-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

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2.いかないで……

 父はこの男の事を知っているのだろうか?
 葉月はその不安に潰されそうになりながら、それでも決意をしてしまうと、勢いがついたように迷いはなく父の元へと向かう。

 知らないと良い──。
 義兄の純一のように、父も実は良く知っていて、その事実を口にした時の裏切りを受けたような顔を見るようなことにならないよう……。
 葉月はそう祈りながら廊下を一人で車椅子で進む。

 両親が使っている寝室にやってきた。
 そのドアの前に向かい、葉月は暫くそこで止まっていたのだが……。

「葉月?」

 今来た廊下から父の声。
 葉月が顔を上げると、そこに父が立っていた。

「パパ……」
「いや、リビングで真一とお茶をしていたらお前が見えたのでね。どうしたのだい? 良かったら、一緒にお茶をしないかい?」

 葉月はそっと首を振る。
 亮介は少し訝しそうに首を傾げ、娘を見下ろしていた。

「お部屋に入らせてもらっても良い? ママは兄様と買い物に行っているのでしょう?」
「ああ、そうだよ。食料の買い出しに。……なんだろうね、じゃあ、パパと部屋に入ろうか?」

 葉月が笑顔で頷くと、亮介は訪ねに来てくれたことが嬉しかったのか、満面の笑みを見せてくれる。
 その笑顔に、今から打ち明けようとしていることを考えるとちょっと心が痛んでしまう。
 だが亮介は軽やかな手つきで車椅子のハンドルを握ると、さっと寝室に入れてくれた。

 葉月が広々と使っている寝室とは大違い。
 こちらはシングルのベッドがふたつ。こぢんまりとしているツインの部屋だった。
 両親の荷物がところ狭しと押し込められ、二人はただ寝るだけに使っていると言った状態のようだ。
 子供と婿と孫優先の生活。そこに親の気持ちが表れているように葉月は思えた。

 葉月の車椅子が通る道もやっとという狭いスペースを亮介は丁寧に進ませ、自分が使っているベッドサイドに連れて行ってくれる。
 パパのベッドサイドには、手帳と携帯電話と万年筆。そして音楽を聴く携帯オーディオとイヤホン。クラシックのCDアルバムが数枚。亮介が葉月と同じように、密かに音楽と親しんでいるのを目にした葉月は、それは驚きでもあり、そして安堵も感じた。このような部屋で、あらゆる心配事と戦いながら、押し潰されそうになりながら……。でも、父も心の片隅で趣味で癒している時間があることを知って、安堵をしたと言えばいいのだろうか? 母のベッドサイドにはエレガントな眼鏡ケースと科学の本。それは見慣れているのだが、父の方は初めて目にしたような新鮮さがあった。
 そこには、もうひとつ。茶色の小箱が置いてある。亮介はベッドに腰をかけると、向かい合わせになった葉月にその小箱を差し出した。

「パパのおやつだ。食べるかい?」

 食べかけだったが、そこにはチョコレートが並んでいた。
 葉月の大好物だ。なんだかパパが手の中から魔法で出してくれたような嬉しさがあり、葉月は『うん』と頷き手を伸ばした。
 いろいろな形や模様のソートのチョコレート。その中から葉月はカメオのブローチのように白いチョコレートで繊細な花模様が描かれているものを手にした。
 すると目の前の父が、クスリと笑ったのだ。
 その父の顔に、葉月はドキリとしてしまう。なんだか久しぶりに見た気がしたのだ。

 父は今は口ひげのお爺さん手前の男性だけれど、若い時はあの右京のようにそれは麗しい男性だった。
 ただちょっとそそっかしくて、茶目っ気がありすぎて、そして男臭くて。弟の京介のようなフェミニンな柔らかい要素は薄かった。だけれど笑うと誰よりも燦々としていて、それは本当に何処までも続くなだらかな丘に咲く黄色い向日葵の群衆を思わす陽気な人だった。
 パパは楽しくて、優しくて、そしてハンサムで。ケラケラ笑うけれど、時々ドキッとするような優雅な微笑みを見せてくれる人。今がまさにその時。父がちょっと男性が女性を思う時に見せる色気のような余裕を見せるフェミニンな微笑みを見せていたのだ。
 小さな時。父がそれを見せると葉月は今と同じようにドッキリとしていた。いつかこういうパパみたいな人のところに、お嫁に行くのかなあなんて、ませた事を思っていた小さな女の子だった自分を思い出す。そういう男性の素敵なところは、もしかするとこのパパから教えてもらっていたのか、感じていたのだろうかと初めて知った気がした。

