【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![11]

 力一杯掴んでいた彼女の細腕を、吾郎はそっと手放した。

 そこには彼女を見送るという気持ちが既に表れていた。
 いや、本当は手放したくなんかない! それが本心、強い強い本心!
 でも……。彼女を引き留めても、もう、なにも進展しないことを吾郎も悟ってしまったのだ。

 本当は放したくない手を、吾郎は放した……。

「夕方の列車なの。バスで駅まで……」
「そう……」

 言い合う気力が、そこでなくなった吾郎。
 きっと言い合っても、言い合っても、すれ違うことが目に見えていた。
 今までもそうだったが、彼女は吾郎なんかよりもずっと意志がはっきりしている。そんな彼女に前へと向かう気持ちをリードしてもらっていた節もあるほどに、彼女は意志の強い女性。そんな彼女も愛していた。

「じゃあ、見送るよ」
「アリガトウ。バス停までね……」

 パリ行きの特急が出る駅までは来て欲しくないという彼女の要望に、吾郎も頷く。
 吾郎はどこかふらつきそうな足下を、なんとか必死に踏み耐えるようにして歩き、彼女のスーツケースを手に取った。

 近くのバス停まで、彼女と歩く。

「店はすべてレイモンに引き継いだの。私はもうオーナーでもなんでもないのよ」
「レイモンに……? そこまで……」

 彼女が近頃忙殺していたのは、そのオーナーとしての引継の手続きをする為だったとセシルから今になって明かしてくれた。
 では、既にもう……。彼女はそんな前から、覚悟を決めていたのかと吾郎は驚かされた。
 そして秋に、同期生がコンテストで優勝したことがそれほどに根深いショックを与えていたことも、吾郎は気が付いていなかったのだ。
 なんて情けないことか……。しかし裏を返せば、セシルもそこは吾郎にも心を開いてくれなかったことになる。つまりそこには吾郎も踏み込むことも出来ない、彼女が自身と向き合った激しい戦いがあったと言うことだ。

 そして彼女セシルは、その戦いを残しているという気持ちで、マルセイユで築き上げてきた全てをなげうって、もう一度パリへ行くという。
 それはどこか、小笠原に帰らねばなにもかもピリオドにはならないという吾郎の今の気持ちにとてもよく似ていた。
 行かなくては終われないのに、ここで二人という関係が出来てしまった為に前に進めない。恋人になったばかりに……。このまま一緒にいてもいつか何処かで、恋の犠牲にした何かがあったことをお互いに後悔する日が来るかも知れない。逆に恋を犠牲にしようとしていることも後悔するかも知れない。
 だけれど、最初にそこだけは二人で約束していた。

 俺は帰るよ。
 それでもいいわ。

 だから始めた恋。
 そしてその恋は、捨てるなんて選択が出来なくなるほどに、素晴らしいもの……。
 吾郎の今までの人生の中で、最高に輝いた日々だった。

 でもそんな素晴らしい日々だったからこそ、始めがなんであったか忘れるような流される物にはしたくなかった。
 二人の気持ちはいつだってその『始め』があった。
 その『始め』にあった自分達に惹かれ合ったのだから、これからもお互いの愛した姿で居続けるのが……。

 ……それが彼女が望んでいる『愛』なのかと、吾郎は痛感した。

 今にも掠れそうな声で、吾郎はなんとか彼女と最後の会話を続けようと思った。

「パリでの仕事は? 決まっている?」
「まだ決まっていないし、どこかに勤めるとも決めていないわ。でもやることは決めているの……」

 吾郎は『コンテストだね』とそっと尋ねると、セシルは笑顔でこっくりと頷いてくれた。

「そっか……そうなんだ」

 何も言えなくなった。
 まだまだ引き留めたい気持ちがあるのに……。
 言えなくなった。引き留めることなど出来なかった。

 今日まで彼女は、甲板要員を目指す吾郎のことを、明るく元気いっぱいに応援してくれた。
 そんな彼女は既に成功者だと思っていた吾郎。でも彼女も自分の限界を決めつけずに、前へ行くと……しかも敗者復活戦の決意。それはどれほどの勇気がいることか。しかも築き上げた地位も美容室も丸ごと後輩達に託す為に潔く譲り手放し、自分は裸一貫でやり直すと言うのだから。
 その決意に、吾郎の女々しい気持ちなどで水を差したくなかった。彼女がそうしてくれたように、吾郎も……応援したい。それも本心。

 バス停に着くと、間もなくバスが姿を現した。
 別れを惜しむ間もない迫り来る瞬間に吾郎の胸ははり裂けそうだった。

「ごめんね、吾郎……。こうしなくちゃ私、負けそうだったわ。こんなやり方でごめんね……」

 涙をいっぱい瞳にためている彼女。
 吾郎は静かに首を振る……。

「俺も、きっと離れなかったと思うよ。セシル、もしかして……」

 もしかして……。ケジメをつけられない俺のために、セシルから一方的に切り離す辛い役目をかって出てくれたのか……。そう聞きたくなったが、吾郎は口をつぐんだ。

「バス、来たから」

 彼女ももう多くは言わない。
 二人で決めていたことだから、あれこれ言い訳も必要ない。
 二人の目の前に停車したバス。開いた扉に、セシルも躊躇わずにスーツケースと一緒にタラップに上った。
 吾郎もそれをただ……見ているだけに……なっている。そうなってしまうだなんて、自分でも心外……。

