-- A to Z;ero -- * 桜ロコモーション *

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10.幸せはここに。

 真っ赤で可憐な花が、庭の木に咲き始めていた。
 その真っ赤な花を目にして、葉月は『そこへ行きたい』と、車椅子を押してくれている隼人に頼んだ。

 庭は昔ながらの日本庭園で、季節折々の草木が植えられているし、小さな池もある。
 そんな庭でも、車椅子が通れるぐらいの道にきちんと舗装されているところが、この病院内にある療養家ならでは──。

 結婚して向こう、気分が良くて天気も良ければ、一日一回は隼人と一緒に庭に出ていた。

「先週は咲いていなかったわ」
「蕾はついていたと思うな」
「二階から眺めている時は気がつかなかった」

 隼人の背丈ほどの木に咲いた赤い花。
 二人の婚姻初夜で、自分の胸に咲いた花の色はこんな色だっただろうかと葉月は思いながら、そうっと柔らかい花びらに触れた。
 今まで胸の中で、こんなに鮮やかな色の花が咲いたことはない。
 いろいろあるけれど、『今……私はこの花が咲いたように幸せ』なのだと、葉月はひっそりと微笑んだ。

「季節が楽しめる庭があるのは、良いことだな」
「花が咲いているのを目に出来るのは、楽しいものね。心が和むわ」

 彼の手先も、その可憐な花びらを愛おしそうにして優しく触れている。

 ここのところ良い気候が続いており、昼下がりの散策はとても気持ちがよい。
 けれどふと日が傾き始めると、風は冷たく肌を震わせた。

「もう、戻ろうか」
「そうね。貴方──」

 肩にかけている毛糸のカーディガンを、きちんと掛け直してくれる夫の大きな手。
 頬に触れたその柔らかな彼の手に、少しばかり肌を寄せ、葉月は目をつむる。
 その仕草に気がついた隼人も、その手に寄せた葉月の頬をそっと包んでくれるから、お返しに小さな口づけを葉月は押してみる。
 庭に人の気配はあるけれど、誰も姿を見せなかった。そして家の中からも誰も声をかけてこない。いつも二人きりにしてくれる。
 暫くそうした僅かな肌の触れあいで心を温め合う。やがて、隼人がきりがないよと笑いながら、車椅子を動かし始めた。

「もう、小笠原の桜は終わってしまったかな」
「残念。今年は本島で見ないと見逃してしまうわ」
「じゃあ、その頃には葉月もだいぶ動けるように。そうしたら、横浜で花見をしよう」
「いいわね。私、頑張るわ」

 ──穏やかな時間。
 結婚して夫婦になったこの時を、二人は穏やかに過ごしている。
 家族と同じ屋根の下で過ごしているのだけれど、離島でがむしゃらな軍人生活をしていた日々を思えば、今は本当に贅沢なひととき。僅かな時間でも『ちょっとした蜜月の日々』には違いなかった。
 だけれど、あと数日すれば、彼は小笠原へと帰ってしまうのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 部屋に戻ると、直ぐにエドが訪ねてきた。

「届いたみたいだな」
「はい。小笠原の海野中佐から確かに受け取って参りました。隼人様のマシンです」

 パソコンを収納する専用ケースバッグをエドが手にしていて、それを隼人に丁寧に差し出していた。

「助かったよ。間接的な郵送や輸送だと何か事故でもあった時は、中のデーターも損失するし、データーの流出の危険性もあるし……」
「ナタリーに依頼すれば、小笠原までなら直ぐに飛べますから、何かありましたらいつでも」
「有り難う、エド。ご苦労様」

 エドが厳かに頭を下げ出て行った。
 ジュールにエドはまだ『隼人様』と言うけれど、彼等の部下は隼人を見ると『若旦那様』とか『若主人』と挨拶をする者もいる。
 それを聞いた時の隼人の戸惑い顔を思い出し、葉月はちょっと笑いたくなる。……と言っても、自分も『お嬢様』だけでなく、『若奥様』と言われた時は、ちょっと照れてしまったのだが……。

 ケースを受け取った隼人は、葉月を車椅子に乗せたまま、部屋に用意された簡易デスクに一直線。それほどに待ちこがれていたようだ。
 つい先日、『仕事に復帰する』と言い切った隼人は、その後、瞬く間に行動を起こし、四六時中携帯電話を使って達也や山中と連絡を取り合っていた。

『達也。俺のノートが手元にないと始まらない。それが手元に欲しいけれど……』

 その『個人的であって、ビジネス用でもある仕事道具』の取り寄せについて、達也と相談しているのも、葉月は耳にしていた。

 小笠原の御園本部では、『澤村中佐が復帰する』と言う一報に喜びで湧いたそうだ。
 それだけじゃない。葉月が通信だけでも復帰するという報せにも、皆が喜んでくれたとか……。
 そんな様子を隼人から教えてもらい、葉月も復帰への気持ちが高まっていく……。だけれど隼人の復帰への心はとてもハイスピード。達也との連絡を密に取り、お互いに連携して『即復帰』という勢いだった。
 それを傍らで眺めている葉月も、いつの間にか二人から『ないはずの大佐室の空気』に取り巻かれ、妙な焦りを感じることも──。

