【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![3]

 ずうっと彼女の華麗な指先に見とれている。
 自分の髪がぱさりぱさりと軽やかに散っていく……。黒髪なのに、彼女のハサミから散っていく髪は何故かキラキラと煌めいている金髪にすら見えてしまう。
 今、彼女は吾郎の伸びきった黒髪をカットしている最中。

 椅子に落ち着くなり、戸惑っているばかりの吾郎に……。いや、抱きつかれた美女に、これから沢山触れられることに緊張している男。そんな吾郎に彼女の方から色々と話しかけてくれた。

「一目で判ったわよ。貴方がゴローだって」
「ど、どうしてなんだろう?」
「私、東洋人にはちょっとめざといのよ。お得意さまに、ヤスオもユキエもいるし、ずっと前にはハヤトもね。それに雰囲気がやっぱり基地の軍人さんだもの。あるのよね、独特の……こう生真面目にしているなにかがね」

 吾郎にはよく解らないが『そうなのかー』と思い、鏡に写る自分を『生真面目な基地の隊員』とはこうなのかとまじまじと見てしまっていた。
 それだけでなく……。ここは基地の男達も割と通ってくれるとかで、隼人もここの常連だった聞いて納得。あと、春の任務の時に、葉月もやってきてセシルがあのショートカットしたのだと。そんな思い出話を明るく喋るセシル。
 それで吾郎も、やっとわかる。隼人が常連だったから、フィリップもチケットをくれて、彼女も『隼人の後輩が来た』というニュースを耳にして吾郎が来ていることを知っていたのだと。その通りにセシルは、ここの受け付け事務をしているフィリップの奥さんに『ハヤトの後輩に渡すよう、フィリップに頼んでちょうだい』とお願いしていたそうなのだ。今日はその奥さんは二号店に出かけているとかで会えなかったが……。だから、セシルは吾郎がいつくるか待ち構えていたそうなのだ。

 そんな話をくるくると飽きることなく喋ってくれるセシルに、吾郎もすっかり肩の力が抜けていた。

「ハヅキが元気になったようで安心したわ。ここに初めて来た時は、怪我をしたばかりでね。痛々しかったから……」
「全然。彼女らしく、基地中を走り回って男達をあたふたさせていますよ」

 そういうと、セシルは『やっぱり彼女は、そうでなくっちゃ』と大笑い。

「ハヅキってあんまりお喋りじゃないけれど、目とか口元とか表情で沢山返事をしてくれているのよね」
「そうなんだ? 俺はまだそこまではわからなかったかな……」

 彼女は一回しか葉月には会ったことがないのに、そんなことを一度で解ってしまうのかと吾郎は驚いた。しかし、それも商売柄かと思う。直ぐに人を見てどのように接するか考えることも、または、その人の仕草一つにも配慮を巡らせる。それが彼女達の人があって初めて成り立つこの仕事への、大事なスタンスなのだろう。

「あ、でも。わかるな。彼女は確かにお喋りではないけれど、表情はあるよね。無感情って言われているけれど、近くで気をつけてみていれば、ちょっとのことだけれど、彼女の場合はすごく変化した表情に見えるよな……」
「そうそう! 私もそう思ったわ! 彼女はそれで充分よ。お喋りになる必要はないわって、私、言ったのよ。お喋りが上手だから魅力的ってことはないと思うのね。私としては──」
「あ、俺もそう思うー!」

 お互いの知り合いを通して、会話は思ったより弾んだ。吾郎も実は女性とこんなに話したことはないのに? なんでこんなに話せてしまったのかと不思議に思った。今の話にしても、普段はあまり喋らない大佐嬢がセシルとなら言葉を交わしたという様子が窺えたような気がする。でも、それはきっと商売柄だからだ……と、吾郎は思いながらも、やはりそれは気持ちの良いものだった。
 それに言葉が続かなくなった時も、彼女が作業に真剣になって黙り込んでしまった時も……。彼女のその仕事に打ち込む顔に、軽やかに舞う指先を見ているだけで……もう、吾郎には、素敵な時間……に、なってしまっていた。

「はい、おしまい! 小笠原の話が聞けて、嬉しかったわ。半年はいるのでしょう? またうちに来てね!」

 男のちょっと整えて欲しいと言うファッション性無しの『散髪』はあっと言う間に終わった。
 あたりを見渡せば、一緒に来た若青年達も終わっている。

「あ、なんかゴロー、格好良くなっているぞ!」
「なんだよ。そういうエミル達は、随分格好つけたじゃないか」

 せっかく来た『美容室』。若い彼等は存分に美容師に相談して、イマドキの髪にしてセットしてもらったよう。吾郎よりずっと男前に仕上がっていた。

「また来てね、メルシー!」

 セシルに見送られ、あっと言う間に『オサレな時間』は終了。
 でも若い彼等はとても満足した様子で、うきうきとした足取りで帰りの道へと向かい始める。
 吾郎は何度か、あの赤い店に振り返ってしまう……。もう、彼女の姿は店の中で見えなくなってしまった。

