!」
「葉月……!」

 急にだった。髪を振り乱すほどに頭を激しく振って、葉月が羽毛布団の上に突っ伏したのだ。そんな動きをしたら、傷に響くだろうに。だけれど、今の彼女には関係ないようだ。両手で布団を握りしめ、そこで突っ伏したまま、激しく栗毛を振り乱す。そして悲痛に絞り出す泣き声。
 ──見ていられなかった。だけれど、隼人は一瞬、背けた眼差しを葉月に戻してしっかりと見下ろした。

 葉月の中にどれだけの無数の波が湧き起こっているのだろう。
 静かな眼でたった一人で思い出した記憶と過去を結び、『そう予想したけど、嘘であって欲しい』という願いが、今、その数々の波に打ち砕かれている最中であるのが、隼人にも分かった。
 そんな彼女の背に、隼人はそうっと手を乗せて撫でてやることしかできない。

 だが、隼人が葉月に触れた途端──。葉月が思わぬ力で起きあがって、隼人のその腕、胸の真ん中に飛び込んできたのだ。また傷の痛みを堪えて……。でも『俺の胸』で泣きたいという気持ちで飛び込んできてくれたのだ。一人で泣くのではなく、彼女はこうして『夫となる彼』を必要としてくれている。それが分かったから、隼人は葉月を力強く抱きしめ、泣くだけ泣かした。

 なにがどうしてなのか。
 今はまだ、葉月は問うことも出来ないほどに──。
 ただ『姉は殺された』というたった一言で充分、重き真実に違いない。
 それ以上のことなど、何を聞いても今の葉月にはなんの補足にもならない、なにも変わることのない真実なのだから。

 そうだ。こうして彼女の本当の気持ちに触れていくのは、夫になる自分なのだ。
 一族が……じゃない。彼女の気持ちがどうなのかが一番だ。
 彼女がどんなに『子供のまま』に据え置かれていても、彼女はもう十歳の少女ではないのだ。それを隼人だけは、見間違えてはいけない。そして今までは記憶がないまま流されてきた葉月も、もう、ちゃんと『この事件がどのようなものか』を知ろうとする意志も持っているし、自分の身に確実に起きたことだと受け止めている。
 それをきちんと『自分で受け止めて、自分で考えている』という事を認めて欲しい、そんな人であって欲しいと言うのが、葉月が言うところの『味方』なのだろう。
 大人達が『子供は黙っていればいい』とか『それは子供の考え方だ』と葉月の考えを否定したとしても、隼人は『それは葉月の考えだ』と彼女を第一に信じてあげるべきなのだ。
 ふとすれば、隼人も『それが大人だ』と社会でそうであるように、ここの『御園社会』で流されていくこともあり得るかもしれない。実際に今までも葉月に対して、そんな『大人風情』で接してきた事が多々あった。それが葉月にとってプラスになったことも沢山あったし、逆に今回、葉月が懸念したように『きっと隼人さんは大人の考え方をするのだわ』と、自分の本心を言わずに隼人に心を閉ざしていたような時もあったのかもしれない。だから、彼女は時々、隼人にも心にあることを告げずに、一人でなんでも考えてきたのだろうか? もしかして、彼女が誰も信じられないと言ったような状態で生きてきたのは、このような要因も含んでいたのだろうか?

 だけれど、もう……そうではない。
 葉月。葉月には俺がいる……。
 そしていつだって、俺の胸に素直に飛び込んで、何度でもすがってくれたらいいんだ。
 もう、一人で背負わなくてもいいんだよ……。
 俺もお前が抱えこんでいるもの、一緒に見て考えていきたいよ……。

 隼人はそんな事を重く受け止めながらも、いつまでも首を振って咽び泣く葉月を抱きしめる。

 この彼女の重み、今はちっとも重いと思わない。
 今、これは俺の重みの一部だ。
 これからずうっとこの重さは変わらないだろう。

 それでも、俺は彼女を抱きしめて……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 刑事がやってきて、そして葉月が『姉の死』を知ってから、二、三日が経っていた。
 昼前と、就寝前にジャンヌが葉月の身体を拭くのが定着していた。
 この日も、昼前になってジャンヌが部屋にやってくる。
 この『お手入れ』が始まれば隼人はこの部屋を出ていくのだが、この日はジャンヌに『待って』と引き留めれた。

「どう? 隼人君もそろそろ『お嫁さん』のお世話をしてみない?」

 登貴子が出ていたせいか、ジャンヌが蒸しタオルを片手にニンマリと微笑みかけてきたのだ。
 葉月はそれだけで頬を染めて照れていたが、近頃、家族の誰もがそうしてからかうので、隼人としては『また、そんなからかいを……』と素っ気なく言い返したのだが。