 そうしてついに、隼人の『仕事の一番道具』が届いたという訳だ。

「さて。大佐嬢の『マシン』と連携させるか」

 葉月のベッドには、本や雑誌等を置いたり食事をするためのテーブルとは別に、もう一つ……。ノートパソコンが置かれ、黒い配線が床を伝っていた。

 葉月も自分で車椅子を動かし、自分のベッドへと戻る。
 デスクで自前マシンとの久々の対面に隼人は夢中だった。
 そうして葉月は放って置かれているのだが、別にそれはなんとも思わない。
 ただ、そこで画面を見ている彼の、いや夫の顔が輝き始めたのを、息を潜めるようにして見つめていた。

 今までは、葉月も自身の仕事で精一杯だったのだろう。
 夫がこれほどに、仕事が好きだったのだと改めて思った。
 それも自分と同じ仕事──。一緒に頑張ってきた仕事。これからも、ずっと……?

「ああ、いけない。ごめんな、葉月」
「いいのよ。私はこうして座っているだけでも、ベッドにいるよりずっと楽しいの」

 仕事道具が届いたことで頭がいっぱいになってしまい、身体が不自由な妻を放っていたことに隼人はやっと気がついたらしい。だが、葉月は『もう少し車椅子に座っている』と言いながら、ベッドテーブルの上にある雑誌を手にして膝の上に開いた。
 ちょうど窓辺で、昼下がりの日射しが雑誌と手元を明るく照らす。
 旦那さんは仕事、仕事と熱くなってるけれど、まだ葉月の周りにはこんな穏やかな時間がゆっくりと流れているのだと感じていた。

「お茶、頼もうか?」

 そんな葉月を見て思ったのか、張り切っていた隼人も一呼吸置いたように穏やかに笑いかけてくれている。
 葉月はこっくりと頷く。

「私はゆっくりしているから、貴方も好きなようにして」
「うん、有り難う。そうする」

 いつものように、この若夫妻部屋にある内線電話を手にした隼人が『午後のお茶』を頼んでくれる。

「さて、早速──」

 隼人はデスクの上を短期間でも仕事が進められるようにとセッティングを始める。
 まるで少年のように生き生きとし始めた旦那さんを、葉月は少し離れた位置から微笑みながら見守っていた。

 窓辺に射し込む日射しは、まるで春のように暖かい。
 先ほど、隼人と触れあった椿の花が、ぽっちりと緑の木を赤い粒で彩っているのが見える。
 雑誌を見るよりも、庭先の穏やかな景色を眺めている方が、ずっと……心が和む。

 仕事とかけ離れたこの部屋で、愛している人と二人きり。
 夫となった人の生き生きとする姿を、こんなに柔らかくて心地の良い日溜まりの中で見ていられる昼下がり。

『お、早速、達也からメールが……。……よな? 今度、達也が来ると……で、俺も……からな。 葉月?……?』

『失礼致します。お茶を……』
『──俺が夢中になっている間に、眠ってしまったよ』
『気持ちよさそうに眠っていますね』

 

 幸せだった。
 でも、そろそろまた疾風のような風に乗って、私は闘わねばならないだろう──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 もしかすると『幸せ』とは、気を付けて噛みしめていないと、あっと言う間に過ぎているものなのかもしれない。
 葉月は、そう思った。

 あのとてつもない幸福感を漂っている内に、もっと噛みしめていたかったのに『うっかり』眠ってしまったようだ。
 車椅子のまま──。肩まで薄い毛布が掛けられていて、その状態で葉月は目覚める。

 部屋は薄暗く、夕闇。
 足下がぼんやりとした暖かみのある明かりで浮かび上がっているのが、目に入ってきた。
 そっと首を起こすと、毛布がぱさりと赤いチェックのブランケットを掛けている膝に落ちる。
 目の前を見ると、机のスタンドの光だけでノートパソコンに向かっている隼人がいた。
 眼鏡の横顔。そこだけ葉月が良く知っている『中佐席』が幻想のように浮かび上がっているよう……。

 ……どうしてだろう。
 目の前に見えるのに、とても遠く、手が届かないところに存在しているように思えた。
 確実にそこにあるのに、それは夢のように……。そして、すぐには駆けていけない不自由な体である今、そのもののように……。今はまだ、『貴方のようには戻れない』という哀しさが心に流れ込んできていた。

