【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![8]

 空高く、真っ白な制帽が飛び交う。
 そしてトリコロールカラーの噴煙を優雅に空に描く戦闘機が、頭上を過ぎ去っていく。
 外の芝庭で行われた新卒訓練生の、研修終了式。彼等の二度目の卒業式であって、そしてこれこそが本当の卒業式と言えるのだろう。
 真っ白な正装制服を着込んだ青年達は、皆、輝いていた。

「ゴロー、行くのか?」
「ああ、うん……。約束だから……」

 エミルに聞かれ、吾郎は制帽の黒いつばをつまみ、照れくさいあまりにその顔を隠した。

「ちぇ。上手いことやったよな。でも俺、なーんか感じていたんだ。マスカレードのオーナーとゴローの初対面をみてさ……」

 初めてセシルに会った時のことをエミルの言葉で吾郎も思い出す。
 なんでゴローなんだよ〜と、不満げなふてくされ顔をしているエミルだが、次には笑って肩を叩いてくれた。

「でも、しようがないっか。だって、俺達より二人はやっぱ大人だもんな。それにゴロー、めっちゃ格好良くなったよな」

 吾郎は自分より初々しい青年にそう言われ、益々、制帽で顔を隠した。

「近頃じゃ、基地の中ではサムライ二世だもんな」
「それいうなーー」

 本当のこと。ヘアカットはプロの恋人に格好良く手入れしてもらい、彼女が似合うと言ってくれた顎髭も健在。それに逞しく引き締まった身体。そんな吾郎の変貌に、基地の者達が『フジナミの次にマルセイユで誕生したサムライ』と言ってくれるように……。二世というのがたまにひっついてくるのがちょいと気になるが、まあ、仕方がないだろう。さらに、マドモアゼルからのお誘いも増えた。でも、速攻キャンセル。その頑ななところがまたサムライとか言われちゃって……。

(そうじゃないんだけれどなー。既に恋人がいるって言いにくいだけなんだよなー)

 しかし、卒業を目の前にしてエミルにだけ打ち明けた。
 彼は目を丸くして驚いてくれたが、それでも先ほどの彼が言っていたように『なんとなく、初対面の二人を見てそうなるような気がしたんだ』とエミルは感じたらしい。

「エミルはまだ暫くは、隊員寄宿舎で過ごすんだ」
「ああ、本隊員として落ち着くまでな。基地の中で生活している方が、今の俺にはなんでも済ますことが出来て便利だから」

 吾郎は『そっか』と頷く。
 小笠原にいる時は、吾郎も他の独身者も皆、そうだった。
 特に離島にいるだけあって、彼女は出来ない、外で暮らす物件が少ない、さらに僻地で行くところがない、店も少ない。となると、基地の中でタウン化し独自に確立されている基地社会で暮らしている方が便利で楽だった。結婚した者や、エリートで生活力があるもの、またはある程度の地位を持っていると、葉月のように外で暮らしたり、隼人や達也のように官舎の一室を許されたりするので、外で暮らす。しかし平隊員の吾郎はそれがなかなか出来ないので、大所帯の寄宿舎で生活をしていた。あとは横須賀基地経由の基地便で必要なものを取り寄せたり、休みの日には定期便で本島に遊びに行く……そんな独身社会人生活の数年だった。

 エミルはそうして本隊員への生活へと、新しいスタート。
 そして、吾郎は……。

「じゃあ、オーナーによろしくな」
「うん、エミルの話も良くするから、また連れてこいって言われたよ」
「やった。行く行く! 今度はオーナーにカットしてもらいたい!」

 吾郎は笑って『そう伝えるよ』と手を振り、研修式を終えた芝庭を後にする。
 エミルはいつものクラスメイトの輪へを戻っていった。

 本来なら、吾郎もその輪に入っていきたいのだが……。
 しかし今から、とにかく、急がねばならない。

 吾郎はそこへと向かう。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 急ぐ前に、吾郎は最近知った酒屋へ寄る。
 そこでワインを一本、購入した。

