-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

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1.ハッピィウェーブ

 その着慣れた服に袖を通すのは、本当に久しぶりだった。
 だが、今の隼人にはそのようにしんみりと『制服との再会』を堪能している場合ではなかった。

「あーっ。あれはどこなんだ、どこにあるんだ!?」

 二ヶ月前に北海道旅行へと出かけたままにしていた官舎の部屋。
 あの時、適当に置いておいたちょっとした仕事のメモが見つからない。
 仕方がない……。もう一度、調べるか。
 隼人は諦めの溜息をこぼしながら、白いシャツの袖をめくり、結婚祝いでもらった黒い腕時計を眺める。

 小笠原に帰ってきた昨夜、隼人は自分の官舎で一晩を過ごした。
 今日は週明けの月曜日。目が覚めれば、以前そうしていたように、顔を洗い髭を剃り、そして髪を整える。簡単な朝食と言いたいが、食べられる状態じゃない。冷蔵庫など、開けるのを躊躇うぐらい壊滅状態だろう……。今日、仕事が終わって帰宅したら、一番の仕事は『掃除』だ。しかも冷蔵庫が先だ。しかも二軒分。妻の持ち家である丘のマンションも覗かなくてはいけない。彼女は空母航行である程度は冷蔵庫は片づけていたからましなのだが、彼女が留守の間に隼人が上がり込んで少し残していたものもある。その後始末。そして埃がたまっているだろう部屋を少しは綺麗にしておいてあげたい。そして──妻に頼まれたものを手元に用意せねばならない。

 そんなことを考えているのだが、眺めた時計は少しばかり時間が余っていた。
 妻の、妻が、妻と。彼女の生活の分までしっかり当たり前のように考えることが出来るようになったことに、初めて気がつき……。妙に、幸せに感じている自分がいた。
 隼人は机に置いている携帯電話を手にして、自然と妻へと電話をかけていた。
 彼女は直ぐに出てくれた。

「おはよう、奥さん。起きていたか」
『ええ。昨夜、眠れなかった……』
「そうか。無理もないな」

 ちょっと時間が空いても妻が気になるのは、『恋しい』だけじゃなかった。
 実は昨夜、官舎の部屋に戻ると携帯のメールに『真一に話した。近いうちに兄にも話すから』という短いメールが入っていたので驚いてかけ返すと、葉月が疲れた声で『あの男の存在を真一に話し、真一は母親の死がどういうものであったのか予感していた』と教えてくれた。当然、隼人は義兄に話す前に、甥っ子である真一が先に知ってしまったことに驚きはしたのだが……。しかし、妻が言うには『二人で頑張ろうと、一緒に義兄を支えることにしたし、真一ももう落ち着いている』との事だった。
 ……今すぐに、もう一度、そこに戻って、行く先を不安に思っているだろう妻の側に、そして心を痛めているだろう義理甥っ子の側にもいてあげたい。そう思ったが、隼人は一人、首を振る。
 二人は隼人が期待している通りの姿を見せてくれているじゃないか。『家族三人、誰かが駄目なら、誰かが支える』。妻となった彼女と、彼女の義兄、そして義兄の息子で妻には甥っ子である真一は、隼人が彼等と知り合う前から『三人は家族』という意識で繋がってきたことを、隼人は既に理解していた。特に、絆が紡ぐことが出来ない父子の間にいた葉月は、息子を捨て一人で全てを背負い込み暗闇で生きている父親と、何も知らないで育ち十六歳になって初めて母の死の疑惑と実父が存命していることを知った息子との間で、二人が本来あるべき父子になれるようにと願い続けてきたことも、今は隼人も良く知っている。
 だからこそ、隼人は『今こそ、三人で家族として向き合うべき』とも思うのだ。
 助けてあげたいし、協力もしたい。だけれど、三人だけでやるべきと思う気持ちが勝り、隼人は一人で小笠原に帰ってきたのだ。
 だから、飛んでいきたい気持ちをぐっと抑える。
 それに妻も『大丈夫よ。今日はお昼寝しちゃう』と、いつもの愛らしい声を聞かせてくれた。

「ストレスは傷にも良くない。大変だろうけれど、無理は禁物だぞ」
『うん、分かっているわ。貴方』
「そろそろ時間だ。また時間があったら連絡する。お前も俺が仕事中だからと遠慮しないで、何かあったらすぐに連絡すること。いいな」
『はい、隼人さん。お仕事、いってらっしゃい』

