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2.沈黙の大人達

 その男は、何故かリビングのソファーで一人。頬杖をついて日本庭園的な庭をじいっと見つめているだけだった。
 隼人は、足を組んだままじっとしているだけの彼の背に近づいて話しかけた。

「義兄さん、話があるんだけれど」

 隼人の声に、遠い目を何処かに彷徨わせていた視線が、はたと現実に戻ってきたかのように瞬きをした。
 隼人はそれを見て、少しばかり呆れてしまうのだ。
 彼が今、日本庭園を見据えて眺めていたのは、その景色ではなく『他のこと』なのだ。
 そう──大切な義妹を傷つけずに、なんと事実を告げようかと。
 ……そんな傷つけずに、彼女に悪夢を見せずに、事実を綺麗に告げることなど皆無なのに。彼は義妹のためならば、その『皆無』をやってのけようとしているのだ。
 彼のそんな迷い多き優しさ。……時間がかかりすぎる。
 だが、そう思いながらも隼人はそこで首を振る。
 以前は彼の、この果てしない迷いや優しさが、どれだけ彼女を苦しめているか分からないのか? と、腹立たしく思ったもの。だけれど、今──そうしている彼の悶々としている彷徨う後ろ姿を見ていると『もしかすると、それは俺だったかも知れない』と思ってしまうのだ。
 彼女に事実を告げる時の苦しさに、そして彼女の泣き叫ぶ姿に一瞬でも目を逸らしたほどに……。
 彼は義妹にそんな思いをさせたくないだけのこと。いいや、もう散々見てきたからこそ、もう彼女を苦しめたくないという一念であるだけなのかもしれない。
 それが彼女を愛している男として十二分に分かってしまうのだ。ただ、ちょっと……ほんの少し隼人が持つ気持ちとは、ずれるだけのこと。彼との思いはそう違いはないと思うこの頃なのだ。

 隼人だって。二、三日前までは、目の前の彼同様──。彼女を事実から置き去りにして、素知らぬ振りをしてきた一人なのだから。

 だがまた、この男性とは……。
 同じような歩幅で同じ方向に歩いていたのに、ほんの数ミリだけ足を降ろした位置がずれてしまい……。そして隼人は『この方向』へ来た。

 数日前まで、同じ道筋を同調するように歩んでいた男性に、隼人ははっきりと告げた。

「葉月が、昔に見た訓練生名簿をもう一度みたいと言っている」
「──!」

 彼がとても驚いた顔で肩越しに振り返った。
 実際に、彼がこれだけ驚いた顔をしたのは初めて見たが、それも予想済みの隼人にとってはなんてことない彼の表情。
 だけれど、隼人が予想していたのは彼の驚きだけではない。この発言が今から大きな波紋を広げることが分かっていての覚悟で発言をしたのだ。
 隼人がなんの前触れもなく、それこそ自然な手つきでふいっと投げた小さいけれど重みある石が作りだした波紋がさあっと素早くリビングに広がっていく──。
 リビングに同様にいた亮介にジュール、隣り合わせにあるキッチンにいたエドに登貴子。皆が息を止めたような驚き顔で、こちらを見ていた。

 驚いてはいたが、一番最初に落ち着いたのも、行動を起こしたのも純一だった。
 彼がすうっと静かに音もなく立ち上がり、隼人の真っ正面に向き合った。
 その時の彼の威圧する鋭い眼。
 それは怒っているのでもなく、『その発言が何を意味し、如何に家族にとって重大か分かっているのか』と、如何にも隼人が『浅はかな判断で軽々しく発言した』とばかりに諫めているようにも見えた。
 しかし、そんなことすら、隼人にとっては『覚悟のうち』。
 そしてこれは『妻』となる彼女の意思なのだ。

 波紋はどんどん広がって、静かに緩やかに。だが重々しく、皆の中に浸み通っていくのが分かる。
 特に、その波状に一番揺らされたのは『登貴子』、そして表には出さないが顔を引きつらせているのは『亮介』。彼女の両親だ。
 彼等が『葉月に喋ったのか』という顔をしているのも、隼人には覚悟の上、予想済み。……だけれど、葉月の『両親は苦しめたくない』と言う言葉を思い出すと心は痛むが、そこも葉月には『多少は必要なこと』と心が軽くなるよう一言添えて、隼人はこのリビングにやってきたのだ。

「隼人君、貴方! 私達の許可も無しに勝手に……!!」
「分かった、澤村。葉月のところに行こう」
「待ちなさい! 純ちゃん!! 貴方、葉月にまたあの名簿を見せる気なの! 葉月に、葉月に……あの男達の顔を……!!」
「大丈夫だ、登貴子おばさん。見せるんじゃなくて、葉月の様子をまず確かめてからだから」
「でも──!!」