「一緒に、日本へ帰ろう……!」
「ゴ、吾郎──!」

 ただ見送るだなんて、やっぱり出来ない!
 タラップにあがった彼女の腕を、吾郎は力一杯に掴んでいた。

「俺は嫌だ。このまま離れても、セシルを忘れることなんか……っ」

 叫んだ──。なりふり構わずに叫んだ!
 セシルの手が震えているがわかった。彼女の顔も戸惑い……
 でも、その手を彼女から振り払われる!

 その途端だった。
 バスの扉がざあっと閉まり、二人の間を容赦なく隔ててしまった。

 ……バスの扉が隔てたんじゃない。
 彼女からその手を振り払った。

 バスはそんな恋人同士の別れなど知る訳もなく、ただたんに日常のまま走り出す。
 茫然としている吾郎の目の前を、ただ普通に日常の光景のまま走り出す。
 泣いている彼女を乗せて。

 最後の言葉はなかった。 
 でも吾郎の手に、鮮烈に残るものがある。
 それは彼女が、吾郎を突き放した力──。

 追いかける気力も、その鮮烈に残る感触に奪われ、吾郎はバス停に立ちつくす……。

 彼女を乗せたバスが角を曲がった。
 いつもの車のクラクション音、そして遠い船の汽笛。優しい潮風の音に包まれるだけ……。

「俺は……嫌だ。このまま離れても……忘れることなんか……」

 言いかけた言葉を、吾郎は繰り返す。

「……パリに行かないで、俺と日本に行こう。一緒に暮らそう」

 彼女に届かなかった言葉を、吾郎は石畳の舗道で一人呟き、最後に一言。

── Adieu. Ma cherie ── 

「さようなら、マ・シェリ。俺の初めての……」

 初めての恋人は初恋と同じで成就しないことが多いと、誰かが言っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼女がマルセイユを去ってから、暫く経ったある日。
 吾郎は、彼女の後輩である『レイモン』と共に、セシルが出ていった部屋にいた。

 レイモンは、セシルに替わって美容室マスカレードの新オーナーに就任。
 開店当時から彼女に信頼されてきた右腕。その後輩に、全てを任せて出ていったのだ。
 そして……。セシルの部屋のあらゆる物を処分するよう頼まれたのだそうだ。
 そんな彼はセシルと吾郎の恋仲も黙って見守っていてくれた一人だったせいか『気が向いたらで構わないのだけれど、良かったらゴローも手伝ってくれないか』と、誘いに来てくれたのだ。
 突然の別離を突きつけられた吾郎にとっては、別れた恋人の部屋に戻ると言うことは、ひどい感傷に見舞われることは分かりきっていることなのに……。しかしレイモンの『必要ないかも知れないけれど。もし……なにか、とっておきたいものがあれば』という言葉を聞いて、吾郎は未練がましくも別れた恋人の何かを探すようにレイモンの手伝いにと、彼女の部屋に来てしまった。

 彼女が出ていった日と変わらないままそこにある部屋。その部屋に入るなり、レイモンがあたりを見渡して呟いた。

「あんなに成功した女性なのに、店が上手く軌道に乗っても良いマンションに移ることもしないで……。彼女、マルセイユに帰ってきた頃のまま、ここで変わらずに暮らしていたんだよな」

 欲しい家具、家電、雑貨。店のスタッフで分けて、なんでも持っていっても良い。彼女がそう言い残して出ていったらしい。
 彼女と何度も愛し合ったベッドも、可愛い小物を並べていた小さなタンスも、食器棚も……残っている。だが、そんなセシルらしさがあまりにも強く感じてしまう為、スタッフの誰もが結局はなにも持っていかなかったとか……。以上に、全てを処分するのは忍びないというレイモン。それで最後に吾郎を思いきって呼び寄せてくれたようだ。

 吾郎も彼女がいなくなった部屋を見渡す。
 視線はある一カ所にしか留まらなかった。

「レイモン。俺、このソファーをもらっていくよ。これだけでいい……」
「わかった。じゃあ、車でゴローの部屋まで運ぶよ」

 これだけ……。しかし、このソファーになにもかもが凝縮されているような気がした。

 二人が座れば、それでいっぱいになってしまうほどの小さなソファー。
 吾郎がマルセイユに来る前から、彼女が座っていたソファー。
 あの窓辺で、誰も知らない自分と会話をしていただろう彼女だけの世界。それをある日から吾郎だけが垣間見るようになって……。

