37.黒い男

 

 日曜日の夜。

 葉月は一人ホテルの部屋でひっそりとヴァイオリンを弾いてみる。

 

 夕方……ひとときを楽しく過ごしたダンヒル夫妻が

隼人の自転車を四駆の大きな車に乗せて

この基地がある街まで二人一緒に送ってくれた。

隼人はあれからも何ら変わることなく葉月に接してくれた。

ダンヒル夫妻に送ってもらい

その後はいつものように『また。明日』と笑って別れた。

隼人が妙に『気を遣う』様になるのを恐れていた。

でも、そうでなくて葉月はホッとしたのだ。

あんな過去を話して、急に腫れ物に触るように接するようになられると

『惨め』になることがある。

すると、その男性は葉月にとってそれまでなのだ。

それでも、『そんなことあったのか!これからは俺が側でしっかり守ってやる!』と

強気で押し切ってきた男性とは付き合ってこられたが

いままで続いた試しがなかった。

隼人はつい最近別れた彼とどことなく『タイプ』が似ていた。

『そんなこと。嫌なら言わなくてもいいよ』と言う感じであった。

それだけで、葉月は『告白』してしまった重みから救われる。

葉月はそっと『G線上のアリア』を引き続けた。

隣部屋は今は空き部屋になっていると聞いて

親父さんにママンが『弾いてもイイよ』と許可してくれたのだ。

葉月が今回フランスに来るに当たって『ヴァイオリン』を持ってきたのには訳がある。

隼人には『自分のためにしかもう弾けない』と、いったが

本当のところは『姉』と、『ある男』の為に今は弾いている。

『G線上のアリア』は姉のお気に入り。

葉月を暴漢から守り通してくれた『姉』の声が蘇る。

『葉月ちゃん。あれ弾いて』

姉の甘い声がこの曲を弾くと鮮やかに蘇る。

ソファーの上でゆったりとして目をつむっていた姉が優しく葉月の中で生き返る。

そして…。

『ある男』がいなかったら葉月は二度とヴァイオリンには触れなかっただろう。

葉月が今もヴァイオリンをこうして弾いているのは

『彼』が今は姉の代わりに聞いてくれるからだった。

葉月は一通り『アリア』を弾いてそっと窓辺に立ってみた。

『彼』に最後のあったのは一年前。遠野が亡くなってスグのことだった。

泣いてばかりいる葉月のところにいつも通りに『アリアを聴かせろ』とやってきたのだ。

どうして、フランスに来るからと持ってきたかと言えば

彼が何処に住んでいるかは判らないが『ヨーロッパ』に住んでいることは大方予想がついていたからだ。

そんな宛もない彼の為に『何処かで聴いているかも知れない』と

ヴァイオリンを今弾いたが

窓辺に立っても気配すらないので葉月はため息をついてそこを離れた。

窓辺に背を向けて、ドレッサーにしている小さな丸テーブルにある

ジュラルミンのケースにヴァイオリンを置いた。

すると…。

葉月が羽織っているシルクのガウンが急にはためいた。

窓が開いたと判って葉月はビックリして振り返った。

「ボンソワール」

小さな持ち上げ式の窓に細長い身体を二つにおるように『男』が現れた。

「!!」

葉月は思わず息を飲んでしまった。

一番聴いて欲しい相手がキチンと現れてくれたからだ。

彼はいつもの通り。

黒くて長いコートに戦闘パンツ。黒いキャップを目深にかぶってヒョイッと窓辺から入ってきた。

立つと葉月よりずっと背が高い。

180pはある男だ。顔はいつも無精ひげ。髪は黒髪で短くスポーツ刈り。

スッと前にたたずまれると異様な雰囲気が漂うそんな男だ。

その上。葉月でも緊張する『気迫』がみなぎっている。

「ほう?こんなところに泊まっているのか」

彼は何処をうろついていたのか泥が付いた長くて黒いコートの裾を翻しながら

葉月の泊まる部屋を歩き始めた。

「いつから?フランスに?」

葉月は丸テーブルに手をついてそっと尋ねてみた。

「さぁな。いろいろと忙しいついでだ」

彼はウロウロとベッドルームを歩き回るとカーテンをめくってリビングの方へと行ってしまった。

「聴いていたの?私のヴァイオリン…」

「夕べな」

その短い返事に葉月はビックリした。

「おじ様の家の側にまで来ていたの??」

「まぁな。」

「……。私のことはいつもお見通しなのね」

「まぁな。」

彼はあまり喋らない男で、返事もいつもこうして短い。

彼は、リビングも一通り眺めると、薄汚れたコートのままどっかりソファーに腰を掛けた。

「何処か。いつもの任務で?」

葉月はいつもと変わらぬ彼のいかつさと堂々とした態度にため息をついて

カーテンをめくって同じ空間に入る。

「お前には関係ないことだ。軍人とはまるで違うことをしているからな」

そう。彼は軍の人間ではなかった。

だが、彼は戦う男なのだ。葉月以上に。

葉月も本当のところ彼が何処で何をしているのかは判らない。

だけれども彼程の男を軍内で見たこともない。

そんな戦う男なのだ。

「日本茶いかが?久しぶりでしょう?」

「うむ」

葉月はカウンターに立って彼に背を向けて隼人にも入れたように

お茶を作り始める。

背を向けていたが、ソファーの方から彼が無精ひげをなでるゾリゾリとした音が響いた。

チラリと肩越しに眺めると変わらずにどっかりと座って

テーブルの上に足を投げ出して組んでいる。

(相変わらずね)