 妻のしっとりした声から、彼女の優美な笑顔が頭に浮かんでしまった。
 隼人はそこで一人、頬が火照ってしまう。
 ああ、惜しいな。出来れば本当に今ここで、その声で見送って欲しかった……。なんて。
 きっと彼女はこちらに帰ってきたら職務に復帰するだろう。となると、彼女は奥様として見送ってくれるなんてことはないだろう。制服をかっちりと着込み、凛とした背筋に、颯爽とした足取り、小笠原の潮風になびかせる栗毛の毛先からクールな香りを漂わせ、そして涼しげな眼差しで……。
 ──いけない。結局、そちらの彼女を思い描いても、隼人はぼうっとしてしまっている。結局は、そんな妻も愛しているわけで、待ち望んでいるのだ。

「行ってくるよ、葉月」
『ねえ? おはようのキスしてよ』
「はあ!? どうやって??」

 途端にいつもの悪戯っぽい声が楽しそうに聞こえてきて、からかうような彼女の要求に隼人は面食らう。

『受話器にするに決まっているじゃない。私もするから。ね、お願い』

 ちょっぴり甘える声に、隼人は思わず黙り込んでしまう。

『早くしてよ。私、もうしちゃうから』
「じゃ、じゃあ……。おはよ、う・・」

 俺、なにやってんだ。と、心でやけくそな気分の言葉を吐き捨てつつ、それでも頭の中には愛する妻の唇がくっきりと思い浮かぶ。
 その艶めく妻の唇を思いながら、それに近づくようにと考えているうちに、受話器に口づけていた。

『聞こえない! 私はちゃんとしているのに』
「はあ? もう良いじゃないか」
『……私、寂しい』

 お前のキスの音だって聞こえないじゃないかと思うのだが、隼人は昨日、妻と別れる時に目に焼き付いた彼女の寂しそうな顔を思い出し……。
 聞こえただろうか? 聞こえてくれなくちゃ困るぞ。と思いながら、隼人は受話器に大袈裟な口づけを言われるままに施した。

『聞こえた! 本当にしちゃったの? うそ、隼人さんが本当にそうしてくれるなんて!』

 彼女が笑う声が響いた。
 そして彼女が言う。

『冗談だったのに……。怒って電話を切っちゃうと思ったわ』
「お前。いい加減にしろよ。もう、切るからな!!!」
『ふふ。頑張ってね、御園中佐』

 この野郎と、隼人から電話を切った。
 あのじゃじゃ馬め、調子が出てきたじゃないかと憤りながら、書類を詰め込んだアタッシュケースを手にして玄関に向かう。
 黒い革靴を履く時もぶつぶつと文句を言っていたのだが……。やっと気がついた。

「あいつ、わざとか」

 ──貴方、私は大丈夫よ。元気でしょう? でも、ちょっぴり心細かっただけ。

 そうして離れている場所にいる夫を安心させるために? でも、心細いから。大袈裟な励ましはいらないけれど、ちょっとしたことが欲しい。それが──『おはようのキス』?
 それに気がついた隼人は、胸ポケットにしまい込んだ携帯電話をもう一度取り出し、彼女に掛け直そうとすると、メールが届いた。
 開いてみると葉月から。──『ごめんね。愛している』と、それだけ。
 隼人はまたもや、畜生と吐き捨てながら電話をかける。だが今度は全く出てくれなかった。留守電に切り替わり、隼人は舌打ちをしながら一端切り、もう一度掛け直した。お前が出るまでかけてやるという意志が通じたのか、葉月は今度は出てくれた。

「葉月」
「……なに、何度もかけてきて。メール、送ったでしょ」

 思った通りだ。もう声がすぼんでいた。

「愛しているから、そういう強がりはやめろ」
「……隼人さん」

 ウンと向こうで頷いていた葉月の声はもう泣いていた。
 葉月は『大丈夫』と今度はちゃんと素直に口で言い、隼人も『頑張れよ』と励まし、今度こそ電話を切った。

 また最後の一言、『いってらっしゃい』という優しい暖かみのある妻の声が耳に残っていた。
 彼女の声は、昔よりもずっと感情がこもる丸みあるものになってきていた。

 それが哀しい声でも、楽しそうな声でも。
 そして隼人に『愛している』と囁いてくれる声も……。

 妻のその顔や声も胸に、隼人はいよいよ小笠原の空の下へと向かう。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 達也の車に乗せてもらい、一緒に出勤をする。
 駐車場から四中隊棟までは、それほど人には会わない道のりだが、遠くに見える他部署の隊員が隼人をみつけて立ち止まるというのは、何度か目に出来た。

