54.帰国準備

 

 

 月曜日──。葉月が今週末に帰るという最終週にはいった。

 

 明後日の水曜日。研修生と康夫のパイロットチーム

そして…ジャンのメンテナンスチームが揃って…

もちろん、本部員も葉月に近しかった者は参加するという送別会が

ママンのレストランで行われることになった。

しかし…。

葉月は、今すぐにでも帰りたい心境になっていたが

まだ今から先週の『研修結果』のレポートをまとめなくてはならないし…

せっかくの送別会もキャンセルするわけにも行かず

この間に甥っ子がマンションで何かみつけやしないかと

その事が頭の中を既に占領し始めていた。

(水曜日…をまず過ごして…早くても金曜日には)

一人でそう焦りながら康夫の中佐室に出勤する。

「おはよう」

早速、隼人が出勤していて机の整理をしていた。

「おはよう…。夕べはご馳走様。結局大尉にはおごってもらってばかりだったわね」

「いいよ。それぐらいしかできないし…。小笠原に行ったときにはご馳走になるよ」

もうすぐ別れが近づいてきているせいか二人はそこで言葉が出てこなくなった。

「康夫は?」

葉月は帰国について相談したいのでそう尋ねてみる。

「いつもの重役出勤だよ」

(なるほど)

葉月は溜息をついて、いつもギリギリに来る康夫を焦って待っても仕様がないかと、

いつもの応接ソファーにリュックを置いて、自分も机の整理に取りかかる。

「今日。康夫が出てきたら…早速報告するかい?」

「え?ああ。そうね」

葉月の手元は既にレポート用の書類に差し掛かっていた。

「アイツ。怒るだろうな」

「……そうね」

隼人は葉月の淡白な返事に首をかしげた。

昨夜だったらまだ、出した結果に何かしら緊迫していたように思えたが

朝になるなりなんだか彼女の心はここにあらず…と言う感じなのだ。

(そんなに割り切りの良い子だったけ?)

