【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![10]

 『あの時、帰っていれば──』

 吾郎は何度もそう思わされることになった。

 

 幸い。葉月は一命を取り留めたという情報が一週間後に入ってきて、吾郎は康夫と共にとりあえずの安心を得ることが出来た。
 それでも──。ただ意識を取り戻しただけのことで、重体には変わらないらしく予断は許さないという海野中佐からの連絡だったようだ。

 しかし、吾郎は『俺はなにをしているのか』と思わされる。
 もしここで葉月が本当に死に絶えていたら、小笠原に帰っても、彼女との約束が果たせなくなるところだったと。
 そしてまた……。葉月がコックピットに帰る日が遠のいてしまったのだ。

 あの時、帰っていれば……。
 今頃は彼女と一緒に甲板で、吾郎の原点である『小笠原での空母甲板要員』の日々をつつがなく送っていたのだろう。
 しかし、吾郎は顔をあげて空を見るようにする。後悔をしてはいけない。遠く離れていても、頑張ってこられたのは……葉月が納得するまでお互いにやってみようと言ってくれたからだ。彼女もそれに向かって頑張ってみると。だから吾郎も……。その挑戦がなければ、今の吾郎はなかったはず!

 でも、吾郎の心は不安で震えていた。
 直ぐに彼女のもとに行くことが出来ない。
 だから遠い異国で祈るだけ。

 その夜も、彼女が過ごしたというホテルアパートの窓からは夜の港町。
 そして星と月。その淡い光に吾郎は託す。
 どうか彼女が元気なじゃじゃ馬さんに戻れますようにと──。

 

 

 だから、吾郎は毎日マルセイユの甲板に立った。
 吾郎が納得するまで、たとえコックピットに先に復帰しても待っていると言ってくれた彼女を、今度は吾郎が待っている。

 隼人からのメールも来なくなった。彼は彼女に付きっきりで看病をしているのだとか……。休職扱いで、今は四中隊にも出てきていないらしい。
 その代わりにジョイ=フランク中佐から丁寧な返信があった。──『心配してくれて有難う。今、安静第一の日々を送る為、東京で療養している最中です。君には君が今できることを変わらずに精進していただけると、回復に向かっている大佐嬢も耳にすれば喜ぶと思います』──吾郎が変わらずに精進していることを、彼女に伝えてくれるというメール。彼も忙しい立場だと吾郎も良く心得ているので、隼人が気遣ってくれていた時ほどの頻繁な連絡は取らないようにしていた。

 康夫もそんな葉月の気持ちが通じるのだろう。
 彼女が意識を取り戻したという報せが入るまでは、彼も死んだかのように元気がなくなって、部隊を早退するほどだったのに……。
 今度の康夫は『雲隠れ』の意地を除けて、今は海野中佐と密に連絡を取り合っている。そのせいか、彼女が少しずつでも回復に向かっているという近況を頼りにして、以前よりより一層の前進を始めた。
 ついに適性検査を受けることになり、また新たなトレーニングに取り組み始めていた。

「見ていろ。あいつが快復した時に、俺がどうなったか知って驚かせてやるんだ」

 だから葉月、くたばっている場合じゃないぞ。今度は俺がくたばっているお前を突き放してやる。だから悔しかったら、お前もどんなに辛くてもコックピットに戻って来いよ!! ── 康夫はいつもそう叫びながら、ジムでトレーニングをしていた。

 だから、吾郎も甲板に立つ。
 そんな事件がなかった以前のように……。

 ただ、吾郎の中に一抹の不安が漂い始めていた。
 きっとそれは康夫なら、もっと切実に感じていることだろう。
 だが、そんな大それた事。不安に思っていても決して口には出来なかった。

 

『胸を刺されたのは、パイロットとして致命傷だったのでは?』

 

 吾郎がそう浮かんだぐらい。
 パイロットとしてプロである康夫なら、彼女が胸を一突きされたと聞いた時点で、彼女が不幸に遭ったショックと同時に、『それはパイロットには致命傷だ』と思い浮かんだことだろう。だからこそ、あれだけのショックを受け、暫くは死んだような日々を過ごしていたのだろう……。