「いいね、白い軍服。今日はなにかのお祝いかい?」

 店主のオヤジさんにそう言われ、吾郎は微笑む。

「そうなんです。僕、今日、空母甲板要員の一員になれたんですよ!」

 吾郎も嬉しさ溢れるあまりに、心にあるまま言ってみる。
 オヤジさんも『それはすごい』と、お祝いだとかで、ワイン代を少しだけまけてくれて吾郎は驚いた。
 またその暖かさが嬉しすぎて、吾郎はつい口を滑らせた。

「実は、今から彼女と祝杯なんです」
「これはこれは。ご馳走様」

 最後にはちょっぴり恨めしそうなオヤジさんの横目。
 でも最後には『お幸せに』と送り出してくれた。

 ……でも、本当は。この卒業式の日がどんな日であるか、吾郎とセシルは分かっていた。
 整備士としての吾郎にとっては喜ばしい夢が叶った日で。そして、期限付きの恋人である二人には『お別れの日』。

 吾郎はちょっとだけ、唇を噛みしめ、買ったロゼのボトルを大事に抱えて彼女のマンションへと向かう。

 

 せっかくもらった合い鍵。吾郎は躊躇わずにそれを使った。

「ボンジュール。セシル?」

 ドアを開けて、彼女を呼んだ。
 でも彼女が既に帰ってきているのも判った。
 部屋中、美味そうな料理の匂いが漂っていたからだ。
 そしてキッチンからも、何かを焼く音が聞こえる。

「ゴロー? 来たの?」
「うん、入るよ」

 玄関の廊下から、いつものこぢんまりとしたリビングに入ると、綺麗コーディネイトされたテーブル。いつも裸のテーブルに爽やかなグリーンのテーブルクロスがかけられ、春らしいピンク色の花も飾られている。そして白い皿がレストランのように並べられていた。

「わーっ。ゴロー!」

 キッチンから彼女がやっと出来て、吾郎も振り返る。
 そこには若草色のワンピースで女性らしい装いをしているセシルがいた。彼女は白いレエスのエプロンまでしていて、いつも凛としているビジネスウーマンの雰囲気とはまったく異なっていた。
 しっとりとそれでいて愛らしいフェミニンな彼女。初めて見た気がして、吾郎の頬が一気に熱くなる。

「素敵ね、白い礼装」
「セシルこそ。いつもスーツのセシルしかみていないから。……ええっと。可愛い」

 吾郎がぽつりとそう言うと、セシルも気恥ずかしいのかちょっと俯いて赤くなっている。

「あまり、こういうの着たことがなくて。でも、今日の為に買ったの。着るの楽しみにしていたし、ゴローにも早く見てもらいたかったから。嬉しい……」
「なんだ。黒い服しか好まないのかと思っていたけれど。着るなら、『これからも』、もっともっと見たいなー」

 彼女がハッと驚いた顔をした。
 吾郎もハッとした。

「……な、何言っているのよ」
「……そ、そうだったね」

 『これから』だなんて、今日が別れの二人にはないはずの言葉。
 だけれど、吾郎は彼女を見て、とても感激していた。
 これが最後の別れだという時に、とても女っぽい装いをしてくれて……。最後に素敵な彼女でいたいと思ってくれたのだろうと、吾郎はそんないじらしい彼女を今すぐ抱きしめたくなる。
 でも──。そうじゃない。これから吾郎が彼女に言うことは、今後のあらゆることを左右し、さらなる心構えが必要になってくる。
 今はここで言うまい。もう少し後……そう食事をしながらでも……。

「これ、買ってきたんだ」

 吾郎はとりあえず買ってきたロゼワインをテーブルに置いた。
 彼女がちょっと不機嫌そうに『メルシー』と呟く……。
 『これからも』だなんて。あってもいけない、言ってもいけない言葉を何故言うのか──。彼女がそんな気持ちで怒っているのが吾郎には伝わってくる。
 でも彼女は直ぐに笑顔になる。

「ラタトゥイユのハーブチキンと、ママン直伝のブイヤベースを作ったのよ」
「うわーい。俺、セシルが初めて食べさせてくれたラタトゥイユチキン、大好きだ」
「みたいね。あれからも何度もリクエストしてくれたものね。ブイヤベースも気に入ってくれると嬉しいな」

