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11.義兄弟デビュー

 今日は日曜日なのだが、朝から慌ただしい。
 この家に、また客が来るためか、ジュールもエドも迎え入れる支度に勤しんでいる。

 エドはキッチンで料理をし、ジュールはリビングを整えている。
 聞けば、二人とも幾つかの会社のオーナーらしいのだが、そういう余裕あるオーナーの優雅さとは、一切無縁と言いたくなるぐらいに本当によく働く。それも偉ぶらずに、未だに下働き根性で手抜かりなく働いている。
 もしかすると、大きな会社を持つ者ほど、こうして『初心』を忘れずに精を出す意欲を人一倍持っているのかも知れない。
 隼人は彼等と暮らすようになって、それを教えてもらった気がした。

 彼等からは『若主人』とか『若旦那様』と呼ばれ時もあるのだが、今後、葉月が跡を継ぐとしても隼人も夫として表立って行かねばならぬことも増えていくだろう。
 彼等の精神に恥じぬ『主人』にならねばと、婿養子になることが決まってからこちら、新たな意識が芽生え始めていた。

 リビングでそうして隼人も落ち着かずに過ごしていると、車椅子がこの部屋に入ってきた。
 そこには、洋服に着替えた葉月がいた。

「ねえ、隼人さん。本当に、これで良いと思う? おかしくない?」

 淡いグレー色のワンピースを着込んだ葉月が、襟ぐりを縁取っている白いレエスをつまみながら隼人の傍まで寄ってくる。
 先ほど着替えを手伝い、隼人は下の様子を見に行くと出ていったきりだったので、退屈で出てきてしまったのか。
 一人で起きあがるのは出来ないことはないが、胸に激しい痛みが生じるため、彼女一人では至難の業。胸に力が入るような運動や、両腕に力を込めることは、今の葉月には苦痛な運動なのだが。

「先生が様子を見に来てくれたから、車椅子に乗せてもらったの。でも、ベッドは自分で下りて車椅子も自分で乗ったのよ」
「おお、凄いじゃないか」

 徐々に小笠原で見ていた葉月らしく『じゃじゃ馬はじっとはしていない』と言う感じになってきていた。
 葉月は車椅子の上で、隼人に『凄い』と言われて得意そうに微笑んでいる。

「貴方が帰ってくる時には、車椅子は卒業しちゃうの」
「お、お前。無理するなよ。頼むから、大人しく療養していてくれよ」

 ほら、また。どこへ飛び跳ねていくか分からないウサギになっている!
 隼人がいない間、無茶をしないでいて欲しいのに、こうして目を離すとなにをするのか解らない『じゃじゃ馬嬢様』が復活のようだ。

「こら、葉月。旦那の言うことはきちんと聞いておけ」
「なによ。義兄様まで」

 ソファーで黒革の手帳を開いて覗いていた純一が、葉月の『車椅子卒業宣言』が気になったのか割って入ってきた。
 だが、葉月はツンとそっぽを向き、自分で車椅子を動かしてジュールの元へと行ってしまった。

 キッチンでお客様のお茶の準備をしているジュールに、愛らしい笑顔でひっつき回っている。
 彼にこのお茶は何処のお茶だとか、種類はなんだとか、このお菓子は何処の物かとか……。

『ひとつだけ、つまんでも良いでしょう?』
『お嬢様ったら。お行儀が悪いですよ──。でも、まあ、ひとつだけですよ』
『メルシー! やっぱりジュールね』

 二人で和気藹々として笑い合っているのを、隼人ではなく純一が溜息をこぼして頬杖をしている。

「まったく。近頃、家族と過ごしているせいか、幼児返りをしたようだ。昔は毎日があんなかんじだったなあ」

 キッチンで彼の弟分という男性と義妹が、仲良く戯れてはいるが、確かに旦那の隼人の目から見ても、大きなお兄さんと我が儘なチビ嬢様の戯れにしか見えなかった。

「毎日が……。葉月はあんなだったんだ。それは無邪気なだけで、幸せだったのだろうね」
「そうだ。無邪気なだけで、なあんにも知らない天真爛漫なチビ姫だったよ」

 隼人は『そうなんだ』と、目を細めた。
 と、言うことは。葉月は少しでも『失った少女の日々』を取り戻したと言うことなのだろうか。
 そして純一の目は、そんな義妹を遠くから見守り、微笑ましい眼差しの中に『取りもどしたとしても、それまでは一言で語れない苦難ばかりだった』と言いたげな憂う陰りも見せていた。