 ホテルアパートまで、レイモンが用意してくれた車で運んでくれた。
 最後、彼と別れる時になって、レイモンは忍びないとばかりに吾郎に言った。

「セシルはまだ……ゴローのこと、うんと愛していると思うんだ」

 その言葉に吾郎は過敏に反応し、それを全否定したいが為に、レイモンから顔を背ける。
 そして聞く耳持たないと言わんばかりに、背も向けた。

 否定したいほど、わかっている!
 彼女は俺を愛してくれた、そして、今だって……。
 吾郎のこの胸が張り裂けそうな思いと同じものを抱えて、パリにいるのだと。それも痛いほど分かっている!
 それに吾郎は、知っている。『愛していても別れてしまうことがある』。そんなどうしようもない結果がこの世に存在することを……知っている!
 それは自分の知り合いから痛感したこともあるし、果てには、自分の身をもって知ることになった。
 彼女が、そして俺も。まだまだ愛し合っていることは、別れる前と何ら変わらない。むしろ今の方がより一層その想いが深くなるばかり。
 分かっている。分かっているが、もう終わったのだ。それ以上、彼女の何を追い求めろと言うのだろうか……?

 それでもレイモンは続ける。

「俺にはわかるよ。彼女の側でずっと一緒に働いてきたんだから。ゴローが恋人になってからの彼女は本当にしあわせ、そ・・・う……」
「もういいんだ。やめてくれ!」

 だがレイモンはめげずに吾郎に向かってくる。

「彼女は、あんなふうな愛情表現をする女性なんだ。俺達の時もそうだったよ。自分の作品のことは後回し。パリでのコンテストでいい経験が出来るようにと、後輩達の手伝いにアドバイスばかりしていたんだ。だから、俺達は彼女の後を付いて、若い者だけの『マスカレード』で頑張ってこられたんだから! その彼女が……今度は本当に自分の為だけに頑張りたいと言いだしたら、どうして、今まで世話になった俺達が引き留めることが出来る?」

 そう、彼女はそんな女性だった。
 吾郎のことだって……。今回、小笠原に帰るように仕向ける為に、こんなふうに。勿論、自分の為もあっただろうが、彼女がこんなに勇気を振り絞って一から出直す決心をしたのは、吾郎と共にいると互いに前進出来ないほどの愛に溺れかけていたからなのだろう。二人で溺れる訳にはいかない。彼女は吾郎を抱きかけて、一緒に海面へ上昇しようと、こんな決意をしたに違いないのだから。

「俺達のオーナーは、今でも彼女しかいないと思っている。俺達、彼女が帰ってくることを信じているんだ」
「帰ってくる……?」
「ああ。だから、それまで『マスカレード』を潰さないよう、彼女の帰りを待つ。俺達残されたスタッフ全員の意志。いつかきっと彼女は帰ってくるよ」

 いつか? 待っていれば帰ってくる? そんなはずはない。
 吾郎は一人、心の中で言い切っていた。
 彼女の意思は強いのだから、もう戻ってこないし、吾郎がパリまで連れ戻しに行けばきっと逃げてしまう。何故なら、彼女がパリに行く決意をした理由のひとつが、吾郎に小笠原に帰ってもらうことなのだから。吾郎が葉月と隼人との約束を果たすまでは、きっと彼女は姿を現さないだろう。そして……小笠原に帰れば、彼女に会うことも姿をみることもなくなる。彼女は異国の人だから。
 だから、『いつか』はない。
 でもレイモンは、吾郎を畳み掛けるように続ける。

「だから……吾郎も諦めずに、俺達と帰ってくると信じて、待ってみないか?」

 待つ? いつまで? 吾郎がマルセイユに残っていれば、きっと彼女は怒るだろう。
 でも吾郎は逆に思う。
 いつになったら、彼女のことを忘れられると思う?
 そのことの方が皆無に近い気がしている。当分、彼女以外の女性など考えられない。
 それなら、彼が言うとおり、吾郎は忘れずに待っていると思う。

 しかし、このマルセイユでいつまでも待っていることが彼女の愛に応えることではない。
 急に悟った。目が覚めた……。

「そうだね、レイモン……。彼女はいつか帰ってくるだろうね」
「だろう! 俺達と待っていよう、ゴロー! きっと彼女は彼女なりの成功をおさめて、また凱旋してくるよ!」

 レイモンはとても嬉しそうだった。
 帰ってきた時に吾郎がいたら、彼女はきっと喜ぶと……。
 吾郎は何度も笑顔で『そうだね、そうだよな』と応えた。

 

 でも、違う。
 彼女の凱旋を信じている。
 だがマルセイユで待っていちゃいけない!

 吾郎の中で、彼女と愛した日々と彼女の最大の愛を無駄にしない為には、何が一番か……やっと気が付いた。

 そうだ。ここで失恋の感傷に浸っている場合じゃない!

