【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![7]

 母国の日本では、そろそろ菜の花だけではなく、桜も咲く頃ではないだろうか……。
 フランス語もだいぶ話せるようになった。日常会話なら、もう英語無しでいける。
 顎のヒゲも『恋人』の彼女に似合うと言われてから、そのままに。近頃では格好良く整える為の手入れを、自分でするようになる。

 体型も変わった。
 当初は、一ヶ月から二ヶ月と言われたが、これは吾郎の意志で期間が過ぎてもそのまま体力作りは続けたいとジャンに申し出て、そのまま訓練参加を続けさせてもらった。これには藤波隊長と共に励みたいという気持ちもあった。
 そんなうちに、たいぶ筋肉質な身体になり、ついには腹筋が割れた。
 基地の誰もが『ぼんやりしているような青年だったのに、男になったなー』と感心してくれる。

「ふー。そうさ。恋する男は変身してしまうのさ」

 ……なんて。鏡の前でマッチョなポーズを取ってみる。

「なにしているの、ゴロー。早くしないと、訓練に間に合わないわよ」

 振り向くと、あの小さな窓辺で朝日を浴びながら、歯を磨いている『彼女』がそこにいた。
 ぴったりとした白いタンクトップとお揃いのショーツ姿。長い栗毛を大きなクリップで結い上げ、彼女は身支度中。

 またもや彼女のマンションに泊まった。一夜が明け、目が覚めた二人は出勤の支度にを追われているところ。
 合格発表があった晩からも、何回か彼女のマンションに泊まる日があった。

 『期限付きの恋人』という心積もりで、出来る限り彼女と過ごすように吾郎も心がけていた。
 ただお互いに仕事が第一。彼女は美容師として、吾郎は研修中のメンテ員として。それを怠るぐらいの逢い引きなら『やめる』。そういうスタンス。これについては見事に彼女と意見が一致……。

 でも、吾郎はこうしてセシルと過ごすようになればなるほど……。好きで好きで堪らなくなる。
 でもそれだって、きっと、走り出したばかりの恋だから熱に浮かされているのだ。
 そしてそのまま燃え尽きていけばいい……。そう言い聞かせる。そうするしかないではないか……。そうするしか……。
 彼女の為にマルセイユに残ることなど、今の吾郎にはとても考えられなかった。それと同様にセシルも、マルセイユを捨てて吾郎と一緒に日本に行くなどと、決して有り得ないと思っている。そしてそれをお互いに理解した上で、それでも『好きだ』という気持ちを殺さずに、たった一瞬でも良い、愛し合って燃え尽きれば。それだって良い想い出だと……。

「ゴロー。なにを考えているの?」

 ソファーに脱ぎ捨てていた制服の上着を手にした吾郎に、下着姿のセシルがしっとりと寄り添ってきた。
 そんな彼女の無邪気な顔を見て、吾郎は心の中でいつもひっそりと浮かんでしまう一言がある。

 ──『日本に来ないか』。
 しかし、言えない。
 彼女が今持っている物を奪うようで、そして築き上げた物を壊すようで……。
 つまり、そんな女性に恋をしてしまったのだ。そして、この想いを抱えたまま帰国するという道ではなく、彼女に受け入れてもらう告白をするという道を選んだ男が全うせねばならぬのは、愛し合った事実があってもそれは形としては残らないという覚悟。

 だから吾郎も彼女のように笑う。

「なにも。じゃあ、また来るから。行ってくるよ」

 彼女のくびれた腰を片手で引き寄せ、吾郎はまだ歯磨きも終わっていない彼女の唇に構わずに口づけた。

「ん、もうっ。ついたわよ」

 白い歯磨き粉が吾郎の口に付いてしまったらしく、彼女が指先で拭いてくれた。
 その指先を噛みたくなったが……。まだそこまで大胆になれない恋人初心者の吾郎。
 しかし肌を重ねるたびに、口づけを交わすたびに、吾郎の手に唇は男の本能をくすぐられるままに、彼女を欲し、そして手の中腕の中に捕まえて離さない。だから、最後はキュートな下着姿の彼女をぎゅうっと抱きしめていた。