「冗談じゃなく、本気よ」

 今度はいつもの落ち着いた微笑みで、彼女が蒸しタオルをなんの前触れもなく隼人に向けて放ってきた。
 隼人は『わ』と、あたふたとそのタオルをキャッチする。

「じゃあね、隼人君」
「え、ちょおっと、先生!?」
「お母様には、私からお願いしたお勧めしたと言っておくから、存分にお世話してあげてね。旦那様」

 ジャンヌはにっこり肩越しに笑みを見せて、部屋を出ていってしまった。

「いつのまにか『隼人君』と呼ばれているわね」
「ここは軍隊ではなく、家族の中だから中佐と呼ばれても俺もちょっとな。それにジュールにエドが『隼人』と名前で呼ぶからだろう? それより先生、近頃、急に日本語が上手くなったよなあ」
「そうね。日本語で話しかけてくるのが増えたわね。前はそれほど日本語には興味なさそうだったのに……」
「ああ、きっとそれはあれだな」
「あれってなに?」

 葉月にはまだ右京とジャンヌのことは言っていなかった。それも黙っていることがあるうちのひとつで、勿論彼女に告げる気持ちはある。
 だから、『実は、先生は恋をしていて相手が日本人で、その日本人男性は……』と言おうとしたのだが……。葉月はもう本当に隼人にお手入れを任せる気なのか、ネグリジェのボタンを胸から下へと外し始めていた。

 それを目にしてしまった隼人は言葉が止まってしまう。そして……ごくりと喉を鳴らし、妙な緊張に見舞われる。
 久しぶりに見る葉月の肌──と、思いたいところだが、そうではない。
 その胸の谷間にある傷を……初めて見るのだ。

 今まではジャンヌが葉月の身体の手入れをしていて、時には母親である登貴子がやっていた。
 他の家族の目もあるし、まだ正式に夫ではない隼人としては今のところは『一人の男性』として、他の男性陣と同じように葉月の肌を目に触れない範囲の行動をしている。それは父親である亮介だってそうだ。まあ、元より葉月が『パパ、見ちゃダメよ。あっちに行ってね』とか言って追い出しているが。亮介はそれでも生還した娘が今まで以上に可愛らしくて仕様がないのか、二つ返事でほいほいと出ていくのだ。そして終わればすぐに戻ってくる。
 隼人も両親より出しゃばるまいと、そのようにしていたのだが……。
 もしかしてジャンヌは『これからは夫となる貴方がすぐにすべき事よ』と……隼人がそうして誰よりも彼女の世話をしたい気持ちを見抜いてくれたのだろうか? それとも、隼人が今こうして緊張しているように『この傷をパートナーとして見ておいた方が良い』という暗示だったのだろうか?

 柔らかな日射しの中、葉月がアイボリー色のネグリジェをそっと両肩の丸みに沿って降ろした。
 彼女の白い背中に、するりと長い栗毛が肌に添って滑り落ちていく。
 その時に漂う色香はちっとも変わっていなくて……。彼女の裸体は今は『負傷患者』のはずなのに、いつの間に以前のように一人の美しい女性としての裸体に変身したように思えるほどに、隼人は見とれてしまっていた。

 肩の丸みに反射する肌の艶も失われていない。
 その肌から微かに漂ってくる葉月特有の甘い匂いも──すぐに分かった。
 そっと俯いたまま、袖を降ろすその細い指先も。そして彼女の胸先を隠す栗色毛先の輝きも……。どれもちっとも変わっていないし、隼人の胸を急激に熱く焦がすほどに、鮮烈に目の前に蘇ったのだ。

 いつのまにか、隼人は葉月がいるベッドの側に跪いていた。

「葉月……綺麗だ」
「……!? は、隼人さん?」

 そうして隼人は葉月の腰に抱きついて、肌に頬を埋めていた。
 抱きついた時、葉月がびくっとしたが、それをなだめるように彼女の背に腰周りに腕を巻き付けるように強く抱き寄せていた。
 そのまま葉月を、下から見上げた。おそらく何かを乞うような眼差しを向けていたと思う。
 少しばかり戸惑った顔をしていた葉月だが、そんな隼人の顔を見た途端に、瞳を甘く揺らめかせていた。