 

 小さな部屋に新しく仲間入りした白いソファー
 彼女がそうしていたように、吾郎はそれを窓際に置いた。
 吾郎はそれにそっと座り込み、窓辺を見上げた。

 そうだ。帰ろう、小笠原に──。

 やっとそう思った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 小笠原にそろそろ帰りたい。
 そんな決意をいよいよ隊長である康夫に申し出ようと、吾郎はフジナミ本部へと足を向けた。

 ところが、彼の中佐室に入ると、そこには師匠のクロードがいて、康夫と向き合ってなにやら話し込んでいるところだった。

「キャプテン? どうしたのですか」

 珍しいな。他中隊所属の師匠が康夫のところにいるだなんて……と、思った。
 だが、キャプテンは吾郎を見るなり、さっと話を切り上げ、席を立ってしまった。

「また来る。考えておいてくれ」
「はあ……分かりました」

 なにやら康夫に念を押している師匠と、それをあまり気にそぐわないと言った顔で返事をしている康夫。
 二人の間で何が話し合われたかは分からないが、とにかく、クロードは吾郎の肩だけを叩いて、出て行ってしまった。

 師匠が出ていった後、康夫のあからさまな溜息。

「隊長、うちの師匠、なにか?」
「最近のあれだよ……」

 康夫が困ったように腕を組み、さらに大きな溜息を。

「お前を、チーム・クロードに正式にくれと」
「はあ、有り難いのですけれど……」

 それはここ最近、師匠が隊長に猛攻撃をしているというので吾郎も良く知っていたのだが……。

「連隊長まで、キシモトはここで育てたから、ここで活躍して欲しいと言っているそうだ」
「え! 連隊長が……!?」
「まあ、たぶん。クロードキャプテンが連隊長に『あの男は小笠原に帰したらもったいない』とでも吹き込んだんだろう。ただ、連隊長という後ろ盾が付いてきたとなると、俺としても、やりにくいことになってきたなあと……」

 つまり、クロードに先手をとられてしまったということ。彼は康夫より先に、連隊長のお墨付きのようなものをもらってしまったということになるらしい。
 流石に、マルセイユ部隊のトップである連隊長にそう出てこられると、吾郎もやりにくい……。
 しまった。やはりある程度の時点で決着をつけなかったから、こんな事態になってきたんだと吾郎は反省をした。それと同時に、なにか小笠原に帰れなくなるような事態を察したかのように、セシルが吾郎をこの時期に突き放してくれたのも、なんと素晴らしいタイミング? 彼女に感謝をしたくなってきた。
 そうだ。今、ここで抜け出さなくてはならない……! 吾郎はそれを康夫に言う。

「俺、小笠原に帰ろうと思っているんです。……彼女の、決意を無駄にしたくなくて……」
「吾郎、お前……」

 康夫も既にセシルが出ていったことを知っていた。
 吾郎から報告をした訳ではなく、雪江のところに『パリに行く』という連絡が出ていった日にあったそうなのだ。
 だから、その晩、彼は吾郎のことを心配して、ホテルアパートに様子を見に来てくれた程。一晩中のやけ酒を付き合ってくれていたから、良く知っていた。
 だから、吾郎がやっとセシルの為の決意を告げに来て、彼は驚いていた。だが……。

「よく言った。そうだな、セシルのお前の為の想いを無駄にしちゃいけない。俺も、そう思う」
「しかし……少しばかり長く居すぎましたね」
「そんなことはない。それはお前の目標だったのだろう? 見事にクロードキャプテンが『お前を欲しい』と言い出したのだから、メンテ員としては立派に成長した証拠。これほどの成果はないだろう。隼人兄がこれを知ったら、きっと喜ぶ。そして隼人兄も黙っちゃいないと思う。勿論、葉月もな……」

 しかしそこで『葉月』と口にした康夫が、また腕を組んで困った顔。

「はあ、しかし待てよ? 吾郎を取り返す為に葉月が乗り出すと、こりゃ、大騒ぎだな」
「大騒ぎって、大袈裟な……」
「なにを呑気なことを言っているんだ。葉月が本気になったら、世界中を巻き込んで大荒れ台風だっちゅーの」

 吾郎は『まさか』と笑い飛ばしたのだが……。

「シアトル湾岸部隊の艦隊に乗り込んで、不明機と接触なんかしちゃったじゃじゃ馬だぞ。フロリダ本部を巻き込んで、大型演習を小笠原でやろうと企てて、その準備をマルセイユ部隊を既に巻き込んでほぼ実現させてしまった大佐嬢だぞ。あいつ、『これは逃さない』と照準を定めたら、一直線。こっちにどんな形でも殴り込んでくるぞ」

 吾郎一人の為に? まさかと思ったが、いや、まて……。あのお嬢さんはこの平凡な俺を、本当にマルセイユに送り込んでくれた人。では、本当に『殴り込み』なんかやってくれちゃったら?