「またね、待っているわ」
「あ、ああ……」

 明るい笑顔で見送ってくれたセシル。
 なんであんなに明るいのだろう。……分かっている。彼女も笑顔の自分を吾郎の中に残したいから、別れるまではなるべく楽しくすごそうと心がけてくれているのだと。
 でも、彼女の狭いベッドで抱き合う時、セシルは時々とても切なそうな、悲しそうな顔になる。それが気が付かなければ単に吾郎の行為に『感じている』官能的な表情ともとれなくもないのだが。吾郎には分かる。彼女の目がちょっとだけ潤んで、そんな時は吾郎の顔を目を見てくれないから……。それを官能という隠れ蓑に忍ばせて、彼女は心の奥に来るべき別れへの不安も哀しみも葬り去っているのだと。
 そして吾郎もそんな時は狂おしくて切なくて堪らなくなる。その分、彼女を強く愛していた。
 一時の、一瞬の、直ぐに消えてしまう泡沫の恋。分かっていて、二人で解放した恋。

 楽しい時間の間は、この子に恋して良かった幸せと満たされる。
 しかしひとたび、こうして訓練生として基地へと向かうと、それが実は単に刹那的なものでしかないのだと、急に他人事のような気分でそう思うことがある。
 終わりが分かっていて始めた恋だなんて、もしかすると他人様は『なんて馬鹿げたことを』と思うかもしれない。

 基地へ向かうバスの中。
 この日も晴天の空を見上げて、吾郎は葉月のことを思い出していた。
 あんなに絆が目に見えていた公認の恋人同士で、仕事でも信頼し合っているパートナーだったのに。
 本気で愛し合ったから傷つけ合って、破局してしまっただなんて……。まだ信じられなかった。
 そう思うと、吾郎とセシルはどこか……臆病にさえ思える。

 秋に吾郎を見送ってくれた時には、葉月の指には若草色の小さな宝石がついている銀色のリングがあった。そして隼人の指にも銀のリングがあった。
 葉月はともかく、男性の隼人が堂々と薬指につけていたということは、『もしかすると、来年あたり二人は結婚するのかな』と吾郎も思っていたし、二人がずっと恋人同士で上手くやっていくと信じて疑わなかった。

 でも……。誰の目から見ても信頼しあっていると思っていた恋人同士でさえ、結婚を目の前にして壊れるだなんて。
 それほど愛し合って離れざる得なくなる恋愛ってどんなものなのか、どんなぶつかり合いなのか……。今の吾郎には想像が出来なかった。

「深く愛するって、俺にはまだまだだよなあ〜」

 恋人初心者の吾郎には当たり前のこと。それでも今はセシルのことが本当に好きで好きで堪らない。
 共に過ごすようになってから知った彼女の方が、前よりもさらにずっと好きだった。
 でもまだ……。相手の何かを奪いたいと思うほど、思い詰めているものはない。
 あるとしたら……。別れる覚悟だけ。

「ある意味、俺達の方がドライってことなのか?」

 葉月の方が異性とのことは『ドライなんだろうな』と思っていたのに、別れるほどのぶつかり合い、感情のぶつけ合いをしていただなんて意外だった。それほどの破局してしまう何かがあったのだろう。
 でも彼女と一緒にこっそりと覗いたサワムラメンテチームの初日ミーティング。あの時の彼女はすっかり女の子の顔をしていた。自分よりずっとしっかり者であるはずのお兄さんのような恋人を、彼女なりに案ずる愛らしい顔で──。
 だからこそ、あの彼女が『飽きたから、もう貴方とは恋人ではいられない』なんて言い出すとも思えない。さらに隼人の方にしても長年過ごしていたマルセイユを飛び出してまで、葉月を追いかけて小笠原に来た程なのに。

 吾郎のどこか割り切れない恋心と思いを乗せたバスは海沿いを行く。
 今日もこれだけの晴天だと、甲板の上は暑そうだ。
 既に甲板研修が始まっていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 甲板訓練が始まって一週間は経っていた。
 最初の一週間は慣れるまで大変だったが、下地が出来上がり始めている新卒訓練生達だけあって、慣れてくると拙くとも現役の先輩達の足手まといにはならない程度の動きが出来るようになっていた。

 第一段階は先輩について、甲板に慣れる。
 第二段階は各々のポジションを経験する。
 最終段階は航行実務を想定したシミュレーションを、この空母艦に泊まり込む合宿で締めくくる。

