【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![6]

「開始!」

 ついに筆記試験が始まった。
 講義室の空気がピリッとしている。
 あまり筆記は得意ではないが、なにかを振り払うように集中してきた今日までの成果を、吾郎はペン先に込める。

『……俺は帰るよ』

 集中してるはずなのに、あの雨の晩のことが唐突に頭に浮かぶ。

『それでもなお、帰ってしまう男でも構わないわという馬鹿な女がいたら、どうする?』

 今、ペンを握っている自分の手に、そして身体中のあちこちに、彼女の肌の感触。
 目を閉じれば、そこにはいつだって……。
 しかし、あと数週間で吾郎は空母艦研修を終え、帰国する。

『短い間になるけれど、それでもいい』

 そんな時は、彼女らしく可愛く笑ってくれた。
 何度も交わした口づけを思うと直ぐに身体中が熱くなる……。吾郎は一人頬を染める。
 あんな熱い時間、狂おしい時間は初めてだった。

 良い想い出になるだろう。
 それだけでも良かったことになるのだろう。
 恋した気持ちを殺さずに済んだ。

 でも……。やはり苦しかった。
 やはり、彼女と交わした情熱は、手放したくないと言う気持ちが湧いてくる。

『ゴロー!』

 隣から息だけの声が聞こえてきた。
 吾郎ははっとする。エミルが動きを止めている吾郎に、さりげない注意をしてくれた。

 ああ、いけない。彼女と約束したんだ。試験に集中すること。そして無事にこの研修をやり遂げることを……。

 いろいろ思うところはあるが、吾郎にとって今はこれが一番大事なことだ。
 頭の中の様々なものを振り払うようにして、今度こそ試験用紙に向き合った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「なあ、ゴロー。ここのところ様子が変だぞ」

 無事に終わった試験後。早速エミルが怒ったような顔で、近頃の吾郎の有様に不満げな様子。

「ああ、大丈夫だよ」
「そっか……。ハラハラするよ。俺、これでもゴローと一緒に卒業するのを楽しみにしているんだ」
「エミル……」
「短い間だったけれど、あまり触れたことがない日本人と一緒に過ごせて毎日が楽しかったよ。俺、日本が好きになったぜ。いつか絶対に行く!」

 自分より若い青年の彼だけれど、この数ヶ月ですっかり『戦友気分』。だから吾郎は、エミルのそんな言葉にじーんとしてしまう。

「もし来てくれたら、俺の実家を案内したいよ」
「ゴローの実家はどこなんだよ? カントウ? カンサイ」

 そんな言葉まで覚えたのかと吾郎はびっくり。……でも、それだけ彼が吾郎を慕ってくれたのだと再び感動。もやもやしていた気持ちがとても和んでしまった。

「どっちかというとカンサイ。でも俺が生まれたところは、本島から切り離されている島国といわれるところで……」
「シコク? キュウシュウ? それともホッカイドウか? あ、ホッカイドウはカンサイじゃないよな〜」

 なにもかも覚えた様子の彼に、今度の吾郎は絶句した。
 でも、それがまた嬉しくて吾郎は微笑みながら彼に教える。

「シコク。香川県なんだ」
「セトウチって海があるところだな? 日本の地中海みたいだったよな」
「当り! 瀬戸内海は東洋のエーゲ海とも言われているんだ。エーゲ海と同じで多島海で、場所によってはオリーブの栽培が盛んなんだ。俺はその栽培が盛んな小豆島近辺の本土で育ったもんで……。それでかな。俺、マルセイユに違和感なく馴染んでしまったのは内海の情緒溢れる街での生活だったからなのかもしれない」
「いいねー。ジャポン版マルセイユってことだな! 行きたくなってきた。早く本隊員になって、バリバリ働いて、長期休暇は日本に行ってゴローの故郷を俺も見てみたいよ」