「うわーー! こわーーい! 俺、直ぐに帰ります、帰ります!!! 師匠と大佐嬢が激突するような大騒ぎだけはごめんですーー!!」
「落ち着け! いいか、吾郎! 葉月も今、復帰したばかりで動きにくかろう。ここは良きタイミングを俺達でこれから見定めよう」

 吾郎は二つ返事で、首をぶんぶんと縦に振った。

「よし。まだクロードキャプテンには『帰りたい』とは言わず、彼の指導に今まで通りに従っていてくれ。その間に、小笠原と密に連絡をとってタイミングを計るからな」
「分かりました。今、キャプテンを刺激すると、意固地になっちゃいそうですよね」
「そうだな。それに吾郎を熱心に育ててくれたのも確かだ。恩を踏みにじる訳じゃないが、そんなふうに誤解されないよう、お前も気をつけろよ」

 吾郎はそれにも胸の痛みが走った。
 恩を踏みにじる……。一歩間違えたら、ここまでのメンテ員に育ててくれたクロードを裏切ることに?
 いや、違う。それでも俺は行かねばならない! 師匠ならきっと、吾郎のこの気持ちを最後には分かってくれるはずだと信じたい。

「いいか、吾郎。帰ると言うことは、お前の最大の最終目標だったんだ。ここに来た時からな」
「そう……そうですよね」

 そして康夫からも最大の落雷が吾郎の脳天に落とされる。

「なによりも。セシルの思いを無駄にするな。彼女も今、パリで踏ん張っているんだから、お前も彼女をがっかりさせるようなことは絶対にするな! 俺も許さないからな!」

 彼女も今、パリで踏ん張っている──。
 その言葉を聞いて、吾郎の脳裏に、たった一人でハサミを握ってモデルに向かい合っている彼女が浮かんだ。きっとああじゃない、こうじゃないと、今まで以上の殻を破ろうと一人苦悩しながら戦っているはず……。
 その一言で吾郎は、どんなことにも囚われずに、自分も彼女に置いて行かれないようにと、一歩前に進みたくなる。

「勿論です。俺、彼女の為にも、彼女が願った男になりたいと思っています」

 そして康夫は『よく言った』と、笑顔を見せてくれる。

 この日から、吾郎が帰る準備が始まった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 甲板に出て、いつもと変わらずに吾郎はクロードの側にいた。

「ゴロー。これとこれ、今度受けておいて欲しい研修だから、申し込んでおけよ」
「はい、キャプテン」
「それから、夏組の新卒研修生の甲板最終実習がまたあるから、そのつもりでな」

 夏組の甲板実習──。
 その最終実習は夏の終わりにある。
 それまで、ここにいろということになってしまう……。
 しかし、今はと、吾郎は唇を噛みしめ、師匠に対して心苦しい想いを秘めながら『ウィ、キャプテン』と応えていた。

「どうした。近頃、元気がないな」
「いえ……」
「……恋人と別れたんだって?」

 ドキリとした。何故なら、彼には一度だってセシルの存在を話したことはないからだ。
 だがクロードはそんな吾郎を見て、大人の顔で穏やかに笑っているだけだった。

「いい恋だったのか?」

 そんな質問を、まさか甲板の上で、しかも師匠に聞かれるだなんて思わなかった。
 そして吾郎はそれには答えなかった。だが、クロードは吾郎の心の内をちゃんと知ってくれていた。

「お前、いい顔になったよ。だから俺は、お前がいい恋をしたと思っていたんだ」

 だから、お前はなにも間違ってなんかいない。
 師匠は笑って今の吾郎はその恋があったからこそと言ってくれている。
 もうちょっとで涙がこぼれそうになったが、吾郎は師匠から顔を背けて堪えた。

「俺は俺がしたいことをやっているだけだ。だから、お前もお前がやりたいことを真っ直ぐ馬鹿のままにやればいい。それが、俺が惚れ込んだサムライ。キシモトだからな」

 その向こうに、俺はここのトップメンテ員としてお前という男を引き留めたいからやっているが、お前が帰りたいと思うなら、それを貫け。と、陰に仄めかしているように思えた。

「キャプテン、俺……」

 青空の甲板。そこで金髪で強面でいるサングラスの師匠を吾郎は見上げた。
 彼はいつだって威風堂々と腕を組み、鋭い眼差しで甲板を見据えている。マルセイユ部隊、メンテ員達の憧れの男性だ。
 そんな男性の横にいられたこと、いさせてもらえたことは、本当にメンテ員として幸せなことなのだ。

「俺の師匠は、クロードキャプテンだけです。これからもずっと、ずっとです」

 それだけは言っておかねばと思った。

 クロードは、それを耳にしてただ僅かな微笑みの横顔を見せてくれただけだった。

「手加減はしないからな。俺も欲しい物は手に入れる性分なんでね。大佐嬢にもハヤトにも今回は譲らない気だ」

 その気持ちも、吾郎には嬉しかった。
 口ではそう言っているが、最後、この人は吾郎をその大きな手で見送ってくれるような気がしていた。

 