「いいな〜ゴロー。俺も今度はあの美人のオーナーにやってもらいたいよ〜」
「なんでゴローに抱きついたんだよ〜」

 若い彼等にじっとりとした視線で羨ましがられ、吾郎も苦笑い。
 そんなの……たぶん……小笠原の隼人先輩のお陰だろう?? と、思う?
 するとエミルが言った。

「なんでもあの店のラッキーアイテム? なんだってさ。黒髪が……。何でかな〜と思ってさ。俺をカットしてくれた美容師の兄ちゃんに聞いたら、オーナーに聞かないと解らないって彼が言っていたよ。オーナーが好きなんじゃないの? 黒髪」

 すると周りにいる彼等が吾郎のさっぱりとした黒髪をじいっと眺める。フランス人に黒髪もいるが、エミルと吾郎のこのグループでは吾郎だけが黒髪。『くっそー。黒髪か!』と、自分達の栗毛に金髪を恨めしそうにがりがりとかき始める。

「なんだよ。日本では栗毛に金髪の方が羨ましいって言われると思うぞー」
「俺、日本に行く!」
「俺も行く!!」

 調子の良い彼等の騒々しさに、吾郎はたじろぎながらも、エミルと笑いながら基地へと帰った。

 

 その夜。吾郎は風呂上がりに鏡に映る自分を見ていた。
 彼女が触れてくれた黒髪の先をなんどもつまんで……。

「活き活きと働いている女性って格好良いな」

 なんといっても表情が素敵だった……。
 と、そこまで思って吾郎は改めて頬を染める。

「いや! 俺はここに修行に来ているんだ。駄目だ、駄目だ、駄目だ!!」

 と、言いながらも──。ベッドに潜り込んでも、彼女と何を話したかを何度も思い返している男が一人。
 何度も『俺はここには残らない人間なんだから』と呟きつつ……。解っていた。彼女は高嶺の花。そしてただの客の一人。さらに、女性に慣れていない男だから、ちょっとのことで舞い上がっているだけなのだと。エミル達のような二十歳そこそこの若さなら舞い上がるままに突っ走ってしまうこともあるだろうが、たとえ吾郎に免疫がないとしてもこの歳になれば自分自身を少しは冷静に見ることが出来ると吾郎は思っている。これはただ単に綺麗な女性と触れあう機会がたまたまあったから喜んでいるだけなのだと。解っている、それだけのことなのだと! ……の、はずなのに。なんだかセシルの顔ばかりが浮かぶようになってしまった。

 目がギンギンしちゃって、眠れないのも気のせい?

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 それから数日、吾郎は気が付く。
 たった数日で、恋煩いだと気が付いた。
 鮮烈に思い返すのは、彼女が一直線に走ってきて抱きついてくれたところで、あの甘い香りがここにはないはずなのに吾郎の鼻を掠めていく。やはり一目惚れだったのだと思う。

 ああ、遠い話だと思っていたけれど、一目惚れってこんなに衝撃的だったんだなあと。
 やっかいなものを抱えてしまったと思うところは、惚れたの一つで一直線に突っ走れない三十路の男の心。そう、やっかいなものということにも同時に気が付いてしまった吾郎。
 というのも……。今後、彼女に猛進してどうなるというのだろう? 小笠原だったならともかく、ここは研修に来ているマルセイユじゃないか。半年もすれば、吾郎はここからいなくなる。万が一? 恋が成就しても、哀しい別れしか待っていないじゃないか。と吾郎は気が付いた。
 聞けば、彼女はここの界隈ではあの年齢でビジネスで成功した女性として有名人だとか。吾郎より一つ年上の彼女があそこまで成功しているのに、それを捨てて『俺についてこい!』だなんて、日本男児なセリフをぶっぱなすことは吾郎には、出来ない……。

「あーー! でも、彼女のことばかり浮かぶんだーーー! 一目惚れってめちゃくちゃ残酷ーー! ちっきしょー、どうしてくれるんだーー」

 講義室の隅っこで一人苦悩している吾郎を、エミル達は『ここのところ吾郎が日本語でなにか叫んでいるけど、わけわかんねー』とちょっと遠巻きにしている。

「おーい、ゴロー。大丈夫かーー。メシ、行こう。ランチ!」

 彼等の遠くからの誘いに吾郎は切り替え素早く『行く』と、すっくとデスクから立ち上がる。
 恋はしても、腹が減っては戦は出来ぬ。午後もみっちりと体力作りのクラスと、車庫でホーネット整備の実習だ。まず吾郎が戦うべきはそこだ、そこ。

「なあ、ゴロー。ちょっとで良いから日本語とか日本の事とか教えてくれよ。俺もフランスの事もいっぱい教えるからさ」

 彼なりの『一人で悩むなよ』という意味らしい。

「メルシー、エミル。ああ、でも大丈夫。大人の男の苦悩をちこっとだけな」
「なんだよ、大人って! ちぇ、どうせ俺達は新卒のガキだよ、ガキ。いいぜ、ゴローの苦悩なんか、俺ももう知らねえー」
「あはは! 苦悩なんかしていないって。心配してくれて有難うな!」