 いきり立つ登貴子の言葉を、純一が遮った。
 ……彼がかばってくれたのだと、隼人には分かった。

 もしかすると、彼はこういう自分の立場の分が悪くなることは、誰よりも進んでしてきたのかも知れないなと隼人は思った。
 彼が隼人の腕を引っ張り、リビングを出ていこうというアイコンタクトを見せた。
 もしかして彼が葉月になかなか言い出さなかったのは、こういう家族のバランスも考慮している内にがんじがらめになっていたのかとも……初めて思った。

 だとしたら、隼人の今の発言は──かなりの『爆弾発言』だったに違いない。
 だけれど、それも葉月と共に覚悟して隼人はここに来て、純一を呼びに来たのだ。
 隼人は純一が連れ戻そうとする腕、いや、かばってくれるその腕を振り払う。
 彼が『何故』という顔をしたが、隼人は今度は登貴子や亮介に向かって堂々と告げた。

「葉月は……思い出してしまっているし、その現実と向き合おうとしている。自分から『見たい』と言っているのです。彼女の意思です」

 葉月から望んでいる。挑んでいる。
 そう伝えると、彼女の両親は元より、そこにいる誰もが黙り込んでしまった。

「皐月のことは?」
「彼女から聞いてきたから、自殺ではないことだけ……」

 純一の質問にも、恐れずに答えると、また登貴子が……今度は気が遠くなったのか、エドの腕の中にふらりとよろめいていたのだ。
 だが、誰も隼人を咎めなかった。
 けれど、誰もが戸惑っていたようだ。
 仕方がないかと思う。この家族の誰もが十八年も彼女には黙っていたのだから。
 そしてこんな時、隼人はやはり自分は『日の浅い部外者なのだ』と痛感する。だからこそ、誰にも出来なかったことを『簡単に出来た』と言っても良いのかも知れない。
 この人達の選んできた道──。それを崩していくことが、もしかすると『一番の当事者』である末娘の『今後の課題』。そう思えたから、隼人はこうして立ち向かっている。

「それで葉月は? 変わった様子はないように父親の私には見えるのだけれど」

 亮介はまあ、落ち着いているようだった。

「俺も驚くほどに、彼女、落ち着いています。ただ……告げた時は、やっぱり声を上げて泣きました。二、三日前のことです」
「二、三日前……?」

 眉をひそめ、亮介が再び黙り込む。
 父親の彼がそう思うぐらいに、葉月は隼人の前で泣き叫んでからは、また淡々と落ち着いていたからだ。両親の前では、娘らしく愛らしい笑顔をちゃんと見せていた。
 それほどに、彼女は『両親にはもう辛い思いはさせなくない』と思っているのだ。隼人もそれを見守っていた。そして、亮介も娘のそんな気遣いに気がついたようで……なんとも切ない表情に崩れたのだ。

 本当はもっとぶつかって、甘えて欲しいのだろうなと隼人は思う。
 だけれど、葉月としては『今まで充分、迷惑をかけて甘えてきた』と思っているのだ。
 『親はいつまでも親』という言葉がただの一般社会に一般的に存在するものぐらいの認識しかなかったのに、こうして見守っている隼人の中でも、とても切々とした物として親子の間にある想いが染みこんできた。

「お父さん。出過ぎた真似かと思うのですが。出来たら……俺と義兄さんに彼女を任せてくれませんか?」
「……私も側で見守っていてやりたいのだがね」
「いいえ。彼女はお父さんとお母さんには二度と辛い思いはさせたくないと言っているのです。これ、俺がこう言ったこと、内緒にしていて下さいね」
「そうかい」

 本当は誰よりも一番に娘を守ってやりたい気持ちがあるだろうに。
 娘はもう、父の手を煩わしたくないと言っていることを知って、亮介はとても複雑そうな顔にはなったが、静かに受け止めたようだった。

「では、頼んだよ。隼人君」
「はい」
「純も……。お前も大丈夫か」
「ああ」

 彼女の両親も純一だって当事者と言っても良い。
 そんな中、誰が触れても痛い話。そしてそれは純一も例外ではない。花嫁になるはずだった女性の無惨な死に際を見届けた傷が深く残っているだろうし、その場面は色褪せることなく残酷なまでに鮮烈に焼き付いてることだろう。
 だから、誰よりも葉月の記憶がどれだけ残酷なものであるかと──彼も蓋をするのを手伝ってきたのだろう。その蓋が外れた。その辛さもまた……彼なら隼人よりも共感できる人間であるのだって……。