ずるずる引きずられても困るが…こんなにあっさりされても拍子抜けする。

そのうえ…葉月はまだ始業前だというのにもう…手元は雑務作業を始めていた。

隼人はいぶかしみながら自分もノートパソコンを開けた。

始業のラッパがけたたましく基地中に鳴り響いた。

「まにあった!!!」

康夫がギリギリで駆け込んでくる。

「朝礼!朝礼!!」

出てくるなり机に荷物をほったのを合図に隼人と葉月も

康夫の本部朝礼のため中佐室の外の事務室に出る。

朝礼は『御園中佐は今週で帰国』と言うことと、

『送別会はママンのレストランで参加自由』ということで終わった。

「さぁて。お前が帰る前に一度、俺達のアクロバット拝んでもらわないとな」

康夫は月曜の朝だというのに非常に元気であった。

と、言うのも…葉月が付いた研修生達は9月研修生卒業までに

どの同期生よりも早く空母艦に乗る『研修』が決まったのだ。

葉月が一歩先リードをさせたデビューが基地中でも評判になり

葉月が康夫のチームに及ぼす影響まで注目されて

ますます『ショー選抜』に康夫のチームは有利になったのだ。

そんな康夫を目にしながら隼人と葉月はお互いに目を合わせてため息をつき…

お互いに頷き合って康夫が座った中佐席の前に二人揃って並んだ。

「なんだよ?」

いつになく神妙な二人に康夫は顔を上げる。

「康夫。決まったの」

葉月の一言に康夫がなんのことか解ってピンと背筋を張った。

「で?」

康夫も緊張していた。最終週になりギリギリの所で出た結果だ。

『ダメだった』と葉月が言えば後6日間で何とかしなくてはならない。

しかし…横には隼人もキチンと話し合ったというように側にいる。

「私だけ…先に帰国するわ。」

それだけでは解らず…康夫は再び『で?』としか返せなかった。

「先に帰って…とりあえず…大尉がもう少し考える時間を持ってみることにしたの」

「は??」

考えると言うことは「側近になってもいい」ということか?と康夫は中途半端な答えに眉をひそめた。

「だから。俺はとりあえずフランスに残って、俺が考えている間…

お嬢さんの方で側近が先に見つかったら…そこまでって事にしたんだ」

隼人もいつにない真剣顔で康夫に告げる。

「ちょっと待て…。それって…なんだかおかしくないか???」

康夫にしてみれば『側近になる』『…ならない』どっちか二つに一つの結果しかないと考えている。

だから、『可能性はあって可能性はないかも?』と言う答えを出した二人の気持ちがよく解らないのだ。

「私は帰ったら…次に進むわ。これ以上中隊に負担はかけられない。

大尉の返事を待ちながらも待たないことにしたの」

「俺も、もう一度ゆっくり考えたい。どうせならもっと早く言って欲しかった。

と言っても…最初から言われていたら意固地にはなっていたと思うけどな。

お嬢さんが、俺の様子を見ながら上手に接してくれたことには感謝している」

「私も…意固地になっていたから…。早く腰を上げなかったし

この結果で当たり前だと思うわ。先週打ち明けたばかりだし。

大尉にはやっぱりもう少し考える時間は与えるべきだと思うの」

(そんな悠長に構えていたら、フランク中将が次の候補を見つけてしまうだろ!!!)

康夫は叱りつけようと席に手をついた…。その時。

申し訳なさそうにうつむいている隼人に葉月がそっと見上げて微笑んだ。

そんな葉月に隼人も優しい目元を滲ませて葉月の笑顔に微笑み返す。

そんな二人が実はとっくに信頼し合っている…そんな姿を一瞬見てしまった気になった。

机に手は着いたが…立ち上がれなくなり声も引っ込んでしまった。

微笑み合った二人にはもう動かない「結果」に違いない。

自分がどう言っても…この二人は覆さないだろう…と…。

「そっか。勝手にしろ!!」

それしか言い返せなかった。

「ごめんね…。康夫。中将には私からちゃんと話すから。」

企画倒れになったのは康夫のせいじゃない…ロイにはそう言うつもりだと葉月は説くが

康夫はすっかり不機嫌になって返事もしなくなった。

葉月が諦めてソファーに下がっていったので隼人も席に戻ろうとした。

しかし、隼人は席に着く前に振り返る。

「康夫。俺、一度彼女のいる小笠原には行って見たいと思っているんだ。

側近になれなくても…彼女とは仕事…もう一度やってみようと思って」

「………」

やっぱり康夫は返事もしなくて腕を組んでジッと考え込んでいるだけだった。

隼人も諦めて席に着いた。

(そこまで…隼人兄は心が動いたって事か…まぁ。上出来か?)

フランスでしか仕事を望まなかった隼人が外に興味を持ち始めた…。

時間が足りなくてこんな結果になったが…もしかしたらこの先何とかなるかもと康夫は思った。

即、側近──。それが康夫の中で一番良い結果だった。

しかし元を辿れば、隼人の為、そして『幸せのおすそ分け』をしてあげたい『ライバル』、葉月の為……。

それが今回この企画を思いついたキッカケだ。

隼人には本来の姿である優秀な幹部になってもらいたい。

葉月には、長く付き合えるパートナーを。

遠野との約束はここで終わったわけではない。

たとえ葉月にしがない若側近がこの後すぐについても蹴落としてやる!!と…

康夫の方も新たな闘志に火がついているのだ。

あれだけ信頼し合っていればいずれ惹かれずにいられないだろう…。

そんな直感があった。先程の『微笑み合い』を目にしてなければこんな風に退き下がりはしない。

「葉月。」

康夫が低い一声を発すると…『な…なに!?』と葉月もすぐ反応した。

「向こうに帰ったら…いい側近見つけろよ」

「………」

葉月から返事はなく。隼人からはちょっと戸惑った表情が帰ってくる。

嫌味だとは思うがこれぐらい言わせてもらわないと康夫の腹の虫は治まらないのだ。

こう言って隼人が焦ればそれも良し。葉月がやっぱり隼人がいいと切迫すればそれも良し。

(せいぜい…格好良いつもりでいろよ ふん!!これで今は許してやる!!)

