45.もの想い

 

 海辺の白いカフェ。

 『ラ・シャンタル』の前に隼人は立っていた。

 

 “カラン・カラン” 扉が開いて軽やかなベルが響く。

お客がいない昼下がり。窓辺で基地の滑走路を眺めている

マスターが振り返る。

「隼人!?どうしたんだい…こんな時間に…」

マスターは顔色が悪い隼人を見つけてサッと寄ってきたが…

「カフェオレ」

短い一言をそっと呟いていつもの窓際に腰をかけた

隼人に何か察して『ウィ…』と答えてカウンターに離れていった。

マスターが薫り高いコーヒー豆をひいている間…。

隼人はそっと海辺の向こうに見える滑走路を見つめた。

今日。思い起こすのは…小学生の時…。

綺麗で優しい女性の担任の先生。

彼女は母親がいなくて参観日に父だけが来る隼人にとても優しかった。

「隼人君のお父さん。社長さんでかっこいいわね♪」

隼人が風邪をひいて、学校を休むといつもプリントを持って見舞いに来てくれた。

その先生は隼人が次の学年に上がる春。結婚を決めて学校を辞めた。

その時に心にポッカリ穴が空いたのを覚えている。

どんなに女性に思慕を抱いても隼人の心の隙間は埋まらなかった。

若い継母が出来たときは小学校4年生。十歳の時だ。

それは本当に嬉しいことだった。だが…期待しすぎた。

隼人はそこまで思い起こしてギュッと目をつぶって頭を抱える。

それ以上は考えたくなかった。それを思うと…仕事がどうとかこれからがどうとか…。

それ以前の問題がのしかかってきて、隼人を苦しめるのだ。

(俺は…一生ここにいた方が良いんだ)

マリーがいる。アンジェリカがいる。ミシェールパパがいる。

それで充分だった。恋人はいらない。

隼人がここで安らかに暮らしていけるのなら…。

でも…どうしてか。葉月のことと比べてしまう自分が今日はいた。

それは…。隼人は今まで何処かで『自分は苦労した』と言う自負があったと気が付いたのだ。

しかし…葉月ほどではなかった。

彼女は隼人と同じように『財力』に恵まれた家に生まれついて

でも…心には『隙間』があって。恋人はいらないと言う。

しかし彼女は『中隊管理』とか言ってまだ前に進もうとしていた。

フランスに涙をいっぱいため込んでやってきたのに

もう。進もうとしていた。

隼人には出来ない。そんな彼女が隼人に何か与えてくれる存在になっても

それは…『ついていけない』と感じた。

それが…先程の『ショック』だったのだと初めて気が付いた。

それに気が付いてさらにショックを受けた。

(俺は…あの娘と…一緒にいたいのか?)

さぁ。どうする?彼女が一緒に日本に来て!と言いだしたとき…。

隼人の心はどう動くか見当がつかない。

『俺は行かない』

そう言えば、今まで通り。しかし…ショックの中初めて気が付いたが…

今まで通り…を選択することは。葉月にとっては最悪の結果であろうから

隼人は見限られるのだと…。

今日まで、彼女とやりとりしてきたすべてが『嘘』になるのだと思った。

それもショックだった…。

彼女が『さようなら』を言うときは『私には必要ない人』と見限って日本に帰る。

今まで培ってきた、お嬢さんとの会話の数々は『嘘・幻・見かけ倒し』で意味がなくなるのだと。

葉月が大佐がいなくなってフランスに来て…隼人の入れたカフェオレを飲んで

フッと涙をこぼした瞳が頭にこびりついた。

『大佐はもういない…。あれはもう幻』

あの瞳で責められるのだろうか?隼人はそんな気がした。

『頑張ってやってみる』

そう答えたとしよう…。葉月が自分の過去を話してくれたように

今度は隼人の心にあるものを証さなくてはいけない。

それは避けたかった。いろいろ過去に苦汁をなめてきた葉月なら

すぐに隼人の心を見透かすだろう。

『隼人さんはどうして日本に帰りたくないの?』

『それは…』

会話のシミュレーションを頭で作っても…会話にならないほど。

告げたくないことだった。

『なんだ…。そんなこと気にしなければいいじゃない?