 吾郎も『そうだな。そうなったら俺も嬉しい』と喜んだ。
 筆記試験が終わって少しだけ心が軽くなった二人。しかし、まだ最大の難関があと二つ残っている。

「明日はいよいよ、滑走路発進の最終実習試験だ」

 急に表情が引き締まったエミルのその言葉に、吾郎も強く頷く。
 機体の整備から始まり、滑走路から現役パイロットを乗せた機体を空へと送り出す作業をする。そして最後の機体整備。この流れと動きを教官がチェックし、母艦実習のチーム割りをする。しかし何度もいうが、例年、ほとんどクラス分けは変わらないまま、母艦実習へと移る。
 それでも昨年は、サワムラクラスから数名、BクラスやAクラスを抜いて、あのチーム・クロードへの研修に受け入れてもらったという例外もある。エミルと吾郎のクラスでは、あるいはCクラスの研修生達は、その話が去年起きたばかりのことだけに大いに期待し、それを一掴みのチャンスとして精進している。逆にAクラスの研修生達も、BとCの同期生にすり替えられる物かと必死のようだった。ジャン先輩曰く、今年の研修生はいつになく活気づいて燃えているようだと……。これもあの『ミゾノタイフーンのせいだ』と、深い溜息をついていたほど、今年はポジション争いが過熱しているように見えるらしい。
 そしてそれは研修生だけじゃなかった。

「おーい、エミルにゴロー! 明日の滑走路デビューの役割分担の最終確認をしておこうぜ。教官も一緒に確認するから、いつもの講義室に来いだってさー」

 クラスメイト達が呼ぶ声。
 そうなのだ。今年は教官も燃えている。
 『小笠原大佐嬢から送られてきたキシモトがいるのだから、Bクラスでも昨年大佐嬢が行った研修生だけの滑走路デビューをやってみようではないか!』──などと教官が言い出した。去年の夏に大佐嬢が周りを驚かせた先輩抜きでの新人メンテ員だけで執り行う発進作業を、俺達Bクラスのデビューにしようという熱い意気込み。
 吾郎は教官もとんでもないことを言い出すと思ったが、それがあの葉月と隼人が二人でやってのけたことだと思うと、自ずと『じゃあ、俺もやる!!』となってしまった。教官と吾郎がその勢いだった為、若い青年達もすっかりこの勢いに巻き込まれ、やる気満々に。そんな状態で明日を迎えるところまで来ていた。
 それだけじゃない。Bクラスが大佐嬢式の滑走路発進実践をすると決めたものだから、AクラスもCクラスもそれをするといいだし、教育部隊では『今年は大変だ』と慌てているようだった。しかし許可は出た。昨年大佐嬢と澤村中佐が計画した方法と同様に、新人だけ拙く執り行うだけではなく、大事故を防ぐ為に傍で見守ってくれる現役メンテ員の先輩がつくことになって、その担当チームも決まった。吾郎のBクラスでは、ジャン先輩のチーム・ジャルジェが受け持ってくれることになった。
 この流れが、今や基地では一番の話題。今年のメンテ員研修はなんだか活気があるといわれている。そうして基地の者達の次に出てくる言葉は、やっぱり『ミゾノタイフーン』なのだ。彼女が去っても、まだそこに彼女が置いていったものが息づいていると。そして今年はその火種をゴローが持ってきて燃やしていると皆が言う。聞けば、連隊長も昨年並みの熱気ある研修にほくほく顔になっているとか……。

「エミルはキャプテン役だから、頑張らないとな」
「あ、ああ……。なんだか緊張する。本物のパイロットを乗せて、本当に空へ飛ばすんだぜ……」

 彼等にとっては、本当に初めてになること。
 先輩達が傍にいても、余程でない限りは声をかけない手を出さないというのがミゾノ式のデビュー実践。先輩達の手を借りながら、初めて滑走路からパイロットを飛ばす──その段階をすっ飛ばしてのミゾノ式デビュー。
 吾郎は既に滑走路という場では、実務経験がある為にそれほど緊張はないが、若い彼等には熱意があっても明日への不安は計り知れない物だと思う。
 実際に、吾郎だって浜松訓練校で卒業する前は、そんな恐ろしい気持ちを秘めたデビューの道を通ってきたのだから……。