 皆の中では頼りがいある男としてリーダー的な存在のエミル。彼は確かに他の青年達よりちょっと大人びている。
 吾郎と対等でいたいという気持ちも時に垣間見る。だから、彼はこうして拗ねてしまっている。でも、吾郎にはそこがまだ可愛らしくみえてしまう。どんなに自分より身体が大きい異国の青年でも、毎日傍にいれば、表情はやっぱり年相応だった。しかも空軍訓練校で精進してきた彼等はより一層に、異性と出会うチャンスが少ない。そこは吾郎と一緒だった。

 今日もカフェの隅っこで、先輩達に遠慮しながらのランチ。

「うげ、ゴロー。あのガミガミ大尉も来ているぞ。関わらないよう、気をつけようぜ。皆、目を合わすな!」

 エミル達がずうっと遠くの窓際に、あの『高橋大尉』を発見。
 彼女もこちらをチラッと見たが、今日はツンとされてしまった。まあ、いいけれど……と、吾郎もツン。
 もうあの『ひがみ妖怪さん』とは一言も交わしたくないので、あんな顔されてもこっちも好都合と、吾郎は心の中でアッカンベーだ。

 でも、あの大尉の顔を見て、彼女に強烈にひがまれている葉月のことが自動的に思い浮かんでしまった。
 彼女、どうしているかな。連絡用にメールアドレスはもらっているし、吾郎もノートパソコンを持ってきて宿舎でオンラインにできる手続きも済んでいたが、一度もメールは送っていない。と、言うのも……彼女がくれたメールアドレスは、大佐室のアドレスだったからだ。つまり『仕事用』。なにか困ったことがあったら遠慮なく……と葉月は言ってくれたが、そうとなれば、やっぱり『研修のこと以外』で送信してはいけないのだろうと吾郎は思っているし、そうすべきだと思っている。
 その代わり、隼人からは一週間に一度、届く。それには研修でなにをしているかとか、どの過程にいるかとか、あとはマルセイユ基地での生活についての当たり障りのない感想などを少し……。そんなことを送信している。ただ、藤波康夫のことや、ひがみ妖怪のことは伝えない。隼人は身近な先輩お兄さんという人だが、きちんと正せば、立派な上官だ。そういうことはビジネスとして吾郎は書くべきではないと思っている。それに……向こうも聞いてこない。仲の良かった康夫がどうしてるかとか、そんなこと。そこは隼人も自分の個人的な付き合いの範囲として、自分で連絡を取っているのだろう。吾郎としても『もし聞いてこられたら、どう答えよう?』と構えていたのに、それが解っているかのように隼人は見事にその話題はスルーしているのだから。
 それでも、ちょっと……。あの颯爽としたお転婆さんのエネルギーが恋しくなってきた。彼女に抜擢されマルセイユへと発つまでのほんの少しの間だったけれど、彼女と『これからこうなりたいね』と同級生の気持ちで話し合ったあの感覚は、今ここにいる吾郎にとってエネルギーの素みたいなもの。それがちょっと最近、ガス欠気味かなと……。
 そんなところに、こんな嵐のような恋心。ボク、どうなってしまうのでしょうね……?
 しかしそこで吾郎は思い改める。

 行くんだ。チーム・クロードに。
 それを葉月への土産にして、そしてここにいた澤村中佐にも認めてもらい、新しくできたサワムラメンテチームで遅れて入った者でも認めてもらうんだと。
 そして葉月の機体をとばし、隼人の一番のアシスタントになってみたい……。勿論、大それたことを思い描いているのは分かっている。でも、それがあればこそ!!

 ほら、エネルギーが湧いてきた!
 吾郎は異国での生活に自分自身で何度も発破をかける。

 そうして若い彼等と食事をしていると、カフェの入り口から白いメンテ服を着込んでいるメンテチームの一行が、午前の訓練を終えてぞろぞろと入ってきた。
 ジャルジェチームだった。彼等は一斉に食事が並んでいるワゴンに並んで賑やかだった。そんな中、一番に食事を取り揃えたキャプテンのジャンが、吾郎を見つけてやってきた。

「よう、ゴロー。だいぶ頑張っているって教官から聞いたぞ」
「メルシー、ジャルジェ少佐」
「今日は俺の所に来る日だろ。忘れるなよ! じゃあな」

 一週間に一度、ジャンのところに顔を見せに行くことになっている。
 隼人のメールと同じく、ジャンにも研修クラスで過ごしている感想などを報告したり今後についての話をしたりする。
 でも、彼には『高橋大尉』のことは報告しておいた。勿論、隼人には知らせていないことも報告。彼も『そうだな。隼人はもう関係ないから言わないで欲しい』と言った。恋人だったということだけ、ジャンから聞かされる。吾郎はがっかりだったが、聞けば、やはり二十代のころは綺麗で優秀で可愛いところもそれなりにあったとか。ジャンは『美人でもあの性格だと、年増になった時が悲惨だよな〜』と一言。女性には綺麗に歳を取ってもらいたいね……と、吾郎も彼女を見ればそう思う。