大丈夫。誰もそんなこと思わないわ。』

何処か。大人びた彼女のそんな返事が返ってきても、『気にしないわけには行かない』

葉月に打ち明けても…彼女から見たら他愛もないことかも知れないが

隼人にとっては『最低』の事なのだ。

男によって苦汁をなめさせられた葉月だが、隼人と違って彼女は両親に愛されている…。

だからきっと…隼人のもの思いは葉月にとっては『他愛もないこと』に違いないのだ。

「隼人。」

マスターがそっと…大きめのカップに入れたカフェオレをテーブルに置いた。

「ねぇ。マスター…。どうして人は変わらなくちゃいけないんだろう?

同じところにいられないんだろう?いい時を過ごしたところを出て行かなくちゃいけないんだろう?」

いつも余裕げな日本青年・隼人の少年のようにすがる瞳にマスターは

驚いて…暫く困ったように白い口ひげのしたにある唇をもみ合わせていた。

隼人もそれを見て…『自分らしくないのだ』と落ち込むようにうつむく。

誰も…。隼人がフランスにとどまることを許してくれない気がした。

何処にいても自分は『異物』

ここはフランス。隼人は日本人。

日本では…自分は…家族のいない、家族の中に入れない『異物』

自分は弟とは違う子供。継母の子供ではない。

父と継母と弟は本当の家族。自分だけが異物…。

いない方が上手くまとまる。

自分は…ダンヒル家の本当の子供じゃない。それも『異物』

何処にも居場所がない…。

だからみんな。隼人はここにずっといてはいけない…。

ずっといても意味がない…。

それが…康夫が自分を手放そうとしていると知ったショックだったのだとさらに噛み締めた。

「さぁな…」

困っていたマスターがトレイをテーブルに置いて

そっと、隼人の向かい側に腰をかけた。

マスターは言葉を捜しているのか…晴れやかな日射しが降り注ぐ窓辺に

遠い視線を投げかけ…頬杖をついた。

「変わらないと…そこにいられないからじゃないか?

そこが離れたくない場所でも…そこから進まなくては居場所がないとかね?

私もそうだったよ。ずっと飛行機に乗れると思っていたが…

こればかりは年には勝てないしな。仲間達はそれぞれ上手く変わっていたが

私には出来なかった。他の仕事にも就いたが…あんまりね…。

私にとって『変わる』と言うことは…なにか大切な物を無くさないって事にも思えるよ。

だから。基地の近くに『仕事』見つけてこうしてカフェを作った。

こうなるまでは色々やってきたけどね。お陰様で…お客は『軍人』。側には『滑走路』

毎日が昔のままのようで楽しいよ。そうなるまでがいろいろ…。

ここまで来るのに『変わった』としか言えないかな?」

マスターは『ジュ・スイ・デゾレ(ゴメン)こんなことしか例えられないよ』と

誤魔化し笑ったが…何となく隼人にも解るような気はした。

「メルシー。マスター」

隼人はやっと心が軽くなってカフェオレに口を付けた。

「変わらなくてはいけない瀬戸際なのかい?隼人も30歳だったかな?」

「うん。別に意識はしていないけど…」

「周りがそうさせないって?男にはあるよな『結婚』とかね」

「結婚は関係ないけど…周りがそうさせないって当たってる」

「葉月かい?」

マスターに見抜かれて隼人はドキリとカップを傾ける手元が止まってしまった。

「葉月が女性としてどうとは言わないけど……。隼人の中で『動いている』のだね?

隼人もフランスは長いよな。そろそろ何か皆が動かそうとしている。

そこへ葉月が来た。同じ日本人。いろいろとかき乱されたのかい?