「でも、それが夢で目標だったんだろう……エミル」

 吾郎は密かに怖じ気づく彼の背をそっと撫でる。
 彼もそこで頷くと、いつも皆に頼られているリーダーの顔になって、打ち合わせの講義室へと歴とした様子で向かっていく。

「そうだ。ゴローという先輩もいるしな」
「あはは、俺は役には立たないと思うけれど。ああ……久しぶりの滑走路だもんなあ〜。しかも教官に動きを見られるだなんて、いくら経験済みでも緊張するよ」

 エミルはそこで吾郎も同じように緊張するんだと笑ってくれた。
 しかし、吾郎の中には密かな思い。──ここでもしかすれば、チーム・クロードに研修に選ばれるかも知れない──と。勿論、無理だろうと思っていてもだ。もし選ばれなかったのなら、Bクラスでの研修という経歴で小笠原に帰ることになる。それはそれで仕方がないことなのだろう。

 だけれど明日の滑走路デビューとなる実践に、吾郎は一縷の望みを賭けていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『いよいよだな。懐かしいよ──。落ち着いてやれば大丈夫』

 寝る前にメールをチェックしたら久しぶりに澤村中佐からメールが届いた。
 どうしたことか、一週間に一度は様子伺いのメールをマメに送ってくれていたあの先輩が、暫く間隔を空けて送ってくるようになった。
 それについては吾郎はなんとも思っていない。週一の様子伺いでも『こまめな人だなあ〜』と感心していたのに、ただでさえ何役もこなしている若手中佐として忙しいのだからそれが月に一度になっても違和感はなかった。それに吾郎がなんとか馴染んで少しずつでも前に進んでいるということを耳にして安心してくれたのだとも思ってた。
 だが、流石、澤村中佐である。吾郎にとって、この半年の研修の総決算とも言うべき最終難関の筆記と実技の試験を迎えていることを忘れずに、いつもの激励のメールが届いていた。
 ……でも、葉月からは一度も。自分からも送ればよいのだけれど……。吾郎もやはり送れずにいる。

『彼女も元気で頑張っているよ。今日も二人で岸本のことが話題になり、彼女は岸本が頑張っていることをとても嬉しそうにしてた……』

 そんな彼女の恋人からのメール。
 きっと男性同士にお任せと思っているのだろう。
 気兼ねなく付き合える同世代の女性と判っても、やはりそこは噂通りに淡泊であるのは吾郎も理解しているつもりだし、それこそクールな大佐嬢だとも思っている。

 しかし吾郎はこの時、少しばかり気になっていたことがある。
 年が明けてから隼人から届いたメールに、驚く報告が記されていた。

『大佐嬢は今、コックピットにはいない。式典のショーの後、甲板指揮へと試験的に移行することになり、今は操縦することを許されていない』

 そんな澤村中佐からの報告。
 しかもそんな大事なことが、詳しい事情もないまま短い一行で済まされていた。

 それに驚いて、吾郎は早速、隼人に『どうしてですか。俺は彼女の機体を飛ばすことを最終目標にしているのに、何があったのですか!』と、この時ばかりは直ぐさま返信を送った。

『何もない。彼女も落ち着いて甲板指揮に専念している。彼女にとって今後の課題でもあるんだ。でも、まだコックピットは諦めていない。彼女も岸本との約束は忘れていないよ……』

 なんだか彼にしては妙に、説得力のない、力ない……後輩を不安に陥れるような彼らしくない返答に感じた。
 だから、吾郎が次に突撃したのはジャン先輩だった。
 だが彼は驚くどころか、それにつていは既に熟知しているといった落ち着き。

「ああ、それか……。周りもお嬢さんがいきなりコックピットから降ろされたのは、納得していないみたいだぜ。ほら、俺は小笠原二中隊メンテのハリス少佐とも出張の時から懇意にしているから、連絡を取り合っているんでね……そこから教えてもらっているんだ」

 サワムラメンテチームを結成するのに一役買ってくれたとかいう、二中隊メンテチームのキャプテンの一人、ロベルト=ハリス少佐。彼もフランスから引き抜く為のメンテ員見定めの出張でこちらマルセイユ部隊に出向いていたのは吾郎も知っている。そしてその時の受け入れ隊もやはり藤波部隊でジャルジェチームだった。ジャン先輩はその後も同じメンテ員としてハリス少佐とは連絡を取り合っていたらしい。