 その時、初めて──。見上げたその顔の途中に、くっきりしている赤黒い斜めの筋が目についた。
 そこだけ何かの生き物が貼り付いているかのように見えたのは、彼女の左肩の傷を初めて見た時と同じ感覚だった。
 だけれど左肩の傷がすっかり葉月の一部に同化し始めているのに対し、今度の『生き物』は、彼女とはまだ同化しきっていない酷く残虐な新種の生物のように見えた。
 痛々しく、それでいて生々しい血の匂いを漂わせている。葉月から感じた甘い匂いを消し去るようだ。そう思うと憎々しい……! 食い付けるなら、その新種の凶悪な生き物にかぶりついて、引っ剥がしたかった。つまり……葉月を醜く見せているだなんてことはなかった。それと葉月は別物に見えた。ただ、彼女に寄生しているだけの……。

 だが、その赤黒く寄生している生物の側に、それを消し去るぐらいの綺麗な花色のつぼみが揺れていた。
 そしてそのつぼみの周りにはもうほんのりと花びらを、白い乳房の上で咲かせている……隼人がずうっと愛してきた花がそこで変わらずに咲いていた。

「・・・やっ」

 そこに引き寄せられるように、そうっと唇で触れてみると、花の持ち主が小さな声を漏らし、そして身体を小さく震わせた。

「ここはいつでも綺麗だ。何度でも俺を誘う花……」
「ま、また……そ、そんなこと言って……っ」

 フランス気取りの気障なセリフを時々言い除ける隼人のことを、葉月は『貴方じゃないみたい』といつも言う。
 だけれど、そんな彼女の『素直じゃない口』なんか、そのつぼみと花びらをそうっと口先で愛してしまえば、あっと言う間に彼女は『素直に咲き誇る花』になる。

「……だ、だめよ。まだ、だめ」
「解っている」

 隼人は思わぬ欲望には食われないよと彼女に安心させるために、落ち着いた口振りでそうは言ってみたが、実際に唇はもう彼女を吸い尽くしそうな程に堪えきれないすぐそこまで来ているし、実際にそれぐらい夢中になって、胸の先にあるつぼみと花を愛していた。
 ちゃんと甘酸っぱい彼女の匂いがする。微かにその生物を懲らしめている消毒液の匂いがするのが時々忌まわしい。そう感じれば感じるほどに、その忌々しさを退治するかの如く、隼人は彼女が咲かせている花を愛してしまうのだった。

「ねえ……お願い。ねえ、貴方、ダメよ」
「なぜ? ちっとも良くない? だったらもっと……」
「いっ・・・良いから言っているの。意地悪」

 花の蜜の味は、今まで以上に思えた。
 もう少しで俺の大切な花を失うところだったじゃないか……。そう思うと堪らなくなる。
 そんな生物が寄生したからってどうってことない。『今まで以上に綺麗だ』と言いたくて愛していると、葉月の細い指先が狂おしそうに隼人の耳の裏をすうっと艶めかしい仕草で撫でていき、隼人の黒髪をぎゅっと静かに握りしめていた。そのもどかしそうでそれでいて堪らなく狂おしいから『もうやめて』と言いたそうな指先のじれったい動きが、隼人に抗議しているようだった。

 彼女の肌が急に火照ったのか、ふんわりとした熱につつまれ、そして触れている滑らかな肌から強い甘い匂いが立ちこめて、隼人はほっとするように離れた。そんな寄生物、あってもなくても、こうして愛し合えばなんてことないんだ、ざまあみろ。……なんて思ったぐらいに。

「また、愛せる。愛し合えるな、俺達」
「貴方……」

 傷をひっぱらないように、指の腹だけでそうっと彼女の乳房を大切に包み込んだ。
 そんな落ち着いている隼人から、薔薇色に頬を染めて恥じらってしまった彼女が顔を背けた。
 こんな身体なのに、彼に少しだけでも触れられただけで敏感に感じ取り、そしてどうしようもなく『貴方を欲してしまった』と……言っているようで、隼人はそんな葉月を今すぐ押し倒したい衝動に駆られたが、グッと堪えた。

「馬鹿だった。俺が馬鹿だった! ああ、俺も駄目になるっ」

 そんな欲望を振り払うように、隼人はジャンヌが置いていった蒸しタオルを握り直した。
 いい加減、真面目にお世話をしようと、蒸しタオルを葉月のうなじに宛てた時だった。

「有り難う。ちっとも変わらずに愛してくれて……嬉しいわ」

 隼人に背を任せて俯いていた葉月の声が……僅かに震えていた。
 頬に降りかかる栗毛の隙間から、小さな涙が見えた。

「──! 当たり前だろう。ちっとも変わっていない」
「うん、ひとつ増えただけよね」
「増えてもいない。お前はちっとも変わっていない。前と一緒だ」
「うん……」
「ほら、もう少し前にかがんで」
「うん……」