 あれから皆が言うところの魔女である『ひがみ妖怪さん』との接触はなし。このように彼女ももう吾郎には寄ってこない。
 しかし、藤波中佐の姿もちっとも見ることが出来なかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その日の夕方。全ての講義と実習と訓練が終わってから約束通りにキャプテンを訪ねる。
 この週も何事もなく終えようとしていることを報告した。

「順調だな。ゴローの場合、滑走路整備員という下地があるから吸収力が良いと教官も……。それから周りの新卒研修生達に対しても、実務経験をしている先輩としての吾郎の手際は良い影響になっていると言っていた」
「そうですか。いえ、彼等には異国での生活面でとても助けてもらっていますから、俺の経験がちょっとでも参考になったら嬉しいです」

 本当にエミル達には元気づけてもらっている。
 日本の訓練校ではそれほど感じなかったものを吾郎はこの歳で感じている──『同期生』という言葉。
 そんなことをしんみりと感じていると、目の前のジャン先輩もとっても微笑ましいと言いたげな穏和な笑顔。

「なんか懐かしいな。俺とハヤトもそうだったんだよな〜。あいつはまだここの生活に慣れていなくて、言葉も英語の方がまだ主体で。でも成績は抜群に良くて、俺なんか試験の時はハヤトがいないとからきしで、でも合宿の時なんかは俺がいないとハヤトはフランス人の中にいられないんだ。お互いに補って……というのかな。ハヤトがいるのが当たり前だったから、あいつが出ていくことは、いつかはと覚悟していたけど、マジで寂しかったよ。でも暫くしたら、あいつどこにいても俺とのことはちっとも変わらないものだったと分かったからさ。小笠原でもマルセイユでも。俺達は変わらない。そう思える同期生がいたこと、俺は幸せに思うよ」

 彼もしみじみと話してくれる。そして吾郎もエミル達のことを思うと、既に胸ジーンなお話。泣きそうになってしまった。

「うっ。なんだか沢山思い返してしまったじゃないか〜。うー、ハヤトの馬鹿野郎〜」

 あれ、やっぱりキャプテンの方が先に涙もろく崩れてしまっているので、吾郎の泣きそうな気持ちは苦笑いに変身。本当に人情味温かい人だなあと思う。

「いいですね。離れていても傍にいられるような気持ちにまでなれるって」
「それだけ『同期生』っていうのは苦楽を共にするもんなんだよ。でもって、ライバルだったりしてな」

 ああ、そういうのいいな〜と、吾郎は思いつつも……。

「でも、恋はそうはいかないっすよね〜」

 なんて、つい……口にしてしまっていた。
 すると目の前のおせっかいそうな先輩が、吾郎をじっと見つめている。
 吾郎ははっと我に返った。

「お前、まさか、ここで既に……イイコを見つけたとか言うなよ」
「い、言いませんよ。言いません!」

 なんて既に手遅れだけれど、まだ間に合うと吾郎は言い聞かせる。
 だが、この先輩がちょっと思わぬ事を言った。

「いいか。恋は大いにしろ! どんな恋でも、どう転ぶか分からないだろう? あのハヤトとお嬢さんのように。諦めずになんでもトライ! ただな……」

 ん? 恋はしていいけれど、何がマズイのでしょう?? と、なんだか真剣なジャン先輩のちょっと考え込む姿に、吾郎は耳を傾け『どうしたのですか』と先を急かした。

「ただな。このマルセイユにはゴローにとって『キモン』ってもんがあるだろう?」
「キモン?」

 それってフランス語でどういう意味ですか? と、尋ね返すとジャン先輩が真剣な顔を吾郎に近づけて言った。

「オニの門で『キモン』だ。『鬼』って東洋独特の怪物だろ。その鬼の門ってこと。お前、日本人なのに知らないのか?」
「なんで『鬼門』を知っているんですか? フランス語の中にそこ一言だけ、さりげなく日本語を混ぜないでくださいよ!」
「ハヤトがよく言っていたんだ。『あっちは鬼門だから行かない』と。元々は悪い方角のことを指しているが、行ったら良くないことがあるという意味でもあるらしいな。まあ、俺が言いたいのはそういうことだ」

 恋と鬼門がどういう関係なのでしょう??
 吾郎が困った顔で固まっていると、ジャンがとんでもないことを言い出した。

「まずゴローにとっての鬼門は、あのタカハシ魔女な。まあ、こいつに恋をすることはないだろう」
「とんでもないっすよ! しかも俺よりさんざん年上じゃないっすか!!」
「歳なんか関係あるか。十歳年上でも魅力的な女はいっぱいいるぞ! でも、あいつは論外だ」

 そりゃそうだ。んな、分かりきった鬼門の忠告なんていらないとばかりに吾郎はいきり立ったのだが、ジャンは『話はこれからだ!』と吾郎を黙らせる。
 そして彼はいきなり吾郎の黒髪を指さした。