 でも、康夫は康夫なりに『葉月を信じる』という気持ちに切り替えてきた。
 なにせ、自分自身が大墜落の果てに、過酷なリハビリと精神的苦痛を乗り越えて、復帰目の前まで突き進んできたのだから。
 俺に出来たんだ。お前にも出来るはずだ。ライバル嬢様を自分となぞらえても、大袈裟じゃない。それだけ彼女とは気持ちが合うのだという彼の親友としての自信と彼女への信頼が強く現れていて、その立ち直りは見事な物だった。

 だからこそだ。
 彼がそこを不安に思っているのに、そこを打ち消そうと頑張っている中、不用意にそんなことは吾郎の口からは決して言えなかった。
 それは妻の雪江も、そしてジャン先輩も。彼の気持ちを良く知っている者達は、だからこそと口をつぐんでいた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今年も新卒研修生の、最終空母艦実習が行われていた。
 チーム・クロードは、またもやAクラスを受け持つ。
 だが、これも例年になったのか。クロードはAクラス以外からも気になる研修生がいた場合は、数名でも自分の目で確かめて育ててみるという試みを忘れていなかった。
 今年も、Bクラスから一名、Cクラスからも一名、クロード自身の目で選んできた研修生が混じっている。
 吾郎も変わらずに、キャプテンの研修アシスタントを続けていた。なのでこの時の吾郎は、自分もそうだったように空母艦に泊まり込みの最終研修の指導の手伝いをしていた。

 毎日、朝になれば地中海の上空パトロールに出かける機体を空へと送り出す。
 その実務をしている先輩達の側について、新卒研修生達が甲板の上を必死に走り回っていた。

「懐かしいなー。もう一年ですよねー。俺がキャプテンの横で、あんなふうにひっついて走っていたのは……」
「だよな。あそこらへんで、ゴローはのたくたしていたなあ」
「うっわー。キャプテンたら、俺、新人だったんですよー。あったりまえじゃないですかー。それをなんだか如何にも出来ない子だったみたいに言わないでくださいよー」

 だがクロードはいつもの真顔で『出来ない子だったよ』と、ばっさりと言い切ってくれ、吾郎は冗談交じりの悲鳴を上げる。

「ひっどいなー! キャプテン自ら俺を選んでくれたと、俺、舞い上がっていたのに。ぬかよろこびさせてくれて、あの時は哀しかったんだ。キャプテンの鬼!」
「お前こそ、ひどい言い草だな! だからあの時は悪かったと言っただろう」
「わー! やっぱり本当だったんだ。俺に目をつけてくれたんじゃなくて、キャプテンはサワムラって男にムキになっていたんだーー。目的はそれだったんだー!! ちっくしょーー。訴えてやる、言いふらしてやる!」

 『騙されたーー』と吾郎は泣き叫んだ。
 勿論、ふざけているのは言うまでもない。
 だがそれがあまりにも大袈裟な『おふざけ』だったせいか、他のメンテ先輩に新卒研修生達が、キャプテンと並んで騒々しい吾郎へ何事かという視線を向けている。

「このっ。ゴロー! お前ときたら!」

 あの強面のキャプテンが、顔を真っ赤にして吾郎の頭を脇に抱え込んで慌てていた。
 勿論、吾郎は笑っていた。そして、この妙な師弟コンビ──今となってはクロードが逆に吾郎にやりこめられている姿を、チーム・クロードの先輩達は面白がって見てくれるようになった。
 だから向こうから『気にするな。ゴローの悪ふざけが始まっただけだ』という囁きと笑い声が聞こえてきた。

 ベテランの先輩と戸惑いの新卒研修生。まだ馴染めずにぎくしゃくしていた甲板がふっと雰囲気が和らいだようだった。
 そんな甲板を眺めて、『うっかり』吾郎のペースにはまっていきり立ったクロードも我に返って、次には可笑しそうに微笑んでいた。

「まったく。いいムードメーカーだな」
「え? そうっすか?」

 キャプテンは『自覚がないムードメーカーだ』と、笑っている。
 そして青空の下、何事もなく回転している甲板を眺めながら、クロードがしみじみと話し始める。

「本当に。なにもかもが彼女のせいだなあ」

 彼女とは大佐嬢のことだと、吾郎にも直ぐに分かる。

「彼女が来た年の二回目の新卒研修だったな。それまでは教官達の『クラス割り』を信じ切っていたんだ。勿論、教官達の仕事だし、そこは俺の範疇じゃない。だけれど、彼女がある大事をやったおかげでどの研修生にもレベル以外の実力がある──と言うことを思い知らされたな……。それがあってからつい。俺自身の目でも確かめに行きたくなったんだ」