 そんな純一に、隼人はそっと囁いた。

「俺がいない間、彼女のこと、宜しくお願い致します」

 だが、純一は葉月をみつめたまま黙っている。
 黙っていたが、少し間を空けた末に口を開いた。

「俺なんかに頼んでいいのか?」

 苦笑いを見せる彼が言いたいことも直ぐに解る。彼は隼人から恋人を奪っていった一年前の事をほのめかしているのだろう。
 だがそれはあの時、純一が隼人に言った一言に尽きると、隼人自身は勝手に決めている。
 ──『あの時、俺達は共犯だった』と。
 だから、隼人は純一に笑って見せた。

「義兄さんしかいないと俺は思っているぜ」

 そういうと、彼は急に真顔になり、隼人の笑みから視線を逸らしてしまった。
 ……まあ、こういう性分の人。それに隼人も彼の本心を考えれば、無神経なお願いをしたのかもしれない。
 それでも『彼にしか頼めない』と思っているのだ。
 そんなことを考えていたら、いつのまにか純一がソファーから離れ、隼人の目の前に立っていた。
 純一は、隼人を怖いくらいの顔で見下ろし、そして大きな彼の手が隼人の肩を力強く掴んだのだ。

「安心しろ。命を懸けても──」

 隼人の耳元でそれだけを小言で囁いたのだ。
 その一言の真剣さを感じ取った隼人は、その気持ちの重さに固まってしまった。
 安堵できる言葉ではあるが、彼はやっぱり義妹が一番なのだと。

 そんな純一と一緒に並び、キッチンで楽しそうに笑っている葉月を見つめた。
 やがて純一が腕時計を眺めた。

「そろそろ時間ではないか?」
「ああ、本当だ。では、ジュールと一緒に迎えに行ってくるよ」

 横須賀基地に着く定期便でやってくる達也を迎えに行くのだ。
 悪夢があったあの場所に、再度、向かうことになったのだが、それはなるべく考えないようにしようとしたのだが……。それでもあの時の血に染まった妻の姿が朝から頭の中に浮かんでしまうことがあり、時々、気分が沈む。
 それを知っているのか知らないのか──。横にいる純一が、思わぬ事を言いだした。

「俺が迎えに行く」
「は? 義兄さんが……?」
「葉月には悟られるな。ジュールには言っておく」
「急にどうして?」

 目を丸くして尋ねる隼人を見た純一は、こんどはニンマリとちょっとばかり意地悪い笑みを見せたのだ。

「どうしてか? それは『海野』が一番、解っていると思うな」
「あ! もしかして……!!」

 隼人も頭の中に、いつか知った話を思い出し、ある『構図』か浮かんでしまい焦った。
 だが、純一は既に黒いジャケットを片手に、密かに出かける準備を始めている。
 彼が妙な微笑みを見せながら、呟く。

「おそらく、あちらも構えていることだろう。そうして『はっきりさせてやろう』とね。受けて立つんだよ」
「や、やばいと思うな」
「……だろうな? お前さんと空母艦で初めて対面した時のようにな」

 今度の純一は、高らかに笑いながらキッチンへと向かっていった。
 隼人は既にハラハラしていた。
 あの直ぐに吠えて噛みつきそうな達也が、ずうっともやもやと感じながらも心の奥底にしまいこんでいた元恋人の影にちらつく『謎の男』。それが葉月の義兄だと知った時の彼の驚きと怒り。それは表現は違えども、隼人と同じような物を感じ、抱え込んできたことだろう。

「ジュール、出かけてくる。二人ほど借りるぞ」
「はい? ああ、そうですか。どうぞ……」

 ジュールも不思議そうだったが、純一はジャケットの襟をビシッと正しリビングを出ていった。

 当初の予定通り、ジュールの運転で横須賀へ行く。ジュールが運転する車の後ろからは護衛の部員が乗り込んだ車。その二台で横須賀に向かおうとしたのだが、病院の出口で純一が部下を従えて待っていた。
 ジュールもそれに気がつき、車を停め、運転席の窓から顔を出す。

「ジュール、俺が行く」
「こんなことだろうと思いました。お嬢様が気にしない程度にやりあってくださいよ」
「解っている。すまぬが、暫く時間を潰してくれ。帰る頃、電話で連絡する」
「かしこまりました。お嬢様が好きそうな菓子でも探してきますよ」