 そして暫くしたある日。ついに、ジャン先輩のところに澤村中佐から正式な申し入れがあった。

『岸本吾郎を、小笠原に帰して欲しい』

 しかしそこには衝撃的な報告もされていた。

『自身が甲板を降りる為に、早急に帰国させて欲しい』

 あの隼人が甲板を降りる──?
 それにも吾郎は衝撃を受けた。

 小笠原でなにかとんでもない激動が起きているような気がして……。

 

 

 そこで吾郎は思いきって、葉月にメールを送ってみた。
 『今、いったい……小笠原で何が起きているのだ』と。
 あの隼人が甲板を降りるだなんて、吾郎には予想もつかなかったし、彼の横でサポートできるほどのメンテ員になる為に修行をしてきたのだと……。
 しかし言い換えれば、吾郎は隼人以上の目標をここで見つけてしまったから、こんなことになったのではとも振り返っていた。

 

『吾郎君、お久しぶりです。いろいろと心配をかけてしまって申し訳なく思っています。確か、シアトル湾岸部隊と合流する……。そのメールを送って、それきりでしたね。
半年ほど、心配をさせたまま、なんの連絡もせずにごめんなさい。私は傷の痛みはまだありますが、もう小笠原に帰って四中隊の大佐室に復帰しています。今はまだ事務作業だけに専念しています。
藤波やジャルジェ少佐からいろいろと聞いているかと思いますが……』

 

 葉月からの返信には事細かく、自分が刺された訳に始まり、さらに隼人と結婚したこと。そして犯人が捕まったこと、さらには──。

 

『私の身体はもう、コックピットには戻れない身体になってしまいました』

 

 その一行を目にして、吾郎は息を止めた!
 密かに案じていたことが、本当になってしまった!!
 かなりの衝撃が走った。やはりその前に帰っていれば……、彼女との約束を果たせていたのではないかと……!
 だが、葉月のメールには続きがあった。

 

『ですが、私の今までのパイロット人生にはピリオドが必要だと思っています。前回にも吾郎君には伝えましたが、私にはパイロットになった理由があります』

 

 そこまで触れて、彼女は自分の今までの人生を大まかに吾郎に教えてくれた。
 十歳の時に降りかかってきた不幸。そして姉との死別。その後の荒れた人生。自分を傷つけることで生きてきた今までを──。
 そこに語られていることは、まるで彼女が勝手に作った『悲劇の物語』かと思うほどに、平凡に生きてきた吾郎には信じられないことばかりが綴られていた。
 だが……。二、三度読み返して、やっと呑み込めてきた。だから彼女はあんな冷たい横顔で、女性ながらにも誰もが『怖いもの知らず』と言うようになったパイロットになったのだと。彼女のあのパワーの中には、哀しみの中へ己を叩きつけてきたパワーもあったのだと知って、吾郎の目には涙が浮かんだほど……。
 さらに隼人が甲板を降りることになった理由も記されていた。若い頃から彼の夢であった工学開発の道を選ぶことになったのだと。それを知った吾郎は、ようやく彼の心は甲板にあったのではなく、目の前の戦闘機というメカにあったのだと知った。だから、クロードの再三の誘いも、彼にとっては魅力あるものではなかったのだと。彼にとってメンテ員というのは、メカを触ることが出来る現場に過ぎなかったのだと、納得することできた。

 

『彼は私とおなじく、甲板を降りますが、私を最後に飛ばすまでは完全に降りるつもりはないと言っています。だから、その日が来たならば、その時は彼も、あの真っ赤なメンテ服を着て貴方の側にいます』

 

 その時は、甲板と空を共にした人々と一緒に迎えたい。
 葉月はそう言っている。

 

『私にとっては哀しみも携えたコックピット人生でしたが、最後は愛するコックピットとしてお別れをしたいと思っています。だから、その時は吾郎君にも是非、一緒に甲板にいて欲しいのです……』

 

 吾郎の返事は決まっている。

 

「わかった。その最後のフライト。俺も絶対に、お嬢さんの側にいるよ。だって……そうだろう……」

 

 涙が溢れてきた。
 何故だ。何故。彼女はコックピットの中で憎しみと戦ってきた場所だったと言っているが、吾郎は違うと思う。彼女にとってコックピットは憎しみと立ち向かう為の『戦友』だったんだと吾郎は思う。だから、愛する形で最後を迎えたいと思っているのだ。そうでなければ、もう一度乗りたいなんて言わない。そんな哀しい場所ともう一度サヨナラをしたいなんて違う。愛しているから、サヨナラをしたいんだと。
 それだけ愛しているのに……。何故、彼女の唯一の誇りある場所を、セガワとかいう逮捕された男は刃で奪い取ったのかと……!

 それでも現実は、彼女とコックピットは別れを告げなくてはならなくなったのだ。
 彼女がサヨナラの儀式に、約束を残したままでいる吾郎には絶対に側にいて欲しいと言っているのだから……。

 吾郎はキーボードに向かう。

『お嬢さん、待っていてくれ。俺、帰るから。帰るから。お嬢さんがもう一度、空を飛ぶ時には俺もそこにいたいから!』

 今ここにある吾郎の全ては、なにもかもがじゃじゃ馬大佐嬢が原点だ。
 それを無視しての今後の前進は有り得ない!