 きっと気に入る、気に入ると吾郎ははしゃぎながら、直ぐさまテーブルについた。
 セシルも早速食べようと準備に取りかかる。
 彼女がテーブルに料理を並べている間、吾郎もグラスを並べて、彼女に渡したロゼワインのボトルを再び手にする。
 グラスの側に置いてあったワインオープナーを手に取り、ボトルの栓周りを包んでいるアルミを切り開き、コルクを静かに引き抜いた。
 すると彼女の、おかしそうに笑う声。

「上手くなったわね、ワインボトルを開けるの」
「え? ああ、うん。最初はコルクを半分に折ってしまったり……」
「……そう。コルクが上手く引き抜けなくて、私がやってあげたりね」

 そうだったと、吾郎も笑う。
 セシルがとても懐かしむような目で、吾郎を、温かく……見ている。

「ゴローの手にも、ここの何かが残るのね。それだけでも、嬉しい」

 優美に微笑んでいるけれど……。俯き加減の微笑みが、なにを覚悟しているか判って吾郎は堪らなくなる。
 せっかくの食事だから。せめてそれを楽しんでから『これから』について話し合いたいと思っていたのだが……。
 吾郎は開けたボトルをそっとテーブルに置く。

 麗らかな午後の日射しが入ってくる彼女の部屋。
 そこで笑顔でありながら、哀しそうな眼差しを伏せている彼女に吾郎は言う。

「セシル、俺……」

 滅多に着ない真っ白な正装も、日射しに輝いていた。
 吾郎はいったん、窓辺の日射しに目線をおく。微かな潮の匂い。遠くから船の汽笛が聞こえてきた。
 南仏の、そんな景色の中、光の中に、なんだか当たり前のようにいるな……と、こんな時なのに吾郎は思った。
 しかも小笠原では滅多に着ない正装姿で、初めての恋人の前に存在している自分。
 これからどうなるかなんて、分からない。でも、今、ここにいる自分はとても充実しているし、日本にいる時よりずっと自分に自信を持てるようになり、自分のことを初めて好きになったような気がした。そうだ。『これから』だって少しずつで良いから、同じような気持ちで一日一日を積み重ねていけばいいんだ。
 その果てには何があるか分からないじゃないか。どうなるか分からないじゃないか。──今、異国の光の中にいる自分のように。

「セシル。俺、まだここにいることになったんだ」

 吾郎がそれを告げると、セシルはきょとんとしていた。
 たぶん、何を言ったかまだ分かっていない顔だなと吾郎も思った。

「そのう……。まだここで吸収したいことがあって、もう少しここでメンテの勉強をすることになったんだ。帰国は先延ばし──。小笠原からも許可済み。ジャンキャプテンのチームに在籍保留の形も受け入れてもらえたんだ。藤波隊長も応援してくれて、それで……」

 それで、『これから』なんだけれど──。吾郎がそれを言おうとした時だった。

「な、何言っているのよ! 帰らないと駄目よ!!」

 彼女の方が驚くと思ったのに、吾郎の方がびっくり硬直してしまった。
 目の前の彼女はとても怒った顔。

「それはなんの為なの!? 私、ゴローはそんな約束を破る人だとも思わなかったし、簡単に目標を変えるような軟弱な男性とも思っていなかったのに! もしかして……もしかして……!?」

 もしかして……。興奮した彼女が、そこで口ごもり黙り込んだ。
 吾郎にはセシルが言いたくて言えなかったことが何であるか、よく分かっていた。

「はっきり言うよ。セシルの為に引き延ばしたんじゃない」

 間も挟まず、尚かつ迷わずに言い切った吾郎を見て、今度はセシルが固まっていた。
 だが、吾郎にとってこれこそが誤魔化しようもない本心で、そして『こらから』の為にも、彼女にだけはきちんと言っておかねばならない真実だと思っている。だから曲げずに伝える。

「……じゃあ、なんの為に」
「俺の為」
「自分の勝手ということ?」

 吾郎はそれにも迷わずに『そうだよ』と真顔で答えた。
 すると、セシルがとても気が抜けたような呆れた顔になった。

「ハヅキとハヤトはなんて言っているの?」
「二人とも、あっさりとOKをくれた。納得するまで存分にやってこいって──」
「……ほ、本当に自分の為なのね」

 なんとかとりあえずという顔の彼女ではあるが、納得は出来たようだ。

「俺、今までは単に甲板要員になりたいだけだったんだ。それだけなら、ここで帰っても充分だと思う。でも……もう、違うんだ」

 そして吾郎は、目の前の、自分のことは一番良く知って欲しい女性を真っ直ぐに見て言う。

「見つけてしまったんだ。このマルセイユで『本当になりたい俺』を。それをひっさげて『大佐嬢』と俺の目の前に立ちはだかっている『最強のメンテ先輩』のところに帰りたい。それが俺の目標」