「お前、散髪に行ったな。セシルの所だろう」

 今度の吾郎はぎょっと固まった。

「ど、どうして判るんです?」
「判るさ。まず、基地の理容室ではそんな洒落たカットはしない。さらにゴローが来たなら、フィリップ夫妻が黙っちゃいない。ゴローはハヤトの後輩だからな。絶対に嫁さんのニナ経由で割引チケットが行く。そうするとゴローはせっかくだからセシルの所に行く。そしてセシルもハヤトの後輩が来たと聞けば、絶対に会いたいと言う。だからゴローが来るのを心待ちにしている。そしてゴローはその『先輩ハヤトの恩恵の引力』で、セシルの美容室『マスカレード』に行った。どうだ?」
「正解です……。でも、それと鬼門がなにか?」

 すると、ジャンは吾郎をまたじいっと何かを確かめるように見つめていたかと思うと、はっきりと言った。

「セシルはハヤトの『モトカノ』だ。な、恋をするには結構な鬼門だろう?」

 吾郎の中にすごい音がゴーンと響き渡った!!

「さらに言うと、ここ界隈でハヤトのお手つきが数人いるので要注意。と言ってももうこっちの方は皆、結婚したり恋人がいたり、軍を退官していたりだから、セシル以外は大丈夫だろうと思うけれどな」

 だが、既に吾郎は真っ白──。
 ジャンには勿論言えないが、『俺、その鬼門をくぐっちゃいました』と、吾郎の心は一気に大雨模様。

 あっと言う間の、失恋……?

 いや、失恋じゃない!
 だって彼女は今、恋人がいるかどうかも分からなくて、その澤村中佐とは既に終わっているんだ……!

 でも、ショック。じゃあ、ボクは先輩の、いいや、上官のモトカノに一目惚れしちゃったんですか??
 なるほど? あの中佐。フランスでそれだけ鍛えたなら、男には妙に素っ気ないあの鉄壁お嬢さんを陥落させたのも頷けると吾郎。
 その鬼門。早く知りたかった……。でも、既に遅し。
 必死に叫びたい気持ちを堪えたのだが、吾郎のあたふたしたその表情で、ジャン先輩には既にばれちゃった模様。
 彼の深い溜息。そしてジャン先輩がこれまた親切なのか意地悪なのか、吾郎を揺れに揺らすことを言い出す。

「だよな。彼女、ここ数年でいい女になったもんな〜。鬼門、いっちゃったか。まあ、でも彼女今、フリーだし」
「そ、そうなんですか!?」

 そこは素早く食い付いた吾郎に、ジャンはとっても哀れむような目を……。

「というか。俺も最近気が付いたんだけれど。彼女はやっぱりハヤトが忘れられないのじゃないかなと。あの美容室で忙しいことを恋人が出来ない理由にしているけどな。彼女、ハヤト以上の男はいないって酒で酔った時に言っていたからなあ〜。恋しても良いけど、お前、大変だぞ。あれは──」

 その言葉にも吾郎は真っ白け。
 それではなんですか? 万が一俺と彼女が恋し合っても、二人は別れる運命どころか、俺達が愛し合う前には、そんなに巨大な見えない『敵』がいるんですか?
 しかも、小笠原でもやり手の青年中佐へと遂げたあの先輩が、見えぬライバルだって?
 吾郎は『だめ、勝ち目ない』と、脱力。

「まあまあ。既に遅しなら仕方がない。どうなるかはともかく、ぶつかってみても損はないかも知れないぞ? 遠慮する相手など誰もいないじゃないか。恋は恋なんだから、恋しておけよ」
「そ、そんな。お、俺はここには半年しかいない訳だし。む、無責任なこと、俺は出来ませんっ。もう、いいです!」

 ジャンは『素直じゃないな。そういうところ、妙にハヤトに似ている』と言ってくれたが、吾郎の中で暫くは『ハヤト先輩』は禁句になりそう。そして吾郎の心はもう『サヨナラ、セシル』。俺はやっぱりチーム・クロードのことだけ考えて、さっさと小笠原に帰るんだと、志を……無理矢理改める。
 これで良かったんだと吾郎は思う。これで『やっかいな恋心』に煩わされなくて済むじゃないかと……

 ジャンと別れた後も、吾郎は丁度いいやいっ! と、ふてくされながら寄宿舎に帰った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そうそう、単なる一時の気の迷い。そうだ、そうだ気の迷い。
 それに髪が伸びなければ、彼女に会うことだってない。……本当は、早く伸びろと呪文をかけていたけれど、もう、それもしなくても良いだろう? それにどうやったら彼女に会えるのか等々、そんな叶いもしない妄想もしなくても良い。
 あー、これで本当にメンテ修行に打ち込める! 短い一目惚れの恋だったけれど、まあ、こんな経験は中学の時にもあったさ……。と、吾郎はそう思いながら『俺って中学以降、そういうのなかったんだ』と逆にショックを受ける。だからこそ、あんな綺麗な女性に抱きつかれて舞い上がってしまったのだと。やはりそうなのだ。俺は単に慣れていないから刺激が強くて舞い上がっただけなのだ。と、結論づけた。

