38.黒猫

 

 黒塗りのベンツがサッと石畳みの夜の街を走る。

夜の街角。

建物と建物の隙間に身を潜めていた黒い男が、ベンツを見つけてサッと手を挙げた。

ベンツも彼の前でサッと綺麗に停車する。

彼が長い身体を折って後部座席に乗り込むと…

「お帰りなさいませ。ボス」

「いかがでしたか?」

運転席には彼と同じ黒い格好をした『栗毛の男』

“いかがでしたか?”と声を掛けたのは助手席に座る、これまた同じ格好の『金髪の男』

二人は、彼より若い男だ。

彼は、年下の二人の声には反応せずに悠々と後部座席に身を沈めて

取り敢えず一服。胸ポケットからくしゃくしゃになった紙袋の煙草をくわえる。

すると、すかさず金髪の彼がライターの火を点けて

助手席から手を伸ばしてきた。

それに遠慮することなく『ボス』は煙草を近づける。

火が点くまでジッとしていると…

「宜しかったのですか?“早かったようですが”」

金髪の彼が、なにやら意味ありげにそっと微笑んだ。

ボスは、それにも反応しようとせずに煙草の煙をフッと一息はいた。

「いつも通りかと…」

黙って運転をしている栗毛の彼とは違い、金髪の彼はボスの反応をとにかく求めたがった。

“いつも通り”とは、妙な関係の義理兄妹が一晩一緒に過ごすことを意味する。

しかし、ボスはあっけなく戻ってきた。

「ジュール。」

『ボス』は、金髪の彼をそう呼んだ

「はっ」

「明日。いつものランジェリーメーカーからフランスレエスをあしらった

極上シルクのスリップドレスを一枚。手に入れて届けろ」

「………。お色は?」

「判っているんだろ。お前に任せる」

「ベージュブラウン。葉月様の好みで?」

「そうだ。お前なら一晩で手配できるだろ。それにここは“フランス”だ。」

「かしこまりました。それで…“側近のことは?”」

「しらん。アイツの勝手だ」

そう答えると、金髪の彼がため息をついた。

「止めなかったのですか?これ以上、葉月様には…」

金髪の彼。『ジュール』が何か力説を始めようとしているところを

ボスが煙草を吹かしながら遮った。

「アイツのことに“干渉”するつもりはない。それとも何か?

お前は、俺が葉月を今抱いていたら満足なのか?

それとも。葉月にあの小若い工学小僧が近寄っているのが気に入らないのか?」

ジュールは、どっちも嫌だが『ボス』は絶対。それは組織の決まりである。

だから、ボスのすることには口は出せない。

ましてや。遠い存在の『お嬢様』に干渉する権利もない。

「……。明日。キチンとお届けします。」

「葉月に遭うのは久しぶりだろう。しっかり洒落込んでいけばいい。」

『黒猫のボス』がニヤリと指に煙草を挟んで微笑んだ。

「別に私は…」

「一日で戻ってこい。俺は先に帰る。次の仕事が待っているからな」

「解っております。いつも通り…。お言葉だって必要以上は掛けるつもりはありません」

金髪の彼は、ボスの見透かした様なからかいにも、ムキになることなく

スッと静かに答えて助手席に姿勢を直して前を向く。

「イイ心がけだ?どうせなら“しっかり”葉月にイイ男ぶりを売り込んでもいいぞ?

お前はそこら辺の男なんかよりずっと“品格”は上だ?」

ボスのニヤリニヤリとした、黒い瞳をフロントミラーで確かめて

ジュールはため息をつく。

「お戯れを…」

呆れたように答えると。ジュールより少し若い後輩の栗毛の彼が

“クスリ”とこぼした。

「エド。」

「はっ」

ボスにいきなり声を掛けられて、栗毛のエドは

先輩を笑っていた姿勢から急に背筋を伸ばしてハンドルを握り直す。

「明日。日本に行ってもらおうか?」

「“日本”!?ですか??」

「まず。“横浜”に行ってくれ。工学小僧の実家があるはずだ。

家庭内を徹底的に調べてくれ。父親の名は『澤村 和之』だ」

(やっぱり。義妹を心配はしているのだ)と、ジュールはホッとした。

「かしこまりました。明日スグに立ちます」

エドも瞳を輝かせて承諾する。

「……。それから、悪いが…“小笠原”にも行ってくれるか?」

「真一様…ですか?」

今度はエドはちょっと嬉しそうに微笑んだ。

「暫く。様子を見に行っていない。しっかり、過ごしているか…」

いつも堂々としているボスの歯切れがいつになく悪くなり、

エドは気を遣ってその先を口にする。

「お任せ下さい。横浜の後に見届けて参ります。」

「気取られるなよ」

「解っております。遠くからそっと見守ります。いつも通り…」

エドの方は素直に“言いつけ”に反応する。そしてジュールも…。

「では、私は今から“お届け物”の手配に…。

フランス国内に何人か部下を張らせていますので」

「うむ」

「エド。ここでおろしてくれ」

ジュールの言葉に、エドが路肩にベンツを止める。

「では。明日の夜までには戻ります」

ジュールはベンツを降りると、石畳みの暗がりの中、コートを翻して

サッと姿を消してしまった。

「さて、俺達は“フランス”を出るとするか」

「イエッサー。ボス」

夜のとばりの中。静かに黒塗りのベンツが黒い男達を乗せて消えていった。

 