 そこまで言い切ると、どうしてか彼女が笑ってくれた。
 それを見て……。吾郎は泣きたい気持ちになってきた。
 彼女に、本当に愛されていると。自惚れでも、吾郎はそう実感した。
 男の勝手な夢、勝手な標識変更、勝手なコース変更。その中には、君の為になる愛の要素はどこにも含まれていない。でも、君に……そんな俺は走ってる姿を見て欲しいよ。そんな男の勝手な思い。──それを彼女が真っ向から受け止めてくれたという笑顔。

 なのに……。受け止めてくれた彼女は、その次には笑い泣きに変わっていた。そしてそれはやがて、本当の泣き顔に崩れる。

「ゴローの馬鹿」

 いつもより愛らしい女の子のメイクをしている彼女が、か弱く見えた。
 午後の日射しの中、彼女は吾郎から顔を背けて、手の甲で一生懸命に涙を拭っている。

「……これで終わりなら。間に合うのに」

 小さな呟きが聞こえた。
 良く聞き取れなかったが、吾郎にはそう聞こえ……。そして、それが何を意味するか吾郎には分かっていた。

「俺もだよ。その覚悟だった。今日も……『これから』、どうすれば……」

 そこまで言って、吾郎は言い換える。

「いや、どうすればいいかなんて、俺はもう答は出ている」

 どんな答え? そう言いたそうなセシルが泣き顔でこちらを見た。
 その顔は、マルセイユ市内で屈指の美容室のオーナーである女性の顔ではなかった。
 吾郎が近頃知った、この部屋にいる彼女の顔。すこしだけ、鼻の頭にそばかすがある素顔の、そして寂しい顔をする、そしてか弱い片鱗を見せる顔。
 夜、一緒に肌を寄せ合って眠った日々はそれほど長い年月ではない。むしろ、ここ一、二ヶ月という短い時間。でも別れるからこそ、今ここで燃え尽きようとしていた濃厚で凝縮された熱い時間。その間に吾郎が知って、そしてそれを最高の思い出に日本へ持って帰ろうと刻みつけていた顔だった。
 その顔に向けて、吾郎は言い放つ。

「この先、もしかするととても辛い形になっていくのかもしれない。でも、ここにいる限り、俺はセシルしか見えないと思う」
「ゴロー。でも、それって……」

 彼女が躊躇っている。
 それも吾郎には痛いほど解る。
 短い恋なら、これで終わって、良い想い出だったで終われる。
 だがこれから、吾郎が納得するまでという定まりのない期間、一緒にいればいるほど、特に吾郎の場合はもっともっと彼女に対して本気になっていくと思う。
 いずれは帰るとは決めている吾郎の『目標』。これだけは決して曲げることは出来ない、捨てることは出来ない小笠原との約束で吾郎の夢。そしてセシルも、吾郎が帰国しない場合は『裏切りの男』と決めている。だからここで帰ろうが帰るまいが、やはり二人にはいずれ離れる時がやってくるのだ。

 でも──。と、吾郎は思う。
 今、吾郎が思ってもいない状況にいるように……。
 真っ白な正装を着込んで、異国で甲板要員の夢を掴んだように、そして一目惚れの異国の女性と愛し合ったように……。小笠原で淡々と過ごしてきた平凡な男がまさかまさかこんなことになるだなんて、誰が半年前の吾郎を見て思っただろうか。吾郎自身だって今日という日は夢のような日だ。
 だから、解らない。半年先はなにがどうなっているか解らない。それなら、なにも解らないことに理屈を並べて、だから駄目だとかだから諦めなくてはとか勝手に決めることこそ馬鹿馬鹿しいことじゃないかと思った。