「さあ、大変だぜ。兄さん」
「そうだなあ。なんだか、億劫になってきた」

 大佐嬢はどうなったとか。
 大佐嬢はどうしてそうなったかとか。
 二人でどうして北海道へ行っていたとか。
 ……さらにだ。
 いつのまに結婚し、御園の養子になったのか等々──。

「今日は挨拶回りを優先にしてさ、業務は程々で良いと思うから、俺達に任せてくれ」
「サンキュー、達也」

 達也も妙に気構えている。
 彼が言うとおりに、本当に今日一日は挨拶回りで費やしそうだ。

 四中隊の棟に入り、いつものエレベーターに乗り込む。
 大佐室に一番に出勤する達也と一緒なので、結構、早い時間帯だ。
 まだ後輩達の出勤ラッシュの前で、廊下は静かだった。

 それでも、だった。
 懐かしい四中隊の本部に辿り着くと、事務室の中では結構な人数の青年達が既に業務に励んでいるのだ。

「これ、葉月がメールで出した指示のせい、と言っておこうかな。でも、やつら必死でやっているぜ。なんせ、小笠原四中隊への来年度の入隊希望が多いんだ。昨日、葉月に渡した書類の中に四中隊入隊転属希望者名簿も挟んでおいたから、アイツもその人数に驚くんじゃないかな」
「そ、そんなに?」
「ああ。新入隊員も本隊員も含めてな。特に俺達と同世代の男の数がすごかった。そうそう、女性も結構いたな。葉月の思わぬ起用で実力をつけた隊員もいれば、チャンスをものにした隊員もいる。女性もどんどん起用するから、若い女性達もここでチャンスをと思っているらしい。女性を起用する男上司ではなく、女性を起用する女上司というメリットも魅力なんだろうな。新しい隊員が続々と集ってくる。そうなると、今この四中隊にいる自分たちもうかうかしていると、四中隊から追い出されるという危機感を持ったんだろう」
「いやー。二ヶ月で変わるもんだなあ」
「毎日見ていると、『いつの間にか変わっていた』って感じだけれどな。久しぶりに目にしたなら、その変化は一目瞭然かもな」

 そういう達也も、前よりずっと落ち着いた中佐になっている気がした。
 隼人と葉月という一番の仕事の支えを失い、なおかつ、ここで俺が守らねば誰が守るんだという必死の思いで本部を守っているうちに、彼もすっかり『隊長の風格』を身につけたのだと隼人は思った。

「おはよう。ご苦労様だな」

 達也がその隊長の風格で本部に入ると、若い青年達が『おはようございます』と振り返り……。

「さ、澤村中佐!」

 達也と並んでいる隼人を見て、誰もが動きを止めた。
 やがて出勤している青年達の中でも、隼人が日頃、密接している空軍管理班の後輩達が一斉に駆けだしてきた。

「お帰りなさい、中佐!」
「心配しましたよ! 大佐が通り魔に襲われたと聞いて俺達──」

 彼等が声を詰まらせる。
 それを目にした隼人は、彼等にも余程のショックだったことを初めて実感する。そうなるとまたもや自分も泣きたい気持ちになってくるが、彼等の肩を叩いて、微笑みを浮かべる。

「心配をかけたな、案じてくれて有難う。俺も驚いたしショックだったけれど、なんとかなったよ。彼女も元気になったし、安心してくれ」
「そうそう。俺も昨日、久しぶりに大佐嬢にあったけれど、あれはもうすぐ『いつものじゃじゃ馬』に復活するぞ。あのメールで分かっただろう? 次なるじゃじゃ馬爆撃は相当なものかもしれないから、今のうちに手元の仕事、片づけておかないと、アイツが帰ってきた時に……」

 達也がそこまで言うと、近頃四中隊を取り巻いているだろう『本部員除外』の言葉が後輩達の頭に過ぎったのか、はたまた、大佐嬢の『じゃじゃ馬爆撃』に怯えたのか、途端に震え上がっていた。
 隼人は達也に『脅かすなよ』と苦笑いをこぼしながら、彼等に『大丈夫、いつも通りにやっていれば』とフォローをしておいた。
 そんな早出の後輩達と再会を終え、隼人は本部をぐるりと見渡す。
 まだジョイがいつもの席にいない。そして、テッドも……。

「そうだ、兄さん。新しいネームが出来ているから、渡すよ」
「ああ」

 達也と一緒に大佐室に入る。
 今、隼人の胸につけている『H・SAWAMURA』のネームとも、ついにお別れがやってきたようだ。
 そう思うとなんだか名残惜しい。
 そう思いながら、懐かしい自動ドアが開き、そこをくぐった。

