【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![4]

「恋人パイを買いに来たの?」

 吾郎が持っている箱を見て、セシルは笑顔でそう言った。

「恋人パイ?」
「そうよ。それ、別名恋人パイ。ここに沢山の恋人達が食べに来たから」
「そうなんだ。マスターもそう言っていたな」

 彼女は『でしょう』と笑った。
 またその笑顔が店で見た笑顔と変わらない。きっと彼女にとってはなにもかもが自然体で、人を明るくさせる女性なのだと吾郎は思った。

「おじさん、私のも出来ている?」
「ああ、あるよ。セシルも大好物だね。いつも有難う」

 颯爽としたタイトスカートの黒スーツ姿。背筋をピンと伸ばしている後ろ姿も凛として格好良く、洒落た小さなハンドバッグから財布を取り出す動きまで彼女はテキパキしている。何事も一生懸命、兎にも角にも邁進してきたという彼女の生き方がそこに現れているような気がした吾郎。

「久しぶりのテイクアウトだね。忙しそうだけれど、セシルの顔が見られて嬉しいよ」
「メルシー、おじさん。私は元気よ。また時間が出来たらここにくるわね」

 吾郎の時と同じように丁寧にレモンパイを箱詰めするマスターと、楽しそうに会話する彼女。
 本当に彼女は、誰と接しても明るくて気さくで……そして分け隔てないのだなと、そんな人柄が分かってきて、吾郎はつい微笑んでしまっていた。
 しかしそんな吾郎を直撃するひとことをマスターが……。

「それにしても久しぶりのテイクアウトとは……いい人と食べるのかな。恋人パイ」

 彼女も『え!』と驚いた顔。
 そして吾郎の心はざわざわと落ち着きなく小波が立っていたところに、大きな波が盛り上がり始めた。確か、ジャン先輩は『今はフリー』と言っていた! でも? それはだいぶ前の話で、最近になって恋人が出来たとか?? などと己の中で必死に否定したい吾郎の耳は、もうマスターとセシルの会話に釘付けになる。
 だが次に聞こえたのは、吾郎も聞いたことがある軽やかな笑い声。

「やーね! おじさんったら。確かに買いに来たのは恋人パイだけれど、独り身の女だって食べるわよ。独り身女は食べちゃ駄目ってこと? そんなことを言うと、もう注文しないから!」
「悪い、悪い。ついね。でも一人で食べるのかい?」
「そーよ。家に帰ってからのお楽しみ。数日かけてワイン片手に食べるの。唯一の楽しみよ。いけない?」

 ツンとした彼女の横顔。
 でも、吾郎はとりあえずほっとし、心の中に起きた大波もすうっと穏やかな小波に戻ってくれた。……いや、待てよ? と、吾郎は自分の胸に手を当てて思う。 俺、諦めたはずなのに……! ほっとしてしまった自分を吾郎は呪ってしまった。
 しかし、目の前にはまたはつらつとした笑顔で気さくに話しかけてくれる彼女がいた。

「ゴローは、どうして買いに来たの? 恋人パイって知らないで……」

 まだここに来たばかりの自分だから、彼女は吾郎に恋人がいるとは思ってはいないだろうけれど、それでも吾郎は照れながら彼女に買いに来た理由を教える。

「俺は、マダム=フジナミへのプレゼント。日本食の差し入れをしてくれたんだ。その御礼になにがいいだろうと思っていたら、マダムの同僚がここのパイが好物だからそれが良いと教えてくれたんだ」
「じゃあ、ユキエの為に買いに来たの?」
「うん。雪江さんもここのパイが好きらしいか」
「でしょう! 恋人パイと名付けられているけれど、ここのパイを好きな女性はいっぱいいるんだから! 私も無性に食べたくなる時があるの〜。それで今日ね、注文していたの」

 ああ、じゃあ……彼女が『一人で食べる』と言っていることは本当なのだと、吾郎は思った。
 そうしてまたほっとしている自分に気が付き、やはり一目惚れの威力に驚き、そして思ったよりも彼女が心の中に根深く浸透し始めていることを自覚してしまう。
 そして今、吾郎の目の前には、その一目で気に入ってしまったはつらつとした笑顔に、輝く水色の瞳がある。

「ゴローと同じ日に注文していたなんて、偶然ね」
「ああ、そうだね。俺も驚いたよ」

 その笑顔と眼差しで、そんなに無邪気な少女のように話しかけられると、もう吾郎には逃げる術はないように思えた。
 そんな彼女の瞳を覗いてしまう。なんの邪気もない……綺麗な水色の。そこに既に吸い込まれそうになっている男が紛れもなくここにいる。

「自転車で来たの?」
「うん。知り合いが貸してくれたんだ。基地から歩いては来られないからね。セシルは?」
「私は坂の下まで車よ。ここ道狭いし、駐車場ちっちゃいし。いつも坂は歩いてくるの」

 気が付けば二人一緒に店の外に出て、吾郎が自転車を動かし始めると一緒に歩いていた。
 地中海の夕暮れ。古き石垣に囲まれている海辺の街。そこを憧れの女性と歩いていた……。
 もうこうなると、つい先ほどまで諦めようだなんて思っていたことは……簡単に消えてしまう。