「葉月はそれを選ぶだろうと思っていたよ」
「! ど、どうして?」
「だってそうだろう。お前、忘れたのか? 右京がお土産に買ってくるケーキで一番に選んでいたのは、生クリームで作った薔薇の飾りがあるケーキばかりを選んでいたじゃないか」
「ああ。あのケーキ、うん……大好きだったわ」
「これ、どんな味だろう? じゃなくて。葉月は『これ、綺麗』なんだよね。本当に女の子感覚そのもの全開だったんだよね」
「そ、そう? そんなこと意識していなかったけれど。だって美味しいには変わりないもの」
「お前は綺麗なものが大好きだったなあ。そのくせ、男の子が楽しんでいるものも興味津々で、ある時なんか『カブトムシ捕り』までねだられて、お兄ちゃん達と私と一緒に鎌倉の山に入って捕りに行っただろう?」
「あー、そんなことも……」

 あったわね。と、葉月は小さく呟く。
 なにもかもが……。あの事件の前の話。
 葉月の心の奥に『あの日はなくなったのだ』と封印された日々。自らも封印した日々。
 いつしかそれは『無かったこと』に等しくなっていたと思う。
 だけれど──。父はこうして鮮明に覚えていてくれて、そして思い返すのだろう。
 それも分からなかった子供心。
 葉月は仕方がなかったという言葉では片づけられない、申し訳なさを感じながら……。だけれど、父がそういう些細なことでも葉月を見つめてくれていた愛情を感じながら、そのチョコレートを頬張った。

「美味しい。もうひとつ頂戴?」
「くいしんぼうめ。パパのおやつも根こそぎか?」
「だあって、チョコは大好きだもの」
「好きなだけ、お食べ」

 父は笑うと、ついに葉月の膝の上にその箱ごと渡してくれた。
 葉月は躊躇うこともなく遠慮無く、その箱を抱きしめて喜んでしまう。
 父も楽しそうに笑ってくれる。

 ……今、やっと元に戻れた気がする。
 葉月はそんなことを思える日々を過ごしていた。

 だが父は、ただ陽気な人でもない。
 時には彼のその陽気さは一等の『仮面』になっていることも葉月は娘として良く知ってた。
 チョコレートを無邪気に、三つ目をほおばっていると、父は途端に涼しげな眼差しで、頬杖。葉月を探るようにじいっと見つめているのだ。
 その目線にも葉月はドッキリするのだ。今度はフェミニンな男性の片鱗とは逆の感覚。男性の恐ろしい部分を見せられている気分。葉月は急いで三つ目のチョコレートを口の中で溶かし、呑み込もうとした。次なる話題がやってくると構えるためだ。
 だが……亮介の方から先手を打ってきた。

「そんなに急いで食べなくても良いのだよ。ゆっくり味わったらいいだろう?」
「……そ、そうね」
「それとも? 珍しくお前から『お話』に来てくれたのは、何か訳があってなのだろうか? 急いでいるその訳はなんだい?」

 葉月の胸がドキドキしてくる。
 やっぱりパパはこうなると怖い人だった。
 葉月がいつしか構えるようになった『将軍の顔』をしている……。パパがこういう顔をした時は、葉月はきっちりとした『軍人』としての心構えを整える緊張感を与えられてきた。それこそが、実は『最高の訓練』だったのではないかと今は思うのだ。彼に父親としての威厳を落とさせないため、娘として父の娘だという確かな証を皆に見せるため。それは本来の『父娘関係』にはなんら効果もない必要性もない、ある意味屈折した『父娘関係』ではあっただろうし、葉月もそういうことでしか亮介と関係が紡げなくなった自分を嫌に思っていた。だが、それしか出来なかったのだ。そして……それこそが唯一残された『父娘の関係』だった。それすらもなかったら、葉月と亮介の間にある細い糸はとっくに切れてしまっていただろう。
 嫌に思っていた関係も、実は唯一の救いだったのだと……。また最近、気がつくことが出来た。