 葉月が前屈みになって背中を預けてくれる。
 僅かに『ハッカ』の匂いがするのはジャンヌのちょっとしたアイディアなのだろうか。蒸しタオルを動かすたびに、爽やかな香りがかすかに漂った。
 水分たっぷりに蒸してあるタオルを滑らしても、葉月の肌は隼人が良く知っている手触りのままだった。
 そこにも確かに……岬任務で負った傷の跡があるけれど、それも薄くなっている。けれどこれも消えないだろう。
 だけれど、隼人はこの傷すらも『欲しい』と今は思う。丹念に彼女の背を何度も拭いてあげていると、それだけで、葉月も気分が安らぐようだった。

 背中も首周りも、身体中、どこもかしこも、彼女をベッドで愛撫する時のような真剣さで丁寧に拭いてあげた。
 それこそ、つま先からすうっと足を上へ辿ってその先にある二人だけの花園だって、彼女を愛している時と同様にちゃんと丁寧に優しく……。
 その時の彼女を大切に手入れしている真面目な気持ちと、彼女が少しだけそれを恥じらいつつも隼人に任せてくれている微妙な顔つきに、幾分か揺らされる男心。奇妙な触れあいだけれど、葉月はくったりと力を抜いて、隼人にどうされても構わないといったように身体を預けてくれていた。
 髪の毛も……隼人が愛している栗毛も丁寧に毛先まで拭いた。
 最後にそっと、彼女の顔を拭いてあげる。唇の周りを拭き終えると、葉月がふうっと静かに隼人を見上げたのだ。
 ほとんど全裸に近い格好でそこに座っている葉月。その顔も姿も、さっぱりとした風呂上がりというよりかは、男に隅々まで愛撫されてとろけてしまっている女の顔だった。

 だから、思わず──。
 やはりこの日も『愛し合った最後の挨拶』である口づけのように、自然と彼女の唇と重ね合う。
 隼人を見上げている彼女の首、その華奢な首に手を回すと栗毛がたっぷりと、その手からこぼれおちるように溢れる。そのうなじを抱き上げるように抱え、唇を重ね合った。何度も何度も様々な角度から唇を重ね直す激しい口づけを長く交わし合う。
 どんなになっても、どんな形でも、なにをしても『なにもかもが抱き合っているような感覚』になれるほどに、愛し合っているのだと──。
 締めくくりの口づけを終えると、隼人だけの美しい栗毛の女性がひっそりと優美に微笑んでそこにいた。  無くしそうになった、あの札幌の朝で幸せそうに微笑んでくれていた彼女がそこにちゃんと存在していた。

「俺、いつまで我慢できるか自信なくしたなあ」
「私も……。やっぱり、ママか先生にしてもらおうかしら?」
「うーん。捨てがたいな。明日も、俺がやる」
「えっち」
「真面目にやっているのになあ?」

 なんでこうなるのだ? と、隼人は顔をしかめた。
 葉月が『本当ね』と笑みを浮かべたので、隼人も一緒に笑ってしまった。

 側にある備え付けの白いタンスから、新しい下着とネグリジェを出してあげる。
 それらを身につけるのも手伝う。

 その合間に、隼人は先ほど言えなかったことを口にした。

「先生。右京さんと恋仲になっているみたいなんだ」
「……そうなの!」

 そこは流石に『上手のお兄ちゃまの行動』は読み切れなかったのか、葉月が驚いた。

 そうして隼人は、ジャンヌに関して黙っていたことは、全部話した。
 ジャンヌが実は『心療内科医』の経歴があったこと。
 そして産科医として向き合っている内に、葉月の左肩の傷から『事件性』を嗅ぎ取って……関わるべき者でもないのに、心配になって『従兄』である右京に相談しに出向いていたこと。そして、その記憶が蘇りやすい状況になりつつあることにジャンヌが懸念して、男性が多い隔離世界である空母航行へ行くことを不安に思い、自ら志願して付き添い医師となったこと。それを隼人も僅かに懸念していたが出発前にジャンヌから聞いて安心して、葉月を送り出したこと。そして……いつのまにか愛し合っていた右京を案じて、軍医非常勤を辞めて、ジュールに雇われ葉月の介護を買って出てくれたことも……。