「やっぱりゴローは、ハヅキとハヤトのところから来たって感じね」
「どういうこと?」
「んー。なんていうのかな。もう協力してくれる友人が出来ているってこと。まだそんなに長くないでしょう? パイを教えてくれたり予約してくれたり、自転車を貸してくれたり……。そんなふうに信頼してくれる人が出来るのって、ハヤトと一緒だなあと思ったの。そんなハヤトが惚れ込んだハヅキも、いろいろな話を聞いているうちに、ああ、ハヤトがここを出ていった訳わかるな〜と納得できるほど、彼女はいろいろな人を見ているのよね。ゴローを見て、私も思ったもの。彼女が選んだ男性だから、きっと信頼性のある男性なのねって」

 褒めてくれているのだろうけれど、今の吾郎には素直に喜べない言葉。
 彼女の恋人だった男性と似ているってことだろうか? だとしても、本当のところは似ているどころか、全てはその先輩の恩恵だった。皆が『ハヤトの後輩、お嬢さんが抜擢した男』という目で吾郎を見ているから、その二人に接するように親切にしてくれるのだと、ここ最近ずうっとそれを感じずにはいられなかった。だから、それだけの男なのに……。
 でもそんなことを語る彼女の横顔がいつのまにか……。夕日の中よけいに寂しそうに見えた。その向こうにはやはり『ハヤト』がいるのだろうか……。
 既に隼人との過去を知っていることは、まだここでは吾郎は言えないのだが、かなり複雑な心境だった。
 でも、そんなふうに黙り込んでいる吾郎に、セシルがぱっと言い放った。

「私、ハヤトと一年ほど付き合っていた時期があったの。つまり元彼女ね。知っていた?」
「え! ……えええっと。そ、そ、そうだったんだ!?」

 いとも簡単に告げられて、知らない振りをしていた吾郎は飛び上がるほど驚いた。
 だから彼女も吾郎は初めて知ったと思ってくれただろう。彼女はその笑顔のまま、吾郎に次々と教えてくれた。

「でもね、私とハヤトが付き合っていたのはだいぶ昔なの。私、美容師学校の学生だったから、まだまだ子供だったのよね」
「学生のときに? つまり二十歳ぐらいかな」
「うん。ハヤトも今よりずっと若かったわよ。でも、私にはパリに行きたい願望が強かったから、一年で別れたの。ハヤトがね『パリに行くべきだ。成功するまで帰ってくるな』って見送ってくれたの。彼のこと大好きだったし、一緒にいる時間はとっても楽しくて……今でも一番の想い出。でもね、今の私があるのはあの時ハヤトが見送ってくれたから。そしてここに帰ってきてからも、友達がいっぱいいるハヤトが友人として側にいてくれたからなの」

 そんなことも明るく話してくれるセシル。
 でも、先ほどの夕日の中寂しく見えた横顔が、本当の彼女なのではないかと吾郎は思ってしまう。
 もう終わったことだからこそ、葉月とも会えたのだろうし、こうして吾郎にも会いたかったと言ってくれるのだと思う。でも、きっと想い出は消えないに違いない。彼女の中で『忘れられない想い出』というのは確かのよう……。だから吾郎は、彼女が気になってしまうこの男は、おこがましいが彼女に尋ねてしまっていた。

「澤村中佐のこと、忘れられない……?」

 彼女が少し驚いた顔。
 自転車を引きながら俯いている吾郎の顔を、ちょっと覗き込むようにして意外そうな顔。でも笑顔で答えてくれる。

「うん。忘れられない。でも、それは最高の想い出としてね。そして、友人として、ね。別れてからも私、いっぱい助けてもらったの。今のお店が繁盛したのも、最初はハヤトの沢山の知り合いが来てくれたからなの。とっても頼りがいある男性だったわよ。ある意味、恩人なの」
「そうなんだ……。だよな、あの先輩、小笠原でも色々な人に囲まれて頼られていたもんな」
「でしょう。ああ、でも彼が日本に帰っても、変わっていないって聞いて嬉しいわ」

 本当に隼人のことが好きだったんだなと……。敵わない先輩ではあるけれど、このようにして女性の中で生き続けていける男性はすごいなと思った。だからこそ、彼女もさらりと口にすることができる『終わったけれど宝物』として、爽やかな形で残すことが出来たのだろうなと思った。

「ゴローは、恋人はいるの? 日本に置いてきて彼女は泣いたりしなかった? あ、半年の我慢だからって言ってこっちにきたの?」
「え、い、いないよ。いるわけないだろう!? 俺なんか」
「どうして? ゴローだって一人や二人いそうだなって私は思っていたけれど?」

 唐突な質問に吾郎はどっきり。自分だったら聞きたいのに聞けないことを、本当に彼女はさらりと口にしている。
 それも裏表を感じさせないその自然さは、商売柄なのか、彼女の性格なのか、こちらのお国柄なのか、とにかく本当にさらっと滑り込んできて、やや奥手な吾郎には本当に驚き。そして、そんな吾郎の重たい口も彼女はさらっと開けてしまう。