「そうと決まったなら、少し出てくる」

 座っていたソファーの背にかけていた黒い上着を片手に取り、純一が出かけようとしていた。
 何処へ行くのだろう? と隼人が彼を見ていると『名簿を取りに行く』との事だった。取り揃えるのに暫く時間がかかるらしい。
 純一は葉月には顔を見せず、エドを伴って出かけてしまった。

「私──ちょっと休むわ」

 登貴子はふらりとキッチンを出ていってしまった。まるで魂が抜けてしまっているように──。
 心配する隼人に、亮介が『大丈夫だよ』と肩を叩いて後を追う。
 リビングには隼人とジュールが取り残された。

「お嬢様。静かに黙っていたのは、かなりの覚悟を固めるためだったようですね」
「うん、そうみたいだ」

 そこで隼人は光が射し込んできた庭を見つめた。

「こうなってくると、彼女は本当に『怖いもの無し』なのではないだろうか」
「私もそう思います」

 ジュールの金茶の瞳も、何かを見据えるように光っていた。
 彼とは深く話し込んだ事はないが、隼人と同じ距離、同じ眼で一族を見守っているという共感出来る波長を感じていた。
 彼も一族とは深く関わりながらも、自分が『枠には入りきれない傍観者』に過ぎないことを、既に良く心得え、知っているようだった。

 葉月の意志が──封印されていた意志が、家族の中でしっかりと動き始めていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「そう。純兄様が準備すると出かけていったの」

 早速、葉月に報告をする。
 両親の反応を一番心配していたが、お母さんはともかく、お父さんは受け止めていたというと、とりあえずはホッとしたようだ。

「ママは、誰よりも深くとても苦しんだと思うから……。時々、行き過ぎたことを口走るかも知れないけれど、それも全部、私の為だって解っているのよ」
「分かっているよ」
「ママは昔、私にはとても過保護になった時期があって……」
「……そうか」
「本当は、それが凄く嫌だった時もあった。お願いした時は、来てくれなかったくせに──。来たらあんな男達、押し入ってこなくて姉様は酷い仕打ちもされなかったし、私も……。だから、今頃になってそんな過保護、意味ないじゃないって……」

 葉月が辛そうに俯き、唇を噛んだ。
 そして葉月は、小さく呟いた。

「だから、煙草を吸ったのかも」
「そうか」
「パパのをくすねてね。学校でも平気で吸った。教官に見つかる事なんてちっとも怖くなかった。……トーマス教官には殴り飛ばされたこともあったけれどね。あの人だけだったわ、私に真正面からぶつかってきてくれた外の大人は。それでも、私の心には誰の声だって届かなかったし、聞こえなかったし、聞こうとしなかった。何処かで親を困らせてやろうと思っていたんだと思う。それで叱られたら、あの時のことを引き合いに出して、私は二人を真っ正面から責めるきっかけにしていたのかもしれない」
「うん……」
「あの時は仕事を選んで、姉様と私のところには直ぐに駆けつけてくれなかったくせに。なのに今頃『心配してる』と過保護になられても、遅すぎるってね……。当てつけ」

 どうして自分がそうなってしまったのか。
 葉月は淡々としていた中でも、そんな自分のことも真っ正面から向き合っていたようだ。
 隼人はただ聞き届けるだけ。
 そんな隼人を、葉月は時々確かめるように顔を見るのだが、隼人はまったく知らぬ振りで微笑み返すだけだ。
 『こんな私の馬鹿げた行動をおかしいとか、悪いとか、言わないのか』と言いたそうな顔だった。
 ──言うはずもない。それこそ、隼人にとってはそんな少女であった彼女だって、今、目の前でなにもかもを愛している彼女の『全て』である一部分に過ぎないのだ。出来れば、その『ひねていた小さな彼女』に会って、抱きしめてあげたいぐらいの気持ちだ。
 だからか、葉月はさらに続けた。

「訓練校もそうよ。絶対に女らしくなってやるものかと……反発していたと思う」
「うん」
「勿論。邪な心を秘めている男子をめちゃくちゃにしたいという気持ちもあったし、持てあましている暴れそうな心のエネルギーをぶつける場所として選んだことも。パイロットという……ううん、コックピットへとその気持ちを乗せようと渇望した気持ちも沢山あったのだけれど。神経質なママから逃げたかったのもあったと思う」
「そうなんだ」