 吾郎の滑走路最終実施試験の時も、確かにクロードは見学に来ていた。
 なにも吾郎だけを確かめに来た訳でもなかったのだ。
 隈無く確認し、そしてAクラス以外の研修生でもなにか感じれば、クロードの手元で実力を確認してみる。
 それを彼は毎回行うようになったという。そして吾郎がアシスタントになったこの新卒研修でも彼は滑走路まで出向いていた。吾郎もそれに付き添ったから、彼が大佐嬢がきっかけで方向性を変えたというのはよく分かった。

「あのお嬢さんは、オヤジ達の『固定観念』を思わぬ切り口で、切り崩していくな。本当ハッとさせられた。実際に、ハヤトのクラスから試しに数人最終研修で受け入れたが、クラス分けなんて関係ないほど、むしろ自分達はAクラスではないという自覚と余計なプライドがない分、努力も人一倍、前向きだった。彼等の方がよっぽど教えたことの飲み込みが早かったからな」

 そしてクロードは急に……。吾郎を慈しむような目をサングラスの奥で滲ませ、見つめている。
 吾郎はふざけていた心を収め、神妙に彼からの優しい眼差しを受け止める。

「お前も、その一人だよ。既に現役整備士として働いていたキャリアもある、年齢も新卒研修生よりは上だ。それでも、彼等の中に彼等と同じ志で傲ることなく油断することなく、目の前にあることに真摯に取り組んでいる、溶け込んでいる姿に……俺は『彼女が選んだ男だ。間違いない』と思ったから、最終研修で呼び寄せたんだ」

 初めて……。彼が吾郎を呼び寄せてくれた理由を話してくれ、吾郎は驚いた。
 あの時は……。本当に、彼はサワムラという取り逃がした男の事を吾郎の向こうに投影させ、それが目的で選抜してくれたのだと思っていた。
 でも、本当はそんな理由もあったんだと。吾郎は、割り切ったつもり、理解をしたつもりだったのに、あの時の苦い思いが全て綺麗に立ち上っていったとこの時思うことが出来た。

 そしてクロードは何かを見据えたようにして、吾郎に言った。

「お前の素直さ、実力に繋がってきたな。彼女はきっとそこをお前に期待し、そしてきっとそれは間違いなくお前の為になると分かっていたんだ」

 そうだ。と、吾郎は思う。
 うだつの上がらない整備士としての平凡な日々。
 上の者達がそういうから、俺はきっとそこまでなんだと諦めていた。
 でも──。そう。そんな中でも自分の中で荒みきって投げやりな日々へと転がり落ちていくのは嫌だった。自分一人で出来る精一杯のことを小さくても良いからやってみた。

 あの雨の日──。

『警備から傘を借りてきましょう。お待ち下さい』
『いえいえ。構いません……』

 横浜の澤村精機社長を出迎えた時も、それはいつも吾郎が気遣っていることだった。
 ただの整備員なのだから、お前がそこまですることはないと先輩達に言い捨てられたこともあった。でも吾郎が最後に捨てたくないことがそこにあった。
 そうしたら、一人の若手幹部が吾郎をそれで見初めてくれていた。

『ご苦労様。私がエスコートしますわ。作業に戻って……』
『素晴らしい気遣いだったわ……。有り難う』

 噂通りの冷めた表情で、淡々と吾郎に礼を述べる彼女。
 声にも感情などは込められていなかった。でも……柔らかい声だった。
 たったそれだけ。その一度きり。
 でも彼女はその一瞬だけで『貴方、甲板要員になって私の手伝いをしてくれない』と声をかけてくれ、あっと言う間に吾郎は今ここに……。憧れの甲板の上で仕事をしている。憧れのメンテ員であるクロードの横で。

 涙が、出てきた。
 彼女のあの冷めた凛々しい横顔。なのにお転婆でお茶目なお嬢さんの顔。そして本当はとても優しい声に、目の色。 
 吾郎が涙を拭っているのを見て、クロードもなにを思い起こしているのか察してくれたらしく、そっと隣に寄り添って背中を叩いてくれた。