「い、いないよ! 小笠原って本当に離島なんだ。東京都ではあるのだけれど、東京から大阪までの距離ぐらいに離れに離れている島なんだ。基地の中だけの生活で、出会いなんてこれっぽっちも」
「トウキョウとオオサカ? 距離感が分からないけれど、とにかく本当に遠い島ってことなのね。いいな〜南の島!」
「うん、海は抜群に綺麗だ。珊瑚礁の……。でも、俺、ここに来て良かったよ。地中海もすごく綺麗だ」

 そして二人はいつの間にか、石垣の向こうの夕暮れを一緒に眺めていた。

「でも、私もみてみたい。オガサワラ……」

 ぽつんと呟いたセシルの横顔が、また……。
 そのオガサワラに思い馳せている今の彼女の目の前には、やはりあの中佐の笑顔があるのだと吾郎は思った。
 そう思えて仕方がない。
 やはり彼女にとっては、最高の想い出である以上、最高の恋人だったのだろうな……と、吾郎はこの既成事実に対してはどうすることも出来ないのだと痛感する。

 やがて、狭い道幅の坂も終わりに来た。
 そこには白いワーゲンが停まっていた。

「セシルの車? 可愛いな」
「うん。学生の頃から、ワーゲンに乗りたかったの。今度、ゴローも乗せてあげるわよ」

 またまた、そういう罪のない顔でさらっと言うんだなと、吾郎は嬉しいやら素直に喜べないやらで妙な笑い顔になっていたと思う。だから吾郎は単に『メルシー』と返しただけ。その先を進める勇気もなく、断る勇気もなく……。
 そんな吾郎を分かっているのか分かっていないのか、またもやナチュラルな彼女がさらっと言った。

「ねえ、ゴロー。明日、うちにおいでよ」
「え!? なんで!!?」

 フ、フランスの女性って積極的!?
 もう吾郎はどうして良いか分からなくなってしまった。
 日本男児の胸の内でたった一人きり、大波小波で大騒ぎなんかなんのその、あちら様からさらりと言ってくる。
 それってどういうこと? 俺に興味がある? それともそれがフランス流のフレンドリー? でもここが日本だったら『ちょっと君、男を家に誘うにはよく考えた方が良いよ。それってかなり誤解を招くよ』という注意を言いたいところ。
 でも彼女はあのナチュラルな笑顔で、レモンパイの箱を掲げていた。

「だってそれ、ゴローはユキエにあげちゃうのでしょう? だったら私の食べにおいでよ。おじさんのパイを食べずに小笠原には帰さないわよ」

 え、でもそれって本当はどんな意味?
 え、でもそれが『君らしさ』?

 でも恋する男は……そんな疑問があれど、目の前にある恋しちゃった彼女の眼差しに笑顔にその軽やかで甘い声には勝てないのである。

 吾郎は『ウィ』と頷いてしまっていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 なーんだか、ふわりんこ。
 自転車で基地に帰ってきたはいいが、吾郎の頬はずうっと火照っていた。

 初めてのデート?
 しかも、彼女の部屋で?
 しかも、しかも。『アムール(愛)の国』とかいう『おふらんす』で!
 フランスの女性ってどうなのかなー。どうくるのかなー。どうしたらいいのかなーー。はっと吾郎は我に返る。おそらく今の顔は、かなりにやけたやばい顔だったはず。

 夕暮れで人もまばらになった部隊。そこに帰ってきて吾郎はボリスが自転車を停めている駐輪場に返しておく。
 今日も今頃、皆はジムでトレーニング中だろう。
 今日の吾郎は藤波中佐室にとりあえずパイを持っていき、会えなかったらマルゴの案内で自宅まで届けに行くという段取りになっていた。

 さっそく、フジナミ中隊の本部室、彼の中佐室を訪ねに行った。
 本部も人が少なくなった時間帯。近頃は吾郎もここに来るのに慣れ、本部員達も吾郎の顔を見れば『ボンジュール、ゴロー』と親しい笑顔を見せてくれるようになった。でも……来ている回数は多くてもここの隊長である康夫に会えることは今まで一度もなかった。
 さて、今日は……?

 ドアをノックすると『どうぞ』という綺麗なフランス語が男性の声で聞こえてきた。
 あの金髪の補佐じゃない。康夫の声と判り、吾郎は驚いた。なんてことだろう? ここに来て初めてだった。

 そしてドアを開けると、吾郎の姿を見るなり、康夫が中佐席から言った。

「岸本か。どうした? ジムでトレーニング中だろ。俺はまだ数日は行くことは出来ないからな」
「いえ、これを……」

 奥さんの雪江さんに……と言おうとして、吾郎の視界にいきなり、康夫以外の人間が飛び込んできて驚く。
 ドアを開けてやっとみえるその応接ソファーに、黒髪の女性が一人座っている。

「お客様ね。では、藤波中佐。私はこれで失礼するわね」
「そうだな。今日の所はこれで。また明日、来てくれ」
「そうするわ。お疲れさま」

 そこにいるのはあの『ひがみ妖怪』のミツコさん!
 何故? 彼女が天敵そのものと言っても良い敵方の陣中にいるのか吾郎は驚きの顔のまま固まっていた。
 しかし彼女は吾郎が来るやいなや、とても慌ただしい様子で立ち上がり、ここを出ていこうとしている。いったい何をしに?
 しかもこの前は額を付き合わせて睨み合っていたお二人さんが、とても落ち着いた会話のやり取り? いったい何が?