 戻りたい──。
 こうなる前、私は『大佐嬢』としての自分を今まで以上に誇りに思い、そして自分は熱く生きていると思っていた。

 ふと思い出す。
 『雷神のワッペン』を握らせてくれた教官と交わした『空軍人としての想い』を。

 そうだった。私は『そこへ行きたいのだ』。
 急にそう思えて、葉月は微笑んでいた。
 身体は動かずとも、気持ちはすぐそこに寄っていけるはずだ。

「貴方──」
「葉月、起きていたのか」
「ええ、たった今よ」

 葉月が声をかけると、彼の手の動きはすぐに止まり、こちらを見てくれた時には葉月が愛している眼鏡の笑顔を見せてくれている。

「なにをしているの」
「なにって? ご覧の通りだけれど……」
「大佐室? メンテチーム? それとも工学のプロジェクト?」
「……メンテかな」

 その消え入るような返事をした隼人は、妙に力無い微笑みを浮かべたまま、眼鏡の顔は画面に戻ってしまった。
 葉月が悟る前に、隼人から言いだした。

「俺もそろそろ甲板を下りる準備だ。これは決めていたことだから、承知してくれるな」
「ええ、勿論よ。貴方の思うままにやって欲しいわ──『御園中佐』」

 『御園中佐』という呼び方に、隼人はとても驚いたようでまた葉月の方を向いてくれた。
 そしてやっぱり『若旦那様』と呼ばれた時のように、戸惑っている。葉月はまた、笑う。すると彼も、降参したように笑い出していた。

「初めて言われた」
「誰かに先を越されないか、妻大佐としてはひやひやしていたわ」
「ああ。奥さんが最初で良かった」

 二人で一緒に笑い声を立てる。
 それで気持ちがほぐれたのか、隼人はデスクから離れ、葉月がいる車椅子まで来てくれた。
 目の前に、目線を合わせるように彼が跪く。
 落ちた毛布をベッドへと除けてくれ、そして膝を包み込んでいる赤いタータンチェックのブランケットを掛け直してくれる。
 また……そこにある優しい夫の手を、葉月は握りしめた。

「約束して。時間がかかってもラストフライトはするわ。だから、貴方も甲板を下りても……」
「言われなくても、俺が最後に『パイロット御園』を飛ばす甲板員だ。誰にも譲るものか」

 銀色の眼鏡の縁がきらりと頼もしい彼の笑顔を、さらに輝かせる。
 葉月も安心をして、ほっと頬をほころばせた。

「今、メンテの仕事をしているの?」
「ああ。引退後のチーム編成」
「見せてもらっては駄目?」

 隼人の表情が『え?』と、止まる。
 葉月の顔が急に変わったように見えたのだろうか。
 だとすれば、葉月は『遠く離れてしまっていた大佐室』を手元に引き寄せつつあるのかも知れないと、さらににこりと微笑む。すると隼人はデスクに向かい、手元にあった一枚のプリントを葉月に手渡してくれた。

 葉月がそれを眺めると、今度は立ったままの隼人が窓辺に視線を馳せながら、メンテキャプテンの顔で呟いた。

「キャプテンは、サブをしてもらっているデイビットに、ファーマー大尉に引き継いでもらう。現に、ここ数ヶ月、俺が工学の仕事に没頭しても彼は甲板でチームをまとめてくれていた。小笠原に転属して、一年以上。当初から班室の管理を任せていた分、メンバーからの信頼も厚い。彼が適任、他にはいないだろう」
「同感ね。では、サブキャプテンは?」

 キャプテン候補は、葉月も納得のデイビット。だがサブキャプテンには、思うところが生じてしまう。それは葉月が、サワムラチームのキャプテンの立場だったならの考えだ。さて、本キャプテンの隼人はと思うのだが、彼もそこで躊躇している顔をしていた。

「迷っているの?」

 葉月のその一言にも、隼人は驚いた顔。

「こういう場合は、大佐嬢になんでも見抜かれているんだな」

 隼人は力無く笑い、『迷っている』とはっきりと答えてくれた。

「村上さんと、エディでしょ」
「参ったな。当たりだ」

 村上は、デイビットの次にキャリアがある年長者。
 エディは、変わり者だが技術なら小笠原メンテ員の誰もが一目を置く、訓練校AAプラスというスペシャルな成績を経歴に持つ『根っからの技術屋』。
 だが、変わり者のエディも葉月と隼人に説得されて引き抜かれてから、だいぶ凝り固まっていた考え方を変えたようで、今はその『変わり者』の雰囲気が、チーム内のムードメーカーとなっている。

 隼人が迷うのも頷けるほどに、葉月も『このどちらかだ』と思ったぐらいに、チーム内での二人の存在感は同等と言って良い程に、皆に頼られているのだ。

 だが、葉月は敢えてそこで隼人に言い切ってみる。

「私なら、村上さんを選ぶわ」

 また一瞬、隼人が息を呑んだように表情を止めた。だが、今度は腕を組んで黙り込んでしまった。

「確かに、エディはサブというポジションには欲はないだろう。彼は技術が第一だ。けれど……もしかすると彼が一皮むけるチャンスかと思ったんだ」
「そうね。私も、そう思うわ」
「周りを上手くまとめるなら村上だ」
「それは彼にだって同じ事よ。村上さんにだって、一皮むけるチャンスだわ」

 どちらにもチャンスは平等。
 だが決めねばならぬ時は、きっぱりと決めねばならぬのだと、葉月だって辛いが心で言い聞かせてきたことは、何度もあった。何度も……。あの中隊にいる間に何度も……。