「予断は許さないようだが、彼女、意識は戻ったみたいで良かったな」
「は、はい……」

 そして彼がいつものキャプテンの顔に戻り、吾郎に言った。

「この新卒研修が終わったら、俺達は一ヶ月ほど地中海警備の航行に空母艦で任務に出るんだが……」
「そうでしたね。キャプテンのお手伝いが出来なくなるのは寂しくなりますが、その間にまた選んでもらった研修をこなして……」

 留守の間もしっかりと精進して待っていると、吾郎は言おうとしたのだが。クロードの顔がまたいつもの厳しい男の顔になっていた。
 なにかを言われる──。そう感じた吾郎はそこで口をつぐみ、師匠の言葉を待った。

「もう、研修はいい」
「え? しかし、もうキャプテンが選んでくれた物は申し込んでしまって……」
「俺が断っておく。お前は、俺達と一緒に実務の航行に行くんだ」

 え、と吾郎は固まった。
 それは何故? その時も彼のお手伝いとして付き添えと言うことなのかと思った。

 しかし、こういうことは予感も何もなく、本当にある日突然なのだと思わせる一言を、クロードが言い放った。

「俺のチームの一員として、実務航行に出るんだ。アシストでもなんでもない。お前も実務で着任するんだよ」

 言葉が出ない吾郎……。
 それはついに、彼の口から言わせたことになる瞬間だった。
 しかし、本当にこんな時がくるだなんて──。

「今度も、フジナミに言っておく。たぶん彼は小笠原に帰国させる義務があるだろうから、完全なる形では俺のところにお前をくれないだろうがね。しかしお前にとって初めての実務航行だ。それはそれで行かせてくれると思うから、お前もそのつもりで──」

 しかしここでクロードは、静かに吾郎に釘を刺してきた。

「ゴロー。そろそろ決着をつけろ。お嬢さん自身と連絡が取れるようになったその時に、もう一度、よく考えろ」

 え? よく考えろとは? と、吾郎は問い返したくなった。
 が、直ぐに分かり、吾郎はまた俯いた。

「行くぞ。カタパルトの発進が始まる」

 クロードはそれ以上の念押しはしないとばかりに、そのまま吾郎の隣から甲板へと走り出してしまった。

 吾郎は一人取り残されて思う。
 決着──。そんな言葉が出て来るだなんて思わなかった。
 そう、キャプテンはずうっと前から気が付いている。
 吾郎。お前は小笠原に帰るのか、それともマルセイユに残るのか。ここで新しいメンテ員としての仕事をやっていくのか。
 そんな中途半端な狭間で揺れていること。もうずっと、誤魔化し誤魔化し、このマルセイユに居座り続けているのだと。今までなら『修行』という名目でここにいさせてもらったが、もうそうも行かないとキャプテンは仄めかしているのだろう。
 もしここに残りたいなら、今度は小笠原との約束を捨て、マルセイユ部隊の隊員となることを選ばねばならない。そんな時期に来ているのだと。

 だが、今、小笠原に帰ってもどうなのだろう?
 葉月がいつコックピットに復帰するのか分からなくなってしまったではないか。

 だから? だからキャプテンはそれも念頭に『もう一度考え直せ』と言っているのだろうか。

 吾郎の目標は達成したにも等しい。
 初めての航行が終わらねば、キャプテンからの課題はすべてこなしたことにはならないから、まだ終わりではないが。それでもマルセイユ一のメンテチームの一員とならないかと、ついにクロードの口から言わせた。

 

 なのに。どうしてか、ちっとも嬉しくなかった。
 何故なのだろう?

 

 葉月との約束が、とても遠いものになった気がした。
 そして何処かで、とりあえずはまだマルセイユにいても良いのではないかという気持ちになってきていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 また春が巡ってきて、吾郎は一ヶ月間、空母艦に乗り込んで海への旅へと出かけることになった。
 その前に、恋人の彼女が吾郎の好物であるラタトゥイユのチキンソテーをご馳走してくれるというので、マンションへと向かった。

 合い鍵をもらって一年。吾郎はすっかり慣れた手で彼女の部屋の玄関の鍵を開けた。

「いらっしゃい、ゴロー。待っていたわよ」

 キッチンにいる彼女は、いつも女っぽい。
 今日は春らしい花柄プリントのワンピースに、白いエプロンをしていた。
 その彼女がキッチンで鍋の中を覗く姿に、吾郎は見とれていた……。そうしていると、なんだか本当に『奥さん』に見えてきてしまう。吾郎の勝手な想像。