 隼人が乗っている黒い車からジュールが降り、純一と一緒にいた金髪の男性が運転席に乗ろうとしたのだが……。

「いい、俺が運転する。お前達は後ろから来てくれ」
「イエッサー」

 ボス自らの運転志願に彼等は少しばかり驚いていたが、それでもすんなりと運転席を純一に譲った。
 隼人が乗る車には、純一と二人だけになった。

「運転手に化けて、達也を驚かすつもりかよ」
「別に。水入らずで話したいだろう」
「誰と?」
「おまえさんとだよ」

 隼人は思わず『げ』と思ってしまった。
 横須賀まで純一と二人きりで、何を話すんだよと……。いざ、二人きりになるとそう思ってしまい、構えてしまうのである。
 ハンドルを握った純一は、フロントミラーに写ったそんな隼人に気づいたようで笑っていた。

 だからとて、横須賀へ向かう途中の道、純一からあれこれと話しかけてくることなどなかった。
 それは、隼人も同じだ。ただ彼がスマートに運転する手際を眺めていただけだったり、外の景色を見つめていただけ。
 時々、季節の移り変わりや軍隊の話になったが、五分と続かない。

 だけれど、そのテンポが妙に心地よかった。
 そして彼の運転も……心地良かった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ほぼ二ヶ月。そこは今となっては悪夢の場所だった。

「駐車場で待っているのだな」

 横須賀基地に辿り着き、純一にそう尋ねられたが隼人は何故か答えられなかった。
 フロントミラーから隼人の様子を窺った純一と目があったが、彼の方から先に目を逸らしてしまい、そして同じ質問を繰り返して隼人に問うことはなかった。

 それだけできっと、純一は今の隼人の心にあることを悟ってくれたのだろう。
 彼は横須賀基地空港と直結している駐車場に入ると、誰もが通る正面玄関までの最短距離の道筋を避ける運転を始めた。
 つまり、その彼の取った駐車場内のコースは『殺傷現場』であった蘇鉄の植え込みがある正面を避けるコースだ。
 それでも遠目でその現場が見える。まだ捜査用の黄色いテープが張られていた。隼人はさっと視線を避ける。

 急に黒いもやに包み込まれるような重苦しさが漂った。
 そのもやに、あの時の痛みも、苦しみも、驚きも……。そしてその後に徐々に湧いてきた『憎しみ』も。すべて黒い要因を含む物が隼人の周りを取り囲む。

 このような空気を……。葉月が、そして御園の誰もが、そしてそこにいる純一も……誰もが味わい、苦しみ、背負い、十何年もそれぞれで向き合って苦しんできたものがこれだったのだろうかと、隼人は近頃思うのである。
 だとすれば、この黒いもやに包まれ、引き込まれないように『我でいるための現世』に踏みとどまる闘いというのは、本当に苦しい孤独な闘いだったのだと思うのだ。

 額に汗が滲み、どこまでも逃げるように全速力で走ったような気力を使っている気がした。

「お、あれだろうか。彼は一目で判るなあ」

 静かにハンドルを取っていた純一のそんな呟きで、隼人も黒いもやとの対峙からはっと顔をあげる。
 遠回りに車を回している純一が、最後の曲がり角でゆっくりとハンドルを回しながら、正面の窓に映った男を指さしていた。

「あれだな、制服を着ている男。間違いない、彼だ」
「そうだ。達也だ」

 フロントガラスに制服姿で黒いアタッシュケースを片手にたたずんでいる長身の男が現れ、こちらを見ていた。
 その顔が、隼人が思っていた以上に強張っている。
 つまり……。達也も、『元恋人の心を占めていた義兄』と対面することを構えていたのだと、隼人にもすぐに判る顔つきだった。
 そしてその顔は、既に運転席にいる男を直視していた。
 気がついている……。隼人はそう思った。達也が一目で『アイツが義兄』と判るほどに、達也が僅かに純一を垣間見たという記憶は鮮やかに残っていたようだ。そしてそれだけ純一の存在感や雰囲気も達也には強烈に残っていたのかもしれない。

「あれは、俺が誰だか判っているな」
「判っているね」

 車のエンジンを止めた純一が、シートベルトを外しながら溜息をこぼす。
 隼人も一緒にこぼした。
 二人一緒に車から降りると、非常に緊張した面もちの達也がすぐさま歩み寄ってくる。それも隼人ではなく、純一に向かって……。隼人はハラハラしながら、二人が接触する前に割って入ろうと急ぎ足になるのだが、遅かった。
 達也と純一が分かり切ったように、そして覚悟を決めたかのようにして向き合ってしまっていた。

