・・フランス航空部隊・・

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20.星空の帰り路

「二人とも、気を付けて帰れよ〜〜」

 夜の十時が回ったので、葉月と隼人は、ほろ酔いの康夫に見送られて藤波家からおいとまをする。
 マンションの階段を下りると、外には隼人のあのマウンテンバイクが停めてあった。
 空は星がたくさん散らばっていて、葉月は、また……離島で自然がたくさん残っている小笠原の島を思い出していた。

 康夫の自宅から葉月のホテルは近い。
 そこからまた向こう側の近所に隼人のアパートがあるらしい。
 そんなわけで、送ってもらうことになった。

「後ろ乗る?」

 隼人が自転車の積み台を勧めてくれる。

「自転車だって『飲酒運転』になるのに?」
「厳しい中佐だな。それって日本ではだろ? まぁ、確かに危ないよな? いいか……酔い醒ましに歩こうか。町中のホテルアパートだろ? あそこのレストランは家庭の味だから時々行くんだ」

 隼人が自転車を引いて先を歩き出したので、葉月もついていく。

「まるで、フランス人ね」

 フランス人の手料理を『家庭の味』というので、葉月はそう思って微笑んだ。

「まぁね。ここが好きなんだ俺」

 そんな敬愛を込めた言葉を囁きつつも、彼がやはり眼差しを寂しそうに伏せるのが、葉月には気になってしまう……。

(何か……? ここにいなきゃいけない訳でもあるのかしら?)

 葉月はつい、そんなふうに勘ぐってしまった。

 そうなると、側近として落とすのは難しいように思えてくる。
 それに、葉月が振り回されるほど大人の彼。
 それと同じぐらいに、何処か頑固そうな意志みたいな物も感じられる。

(上手く行くのかしら)

 葉月は、隼人に気づかれないよう、そっと溜め息をこぼした。

「でも、すごいね。航空ショーを経験してたなんて」

 背中をついてきている『お嬢さん』が、そんな事を思いめぐらしている事など何も知らない彼──。
 その隼人が笑顔で振り返ったのを見て、葉月は考え事から引き戻される。

「最初は、私が参加できるなんて信じられなくて。でも、これも、私を『女のくせに』と、邪険にせずに同等に鍛えてくれた先輩方のおかげ。それから……」

 葉月はそこから先を言おうとして……また、どうしようもない悲しみが襲ってきた。

『じゃじゃ馬! 良くやった! 俺の側近として鼻が高い!』
『何を怖じ気づいているんだ? パイロットとして歩んできたならやるべきだ。俺は、お前は逃げる女じゃないと思っているぞ!?』

 ──また。葉月をリードしてくれていた頼もしい遠野大佐の声がする。

 気づくと……大佐の声ではなく、隼人の溜め息が聞こえてきたのに、葉月はハッとする。

「また、先輩のことか? そうだな……。先輩はそうしてちょっとお節介なところもあったね。俺にも、幹部試験を受けて少佐になったらどうだ? と、うるさかった。自分だって、奥さんのために転勤が少ない尉官に甘んじていたクセに。他人の事には、結構、親身でさ。ある時、自分の中にある本当の気持ちに気付いたらしくて、それで先輩は幹部試験を受けてとうとう『少佐』になってフロリダに行ってしまった。それでもなお……奥さんが振り向いてくれないことにかなり絶望していたね」

 隼人のその話は嘘でないし、葉月もよく知っている事だった。
 葉月は、その通りなのでまた……うつむいてしまった。

「ああ……。また、余計な事を俺ったら……」

 また葉月が泣き出すんじゃないかと思ったのか、隼人が慌てた顔で後ろを振り向いた。
 でも、葉月は笑顔を見せる。

「ううん。本当のこと。大佐は元々、奥様を深く愛していたのよ。昔、結婚したときから。何処かですれ違ってもう戻れないんだって言っていたけど。大佐、奥様がちっとも転勤についてきてくれなくて寂しかったみたい。息子さんが生まれた時も傍にもいてやれなかったって。それを忘れるために……。危険な任務に自ら志願して傷ついて……。死にかけて……。『孤独な人』。私は、そう思っていたの」

 葉月はやっぱり涙声になっていたが、隼人を二度と困らせまいと必死に涙をこらえた。
 そんな涙を堪えている隙に、隼人がちょっと呆れたように黒髪をかきつつ、話し始めた。