「セシル……」

 まだ料理の途中の彼女を、後ろから抱きすくめる。

「なあに。まだよ。今日は白ワインを買ってきたから、先に開けて飲んでいて」
「好きだよ。アイシテイル」

 スキとアイシテイルが、どんな言葉かセシルはもう知っている。
 だから彼女は嬉しそうに肩越しに振り向いてくれた。

 だけれど吾郎は、何とも言えない不安と焦りと戦っていた。
 それを彼女には決して見せないよう。いつかのように不安に思わせないよう……。

 だから言ってしまう。
 肌を合わせる時間以外にも『アイシテイル』と言葉という形にして、彼女を捕まえたい為に。

 冷蔵庫を開けて、吾郎はワインボトルとグラス、そしてワインオープナーを手にしてテーブルに持っていく。
 冷えているワインのコルク栓を引き抜いて、並べたグラス二つにワインを注ぐ、ひとつは自分の手に、そしてもう一つはキッチンで手料理を作ってくれている愛する彼女に。

「ボナペティ。どうぞ召し上がれ」
「メルシー、ゴロー」

 キッチンでとりあえずの乾杯。二人でグラスを合わせて、一口。

「うん、美味い」

 以前なら、彼女の前ではなるべく意志疎通をしたいが為に、フランス語を心がけていたが、近頃はふいに日本語が出てくることも多くなった。
 そしてセシルも、吾郎が呟く日本語を一生懸命に覚えようとしてくれたのか、もう……吾郎がなにを呟いたのかだいたい分かるようになっていた。

「美味しかった? 良かった。吾郎は白が好きだものね」
「うん、口当たりがいいからね」

 吾郎は再度『いただきます』と恋人にグラスを掲げて、彼女の居場所である小さな白いソファーへと向かう。
 そこから見える小さな窓の、小さな景色を、吾郎は今夜も彼女になったような気分で、グラス片手に眺める。

 春の夕暮れ。石畳の街を行き交う人々。
 遠い船の汽笛。そして優しい潮風の夕べ。
 白ワインのグラスを傾け、吾郎は、そう……すっかりマルセイユの人間になりきっていた。

 グラスの向こうに見える、こことは違う『島の海』。
 それを吾郎は遠く遠く眺める。
 珊瑚礁の海はもう夢のような世界だった。

 先日、嬉しい報せが舞い込んできた。

 葉月と隼人があの災難の中、それを乗り越えるかのように療養先の病院内で家族だけの『結婚式』を挙げたと。
 二人が、あの一度は別れてしまった二人が、夫妻になったという報せ。
 あんなに愕然とさせられた不幸な報せの後に、こんなに喜ばしい報せがくるだなんて。

(まったく。お知らせまであのお嬢さんは、ジェットコースターに乗せてくれるんだな、俺達を……)

 吾郎は笑っていた。
 そしてホッとしていた。
 犯人も捕まったという報せも一緒にあり、葉月は常に側にいてくれた夫となった隼人と一緒に、もう小笠原に帰って職場復帰の準備をしているのだそうだ。

 彼女が、小笠原に戻ってきた。
 じゃあ、吾郎は──?

 セシルに、葉月と隼人が結婚したことは伝えて一緒に喜んだのだが。でも……葉月が小笠原に復帰するという話だけ、吾郎は省いてしまった。
 何故か……。葉月が襲われた事件を聞いた時、セシルは一度だけ『帰った方がよい』と吾郎に言ったことがある。その時は葉月が生きるか死ぬかという情報しかなく、だからセシルは『今、会いに行った方が良い』と思ってくれたのだ。吾郎もそれを思い描いた瞬間が確かにあった。しかしそのうちに葉月の意識が戻ったという報せが入ってきて、それからは藤波夫妻と共に焦れながらも、落ち着いた気持ちを持って慌てない判断をするように心がけてきた。
 そして結局、夫妻も吾郎も、海野中佐からの情報を頼りにしてフランスで待っているうちに、彼女は家族と共に療養をしているという方向に回復し安堵する日がやってきていた。
 でもセシルはどこか違っていた。