「おはよう」
『おはようございます』

 大佐室に入った達也が挨拶をすると、女性一人だけの声が返ってきた。
 彼女はキッチンにいるようだ。
 達也は毎日そうしている動作そのままに、颯爽と自分のデスクに向かうと、手にしていたアタッシュケースを置いて、早速、それを開けている。
 隼人は、そのままキッチンを覗いた。

 彼女の横顔が、見覚えのない女性だった。
 航空会社のキャビンアテンダントの女性を思わすような、きっちりと黒髪を結い上げまとめていて、そして背筋をピンと伸ばした姿勢、そして優雅な手慣れた手つきで、コーヒーメーカーに湯を注いでいるところだった。
 黒髪のしっとりとした落ち着いた雰囲気の女性は、テリーではなかった。彼女はもっとすらっと背が高いし、髪はカーリーヘアだ。
 その凛とした横顔の立ち姿は、まさに大和撫子で……。
 と、隼人はそこまで見とれていて、ハッとした!

「よ、吉田?」

 まさかと思って、自信のない声で呟くと、彼女がびくっと反応し、こちらへとゆっくりと視線を向けてくる。

「さ、澤村中佐……!」
「吉田──」

 ──確かに、小夜だった!
 顔つきも、まったく違っている!
 あんなに弾けていた無邪気なだけの女の子だったし、大人の女の仕事に憧れてはいるけれど、まだまだ年頃のお洒落が優先と言ったような華やかなOL嬢ちゃんだった彼女。その流行を重視する華やかなOL嬢のメイクではなくなっていた。すっかり大人の品格を醸し出す控えめで、それでいてきちんと自分らしさで顔を彩る女性の顔をしているのだ。
 暫く見ない間に、女はこんなに変わるものなのか!? と、隼人は驚愕。そうして呆然としていると、向こうも久しぶりに姿を現した隼人を見て、固まっていた。

 だが、やがてあんなに可愛らしいだけだった瞳から、彼女はしっとりと大粒の涙をこぼし、隼人に向かって駆けてきた。

「中佐……! お帰りなさいっっ!!!」

 彼女はロケットのような勢いで、隼人の胸に突撃。隼人が思わず『ぐ』と声を詰まらせるほどの力で胸に飛び込んできたのだ。

 こら、俺には嫁さんがいる身だって……。
 あ、そうだ。まだ知らないんだった。
 そうじゃない。俺には決まった女性がいると分かって、こういうことするのか!?

 と、隼人は一瞬そう思ったのだが、それでも小夜は隼人にしっかり抱きついたまま、わんわんと隼人の胸で泣き始めたのだ。
 そんな彼女を見下ろして、隼人は思う。
 ああ、こうして突進してくるところ、彼女らしいな。裏表がなくって、素直で、直線的で。懐かしいな……。そう思ったのだ。

「吉田。ただいま」
「もう! すごく心配したんですっ。眠れなくて、眠れなくて! 今年は落ち着かなくて、倉敷の実家にも帰る気になれなくて。私、ここで大佐と中佐を待つって決めて……待っていたんです!」

 年の瀬に起きた慕う先輩の不幸を、我が身のように感じてくれていたのだと、隼人は知る。
 心配してくれていることは分かっていても、『ここで待つ』という強い気持ちで、実家にも帰省せずにいてくれたことが、どれだけの気持ちで待っていてくれたか、それだけ聞けば充分に彼女の気持ちが伝わってくる。
 隼人はそんな小夜に微笑み、彼女の両肩をそっと撫でた。

「有難う。俺もショックだった。だけれど葉月は俺達のところにちゃんと戻ってきた」
「お元気なんですよね……?」
「ああ、もう、じゃじゃ馬の兆し有りだぜ。見せてあげたいよ、吉田にも。彼女、テッドからのメールを見て、吉田が心配してくれていることを知って気にしていた。『彼女、本当に自分のことのように感じることが出来る子だから、思い詰めていないといい』と逆に心配していたぞ」

 そういうと、小夜はまた泣き始めてしまった。
 でもやがて彼女の涙は、嬉し涙と変わったのか微笑みながら『良かった、良かった』と泣いくれていた。
 小夜は落ち着くと涙を拭いて、隼人の胸から離れていった。

「カフェオレ淹れますね。すごく練習したんですよ」
「うん、頂こうかな。楽しみだ」

 小夜は嬉しそうにキッチンへと戻っていく。
 またあの凛とした姿を隼人の前に見せてくれる。
 飲まなくても解る。きっと彼女はすごく上達し、美味しいカフェオレに違いないと……。