 その父に存分に与えられてきた威圧を、今、静かに向けられている。
 葉月はその威圧には、決して勝つことが出来なかった服従感を感じるのだ。

 でも、だからとて『今回の話』は直ぐには切り出せないもの。
 しかし、先延ばしにも出来ないもの。

 葉月は意を決し、ここに訪ねてきた気持ちのまま……。
 ついに、膝掛けの下から『あの写真』を手にしていた。

 それを静かに亮介に差し出していた。

 亮介はその写真を目にして、首を傾げている。

「なんだろう? いつの写真だろうかな?」

 父はそれを手にすると、目の前に持っていって眺めていた。
 葉月は息を潜めるように、父の反応を窺う。
 ──その写真を見て、その写真に写っている人物を見て。
 父がなにを思うか。如何に──。

「ほう。皐月と純一が瀬川と一緒に写っているものか。懐かしいな」
「瀬川……」

 葉月は泣きたい気持ちになってきた。
 父は、葉月がつい最近知った男の名前を軽々と自然に口にしていたのだ。
 パパも知っていた! パパもその男を知っていた!
 葉月は崩れ落ちていきそうな思いで、力無く父に尋ねる。

「パ、パパは……その男の人を知っているの?」
「ああ。純一が所属していた本部にいた先輩だったからね。確か……皐月が入院している時にも、純一に良くしてくれていたようだね」
「パパはその人とお話ししたことがあるの?」

 葉月の様子に気がついたのか、亮介は直ぐには答えてくれず、ただ娘を不思議そうに見つめていた。
 思わず……葉月は顔を背けてしまったのだ。

「葉月。何かあったのか?」
「……答えて。パパ、その人を知っているの? 話したことがあるの?」
「知っている。そして、話したことはない」

 即答してくれた父の顔を、葉月はもう泣きそうな顔で見上げていた。
 知っている。けれど、話したことはない。少し安心した。父はただ子供達の間の知り合いぐらいにしか知っていなかったようだと……。
 だが、次に父が思わぬ事を言い始めた。

「だが、軍が何度か仕事に使っていた」
「……な、なんですって!?」
「お前はまだ中隊クラスの大佐だから知らぬだろうし、知っていても触れることもないだろうし、知っているなら『黙認が常識』だと認識しているだろうが……」

 葉月は父が話し始めていることを察し、震える唇で呟く……。

「知っている。聞いたこともある。フリーの傭兵……ってことでしょう?」
「いわゆる、『極秘の雇用』と言おうか。隊員以外に、そしてトップシークレットで動く隊員以外に。こういう『信用できる男』に依頼することもある。それが以前、正式に在籍していた『瀬川』という将来を有望されていた男。この男が軍に惜しまれて辞めた後、こういうフリーで使われることを知ったのは、五年ぐらい前だがね」
「どれぐらい使われていたの?」
「さあ。残念ながら、私の管轄外でだ。私がこの男について知っているのは、『噂のみ』だよ」
「パパは……この男の『評判』を聞いて、仕事で使おうと思ったことは?」
「大佐嬢は噂を信じるのかい? 私は鵜呑みにする前に、まずは調べようとは思うが、それ以前の話──私はフリーの契約で成果をあげようと思ったことはない。フリーの傭兵を使うというのは内部の情報が漏れる危険性が高い。つまりリスクがあるということだ。確かに功績を素早くあげるのに功を奏すひとつの手、しかし『賭』でもあるんだ。外部のプロを使うことを悪いとは思わない。ケースバイケース、時には軍に功績をもたらせてくれるだろう。だが私の方針は、それなら育てた隊員を信頼し彼等と作戦を駆使するほうに労力を使おうと思う」
「つまり、興味は無かったということ?」
「まあ、ここだけの話。私達の背後には、黒猫という切り札もあったのでね……」
「そう・・だったの」

 その話だけで、葉月は頭の中が真っ白となり気が遠くなってくる。
 なんて大胆な男なのだろう? 辞めた古巣を味方につけていた!?
 だが、葉月は自分のテリトリーと彼が繋がっていたことにショックを受けながらも、父が『少なくともその男の事は、信用出来なかった』ということに救いを感じた。
 そんな『パパ』に、葉月はすがるような思いで叫ぶ!