 ついに葉月が顔をしかめ、隼人を見ていた。

「どうした?」
「馬鹿だと、そう思わないの? 馬鹿だって言わないの? お前は間違っていたと、どうしてもっと賢く考えられなかったのか。ちょっと考えれば誰だってきちんとした生き方が出来るんだって。そうなのでしょう?」
「何故? 誰がそんなことを言うのか?」
「貴方が、よ。貴方だからこそ……言ってよ……。言っても良いのよ?」

 淡々と聞いている隼人が不思議のようで、それでいて『馬鹿だな』と言いそうなところを言わない……いや、言って欲しいのか? そうならない事に葉月は疑問のようだ。
 隼人は少し溜息をついて、ベッドにいる葉月を見上げた。

「何故だ? 俺はその道を来たからこそのお前を愛していると何度言ったら分かる?」
「──だって。あまりにも『馬鹿すぎる』わ。こんな今頃、後悔するような 生きか・・・」
「後悔なんてしなくていい!」
「!」

 馬鹿げた生き方しか選べなかった自分に後悔している──。そう葉月が言おうとしたそこは、隼人は強く遮った。
 そして椅子から立ち上がり、葉月の両肩をしっかりと握りしめて、叱るように葉月に言う。

「どんな曲がり道、迷い道、遠回りの道があっても、生き抜いてきただろ。それだけで充分だ」
「は、隼人さん──」
「馬鹿という奴には言わせておけ。それでも生き抜いてきたのだから、生き抜いてきたことを誇りに思えばいい!!」
「……うん。有り難う」
「俺は、今回も何処かを彷徨っていただろうお前が、絶望して力を抜いてしまう可能性だってあったかも知れないところを、生き抜いて還ってきたこと。凄いと思った。お前は本当に凄いなと」
「意識がない間のことは、当然、なにも解らないけれど。……生きたかったの。貴方に愛されたこと、あのまま終わりだなんて。なくしたくなかったのだと思うわ」
「嬉しいよ、俺が少しでも力になれたのなら。でも、還ってきたのは葉月の力だ。生き抜いたんだ」
「そうね、せっかく生きて還ってきたのだから。私、もう、後悔しない」

 私を、抱きしめて──。こんな私をもっと抱きしめて。
 今までの自分を静かに受け止めている葉月は、そこで微笑んでいるだけだが、隼人にはそう聞こえてくる。
 だから、そっと肩を包み込むように抱きしめた。
 葉月は不思議そうに腕の中から隼人の顔を確かめていたけれど、幸せそうな微笑みを浮かべて、その腕に寄りかかってくれた。

 葉月はこうして、隼人の前で、今まで絶対に言ってくれなかった小さな思い出も口にするようになっていた。
 言ってくれなかったというよりかは、葉月も自分を知らなかったか見ようとしなかったのだろう。それを知って、自分にあったこと、思ったことは、隼人に話すことで消化しているようにも思えた。

 話している葉月は、時にはとても辛そうになるけれど。
 でも、隼人はそんなふうにして、葉月がひとつずつ気が済むように消化していく為に側にいさせてくれる人間として見てくれていることが嬉しかった。

「皆、同じなんだ葉月。恥じることはない」

 けれど、恥じないことはもっと恥じることなのだと──。
 そんなことは、彼女に言わなくても良いことだった。
 彼女は充分、分かっている。
 恥じて後悔したならば、そこに誇りを持って良いと思う。

 彼女はこれから『誇り』を取り戻していくだろう。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 昼食の時間帯だったはずなのに、隼人の『爆弾発言』でバランスを崩したのか、リビングには真一が一人で昼食を取っているだけだった。
 それを少しばかり開いているドアから見た隼人……。

「どうして誰もいないの?」
「お父様は、用事があってエドと出かけました。お祖母様はお祖父様とお休み中です。ちょっと疲れが出たみたいですね」
「ふうん」

 ひとりぼっちで食事をしている真一の相手をジュールがしていた。
 隼人はふと足を止めて、真一の様子を確かめるように眺める──。
 近頃の真一は、生活が不規則になっているようで、昼まで寝ていることが多い。大人達が誰も咎めないのを隼人は不思議に思っていた。
 そんな真一は、今は夜中に起きて本を読みふけっているようだった。

(わざとに見えるな──)

 小笠原の訓練校もこの事情でずっと休みっぱなしだ。
 一度──『俺、学校に帰る』と夕食の時に言い出したのだが、ここでもやはり純一だけでなく、亮介も登貴子も『こういった事情だから暫くは皆でいよう』としたらしい。真一も……何か納得できない顔はしていたが、その時は頷いたようだった。