 小夜らしい突撃の出迎えを、達也は笑いながら見ていたようだ。

「彼女、大人っぽくなっただろう? ここのところ急になんだ。仕事も磨きがかかってきて、最近、あちこちでの評判も上々。彼女を狙う男の影もちらほら」

 何故か『男の影がちらほら』で、隼人は眉をひそめてしまう。
 なんだろう、妙な『兄貴の気分』なのだ。彼女は素直で真っ直ぐすぎるから、相手を信じすぎて邪な男に良いように利用されないだろうかと心配してしまう兄貴ココロ。
 するとそれを見抜いたのか達也が笑い出す。

「そういう顔をすると思った。実は俺もカフェで時々目にしていたんで、ちょっと心配していたのだけれど。彼女、精神も落ち着いているよ。仕事中は男性との浮かれた話はきっぱりシャットアウトという姿勢で他部署の男達を蹴散らしているのを見たことがあるんだ」

 達也が小さい笑いをこぼしながら、隼人に教えてくれる。
 だが隼人はそんな小夜の成長にもびっくりだ。
 あんなに『恋したい』という……二十代の女性らしい可愛らしい部分を全面にありありと出して、大佐嬢を蹴散らすほどに隼人に突撃してきていたのに……。
 その彼女が、今でも願っているだろう『素敵な女性になって、素敵な男性に出会いたいな』という気持ちは、密やかに胸の内にしまい、凛とした立ち姿で『大佐室補佐員』の風格が板に付いてしまっているのだ。

 そんな小夜に見とれていると、達也がどこか感慨深い溜息をついていた。

「やっぱり、葉月の起用は間違いなかったな。最初は女のごたごたかと思っていたけれど。葉月のことだから、少し食わず嫌いをしていたのか、それともあの瞬間に『この子はやる』と勘が閃いたかだな」
「これはまた。予想以上に化けたな。ある意味、葉月の勝ちで、ある意味では吉田も勝ちだなこれは」
「だろう。今じゃ、彼女もなくてはならない補佐員だ」
「いやあ、これは暫く成長を眺める楽しみが増えたな。きっと葉月も喜ぶ」

 中佐二人は顔を見合わせながら、頷き合った。

 隼人も久しぶりの自分のデスクへと向かい、アタッシュケースと共に手にしてきたマシン用のキャリーバッグからノートを出そうとした時だった。
 大佐室の自動ドアが開き、二人の青年が入ってきた。

「テッド。今日は俺が空軍のここまでを処理するから、総合管理班のこれ頼むな」
「了解です、フランク中佐。それでは、今日、復帰する澤村中佐にはこれを……」

 二人は肩を並べ、手に書類を持ったまま周りも見えない様子で大佐室に現れたのだ。
 確か、二人は同い年。だがジョイが二期先に入隊したため、キャリアでは先輩。そしてテッドの目標はジョイのような語学堪能で営業力のある若き総合指揮官になることだった。
 だが今、その二人は上官と部下のやり取りはしているが、肩を並べている姿は『厚き信頼』で結ばれている同僚に見えた。
 そんな二人は、大佐席の目の前に来ても隼人の帰りに気がついていない。それほどに集中しているよう──。どうやら、隼人のいない穴埋めを、元々空軍管理の手伝いをしていたジョイが久しぶりに手がけてくれているようだ。そして総合管理で空いてしまうジョイの不在をテッドが埋めているようだ。

 ──皆が、一生懸命に自分たちの穴を埋めて待っていてくれた。
 それを目にして、隼人の胸は熱くなる一方。そして誰もが二ヶ月前よりずっとより一層、素晴らしく頼もしく見えて仕方がなかった。
 そんな二人に隼人から声をかけた。

「ただいま」

 二人の青年がハッとした顔を揃えてあげる。

「隼人兄!」
「澤村中佐!!」

 その二人に隼人はさらに微笑みかける。

「留守中、有難う。そして、心配してくれて有難う。そして、心配をかけさせて、ごめんな……」

 隼人が軽く一礼をすると、二人が揃って首を振る。
 その途端だった。隼人の目の前でジョイが肩の力をがくんと落とし、隼人の机に腕をついてうなだれてしまったのだ。

「ジョ、ジョイ? 大丈夫か?」
「フランク中佐!?」

 達也まで向いにいる隼人のデスクまですっ飛んできた。
 テッドはジョイの肩に手を添え、心配顔で覗き込もうとしていた。
 もしや……。ジョイは幼馴染みで姉貴分である葉月とは誰よりも付き合いが長く、姉弟同然だというのに、見舞いも許されず結婚式の祝いにも駆けつけられず……、つまりそれほどに忙しく姉貴分の穴埋めをしてくれていたのだ。その疲れが隼人の顔を見て、出てしまったのか!? 流石の彼も、気力が切れたのか!?
 それは隼人だけではなく、テッドも、そして達也も思っただろう。小夜もキッチンから出てきて、今にもこちらに駆けつけてきそうだったのだが……。
 皆がジョイの背に手を当てて、顔色を確かめようとすると、急に彼がガバッと起きあがり隼人を直視してきた。