「どうしたことか近頃のハヤトは、どうも口が重たいというのか。たぶん……俺を心配させまいと思っているんだろうな」
「やはり、何かあったのですか?」

 ジャン先輩は渋い顔で『詳しいことは判らない』と首を振る。

「俺も違和感があったんで、ハリス少佐がべらべらと喋る人間じゃないと判っていても、どうしてもと頼んで教えてもらったんだ」

 そして吾郎はジャン先輩の口から初めて知る。

「どうも、別れたらしいんだよな。ハヤトとお嬢さん」

 吾郎は『うっそ!』と、頭の中が真っ白になった。

「ま、まさか! だってあの二人が、あの四中隊をあれだけにして……。それに俺が出てくる時はとても信頼しあっている強い物を感じましたよ!」
「……だからこそ、だったんだと俺は思うな。あれでいて、あのサワムラという男は、頑固な上に馬鹿みたいに真っ直ぐすぎてさ。お嬢さんもだぜ。あんな冷たい顔をしているけれど、そうとなれば向かうところまっしぐら、誰よりも大きなパワーを放つんだぜ。そんな壮大なパワーを内に秘めている二人が本気でぶつかり合ってみろよ。たぶん……」

 急に大人の憂い顔になったジャン先輩が最後に呟こうとしている言葉に、吾郎も『たぶん?』と固唾を呑む。

「……たぶん、相当なぶつかり合いで傷つけあったんじゃないか」
「そんな……! 愛し合っていたんでしょう?」
「愛し合うから、傷つくんだ。本当に愛していると、傷つけてしまうんだよ。……愛しすぎて」

 先輩の言葉は、たぶん吾郎がまだ達したことがないだろう心境。そして彼もそこを通ってきたのだろう。
 いつも気さくで明るい先輩の顔ではなかった。そう、大人の男の顔……? 彼も恋をして傷ついてきたんだろうなと思わせる顔だった。
 だから、吾郎もだんだんと納得してしまう。それに澤村中佐の真っ直ぐさも、お嬢さんの向かうところまっしぐらというのも吾郎には既に印象付いているから……。そんな知っている二人を思い浮かべた時、愛し合いすぎて壊れちゃったのだというのも分かってしまう気がしてきた。

「罵倒するとか嫌悪感から来る為の傷つき合いとはまったく異なるぶつかり合いなんだよ。本当に純粋に愛しすぎて……なんだ。うーん、一言では上手く言えないなあ。それがあのパワーの二人だぜ。お嬢さんのことは俺も深くは知っているとは言えないけれど、十代の頃から一緒だったハヤトのことは解るんだ。……しかも、お嬢さんを追いかけていった男だぜ。どれだけ好きになってしまったか、俺には解るんだ……」

 今度は男の友情かな。今度のジャン先輩は懐かしそうに微笑んでいた。でも、遠い目をして眼差しを伏せるその表情は『だからこそ、ハヤトらしい結果が悲しい』と言っているようにも見えた。

「そうでしたか……。あれ、でもそれと甲板指揮のことは関係ないですよね」
「ないよ。でも、大佐嬢の指揮移行は元々決まっていたことらしい。まあ、若いけれど彼女ならそろそろ次へと上も思ったんじゃねえの? だが、どうしたことかあのお嬢さんも反抗せずに、大人しく将軍様の指示にしたがっているんだとさ。あのお嬢さんが空を飛べない日々を送っているんだぜ? 俺もそんなはずはないとハヤトにメールしてみた。お嬢さんなら乗せろと暴れるはずだって。そうしたらハヤトの奴『今の俺では、彼女のことは解りかねる』なんて返事だぜ? おかしいなと思ってハリス少佐にしつこく迫ったら、『二人は破局の上、同棲解消の状態』と、そういうことらしい……」
「じゃあ、お嬢さんの今の心境って誰も解らないんですか」
「みたいだな。お嬢さん自身に聞かないと、解らないってハリス少佐も言っていた。まあ、彼が教えてくれた基地の中での噂では、例の航空ショーでの墜落しかけた飛行で飛ぶのが嫌になったんじゃないかという話も一説としてあるらしいぜ。俺は先ずないと思っているね。あのお嬢さんは今はダンマリを決め込んでいるようだが、あの子はそうは簡単にコックピットを捨てやしないし恐がりもしないよ。そんなのヤスオを見ていれば解るよ」