 真一も真一で、なんだか葉月と同じように遠くに追いやられているような気がする。

『だから煙草を吸ったのだと思う』

 なんだか葉月のあの話がふと頭に浮かんだ。  事情は違うのだが、何かを訴えたいのに、様々なことに捕らえられて上手く訴えられない子供のサイン──。それと重なったのだ。
 真一は今、わざと『大人達』と距離を置いて眺めているような気がしたのだ。
 夜中に起きて昼まで寝て、そんな不摂生な生活をワザとして、大人達に見せつけている気がする……。

「私は、あの子はもう気がついていると思うわ」
「!」

 リビングをそうっと覗いてしまっていた隼人の背からそんな女性の声。
 驚いて振り返ると、白衣姿のジャンヌがそこにいた。

「せ、せ、先生。驚くから、勘弁してくださいよ」
「急に声をかけられたことが? それとも?」
「どっちともです!」

 隼人は素直に降参する。
 ジャンヌはにっこりと極上の笑みを見せていた。

 不思議なことに、やはりこの先生には、見透かされてしまうことが多い。
 だからそれを前提にしてしまい、先に降参するのだ。そうでなければ、『違いますよ。俺、そんなこと思ってなんかいませんよ』と誤魔化す労力が数倍いる人だと分かったからだ。
 そしてジャンヌは素直に認める隼人を見て、いつも楽しそうに笑うのだ。たまにちょっとしゃくに障るのだが、敵わない。
 それに彼女は隼人にとても理解を示してくれていた。

「お父様から、聞いたわよ。葉月さん……当時の名簿から、例の男を捜すと自分で言い出したのですってね」
「ええ」
「こうして外から眺めていると……貴方も感じるでしょう? 大人達は大人の振りして、もうかなりの異様な空気をこの一軒家の中に作りだしていること」
「……そうですね。きっとずうっとこうだったのでしょう」
「そう。今、この家は『箱庭』よ。今までバラバラだった一家が、この箱に収められて波がぶつかり合っているの。そんな中、もう青年になろうとしている思春期も落ち着いてきた敏感な少年が、なにも感じないなんておかしいと思わない?」
「ええ、思います」

 落ち着いて答えた隼人が、すでにその空気を読みとっていることに、満足そうに微笑むジャンヌ。
 こういうところが少しばかり年上の女性に転がされているようで、シャクに障るのだが──。それでも鼻につかないも彼女の不思議な魅力だった。
 そして、ジャンヌが隼人が思わず覗くような形になってしまっていたドアの隙間から見える、ひとりぼっちの真一を……慈悲を含めるやんわりとした眼差しで見つめていた。

「可哀想に。今まで以上に、寂しく思っているかも知れないわ」
「一番、心が通じ合いそうで同じ立場にある葉月にさえ頼らずに、逆に彼女に心配かけないように無邪気に振る舞っているのが、また健気で……」

 本当にとジャンヌと一緒に溜息をついた。
 するとジャンヌは急に意を決した顔でドアノブを握ってリビングに入ろうとしていた。
 その時──彼女はふと微笑んだのだ。何故か隼人はその笑みに背筋がすうっと冷たくなった気がした。何かを確信し、しでかそうとしている顔に見えたのだ。

「あら、やっと起きたようね? ちゃんと規則正しい生活をしなくちゃ駄目よ」

 にこやかだけれど、その爽やかな女医のしらじらしい笑みでジャンヌが真一に微笑みかける。
 それを見た真一が、途端にぶすっとふてくされた顔でそっぽを向いたのにも、隼人は驚いた。

「先生のそんなしらじらしい笑顔のお説教なんて、ちぃーとも怖くなんかないよ」
「じゃあ、目くじらを立てたら良いのかしら」
「放っておいてよ」

 そんなに親しげに言葉を交わしているのを見たこともないが、だからこそ、そんなに気が合わないと言った不仲を見たこともない二人。そんな青少年と大人の女医が、途端に牽制しあっているのに隼人は目を見張った。
 だがジュールはちょっと呆れてはいたが、余裕で笑っていた。
 そして隼人もすぐに気がつく──。
 真一は本当に敏感な青少年。そして、隼人と同様にジャンヌに対して『この女医先生にはなんでも見抜かれて、誤魔化せないから素直に出しちゃえ』と、もう……分かっているのだと。
 それはもしかして? そうして側で余裕で見守って笑っているジュールも?