『そうよ。こんなふうに二度と会えなくなるかも知れない恐ろしい可能性って、本当にあるのだわ……』

 葉月が回復しているという話を聞いても、セシルはその度に青ざめていた。
 ハヅキという女の子が、自分が好きだった男性ハヤトを幸せにする女性。セシルはそれを良く知っているから、隼人だけじゃなく葉月のことも応援していた。そして同じく仕事をする女性としても話が合ったことがとても良い思い出になっているらしく、彼女にもいつかまた会いたいとセシルは常々口にしていた。
 だからこそ。葉月がいつどうなってしまうか。遠くにいる友人というのはそんな可能性も秘めている『恐ろしさ』というものをセシルは味わってしまったようだった。
 そしてそれは、彼女が今愛してくれている男性である吾郎にも。『ゴローも、そうよ。いつだってそんな気持ちでいないと駄目よ。やっぱり貴方はいつかは帰らなくちゃいけないわ』と……。ここ一年、そんな言葉は滅多に出てこなくなったのに、葉月の件があってセシルは久しぶりにそれを口にしていたのだ。

 だから、言いそびれた……。
 葉月が大佐室に復帰したと言えば、何に置いても愛しい彼女が『帰る時が来た』と言うような気がして……。

 まだ吾郎の心は揺れている。
 約束は果たしたい。でも葉月のコックピット復帰はいつかは判らない。だが帰れば澤村チームが待ってくれている。直ぐにだって小笠原の甲板を走れるはずだ。
 一方、クロードも諦めていない。『お前は俺が育てた男だ』と言ってくれるようになり、近頃は康夫のもとから引き抜こうと彼に猛攻撃をかけているとか。ここに残れば、航空部隊トップクラスのメンテチームに所属することだって出来る。
 そして、なによりも──!

 セシルと一緒にいることが出来る……!

 だがそれは彼女が一番望んでいない選択だとも吾郎は判っていた。

 

 まだ気持ちが決まらない。
 ……決まらない。
 なにか良い方法? ちっとも思いつかない。
 それともクロードが言ってくれたように、葉月が復帰した時だけ帰れば良いのではないか。いつか判らなくなった彼女のパイロットとしての復帰。その間は好きなことをしていても、きっと葉月は分かってくれる。そう思い始めていた。

 

『そんな男、嫌い』

 

 ふとそんな声が聞こえたような気がして、吾郎はハッと顔をあげる。
 気が付けば、ワイングラスがかなり傾いてこぼれそうになっていた。

「どうしたの? ゴロー。出来たわよ。さあ、食べましょう」

 テーブルにはいつもの愛らしい笑顔の恋人がいる。

「すっかり甲板メンテ員ね。ついに航海に出るだなんて、おめでとう」
「有難う、セシル。長い留守になるけれど、行ってくるよ」

 二人は再度、乾杯をする。

「いっぱい食べてね。航海中も、思い出してね」

 この味。そして、私のことを……。
 妙にしんみりと彼女が呟いたような気がした吾郎だが、彼女と目が合えば、いつだって吾郎を幸せにしてくれた笑顔がそこにあった。

 楽しい食事が終わっても、二人はいつものように沢山の会話を重ねる。
 でもそこに『小笠原』の話は出てこない。
 いつの間にか、笑顔の下には、言いたくて言えないことが積み重なっている。
 吾郎のそんな心苦しさは日に日に大きくなっていた。

 夜が更けて、キャンドルだけの灯りで食後のひとときを楽しんでいた部屋も暗くなる。
 白いソファーに座っていた吾郎の足下、そこでセシルは吾郎の膝小僧に頬を寄せ、グラスを傾けて、くつろいでいる。

「ゴロー、吾郎……。貴方の名前、漢字で書けるようになったわ」

 それを書いたメモ用紙を吾郎に渡してくれる。
 『岸本吾郎』と、拙い漢字が書かれている。なかなか綺麗に整った形で驚いた。そして最後にやっぱりハートのマーク。

「嬉しいな。これ大事にとっておかなくちゃ」
「うん。持っていてね。ずっとよ、ずっと」

 勿論と吾郎も微笑んだ。

「吾郎、アイシテル」
「セシル……」

「吾郎、今夜もいつものように朝までいっぱい愛して」

 うんと吾郎は頷いて、膝でくつろいでいる彼女の栗毛を指ですきながら、優しく頭を撫でる。
 夜灯りに透けるような彼女の優美な微笑み。伏せているまつげが微かに光を纏って輝いているように見えた。