 今、その第二段階に来ていた。

「よし、キシモト。今日は俺の横に来い」

 サングラスをしている金髪のキャプテン。ニヒルな横顔、表情のない彼。クロード=レジュ。
 どうしたことかこのキャプテンだけファーストネームを取り『チーム・クロード』と呼ばれている。それだけ、どこか……今までいたキャプテンとは違う重厚感を吾郎は感じていた。
 さらに何故か、吾郎は毎日、このキャプテンの横へと呼ばれる。

 元々Aクラスだった青年達と一緒の研修になったのだが、今年のAクラスではBクラスに落とされた者は誰もいなかったらしく、チーム・クロードが受け入れた研修生は『Aクラス+吾郎とエミル』ということになったらしい。
 秋から半年のメンテ整備研修中に、なるべくAクラスの青年達とも情報交換を心がけていたせいか、彼等は吾郎がこの研修クラスに選ばれた事を邪険にせず、歓迎してくれた。
 ただ……この『毎日がキャプテンのお供』というのが、どうも皆、納得できないらしい。最後にはエミルにまで妬かれる始末。
 だからといって、やっかみで意地悪いことをされるなんてことはなかった。いや、心の底ではあるのかもしれないが、なんといっても『キャプテンの判断は神の判断』に等しいが為、愚痴でもクロードの判断を批判することは決して誰も出来ないのだ。
 それは青年達だけでなく、現役メンテ員の先輩達も同じだ。
 しかし吾郎は感じていた。同期生になった青年達の羨ましそうな視線はともかく、現役の先輩達の……納得できていないような目線を。

「今日はカタパルトに立つからな」

 まじっすか!? と吾郎は日本語で叫んでしまった。
 勿論、クロードは静かに眉をひそめ『なんと言った?』と淡泊に聞き返してくる。

「いえ……。俺なんかが、カタパルトの発進を?」
「お前だけじゃない。他の研修生にも順番にさせるに決まっているだろう」

 これまた静かな色ない声。
 そしてごもっともなお言葉に吾郎は『そうでした』と答える。

 そんな彼と共に走ってカタパルトの発進台へ向かう。
 半年前、ジャルジェチームに混じって走った時はちっともスピードについていけなかったが、今は落ち着いてその流れを掴むことが出来る。
 それは新卒研修生と共に学んできた知識、そして半年間怠らなかった体力作りがそうさせていると、吾郎は身体いっぱいにその成果を実感することが出来ていた。しかも研修が始まってから知った憧れのチームで、密かに目指していたチームで。

 やっぱり努力して勝ち得ることは、なんて素晴らしいことなのだろうか。
 吾郎はカタパルトに立って、空を清々しく見上げた。
 俺、頑張った。そして一つの目標を達成できた。これでお嬢さんにも澤村中佐にも胸を張って報告できる。きっとあの澤村中佐も、このチーム・クロードの研修を受けたことで、吾郎もフランスの難関を通ってきたメンテ員として一人前に認めてくれると……。
 ちょっとだけ。大好きな彼女のモトカレへの対抗心も混じっていたりして……。だから、なおさら達成感があるというもの。

 せっかく出来た彼女とは別れる時がやってくるが……。
 でも吾郎はメンテ員として胸を張れるものを『自信』を手に入れた!

 小笠原に帰ってから、男としてどのような目で皆に見直してもらえるか。
 そして帰省して、両親にも報告し、喜んでもらいたい。そして母ちゃんには、息子はしっかりとやっていると安心して欲しい。
 それももう目の前で、吾郎の中では『帰国したら……』どのようなことが待ち受けているかという期待感も溢れていた。

「キシモト。先ずはよく見ていろ。俺達で発進をさせるからな」
「ラジャー、キャプテン!」

 目の前でカタパルト発進を見るのは初めてではない。マルセイユに来た時に、ジャン先輩の発進を目の前で見た。だがあの時は目が回っていた。
 しかし今日は違う。クロードキャプテンと側でアシストをしているメンテ先輩の確認作業をじっくりと眺め、頭に叩き込む。
 目の前から戦闘機が、カタパルトを滑り飛んでいく──。

「よし、キシモト。やってみよう」
「ラジャー」

 憧れのキャプテンと一緒に、夢の戦闘機発進作業。
 吾郎の確認と指示で、スムーズに戦闘機が発進。ついに、吾郎は甲板から空へと戦闘機を見送っていた!
 ああ、今、青空に向かっていく戦闘機が、葉月が乗っているホーネットに見える。
 彼女だっていつかはきっと……コックピットに戻ってくる。吾郎はそれを信じて、ひたすら前へ行こうと思った。