「純一さんですね?」

 達也はそれだけ言うと、純一に向かって握手の手を差し出していた。
 意外と友好的に見えるが、だが、達也の顔はちっとも笑っていず、堅いまま。むしろ、長身の彼よりもっと身長がある純一をちらりと見上げ、いや、僅かに睨みをきかせていると言った方が良い目つきをしていた。
 そしてそれに対する純一も、心の動きを一切読みとらせないような平然とした顔のまま、達也の手を先に握っていたのだ。

「そうです。私が谷村純一です。初めまして、海野中佐。長い間、『義理の妹』が随分とお世話になっていたこと、義兄として感謝……」

 純一の月並みな感謝の言葉に、達也の頬が途端に引きつった。
 隼人が『やばい』と思った時には、もう遅い。達也は純一を睨みつけたまま、握手を交わしていた手をパンと弾いて、振りほどいてしまっていた。

「──『初めまして』? 冗談じゃない。きっと貴方と会うのはこれで少なくとも『二回目』のはず」
「おや。覚えていてくださいましたか」
「覚えていたじゃない。『ばれていた』の間違いでは?」

 そこで、若中佐と黒猫のボスが目線を鋭く絡み合わせていた。
 隼人が割って入ろうとすると、達也が『来るな』と手で制し、純一は目線だけで隼人を制してきた。だから、そのまま立ち止まり、隼人はただ見守るしかない。

「だけれど。あの時のことは感謝しています。軍が捜索隊を編成したにもかかわらず、こちらはちっとも彼女を見つけることが出来なかった。貴方達が探し当ててくれなかったら……あの時の彼女の身体では、どうなっていたか」
「あれは、私のみの手柄ではありません。今だから言わせて頂くが、実はロイと一緒に手分けをして探していた中で、軍隊の捜索隊とは逆を捜索したまで。たまたまロイと振り分けた方向が『黒猫』の担当だっただけ。見つけてすぐに動いてもらうため、貴方を誘導した。逆だったなら、きっと中佐が見つけていたことでしょう……」
「──中将と、協力していたと?」

 二人の話は、葉月が東南アジア諸国の情勢バランスが崩れていた際の遠征で行方不明になった話をしているのだと隼人にも分かった。
 いつだって、その過去は達也にとっても純一にとってもかなりタブーであり、あまり触れたくない話だろう。
 だが、彼等はそこで密かに連携をし、不明になってしまった葉月を救い出したのだ。そこが達也と純一の出会いだったはず。
 達也は捜索隊に二度参加し、一度目はまったく手がかりがなかったのに、二度目に偶然、葉月を見つけることが出来たと言っていた。だが、側近であった達也が見つけた──と言うことが本当に『偶然だったのか?』。達也に湧いた疑問。その原因も、二度目の捜索の時に、覚えのない捜索隊員に誘導されたような感触があったと言っていたのだ。
 そしてそれの疑問をロイにぶつけた途端に、フロリダに飛ばされたような感触も。──つまり『軍連隊長が裏世界の秘密部隊と結託した捜索』と言うのを、『一族ではない達也』に感づかれた為に、一族の囲いから弾かれたとも言っていたのだ。
 そして今日。達也の長年の疑問が明らかにされた。達也を誘導しただろう黒猫のボスの口から。

 だからか。達也の目がぎらりと光り、純一をさらに睨みつけていた。

「何故、俺を見つける役に? アンタも葉月を愛していたなら、何故、アンタ自身で密林から救い出してやらなかったんだ」
「そうだな。だが……あの時の俺には出来なかった」

 燃える目を見せ始めた達也に睨まれても、純一の表情はちっとも変わらず平坦なもの。
 その素っ気ない反応と、心のこもっていないような純一の返答に、達也はとても悔しそうな顔に変わる。歯ぎしりが聞こえてきそうな程に噛みしめる口元、そして怒りに燃える目。ついに──達也は純一が着ている黒いジャケットの襟を掴んだ!