「パパ……! その男なの」
「その……男……とは?」

 父の表情が一瞬で固まった。
 葉月にオウム返しのように尋ね返しているが、父はもう葉月が何を言いだしたのか分かっている様だ。
 次第に、写真を持っている父の手が震えてきていた。
 葉月はもう一度、今度は静かにゆっくりと告げる。

「私を刺した男。左肩に傷をつけた……あの時の男」
「な、なんだって?」

 まだ信じられない様子だった。
 葉月はそれ以上は何も言えなくなり、ただ涙を浮かべた目で父を懸命に見つめる。
 すると父はその写真をベッドサイドの手帳の上に置き、すぐに葉月を両手一杯に抱きしめてくれた。

「葉月、大丈夫だ」
「パパ……!」

 怖くなんかない。
 あの男がもう一度来るかも知れないことなんて、もう、怖くなんかない。
 葉月が一番、恐れているのは……。

 葉月も父を頼るようにその背に抱きついた。
 そしてそれはやはり怖いからではなく、不安だから。葉月の腕の力は『父を捕まえる』という気持ちが強かった。
 やがて父は、葉月の栗毛と頬を両手で包み込みながら、あの頼りがいある将軍の顔を、久しぶりに『父の顔』として娘に見せてくれる。

「良く教えてくれた。あの時に知ったのか?」

 あの時──訓練生名簿を見た時に知ったのかという問いに、葉月はこっくりと頷く。
 父がやるせない溜息をこぼした。

「そうだったのか……。純一の知り合いで、なおかつ、昔の友人とは言え付き合いがあった者が『犯人』だと判って、純一の目の前で言えなかったのだね」
「パパ……。姉様は何故、判っていて言わなかったのかしら!? お兄ちゃまの為だったのかしら? 私はそうとしか思えない。この男と、姉様と兄様の間に何があったというの?」

 亮介が静かに首を振る。
 それは『パパにも判らない』と言うこと。
 そして、亮介はいったんは置いたあの写真をもう一度、手にとって眺めていた。

 パパの目が燃えた。
 葉月はそれを知って、ゾッと背筋を凍らせる。
 その眼差しは、その男へと真っ直ぐに向けられ……。紛れもない『憎しみの目』だった!

「フロリダのマイクに調べさせよう。まずはこの男の依頼履歴と職務の結果を。そして横須賀基地時代のことだな」
「パパ、私……不安で言えなくて」
「いいのだよ、葉月。お前はこれを知って誰もがショックを受けることでどうなるか恐れていたのだね。悪かったね、たった一人でまた……」

 怖い目をしていた父の顔が、葉月が安堵することが出来る優しい顔に戻った。
 そして『また、お前に孤独な思いをさせた』とうなだれる父。葉月はそんな父親に『そんなことはない』と首を振る。

「パパに任せなさい」

 その写真を片手に父が立ち上がった。
 再び写真の中の男と向き合った父の目が凍る。
 それを見た葉月の心には『最悪の事態』が頭に過ぎって、立ち上がった父の身体にすがるように飛びつき、抱きついた。

「パパ、行かないで──!」
「葉月……? なにを言っているのだ。パパはこの家にいる。調べるだけだ」
「嘘よ! 知ったらパパもお兄ちゃま達も必死になって『復讐』をするんだわ! そんな男と向き合って、また誰かが傷ついて、私の目の前から永遠に消えてしまうなんて、絶対に嫌っっ!!」

 葉月は必死になって、父に抱きつき……。それはパパに守って欲しいから側にいて欲しいという気持ちではなく、幽霊が実体となってしまったから、一斉に御園の男達が復讐の炎を燃やし、命も辞さない行動に出る──だから、誰かがまた、姉のようにいなくなるかもしれない! それを父にさせたくない為、ここにいて欲しいという気持ちで抱きついているのだ。
 そんな男に我ら一族の手で制裁したってきっと気持ちは晴れない。自分たちが手を汚したことだけが残るだなんて、そんな空しいことは絶対に嫌だ! だから、そんなパパにならないで欲しい……!!
 葉月は父・亮介に心のままにそう叫び、父親が気持ちの赴くままに何処にも行かないようにと必死に彼の身体にしがみつき、すがりつき、涙一杯の目を父に必死に向けていた。

「……放しなさい」
「い、嫌! パパの目、その男を憎んでいた目をしているもの!」
「葉月、私はそんなことはしない。本当だ、信じてくれ」

 『本当に?』──葉月が、腕の力を弱めた時、気がつくとそんな父は優しい手つきで葉月の背を撫でてくれていた。
 それこそ今まで以上に父の目の前で感情的になったのをなだめるかのように……。逆に葉月が落ち着くようにと諭され、父はとても落ち着いていた。
 父の身体から離れると、立ち上がった亮介はもう一度、ベッドの縁に座り直す。そうして、葉月の小さな手をパパの大きな手で包み込んでくれていた。