「俺から見たら……。奥さんが先輩を見殺しにしたとしか見えないけどね」
「見殺し!?」

 冷たく言い切る隼人に、葉月は驚いて出そうだった涙がピタリと止まってしまった。
 それでも隼人は、悪びれる様子もなく続ける。

「お嬢さんだって、解っていたから先輩を受け入れたんだろ? 確かに先輩は『寂しい人』だったよ。なのに……あの奥さんは、『苦労したくない。日本で皆がそうであるような妻でいたい』。そんな奥さんだったよ。なんだよ。先輩が死にかけたって『エステ』に通って、先輩が昇進すれば『ダイヤ』を買って、あげくの果てに先輩が遠征中に男を作って、子供まで!? そうしている間に先輩は死んでしまった。だけれども、夫がいなくなったって『後がまの男』は、ちゃんと用意されていたわけだ。サイテーじゃないか! 先輩が心変わりして当たり前だ。『大佐の妻』って言うのは『優雅な妻』でいる事なのか? 違うだろう!?」

 隼人が言っている事も、葉月には分かっている。
 彼が今、言い放った『不満』は、まさに遠野が言っていた事と同じだ。
 でも──!

「それは違う! 奥様が新しい男性と出逢ったのは私のせいなのよ! 奥様は知っていたのよ! 大佐が……私の所にばかり来るから……。せっかく、奥様が『今度こそ一緒に暮らす』と言い出したのに、大佐は意地を張っているだけ……! 『寂しい』のは、『愛されたいから』なのでしょう? 妻にと誓った人に、愛されたいから大佐はずっと苦しんでいたのでしょう? だから……私さえいなかったら仲直りしていたかもしれないって!!」

 隼人が妻をひどく責めるのは、それだけ遠野の苦悩を見てきたから……彼の為に怒っているのだろう。
 だが、今の葉月としては、どうあっても自分が罪深きことをしてきた事は、逃げたくなくつい叫んでいた。
 そして──孤独な遠野を最後まで、どうにもしてやれなかった無力な自分に。
 妻の所に返す事も出来ず、そして、『愛している』とさえ伝える事も出来ず……。
 でも、そんな葉月に隼人が叫んだ──!

「それも違う!!」

 葉月は驚いて固まった。

「俺には分かる。先輩を見てきて、見送った俺には分かる! お嬢さんの所に来た時は、もう先輩の心は『手遅れ』だったんだよ。先輩の心はもう冷え切っていたんだ。なのに奥さんはそれでも安穏と『華やかなマダムライフ』をやり通した。先輩が『離婚』をしなかったのは、小さい息子がそれでも『パパ』を待っていたからだ。俺は、ハッキリ言って『結婚』って言う『誓い』が大っ嫌いだ。あれは『誓い』でなくて『制度』だ。一生ともに居れるのなら『制度』が無くても一緒に居れるはずだ。フランスではすべての夫妻が『入籍』しない。そういうの日本では『当たり前』。その囲いの中でぬくぬくしていたんだよ。あの奥さんは! なのに!!」

 隼人が珍しく感情を荒立てて悔しがっていた。
 彼も、遠野を見守ってきた後輩であるのが本当に身に浸みてくるほど。
 そんな隼人の口惜しそうな姿は、まるで遠野の口惜しさそのものに見えてきて、葉月は、また涙がこぼれてきた。

「でも……最後に奥様に言われたの。『遠野はあなたを愛して、愛されて幸せだったと思う』って。それを聞いてショックだったの。『私。大佐に全部ぶつけていない。大佐には伝わっていない』──だとしたら『愛されて幸せだった』なんて……あるはず無いって!」

 葉月がそんな事を涙ながらに呟くと──。

「バッカヤロウ!」

 なんだか分からないが、隼人に怒鳴られて、葉月はまた涙がピッタリ止まってしまった。

「そんなの! 安穏妻の『正当化』じゃねーか!! よっくそんなこと言えるな! あの人、そんなこと言ったのかよ!! 次の男が出来たら、前の夫のことはなんでもないって!? これだから『女』は! そんなのお嬢さんへの当てつけかも知れないけど、最後、『妻としての悔やみと後悔』を感じるべき気持ちも『放棄』して、お嬢さんに押しつけただけじゃないか!! そんなこと、気にしてたのか?」