 隼人の足が一歩、前に出た。
 達也の今の怒りは、過去に純一が愛している義妹を素直に助けなかったという『結果』よりも、その『結果』をなんとも思っていないかのような平然とした態度の方だと隼人は思う。だが、違う! 今の隼人なら解る。その小憎たらしい義兄の素っ気ない反応、それはどうしようもない『純一の性質』に過ぎないのだ。
 それを達也に解ってもらおうと、また割って入りたくなったが──。だが、なんとか堪えた。

 あの時。隼人も初対面だった黒猫の兄貴にすごく腹を立てた。
 しかし、あれは今思えば、純一にとっては『当たり前』と覚悟をしていたこと。
 純一は、本当は自分のことは自分で分かっている。だけれど、誰にだってあるじゃないか。『自分でも解っているけれど、どうにもならない自分』と言うのが。つまり、隼人と対面した時もそれだった。
 そして隼人がそんな小憎たらしい態度で出現した黒猫の兄貴に向けたのは、『拳』だった。
 葉月の心を占めている悔しさからくる拳ではなかった。それは今、達也が怒っている気持ちと同じだ。
 ──『何故、もっと早く、素直に葉月を迎えに来ないのか。彼女のあれだけの想いを受け止めてくれないのか』だった。

 すると、やはり……。隼人が気がついた時には、達也は拳を振りかざし、なんの躊躇いもなく純一の横っ面を思いっきり殴り飛ばしていたのだ!

「アンタがもっと早く。早くに葉月と愛し合っていれば……!!」

 隼人が拳を振るった時同様に、純一はよろめきはしたが、頬を押さえながら踏み耐えていた。
 そして達也は溜め込んでいた思いの丈を叫んだのだが、急にしぼむように肩を落とし、拳を力無く解いていった。

「……でも、アンタがそうしたから。俺達、彼女に出会えたのだとも、分かってもいる。どんなことも、どうすれば良かっただなんて、ないのだと」

 いつも熱い男である達也だから、彼はもう泣いていた。
 そんな達也の肩を、殴られた純一がそっと叩いた。

「不甲斐ない兄貴で男だった分、貴方が義妹を精一杯守ってくれた事、男としても……本当はかなり、羨ましく。でも、感謝していた」

 純一のそんな言葉に、達也が驚いて顔を上げた。
 隼人もちょっとびっくりだ。男として羨ましかったことも、そして感謝していたことも口にしている。
 義兄さん、だいぶ素直になっている気がした。

 そして達也にもそれが分かったのだろう。
 達也は涙を拭くと、詰め襟を正し、いつもの凛々しいぴっちりとした若中佐の姿となり、再度、純一に向き合っていた。

「……私も、貴方なりに色々あったと思いますが、遠くからしか守れないもどかしさの中、彼女を見守る気持ちの強さは本物だと思っています」

 また、達也がすっと静かに純一に手を差し出した。
 それを純一も今度は笑顔で握り返し、そしてそれを受け取った達也も清々しい笑顔になっていた。

「義妹の葉月が心待ちにしています。急ぎましょう」
「はい」

 純一が達也を黒い車の後部座席にエスコートし、丁寧に扉を閉めた。
 秘密部隊の隊長であろう男のその腰の低さ。だけれど、決して卑屈ではない礼を尽くそうとしている優雅な姿に隼人は釘付けだった。

「おい、隼人。なにをぼうっとしている。帰るぞ」
「はい、はい」

 まったく──。
 達也は大事なお客様扱いで、俺は慣れた義弟の扱いかよと隼人は頬を引きつらせる。
 ハラハラして損した気分だった。
 急かされた隼人はむっすりとしながら、後部座席、達也の隣に乗り込んだ。

「兄さん。葉月は大丈夫か?」
「ああ。もうじゃじゃ馬の片鱗が復活してきて、既にハラハラしているよ。来週、俺が帰ってくるまで車椅子を卒業するんだとさ」
「うわあ。相変わらずだなあ。誰が止めるんだよ?」
「さあ? 俺がいない間は、純兄さんに任せることにしたからさ!」

 なんだかイライラしてきてそう吐き捨てると、達也が驚いた顔で運転を始めた純一と隼人を交互に見た。
 おそらく。義兄というポジションに収まろうとしている兄貴だけれども、それでも妻と過去がある男性に預けると言い切った隼人の気持ちにも驚いたのだろう。
 だけれど、達也は純一ににっこりと微笑みかけ……。

「義兄さん、本当に頼みます。なるべく彼女に早く復帰して欲しいので無茶はさせないでください」
「勿論、私も葉月には軍隊に早く復帰して欲しいと願っているからね。それが義妹の望みでもある訳だし──」
「ああ、良かった。貴方なら安心だから!」

 一発殴って、すっきり浄化されたのか!?