 すると隼人が目の前で、笑い出した。

「安心した。その調子なら、すぐに復帰だ」

 葉月は急にハッとする。
 ……夢中で考えていたと。

 目の前で笑い出した隼人の顔が、葉月の目線に戻ってきた。
 彼は再び跪き、葉月が手にしている新構成のプリントを取り去って行く。

「ご協力有り難う。大佐奥さん」
「いいえ。つい……」

 隼人の目の前の笑顔は、優しい夫の顔になっていた。
 そして、葉月も……。

「戻りたいわ。戻って……また、皆の笑顔の中に私もいたい」
「俺もだ。そして、きっとお前の周りの誰もがそう思っている」

 夫の笑顔でそう言ってくれた隼人が、葉月に手を差し出す。
 その手は『さあ、またそこへ行こう』と言ってくれている気がして、葉月もその手の上に自分の手を乗せた。
 彼がその葉月の指先を、優しく握りしめてくれるその力の頼もしさ。──なくしそうだった勇気が、あの頃の勇気がまた湧いてくる気がした。

『さあ、行こう』

 隼人のその目を見つめていると、また涙が滲んでくる。
 もう一度、もう一度、そこへ行けると言うことは、私は『生きている』のだって……。

 心の中で冷えかけていた血潮が熱く身体を巡っていく。
 私は『空を愛している軍人』なのだという気持ちが高まっていく。

 黒い影に勝利することばかりが、葉月の一番の生きている意味ではないと、思い知らされた気がした。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 数日後、葉月はベッドの上でノートパソコンのキーを叩いていた。
 忘れていた沢山の『夢』が、葉月の指を夢中に走らせていた。

 今、身体が動けない分、達也とジョイ、そして山中。そしてテッドが動いてくれる。
 葉月の想いは確かに届き、彼等から指示を仰ぐメールが次々と届くようになった。そこにいなくても『大佐嬢』の想いは確かに動き存在しているという反応に、葉月は喜びを感じていた。

『大佐──。お元気になったと聞いて、安堵いたしました。貴女が女性として幸せになるだろうと送り出したあの後に、まさか、あのような事が起こっただなんて……』

 テッドから、最初に届いたメールだ。

『暫く、信じられなくて、悔しくて。すぐそこに助けに行けない、励ましに行けない自分をもどかしく思いました。勿論、サワムラ中佐がいるのだから大丈夫とは思ってはいても。それでも大佐の元に飛んでいきたい気持ちでした。このような悔しさは私だけではありません。私達は皆、同じ思いのもどかしさを噛みしめあっていました。クリストファーは大泣きしていました。テリーも暫くは無口になってしまいました。吉田は四六時中、犯人への怒りを口にして、最後は毎度の如く騒がしいほどに泣き出したりして。本部中の誰もが、元気をなくしていました。私達が貴女の身に起きたことを知った時は、貴女は意識を取り戻した後でしたけれど、それでも休暇が明けて出勤をしてくる頃だと待ちかまえていたその頃に、一週間程、貴女が瀕死の状態で生死を彷徨ったという報告を海野中佐から聞き届けた時はとても驚き、言葉にならず、そして気が遠くなりました。中佐から内々に聞かせてもらいましたが、そちらの元々の一家のご事情が絡んでいるとか。もしかすると復帰は出来なくなるのかと思いましたが、早々の復帰、とても嬉しく思っています』

 彼らしい真っ直ぐな気持ちを伝えてくれるメールに、葉月はやはり忘れかけていた『沢山の人々の情熱』を思い出した気がしていた。
 それを何度も読み返している。

『形はどうであれ、貴女が少しの形でも復帰したいと言う知らせを聞いて、私達、本当に感激しています。貴女が不在になって、まだ、たった二ヶ月。貴女ならこれぐらいのロスはすぐに取り戻すでしょう。元気に私達を困惑させてくれる程の大佐嬢を待っています』

 ──これからも、大佐嬢と一緒にやっていきたい。
 私だけじゃなく、皆がそう思っているはず。

 大佐、お帰りなさい。

「ただいま、テッド……」

 何度、読んでもそこで涙が溢れてしまう。
 そして『ただいま』と呟いてしまうのだ。

「また、テッドのメールを読んでいたのか?」
「貴方……。だって……嬉しかったのだもの」
「なんだか妬けるなあ。なんでテッドのメールをそんなに読み返しているのかってさあー」

 いつのまにか葉月の傍に寄ってきていた隼人が、腕組み、ふてくされた顔。
 葉月は少しだけおかしくて笑ってしまう。それにも隼人は不服そうだった。
 だけれど、それはただの格好で、隼人もすぐに笑顔になり、いつも傍にいた時の椅子に腰をかけた。

「ジョイから聞いたけれど、お前がメールだけで指示した内容に、また皆が悲鳴をあげているそうだぜ。ジョイが言っていた。『俺達の平和で退屈な大佐嬢不在の日々は終わった』ってね」
「ひ、ひどーい! ジョイったらなによ!」
「拗ねているんだよ。お前の穴を埋めるのに必死で、本島に見舞いにも行けない、結婚祝いも出来ない、しかも……婚礼晩餐に招待してくれなかったってね」
「だって……それは、ロイ兄様が……」
「そう。穴埋めで抜けられないというのもあるけれど、本当の親族水入らずでと気遣ってくれたんだよな。うちの横浜の家族があまりびっくりしないようにってね」
「でも、気にしていたの。……だってジョイとは姉弟同然で一緒にやってきたんだもの。訓練校だって一緒だった。フロリダに行ったばかりの時、ジョイが一番最初のお友達になってくれたと言っても良いわ」