 

 晴れやかな月曜日がやってきた。

 

 葉月は、昨夜、義理兄が引きちぎった『スリップドレス』をベッドに広げてため息をつく。

そして、『幻』を見たのだと思って、それを捨てるに捨てられず

フランスに来たとき引きずってきたスーツケースにそれを放り投げて出勤をする。

いつも通りに、レストランでママンの食事を食べて。

隼人が貸してくれた真っ赤なロードレース仕様の自転車にまたがって

石畳みの港町を走り出す。

(そろそろかな?)

葉月はちょっとスピードを緩めて後ろを振り返る。

自転車を借りてから、基地の少し手前で隼人が素知らぬ振りで…

そして、得意げに後ろから抜かしてゆくのだが。

今日はまだ、見る影もなかった。

(やっぱり。私の昔の話気にしているのかしら…)

葉月は、安心していたものの急に不安になってきた。

そして。『いずれまた離れてゆく。』という、昨夜の義理兄の言葉を

脳裏にかすめてため息をついた。

これが現実かも知れない。葉月はそう割り切ろうとしたが。

そうすると今度は、力強い義理兄が恋しくなったりする。

彼が一番葉月の心内を解ってくれているのは確かで

だけれども、何処にいるか解らない。向こうが接触してくるときしか逢うことが出来ない。

どんなに頼りたくても、甘えたくても。

彼は決して葉月を側に置こうとはしてくれないし、

葉月も、100%任せることにはためらいがある。

義理兄は『名』を捨てた男。家族も捨てた男。

今の葉月は、表の世界に持っている物をすべて捨てる勇気はなかった。

両親も。そして、可愛い甥っ子も。

そして、走り続けてきた『軍人としての道』も。

義理兄は葉月の昇進をそれは良く褒めてくれたりする。

すると、それは死んだ姉の言葉の代わりとも取れて、それで葉月は前に進んできたのだ。

葉月が一時うつむいて、諦めて自転車のペダルに足をかけたときだった。

歩道にいる葉月の横に黒塗りのベンツがサッと軽やかに停車した。

「???」

葉月は自分の横と解って止めたようなベンツに目線を向けてみる。

すると、運転席の黒くて見えない窓がチラリと隙間を作った。

その隙間から、一人の男と目があって葉月は息を飲んで

思わず辺りに誰もいないか見渡してしまう。

目があった男には見覚えがあり、顔見知りだった。

彼はいつも、『お遣い』で来る金髪の男。

兄の直属の部下だと言うことだけ解っている。

義理兄は、あんまり会いに来てくれない代わりに、彼が兄の代わりに時々現れるのだ。

そして…。

彼が発する言葉はいつも『ボンジュール』か、『ボンソワール』。

後は、短い言付けだけをフランス語で残して手短に去ってゆく。

そんな彼が今、目の前にいるのだ。

葉月がさっとまたがった自転車を降りると、彼の方はサングラスを掛けてベンツから降りてきた。

「ボンジュール」

助手席から降りた彼は本日は、紺色のパリッとしたイタリアンスーツに身を包んでいた。

兄同様。細長く背が高いスラリとした男だ。金髪に葉月と同じ様な茶色の瞳をしている男。

その彼が、麗しくサングラスの顔でニッコリ微笑んで近づいてきた。

小脇に平らで大きめの箱を手にして…。

彼が現れるときは、兄のようにあの黒いコート姿の時もあれば、

何処の実業家とも窺える極上のスーツ姿で現れることもある。

今日は、極上の実業家風だった。

「ボンジュール。お久しぶりね?ご機嫌いかが?」

葉月はそれと無い言葉は掛けられるが、

彼の前ではあんまり笑顔が浮かべられない冷たい女になってしまう。

金髪の彼は、昔から、兄の側にいて付き合いが長いことは知っている。

彼は、葉月と義理兄の仲を良く知っているから、

葉月は知られ過ぎて彼には素直になれない節があるのだ。

葉月のフランス語にも金髪の彼はニッコリ微笑むだけ。

葉月の目の前に立ちはだかって

そっと、小脇の箱を差し出してくる。

「なに?」

そう尋ねても彼は絶対に多くは語らない。ただわずかな微笑みを口元に刻んでいるだけだ。

葉月は、サングラスの影にある彼の瞳を覗いたが

彼の表情は保たれたままいっこうに変わることがなかった。

葉月はため息をついて、背の高い彼から目線は落とす。

葉月の目の前は、センス良く飾られた胸ポケットのハンカチーフ。

そして、男っぽい香水の香りが鼻先をくすぐった。

逢うたびに彼は大人の男の色香を増しているように葉月は感じるが

(兄様に比べたらまだね。)と、思っていたりする。

葉月の中で『黒猫』を名乗る男はすべてにおいて『一流』と位置づけているのだ。

「ボスからのお届け物です。どうぞ?」

やっと彼がフランス語で話しかけてきて、

葉月は小さくため息をついてそれをやっと受け取ることにする。

“兄様は、今どうしているの?”