 そうして驚いている吾郎を傍目に、ミツコは吾郎をちらりと見ながらドア前に立つ。
 またその目が、吾郎より低い位置からの視線なのに、妙にふてぶてしい眼差し。またもや吾郎は『なにか言われる!』と構えてしまっていた。しかし聞こえてきたのは予想外の言葉。

「岸本君よね。この前はごめんなさいね」

 聞き間違い? 吾郎はもう一度言ってくれませんか!? と叫びたい気持ちで彼女を見ると、彼女はそれを分かっているかのようにするりと通り抜けドアを閉め去っていった。
 ドアに消えていった長い髪。一昔に流行ったワンレングスのロングヘアは確かに艶やかで綺麗。そして妖艶な香水の残り香。それは確かに磨かれた美しさではあったけれど、吾郎にはどこか何度も何度も上塗りを繰り返してきたペンキ画のような気がしてならない。その時代だけを信じている女性の、変わらない固い美しさのようで……。

「ついに見られてしまったか」

 そんな彼女を不思議そうに見送った吾郎を見て、中佐席にいる康夫がふうっと大きな溜息をついて席に座った。
 彼の机の上を改めてみると、ノートパソコンの周りにはかなりの書類が散らばり、資料が積まれていた。ここ最近、何かに没頭していて忙しいと言っていた彼の言葉を裏付けるかのように。

「あの……。彼女は工学科なんですよね……どうしてここに?」
「ああ、そうだな。彼女はあまりここに来ることは今までもなかったからな。でも、俺が最後の面倒を見ることにしたんだ」
「え! それは……同じ中隊になるってことですか」

 あの人を受け入れて何をさせると?
 今まで色々な人から聞いてきた話では、かなりのトラブルメーカーだって……。わざわざ問題を引き寄せているようなものじゃないかと、吾郎は康夫に生意気にも言いたくなったのだが、康夫はとてもやるせない顔で吾郎に教えてくれた。

「彼女、軍隊を退官することになったんだ。つまり、日本に帰るということ。今、俺が日本での再就職の世話をしているんだ。工学科の科長の許可も出ている。同じ日本人だし、俺も母国にはいくつかツテがあるから、最後の世話をってことなんだ」
「高橋大尉が、辞める!?」

 康夫は『ああ、そうだよ』と、また深々と溜息をついて散らばっている書類を束ね始める。

「ついにって感じだよ。しかもピリオドを俺に打たせるなんて、嫌な役をする羽目になった」
「その就職先を探す為に、中佐は暫くトレーニングを休んでいたんですか?」
「ああ。とにかく。そうと決まれば、彼女も早く帰りたいようでね。彼女の再出発だ。実力はあるんだから、やり直しが出来て腕試しが出来る良い民間企業を餞にしたいんだよ。彼女もかなりやる気だし──」

 そんな『餞』って……人が好すぎと吾郎はあっけにとられた。
 ここの基地の者は、この前吾郎が珈琲をかけられたように、あの女大尉には一度か二度は嫌な目に遭わされていると吾郎は聞いていた。
 それが行動での時もあるし、不快な態度の時もあるし、言葉の場合もあると……。とにかくその凝り固まってしまった『悪』の様なものには皆がお手上げ状態。そして誰も相手にしないのだと。彼女に仕返しをする者もたまにはいるが、それでも彼女は逞しく、ちっとも落ち込むようなことにはならず、それどころか反省を示したこともなく、なんら良い方向へとは影響しないらしい。その精神力はまさに魔女。だから余計に仕返しをする方が馬鹿馬鹿しくなり、嫌な目に遭ったなら、それはもう突然に雨に降られてずぶ濡れになったぐらいの致し方ない気持ちに割り切らないといけないのだと……マルゴが教えてくれた。
 それなのに、皆が酷い目に遭ってきたというのに、この中佐はそのまま放っておかないだなんて……。

「あ、何故あんな奴にって思っているだろう?」

 彼が何かを見透かした顔でニヤッと吾郎に笑いかけてきた。勿論、その通りに見抜かれた吾郎はどっきり飛び上がる。
 でもまた彼が苦虫を噛みつぶしたかのような渋い表情で呟いた。

「なんかさあ。自業自得の破局だったのに、いつまで経ってもいなくなった隼人兄のことで、愚痴愚痴とそこに執着してさ。堪らないんだよ」

 彼はさらに、彼女のことをこう続ける──にっちもさっちも行かない状況を自分でここまで作ってしまい、もう逃げ道もないほどに窒息しかけ。生きていれば生きているほど隼人や葉月を恨んだり、そこに怒りの対象がいないから何でも良いから、その怒りをぶつけられる対象を周りの人間の中から見出して、それと勝手に戦っている。いつも怒っていて、その怒りが湧くのも全て人のせいにしか出来ない生き方が染みついているのだと……。