 それもそうだと、吾郎も思った。
 半年、藤波という男と一緒に過ごして吾郎も思っている。この人は本当にお嬢さんと同じ志の男なんだと痛感した。
 そんな彼との半年はとても楽しかった。
 彼は吾郎と体力作りの訓練に参加するようになってから、見る見る間に不自由になっていた部分を克服し、回復へと向かっていた。まだ足の方は完全ではないようだが、吾郎が来た頃よりかは、だいぶマシになってきていた。あと半年、半年も続ければ元に戻るだろうからと陸教官も言っていて、親身に訓練に付き合っている。
 そこまでしてでも、必ず取り返したい──彼等にとってコックピットというのは一番の誇りある場所なんだと思わされた。
 ジム仲間のパイロット『ボリス』が言ったとおりだ。彼等パイロットはその座席を得る為に若い頃から必死になってやってきたはず。しかもパイロットになりたいと夢を見ても誰もがなれるわけでもない選ばれた資質の者達。だからこそ彼等は誇りを持って臨んでいる。それは卑劣なテロリストの攻撃を真っ向から受け、死線を彷徨い傷ついても尚もコックピットへ這いずってでも戻ろうとしている藤波隊長の必死な姿が物語っている。
 だったら! 彼と大親友のお嬢さんだって、きっと! 死が目の前に迫った経験をしたってコックピットに怖れを抱く事なんてあるはずないんだ!! ──と、吾郎は思いたい。そして、そう思えるようになってきた。

「そうですね……。俺、信じて、俺は俺のやることやり遂げます」
「うん、そうだな。ヤスオがそうであるように、ハヤトもお嬢さんにも『知られたくない、心配かけたくない』っていうの、あるんじゃねーの。少なくとも、ハヤトもそういう奴だったから、俺、黙って待っているんだ」
「そうっすね。俺も無理して聞き出そうとは思いません……。でも、心配」
「うん。そこはまあ、うまく情報は得るように俺もしているから、なにか判ったらゴローにも知らせるよ」

 吾郎もそこでとりあえず、心の中に起きたものが鎮まった。
 そうだ。来月には帰るんだ。そうすればお嬢さんの様子も……
 そこまで考えて、吾郎は急に……セシルを思い出す。

 お嬢さんと再会するということは、既にセシルを捨てて帰国したということになるのかと……。

 あれから彼女と会っていない。
 約束した。甲板実習のクラス割りが決まるまでは会わないでおこうと……。

 ついに滑走路発進実践の最終試験日がやってきた。見事に晴天。
 吾郎はすっかり馴染んだコバルトブルーの空を見上げていた。
 そんな時、遠い日本の離島にいる先輩の声が聞こえてくる。

『落ち着いてやれば大丈夫』

 きっと小笠原では、彼もお嬢さんも、吾郎とは違うものであれ、悩みながら傷つきながら、でも……前へと立ち向かっているのだろうと。
 だから吾郎も、今日はマルセイユの潮風と空に向かう。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 快晴の空の下、数機の戦闘機を牽引し、ついにその時がやってくる。
 エミルをキャプテンとした滑走路からの発進アシスト。今回の吾郎は『マーシャラー(航空機誘導員)』の担当だった。黄色いライトスティックを両手に持ち、機体に指示を送る誘導員だ。
 半年ぶりの滑走路に、吾郎は久々に血が騒いだ。
 今回、吾郎としては飛ばす機体が戦闘機にすり替わっただけの、実務経験がある試験。それでも戦闘機だ。勝手は違うという緊張感。なによりも、先輩が側で見守っているとはいえ、手添え無しで機体発進アシスト初体験のメンテ員である青年達の緊張感が吾郎にもひしひしと伝わってくるのだ。