「葉月。安心したよ。私の方こそ、お前にそれを願っていたのだから」
「パ、パパ?」
「お前が空と戦っていたのは、憎む気持ちを空に持っていくことも、ひとつの理由だったのだろう? 空に消すことの出来ない気持ちを、もてあます気持ちをぶつけていたのだろう? それを見守っていた私の気持ちも、まさにその気持ちだったのだよ。もし、犯人が判ったら、お前がそんなふうに走らないか心配だった。だが、お前自身がそう思えるようになっているなら良かった。お前がそれが嫌なように、パパも嫌だ。勿論、ママもだ。そんな愚かなことをしたら『アイツ』に負けたことになると思わないか?」

 葉月はそう思うと、こっくりと頷いた。

「だが、まだ純一や右京は分からない。だからパパは彼等のことも見守っているつもりだよ」
「パパ、純兄様はこのことを知ったら……」
「哀しむだろう。残酷な現実をみることになるだろう。まさか、こんな近くの人間で、しかも軍と関わっていたのなら……純一が闇世界を探し回っても見つからなかったはずだ」

 そこで葉月はふと思った。
 これも幽霊の作戦?
 義兄達は『幽霊は闇にいる』と無法の世界を探し回っていたのに、幽霊はきっちりと『軍』という法の中に属していたのだ。軍という公務的な場所から仕事をもらっていることがあったなら、そこは闇ではなく光の中だ。探している方向がまったく逆で、幽霊は大胆にも日の光の中でその姿を隠すこともなくこちらを見ていたのだ。これは彼の大胆な作戦?
 すると父も同じ事に考えついていたようだ。亮介は再び立ち上がり、今度は落ち着いた冷徹な目で写真を見ている。

「まったく、やられたな」

 溜息をこぼすと、動き出す。

「安心しなさい。ちゃんと調べてから考えよう」
「パパ、私にもちゃんと教えてくれる?」

 お前は知らなくて良いこと。
 記憶がない分、きっと今まで誰もが葉月をその囲いの外に出したり、触れないように守ってきてくれたのだろう。そして触れて二度と嫌な思いをしないように。
 ここで父が調べると言い出したのは当然なのだが、その写真が葉月の手元から離れたように、一人歩きをしはじめて、いつの間にか父と兄達が思わぬ行動をして取り返しのつかないことになる──。そんなのは絶対に嫌だった。だから、葉月は父にはっきりと告げる。

「狙われている私が、二度も殺されそうになった私が一番、彼を知る権利があると思う。私が一番戦うべき相手だと思うわ」
「……それでいいのか?」

 不安そうな父に葉月は、強く頷く。
 父の目が、大佐嬢を育てる時と同じ目になる。
 父であり、そして社会での大先輩の目。上司の目。
 その父に葉月はもうひとつお願いをする。

「それから、『瀬川』のことは、私から兄様に告げたいの。私も兄様達の当時の話を知りたいから。お願い、パパ」

 父は暫く、思い悩むように返事を躊躇っていたが……。

「葉月がそういうなら、そうしなさい。では、葉月も私に約束してくれ。決して、危ないことをしない。自分の判断だけで一人で走らない。パパに言えなくても、誰かにちゃんと相談すること。いいな?」
「はい。父様」

 お父様と久しぶりに言った。
 しかしそこには、自分が大人になった事を告げたい気持ちで呟いたのだ。
 亮介がにこりと笑って出ていこうとする。

「忘れないように。葉月にはパパという味方がいるのだとね。なんでも相談してくれて良いのだよ」
「有難う、パパ」

 亮介は葉月がずっと欲していたパパの笑顔を見せてくれたが、ドアを出ていく時には彼はもう父の顔ではなく『将軍』の……いや『御園家の当主』の顔で出ていった。
 その顔は厳しく、怖い顔。葉月はそれを見送った。

 動き出した。
 葉月はそう思い、車椅子を一人で動かし始める。
 まだやらねばならぬことがある。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 車椅子を動かしながら廊下を行くと、丁度、リビングで父がジャケットを羽織って出かけようとしているところだった。

「ジュール、でかけたいのだがエドを貸してくれないか」
「構いませんよ。エド、旦那様のお供を」
「イエッサー」

 父は彼等には笑顔を見せていたのだが……。

「ジュールも少しいいかな?」

 父のお供で身なりを整えながら参じてきたエドと一緒に、ジュールにも側に来るようにと言う父。
 お決まりの黒いジャケットに身を包んだエドと、シャツの袖をまくり上げ黒いエプロンをしているジュールも訝しそうに父の目の前にやってきた。
 そして父は、目の前に並んだ二人に無言で葉月が渡した写真を見せたのだ。
 エドは首を傾げていたが、ジュールは驚いた顔に……。そしてジュールがふっとリビングの外にいる葉月に気がつき、その驚いている彼と目が合ってしまった。
 ──『お嬢様、ついに話したのですか?』 彼のそんな顔。葉月は無言で彼に向かって静かに頷く。