彼女を一目見て思ったよ。あの子は周りを動かすそんな『風』を持っている。

瞳が、まるで吸い込まれるような、男の子のような、でも……愛らしいお嬢さんのような

何とも言えない魅惑的な瞳は『女』としてでなく一人の人間として

周りが動かさずにいられない。そう感じたよ。

時々いるんだよね。ああいう軍人が。彼女が男だったら恐ろしいよ。

何をしでかすか分からない、そういう危なっかしさがある感じかな?」

「それで…彼女が俺に変われと言うような気がしていて…」

「彼女がついてこいっていうなら…大丈夫とは思うけどね。

これは…『軍人』としての話。『ミゾノ』と聞いてびっくりしたけど

彼女は祖父さんの代から基盤がしっかりしているから大丈夫だろうさ。

隼人にとっても良い仕事場になると思うよ?」

そこまで見抜かれていた隼人は再びビックリしてカップを置いてしまった。

「何となくね…。引き抜きじゃないかって…。思っていたんだ」

「それ…『噂』とかになっているとか?」

「いいや?なってはいないけど…頭の良い隊員達の中には

そう囁いているものもいるよ。でも。隼人にとっては『軍人』云々以前のことで

葉月との事で悩んでいるように見えるけどね?」

その通りなので…隼人はグッと…言葉を失ってしまった。

『ゆっくりしてお行き…』

マスターは隼人をそっとしてニッコリカウンターに下がっていった。

軍人と毎日触れ合っているマスターだが…

軍人以外の彼が『引き抜き』と見抜いているって事は…

それなりに皆が感じていたことなのだと改めて思った。

『いいよな。サワムラは良いチャンスじゃん??』

葉月が来た頃散々言われた…。それに反発していた。

しかし…葉月と一緒に仕事をしていくウチにそんなことは気にならなくなった。

葉月がそんな影を少しもちらつかせなかったからだ…。

『私と一緒にいれば得よ』なんておごりは一切見せなかったからだ。

きっとそんなお嬢さんだろうと隼人も最初は思っていた。

でも違ったから…葉月の側にいるのは『普通』としか思えなかった。

葉月こそ…。『引き抜き』の使命を負いながらも…

そんな影をちらつかせないように隼人に接してくるのはそれなりに大変だったに違いない。

隼人はそこに行き着いた。

そして…葉月の方も…『変わらないと…ここには居られない』そう思う日々だったのだろう。

もうすぐ日本に帰る。そんなときになっていよいよ腰を上げたのだと…。

先程の裏庭での『親友同士』の会話を思い出してやっと気が付いた。

(アイツ…。俺にそんな気を遣っていたのか?)

隼人はガックリうなだれた。こんな時…葉月を大きく感じた。

過去を打ち明けてくれた『信じて欲しい』と言う強さとか。

『誰だって…言いたくないことあるわよね?』

そんな言葉が返ってきそうだ。

葉月の中にある妙な暖かい寛大さに初めて気付いた。

隼人が最初に思っていたようなお嬢さんだったら…こんなに時間をかけて

側近抜きには来ないはずだ。

有無を言わさず…『私は中佐よ!辞令の一つで動いてよね!!』と

高飛車に隼人を連れて帰ろうとするに違いないし

すぐに側近の話も持ち出していたはずだ。

だから…葉月を責める気にはなれなかった。

でも…隼人はどうしてみんなして自分をフランスからだそうとするのか…。

それが…苦しくてやるせなくてしょうがなかった。

誰も来ない海辺のカフェで。隼人はジッと緩やかな日射しの中。

亡くなった母は自分がここにいるって見てくれているのだろうか?

と空を見上げてため息をついた。

 

 

 夕方。ラ・シャンタルの窓辺の席にはゆっくりと日が傾いて

隼人が飲み干したカップに西日が落ちてきた。

それでも隼人は動こうとしなかった。

お客は平日の昼間とあって、近所の老人達がちらほら

入ってきては会話に花を咲かせて何組も去っていった。

『カラン・カラン』

また、扉のベルが響いた。何組目の老人達だろうか?