「同じ日本人。遠い異国で同じような夢や意欲を持ってここに来たはずなのに、同じ志だった同郷の人間のあんな成れの果てなんて、見届けたくねーよ」

 見届けたくねーと言う彼の今度の顔は、とても残念そうだった。……いつかは、と彼は願っていたのだろうか? 同じ母国の女性。このまま終わって欲しくないから帰国の手引きをしているのか……。吾郎にはそこまでは解らなかった。
 でも、康夫はさらに教えてくれる。
 先日、この青年中佐が彼女に言い放ったとおり、日本の基地にも欲しいと言ってくれるところは何処にもなかったらしい。つまり軍経由では帰国することが出来ないと言うことだ。それははったりでもなんでもなく事実だったようだ。フランスでの業務態度などもかなり噂となり日本の上層部にも流れているとのこと……。

「隼人兄や葉月にはもう終わった世界でも、ここマルセイユでは続いているんだ。残った彼女を毎日見ているフランスの隊員達はもう辟易しているんだよ。日本の上層部も『使いにくい人材』と分かったら残酷なほどに手厳しいな。今までノータッチだったのを良いことにフランスの上層部に丸投げだ。こちらフランス側に切らそうとしているんだ。それだったら誰かが打開しないといけないだろう。つまりその役を買って出たって事」

 吾郎は『そうでしたか』──と、まるで救いの手を差し伸べたかのような理解できない康夫の行動も、それで頷く事が出来た。
 藤波中佐が動かなければ、彼女はこのまま上層部に切られる日がやってくる。そうなれば彼女は丸裸で帰国だ。そうなってしまう前に、彼女が動けないなら、こっちから穴を開けてやるんだという彼の行動は、どこか彼の親友である葉月を思わせ、流石親友同士、考え方が似ているのかと妙に納得だった。

「この前、俺が水をぶっかけた時に目が覚めんだってさ。本当かどうか判らないけれどな。俺が『もし本気なら日本に帰る手伝いをしてやるぞ』と言ったのを本気にしたみたいで、あれから直ぐに俺の所に本当に訪ねてきたもんだから、俺もそれなりにしか考えていなかったけれど、即実行となってね。まあ、それで忙しかったんだ」

 あの彼女から頭を下げてきたということ!? それにも吾郎はかなり驚かされる。康夫が言うとおりに、彼女もかなりの窮地だったのだろう。
 いや、やはり……あの時の康夫の言葉『隼人兄は帰ってこない』という一言がかなり利いたのではないだろうかと……。吾郎はあの時の彼女の固まった表情が思い浮かんでしまう。そして水をかけられたことも、もしかすると、たったあれだけのことで本当に目が覚めたのかも知れないと……。

 しかしこれはそれはかなりのビッグニュースではないだろうか!? ある意味不屈の魔女が、ついにマルセイユを退陣!? するとまた思っていることは康夫に見抜かれたらしく、彼が吾郎に釘を刺した。

「岸本。悪いが、ちゃんと行く先が決まるまで誰にも言わないでくれ。俺の補佐には事情は説明して口止めしているが、本部員には『彼女ではないと出来ない仕事の依頼した』ということにしているんだ。まあ、それでも奴らは驚いているけれどな」
「そうでしたか……。わ、解りました。俺、黙っておきますから安心してください」

 と、ここまで二人で話し込んだ後、康夫が急にはっとした顔に。

「あれ、俺としたことが。なーんで吾郎に話してしまったんだ? ったく。お前が真面目な顔で聞き入るからついつい話してしまったじゃないか。本当に口外するなよ」

 彼が初めて吾郎と言った……。
 そこにどこか嬉しさが込み上げてしまう吾郎。
 そして、大事な話をさらっとしてしまった彼にも、吾郎は嬉しさを感じていた。
 だが、その彼が言っちゃいけないこともさらっと言いやがった。

「なーんか、お前がそこにいると隼人兄がいるような気がしてさー。似ているのかもなあ」

 この時の吾郎。目の前にいる男は同世代でも上官と解っていても、これは今の発言はかなりムッと来る言葉と感じてしまった。

「ところでお前、なにしにきたんだ?」

 なにをしにきたと? 途端にとぼけた顔で尋ねる康夫に、吾郎はムッとしたまま目の前の中佐席にその箱をドンと置いた。

「日本食、ご馳走様でした! 奥様がこのレモンパイがお好きだと聞いたので、御礼です!」

 でも吾郎のそんな気持ちなどお構いなしに、康夫は『レモンパイ』の一言で子供みたいな笑顔に変貌。

「おーー! おっちゃんのところの、レモンパイっ。俺も大好物だぜ!! メルシー!」
「奥さんにです! 奥さんにちゃんと渡してくださいね!」
「めっちゃ久しぶり〜! はー俺、半分は一人で一気食いできるんだ〜」
「だからこれは、中佐にではなくて……。奥さんにちゃんと食べさせてくださいよ!」

 こうなると彼も本当に、吾郎や葉月と歳が近い青年だと思い、吾郎も最後には笑っていた。

 もうすぐ魔女がここからいなくなる……。
 皆はどう思うのだろうか? 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 次の日。吾郎は夕方、外出許可を取りセシルの部屋に来ていた。
 今日は生憎の雨……。
 来るなり彼女はグラスにワインを注いでくれ、それを片手に休んでいろと言う。キッチンで忙しそうに料理をしている彼女。