「よし、いいぞ。今の落ち着きを忘れずにな」
「はい、キャプテン」

 この日は最後まで、カタパルトで戦闘機の発進をアシストした。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 実務訓練をしている戦闘機を発進させたり、着艦した戦闘機の整備をしたりで夕方までびっちりと働く。
 この日の研修も終わり、Aクラスのメンバーとエミルと共に連絡船に乗って陸に戻ろうとしていた。

 帰りの船は、クロードキャプテンと一緒になった。
 彼がこれまたどうしたことか、吾郎の隣に座った。

「これが終わったら、オガサワラに帰るのだな」
「はい。その後は、サワムラチームにお世話になる予定です」

 クロードはそこで甲板では見せることのなかった微笑みを浮かべ、『そうか』と一言。サングラスをさらりと取り払うと、いつもの厳つい表情とは裏腹の、穏和なつぶらな眼が優しく緩んでいた。彼はその目で、船窓の向こうに見える夕暮れに染まり始めた波間を見て、懐かしそうに呟き始める。

「あれほど生意気な男は後先いなかったな」
「……澤村中佐のことですか?」

 彼の誘いを散々断ったというエピソードは吾郎も既に聞かされていること。
 彼が生意気というなら、隼人しかいないのではと吾郎は思った。
 そしてやはりその通りだったようで、隣で腕を組んで座っている彼が懐かしそうにこっくりと頷いた。

「そうなんだ。新しいシステムに部品や機器など、俺のところで受け持った現役メンテ員のそんな研修は何度も受けに来て、実技面でも勉強熱心だった。その熱心さだけでなく、工学の面からもメカにも詳しい点を買って、こんな奴が欲しいなと思って何度も誘ったのにさっぱりだった。……たぶん、あれなだな。現場の感触も彼にとっては大事なもので、でも本当にやりたいことは工学のメカニックなところだったんだろうな。だから最後には諦めた。しかもあの男め、オガサワラに飛んで行ってしまいやがって諦めざる得なかったと言おうかな。しかしあの男は『これだけやる』と決めたら周りに流されずにとことんやる男だったんでね。とても印象深く残っている」

 ああ本当に『ハヤト先輩』はマルセイユの人の心の中に深く根付いているんだなと、吾郎は帰国前になって久しぶりに『亡霊』に鉢合わせをした気分になった。
 しかしそれも慣れた。そして受け入れられた。なによりも、この街にいてそれだけ彼が親しみ、そしてここの人に親しまれていたかを知り、さらにその先輩が残した痕跡から溢れてくる恩恵が吾郎を守ってくれたりしてきたのだから。彼のことをとても尊敬している。

「しかも向こうに行ったら行ったで、サワムラはメンテチームを短期で結成させ、キャプテンになるだなんて。それを聞いてはらわた煮えくり返ったほどだった」

 でも、彼は笑っていた。

「それをやりのける程の男だったなら、俺のチームの一員として収めるには勿体ない男だったのかとね。なんだか部下にしようとしたのに、肩を並べられたという男の悔しさかな」

 それでも彼は笑っている。
 口では憎々しく思っているのだろうかと感じさせる発言ではあるが、サングラスを外した彼の柔らかな目線にはそんな邪心などちっとも見せていなかった。それほど、真っ向から隼人を認めているのだと思わせてくれた。

 しかしこの話の流れで、吾郎は思ってもいない穴に突き落とされることになる。
 懐かしい思いを語っている目の前の畏れ多いキャプテンが、その穏やかな微笑みのまま言った。

「その男のチームの一員になるという後輩が送られてきて、他のチームに研修なんて任せられるかと思った」

 この時、吾郎の頭脳の動きがが一時静止した感触。
 吾郎にも何が起きたのか分からないが、なにか……すごくショックという一撃があったのだけが分かった。
 まだ事態を把握できない吾郎に、なにも気が付いていないクロードがさらに笑顔で言う。

「キシモト、安心しろ。俺がみっちりと仕込んでオガサワラに返してやる。ハヤトを驚かせるほどにな──」

 キャプテンからの有り難い申し出。
 だから? だから、キャプテンは必要以上に吾郎を傍に置いて、あれやこれやと丁寧に教えてくれているのかと……。
 やっと先輩達の、妙な視線の訳を知った気がする。
 つまりそれは、キャプテンのちょっとした『私情』が入り交じっていると言うこと? 自分の思い通りにならなかったサワムラという男に、まだまだ威厳を示したい為の?