 いつまでも無邪気に明るく笑い飛ばしてくれる彼がいなければ、今の私はないと──葉月は目の前の夫に言い切っていた。
 勿論、旦那さんも穏やかな笑顔で『そうだな』と頷いてくれている。

「だから、小笠原に帰ったら大変だぞ。ロイ中将が『小笠原一族で、盛大に祝いの席をつくる』と張り切っているのだから。きっと細川中将も一緒だろうしね──」

 その時は、小笠原の兄様に弟におじ様に甘えよう──と隼人が言う。
 葉月も二つ返事で頷く。
 親族ではないけれど、御園と肩を並べて共に歩んできた一族だった。
 もし、姉がロイと結婚していたら、葉月とロイが義兄妹だったはず。そうはなりはしなかったが、それでもロイはそのつもりでずうっと葉月を守ってきてくれた。
 その兄様達も、あれだけ協力し、共に苦渋を味わってきてくれたのに。時々……こうして『一族ではない』枠に出て行かざる得なくなる。
 そう思うと、葉月も哀しい。

「ジョイがこっちにすっ飛んでくるようなお願いをいっぱいしちゃおうかしら」
「程々にしておけよ。とにかく、お前の意志と指示は行き渡っているようだから安心してくれとも言っていたよ」
「そう。やっぱりジョイね」

 今となっては、表向きの両腕は『澤村と海野』だが、葉月にとっての長年の連れ合いはジョイだったと言っても良い。そしてもう一人の頼りがいある片腕は山中だった。

 ひととき、二人は他愛もない話を暫くして笑い合う。
 そのうちに、お互いに集中力も切れたから『散歩に行こうか』と言う話になり、部屋を出ることに。

 隼人が着替えを手伝ってくれるのも、今となっては当たり前。
 その上、彼はクローゼットを覗いては『今日はこれがいいかな』なんて、奥さんの洋服を選んでくれたりするのだ。
 本当は自分で選びたいところだけれど、こうでもならないと隼人は絶対に選んでくれないだろうと葉月は今の状態と彼を楽しむことにして従っていた。

「若草色の……。これ良さそうだな」

 エドが揃えてくれた洋服のひとつを隼人が手にして持ってくる。
 隼人は春と言うけれど、色合いが春らしい薄色でも、茶色のベロアテープで縁取りがされている秋冬物のプルオーバー。
 それを葉月の顔に当ててくれる。

「うん。俺の奥さんが、春らしく咲きそうだ」

 葉月も『うん。これにする』と頷く。
 けれど、その時──葉月の頭の中では、北海道旅行の始まりに隼人がさりげなくくれた『若草色のマフラー』を思い出していた。
 聞けば、葉月の血で染まったまま、証拠品として今は警察に保管されたままになっているとか。
 だからとてそれが手元に戻ってきても……もう、手元に置いておこうという気も起こらないと思う。幸せな色の上に凄惨な色を塗りたくられ……。それはマフラーはどうなったかという質問をされた贈り主の隼人も同じ気持ちのようだった。
 質問をしたのはこの家に来て暫くしたころ。葉月が『あのマフラーはどうなったの』と聞くと、彼は警察に保管されている話をしてくれ、その後『思い出の中にしまっておいてくれ』と、葉月を見ず、背を向けたまま言ったのだ。
 その時、彼のまつげだけしか見えない横顔、その頬が怒りで震えているように葉月には見えた。
 そうだろう……。彼が恋人に用意してくれ、それを受け取った恋人も大事に首に巻いて旅を共にしていたのだ。それが一瞬で血に染められたこと、恋人の血で染められたことに口惜しさを感じているのだろうと。

 だから、葉月はそれから『あのマフラー』と言うことはやめた。
 新しいものが欲しいとも言わないし、彼も改めて贈ろうだなんて言わない。
 仮に改めて贈られても、決して『あの時の代物』には代われっこない。あれはあの時だけのもの。
 本当に彼が言うように、『思い出の中だけ』に煌めく物としてしまっておくだけだ。

 それでも彼が若草色のものを選んでくれる。
 ……やっぱり幸せは、そこにある。
 何があっても、私は僅かでも掴んだのだと、葉月はまたひっそりと微笑む。

 隼人がトップを選んでくれたので、葉月はボトムは自分で選ぶ。
 春らしいと言うならば、アイボリーのロングスカートを──。

 毎日そうしているように、着替えを手伝ってくれる隼人が呟く。

「ついに明日だな」
「そうね」
「達也が見舞いに来てくれて、その足で小笠原に帰るからな」
「うん……」

 明日、達也が見舞いに来てくれる。
 実に二ヶ月ぶりの再会。
 そしてそれは隼人を迎えに来る事も意味していた。

 達也が来るのは見舞いだけじゃない。
 中佐として、大佐嬢と仕事の話し合いをする目的もある。
 そして隼人とも復帰を前に綿密な打ち合わせをするため、二人はその日の内に一緒に小笠原に帰るとのことだった。