「やああああっと帰ってきたなあっ!」
「ジョイ? な、なんだよ」

 彼の目は怒りで燃えていたので、隼人はひやりとしながら思わず後ずさってしまった。
 だがジョイはその目で、隼人に詰め寄ってきた。

「次の週末も本島に行くんだよな? 帰るんだよな!?」
「あ、ああ。勿論」
「その時は、ずえええったいに、俺も同伴!! 今度こそ、お嬢に会わせろっっ!」

 どうやらジョイの姉貴分への思いも、相当に溜まり込んでいたようだ。
 彼は問答無用という勢いだったが、隼人は二つ返事で頷いていた。いや、その迫力に頷かされたと言っても良いかもしれない。
 だけれど、次にはジョイは泣きそうな顔をしていた。

「お帰り、隼人兄。お嬢が無事なら、俺、なんだってするんだ。だから気にしないでくれよ。その代わり、こっちにいる間は頑張ってね」

 隼人が今までを気にしないように気遣ってくれる言葉と、だけれど今後はしっかり働いてもらうという容赦ない言葉に隼人は複雑な笑みを浮かべながら『勿論』と頷く。
 そして今度こそ、『お帰り』と『ただいま』の再会の握手をいつもの笑顔で交わし合うと、周りの達也たちもほっとした笑顔を浮かべていた。

「テッドも有難うな。大佐宛に送ってくれたメール、彼女、とても喜んで読んでいたよ。それで益々、復帰するモチベーションが上がったみたいで、夢中になって書類を作ったりしていた」
「そうでしたか。良かったです。ただ皆の近況や様子を大佐に知らせたくて書いただけなのですが……」
「いいや。彼女、何度もメールを開いては『テッド、ただいま』と呟いていた。テッドの帰ってきて欲しいという強い気持ちは、彼女の心に強く響いたようだよ」

 そういうと、テッドはとても嬉しそうな笑みをそっと浮かべていた。
 先輩達の目があるせいか、あからさまな喜びの顔は控えたような笑みだが、彼の心の中で、親愛なる大佐嬢にその気持ちが届いたという喜びが、彼の内面でとても大きく広がっていることが隼人にも分かる。そこにはもう……。この彼という補佐と大佐嬢の間でしか存在しない彼等二人だけの絆を見た気がしたのだ。またちょっと妬けてくる隼人は、思わず……。

「あんまり何度も眺めて、彼女は嬉しがっているから、『夫』の俺も流石に妬けたくらいだったよ、テッド」

 達也とジョイは、『妬くな、妬くな』と当たり前のように笑っていたのだが。
 テッドだけが、ギョッとした顔をしていた。
 隼人もハッとした。
 するとテッドの目線が、隼人の左薬指に──。そこには朝日にキラリと輝く銀色のリング。

「い、い、いつ!? 今、中佐、お、夫と言いましたよね!?」

 朝礼で一斉に知らせるつもりだったのに。
 ……その前に、ばれた。

「──十日ほど前かな?」
「十日!? つい最近じゃないですか!? ど、ど、どうして急にそんなことに!?」

 あの冷静なテッドが男の子の顔で真っ赤になって、隼人に詰め寄ってくる。
 すると今度はキッチンから『がしゃり』と陶器が落ちた音が……。
 見ると小夜もそこで呆然と立ちつくしていたし、残念なことに隼人に淹れてくれたカフェオレが床にこぼれていた。
 それを見た途端に、テッドが『また、小夜がやった』と舌打ちをしながら、キッチンに駆けていった。

『お前、またやったのか』
『だって! 驚いちゃったんだもの! それにまたとはなによっ。私がこの前こぼしたのは随分前じゃない!』
『いいや、先週、湯飲みを一個割った』
『……うるさわね! あれは私の湯飲み! 自分のを割ったんだからいいじゃないっ』