 そして吾郎はもっとショックなことに気が付く。
 先ほどの頭をガンと打ち付けた一番最初の衝撃がなんであったのか……。

(俺の、努力じゃなかったということ……?)

 ゼロに近いところから、自分より若い青年達と一緒に学んできたことも。根をあげてしまいそうな体力作りも……。必死に取り組んだ筆記試験も。もしかするとという思いを秘めて、決して手を緩めない前進をすることで何かを信じてきた。だからマルセイユ部隊一番のメンテチームの研修に『己の努力の成果』を憧れのキャプテンが目に止めてくれ、選んでくれたのだと思っていた……。

 違った……。
 ここに、今までにない『巨大な亡霊ハヤト』がいた。
 そしてその亡霊は憧れのキャプテンにも取り憑いていた。

 船は陸に着岸し、隣にいたキャプテンが『また明日な、ゆっくり休んでおけよ』と労うように吾郎の肩を叩いて船を下りていった。

「どうした、ゴロー?」

 エミルの声。そして遠巻きにしてキャプテンと会話する吾郎を羨ましそうに見ていたAクラスのメンバー達がこちらを訝しそうに見ていた。
 だが吾郎は日が暮れる船室で、そのまま暫く茫然とし、立ち上がることが出来なかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夜が更けていく。
 今、吾郎は何処にいるか分からなかった。

「ゴロー!? ど、どうしたの?」

 気が付けば、目の前に大好きな彼女がいた。
 買い物袋を手にして、仕事帰りの彼女。
 そして吾郎はそんな彼女の部屋の玄関前に突っ立っていた。

 どれほどここに突っ立っていたか分からない。
 でも、ここに来てしまっていた。

「今夜はこないかと……」

 彼女もとても訝しそうで……。
 しかし吾郎の口からは何があったかは、言えそうもなかった。

「待ってね。今、開けるから」

 バッグからキーホルダーを出した彼女が、玄関の鍵を開け、暗い部屋の中へとすかさず入れてくる。
 灯りがついた部屋。吾郎は真っ先に窓辺の小さなソファーに力無く座り込んだ。
 言葉が出ないまま、ただ項垂れていた。
 そしてセシルはテーブルに買い物袋を置きながら、なにか話しかけたいのにそれが出来ずに戸惑っている顔でこちらを見ている。

「……ごめん。寄宿舎にいたくなかったんだ」
「なにか嫌なことでも? 先輩に酷くしごかれているの? 甲板はきついの?」

 やっと彼女から繰り出される質問。
 でも、どれもこれも……的を射ているものではないので吾郎は力無く微笑みながら首を振る。
 勿論、嫌なことがあったのは正解なのだが、彼女が言いたいところの嫌なところではないだろうと否定した。
 誰も吾郎に危害など加えてはいない。先輩に必要以上にしごかれているわけでもないし、甲板での訓練は念願、今までの研修よりさらに充実していた。そして、今日のキャプテンの悪気のない本心から出た言葉だって、彼にしてみたら吾郎を恥ずかしくないように帰国させようと、懸命に指導をしたい気持ちから出た言葉。自分より若い男であるが認めた男でもある隼人に、フランスメンテ員として胸を張れるような一員を育てたのだという、トップとしての心構えからきたものであるだけで、なにも吾郎のなにもかもを認めていない訳ではないのだと……。ちゃんと、分かっている。

 でも、ショックだった。
 これは紛れもなく感じてしまった吾郎の本心なのだろう。

 そして吾郎は気が付いた。
 本当は心の底から、隼人という先輩を超えたいし、彼がそうだったようにクロードキャプテンから切望されたいのだと。
 そんな大それた事、『傲っていた』のだと吾郎は恥じた。誰もが同じように通ってきた研修をやり遂げようとしているだけで。この歳になってからの再出発で、初めて掴もうとしている思い描いた夢が目の前にあって。なのに『俺はすごいことをした気分』になっていたのだ。確かに今までにない努力をした。それを、それを、世界を制したような大きな気持ちになってしまっていたのだ。本当は大したことではないのに……!