 父はジュールの表情から彼が既に知っていること、そしてそこにいる娘がいることも気がついているらしく、娘が打ち明ける前にジュールを使って調べたことを即座に察したようだ。
 そんな父の察し方は流石で、葉月は敵わないと唸る。

「この男について、暫し、調べてくる。エドには私から事情を説明するが構わないね、ジュール」
「勿論です。私は、お嬢様のお手伝いをしたまで……」
「娘に渡しただろう調査書、私にもくれないか」

 ジュールは頷くとキッチンへと戻り、自分の荷物からそのスペアを取り出し、直ぐに父に差し出していた。

「お嬢様とある程度の予測をつけましたが……。瀬川には家族があります」
「そうか。移動中に見ておこう。では、エド──お前も協力してくれるね」
「は、はい……」

 エドは戸惑っていた。
 まだ状況が見えないのだろう。
 そんなエドに、父ははっきりと言った。

「この男だそうだ。娘が思いだした幽霊の正体だ。……純一の昔の同僚だったようだな」

 エドはとても驚き、そのままの表情で止まってしまっている。
 彼はボスの純一をとても尊敬している忠実で従順な部下だ。今まで一緒に追ってきた『御園の敵』がボスと縁ある者だったことを知ってショックなのだろう──。

「そういうことだ。純一には娘が話すと言っている。私はこの男が軍と関わっていたことは知っているので、それを調べに行く」
「か、かしこまりました。では車を出してきます」
「うむ。頼んだよ、エド」

 急にエドの顔も引き締まり、彼はさっと玄関を出ていった。

「旦那様、軍と関わっていたとは本当ですか」
「ああ。ただ私とは遠い場所にいた。他の管轄で使ったという『噂』は耳にしていた程度で……」
「どうりで……! それなら今まで私達の行動が先読みされていて当然ではないですか!?」
「懐にいたとはね。私もショックだよ……」
「旦那様──」

 父のやるせない顔に、ジュールは同じように哀しい顔を見せる。
 そんな彼に、父は元の穏やかな笑顔に戻り微笑みかけていた。

「ジュール。旦那様はやめておくれと言っているではないか。昔は『おじ様』とロザンナと呼んでくれていたのに」

 父のその話しに、葉月はふと首を傾げる。
 父は葉月に聞かれても構わないという顔をしているが、ジュールはいつになく慌てるように葉月を見たのだ。

「おやめください。私は今は一組織に準じている一人に過ぎないと思っています。貴方のことをそう呼ばねば、部下に示しがつきません」
「だったら、プライベートでは昔のように呼んでくれても良いではないか」
「とんでもない!」

 葉月は彼が『祖母』と縁があることは分かっていたが、父とも若き頃から親しんでいたことを耳にして、彼が如何に自分の家族と寄り添ってきた人であったかを初めて知った気がした。そしてそこには、驚きと共に、妙な喜びがあった。
 そして父はそんな葉月の気持ちを知ってくれたかのように、それでも思わぬ事を言いだし、聞かせたのだ。

「とんでもないはこちらだよ。お前は本当なら『高貴な者』なのだよ。その高貴な生まれであるお前に、旦那様と呼ばせているのが忍びない。お前を助けたのは母で私ではないのだから。だけれど私はお前のことも、母がそうしていたように『家族』だと思っているのだから。もちろん、姉のロザンナもだ」
「だ、旦那様……!」

 『高貴な生まれ』。
 家族だと思っている。
 そして──ジュールに『姉』がいる。

 それを知って、葉月はただ驚くだけだった。
 それが彼の『正体』!?
 まだはっきりはしないけれど、それでもやはり彼は遠い昔から私達家族と共にあってくれたのだと……。純一だけでなく、この葉月を慈しんでくれ、一線を引いているけれど直ぐ隣にいてくれた彼の愛はそこから来てくれていたのかと、知ることが出来た気持ちだった。

「ジュール、葉月のことを妹のように大切にしてくれたことを礼を言うよ」
「い、いえ……私は……ただ」
「これからも、頼む」
「だ、だんな……お、おじ様、やめてください」