 まさか、一気に好きな女性の手料理が食べられるとは……。
 雨だというのに彼女の部屋の小さな窓が開いている。でもそれほど大降りではなく雨音はしとしとと優しく、吾郎はそこに誘われた。
 そこには、これまた小さなソファーがあり、座ると下のアベニューが丁度良く眺められる。……セシルはいつもここで外を眺めて休んでいるのだろうか? そんな気がするソファー。
 日没が早い雨の日。色とりどりのアンブレラが夕に咲いた紫陽花のようにくるくると急いで動いているのを吾郎は見下ろしていた。

「でっきあがり〜。セシル特製『ラタトゥイユ、ハーブチキンソテー』よ。食べたことある?」
「ないない。国の母ちゃんでも、そんな異国の洒落た料理は知らないって。でもいい匂いだ〜。でっかい肉、がっつり食いたかったんだ。いただきます」

 彼女も座ってグラスを傾け合う。
 なんだろう。あんなに気構えていたのに、とても心が和んでいた。
 ビジネスで成功した女性だから、とんでもない高級マンションに住んでいるのかと思えばそうでもなく。本当にこじんまりとした小さめの大衆マンションに住んでいる。でも、お洒落な彼女のセンスを思わせる家具に小物ばかり。テーブルの照明は、透明なガラスの容器にすっぽりと包まれている小さなキャンドルがふたつ。ここは異国だから個人の部屋でも情緒があるのかもしれないが、これが日本なら本当に洒落たレストランの一席と思っても良いぐらいのムードだった。
 彼女はどうしたことか、吾郎が今受けている研修の話、つまり『空母メンテの話』ばかり聞いてくる。

「どうしたんだよ。澤村中佐とそういう話はしなかったのかな」
「え? ああ、うん……。ハヤトはあまり自分のことは話したりしなかったから……」

 途端に、グラスを傾けた彼女の眼差しが曇った。
 また、夕日を見つめていた時のような、寂しそうな顔。
 どうしてか彼女のその顔を見ると、吾郎の胸もぎゅっと切なくなってしまう……。おかしな気持ちになる。

「ご、ごめん。澤村中佐のことは……言わない方が……」

 自分だって比べられたくないくせに、彼女が彼のことを考えているかどうか気になったら平気で聞いているじゃないかと吾郎は項垂れる。

「あ、違うのよ。……でもね、彼と付き合っている時は私が子供みたいだったせいもあるのだけれど。楽しくなるよう心がけてくれているのは嬉しかったけれど、本当に胸の内の奥深くにあることはちっとも話してくれなかったわ。そう、メンテのことだってそうよ。セシルに話しても、きっと分からないよ、とか、話してくれても本当に難しい理数の話だったりして私も結局分からなかったしね。だから、つい……ゴローからは聞けるかなって。だからってハヤトがどんなことをしていたか、ゴローから聞きたいって訳じゃないの……」
「い、いや……俺もつい。……なんて言うのかな。このマルセイユに来てからというもの、何処に行っても中佐の名前が出てきたり、同じ東洋人でメンテ員で小笠原の隊員で、葉月お嬢さんのことも知っているせいか、皆が俺の中にハヤトさんを見ているって言うのかな……感じてしまってばかりだったから」

 するとセシルが初めてなにかに気が付いたように、『そうだったの』と吾郎を申し訳ない顔で見た。

「……でも、否定できない、私。だってハヤトがいて、初めてゴローに会いたいと思ったのは本当だもの」
「もういいよ。俺もそこはあの先輩がいてこそ、マルセイユに今いるのだと思っているから。でも、あんまり度が過ぎるとね、俺個人が存在しないみたいで嫌だっただけなんだ」

 そこまで話して、二人は初めてシンと会話が途切れ、沈黙した。
 目の前の彼女が明らかに……今まで見せてくれていた明るいはつらつとした彼女ではなくなっていた。
 どこか苦い思いを噛みしめているかのような、やはり寂しそうな顔。
 そして吾郎も、ついに心にあった『亡霊』の存在を人前で口にしてしまっていた。

 やはりこれはセシルという魔女さんが吾郎を喋らせてしまうのか。
 だから、このお喋りな口が『ハヤト』という言葉で彼女を追い詰めてしまったのか。
 そして吾郎は、そんなセシルを見て、やっと口を開く。

「俺は自然体なセシルがとても好印象で。だから……いいんじゃないかな。澤村中佐のこと忘れられなくても……」

 本当はここまで舞い上がって彼女の元までやってきた男としては哀しい気持ちだった。
 でも。どうしようもないじゃないか。それが今の彼女なんだから──。
 しかし皮肉なことにこの言葉で、彼女が笑顔に戻った。

「メルシー、ゴロー。もっと飲もう!」
「有難う、セシル」
「アリガトウね、覚えるわ」

 グラスにワインを注いでくれる彼女。
 急に表情が変わった気がした。
 そう……どこか、しっとりとした大人のもの思い。それもまたとても色っぽいと、吾郎は見とれてしまっていた。
 初めて会って一目惚れをした明るい彼女もとても良かったが、寂しそうだったり、こうして大人のしっとりとした横顔がある彼女もまた……。

 最後のデザートは、実は本日のメインと言っても良い『恋人パイ』。
 やはり最初ほどの気兼ねない明るさはなくなってしまっていた。
 二人でたまに一言二言交わし合う、どこか静かなやり取り。

 ああ、本当にこのパイは恋人でなくても『恋のパイ』かもしれないと吾郎は思った。
 甘酸っぱいこの味。そのくせ、清々しい爽快な初々しい香り……。
 葉月もこのパイを食べて、恋を噛みしめていたのだろうか?