隼人はため息をついて、ハッキリした答えも出せそうにないと立ち上がろうとした。

「ボンジュール。ムッシュサワムラ?」

ふと見上げると…。

「お嬢さん!?」

プラダのリュックを片肩にかけた栗毛の彼女がニッコリたたずんでいた。

「どうしてここが?」

隼人が驚いて葉月を指さすと…

「何となく。」

と、またニッコリ今度は気まずそうな微笑みが返ってきた。

「ここ座っていい?」

「ああ…。部隊は?まだ…終わっていないじゃないか?」

「気分が悪くなって早退。」

葉月がニヤリと笑いながら隼人の向かいに腰をかけた。

隼人は(ちぇ…嫌味だな)と思いつつも…。

(もしかして。俺が後付けていたの知っていたのかな?)と、急に不安になった。

「と、言うのは嘘。いつものサボタージュ」

葉月がぺろりと舌を出した。

「ボンジュール!葉月!今日は何にしようか??」

マスターが隼人のもの思いを知って丁度良く葉月が来たと

それは『助け船!』とばかりに嬉しそうにオーダーを取りに来た。

「気持ちが優雅になれるハーブティ」

葉月がにっこり頼むとマスターは『ホイホイ』喜んでカウンターに下がっていった。

「何?俺を捜しに来たりして」

「別に?何となく…」

葉月はそう言っていつもの如く制服の胸ポケットから

煙草を取り出した。そして…ライターも。

でもライターはもう、遠野からもらったとか言うシルバーのジッポーではなかった。

葉月らしい、彼女がこの前から手にしているサファイアがキラリと光る

青色のスリムライターだった。

彼女がいつもの仕草で栗毛をかき上げてフッと一息つくのを

隼人は眺めていた。

「その…。また中隊の話なんだけど…」

葉月の方も切り出しにくそうだった。隼人は…

「お嬢さん。回りくどいことはもうやめろよ。」

葉月の切り出しにくそうな持って回った言い方に…

そう具合も悪くないのにまるで逃げ出すように早退したこと…

康夫と共に『後を付けた』事に気が付いたのだろうと確信した。

隼人の真剣な鋭い眼差しに葉月が一瞬怯んだが…。

「そうね」

やるせなさそうにして、吸い立ちの煙草をグリーン色に透けるガラスの灰皿にもみ消した。

「どうして早退を?朝は元気だったじゃない?」

「そっちこそなんで午後から姿をださない?そこから聞こうか?」

元を正せば葉月がひょっこり訳もなく姿を消したから

隼人が気を揉んで康夫の後を付けるハメになったのだ。

それは隼人の気持ちがしてしまったことだが…。

そこで聞いてしまった話を葉月の口から伝えて欲しかったのだ。

「サボった訳じゃないの。言い訳に聞こえるかも知れないけど…。

どうしても…一人で考えたかったの。誰もいないところで。

一人の中佐として…。勿論。それはあのような時間にするべきじゃなかったわ。

でも…急いでいるの。早く形として私の中でまとめたかったの」

「小笠原の…中隊のことで?」

解っていながら葉月に先をせかそうとした。

「そう…私の中隊はね…今やっとなんとか動いているの。

大佐が亡くなって…私がふらふらしている間に何人か手放してしまったの。

それは…私の至らなさ。私が招いた失態よ。言ったでしょ?

メンテナンサーの彼と出会ったとき…私は大事な訓練に出られないからだになるほど

夜遊びをして…。そんなだらしのないことをしていたの。

その間に…何人かは他の中隊などに引き抜かれて…。やっと反省して

今の状態をなんとかアブナかしげにまとめてきたの。

私一人の力じゃないわ…。他の補佐が何とかついてきてくれたお陰…。」

「そんなことは、もう聞いた」

まだ躊躇って彼女が長々と前置きを語るので、隼人はじれったくて

ピシリと彼女の言葉を切ってしまった。

本当は…聞きたくない。『側近を捜している』それも…候補は隼人だとは…。

それを聞いたら隼人だって答えようがないからこうして一人カフェで

もの思いにふけっていたのに…。

だからって葉月の言葉から逃げていてもいつかは聞かなくてはならない。

そして…葉月から…言い出してくれれば…

何か答えが出るようなそんな気がしたのだ。

葉月は…隼人の苛つき方にまたやるせなさそうに微笑んで…

「わかった。言うわ」

姿勢を正した葉月の瞳が緩やかな日射しの中

やっぱりガラス玉のようにキラリと光った。

隼人も…テーブルの上の拳に汗を握っていた。

「側近を捜しているの。それも…このフランスで…」

だが…葉月の方にも緊張があるのかそこで言葉がとぎれ…

葉月は隼人からそっと視線を外した。

しかしそのためらいはすぐに無くなり葉月の視線は窓辺から

すぐに隼人の黒い瞳に返ってきた。

「私の側にいつもいる人。その人が…フランク中将が決めた人なの

私はその人に会うために来たの」

「それが…俺?」

隼人も…やっと声になっていた。かすれたように自信のない声だったが…

葉月には届いたらしく…

彼女のなんだか思い詰めたような…あの潤んだ瞳に暫くジッと見つめられた。

隼人も…胸が騒いだ。

そんな二人を察してマスターは葉月のお茶を手にしつつも…

近寄り難そうにしてカウンターから出てこようとしなかった…。