「吾郎、いつものように優しく、愛して」
「いいよ」
「吾郎……。いつものように朝まで愛して、最後は力一杯抱きしめて……」

 いつになく求めてくるセシルに堪らなくなり、吾郎は彼女を抱き上げていつものベッドに向かった。

 いつもの彼女だと思っていた。その通りに、その夜の睦み合いだっていつも通りの彼女だった。微笑みも、吾郎を愛してくれる指先に、絡めてくる腕の柔らかさも……。
 後になって振り返れば、少しおかしかったと思えど。この時はなにも疑わなかった。

 次の朝、吾郎はいつも通りにマンションを出た。

「気をつけていってらっしゃい」
「帰ってきたら、直ぐに会いに来るよ」
「うん!」

 いつもの『また次ね』という再会を約束するキスでさえ、なんら変わらなかった。

 笑顔で吾郎を送り出してくれたセシル。
 後になってそれが彼女の精一杯の『普通』を装った決意だと気付かされることになる。

 この後、彼女が一人で号泣したことなど、吾郎は何も知らなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 一ヶ月後。地中海警備の航海任務から帰ってきて、真っ先にセシルのマンションに向かった。
 もらった合い鍵でいつものようにドアを開け、彼女の匂いがするリビングへと入った。

「お帰りなさい、吾郎」

 リビングには彼女が、いつもの白いソファーに、いつもの笑顔で待っていた。
 街路樹の木漏れ日が溢れているあの窓辺で、光の中、優美に微笑む彼女が吾郎を笑顔で迎えてくれた。
 この日セシルは、真っ白なモード系のワンピースでかっちりと決めていた。髪型も雑誌に出てくるモデルや映画女優のような優雅なアップスタイルで……。
 それが、どこかいつもの彼女と違っているように見えた。
 吾郎の前では、いつも肩の力を抜いた女性らしい格好をしていた彼女が。今日は美容室のオーナーにふさわしい、ファッショナブルな装い。

 だけれど、とても眩しく輝いている。

「待っていたのよ、吾郎」
「うん……。俺も早く会いたかったよ」
「日に焼けたわね」
「もうすぐ夏だから、甲板の照り返しはきつかったよ」

 吾郎は妙な空気を感じつつも、自分もいつもの自分であるよう彼女に帰ってきた報告を……。

「もう貴方は立派な甲板要員だわ。このまま小笠原に帰れば、ハヅキもハヤトもとても喜んでくれると思うわ」
「セシル……?」

 その時、吾郎は気が付いた。
 彼女が立ち上がったいつものソファーの影に、真っ白なスーツケースがひとつ置かれていることに……。

「セシル? どこか……へ?」

 漠然とした不安。
 部屋はいつものままなのに、そういえば、妙に物がなくなって綺麗になっている? セシルが生活してきた匂いが消えている? 片づけられた形跡がある?
 急にそう感じ始めた。
 途端に、とてつもない嫌な予感に見舞われた。
 そしてついに彼女が言った。

「私、パリに行くの」

 その一言で。
 深く愛し合った恋人のその一言で吾郎はあらゆる事を一遍に悟ってしまった!

「セシル……待ってくれ! まだ……」
「充分、愛し合ったわ。吾郎、アリガトウ。有難う。もういいのよ。ここで、お別れしよう」

 午後の日射しの中。真っ白な姿の彼女が頬に涙を……。

「サヨウナラ、ゴロー」

 茫然としている吾郎に、変わらぬ暖かみの指先で頬に触れ、彼女はいつものように、本当にいつものように吾郎の唇を強く塞いでくれた。
 でも、そこに彼女の熱い涙が落ちてきて、二人の唇を一緒に濡らした。

「セシル、セシル・・・俺はまだ……」

 しかし彼女はついにスーツケースを持って歩き出す。
 その腕を吾郎は掴んで、彼女を引き留める。当然だ! こんなの一方的すぎるじゃないか!

 だが彼女が大きな声で言った。

「私も終われないの! まだ夢を諦めていないの! だから……行かせて……!」

 悲痛な彼女の叫び。
 でも吾郎には判った。
 その声に、嘘はないと。

 

 

 

Update/2007.10.16
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