 自分達が念入りに整備した機体。そして自分達の手で滑走路に誘導した機体。そして、コックピットには本物の現役パイロット。吾郎の立ち位置に向けて、クラスメイト達が機体を牽引してくる。吾郎はコックピットにいるパイロットに向けて停止する位置を指示、そして最後にエンジン始動の合図を送る。

 ついにその時がやってくる。

『こちらメンテ、管制……』
『こちら管制──。 上空OK……』

 エミルと管制塔との確認交信が始まる。
 吾郎は戦闘機の前から退き、あとはエミル達新人研修生の手で、この機体が大空へ飛ばされるのを見守るだけ──。
 エミルの手には白い旗。それが大空へと高く掲げられる。

『GO!──』

 ついに発進の合図である白旗が振られた!
 ゴーという轟音、キーンと高鳴るエンジン音、噴射口から真っ赤に吹き上がる炎。そして瞬速で動き始める車輪が、アスファルトを削るような音を高鳴らせ走り出す。
 やがて遠ざかって行く機体は、滑走路の半ばで機首をあげ空へと飛び立った。

「やったあ!」

 吾郎は思わず飛び上がってしまった。
 しかし振り返れば、半年間共にしてきた青年達はただただ空を見上げている……。
 機首を上げ、空へと向かってく戦闘機はまたたくまにちいさくなれど、彼等は感慨深そうに見上げているだけだった。
 そんなところ、滑走路で業務をしていた吾郎とは感動の度合いが違うようだった。彼等にしてみれば、本当に初めてで、そしてこの日を夢見てメンテ員としての訓練を繰り返してきたのだから……。吾郎もそっと微笑む。そして本当の意味での同期生になりそうな彼等の門出を嬉しく見届けた気分だった。

「なにをしている! 次の機体が待っているぞ!!」

 監督役となったジャルジェチームのキャプテンであるジャンの怒鳴り声が滑走路に響いた。
 そこで感動に浸っていた青年達がはっと我に返り、慌ただしく次の機体発進への準備へと走り出す。
 吾郎も再び誘導位置へと、マーシャラーのライトスティックを手にして走った。

 エミルの指示で次なる戦闘機が牽引されてくる。
 その時、吾郎は初めて気が付いた。

 車庫の入り口で監督をしているジャンが誰かと話している。
 金髪の……サングラスをしているどこか迫力ある男が、こちらを見ていた。

『クロードキャプテンだ』

 エミルからそんな無線。
 吾郎ははっとし、噂のチームキャプテンがいる方向へとつい凝視してしまった。

 気のせいだろうか──。
 そんな気迫あるサングラスの男と、目が合ったような気がした。
 まさか……。きっと自分が気にしているから、ついそう思ってしまうんだと、吾郎は言い聞かせながら……。今、自分がやるべき事をやらねばと、高鳴る胸の鼓動をなんとか押さえようとした。

 しかし目の前のクラスメイト達もやや浮き足立っている?
 メンテ頭であろうキャプテンがやってきたとあって、集中力を欠いてしまったようだ。

「エミル、皆に言ってやれ。今は目の前の事に集中するんだって」
『そうだぞ。ゴローの言うとおりだ!』
『ラジャー!』

 皆で声を掛け合ってリズムを取り戻す。

 この日、エミルを初めとしたBクラスは無事に滑走路発進実習を済ませた。
 五日後、結果発表がある。それを待つことになる。

 

 

 五日後──。
 いつもの講義室に集まり、担当教官から筆記の合否と空母艦実習のクラス分けの発表を手渡される。
 各々に通知が渡されるのだ。

 皆の手に渡るが、クラスメイト達は静かだった。

「安心しろ。筆記は皆、合格だ」

 その教官の声にやっとクラス全体が『やった』とガッツポーズ、賑やかに湧いた。
 しかし吾郎はこの時……渡された通知を見て絶句していた。隣のエミルも、同じように黙っている。
 さらに教官は続ける。

「空母艦実習のクラス分けだが……例年通りに、ほぼ全員が同じ割り当てで、三中隊メンテチームへと受け入れが決まった」

 その時、クラスメイト達は『ほぼ?』と首を傾げ、周りのクラスメイトと顔を見合わせていた。
 その時、吾郎は初めて……震えるままに教官の顔を見た。
 彼が吾郎を見て、誇らしそうに微笑んでいる。

「うちから二名、チームクロードへの受け入れが決まった」

 二名!?