 するとジャンヌが、それを隼人に見せつけるような事を言いだした。
 彼女はテーブルに寄りかかり、自分が生けた花をふと手にとって、そのままくるくると口元で回し始める。
 その妙にふてぶてしい仕草と目つき。どことなく『毒』がありそうなニュアンスのまま、毒気のない青少年である真一に向かうのだ。
 隼人はその構図を見て、ヒヤッとしたし……ジュールの顔からも笑みが消え、密かに眺めているのが分かる。
 そんな中、ついにジャンヌが囁いた。

「この家の中。『沈黙の大人』と『何も教えてもらえない子供』と『どうにもさせてもらえない部外者』。この人間に分けられるわねえー」

 もう隼人はどっきり──。心臓が飛び出しそうになった!
 葉月が『十八年前の事実』を知るのだって隼人もどうしようかと暫く思っていたのに、本当に何も知らない子供である真一に……!? 心の準備も出来ていなかったし、それにこんな時にだけこう言うのはなんだが、『部外者として、そのことを口にする責任』に対しても覚悟がない。
 それをジャンヌが、がっつり……敏感に嗅ぎ取る真一に、もうこれ以上のヒントはないとばかりにほのめかしたのだ。
 もう隼人の心臓はばくばくと鳴っていて、まるでジュールに助けを求めるように彼を見てしまったのだが、彼は知らぬ振りをして、キッチンへと行ってしまった。

 さあ、真一はどうするのかと見ていると──。

「……ふうん。そうなんだ、全然、分からない」
「大人ね」

 ジャンヌのそんな『かまかけ』なんかに、ひっかかるものかとばかりに……。こんな時は『子供の顔』で、とぼけた真一。『知りたいことがある衝動』を抑え込んだようだ。
 きっと父親に迷惑はかけまいと……。それも若叔母の葉月と一緒だなと、隼人は哀しく眼を細めた。
 『大人ね』と言ったジャンヌの顔は、もう毒気はなく……とても穏やかで暖かい笑顔で真一を包む込んでいるようだった。
 そんな大人の女性の柔らかい笑顔に、真一がふと一瞬……心を許したかのように見入っていたのも分かったが、すぐに『防御の頑なさ』に戻ったようだ。
 その姿たるや──若叔母そっくりだった。なるほど、血が繋がっているといつも以上に感じた姿だった。

 そんな空気の中、ジャンヌがまたもや大胆な発言をする。

「ジュールはあっちなの? それともこっちなの?」
「なんのことですか」

 ジュールにまでカマをかけたのだ。
 もう隼人はハラハラだった。
 だけれど、ジュールはあの硬い表情を崩さずに、キッチンから出てきた。
 そして、彼とジャンヌが暫く……子供の真一を挟む形で、キラリとした視線で牽制しあっているのだ。
 隼人はもう見ていられなくなったのだが、それは大人の視線バトルの間にいる真一も……二人の顔を交互に見て、落ち着きをなくしていた。

 だけれど、二人が一緒ににっこりと──。妙にそっくりに似たような微笑みを見せ合った。
 それは心よりと言うよりかは、真剣な眼差しで牽制しあっているものが、笑顔に代わっただけのようにも見えた。そういう、わざとらしい笑みで今度は牽制しあっている。隼人ですら『怖い』と思う先輩二人と言ったところだった。

「先生──。私が雇い主である事を、お忘れにならないように」
「出しゃばると首が飛ぶとでも?」
「いいえー。流石、先生だなあと。しかし、これ以上はー」
「聞いた? 真一君。ジュールは『沈黙の大人』側みたいよ?」
「そうなんだ」

 真一がちらりとジュールを見ると、何故かジュールが……慌てていた。
 だが直ぐに、ふと降参した致し方ない笑みを見せ、両肩の力をグッと抜いたようだった。
 ついにジュールも陥落かと隼人は思ったのだが──。

「先生、本当に出しゃばりすぎると私も黙っちゃいませんよ」
「分かっているわ。私、貴方が一番、怖いと思っているわよ」

 口元は微笑んでいるが、視線は恐ろしいほどに鋭く光ったジュールに対し、冗談はここまでと言ったように、ジャンヌも真剣な顔に固まった。
 暫く二人はそうして見つめ合っていたが……。
 再度、ジュールがふうっと力を抜いた。今度は『自ら陥落』をしたようだ。

「まあ、どちらかというと──。私も貴女や隼人様と近い気持ちを持ち、そして『枠外』にいると言いましょうか……」
「貴方は素晴らしいわ。どんなにもどかしくても黙ってみている覚悟を決めているし、だからこそ『余計な手出しをしない』という姿勢。そのくせ『黙ってはいない部外者』をものの見事にやり除けているわね。出しゃばらずに、誰も気がつかぬようにそうっと手を出しているところなんて脱帽だわ」
「──敵いませんね。ふとしたことで貴女を雇いましたが、なかなか気が抜けないと言うか。これでは右京様でもひとたまりなかったのも頷けますね」