 実はそれほどでもないことで……。

「いいのよ、ゴロー。ゆっくりしていって……」

 そんな柔らかい声に我に返ると、小さなソファーの隣には彼女がいて心配そうに吾郎の顔を覗き込んでいた。
 そして吾郎を抱きしめてくれる。いつの間にか嗅ぎ慣れた彼女の匂いが、吾郎を優しく包み込む……。

 吾郎が力無く頷くと、彼女はそれ以上は触れまいと吾郎をそっと一人にするかのようにバスルームへと消えてしまった。

 夜が更けても吾郎はずっと、そのソファーに座っていた。
 そしてセシルも、そんな吾郎を遠巻きに眺め様子を窺っているだけ。

「私、今日はこっちの部屋で眠るから。ゴローも適当に休んでね」

 それだけ言うと、彼女は吾郎の目に触れない部屋へと行ってしまった。
 いつも抱き合っている彼女のベッドを空けて……。
 そんな彼女のさりげない気遣いにも、吾郎は……そんなことをさせている男として情けなく思い……。不覚にも僅かながらの涙がこぼれた。

 研修はあと最終段階の合宿を残すのみ。
 帰国は目の前だというのに……。
 まるで半年間の何もかもをぶち壊されたような気分になっていた。

 早く、早く……。つい昨日までの自信に溢れていた自分に戻らねば。
 言い聞かせど、言い聞かせど、この夜の吾郎は粉々に砕け散った気持ちで夜明けを迎えた。

 

 心配そうな彼女を傍目に、吾郎はそれでも訓練へ行こうと出勤の支度をする。
 そして同じように出勤の身支度をしているセシルは、この朝も吾郎にはなにも言葉をかけてはこなかった。

「来週から十日ほど、空母艦での合宿になってずっと海の上なんだ。暫く、こられないよ」
「そう……」
「その前に、会えそうだったら来るから」

 セシルがブラウスのボタンを留めながら黙り込む。

「ごめん……。帰る前に……」

 つまり言い換えれば、『もすうぐ別れるというのに暗くなってごめん』ということ。
 吾郎はやっと顔をあげ、彼女を見た。
 しかし彼女はいつもの顔で、キビキビと出かける支度を続けている。いつものぴしっとした黒スーツ姿で、洒落たバッグに化粧品やら手帳やら詰め込んでいる。
 彼女はオーナーだけあって、気丈なところがあると思う。吾郎のような泣き言は言わない性分だろうし、その通りに吾郎も一度とて耳にしたことがない。いつだって笑顔で吾郎を明るくさせてくれた。
 そんな彼女だから。幻滅したのだろうか? こんな情けない男のことを──。今の吾郎にはそんなふうにしか思うことが出来ない。それほど自信を喪失したのだ。

「ねえ、ゴロー。何があったか知らないけれど……。でも私、不謹慎だけど嬉しかった」
「は? な、なにが……?」

 仮にも恋人である男があれほど情けなく落ち込んでいたと言うのに、目の前の可愛い彼女はいつもの顔でくすっと愛らしく笑っている。
 吾郎は唖然とした。

「だって、私ばかり寂しい顔を見つけられているのかしらと思ったの。気が付いていた? 実はゴローの方がちっとも弱みを見せていなかったのよ」

 そうだったかなと、吾郎は振り返る。

「それで……。異国で頑張っている貴方が、なにかがあって、じゃあ何処に行こうと思った時……。またここに真っ先に来てくれて嬉しかった」

 そっと頬を染めて、気恥ずかしそうに呟く彼女。
 それを見た吾郎も、その思いを聞き届けて、急に胸が熱くなる。

「……ゴローは、とても素敵な男になったと私は思っている。だから私の前では胸を張ってね。自信を持って大丈夫」
「そ、そうかな」
「うん、だってね……。ゴローったら……」