 父が彼に深々と頭を下げていた。
 あのジュールが珍しく頬を染めて戸惑っている。
 だが、父はそれに構わずに頭をあげるとエドを追って動き始める。

「パパ……」
「大丈夫だ。エドも一緒だから、夕飯までには帰ってくるから。ジュールと待っていなさい」

 いつものパパの笑顔に、葉月はとりあえずこっくりと頷き、父を送り出した。

 そしてそこには、リビングでたたずむ金髪の青年が一人。
 少しばかり気恥ずかしそうにしているジュールがいる。

「気にしないでください。昔の話で私は忘れたのです」
「私が知りたいと言っても……駄目なの?」

 彼は力無く微笑みながら、首を振る。
 彼の顔が急に歳を取ったようにやつれた顔になった気がして葉月はドキリとした。

「……いつかお話ししましたね。私は、こちらのお家と同じような傷を持っています」
「ご、ごめんなさい……。もう、いいわ」

 『同じような傷』と聞いて、葉月はそれだけでもう泣きたくなった。
 我が家だけでなく、ジュールの家族も……。思い出したくないような凄惨な目に遭い、苦しんできたのだと分かったから。
 だったら『教えて欲しい』だなんて言ってはいけない。だって、葉月だって『聞かれたくなかった』のだから。

「あの、お散歩に連れて行ってくれる? パパに話したから……心配で。気分転換」
「……お兄様はどうされたのですか?」
「パパに話したいから、お買い物をねだって外に出したの」
「なるほど。わたくしで宜しいなら、喜んでお供致しますよ」
「もうこの話はやめましょうね。楽しいお散歩にしたいから」

 そうですねと、ジュールは笑ってくれた。
 葉月はやっと車椅子を動かして、ジュールの側まで行く。
 なんだか近寄れなかったけれど、いつものジュールだと思うことにするという意志を見せたら、彼も妙に固いバリアのようなオーラは除けてくれる。

「お天気もいいから、正面玄関の芝庭まで行きたいわ」
「それでしたら、少しお菓子と飲み物を持っていきましょう」
「いいわね。ほら、パパにもチョコレートもらったのよ」

 彼はやっぱり変わらぬ笑顔で優しく微笑みかけてくれる。
 キッチンで綺麗な花柄のペーパーナプキンにマドレーヌにオレンジのタルトを包むジュールの横で、葉月は楽しそうに笑っていた。

 そんなジュールを葉月はそっと見つめてみた。
 綺麗な金髪の髪はいつだって艶々と煌めいているし、茶色の瞳は黒猫という顔の時は冷たいけれどジュールというお兄さんの顔の時はとても暖かい色合いを見せてくれる。そして肌は男性の割にはつるつると卵のように綺麗だし、そういえば品があるといつも思っていたのだが、『そういうこと』だったようだ。
 どこの高貴な男性だったかは分からないけれど、そんなジュールの側に来るといつも柔らかいムスクの香りとちょっと甘酸っぱいグレープフルーツのような香りがする……。そんなお兄さん。葉月が知らない頃から、彼はずうっと葉月を見てくれていたお兄さんだったのだと。

「ジュール。私もジュールが家族だったら嬉しい」
「お嬢様……」
「いつか貴方のお姉様にも会いたいわ」

 素直に言ってみたけれど、ちょっと心はドキドキしていた。
 彼にとっては触れられたくない事なのかも知れない。だけれど、父がそう言っていたことは葉月も同じように思うからその気持ちを素直に伝えたかったのだ。

 だがジュールは、いつものように優美に微笑んでくれた。

「姉もきっとお嬢様に会いたいと言いますよ。そうなると良いですね」

 その言葉に、葉月は心から喜び、嬉しさを隠せない笑みを浮かべていた。
 だが、そう言って、二人はすぐに笑顔を互いに消し去ってしまう。

 その前に、私達には戦わねばならぬことが目の前にある……。

「よくお父様にお話ししましたね。皆様がどのような行動に出るか私も心配でしたが、『おじ様』が落ち着いていらっしゃるので少しは安心しました」
「……行かないでと、言ったの」
「そうでしたか。やはりお嬢様がお話しするのが一番だったようですね。少なからずお父様の心の中には大事な娘二人を傷つけられた計り知れない怒りが込み上げたことでしょうから。お嬢様のその言葉がきっとお父様をお父様でいさせたと思いますよ。だから、お兄様が知ってもきっと、大丈夫」