 空耳だったか。テッドが『小夜』と言った気がしたが……。
 顔を突き合わして言い合いをしていたが、二人は息があったように雑巾を手にして、手早く床を綺麗にし始めた。その揃ったテキパキとした動作にも、隼人は目が丸くなってしまうような、今まで見たことがない雰囲気、そして手際の良さだった。
 キッチンの床を拭きながら、テッドがこちらを見ながら叫んできた。

「どうして俺達に報せてくれなかったんですか、そんな大事なこと!」

 隼人も、本来は『とてつもない不幸』に巻き込まれて留守にしていたのに、復帰をして『おめでたいことがありました』なんて落差のある報告をしなくてはいけなくて、ちょっとバツが悪いのだが……。

「ええっと、実は北海道の例の旅行で……そのう、彼女と上手く行って、そのう……そこで二人で……」
「つまりプロポーズをしたんですね!?」
「まあ、そういうことかな?」

 ──今回は葉月がしてくれたんだけれど。と、隼人は心で呟く。

「じゃあ、中佐と大佐は結婚を決めて帰ってきたら、あんなことに遭ったというのですか?」

 隼人はこっくり頷く。
 テッドの質問はそこで止まり、小夜も固唾を呑むようにこちらを見ている。

「……だから俺達。彼女が意識を取り戻してすぐに、何でも良い直ぐに結婚しようと決めたんだ。急いで最低限の準備をして数日前、入籍だけ済ませ、親族だけで祝ったところ」

 隼人のしんみりとした声に、二人の動きは止まっていた。
 だがやがて、隼人の目の前で二人は馬鹿みたいに悔し紛れと言ったように床を拭き始める。

「澤村中佐! いいのですか? 新婚なのに大佐を置いてきてしまったってことでしょう?」
「そうですよ、中佐! いくら中佐が仕事人間だからって、怪我をしている奥さんを放ってくるなんて、私、信じられないっ!!」

 そうして床を拭きながら叫ぶ二人の意見も息が合っているようだ。
 まるで次世代の『双子同期生』を見ている気分になってくる。見ているうちに、隼人はついに笑ってしまっていた。
 いない間に、そこの後輩二人はかなり息を合わせた仕事が出来るようになっていたようだ。
 そんな二人に、隼人は今ある気持ちを伝える。

「まあ、新婚だけれどね。俺の奥さんになった女性は『大佐嬢』。彼女も復帰を望んでいる。その準備を夫になった俺がする。──二人で話し合ったことだ」

 そう言うと、また二人は息があったように手を止め、顔を見合わせていた。
 二人には『夫妻が決めたこと』の意味が通じたようだ。

「そうでしたか。それなら……大佐も承知の上、覚悟の上なのですね」
「大佐と中佐らしいですわね」

 二人は理解した笑みを見せてくれると、サッと拭き終わり片づける。
 そしてまたもや揃ってキッチンから出てくると、隼人の前に二人は並んだ。

「ご結婚、おめでとうございます」
「おめでとうございます、中佐。良かったですね……」

 テッドの清々しい笑顔に、小夜のまた我が事のように喜びの涙を滲ませてくれる笑顔。

「有難う。あのようなことはあったし、短い間だったけれど……。俺も彼女も、なにもかもを忘れて『幸せな時間』は得ることが出来た」

 隼人のそのしみじみとした言葉に、誰もが黙って祝福の笑顔を見せてくれていた。
 隼人も自然と、暖かいその笑顔に囲まれて、笑顔を見せることが出来た。

「さあ、驚くことなかれ。テッド、小夜ちゃん。まだまだあるんだぜ〜」
「そうそう。きっと今日は基地中が大騒ぎになるね!」

 達也とジョイのなんだか楽しそうな笑みを見て、後輩の二人は首を傾げていた。
 そんな彼等の目の前で、達也は隼人の隣に寄ってきたかと思うと、隼人の胸にあるものを宛ったのだ。

 それは銀色のプラスチック板に黒文字でくっきりと英語と日本語のネームが刻印されている『ネームプレート』。

「なーんと。兄さんは、本日から『MI・ZO・NO─御園』なのです! 今日から兄さんは『御園の坊ちゃん』なんだぜ〜」
「よっ! 隼人兄、ついに苦労の『婿養子』生活のスタートだね。可哀想!!」

 達也とジョイのからかいに、またもやテッドと小夜がびっくり仰天の顔を揃えていた。
 二人は言葉を失い、今度は生意気な質問すらしてこない。

 ああ、きっと──。今日、一日はこういう繰り返しなのだろうなと、隼人は頭を抱えた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今、この本部の朝礼に、あの小さな木箱はない。
 そこに乗って指示をする大佐嬢が不在だからだ。
 今、そこの位置には、その木箱がなくても充分に隊員達を威圧することが出来る長身の隊長代理中佐がいる。