 そこで頬を染めている彼女が、さらに頬を染めて口ごもった。
 俯いて何かを言おうとしているのだが、それが言えない様子だった。
 でもやっと彼女が小さな声で言った。

「だってね……。ゴローったら、来た時は可愛い男の子に見えたのに。パリから帰ってきて再会したら、すごく逞しくなっているんだもの……」

 可愛い男の子に見えていたのかと、吾郎は今度は違う方向から衝撃を喰らった気分になる。
 しかしこれは逞しくなったという言葉で直ぐに解消はされたが、それはそれでどんなふうに思われていたかを初めて知って驚かされる。
 あ、でも何ヶ月ぶりかに再会するきっかけになった彼女からの特別招待チケットに……そう言えば『可愛い笑顔を見せて』とあったが、あれは冗談じゃなかったのかと吾郎は改めてふてくされたのだが……。

「それに貴方にきっと似合うだろうと思ったカットをしたら益々男っぽくなって……。私のこともよく見てくれていて、良く気が付いてくれるし、仕事で出会った男なんかよりずうっと優しいし……。そればかりか……もう、裸になったゴローって、ゴローって……」

 また彼女がもごもごと口ごもっている。
 吾郎が黙っていると、彼女はテーブルの上に用意したジャケットとバッグを手にして出かけようとしていた。
 え? そこで止めて逃走するのか? と、ゴローは彼女を捕まえたくなってきた。
 だがセシルはバッグの中から、一つの鍵を置いて、真っ赤な顔で小さな声で呟き始めた。

「すっごい逞しい身体で、うんと強く私を愛してくれるんだもの……。私、もう……貴方が好きで好きで……。だから、自信を持って……!」

 え? 今、なんて言った? もう一度言ってーーと吾郎が叫ぶ前に、セシルはテーブルに置いた一つの鍵を吾郎の手元に突きだして玄関へと足早に逃げて行ってしまった。

 鍵?
 吾郎は何故、置いていったのだろう? と、それを手にとって首を傾げる。

「最後に『俺、やったよ』ってこの前みたいに私のところに一番に来て! それから、その鍵でちゃんと玄関を閉めてから出かけていってね!!」

 玄関からそんな声。そしてドアが閉まる音。
 ……うん、分かった。ちゃんと閉めて出かけるよー。なんて、茫然としつつも吾郎は心の中で呟き……。あれ? と首を傾げた。
 閉めるって、彼女の部屋はオートロック。閉める時は鍵はいらないじゃないか。
 そしてようやっと、恋人初心者の男は気が付く。

 え!? これって合い鍵!?
 それとも、また返す為にここにこいって事?
 じゃない! セシル〜、さっき言ってくれたことをもう一度良く聞こえるように言ってくれーー! 俺のこと好き好き好き大好きって言っていただろう? そればかりか、なんだか俺のこの身体で抱かれるのが好きって……! ──やや飛躍した考えが彼女の本当の言葉を勝手に大きくしていくのだが、吾郎にはそう聞こえたにも等しかった。

 吾郎は制服の上着を慌てて羽織って、支度もそこそこにセシルの部屋を飛び出した。
 マンションを飛び出すと丁度、彼女が白いワーゲンで出ていくところ。

「わー! 待て待て待て!!」

 道路に出て危ないことも顧みずに彼女の車を正面から止めた。
 びっくりした顔の彼女が、致し方ない顔で運転席のウィンドーを開ける。

「危ないじゃない!! 本当に、真っ直ぐ馬鹿っ!」

 だが吾郎はそんな彼女の顔が見える窓に手をついて、身をかがめる。
 そしてなにも予測していないだろう彼女の唇を塞いで、軽く吸った。勿論、不意打ちを……こんな公衆の面前でくらったセシルはとっても驚いた顔。

「メルシー。きっと、セシルに一番の報告に来る。満足できる自分であるよう、行ってくるよ」

 ……昨夜の沈んだ気持ちがすっかりなくなっていた。
 愛し始めた女性の存在がこんなに大きいだなんて思わなかった。

「うん。待ってる……」
「これ、アリガトウ」
「ドウイタシマシテ」

 笑顔で鍵を受け取った吾郎。
 朝の出勤時間。道の真ん中で熱く見つめ合う恋人同士を冷やかし急かすクラクションが、あちこちから鳴り響いていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 気が付いた。
 まだ自分の中では、なにもかもが中途半端なんだと。
 まだ始まったばかりで、終わってはいない。そしてこのまま終わらせてはいけない。