「それでも、先は誰にも分からない。だから、俺は今思っていることを、やり通す!」

 馬鹿みたいに拳を握って叫んでいた。
 熱血馬鹿みたいで、ちょっと恥ずかしかった。

 でも、気が付けば……。ふわりとした若草色の羽が吾郎を包み込んでいた。
 セシルが涙をこぼしながら、吾郎に抱きついていたのだ。

「セシル……」
「サムライって、皆、馬鹿ばっかり……! そして私も大馬鹿っ!」

 どうしてかな? セシルは吾郎に抱きついたまま、聞いたこともない大きな声で泣いている。
 それは嬉しいのか哀しいのか。でも、彼女は吾郎にきつく抱きついたまま離れなかった。

 だから吾郎も、静かに抱き返す。
 きっと、もう……。離せないだろうと吾郎は予感していた。

 それは言い換えれば、想像も出来ない哀しい別れへの始まり。
 そしてそれは、どうしようもなく泣き叫んでいる彼女セシルも、ちゃんとわかっている。だから彼女は泣いている。

 すこしだけしか続かない『恋人の日々』を選んでしまった二人。
 それでも目の前にいたら、忘れることなんて出来ない。諦めることなんて出来ない。きっと何度離れても、会いに来てしまうに違いない。
 引き返せないものを二人は既に抱きしめ、これからも握りしめて離せなくなってしまうだろう。  

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ──吾郎君、お元気ですか。
 貴方からメールが届いて嬉しかった。

 

 葉月からメールが届いた。

 

 新しい部屋でやっと回線が繋がったパソコンに吾郎は向かっていた。メーラーを立ち上げて、少し前に届いた彼女からのメールを、再び読み返しているところだ。

 

『吾郎君。私は今、甲板にいます。細川中将の監督下で、今まで中将がやっていた指揮を私がやっています。
……といっても、こんな小娘の指揮ですから、さっぱりです。
既に耳に入っているかも知れませんが、コリンズ中佐も指揮側に降ろされてしまい、シアトルから引き抜かれてきた新しいキャプテンがビーストームを引っ張っています。そんな新しいキャプテンと馴染むのに精一杯の日々です。』

 

 コックピットに今はいないという葉月。そんな彼女自身からの声が吾郎に直に届いた。

 

『今は甲板にいますが、私はコックピットを諦めた訳ではありません。
それに甲板に降りて初めて……。自分が知らなかった空の世界を知ることが出来ました。
今まではコックピットは自分だけの世界でしたが、甲板に降りることによって、コックピットのパイロットと甲板にいるメンテ員と、そして指揮官はひとつなのだということを痛感しました。
可笑しいでしょう。こんな当たり前のことを、私は知らなかったのです。』

 

 葉月がこんなに沢山の言葉で返事をくれるとは思わなかったが、彼女が甲板に降りてしまった心情を推し量ることが出来ずにいた吾郎には、その不安を解消できる納得できる返事がそこにあった。
 吾郎から『どうして甲板にいるのか』と聞いた訳でもないのに。単に『もう少しここで学びたいことが出来たから、延長しても良いか』と問い合わせただけなのに……。
 でも吾郎は嬉しかった。彼女からこうして現状をしっかりと報告してくれると言うことは、吾郎との約束を忘れていないと言う事だと思った。

 ただ、その先に書かれてあった一節が吾郎にはとても気になっていた。

 

『私はコックピットに戻ってやらねばならぬことが残っています。
それをせずして、コックピットを降りるつもりはありません。
……私には、今までコックピットにいた理由があるのです。
だから、まだ降りません。
今はただ、甲板指揮の修行上、私もやりたいことが出来たのでそちらに集中しておりますが、コックピットには戻るつもりです。
その時が近づいてきたら、必ず、吾郎君に前もって連絡します。』

 

 この時、吾郎の心に……。なにか今までにない、訳も分からない不安が心にふっと浮かんだ。
 彼女がコックピットを諦めていないことが分かったのに……。
 でも、なんだろう。やらねばならぬ理由とか、残しているとか、今までの理由とか。まだ吾郎の前ではぼかされているが、それが言いたいけれど言えないような彼女のもどかしさが隠れている気がした。なにか釈然としないものが渦巻いているような……。
 そんな気にさせられたのも、さらに引っかかる彼女の言葉があったからだ。

 