お互い傷つきたくないから二人揃って『いい関係でいようね』と言う答えに甘んじたのが

康夫には解っていただけに…日本まで出向いていき、二ヶ月葉月を世話して…

その骨折りの苦労も無駄にされても、もう今回は二人には精一杯のことだったに違いないと

納得して、これ以上責めるのはやめることにしたのだ。

 

 

 「行って来ます」

隼人が暫くしてテキスト片手に講義に出掛けようとしていた。

「いってらっしゃい。空母艦の講義?」

葉月は、もう自分が手出しできない事がなんだか寂しいような気持ちで隼人を見送る。

「そう。九月の卒業までもう後少しだからな。お嬢さんの意志は俺が引き継ぐよ」

ニッコリ…テキストを掲げて隼人は意気揚々出掛けていった。

隼人が出ると…康夫がシラッと葉月を見つめていた。

「な。何??」

「いい感じなのになぁ。もったいない」

康夫はため息をついた。

「しょうがないでしょ。まだ、私だって諦めていませんからね」

葉月は康夫に責められる視線に耐えられないのかブスッと返事を返してきた。

「おまえさ…『ためらい』に負けたんだろ?」

葉月はその通りなのでグサッと心に突き刺さって動きを止めた。

「いいじゃない。もう!」

「おまえも、隼人兄と一緒だな」

「一緒??」

「十歳の時に負った傷についてはこの際おいておこう。

でもな。『恋のためらい』はいつか乗り越えないと、お前…女としての幸せのがすぞ。

今後、恋をしたらすぐに飛びつけよ。桜の下で泣くハメはもう見たくないだろう?

昔のことここで掘り起こして悪いけどな。それだけは帰る前に言っておく。」

そう…葉月は遠野に気持ちをぶつけられなくて…それを初めて後悔したのが

彼の葬儀の時…。桜が満開の日。

彼の棺が火の海に入ってすぐに外に飛び出し…火葬場の桜の下で散々泣きわめいたのだ。

その時…葬儀に参加していた康夫がそっと…なだめにやってきてくれたのだ。

そんなこと…。つい最近のように引きずっていたのに、フランスに来てから遠い日のように感じた。

そんな気持ちになったのも初めて…。

しかし…康夫が言っていることは解った。

葉月は結局…。遠野の恋と同じ事を繰り返している。

春に別れたメンテナンサーの彼にも…結局自分を開かないまま別れてしまい…

彼はとうとう他の女性と結婚を決めたのだから。

「ハリス少佐だったかなぁ?」

その男の名が出て葉月はドッキリ…。康夫はやっぱりメンテの彼とのこと…知っていたのかと。

「ジョイに聞いたが…少佐の婚約者。小笠原に来るらしいぜ?」

「そ。アメリカから日本に来て下さるなんて…ハリス少佐もお幸せね。」

強がりでなく…今はそういえる。彼には幸せになって欲しかった。

「『無感情令嬢』だな。ホント。後で泣きを見るなよ。隼人兄も…相変わらず。臆病だな。

お前と良く似ているぜ。お前も隼人兄も信じていながら『過去』に縛られてさ」

「ほっといてよ。」

葉月はムっとしながら…親友だからなんでも言い出す康夫の言い分が

本当すぎて言い返す言葉も見つからないし…『過去』についてはなんにも考えたくない。

「お前は…本当はいい女なんだよ。お前の方から飛びついたら

男は泣いて喜ぶぞ♪どうだ?飛びついたらどうだ??」

康夫がニヤリと意地悪い微笑みをいつもの如く向けてくる。

その途端に葉月は隼人に抱きついた黒髪の大和撫子を思い出して益々ムッとした。

「まぁ。お前のそのお堅いところがいいところだからな。

お前がか〜るい女だったら、いくら麗しい中佐でもたかが知れているもんな。

男なんてさ。そんな所も、結構、気にするからさ」

「女だってそうです!」

「でもよぅ。一度ぐらい…ときめいた男の胸に飛び込んだらどうだ?同じ事の繰り返しだぜ?」

葉月はとうとう…ソファーを立った。

「そんなの!!側近の話と関係ないでしょ!!私は今それどころじゃないの!!」

すると…『ここらで我慢してやる』と先程押さえ込んだ康夫も席に手をついて立ち上がった。

「どんなに肩肘張ってもな!!お前は女なんだよ!!

なんで解ってくれないんだ!!!二度とお前には非力ってだけで傷ついて欲しくないんだよ!!」

「私は身体は女かも知れないけど!軍人の時は男よ!!

どんなに『女』って事で傷ついたって私が決めたんだから!!」

「そんな風に意地張って!また傷つくつもりかよ!!雪江が泣いていたぞ!!