 ジュールは小さな水筒に紅茶を注いでいた。
 葉月も小さく頷く。
 また重い気持ちがもたげたけれど、それを汲んでくれるように、ジュールが『小さなピクニック』と称した散歩に連れ出してくれる。

 外はもう、春の陽気に満ちていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 いつもは庭で散歩するのだが、気候が良くなったので病棟の庭まで初めて出てみることに。
 ジュールが後ろで車椅子を押してくれる。彼の運転で車椅子はゆっくりと、でも傷に響かないようにという気遣いを感じる優しい操作で進んでいく。

「もう、セーターは暑いわね」
「そうですね。そろそろエドに春物を揃えさせましょう」
「私の趣味を知ってのエドのセンスも信頼しているけれど、やっぱり自分で選んでみたいわあ」
「それならエドと選んでみては如何でしょうか? 今年の流行などもちゃんと教えてくれるはずですよ」
「それがいいわね。アドバイザー付でお洋服が選べるなんて楽しそう!」

 その春の陽気のように、二人も軽やかに笑い合った。
 約束通り、先ほどまでお互いを取り巻いていた空気を拭い去るための散歩。
 葉月は家族がどこかへ転がっていってしまいそうな不安を。ジュールはその知られたくない過去を、葉月に知られたことを……。互いに忘れようとするために。

 もう芝庭が目の前に見えてきていた。

 ……そう言えば、この芝庭は葉月が無になろうとしていた天使を見送ろうと『シャボン玉』を吹いた場所。
 今、夫となった彼と一度は離別という道を選び、二人で背を向けあった場所だった。
 なのに、何故、来てしまったのだろう……。

 葉月はそっと……。膝掛けで隠れている腹部に触れる。
 あの時、私のここにはまだ、私達の天使がいた。息をしていない天使が。
 それを見送った場所でもあった。

 なのにどうしてか、その庭が今日は輝いている気がした。
 なのにどうしてか、自然と『行きたい』と思ってしまっていたのだ。

 今日はその緑の芝が、春の日射しに艶々と輝いている。
 そしてまだ僅かにしか暖かみのないそよ風には瑞々しい緑の匂いが混じっていた。

 清々しい姿を葉月に見せてくれている。

 そんな庭を感慨深く眺めていると、何故か庭の手前、道の途中で車椅子が止まったのだ。
 葉月は肩越しに振り返り、ハンドルを手にしているジュールを見上げた。

 ……彼が、何が起きたのか分からない程の哀しい顔をしていたのだ。

「どうしたの? ジュール」

 彼は一度は『なんでもありません』と笑顔を見せ、車椅子を動かし始めた。
 葉月は……やはり、先ほどのことを彼は一人で思い返してしまったのかと思い、そっとしておこうと決めた。
 だが、また車椅子が止まった。

「お嬢様──」
「いったい、どうしたというの?」

 春の日射しが降りかかる逆光の中、ジュールが何か覚悟を決めた顔をしていて、葉月は固まった。
 その彼が、言う。

「──口止めをされていたのですが」
「口止め? 誰の話?」
「お父様です」
「父が何か!?」

 今、安心をして見送ったばかりの父に何があったのか!?
 葉月の心は穏やかでなくなってくる。葉月はまだ躊躇っているジュールに言葉で詰め寄る。

「言って! ジュール、教えて!!」

 彼はまだ躊躇っていたが、やがて小さく呟いた。

「実は、お父様。日本に駆けつけ貴女の意識が戻ってすぐに、フロリダ本部に『退官願い』を出されたんです」
「な、なんですって……!?」

 それは父が自ら『軍人を辞める』という申し出を軍に出したと言うこと。
 そんなことをしなくても、父はもうじき定年がやってきて退官する。その時には華々しく部下に見送ってもらえる退官式もあるはず……! 軍人の誰もが『職務を全うした証』としてその日を思い描き、やり遂げようと精進をしているのだ。それを……しかも『中将』という地位にまで登りつめた父が『途中退官』を願い出たというのだ!

 そしてその驚きだけでは済まされなかった。ジュールはまだ重たそうな口で、もうひとつ報せてくれる。

「それだけではありません。お母様も軍の科学班を辞してきたようです」
「……!」

 両親が揃って、フロリダ本部を退職──!?

 二人の思いが直ぐには分からない葉月は、春のそよ風の中、ただ愕然とするだけだった。

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