『送り出した吾郎君が、それほどに熱中できることを見つけてくれて私は嬉しいです。
私達、甲板での再会を約束しました。だけれど私はなにも、その約束を守って欲しいだけに送り出した訳じゃありません。
私はあの雨の日、そしてその後に貴方を眺めていて思っていたのです。貴方のような気遣いを忘れない優しい人が、とても強くなって自分らしく歩き出すとしたらどうなのだろうと。『夢を見ていた』のです。
……私ね。本当は、弱くて駄目なの。それを吾郎君にやってもらって、見せてもらいたいな……。そう思っていたの。ね、人に自分の夢を被せて見てみたいだなんて弱いでしょう? ごめんね、そんな独りよがりを吾郎君に押しつけていたのかと後になって気が付いたの。』

 

 この時点で『あれ、俺が知っている彼女じゃない』と吾郎は感じた。
 彼女ほど、男顔負けの突進力で前に突き進み、あれほどの地位と仲間を得た人は他にはいないと思う。
 誰もが羨む、思い切った行動力、発想、巧みに下す判断力。彼女のようになりたいと、夢を見るなら、彼女を見ている周りの人間の方だと思っていた。
 なのに、そこまで突き進んだ彼女が、この平凡だった吾郎を見つけて『夢見ていた』なんて……。 
 でも、こうして本当にマルセイユに送り出してくれたのだから、嘘だとも思えなかった。

 

『私ね、あるものに縛られたままなの。
今はまだ、吾郎君には言えないけれど。
その為に、パイロットになったから。
だから、まだ終われない。』

 

 何度読み返しても、最後はそこで吾郎の目は釘付けになる。
 そこだけなんだか、葉月の生の、裸の、素の声が文字となって強く貼り付けられ、吾郎に訴えかけてくる部分なのだ。

 彼女のこと、強いと思っていた。
 なのに、吾郎にそんな夢を重ねて、自分に出来ないことを吾郎に見せて欲しかっただなんて。……らしくないと。
 でも、それがもし本当なら……。

 

『でも、だからこそ。吾郎君が夢を叶えてくれ、そしてさらに自分の目で見つけたことでもっともっと前に行きたいという決意を持ってくれたことは、送り出して夢を見させてもらった私には、とても嬉しいことでした。
有難う、吾郎君。
だから、今は貴方の思うままに突き進んでください。
私ももう一度コックピットを目指しながら、今始めている新しい仕事に取り組んでいきます。』

 

 最後にそのように締めくくられている前向きな彼女の様子に、とりあえずほっとすることが出来る。
 ともかく。葉月は吾郎の研修延長をバックアップしてくれると言う。

 彼女がコックピットを諦めていないことにも安心し、そして彼女も新しい与えられた任務に打ち込んでいることを知って、吾郎は久々に大佐嬢パワーを充電した気持ちになれる。……まあ、なにかひっかかる彼女のメールではあったが?

(なんだろう? パイロットになった理由って……)

 改めて、そう思わされた。
 実家が軍人一族だからだと思っていた。単に飛行機乗りになりたかったのだと思っていた。お転婆だから、チャレンジしたのかと思っていた。
 ……やはり何かあるのだろうか。

 

「ゴロー」

 

 その声に吾郎は振り返る。
 開け放してある窓から、また船の汽笛の音。
 今度の窓は、遠くに港が見え、船も見える。

 そして整った部屋には、恋人がいた。

「またハヅキからのメールを見ているの?」
「ああ、うん。ちょっとひっかかって」
「でも、コックピットには戻ると言っているのでしょう? それより、ちゃんと返信はしたの?」

 吾郎は『したよ』と答える。

 セシルは満足そうに微笑んで、窓辺の側にあるセミダブルのベッドにご機嫌で腰をかける。

「ちゃんと書いた? ハヅキが泊まっていた同じホテルアパートを借りて、そこで暮らし始めているって──」
「勿論。彼女も懐かしいって返事をくれたよ」

 セシルが綺麗にメイクしてくれたベッドに、吾郎も腰をかけた。

「新しい生活ね」

 肩を寄せ合う彼女が、吾郎に微笑んでいる。
 そう、吾郎は今……。葉月が二年前にマルセイユ部隊に出張に来た時に使っていたホテルアパートにいる。寄宿舎から移り、ここで自活することになったのだ。
 ただの研修生なら、寄宿舎に居続けても良いのだろうが、吾郎の我が儘で残留することになったので、外で自活することを決めた。ジャン先輩は『別に寄宿舎のままで構わないぞ』と言ってくれたが、気が引けたし、今度はどこまでこのマルセイユで一人やっていけるか試したくなったから……。