彼のそんな堂々としたふてぶてしさに葉月は再びため息をついて

お茶を入れる手元に視線を戻した。

「あの男が気に入ったのか?」

葉月の背中にゾクリと寒気が走った。

いつの間にか彼が葉月のスグ後ろに来ていたからだ。

葉月はどちらかというと『勘』が良い方なのに

彼はそんな葉月に気配すら感じ取られないよう、そっと近づいて耳元でそう囁く。

カウンターに黒い革手袋をしている彼の手がついて

葉月はいつの間にか彼の胸の中に囲われていた。

黒い革手袋の手がそっと後ろから葉月の栗毛をなでて

片手は腕をなでられていた。

葉月はこうして彼が側に来るととても緊張するし抵抗が出来ないのだ。

「ちょっとインテリで控えめ。自分の心にあるモノは曲げない。

本が好きで、理論派。お前の好みだな。“真”に似ている。そうだろ?」

彼がニヤリと口元をあげてそっと耳元でささやく。

「関係ないでしょ。本当に良く知っているわね。なんでもお見通し。

だから、説明する必要もないわね!」

なんとか気強く切り返してそっぽを向く。

「よく解っているな。軍人よりも俺はプロだって事を忘れるな

それで?あの男を側近にする気か?」

「なぁに?反対?」

葉月がムッスリして答えると。彼はクスリと意地悪く笑った。

「反対なんてするもんか。お前の勝手だ。それに俺は軍とは関係ない。」

「そ。だったらそんなこと聞かないでよ」

再びそっぽを向けて口元をとがらせる。

しかし今度は彼は笑って聞き流してくれなかった。

急に抱きすくめられて強引に腕を掴まれて向かい合わせにさせられた。

葉月は『敵わない男』と判ってカウンターに後ろ腕をつく。

額から汗が滲みそうな程彼の鋭い視線に緊張した。

「忘れるな。男達がお前に何をしてきたか。いいな!」

黒手袋が葉月の顎をきつく上に向かせる。

ギリッとした音が葉月には耳障り悪く響く。

「離してよ!」

葉月は力一杯、首を振って冷たい感触の革手袋から逃れようとする。

「どうしていつも手袋をしているの!?それ。嫌いよ!!」

本当にそう思っている。彼の体温とか暖かみがより一層感じにくい。

冷たくて、耳障りな音がして。

その手で彼に触れられるのが嫌いだった。

『仕方ない』と判っている。彼は『闇の男』

『指紋』などを残すことを嫌うから手袋をしているのだ。

でも、葉月を慈しんでくれるときは必ず外してくれる。

なのに今日は外してくれない。だからよけいに苛立っているのだ。

すると、そんな葉月のかんしゃくをなだめるかのように、

彼がギリッ…と音を立てながらその手袋をやっと外してくれた。が、片手だけ。

それでやっと葉月の頬を包んでくれる。

「“義兄様”」

葉月はやっとホッとして彼の胸に飛び込むことが出来た。

「きっと。逢えると思ってヴァイオリンを持ってきたの」

「………。良い心がけだ。そうして続けることだ」

「姉様と義兄様のために弾いてるの」

「………」

葉月が彼の胸に甘えようとすると今度は彼の方がそっぽを向く。

だが、だからといって葉月から離れようとはしなかった。

むしろ。葉月の栗毛を素手の方でなでて、葉月の言葉にそっと耳を傾けるだけ。

「葉月。あの男を本当に側近にするんだな」

「義兄様は反対?」

そう言って彼を見上げると…

彼はため息をついて葉月から離れ、背を向けた。

「お前が決めることだ。勝手にしろ」

背を向けた彼が、また手袋をはめながら冷たく言い放った。

(なによ!)

葉月は冷たい彼にムッとする。

それも、『本当に側近にするのか?』とか『あの男を気に入ったのか?』など

聞いておいて『勝手にしろ』など、いつも通りの『意地悪』なひねくれモノだからだ。

「解ったわ。私の勝手にする」

口元をとがらせながら、彼の様子を窺う。

彼が背を向けたまま。また一つ大きなため息をついたのが解った。

「だが。忘れるな。お前の側に来ると言うことは、いずれまた“離れていく”と言うことだ。

本気になるのは構わない。相手を本気にさせるのも構わない。

別れるときに辛さがますだけだ。それがいやならいつも通り“冷たくして”

『仕事』だけの関係にとどめて置くんだな」

「別に…。大尉とはそんな関係じゃ…」

「嘘をつくな。お前。自分から告げただろ。それは“海野”とか言う小僧の時と一緒だな。

これで“二人目”だ。お前から“過去”を話したのは」

(そこまで知っているの!?)