(達也、義兄様と初対面なのよね……)

 それもちょっと気になる元恋人の不安でもあったりする。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 さて、明日はついに小笠原へ帰ることとなった。
 隼人は今、新しい家族と共に、この家でのとりあえず最後の夕食を取っていた。

 いつもなら、葉月と一緒に二階の寝室で食事をする。
 だが、この日は葉月の勧めもあったので、義理の両親と義兄と、そしてついに義理の甥っ子になった真一と共に団欒を取った。

「いよいよだね、隼人君。また頑張らないとね」
「はい。お義父さん」

 亮介のいつもの陽気な笑顔。
 不思議と、この笑顔は絶えないと隼人は思うし、その笑顔が必要な時は必ず彼は家族にそれを見せる。
 そして皆が不穏な空気に呑み込まれそうになっても、その笑顔にふんわりとほぐれていくのを何度も目にした。
 どんなに辛い時でも、きっと……こうしてパパが自ら微笑んできたのではないかと近頃思うようになった。
 決して、気楽なパパではないし、お坊ちゃん育ちだからという訳でもないのだろう。
 この笑顔は、必要な笑顔で陽気さ……。
 このパパがまだ滞在している限り、『俺が不在でもパパがいるから大丈夫』と思っている。
 それに近頃では、亮介と葉月はよくリビングで笑い合っている姿が見られるようになった。
 パパの冗談に娘が大きな口を開けて笑っている。それを見たママも、やんわりと仲間に入って親子三人でくつろいでいるのだ。

 それを目にすると、この形、ひとつ屋根の下で一家が揃う療養方法は本当に正解だったと隼人は思う。

 それにしても、亮介だってこんなに長い間、フロリダの職場を空けておくことは出来ないはずだ。
 いくら中将とはいえ……。さらに登貴子もだ。中将の妻とはいうが、職場ではその立場は彼女自らが否定するようにして、一個人、一科学者として勤めているはず。ならば余計に長期不在は不利だろう。

 そこを婿として、一度、尋ねてみるべきか迷っていた。
 しかし……聞かずとも、なんとなく。二人が口を揃えて言うだろう事も予想が出来ていた。

『この問題を片づけねば、立ち向かわねば、娘はまた狙われる。それぐらいなら地位も職も失っても良い』──と。

 きっとその覚悟だろう。
 そう思うと、聞かずとも良いかとも思ってしまうのだ。

 さらにもう一点、気になることがある。

「隼人兄ちゃん、お願いがあるんだ。今度、こっちに来る時に俺の部屋にあるものを少し、持ってきてくれる?」
「ああ、いいよ。それから担当教官にも会っておくよ。今後の講義のことも相談してくる」
「有り難う。でも、俺が御園の子だから、特別扱いはしないように持っていってね」
「……わ、解っているよ」

 他の大人達がいる前で、真一がきっぱりと『御園だから』と言う事を口にしたので、隼人はちょっと焦る。
 何気なく、祖父母の二人と父親である純一を見たのだが……。真一のその言い方が気に入らなかったのか、はたまた、思うところあるのか、急に純一が箸を置き、隣にいる息子に向き合った。

「それで? ボウズ。だからとて、お前、今後はどうするのか? 出来ればこの若叔父と一緒に帰って、なにも気にせずに復帰してもいいんだぞ。このままでは……」 
「うるさいな。今後、今後って。俺は『今』が大事なんだよ! 今まで俺のことを放っていたくせに、そんな親父が偉そうに口出しするなよ!!」

 純一がそれほど『くどい釘さし』をしたようには、隼人には見えなかったのに、真一はもの凄い過剰反応を見せ、瞬く間にこの部屋を出ていってしまった。
 隼人が唖然としている間に、純一も食事をやめて溜息ひとつ。テーブルを離れ、ソファーに座り黙り込んでしまった。

「反抗期だなあ。まあ、純。長い目で見てやってはどうだろうか」
「純ちゃん。子供は思い通りにならないものよ。ほんとうに……葉月もそうだったもの」

 祖父母の二人は、狼狽えることなく割とどっしりと見守っているようだった。

 隼人が思うに、真一の『今が大事』と言うのは、『何故、うちの家族にはこのような不幸がずっとつきまとい、今になって若叔母の葉月が殺されかけたのか』、ひいては『母の死になにかあったのか』という事を知ること、そして家族の一員として、その真実に向き合う一人として認めて欲しいことが、訓練校の勉学が遅れるよりも重要なことなのだ。
 隼人は純一にそう言いたいのだけれど、でも……隼人がそうして真一の立場で物を言えるのは、おそらく『人の親になったことがない』からかもしれない。親になれば、もしかすると、純一のように『何も心配しないで、お前は勉学に励めばいいのだ。後は大人達がやる』と、子供に負担をかけさせずに、他の同世代の子供と同じような生活をさせたいという思いが先立つのかも知れない。
 だから、純一に簡単にそんなことは言えないと思った。