 葉月は次から次へと告げられて、目が回ってしまうようだったのか、額を覆って『ちょっと待って』と、隼人の口元を手で制してきた。

「──つまり、先生は私の為である内に、右京兄様とそうなって、それで今は……」
「うん。先生は『己の都合だけだ』と言っているけれど……。俺、解る。あの先生、俺と同じように一族の外枠にしかいられない状態でしか右京さんを愛せないこと、うんともどかしく思ったから、こうして軍を辞めてここに来たんだって。それが先生が言うところの『己の都合』だと思うけれど……でも、俺は先生もこうでもしてでも、右京さんのことも……」
「……! それで、兄様! 何の用事か解らないけれど、小笠原にふらりとやってきていたのね?」
「みたいだな……」
「それで……あの青リンゴの小説を?」

 青リンゴの小説ってなんだよ? と、隼人は思ったのだが、葉月はそこで茫然として黙り込んでしまった。
 隼人としては、実は『心療内科医の眼』で記憶のない葉月を黙って観察していたジャンヌのことを知って、怒り出すのではないかと思ったのだが……。彼女がそっと呟いた一言は全く違う言葉だった。

「馬鹿ね……。お兄ちゃま……」

 また、葉月が泣いていた。
 だが今度は哀しいというよりかは、どうしようもなくて呆れてしまったかのような顔だった。

「あのお兄ちゃまが、初々しい青リンゴと白ワインのような青春恋愛小説を手にして、先生に会いに来ていたのよ」
「え……? もしかして、大佐室で訳もなく文庫本を手にしていたあの時?」

 葉月がこっくりと頷く。
 今度は笑顔だった。
 だが、笑顔だったのに……今度は、顔を覆って葉月はまたしゃくり上げるようにして泣き始めてしまった。

「兄様もきっと、あの時はもうとっくに、本当に恋をしてしまっていたのだわ。なのに……!」

 その叫び……。それは『従妹の私がこんなになってしまったことも少なからずあるのだ』と彼女が言いたいのが隼人にも分かる。
 その背を、隼人はそっと撫でる。

「今、兄様はどこにいるの?」
「それが、北海道に行ったり、こっちに戻ってきたり……。東北の方も回っているみたいで……」
「そんなことしたって、あの男は見つかりっこないわよ!! 戻ってくるように言ってよ!」

 もの凄い確信をしているかのような言い切り方で、隼人はその勢いに気圧されて、のけぞったぐらいだ。

「でも、一生懸命、探しているんだ」
「だけれど、ジャンヌ先生はそうしてお兄ちゃまの代わりになろうと、私を見守ってくれているのでしょう? じっと黙って待っているのでしょう?」
「そうだよ。先生はそれを『下心と思われても良い』と思っているみたいだけれど、それでも間違いなく葉月のことだって……」
「そんなこと、言われなくても分かっているわ。そんなふうに思わないわ。だって、先生の眼を見れば分かるもの!」

 やはり葉月とジャンヌは、彼女たちだけの信頼関係をきちんと築きあげているようだった。
 葉月は自分を静かに見守ってくれていたジャンヌを信じている。
 そしてその延長線上で、従兄との縁が結ばれただけのことと……受け止められているようでほっとした。

「もうそろそろ、兄様達にも話さなくちゃと思っていたの」

 葉月がもどかしそうに親指を噛んだ。
 その顔、急にあの凛とした大佐嬢に戻ったかのようだ。
 いや……じゃじゃ馬嬢、復活か?
 その顔で葉月が、隼人を見つめてきた。

「今の探し方じゃ、全然駄目! 私の言う事なんて兄様達は聞いてくれないかも知れないけれど、もう、我慢できない!」
「な、何する気だよ」

 急にいつものようにじゃじゃ馬の向かうところに、隼人は不安になってくる。

「隼人さんも見届けてくれる?」
「勿論──。それで、どうするんだ」

 そして葉月がちょっとばかり躊躇った顔……。
 だが、直ぐに彼女は決意を固めたように言い放った。

「昔、純兄様に見せてもらった写真付きの訓練生名簿をもう一度、見るの。その中にその男がいると思うわ」
「!」
「兄様達は、そんな無理に辛くなるようなもの見なくても良いと思って、私のことをそっとしているに違いないわ。だからあんなふうに当てずっぽうに探しているだけ。それだけじゃ駄目よ」

 葉月が、再度、『ゴースト』という男に立ち向かう決意をした瞬間に見えた。

「私、もう、怖くないから」

 彼女の立ち向かう瞳の輝きも蘇った。
 それを見届けた隼人は、こっくりと頷いた。

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