 今度はジャンヌの表情が固まった。
 それもこれも、真一が『なんでそこで右京おじちゃんが出てくるの?』と、きょとんとしながらもジャンヌをじいっと見ていたからだ。
 どうやらジュールも一矢報いたか。子供の前では『しなくても良い話』を『してやった』と言った感じだ。

 隼人はついに、そこで笑い出してしまっていた。
 そして、間にいる真一に告げた。

「真一。先生と右京さんは、今、恋人同士なんだぜ」
「うっわ! マジ!! そういう事だったんだ!!」

 真一がまじまじとジャンヌの顔を、椅子に座った姿勢のまま覗き込んだ。
 流石のジャンヌも眼鏡の縁をふいっとあげる仕草をして、顔を背けたではないか──。
 ジュールも必死に笑いを堪えていたが、彼もついに笑い出していた。

「まあ、こういった感じよ。真一君、参考までに──」
「有り難う、先生」

 急に真一の顔が明るくなった。
 自分独りで抱え込まなくても、誰かに話したい時は聞いてくれる人もいると言うことを……。そんなにかしこまった大人ばかりじゃないと言うことを見せたかっただけのようだ。
 その先生の手に、どうやらジュールも乗ったというところらしい。そして隼人も……。

 だからといって真一は『じゃあ、どうなのだ』という追求はしてこなかった。
 そこも葉月と同じ心境なのだろう。大人達も傷ついていることだろうから、下手にかき回さない……。だけれど、聞いてくれない大人ばかりじゃないという安心感を得たようだ。
 そしてジャンヌもジュールも、だからといってこうなのだと言うことも、真一から質問されない限りは言わない姿勢のようだ。

 手に持っていた花を一輪挿しに戻したジャンヌも、キッチンに戻ったジュールも何事もなかったように元通り……無口になっていた。

「ねえ、真一君。気分転換に、本病棟の売店へのお買い物、手伝ってくれない?」
「うん、いいよ、先生。ちょっとくさくさしていたんだ。なんでも手伝うよ。俺、先生が今している看護にも興味あるし、いろいろ話を聞きたいなあと思っていたんだ」
「じゃあ、私はお部屋にいるから、食事が終わったら呼んでね」
「はい」

 さっぱりとした顔になった真一を見て、隼人もホッとする。

 あれ? ところで俺は何をしに、リビングに降りてきたのだろう??
 すっかり忘れてしまい、隼人はうんうん唸りながら、来た道を帰った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ──まったく、何をしているのだろう?
 用事があると出ていった隼人が、ぼんやりした顔で帰ってきて『あ、思い出した』と言ってまた出ていった。
 ベッドで独り、窓辺の景色を眺めていた葉月は、帰ってきたかと思ったら出ていった隼人のとぼけた様子に溜息をついて、また窓辺に眼を戻す。

 静かだった。
 隼人から聞けば、義兄の純一は名簿を準備する為に出かけ、両親はあれから部屋にこもっているとの事だった。

 こういう時に限って、結局──誰も葉月には向き合おうとしていないのだ。
 だけれど、葉月には解る。
 それだけ『痛いこと』で、直ぐには直視は出来ないことなのだって。だから、文句を言う気など毛頭ない。
 どうしようもないこと。
 逆に自分が荒れ狂っていた時は、皆は黙って見守ってくれていた。私の側には誰もいないと嘆いている時だって、本当は側にいて見捨てることなく、愛してくれていたのだ。
 ──なのに。

(だから、今度こそ)

 葉月は窓辺の光に臨む。
 今度こそ──自分自身の手で、触れてやるのだと。
 一番、身近にいた『一番の当事者』であるという運命から逃げないことだ。

 静かだった。
 この家だけじゃない。
 自分の心も──。

 なにもかもが、今こうして緩やかに時が流れているように。心も静かだった。
 あんなに私を狂わせ、暴れて持てあましていた心は何処に行ったのだろうか?