「悪いな。隼人」

 え? 今、誰に呼ばれたのだろう? と、隼人は振り向いてしまう。
 背を向けてソファーに座っている純一が肩越しに振り返り、隼人を見つめていた。
 ──彼が、初めて名で呼んでくれた瞬間だった。

 その純一は、バツが悪い顔で、でも次には隼人を真顔で見ていた。

「本来なら、父親である俺が、訓練校の教官と話し合うべきだと思うのだが」
「仕様がないよ。それにどちらにしても義兄さんも仕事で海外にいることだし、小笠原でのことは、俺も今後は叔父として守っていってあげたいと思っているから」
「感謝する。今までのこともだ」
「いやだな。今更……」

 純一が頭を下げてきたので、隼人はびっくり固まってしまう。

「俺、兄さんの義弟だぜ。甥っ子のこと心配するぐらい、今に始まったことではないんだから、気にしないでくれよ」

 純一が気後れした顔で、頷いてはくれた。
 そこには彼も『今更』だろうけれど、息子を捨て鎌倉を出ていった今までの『信念』を改めて、遅い父親になった遠慮や情けなさを噛みしめているようにも見えた。

 小笠原では、特に訓練校では、真一の両親は他界していることになっている。
 今、身内では『親子関係復活』の形で見守っているが、世間的にはまだ『裏社会に繋がる秘密の父親と、何も知らない息子』のままだ。
 今まで右京や葉月が親代わりをしてきたように、今までは少しだけの手助けで留めていた隼人も、これからは正式に『義理叔父』だ。
 今後もきっとそうしていくだろう。

 どうも最近、この親子の関係はすこしばっかり隙間が出来ているようだった。
 こちらもこちらで、なかなか問題ではあるようだと、隼人は密かに溜息──。

 しかしこのままでは、真一は留年しかねない。
 だが、隼人としては、他人事のような判断だと言われるかもしれないが『それも道』とも思うのだ。
 真一ならきっと。ここで向き合うべき事に向き合い、答を手に入れて、留年を克服するに違いないと。
 無理に戻しても、いつかのように成績が落ちるばかりでやるべき事に手が着かないと思う。
 隼人はそれを見てきたから言えるのかも知れないが……。

 けれど親子に口出しはしない。
 純一もここできっと、父親としての答を見つけることだろうから。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 食事を終えて、一仕事再開する前に、奥さんと入浴だ。
 一緒に入浴することには慣れたのだが、今夜はやはりお互いが意識しているのか。葉月は時々、無口になる。そうなると、隼人の手もどうしてか……無意識に無口になった彼女を掴み取りたい気持ちを込めた手つきになりそうで……。

 入浴を終えた後、いつも通りにジャンヌが傷口の手当にやってくる。
 それが終わり、ジャンヌが部屋を出ていくと、隼人は部屋の灯りを落とし、デスクのスタンドの灯りだけにしぼる。
 葉月はだいたいこの後、一眠りをするのだ。不自由な体で一日過ごした疲れと風呂上がりの疲れが重なるのか、まず、葉月はここで横になる。一寝入りして、ふと一時間後に目覚める時もあるし、朝まで寝てしまうこともある。
 だから、今から一仕事再開する隼人は、最低限の灯りにしてデスクに向かうのだ。

 ……向かうはずだった。
 はずだったのだが、手当が終わって、ほんのりとしている灯りの中で横たわっている葉月が隼人に『起こして欲しい』と言い出した。
 隼人は言われたとおりに起こしてやる。

 すると葉月はベッドの縁に腰をかけたまま、支えている隼人の腕の中で、ネグリジェのボタンを外し始めた。

 ほのかな灯りの中で、彼女はふいに肌を露わにする。
 桃色のネグリジェを、肩からすべらし、袖も抜けきらないままの姿で、胸を露わにした。
 そこには、見慣れて無いも同然の傷も、そしてどうあっても目に飛び込んでくる新しい傷も浮かび上がっている。
 ……だが、隼人が見ていたのは、その柔らかそうにふっくらとこちらを見ているような乳房だった。

「葉月──」
「……抱いて」

 葉月は妻になったというのに、まるで初めて抱かれる少女のように瞳を閉じ、とても緊張した様子で唇を震わせているように見えた。

 週末には会いに来ると言っても、明日からは離ればなれだ。
 それが何のためであるか、彼女だって解っている。
 それでも──『やっぱり、私、寂しい』と、聞こえてきそうな顔をしていると思った。

「ああ、いいよ」
「貴方……」

 ベッドの縁で、いじらしいまでに素肌をさらして誘ってくれる妻の頬にそっと手を当てて、隼人は腰をかがめて彼女の唇を塞いだ。
 そのまま彼女の目の前に跪き、彼女が許してくれた乳房を柔らかく包み込み、胸先に口づけ、甘噛みを施し、その周りも跡がつくような強さで吸う口づけを何度も繰り返す。
 そのうちに、強く吸ったいくつかはいつものような痣のような魚になって彼女の胸に刻印される。