葉月は彼の情報通にいつも唸るが、昨日。白いカフェで隼人と話していた内容まで

彼が突き止めていてビックリを通り越して空恐ろしくなってきた。

「オマケに。手まで繋いでいたな。ま。俺の知ったこっちゃ無いが?」

『仕事の関係だけにしろ』と言っておいて『関係ない』とまたきた。

葉月はさらにムッとした。

それに…。隼人に好意以上の感情を持っていることまで見抜かれて

葉月は言い返せなくて黙り込んだ。

「そうやって。私の生活をのぞき込んで楽しんでいるわけ?悪趣味ね!」

腹立たしさが拍車を掛けて、口悪く言い放ってみる。

すると、彼がフッとコートを翻して振り返った。 葉月はドキリと硬直する。

彼が大股で素早く葉月の方に向かってくる。

あまりの素早さに葉月は、身動きがとれなくなった。

「俺が悪趣味だと?“オチビ”!」

再びカウンターの上に組み伏せられて、ギリッと革手袋が葉月の顎を掴みあげる。

「いつ、俺がお前の男との間を邪魔したか?」

「それは……」

葉月の額に汗がどっと滲んだ。

彼が、葉月に何をしようと葉月は本当に抵抗が出来ないのだ。

「ご、ごめんなさい。」

葉月が素直に謝ると、スッと革手袋が顎から遠のいた。

だが、彼はそのまま葉月のガウンのひもを解いてゆく。

葉月は益々緊張した。彼が葉月を裸にしようとそれは許されることで

葉月は抵抗する気もなければ、逆に受け入れることにためらいを感じる。

いつも彼にそうやって求められると、『複雑』な気持ちが胸の中を駆けめぐる。

だが、彼は一度として葉月をガッカリさせることはしない。

むしろ、いつも葉月をいたわって、そして慈しんでくれる。

だから、よけいに抵抗は出来ない。

だったら、何故『恋人』ではないのかと言われると、

一言で言えば『住む世界が違う』から。

そして、『恋』とか『愛』とか『異性』とか。そんな絆で結ばれている関係ではないから

彼に求められると、『ためらい』を感じるのだ。

どちらかというと、葉月が『義兄様』と呼ぶように

二人は『義兄妹』の間柄に過ぎない。

ただ、血のつながりがないから『肉体関係』が生じるだけ。

『肉体関係』がなくても、彼と葉月には切っても切れない『関係』があるのだ。

葉月がいつものように彼の行く手のまま任せていると…。

手荒くスリップドレスの肩紐を、片手でちぎられた。

葉月にとって、男のこんな手荒い行為は『姉の悲劇』を思い起こすはずなのに

義理兄がすることにはどうしても、『許せる自分』がいたりする。

それでも、何処かで『怖い!』と未だに目をつぶって顔を背けてしまう。

だが、

「そんなに怯えるな。」

義理兄は葉月の左肩の傷に『挨拶』の様に口づける。

「おにいちゃま」

葉月が昔通りに彼を呼んだのを耳にして、強面だった彼がやっとそれらしく微笑んだ。

それで葉月もやっと肩の力が抜ける。

「いいか?葉月。男を易々信じるな。いいな…」