「なあ、吾郎。最近、食欲減っただろう? おかしいぞ」

 益々エミルが心配している。

「かもしれない。だってな、やっぱり俺にとっては異国なんだよ」
「日本食が置いてあるマルシェを知っているぜ。今日の夕方、外出許可をもらって買い出しに行こうぜ。ゴロー、ホームシックの時期なんだよ」

 エミルの気遣いに、吾郎はじーんとしてしまう。
 日本食なんか今まで興味がなかっただろうに……。きっと調べてくれたんだと吾郎は察した。
 本当の理由は、ホームシックではないが。今日食べているハッシュドポテトも最初は『うまい、うまい』と大喜びで食べていたが、近頃は日本食がいっさいないということがどういうことなのか身に染みてきた気もする。エミルが言うとおりに、それも元気がなくなっていく原因なのかも知れないと吾郎は思った。

「そうだな。じゃあ、付き合ってもらおうかな」
「行こう、行こう! 俺、最近、日本のこと、いっぱいネットで調べているんだ。すっげー面白いの。俺にも日本食、美味いの教えてくれよ」

 吾郎は彼に『勿論』と、やっと元気が湧く笑顔を見せることが出来た。
 その方が気分転換になるだろうと吾郎も基地の外はまだ怖々だが、彼等が一緒ならなんとか。それにそこを知っておけば、これからも買い出しが出来るだろうし。と、そんな風に、同期生達と盛り上がっていた時だった。

「そんなことだろうと思った」

 妙にどっしりとした声が聞こえたと思って振り返ると、そこにはずっと姿を見ることが出来なかった康夫が立っていた。

「隣、いいか?」

 相変わらずのぼさっとした風貌だけれど、その目は中佐の威厳ばっちり。
 吾郎どころか、サムライファンである同期生達の方が、ほいほいと席を空け、康夫は吾郎の隣に座った。

「これ、うちの嫁さんがお前にってさ」

 吾郎の目の前に、ドンと花柄の大判ナフキンで包まれている物を置かれた。

「え? 奥さんがですか? 俺、会ったことないのに……?」
「まあまあ。開けてみろよ」

 ニンマリと意味深な笑みをこぼす康夫を不思議に思いながら、吾郎はその包みを開いた。
 そこには、海苔に巻かれた握り飯数個と、納豆と漬け物が!

「わわわ!!! 俺、食いたかったんです〜!」
「だろう、だろう! この握り飯三つ、梅干しとおかかと昆布な。納豆と漬け物は嫁さんの自家製なんだ!」
「自家製、すっげーー! うう、もう、俺、いただいちゃいます!」
「おー! どんどん食え!」

 吾郎は後先構わずに、握り飯を頬張った。
 ああ、海苔の香りに、飯の匂いに、そして梅干しの、このすっぱーーい味! なんだか枯れた土に水が染みこんでいくような、うるうるになっていく感触。

「うわー、感激ーー! 中佐、有難うございます!」
「なんの。うちの嫁さんが、お前が来ていること気にしていてさ。きっとそろそろだから持っていけって言ってくれたんだ」
「会ったこともないのに。ご挨拶だって……」
「関係あるか。同じ日本人だろ。うちの嫁さんはこの国で育ってきたからともかく、俺なんかも二週間ぐらいで、かなり来たからな。俺、納豆、めっちゃ好きだし」

 吾郎はこの時、本当にこの中佐の下に来て良かったと思った。
 有り難く、握り飯を頬張り、添えてあった割り箸を使って納豆をかき混ぜた。
 すると物珍しそうに見ていた同期生達が、ちょっと困った顔。

「ゴ、ゴロー……。それ、なんだ」
「ナットウだよ。日本人には欠かせないもんだよ。ですよね、中佐」
「そうだ。俺は朝飯にこれがないと死ぬんだ」

 死ぬは大袈裟なと吾郎は笑ったのだが、同期生達はかなりひ引いた顔で後ずさっている。

「死ぬって……。フジナミ隊長、死ぬんですか? 俺、この匂いの方が死にそうです!」
「ああ、だって。『腐った豆』だから」

 康夫がカラッとした笑顔で言うと、エミル達は益々恐れをなして遠ざかっていく。

「なーんだよ。お前達だって、くっさいチーズ食っているじゃないか〜。それと一緒だ。これも日本の立派な発酵食品だ。健康食品として注目されているんだぞ」

 吾郎は『そうだ、そうだ』と言いながら、納豆をかき込んだ。
 でもそうして吾郎が納豆を動かすたびに、エミル達は遠くへ遠くへ。ついには『俺、お先に!』と逃げ出した者まで。

「自家製、うっまーーい!」
「だろう! 俺、日本に帰っても嫁さんのしか食わねーもん」
「店、出せるーー!!」
「わはは! 嫁さんに言っておく。すっげー喜ぶよ。今度は、味噌汁な。うちまで飲みに来いよ!」