 あまり強く吸うと傷に響くだろうから、本当に徐々にゆっくり吸ったつもりでも、葉月は少しばかり辛そうだった。
 それでも、頬を薔薇色の高揚で染めてくれている。

「印……つけてくれたの? 嬉しい」

 胸先の花の周りに、数尾の小魚が泳ぐ──。
 葉月はそれを眺め、『暫くはこれを眺めて貴方を待つわ』と言ってくれる。

 その一言に隼人も感激し、無言で静かに妻をベッドの上に横にさせる。
 隼人の首にしがみついて、ゆっくりと横になる葉月から唇を塞がれた。そのまま口づけを繰り返しながら、シーツの上に辿り着く。
 そうしていつものように見つめ合っていると、葉月がまた……緊張した唇で、隼人に囁いた。

「お願い。いつものようにして。傷なんてどうでもいいから」
「駄目だ」
「お願い。痛かったら、痛いって言うから──」

 激しく熱く、とろけるように抱いて──。

 葉月の栗色のまつげに、小さな涙の滴が幾つも光っている。
 やはり、先に小笠原に帰ってしまうのが寂しいのだなと隼人は思った。

 ──私、寂しい。
 そんなふうな思いを、見せてくれるようになったのは妻になったからなのだろうか?
 隼人は葉月のその願いの返事はしなかったが、心の中で『そんなに言われたら、俺も我慢できなくなる』と呟いていた。

 だが、葉月が言うところの『いつものように』は、やっぱり出来ない。
 しかしそれは無理でも『激しく、熱く、とろけるように』なら、どんなにだって出来ると隼人は思う。
 その思いで、妻の寝間着を身体から取り去り、その愛しい裸体に果敢に挑む。
 挑む先は、彼女の栗色の茂みの奥にある、甘い匂いと蜜が湧く園だ。

「……やっ、あんっ。あ、あなたっ」

 優しく吸い付いたつもりなのに、葉月の声が今夜はひときわ艶っぽく激しい気がした。
 それでも気遣った声なのだろう。外に隣に聞こえないよう、それでも途切れ途切れの吐息に濡れた声はいつも以上。
 その声につられるように、隼人は『熱く、激しく、とろけるように』と、夢中に彼女が悦びの声を奏でるそこを愛撫する。

 確かにそこは熱くとろけていくようだった。
 隼人が愛せば愛すほどに熱い熱気の中からあの甘さが漂い、そしてとろけるように蜜で湿っていく。 
 妻の肌も、つい先日の初夜の時よりも熱くじっとりと湿っていく様は、急に色めく人妻になり、熟していく女のあからさまな妖艶さを醸し出しているようだった。
 それを初めて感じた夫としても、その喜びは愛撫する激しさに反映されていく──。
 なによりも今夜の葉月は、それほどに欲してくれていたのか、とても感度がよい。

「……ふっ、うあ……っ。あ、はや…と……さあん」

 時間は短かったと思う。
 あっと言う間だった。

「いつもより熱いのは、お前の方だろ」
「……だ、だって」

 力無く果てた妻の身体にまたがった隼人は、自分の衣服を解いて、葉月の上に覆い被さる。
 そしてすかさず、甘い痺れを帯電させたままに力無く開いている妻の唇を、実った果実を頂くように吸い付いた。

「あ、ああ……ん」
「いつもどおりでなくても、満足だろ?」

 葉月が恥ずかしそうにこっくりと、隼人の顎先で頷いている。
 大丈夫。愛し方なんて、これから幾らでも、どのようにでも出来るんだと囁いて、隼人も自分の思うとおりに妻の中に入った。
 優しく、柔らかく、ゆっくりと……。これだってこのもどかしさとじれったさがなんとも言えないんだと。
 だけれど、葉月はもう、隼人のそんな囁きなんて聞こえないほどに、愛されることに夢中になっている。
 その顔は、もうすっかり天に昇っていってしまった妖艶な天使の顔だった。

 

 ひととき、暫くの別れを惜しみ、それを分かち合う愛を睦み合った若夫妻は、そのほのかな灯りの中でお互いの素肌を抱き合っていた。
 言葉はなく──。お互いの唇を撫でてみたり、肌に口づけたり……。妻の栗毛を指に巻いたり、夫の指を愛したり。そんな事をしていたのだが、そのうちに葉月が言葉を発した。

「お願いがあるの」

 隼人は、葉月の頭を枕に置いて、彼女の栗毛の生え際をかき上げながら『なんだろう?』と笑顔で顔を覗き込む。

「今度、帰ってくる時に、私のヴァイオリンと楽譜を持ってきて」
「ああ、いいよ。そうか、ヴァイオリン、久しぶりに聴きたいな」
「ええ。聴いて欲しいわ」

 さらにもう一つと葉月が微笑む。

「それから、私の天使を連れてきて」
「天使? あのガラスの?」

 葉月は幸せそうな微笑みで、こっくりと頷いた。

「なんだか気になって。手元に置いておきたいの」

 隼人はふと忘れかけていた『我が子』を、思い出す。
 そして、その妻の心境はどう言った物なのか、ふと考えてしまった。

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