葉月は義理兄の無精ひげが白い肩先を這ってゆくのを眺めながら

“コクン”と頷く。

すると、彼はそれを確認して葉月の肩から唇を離す。

そして。今度は両手で葉月の栗毛を包み込むようになでてくれる。

葉月がうっとり…目をつむって警戒心を解き掛けたとき

彼はスッとまたコートを翻して背を向けてしまった。

「帰るの?」

彼は、葉月の側に『男の匂い』がするときは決して近づかない男だった。

そうでなければ、思うままに葉月を『支配』出来る唯一の男なのだ。

彼がいたから、葉月は『男と付き合える』までに、心が開けるようになったのだ。

何も求めないで帰ろうとしているところを見ると

『隼人』との事は、『取り敢えず、勝手に付き合って見ろ』という

お許しのようにも取れる。だが、『易々、気を許すな』と言いたかったらしい。

葉月はそう思うことにした。

彼は、葉月の尋ねに答えずにそっと、カーテンの向こう。

ベッドルームへと入っていった。

そして、丸テーブルの上にある“ヴァイオリン”を革手袋の手で取って眺めている。

「調律は怠っていないようだな。」

それだけ言うと、そっとヴァイオリンを元に戻して

いきなり入ってきた窓辺へと足を向け始めた。

葉月は、慌ててガウンを羽織り直して彼を引き留めようとカーテンをくぐった。

「待って!兄様!」

窓枠に足をかけた彼が振り返る。

「なんだ。これでも忙しいんだ」

「解ってるわ!でも!…その…“真一”が、この頃…」

葉月が歯切れ悪く、言葉にしようとしていると…

「俺には関係ない」

冷たい一言にムッとして葉月は丸テーブルに手をついてくってかかろうとした。

「関係ないって!あの子は兄様にとって!!」

「お前は“ボウズ”の為に“若叔母”らしくしていればいい」

「でも!あの子だってもう16歳になるのよ!いつまでも誤魔化しきれないわよ!

ここ数年だって、あの子の口から“それらしい質問”をされて…」

「知ったこっちゃ無い。それとも?真の父親としての努力を無にしろとでも?」

葉月はそう言われてグッと引き下がる。

健気に育っている甥っ子に“真実”を知られることは一番避けたいこと。

そうしてうつむいて、ジッと考え込んでいると。

「!?兄様??」

フッと顔を上げた途端に目の前にいたはずの彼がいなくなっていた。

開け放した窓から風だけが入ってくる。

(もう!!)

葉月は息巻いて窓辺に駆け寄った。

音もなく。気配もなく。こんな4階の窓辺にスッと現れて、消えてゆく。

葉月が下を見下ろしてももう。彼の影も形も窺えなかった。

(相変わらず。“黒猫”の如しね)

葉月はここでムキになっても無駄と解っているので、大きくため息をついて

窓をそっと、締めて離れた。

そして、ヴァイオリンをジュラルミンのケースにしまう。

彼のコードネームは『黒猫』

もう、表の世界には『名』の無い男なのだ。

そんな、宛もない彼に久しぶりに逢えたものの、なんだか置き去りにされた気に葉月はなった。