 最終日は雨だった。
 甲板は濡れ、空の視界が悪い。
 しかしだからこそ、最終日に良い経験が出来たとも言えたかも知れない。

 十日間の母艦合宿が終わった。

「よく頑張ったな。まあ、まだまだ課題はあるが後はオガサワラで経験を積んでいけばいい」
「メルシー。キャプテン」

 合宿も終わり、母艦で一時的に使っていたロッカーの整理をしていた時だった。
 この日も、他の研修生がいる中、クロードキャプテン自ら吾郎の元に労いに来てくれた。
 それも今となっては吾郎も気にならなくなり、そして同期生の青年達も半ば呆れた顔、そしてもう慣れた致し方ないことだと言いたげな顔で流してくれていた。
 ただ、エミルには吾郎はちゃんと打ち明けていた。
 なにもかもが澤村という先輩の恩恵で、自分の努力の全てが出した結果ではなかったと言うことを……。するとエミルは『だったら俺もゴローのおまけだったのかな』と言い出した。しかしエミルはBクラスのトップにいたのだから、元よりAクラスにいてもおかしくなかったからこそ選ばれたんだと吾郎は繕ったのだが、やはりエミルもAクラスの同期生達と混じって日々を過ごすうちに『俺ってまだまだ』と彼なりの再認識をしてしまっていたようだった。
 二人で『まだまだだったな』と、チーム・クロードに選ばれて飛び上がっていたあの気持ちは想い出と化していた。
 『まあ、でも俺達これからだし』、『そうだよな』と互いに互いを励まし合い、最終日を迎えた。

「終わったな」

 Aクラスの同期生の一人が、雨上がりの空を見上げて呟いた。

「ああ」

 訓練校を出て、基地の先輩達に混ざって最後の研修。
 それも半年間。新卒である彼等の訓練生としての日々が終わろうとしている。
 様々なことがあっただろう。それを皆で空母の空を眺めて確かめ合っているように吾郎には見えた。
 しかし徐々に皆が笑顔になってくる。

「あとは終了式を終えて、入隊」
「そして配属。甲板に出るぞ!」

 彼の目の前は、今まで夢見た甲板要員としての新しい日々が輝いて待っているよう……。
 吾郎もエミルと微笑みあった。

「あー。ゴローはついに帰国か」
「終了式には出るんだろう?」
「正装、持ってきたのかよー」

 Aクラスの彼等とも既に戦友。
 彼等からも次々と今後について尋ねられる。

 だが、吾郎はそれなりに答え、笑って流した。
 エミルだけは気が付いていて、複雑そうな顔。

「ゴロー。本気なのか」
「ああ、合宿の間によりいっそう、決心が固まったよ」

 彼が小さく言う。『そりゃ、そうなったら俺も嬉しいけれどさ……』と。

 訓練生として走っていた甲板を後にする。 
 連絡船に乗り込むと、どんよりとしていた雲間からは光の筋が──。
 吾郎は拳を握って、十日振りの陸への到着を待つ。
 なぜなら、陸に着いたら、吾郎の新しい挑戦が始まるからだ。

 

 陸に上がり、吾郎は着替えもせずメンテ服のまま、真っ先にジャンの元へと訪ねる。

「お疲れ! ゴロー!」

 吾郎を見るなり、彼はいつもの大らかさでがっしりと『良くやった』と抱きしめてくれた。
 吾郎も笑顔で『メルシー』と抱き返す。
 落ち着いた彼は席に座り直すと、何かのバインダーを開いて、早速吾郎に尋ねた。

「帰国、いつにするか? ハヤトからもそろそろだろうってメールが昨夜届いていたよ」

 一つの役目が終わって、彼も嬉しいのか……。
 だが、吾郎は良く面倒を見てくれた彼に少しばかり申し訳ない思いで、言い放つ。

「俺、もう少しここに残りたいと思っています」

 ジャンが何が聞こえたか分からないと言った呆けた顔をしていた。

「しかし、ハヤトが……」
「澤村中佐にも、御園嬢にも、俺から言います。とにかく、まだ俺、自分自身に納得していません」
「いや、それならオガサワラで……」
「いえ、マルセイユでやり遂げたいことがあるんです。お願いします。俺の我が儘が何処まで通るか分かりませんが、置いてくれる限界まで俺をここにいさせてください!!」

 吾郎は『お願いします!』と日本語で叫んで、ジャンに深々と頭を下げた。
 ジャン先輩は呆けた顔のまま、そんな吾郎を見ているだけだった。

 

 

 

Update/2007.10.7
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