「諸君、おはよう」

 達也の挨拶と共に、山中の豪快な敬礼の号令がかけられる。
 隊長代理の今日の周知の一番項目は、『澤村中佐の復帰』だった。

 達也は淡々と、この二ヶ月のこと、そして誰もが知っているだけの範囲を説明していた。
 それが先ほど後輩青年達が口にしていた『大佐は通り魔に襲われ、幸い命を取り留めることができ、澤村中佐はプライベートの立場で彼女の看病にあたっていた』と言うこと。そして『今日から、澤村中佐だけが復帰し、通常業務に取り組んでいく』と言うことだった。
 ──基地では、葉月は『通り魔に襲われ、警察がその足取りを追っている段階。大佐は治療に専念中』という事になっているようだ。
 隼人は、誰もが知ることのない御園家の事情が奥底で渦巻いていることを思い出しながら、そっと目をつむった。今はそれで良い……。

「中佐、なにかあれば、どうぞ」

 達也に促され、隼人は彼の隣から、一歩前に出た。

「休暇を頂き、プライベートで彼女と旅行を終えて帰ってきた時の……一瞬でした。直ぐに帰ってきて、彼女と共に今まで以上にやっていく心積もりでしたのに、かえって皆様にご迷惑をおかけしました。まだ、彼女は治療中ですが、今まで不在にしていた分も彼女の分も、皆さんと一緒にまた力を合わせてやっていきたいと思っています」

 ──宜しくお願いします。
 と、一礼をし、隼人はここで深呼吸。
 横目でみると隣の達也とジョイと、その向こうにいる山中もやっぱり知っているようで、三人の中佐はニタニタとしていた。さらに部員が並んでいる先頭にいる総合管理班のテッドと小夜も、今度はにんまりと隼人がそれを皆を目の前にして言うのを楽しむように待っているのだ。

 隼人は軽く咳払いをして、後輩部下達の前に立ち向かう。

「さらにー。皆様にお知らせがあります」

 またそこで止まってしまうのだが、今度は達也が肘でこづいてくる。
 早く言え、早く言え。とばかりに。
 もう、隼人も半ばやけくそで、前に言うというよりかは、天井に向けて声を発していた。

「急ですが! 私、澤村と彼女、御園葉月は、結婚を致しました!」

 隼人のその叫びに、予想はしていたが『ワッ』とした驚きの波が、空気の振動がどうっと襲ってきた。
 だが、まだまだ。言わねばならないことがあるから、その波を押し返すようにもう一度……!

「さらに、私は御園の家に入りましたので、本日から『澤村ではなく御園』になりますので、宜しくお願いします!」

 その報せにも、青年や女性達の驚きの波動がわあっと隼人の声を押し返してきた!
 皆は暫く、ざわざわと騒いだり、唖然とした顔をしたものもいたり……。
 だがやがてあちこちから、聞こえてくる。

『中佐、おめでとうございます!』
『おめでとう、御園中佐!』
『大佐もおめでとう!!』

「御園大佐、そして御園中佐に祝福の拍手を」

 達也の号令で、皆が『おめでとう!』の声を揃え、大きな拍手を揃えてくれていた。

「有難う、みんな」

 隼人はこの時、どうしてか数年前のフランスにいた自分を思い返していた。
 あの頃、俺は一人で充分という暮らしをしていた。それで幸せだと思っていた。
 何事もなく、とりたてて大きな出来事もなく、恋人という存在を避けるようになってからは一人きりで安定した生活をしていた。

 ──その俺が、何故か今、沢山の仲間に囲まれて、それ以上にこんなに大きな祝福を受けていた。

 何故だろう……。
 隼人は熱くなる目頭を感じながら、その答を探す。
 だが、探さなくても分かっている。

 その『答』がここにいない。
 ──葉月、お前と出会ったからじゃないか。
 この祝福をお前と一緒に受けるはずなのに、俺以上にお前に受けて欲しいのに。

 やっぱり、隣に片割れがいない寂しさが隼人にも急に込み上げてくる。
 それほどの、素晴らしい祝福に隼人は包まれていた。

 

 その頃──。東京にいる葉月は車椅子に一人で乗り込み、一階へと下りていた。
 探しているのは『父親の亮介』。

 葉月は、膝掛けに『あの写真』を忍ばせ、父の元に向かっていた。

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