自分の友人がしかも同性が『あんな目に』合うなんて耐えられないってな!!」

葉月はそれを聞いて頭に血が上った。『怒り』ではなくて…

思い出したくないことに触れられたことだ。康夫も滅多に口にしないことだった。

「あれは…私が自分で決めた事よ!!私が『生む』って決めたのよ!!」

葉月が生々しく口にしたので康夫もテンションがカッと上がったようだった。

「だから!!二度と非力な不幸は生むなッて言っているんだ!!

お前が勇敢なじゃじゃ馬なのは解っている。だからお前には

サポートしてくれる男が必要なんだ!!同じ過ちを二度と繰り返すな!!

天国の姉さんが泣くぞ!フロリダの親父さんも!天国に逝ったお前の真・義理兄さんも!

それから…お前が抱けなかった子供もな!!」

その途端…じゃじゃ馬の葉月がワッと机に突っ伏して泣き始めたので

康夫はやっとハッと我に返った。

「わ…悪かった…!!俺が言い過ぎた!!」

康夫はサッとソファーに駆け寄って葉月の横に腰を落とした。

葉月の泣き声は一瞬で止んだが、声を引きつらせて涙を瞳にためていた。

「ごめなさい。あなたの好意は解っているの…。でも…怖いの。」

葉月にとって『ためらい』を乗り越えることは…『恋』だけでは乗り越えられないのだと

康夫は改めて知ったように思えた。

「赤ちゃん…死ななかったら…ここには来ていないかも」

葉月がそっと涙声でうつむいて栗毛の中声を詰まらせたので…

康夫は痛々しくなって葉月の肩を抱いた。『禁句』を言い過ぎたと…。

「いいや。『死産』で良かったんだ。お前のこと思って子供も天国に行ったんだろ?

生まれても。幸せになれるか解らなかっただろう?」

「私一人でも…幸せにしようとしたのに…。もう…生まれるところだったのに

その前にも一度流しているし…」

そう…葉月は今まで二度ばかり流産を経験していた。

それで、自分は子供を産めない女だと思いこんでいる。

それに『男嫌い』が拍車をかけて『男とは上手く行かない女』と思っているのだ。

「だから…『非力な不幸』は選ぶなって言ってるだろう?

その子は…天国のパパの所できっとお前を一緒に見守っているさ」

泣きさざめく葉月にそんなことをいったが…康夫はその天国に行った男の事は未だに許していない。

葉月は許しているようだが…そのお陰で葉月と達也は上手く行きかけたところを引き裂かれたからだ。

そして葉月はまた内側にこもり…男に対してますます警戒心が強くなった。

その後。遠野が再び葉月の心をほぐした。

たとえ不倫でも康夫と雪江が目をつむったのはそこだった。

葉月の女としての心を解き放ってくれる男ならそれも仕方がないと思ったのだ。

しかし…遠野も天国に行ってしまった。

メンテ少佐の彼は康夫が日本に来たときにはもう葉月の中では終わりかけていた。

そして…隼人…。

葉月がためらいをのけて飛び込んだのなら…側近なんて本当はどうでも良い話。

側近の話でダメだったのなら…『恋心』だけでも…隼人にぶつけて欲しかったのだ。

だからつい…今。いらぬ話までしてしまったと康夫は深く反省をした。

妻の雪江が今ここでのやりとりを目にしていたらしばらくは口を聞いてくれないところである。

「康夫…。私ね…真一のことで…」

葉月がまだ涙を流してそっと呟いた。

「なんだ?」

葉月の肩をさすりながら康夫は親身になって栗毛の中の葉月をのぞき込んだ。

しかし…葉月の口から出てきた言葉に…康夫は驚き…。

「解った。そうしろ。他のヤツには黙っておくから。『緊急で』帰国したことにしてやる」

「隼人さんにも言わないで。送別会には出るから」

「解った。お前も大変だな…。」

康夫はさらに反省した。葉月がいつになくワッと泣いたのは…

大切な甥っ子が…今どんな状態か…。

姉のことを探っていると不安定に悩んでいるときに言ってはいけないことを

次々と口にして葉月を不安に陥れたのだと。

だから…真一は康夫も可愛がっていたし…葉月の願いも聞き入れることにした。