 葉月は、隼人の勢いに驚くだけで、なんにも言葉が出てこなかった。

「いいか!? お嬢さんが『素直』になれなかったことを悔やんでるのはいいとしよう。だけど、あの奥さんに気兼ねする事は、これっぽっちもないんだぜ!? ちょっと今の話聞いて、かなーり、むかついたっっ!!」

 隼人が、小指の爪を『これっぽちも!!』と突き出して、ムキになるのも、葉月はただたじろぐばかり──。
 その内に、二人の周りが急にシンと静まりかえった気がした……。

「ふふ……。アハハ!」

 葉月は急に笑い出していた。
 それも、お腹を抱えて。
 隼人は怪訝に思ったのか、自転車を引く手を止めた。

「なんだよ。何が可笑しいのさ!? 俺、結構、マジで怒っていたんだけど!」
「だって。大尉がそんなにムキになる人だったのかって!」

 葉月は笑いながらも、なんだかやっぱりこの男性から遠野と再会した様に感じた。
 今日。中佐室で感じた傷口に塩を揉み込むような寂しい気持ちではなかった。
 今度は、なんだか遠野自身の言葉を聞いたように感じた。

 彼が言いたかっただろう気持ちも。
 あの人の口惜しさも──。
 後悔も、寂しさも……なにもかも。

 葉月だけが知っていると思っていた事を……。
 彼の後輩が、同じように知っていて。
 そして、葉月と一緒に感じてくれた──。

(私。やっぱりフランスまで来て良かった!)

 本当に心から思えてきた。
 彼は思わずムキになっていた自分にやっと気づいたのか、また、照れくさそうにプイッとした横顔を見せて、前を歩き出していた。
 葉月は、そんな隼人の後を笑いながら追いかける。

「大尉って、本当に『女嫌い』なのね」

 そう背中に話しかけると、図星だったのか冷たい視線で睨まれる。
 だが、葉月は小さく笑って、後を着いて行く。

 キャリアウーマンは嫌い。
 安穏妻は嫌い。
 女性に容赦なく、はっきりしている彼のことは、そう『女嫌い』と例えてみたのだ。

「実は、私も『男嫌い』──」
「本当かよ? あの先輩を本気にさせておいて」

 また亡くなった人との関係を持ち出され、気の利かない一言で突き返されていたが、葉月はもう何とも思えなくなってきた。

「その内に解るわよ。きっと──冗談じゃないって」
「ふ〜ん。気に入った男は特別って言いたいんだ?」

 またまた、妙に意地悪い眼差しで、隼人がそんな葉月をからかっていた。

「そうね? その方がいいでしょ? よりどりみどりっ!」

 葉月も余裕たっぷりの笑顔でニヤリと返してみると、今度は隼人が少しばかりおののいたようだ。
 だけど──そんな葉月の様子に安心してくれたのか、彼のホッとした顔。
 そんな隼人がそっと星空を見上げた。

「先輩の為にも──。もう、そうやって心の内で後悔するのやめたら? きっとさ、俺の格好いいところだけ思い出してくれって天国で叫んでると思うよ。なんせ『イイカッコしい』はこだわっていたからね」

 隼人が見上げる顔を見て、葉月も星空を見上げた。

 彼の後輩だからこそ、遠野が言いそうな言葉を代わりに言ってくれたような気になってきた。
 彼から影を見ようとするのは、やめたはずなのに。
 それでも──。今の言葉の数々は、きちんと葉月の心に響いたのは確かだった。

「本当に……大尉に会いに来て良かった。メルシー」

 本当の気持ちだ。
 葉月はしみじみと、彼に呟いていた。
 目があって微笑みを浮かべると、隼人はまた照れくさかったのか、またそっぽを向いてしまった。
 もう、それが彼らしくて葉月はまた可笑しくて笑い出していた。

「……あのさ」

 前を歩いていた隼人が、後ろにいる葉月の前まで、自転車をわざわざ後退させてきた。
 葉月の前に、自転車が停まる。

「お嬢さんが泊まっているホテルのレストランでさ。ママンのホットケーキ食べようぜ」

 隼人が自転車にまたがり、振り返らずに誘ってきた。
 葉月の目の前に──自転車の荷台。
 それは『後ろに乗れ』と言われているようだった。

「うん!」

 葉月も気にすることなく、昨日、出掛けたランチの時のように、彼の背中に捕まって腰をかけた。

 星空の下。
 石畳みの海辺の街。
 潮風が薫る中、隼人の自転車が街路樹の町並みで風を切って行く。

 

 

 

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