 吾郎はそれにも驚き……。
 でも、吾郎に微笑む教官が言った。

「ゴローとエミルだ!」

 そう、吾郎の通知には『クロードチーム』への実習受け入れが決まったことが記されていたのだ。
 だけれど、それだけじゃない? 吾郎は隣にいるエミルを見ると、彼も驚きのあまりで顔が真っ青? 顔面蒼白? とにかく自分でも信じられなかったのだろう?

「お、俺が何故?」
「エミル……俺達、俺達……!」

 二人で通知を握りしめて震えた。
 だが最後には立ち上がってなりふり構わずに抱き合っていた。

「コノヤロー! 俺達を置いてA研修かよーー! バッカヤローー!」
「さっさと出ていけーー!」

 口悪いことを言いながらも、他のクラスメイト達が笑顔で走ってきて二人を取り囲んでいた。
 男らしい、悪気のない罵倒と野次と軽い叩きが飛んでくる中、最後には激励の言葉が飛び交っていた。

 教官もそれを微笑ましそうに教壇から見つめていた。

 やったーー! 俺の目標がここで一つ達成!!!
 吾郎の心は叫んでいた。
 そこには葉月の顔が浮かんでいた。彼女が微笑んでいる『吾郎君、やったね』と……。
 だけれど、それは一瞬で吾郎の中では瞬く間に他の女性が占めていく。

 セシル。俺、やった!!
 今夜、彼女に会いに行こうと決めた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その日の夜、吾郎は嬉しさのあまり、その通知を握りしめ、セシルのマンションへと向かった。
 先日、別れる時に合格発表の日を教えていただけあって、彼女はマンションで待っていてくれた。

「えーー!? ゴローが言っていたあの、トップチームに認められたってこと!?」

 急いで帰ってきてくれたのか、彼女は美容室にいる時同様のスーツ姿だった。

「そうだと思う。たぶん。いや、やっぱり奇跡かな!? だって俺、絶対無理だって思っていたんだ!!」

 つい……そんな研修話だって僅かにしか話していない美容師の彼女に、握りしめてきた通知を見せた。
 でもセシルは、真剣な顔で記されていることを確認。それもその通知に顔をひっつけるようにしてかなりの真顔で。

「本当だわ。クロードって書いてある!! すごいわーゴローー!」

 いやーそれほどでもーーと吾郎が照れていると、彼女ががっしりと抱きついてきて驚いた。

「セ、セ、セシル?」
「おめでとう、ゴロー。やっぱりゴローは、やると思ったのよ、私」

 そうかな。そうなのかな。
 吾郎自身、本当はまだ半信半疑だ。
 自分で頑張ったと自負できる部分もあれば、やっぱりあの程度で俺がトップチームに受け入れられるはずなんかないと……。
 でもこうして彼女が一緒に喜んでくれるのは……。やっぱり、素直に嬉しかった。
 それに彼女の身体。落ち着いてくると、その柔らかさに、髪の感触とか、香ってくるグリーンノートの爽やかで凛としている香りとか……。この前の夜と変わらなくて、吾郎は思わず、彼女を抱き返していた。

「ゴロー。一番に来てくれたの?」
「そうだよ。……恥ずかしいぐらいに、セシルのところに馬鹿みたいに」

 いつのまにか抱き合うまま、彼女の甘い水色の瞳に見つめられ……。そして吾郎も既にとろけそうな思いで彼女を見つめていた。
 あっといまに身体に駆けめぐる、先日の熱い感触。