 彼に豪快に背中を叩かれる。だが吾郎は『味噌汁』という言葉にまた食欲が湧いてしまった。
 それに今日の彼はとっても明るい。これが本来の彼なのかと、吾郎は急に、しんみりとさせられる。
 そしてやっと……。ここ数日、ジムに来ていないことを尋ねてみた。

「あの、最近……ジムに来ていませんよね」

 皆が心配していることも一言添えると、彼はちょっと疲れた溜息で頬杖を付いた。

「うん、まあ。中佐室でどうしてもやっておきたいことに没頭していたんだ。別にそれだけのこと。また行く」
「そうだったんですか。良かった……」

 パイロットのボリスが心配していたような『ヤケ』などになっていなくて、ほっと一安心。
 すると頬杖を付いている康夫が、漬け物をかじっている吾郎を上から下までじろじろと見ていた。

「な、なんでしょう?」
「一ヶ月ぐらいか? 基礎体力づくりを始めたのは」
「そうですね。そろそろ一ヶ月かな?」

 きつい毎日だったが、その度に吾郎は『チーム・クロード』を唱えてきた。
 近頃はほんの少し、楽になった気がしていた。それでもまだ、きついことばかりだが。
 そんな吾郎の身体のあちこちを、康夫が叩き始める。

「だいぶ、引き締まってきたか。いい具合だな……。やはり陸教官の基礎訓練が功を奏しているか」
「きっついですけどねー。陸の教官にしごかれるのは訓練校以来だから、めっちゃ厳しいしきついけれど……」

 そこまで言って、吾郎はついに康夫に言ってしまった。

「……俺、『チーム・クロード』の研修生に選ばれたいんです」

 どうしてこの先輩に言ってしまったのかは吾郎にも分からない。
 でも、誰かにその目標を聞いてもらいたかったのかも知れない。一人で胸の奥で誓っているだけだと、なんだか重苦しく、そして簡単に諦めそうになるから……。
 すると案の定、隣にいる康夫がとても驚いた顔をした。そして……とても複雑そうな苦い表情にも……。

「あ、大それいているって分かっているんですよ。俺が配属された研修クラスもBクラスだし……。マルセイユ訓練生達も、自分達には無理だって……」
「いや。無理なものか。駄目だと思っても、大それていると思っても、その大きな目標があればこそ、少しでも近づこうとする力が生まれるからより一層前進できるというものだ。それでいい。流石、葉月が選んだ男だ。安心した」

 康夫は急に頼もしい顔に引き締まり、吾郎を激励してくれた。
 それにしては、なんとも苦い複雑そうな顔だったけれど、それがどういう意味だったのかと吾郎は思ってしまったが、それを忘れさせるぐらいに、彼は強く後押しをしてくれる。

「だったら、岸本。もっと良いことを教えてやる」
「な、なんでしょう?」
「お前を送り出してくれた隼人兄、そして同期生のジャンは、新卒空母研修の時に当時のトップチームであった『チーム・セルジュ』に受け入れてもらって本入隊している。それだけじゃない。隼人兄はその後、そのトップチームの研修がある度に申し込んで受けていた。そしてセルジュのサブをしていたクロードがキャプテンになった時、隼人兄をメンテ員として欲しいと言われた。けれど、隼人兄はそれを断っている。その後も何度も、引き抜きの話があった」

 吾郎の中でまた『ハヤト先輩』の偉大な功績が立ちはだかった!
 あの人、やっぱり只者じゃなかった!!

「でも、隼人兄は他にやりたいこと、ええっと工学関係かな。それがあるから、断り続けていたんだ。俺も何度も断った。だけれど、隼人兄のあの勉強心というのかな。メンテ員としても工学人としても。とにかくどっちも探求心は人一倍旺盛だったな。あの兄さんにとっては、トップチームに在籍したいじゃなくて、トップチームで得られる物だけが目的だった訳だ」

 吾郎の中で、なにかがブルブルと震え始めていた。
 このマルセイユに来てからというもの、吾郎が行く先々には必ずこの先輩がいる。しかも彼が大きく立ちはだかるかのように……。吾郎が見つけた物を掠め取っていくかのように、彼が既に手にしているのだ。

「隼人兄の完璧なアシストになりたいなら、それぐらいの目標があって当然というところだったわけだ。安心したし、小笠原の二人が推して、送り出したこともこれで納得した。応援するから、頑張れよ」

 そうしてまた康夫に背を叩かれ、激励される。
 吾郎の中で、なにかがぼうっと燃え上がった。

「はい、中佐。必ず……!」

 テーブルの下、誰にも見えないところで、吾郎はその拳をぎゅうっと握りしめていた。
 もう、チーム・クロードしかない! そう心は決まった。

「そっか……。岸本は既にそこまで考えていたのか……」

 また、彼がちょっと情けないように背を丸め、項垂れている。

「中佐? あの……」
「いや。……俺も、いつまでもな。ほんっとう、なんていうか。葉月に感謝するよ」

 何が言いたいのか。彼の気持ちを上手く察することが出来なくて、吾郎はなんと言葉を返せばいいのか分からない。
 その康夫が『葉月のやつ、俺の目の前にこんな燃える男を送り込んできやがって……』と、小さく呟いていたのは吾郎には聞こえなかった。
 そして彼も拳を握っていたことも……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 日本食が置いてあるマーケットも、覚えた。
 そしてエミル達に、口に合う日本食も紹介した。
 マルセイユでの生活も徐々に慣れてきた。