 なんだか急に、あのお嬢さんの声が聞きたくなってくる。
 あのお嬢さんが、自分のことを喋ってくれるとは思わないが、でも……彼女なら、今の吾郎のことをどう言ってくれるのだろうかと。
 雨の優しい音に溶ける、好きになった女性とのひととき。これでもう良いだろう? マルセイユでの女性との楽しいヒトコマとして取っておけばいい。
 吾郎は最後の一口を頬張った。

 そして別れの時間がやってくる。

「ご馳走様、セシル。楽しかったよ」
「うん。私も。メンテの話、してくれてアリガトウ」

 吾郎は首を振った。
 あの時、隼人の名さえ出さなければ……彼女はもっとはつらつとしてくれていたのかもと。
 でも……どこかで、そうではない彼女の横顔を見たことも、吾郎にはどこか印象的だった。
 しかしそれも、もう終わりだろう。

「ボンニュイ、セシル」

 吾郎が笑顔で手を振ると、セシルはなにも返してくれない。不思議に思い首を傾げると、彼女がすっと吾郎の手を取ったのでドキリとした。

「ゴロー。フランス流の挨拶を覚えた? 研修中だと男ばかりだからあまりやらないのかしら? 『bisou(ビズ)』を知っている?」
「ええっと。うーん……頬と頬のだろう? あのさ、日本の男は……そういうのやらないんだよ」
「駄目、私のこと友人と思うなら、ちゃんとやってよ。ここはフランスよ!」

 え〜と吾郎は困り果てる。
 でも心の中では、かなり嬉しかったり。しかも嬉しいのは男心の方。
 しかし、それはマズイだろうとも思う。そんな刺激的なことをしては、ほろ酔いのこの状態、何を感じてしまうかこの男心が紳士でありつづけるには、かなり頼りない状態だ。

「だーめだってば! 日本男児はしないんだってば!」
「ちゃんとやってよーー! フランスのマドモアゼルに失礼よ、失礼!」

 両手を握られたまま、セシルと暫く揉み合う。
 彼女は本気なのか、かなり必死の形相。
 し、仕方がない! と、吾郎は意を決して、セシルの頬に怖々と自分の頬をつけ……。

「ちゃんと左と右、やってね!」
「うー……めっちゃ恥ずかしいぞ!」

 やぶれかぶれに日本語でぼやきつつ、ちゃんと両頬につける。

「はい! アリガトウ、ゴロー」

 目の前の彼女が、良く知っている明るい彼女に戻っていた。
 そんな彼女を見て、吾郎の胸は今まで以上に高鳴った……。

「セシル、明るい君もいいけど……。寂しい顔も素敵だと、俺は思ったよ」
「え?」

 今度は吾郎から、彼女の両手を握っていた。
 出会った時のように、今、彼女の顔は吾郎の鼻先直ぐ側にある。その彼女を吾郎は見つめる。

「私、寂しくなんか……」
「していた。寂しい顔……」

 彼女の顔が、急にその通りの寂しい顔に崩れた。
 その時、吾郎の胸を何かが空高く貫通していったような感覚にみまわれた。
 その顔が既に、吾郎にとってはとてつもなく愛おしい、そんな気持ちにさせられた。

「ゴロー?」
「一人で寂しかったら、いつでも俺を──」

 そして吾郎は自分でも驚くほど自然に、彼女の唇の上に唇を重ねていた。
 ほんの一瞬。吾郎にはこれが精一杯。顔が離れると、彼女はとても驚いた顔を。……フランスの挨拶の程度は分からない。キスをするならどの程度が親しい挨拶なのか分からない。でも、目の前の女性の顔は、異性からの愛情を受けたことはちゃんと通じている顔をしていた。

「ボンニュイ、セシル」

 そんな驚きで固まっている彼女をそのままにして、吾郎は玄関を一人で出た。

 外は雨。静かな雨の宵。
 ふと見上げると、あの小さな窓辺にかすかな人影。彼女がそっと吾郎を見送っているのが分かるが、姿は見せてくれなかった。

 そう、これでいい。
 吾郎の心の中にあることは、もう、ある程度は彼女に知られた。
 短い間の恋でも。一方的な片思いでも。ここまで来たら、もう、終わりだ。
 あんな、数回しか会ったことのない遠い国の男に急に思いを垣間見せられても、彼女だって迷惑だろう。
 なによりも、彼女が忘れていない男の後輩。重ねに重ねてしまう苦しさを彼女は味わうかも知れない。そして彼女は、忘れていないのだから……。

 吾郎にしても、何もしないで諦めるよりずっと良かったと……思う。 
 これで本当に諦められる。

 明日からはそう、本当に、甲板への道一本でやっていけばいい。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ゴロー! お前、やる気あるのかーー!」
「イエッサー!」

 教官はなんでもかんでも『やる気あるのか』というのがお決まりの文句だ。
 今日もそんな言葉に煽られながら、吾郎は体力作りのクラスにて腕立て伏せをしていた。

「おらおらあー! 顎がついたぞ! あと二十本!!」
「イエッサー!!」

 これもお馴染みだ。
 だが、最初は『お前は駄目だ。日本に帰れ』と何度も叩かれるほどに出来なかった腕立て伏せが、ここのところだいぶ回数を伸ばす結果を叩きだしていた。
 あれから数日。吾郎の目の前は、もう、甲板しかない。チーム・クロードに行くんだという執念のみ!
 忘れろ。吾郎、お前は小笠原の海の上を走る男になるんだ。約束しただろう。ここにこの様な経験をさせてくれたお嬢さんの為に、彼女の機体を空に飛ばす為に! 帰るんだ、小笠原に。チーム・クロードに選ばれた男という経歴をひっさげて! あの敵わない『亡霊ハヤト』を少しでも驚かしてやるんだ!!