と、言葉にしようとする隙に金髪の彼も音もなくいつの間にか

ベンツの方に去っていたし、サッと運転席に乗り込んでしまった。

「あの…」

葉月が呼び止めようとすると、ベンツの窓からサングラスを掛けた彼が会釈をして

サッとベンツを発進させて去っていってしまった。

葉月は、またため息をつく。

彼等は本当につかみ所がない『プロ』そのもので、葉月など足元にも及ばない手際よさなのだ。

だから、久しぶりに逢った『お遣いの彼』の事も『幻』と思うことにした。

ひとつ。実感が残ったのは受け取ったこの箱だけ。

葉月はそれを両手にして眺めてまた、ため息をついた。

義理兄は『いかつい冷たい男』だが、

隠れたところでこうして気配りをしてくれるマメな男でもあった。

箱の中身は解っていた。

きっと、昨夜、手荒く引きちぎった『スリップドレス』の代わりで

その上、葉月でもなかなか手に入らない一流品だと。

(兄様のこと。フランスレエスの一級品ね。)

一晩で手に入れて届けるところにまた、ため息がこぼれた。

今度いつ逢えるか解らないが、葉月は『表の自分の世界』に戻ろうとした。

その途端に…。

「ボンジュール。どうしたんだよ。こんな所で??」

ハッと気が付くと、隼人が自転車にまたがって横にいた。

「大尉」

「なに?その箱。誰かからもらったのかい?」

葉月はまたまた我に返ってその箱を隠すように小脇に抱えた。

ゴージャスな金のリボンはどう見ても『プレゼント』

隼人がなんだか疑わしい目でその箱から視線を外さなかった。

中身が『ランジェリー』だからよけいに葉月は焦った。

言葉もどう言っていいか解らなく誤魔化し方がない。

「熱狂的なファンが基地に現れたのかな?気を付けないとね」

隼人はそう思ったらしく、一人で納得して自転車を漕ぎ始めて行ってしまった。

男に冷たいくせにプレゼントは易々もらったと取られたようで

葉月は慌てて自転車の布バッグに箱を突っ込んで隼人を追いかけた。

「まってよ!大尉!!」

別に言い分けるつもりはないが、『信頼して告白』した人間には

軽々しくは見てもらいたくなかったのだ。

「早く来いよ!中佐が遅刻なんて格好悪いぜ♪」

自転車を漕ぐ彼が振り向いていつも通りの笑顔をこぼしてくれた。

葉月はそれを見て初めて嬉しくなった。

それと同時に…。

『仕事だけの関係にとどめておけ』と言う義理兄の言葉がよぎって…

また。気力が萎えてゆく自分もいたりした。

葉月が隼人の横に並ぶと…。

「本当に気を付けた方が良いよ。お嬢さん案外人が良いからな。

どんなヤツにもらったかしらないけどさぁ。」

と、冷たい横顔で言われたが、キチンと『告白』の真意を受け取ってくれて

その上、いつもと変わらぬ態度で接してくれている心遣いが伝わってくる。

葉月は、やっと『表の世界』に戻れた気がした。

「知らない人が強引に渡してサッと行っちゃったの。“全然みたことない人”だったわよ!」

いつもの生意気加減で返してみると

隼人がまた笑ってくれた。

「なんだよ。益々気を付けないと!とって喰われちゃうぞ!!」

あんな告白をしてこうしてサラッと気を遣ってくれる人は初めてだった。

葉月はまたまた嬉しくなってついつい笑顔がほころんでしまった。

「私。大尉にはうんと良いものもらったから!そっちの方が嬉しい!」

こんな事を素直に言える自分が、葉月は自分でも不思議に思えるくらいだった。

『冷たい御令嬢』からの『お言葉』に、隼人が一瞬ビックリした顔をして

それでも、あの優しい笑顔を返してくれた。

葉月はもう『幻』のような義理兄のことを忘れていた。

そうして先へ、先へとゆこうとする隼人のスピードについてゆく。

基地の警備口。金網フェンスが続くずっと向こうで…。

黒塗りのベンツの中から二人を見届けたジュールは

ため息をついて吸った煙草を、窓際から投げ捨てる。

葉月と隼人が微笑みながら警備口に消えたのを確かめて…

(どうせいつもと同じ繰り返し。葉月様はまたボスの所に戻ってくる)

そう思って、ベンツを手荒く発進させて『フランス』を、後にすることにした。