 あと一回。たった一度。最初で最後。
 彼女との約束を果たすのは、その一回きり。
 それを逃しちゃいけない!
 もし逃してしまったら、吾郎がここまでやってきた全てを無駄にすることになる!
 それはもとい、離ればなれになってもお互いのことを想い合って前進しているセシルとの約束も果たせなくなることにもなる。

『帰るよ、帰るから!! だからお嬢さんも、コックピットを、あと一回のチャンスを勝ち取ってくれよ!』

 吾郎はそうしたためた。

 

 ただ葉月から、とても気になる一言があり、それが吾郎の心の中にいつまでも焼き付いていた。

 

『私の一番の誇りある場所は、コックピットだけではありません。コックピットはそのうちのひとつにしか過ぎません』

 彼女が傷つきながらも最後に見つけた『誇りある場所』。

『それは、この島。小笠原です。その中に吾郎君もいます』

 小笠原。
 それが彼女が一番大事にしているものだと判ったのだ、と記されていた。

 だとしたら、吾郎は……?

 

 その時、不思議と吾郎の中で浮かんだ誇りある場所。
 それは『マルセイユ』だった。
 自身でそれに気が付きながらも、吾郎は思う。

 葉月が長い旅をしたように、吾郎もまだ旅の途中。
 その中には別れもあり、そしてやらねばならぬこともあり、そしてその為には心とはうらはらの生き方を自ら選択することもある。最後に辿り着くまでは、まだまだ先は長いのだと……吾郎は葉月に教えてもらった気がしていた。

 吾郎は何度も葉月に言う。

「最初で最後のフライト。俺は絶対に行くよ」

 小笠原に帰る意志は既に固まっていた。
 吾郎の誇りある場所が、実は小笠原ではなく『マルセイユ』だと知ってしまっても……。
 吾郎の旅はまだまだ先がある。その旅は、一度はマルセイユを出て行かねばならない旅。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 クロードから『これは絶対に受けておけ』という研修を、吾郎は工学科の教官の下で続けていた。

「またゴローか。もう一年かね? 研修荒らしを始めてから」
「そうっすね。教官の研修、いくつ受けたかなあー」

 工学科の教官と、新しいシステムや器具、そして戦闘機に搭載する武器。さらには、社会情勢を知る為の時事研修など、様々な学習を経て顔見知りになっていた。
 特に、こちら。クロードと同世代の教官が受け持つ研修は、情報最先端を行くものばかり。だからクロードはこの教官が研修を開くたびに『行ってこい』と言う。

「まったく、大佐嬢が絡むと、フロリダもマルセイユも形無しのようだな」
「小笠原では、毎回、側近に補佐が吹っ飛ぶらしいですよ」
「目に見えるなあ。彼女の部下にはなりたくないねえ」

 教官が『俺は吹っ飛びたくない』と苦笑いをこぼした。

「そうだ。彼女からも私信の葉書が来たのだよ」

 そんな教官が、一枚の葉書をとりだした。

「これ、ヤスオに渡してくれないかね。彼女もきっと彼に直接出すのが恥ずかしかったんだと思うんだよね」

 教官がとりだした葉書は、富士山の絵葉書だった。
 吾郎は小首を傾げながらそれを受け取って、差出人の名前を確かめて息を呑んだ。
 『彼女』とは彼の元部下であった『高橋美津子』。吾郎が驚いて、教官の顔をみると彼もちょっと致し方ない緩い笑顔をみせただけ。

 そこには短いながらに、フランス語と日本語の二通りに綴られた文章がある。

「俺は、日本語は読めないから。だからきっとヤスオ宛だと思ってね。後で返してくれたらいいから……」
「分かりました……」

 吾郎はそれを受け取って、康夫の元に向かった。

 葉書には短くこうしたためてあった。

『長年、大変お世話になりました。いろいろな迷惑をかけましたが、最後にこのような私に次なる道へゆくお手伝いをしてくださった恩は忘れません。若い頃、大きく描いていた夢からだいぶかけ離れてしまいましたが、帰国した今、当然のことだと我が身を振り返っています。富士の麓にある工場内の研究室で、日々を過ごしています。都会ではありませんが、静かな自然に囲まれた町で、今の私には丁度良いと思っています。自分なりに新しい目標もみつけました。長年、己の至らなさで停滞させてしまった訳ですから、小さなところからもう一度積み立て直していきます。まだ、間に合うと言ってくれて有難う。そして私の最後の恋人にも感謝の気持ちが伝わると嬉しく思います』