 吾郎の一念は日増しに強くなっていた。

 そんなある日の、この訓練の時間のことだった。
 陸教官の到着を、クラスメイトと待っていると、その教官が何故か藤波中佐を伴ってやってきた。

 その康夫を一目見て、吾郎は目を見張る。

「集合!」

 教官の一声で、この訓練に参加している隊員達が整列する。
 その教官の横に、あの藤波中佐が並んだ。勿論、吾郎だけではなく他の隊員達も訝しそうだった。
 しかも吾郎が彼を一目見て目を見張ったのは、あれほどぼさっとした風貌だったのに、髪も短く整え無精髭もきちんと剃り落とし、初めてこざっぱりとした姿に彼が変貌していたからだ。

 それにしても何故。中佐がここにきたのか。
 すると教官が驚くことを言い出した。

「今日からこの訓練クラスに、フジナミ中佐も参加することになった」

 その知らせに吾郎も勿論、他の隊員もとても驚いた。
 というのも、ここを指導している陸教官は吾郎や康夫より年上の中年男性だが、階級はそれほど高くはない。そんな彼が指導する訓練に、このマルセイユでは一番の若手エリートであるフジナミ中佐が、指導を受けにきたからだ。これほどのキャリア持ちなら、もっと違う方法……そう、彼が夕方、もっと熟練そうだったトレーニングコーチを個別につけての自主トレをしてたように……。こんな下っ端の男達がビシバシに叩き上げられる体力作りのクラスなど、わざわざ来るはずはないからだ。
 しかし教官はさらに告げた。

「彼のたっての希望で、今日からは君達と同じ扱いにて、鍛えて欲しいとのこと。私もその覚悟で引き受けたので、皆もそのつもりで……」

 それにも皆は『え』と固まった。
 しかし、その頂点にいたはずの青年中佐の顔つきはかなり本気。ここにいる誰よりもその気迫を漲らせている。
 そんな康夫が、驚きの色一色で固まっている隊員に静かに告げた。

「まだ怪我が完治していないので、不自由な動きはするけれど、そこはお構いなく。今まで、自分には甘いトレーニングばかりしてきたので、訓練生の頃の初心に返り、教官にビシバシと鍛えてもらいたい一心でここに来たつもりなので、よろしく」

 康夫のその決意を固めている顔にも、皆は気圧され黙っていた。

「では、中佐、始めますよ」
「フジナミでもヤスオでも結構」

 まだ丁寧に扱ってくれる年上の教官にも、康夫は不敵な笑みを浮かべ、訓練生になろうとしていた。
 そんな彼が吾郎の横に並んだ。

「吾郎、負けないからな」
「って。俺となにを張り合うんですか〜」

 負けず嫌いな男だとは聞いていたが、こんなことでライバル視されても困るなと吾郎。
 だが、すっきりとした彼の顔、そして空を見つめるその目が何か遠くの物を捕らえようとしている真っ直ぐな思いを見せつけている気がした。

 その空には高く昇っていく戦闘機の編成。

「お前もそう。高橋もそう。今までのキャリアなんか忘れてプライドも捨て、初心の訓練生の気持ちから新しい物を掴もうとしているんだ。俺も中佐のプライドを捨てたって、一からもう一度あの空に行ってやるんだ!」

 その声に顔に眼。
 初めてこの青年中佐から、葉月と同じビリッとした強い波動を感じた。
 それこそ、彼女のライバル。彼女の親友だと納得できるものを!

「俺、中佐の機体をいつか空に送りますよ。あ、でも俺がいる間は無理かな〜」
「なにを。お前が帰るまでに、間に合わせてやる」

 初めて。対等の男同士の手と手を組んだ。
 そこには階級は違えど、それほど歳も変わらない男同士のライバル心が生まれていた。

「よーし。グラウンド五周! 一周の徒歩インターバルを挟んで、五本!」

 地獄の持久力マラソンが今日のメニュー。
 一斉にクラスメイトとスタートを切る。

 歩きでは目立たなくても、走るとそれはかなりの違い。やはり康夫は足を引きずりながら、ぎこちなく走り始める。
 でも彼はちゃんと走っている。遅くても……。
 そこに同情はすれど、吾郎は彼を置いて自分のペースで前を行く。

 吾郎には吾郎の目標がある。
 それを掴まねば小笠原には帰れない。

 だけれども、時折……甘い水色の瞳。
 あの寂しげな眼差しが、一直線に進む吾郎の心の片隅で切なく揺れていた。

 

 

 

Update/2007.9.19
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