「なあ、マルゴ。女性にちょっとした御礼でお返しするなら、なにがいいのだろう?」

 今日もジムで彼女と一緒にランニングマシーン。
 そんなことをこぼすと、彼女がちょっと驚いた顔。

「なに、ゴロー。貴方、もう、イイコができちゃったの?」

 それ、今はかなり禁句。
 もう諦めたからいいけれどと思いつつも、吾郎はちょっとふてくされた。

「違う。藤波中佐の産休中の奥さんが、会ったこともない俺のこと気遣ってくれて、日本食の差し入れをくれたんだ。旦那さんの中佐がわざわざ持ってきてくれて。だから俺、ちょっとでもいいからお返ししたいなと。その奥さんにね。俺さあ、日本でも女性に贈り物とかしたことないんだよね」
「はあ、なるほどね。ユキエにってことね。それなら簡単よ!」

 簡単と言ってくれたマルゴが渡してくれたのは彼女が書いてくれた『地図』だった。
 翌日の夕方。吾郎はそれを握りしめて、早速その店に行くことに。これまた距離があるのだが、ボリスが自転車を貸してくれた。

『ユキエはここのレモンパイが好きだし、今は子育てでなかなか行けないとぼやいていたから、持っていったら喜ぶわよ〜』

 ということらしく、吾郎は彼女のアドバイスに従って、その『レモンパイ』の店へと向かった。

「おー! いいところじゃん〜」

 石垣の小径の坂。直ぐ側は海。
 マルセイユらしい地中海の絶景を眺めながら、石畳の小径を自転車で上っていくと、小さなレストランを発見。
 そこのレモンパイはテイクアウトはないらしいのだが、予約をすれば作ってくれるようになったとか。今回はマルゴが予約をしてくれたので、それを取りに行く。

「はー。こんな異国の景色の中、恋人とデートしてみてえ〜」

 なんてぼやきながら自転車を店の前に停める。
 その時、あっさりと諦めたはずのセシルの顔が浮かんでしまった……。勿論、吾郎は『一時の気の迷い、煩悩だ』と振り払う。

「ボンジュール」

 その店に入るなり、レジにいた小柄な初老の男性が、吾郎を一目見て満面の笑顔で立ち上がった。

「君がゴローかい?」
「はい」
「マルゴから聞いているよ。嬉しいね。またここに日本人の青年が来てくれるだなんて。ハヤトもここの常連だったんだよ。あのお嬢さんも元気かな?」

 げ。またここでも『亡霊ハヤト』が出現。
 本当にもう、あの人、どこにでもいるんだなと吾郎は溜息が出てきた。 
 でも……あの人らしい。何処に行っても、彼は懐かしく思い返され、マルセイユの人々に愛されているのだと……。やはり尊敬できる先輩だと思った。

「澤村中佐も大活躍ですし、お嬢さんも、お転婆なまま元気いっぱいにやっていますよ。それにお二人の仲もなかなかだし」
「そうかい、そうかい! 思い出すよ〜。あの二人がねえ。このレモンパイを食べて、なんだかしんみりと『さようなら』らしき話をしていた夕べのことをね。でも、そのあと上手くいったみたいで……。最初に二人で来た時からお似合いだと思っていたんだよね、おじさんは。まあ、ハヤトがこなくなったは寂しいけれどね」

 そんなご主人の懐かしそうな思い出話。
 あの二人も、一緒になるまでは色々あったのかなと思わせる話だった。

「でもハヤトだけじゃないね。ここのレモンパイは沢山の恋人達が食べていったよ。ユキエもね。ヤスオとよく食べに来ていたよ。妊娠してから、いいや……ヤスオが任務から帰還してからずっと来ていないからね。気にしていたけれど、ここのを食べたいと思ってくれていると知って嬉しかったよ」
「そうでしたか。だったら、僕にとっても良い御礼になりそうで嬉しいです」

 小さなレストランのご主人も『うんうん』と嬉しそうに頷きながら、用意してくれていたレモンパイを箱に詰めてくれた。
 さあ、それを持って帰ろうとドアに振り返った時だった。

「ゴローじゃない!」

 そこには、もう会うこともないだろうと……。いや、本当はもう一度会いたいと思っていた女性が立っていた。
 黒いスーツ姿。そしてスタイリッシュな巻き毛にしている栗毛の女性。水色のきらきらと輝く瞳の──。

「セシル……」

 彼女はやっぱり、ゴローに輝く笑顔を見せてくれる。
 ああ、やっぱり胸ドキュン……。ある意味、彼女の方が魔法使いの魔女さんなのかもと、心の中の吾郎君人形はいとも簡単に卒倒転倒していた。

 

 

 

Update/2007.9.16
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