 最後の恋人──。その一言に、吾郎はずきんと共感してしまっていた。
 きっと後にも先にもこのお姉さんは、隼人だけだったのだろう。彼をただ自分のものにしたくて、そして自分を見失った。そしていつまでも彼に執着して前に進めなかった。それだけ、好きだった。なのに上手く愛を伝えられずに違う方向へ向かうばかり。でもずうっと好きだったんだろうなと思った。
 そしてそれをもう伝えることが出来ないから……。素直でシンプルな想いを、彼に最後まで伝えられなかったから……。せめてもの想いが届くよう、一縷の望みを、最後の恋人と親しい康夫に託したのかと思った。それすらも無駄と思いながらもしたためた彼女の気持ちが……今の吾郎になら、痛いほど分かる。

「そっか。あの僻みお姉さんも、立ち直って頑張っているのかー」

 もう僻み妖怪さんとは言えなくなったようだ。
 富士山麓の澄み切った空気の中で、心の中に溜め込んだ泥水がどんどん浄化されるような生活を、心がやっと素直に穏やかになれる生活を見つけたんだなと吾郎は思った。そこにはもう、吾郎が知っている彼女はいない気がした。
 あの綺麗な顔で、心から素直に微笑んだなら、きっと素敵な女性なんだろうな……。
 吾郎の中に焼き付いていた僻み妖怪さんの般若のような顔が、どこかで見たような素敵な笑顔に変わった気がしていた。

 それを康夫に渡すと、彼も喜んでいた。
 ああ良かった。彼女がここで腐らなくて。彼はそう言っていた。
 吾郎もなんだか嬉しい。俺達の大好きなこの街が、ある人にとっては最悪の街で終わらなくて良かったと、そんな気持ち。

「次はお前だな。吾郎……」

 康夫は美津子からの葉書を見つめながら、ちょっと憂いある眼差しを見せた。

「お前も帰ってしまうのは寂しいが、こればかりはな」

 それを聞いてしまうと、吾郎も寂しい。
 彼とは出会った時から、向かうところは違っても、どこか遠い目標を互いに肩を並べて突き進んできた……そう、隊長じゃない、友人だった。
 彼の温かい家庭に通わせてもらった日々。隊長と部下と言いながらも、本当は同世代の男同士、笑いあったりどつきあったり。楽しい日々だった。

 そんな康夫に吾郎は聞いてみた。

「隊長の誇れる場所は、やっぱりここ、マルセイユなんだろうね」

 彼がちょっと驚いた顔をした。
 だが直ぐに笑って頷く。

「ああ、そうだぜ。俺はここで大きくなってきたんだから。そして俺と雪江が愛する街だよ。そして瞳もきっとな……」

 そして彼は言った。
 だから俺は、ここに来た日本人を最後には見送る。俺が見送ると。
 遠野もそう。隼人もそう。美津子もそう。そして……吾郎も。彼がここに来た日本人を迎えて、ここから彼が見送る。それがマルセイユに根を張っている日本人である彼の願い。

「俺もおなじっすよ。俺もマルセイユで大きくなってきたと思っているんです。小笠原ではなくて、ここ。だから、俺の心はこれからも、ずうっとマルセイユにあると思うんですよ」

 そして吾郎はさらに言う。

「俺の誇れる場所は、きっとずっと……死ぬまでここです」

 康夫は意外だったという顔をしていたが、後には直ぐに笑ってくれた。

「初めてかな。マルセイユに心を置く日本人は。あの隼人兄も最後は小笠原に行ってしまったから……」

 でも、彼は言う。『それでもお前は小笠原に帰れ』と。
 その意味は吾郎だけじゃない。セシルという女性を知っている友人は皆、その意味の大きさを知っていてくれた。

 だから、吾郎も頷く。
 俺は、小笠原に帰る──と。

 

 

 セシルが去った春が過ぎようとしていた。
 またクロードが選んでくれる研修を必死に回っているうちに、日々が過ぎていく。
 どうしてか、彼が『研修荒らしをやめろ』とアシスタントにしてくれたのに、彼のアシスタントをしながらも、今まで以上の研修を組んでくれているような気がしていた。
 しかし吾郎には好都合。やらねばならぬ事が集中してくれているおかげで、セシルのことに思い悩む暇もなく、また彼女の為にも俺もここを突き進んで行かねばという思いで、突進していた。
 これはもしかして? 師匠がわざとそうして? 吾郎が失恋の痛手を思い返さないほどに忙しくさせてくれているのかと思った。
 逆にこのスケジュールを知った康夫は『絶対にお前を小笠原に帰さない気だ!』とも言っていた。それほどに吾郎には、暇がない。次から次へとメンテの仕事と研修がクロードの手によって舞い込んでくる。

 そんなうちに、ついに隼人から『いつになったら、帰ってくる?』というメールが吾郎のもとにもやってきた。

 吾郎はその返事に困り果てた。
何故なら、『いつ』が的確に言えないほどに、クロードにスケジュールを埋め尽くされていたからだ。
 やはりこれって、師匠の陰謀??

 今度は小笠原が遠い世界。どうやら吾郎は動けない状態に追い込まれているようだった。

 

 

 

Update/2007.10.21
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