「私、まっすぐな馬鹿って大好き」

 そういった彼女に、吾郎は先に唇を塞がれてしまった。
 しかも彼女から、吾郎の唇を噛んで奥へと欲してくる。
 ああ、本当にフランスの女性って積極的だなあ〜と思いつつ、すっかり毒されてしまうと言うか、とろけさせられてしまうというか……。
 この前の夜も、実は初めてだった吾郎ではあったが、彼女の方がなにかしら積極的でリードをするというよりかは、彼女の要望に応えているうちに『無事に最後まで到達』という感じだった。
 でもあんな熱くて狂おしい時間は初めてで……そして彼女も言っていた。

『私、大人になってからこういうの初めてなの』

 マルセイユに帰ってきて、ビジネスに成功したのは良いが、恋をする余裕もなくチャンスも遠ざかり、男と言えばセシルの仕事絡みで近づいてくる怪しげな者ばかりで、自分の立場も身も守る為の駆け引きに疲れるばかり……。

『だから、ゴローと話している時は、すごく暖かい感じがした』

 そう言ってくれた彼女。
 単にそのままのつもりだったけれど。でも、そのままの自分のことをそう言ってくれた彼女がいて、本当に嬉しかった。

 彼女との熱い口づけ。

「そう思って、シャンパン買ってきたの。チキンも買ってきたから、一緒にお祝いしましょう」
「嬉しいよ、セシル」

 彼女がキッチンへと向かう。
 吾郎はあの小さなソファーに座って、小さな窓を開けた。
 マルセイユは温暖な気候だが、もうすぐ春の気配。
 閉じっぱなしの彼女の部屋に、そんな春の薫りがする夜のそよ風が入り込んできた。

「ゴロー。今夜は?」

 さりげない質問。

「うん。許可取ってきた」

 外泊の許可という意味。
 つまりここに泊まっていくという意味。

「そう……。良かった」

 短い返答でも、どこか喜んでくれているようなほっとした声も嬉しかった。

 そのうちに、小さなダイニングテーブルに彼女がワイングラスを二つ並べた。
 シャンパンの栓を手慣れた手つきで開け、セシルは淡々とグラスにシャンパンを注ぐ。
 それを見て、吾郎もそのテーブルに寄った。

 彼女から手渡される祝杯のグラス。
 それを手にとって、静かにグラスとグラスを寄せた。

「さあ、これからね。ゴロー」
「ああ、ワクワクするよ」

 セシルは『ふふ』と微笑む。
 そんな吾郎をとても喜んでくれているのが伝わってくる。
 だが、次には彼女は真顔になって吾郎に向かっていた。

「私もはっきり言っておくわね」

 いつもの彼女ではないような……。そう美容室でスタッフを監督している時のような彼女の顔になっていた。
 彼女が吾郎にグラスを掲げていった。

「ゴロー、貴方は最高の研修をやり遂げて小笠原に帰るのよ」

 吾郎が彼女に言い切ったこと。 
 でも、胸にずきんとした痛みが走った。

「そして私は、ここで美容師としての仕事を続けるわ」

 分かっている。それも分かっている。
 でも吾郎はそんなセシルの目を見られなくなりそうなほど、帰る帰りたくはないと揺らされる。

「でも……貴方が好き」
「セシル」
「お願い。最後まで私に楽しい想い出になるように……そうして、ゴロー」

 グラスの向こうで、彼女の表情が歪む。
 でも直ぐに彼女は微笑む。吾郎の目の前で、あの無邪気な明るい笑顔。

「俺の前で無理されると悲しい」
「わかっているわ……。やっぱり泣いちゃうかも」

 泣いて……。
 吾郎は彼女の耳元にそっと囁く。
 こんな甘いことが出来る男だなんて思っていなかったのに。
 彼女を目の前にすると、いつのまにかそうなっている。
 ああ、シコク男児なのに。マルセイユの甘くて青い風のせいだ。吾郎はそう思う。

 食事もそこそこに、彼女の素肌に触れる吾郎の手は、もう青年ではない男の手だった。
 あの夜よりもしっかりと力強く彼女を抱きしめ、触れて……。
 その先に別れがあることをお互いに分かっていも、今だけは、この時だけは。好きで好きで堪らないから、このまま二人で一緒に燃え尽きてもいいよな……と、吾郎は彼女の素肌に夢中になっていった。

 

 

 

Update/2007.10.6
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