 達也は既に、純一をすっかり全面的に信頼したようだ。
 だが隼人としては面白くない!
 確かに達也は調子が良い男だが、こうした社交的柔軟性の素晴らしさには隼人はほんっとうに適わないと思うのだ。
 そして、純一も、いつにない優しい笑顔を達也に見せているのだ。

「任せてくれると嬉しいよ。必ず、貴方達の中隊に義妹を届けます。その分、義妹と貴方達の大事な中隊、お願い致しますね」
「勿論っすよ! それが俺達の……」

 ──『それが俺達の夢なんですから!』

 臆面もなく言い切った達也の『俺達の夢』。
 隼人はそんな達也の真っ正面からの熱い想いに、久しぶりに触れてびっくりはするが、とても感激する。
 こちらの胸も熱くなってくる。
 ああ、そうだ。『俺達』──こんな想いを分け合って、与え合って、貰い合って、一緒に走っていたんだな。隼人はそう思った。

 そして純一も、そんな達也らしさを良く知っているかのように、嬉しそうに微笑み、静かに車を走らせる。

 『俺達』は、もしかすると──大佐室だけではない、沢山の周りの人もいるのかもしれない。
 少なくとも『俺達』の中には、黒猫の兄貴もしっかりとそこにいた。

 隼人にはそう見えてきて、ひっそりと微笑んでいた。
 今まではそうはなれなかったが、これからは、きっと……。

 俺達は、ひとつの想いの中で一緒になっていくのだろうと……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 山崎の病院に到着すると、入り口にはジュールが待ちかまえていた。
 純一とジュールはそこで運転席を代わり、純一は暫く外を回ってくると言って徒歩で何処かに行ってしまった。

 ジュールが軽い自己紹介しながら、運転を始める。
 達也には、ここにくるまでに今、葉月と暮らしている人間関係は説明しておいたので、達也もすんなりと受け入れられたようだ。

「ボスはどう誤魔化すつもりなのでしょうね? あんな口元が切れた顔で」

 敷地内の車道を運転するジュールが、急に可笑しそうな笑い声を立てながら、殴った本人であろう達也をフロントガラスからちらりと見た。
 ジュールの暖かく優美な茶色の瞳に見つめられて、達也が少しばかり照れた顔。
 そして隼人は窓辺で頬杖をついて、またふてくされながら呟いた。

「ばれたらいいさ。それに葉月はすぐに悟るだろうし、きっと彼女も兄さんと達也の対面がどうなるかやきもきしているだろうさ。義兄さんはこっそりと葉月の目に触れないようにやったかもしれないけれど、殴られたと分かれば、葉月はそれだけ見届けて何も言わないだろう。義兄さんの『やりそうなことだ』と知らぬ振りをして、そして、義兄さんは葉月がそうしてくれた『知らぬ振り』に甘えるだけさ」

 隼人がそういうと、フロントガラスに写るジュールの驚いた顔が隼人に向けられていた。

「いやあ。隼人様、流石ですね! もう、完璧ではないですか」
「完璧もなにも。他愛もないことから、大袈裟なことまで。一ヶ月も一緒に住んでいれば、あの二人のどうしようもない距離感っていうのかな? ありあり見えてるじゃないか」
「そうなんですよねー。見せられているこちらは、もどかしいですよねー」

 ジュールが珍しく脱力感たっぷりの深い溜息。きっと彼は隼人以上にそんな二人のもどかしい関係を、黙って静かに見守ってきたのだろう。
 そして彼に至っては、もう諦めの境地に入っているようだ。そして隼人も、『だんだん分かってきた』と言った近頃だった。

「だったら、殴った俺も知らない振りしておいたほうがいいな」
「そうだな、そうしてやってくれ。達也」
「あとで葉月にこっそり怒られるかも知れないなあ」
「お前の今までの気持ちの分、殴ってやったんだって言ってやれ!」

 妙に純一に対してとげとげしい言い方ばかりする隼人を、達也が不思議そうに見ていた。

「なあ。兄さんと純一さん、兄弟っぽくなってきたんじゃないか?」

 今日、初めて目にしただろう達也にそんなことを真顔で言われて、隼人はびっくりだ。

「よ、よせよっ」

 葉月が負傷してからこちら。そう言えば、隼人は葉月と同じぐらい純一と近しい日々を送ってきた。
 そのうちに本当の彼を知り、そして理解し合ってきたと言っても良い。

 そんな中で、兄弟に見えるようになるだなんて絶対にないと思っていた。
 けれど……兄弟のようにして一家を守っていこうという気持ちはあった。

 だから兄弟。
 少しは、彼とそれぐらいに通じ合えるようになったのだろうか?

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