 葉月はそっとまぶたを閉じる。
 だけれど、心は静かになっても、どこかに必ず生きているもの。
 一度、心に生まれた『鬼』も『痣』も『傷』も、そうは簡単には消えるはずがない。
 それでも、今は、今まで以上に静かだった。

 うららかな午後。
 そんな光の中、葉月はうとうととしてしまった。
 リクライニングを起こしたままの姿勢で、眠ってしまったようだ。

 

『──葉月、義兄さんが帰ってきたぞ』
『ああ。寝てしまったか』
『本当だ。ではまた夕方、彼女が起きてからかな』
『そうだな。そうしよう』

 

『気持ち良さそうに寝ているじゃないか……』
『この部屋もとても気に入ったようで、義兄さんのおかげだと彼女も喜んでいるよ』
『……なのに。見なくてはならないのだろうか』
『義兄さんも辛いだろうけれど、でも……』
『分かっている。いや、あまりにも気持ちよさそうに眠っている物だから……』
『そうだよな。俺だって、このままでと思うよ……義兄さん』

 

 耳に心地がよい、声色が違う男性ふたりの声がした。
 葉月はうっすらと目を開ける。

 白いセーターを着ている彼と、黒いスーツを着ている短髪で長身の男性が、揃って背を向けて出ていこうとしていた。
 葉月はくっと目を見開いて、横に肩へともたれていた首を起こしあげた。

「おかえりなさい、純兄様。待っていたわ」

 葉月の声に、二人の男性が揃って立ち止まる。
 そしてゆっくりと振り向いた。
 その揃ったテンポ、まるで兄弟。
 隼人は怒るかも知れないが、在りし日の『お隣のお兄ちゃま兄弟』を思い起こさせる程の光景だった。

 義弟となる男は落ち着いた顔。
 そして義兄はやや緊張している顔だった。
 だが、葉月は構わずに純一に微笑みかけた。

「早く見せてちょうだい。兄様」
「……ああ」

 せっつくように彼に向かって腕を伸ばした。
 『本当にいいのか?』──そう言いたそうな心配顔。だけれど、それを言わないのは、葉月の決心を受け入れてくれたのだろう。

「下にある。今、持ってくる」

 いつもの頼もしい義兄の声になり、彼はそのままいったんこの二階の部屋を出ていった。
 ドアが閉まり、隼人が葉月の側にやってきた。そして、いつもの椅子に腰をかけ……。ついに彼からも緊張の色が漂い始めていた。

「大丈夫よ」
「解っている。だけれど、無理は禁物だ」

 彼のその心配も有り難い。
 だけれど……葉月は、また窓辺に降り注いでいるままの光に臨んだ。

「私、どうしても知りたいの。自分で知りたい。今はその衝動でいっぱいよ」

 ──だから、怖くない。

 その眼は隼人には通じていたようだ。

「ああ、信じているし……」

 ──俺も側にいる。

 その光の中で、彼が微笑んでくれていた。
 その笑顔で充分。心強くなれる。

「待たせたな」

 やがて純一が、古びた茶封筒を片手に戻ってきた。
 隼人が立ち上がり、葉月の胸元にベッドテーブルを引き寄せる。
 純一も、隼人とは反対のベッドサイドに寄ってきて、封筒を開け、中に手を入れ……。ついに分厚い冊子を取り出し、葉月の手元に静かに、ゆっくりと置いた。

「辛いなら無理をしないこと。いいな、葉月」
「澤村の言うとおりだ。無理はしなくていいのだぞ、葉月」

 ステレオのように、二人の男性が葉月を挟んで同じようなことを言った。

「分かっているわ……」

 そして葉月は隼人を見て、反対側にいる純一の顔も見上げた。

「何も言わずに、側にいてくれる?」

 二人の男性が揃って『ああ』と答えてくれる。
 それを聞き届け、葉月は手元にやってきた『冊子』に目線を落とす。

 紺色に金の箔押しがしてある名簿帳。
 古びているが、紐で閉じられている布貼りの表紙は堅く、しっかりしていた。
 葉月が姉と虐げられた年が、金色に光っている。
 忌まわしい年。その時の学生達。
 姉が受け持っていた生徒がそこにも若き姿で眠っている。

 表紙はしっかりしているが、その下に閉じられている薄い書類用紙の端はセピア色に日焼けしている部分もある。
 そして数カ所、角が折り曲げられていた。

「この折り目──。兄様があの時につけた物ね」
「そうだな」

 指の腹で、その折り目に触れた。
 折り目は三つ。同じ見開きページにその五人のうちの二人が一緒にいたりした記憶がある。つまり同じクラスだったと言うことだ。
 そこを避けて見ることも出来る。だが、『真犯人』である葉月を殺そうとしたあの主犯格らしい男が、また同じページにいるとも限らない。
 ……やはり、あの厭らしい男達とも『再会せねばならぬのか』と、流石に葉月も小さく溜息を落とした。

 葉月はその表紙を手に、もう一度、左右で見守ってくれている男性二人の顔を確かめる。
 そして、目が合えば頷いてくれる二人の静かな目に触れて、葉月も大きく頷き、表紙をめくった。

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