「今度はセシルも、ここにおいでよ。ホテルだから合い鍵は作れないけれど──」
「うん。私も待っているね」

 今度、吾郎が帰る時は、自分に納得できた時か、葉月がコックピットに戻る時だ。
 それがいつになるか分からない。
 分からないのに、それまで……という、今まで以上にあやふやな期限付の恋人との生活を始めていた。

 彼女の肩を抱きしめ、すっかり春めいた風が入ってくる窓辺で、二人は目をつむって唇を重ねた。
 セシルの、すうっとした爽やかで、それでいて甘美な匂い。すっかり吾郎の中に馴染んでいた。離れている時、会えない時だって、その匂いがずうっと吾郎の鼻先で香っている。

「まだ、早い……かな……」

 窓辺の光に輝いている真っ白いワンピースを着ている彼女を、ベッドに柔らかく押し倒した。

「や、ゴ、ゴローったら……最近、すごく……」

 恥じらっている彼女の頬に、耳に、唇の端に、口づけながら、ゴローは構わずに覆い被さり、抱きしめる。
 すると彼女が吾郎の耳元に小さく『さいきん、すごく、えっち……』と囁いた。
 吾郎はふと笑い、そのまま胸元のボタンを……、そしてスカートの裾の下に手を忍ばせ……

『おーい、アンタ達いる!? カフェオレをいれてあげたんだけれどねーーー!』

 ドアの外から、豪快な女性の声が聞こえて、二人はびっくりし揃って飛び起きた。
 吾郎が暮らすことになったマンスリーホテルアパート管理人夫人である『ソニア』が、ドンドンとドアをノックしている。

「もう、ソニアママンったら……」
「あはは、噂通りの肝っ玉母さんなんだね」

 ベッドの縁に二人で座り直して、笑い合う。
 ソニアがいるドアへと向かおうと吾郎は立ち上がる。
 ふと見下ろすと、とても色っぽい胸元を見せているセシルが、とても綺麗な横顔で白いワンピースのボタンを留めている。優美なその微笑みは、吾郎と共に先の分からない恋の続きを選んだ途端に見せてくれるようになったもの。
 不思議だった。別れが来ることを今まで以上に覚悟して、恋の続きを選んだのに……。吾郎が真っ直ぐに夢中に愛せば愛するほど、彼女が満たされた顔で綺麗になっているような気がして……。そして吾郎もまた、そんな彼女を益々愛おしく思って深みにはまっていた。

『おーーい!』

 ソニアがドンドンとドアを叩くので、吾郎は苦笑いをこぼしながら玄関へと向かう。

「ふふ! ママンたら嬉しいのよ。ハヅキとハヤトのところから下宿する日本人が、またここに来てくれて」

 だから来たばかりの吾郎を構いたくて仕方がないんだとセシルが笑う。

「ゴロー! 困ったことがあったら何でも言いなさいよ。我慢は駄目だからね。ここに来た以上、私がしっかり面倒を見させてもらうからね!」

 そうじゃなければ、ハヤトにもハヅキにも顔が合わせられないからね。と、ママンは大張り切り。

「メルシー、ママン。これからよろしく」

 マルセイユでの吾郎の新しい生活が始まった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 小笠原の潮の匂いは忘れていないが、ここの潮の匂いもだいぶ馴染んでしまった。
 春とはいえ、地中海上に浮かぶ空母甲板は、もう暑かった。
 そこに立ち上るスチームカタパルトの蒸気、そして戦闘機噴射口で吹き上げる炎の熱気、灼熱の太陽、眩しい海、そして熱く走り回る甲板の男達。

 吾郎は今、そこに立っていた。
 目の前には吾郎を見て、眉をひそめている強面のサングラスの男。クロード=レジュがいる。
 彼が不可思議と言わんばかりに、吾郎に言った。

「帰らなかった……と聞いたが、本当だったんだな」
「今は、ジャルジェチームの補助員として、さらに、我が儘で残留させてもらっているので、滑走路の手伝いもしています」

 クロードはなにやら呆れた顔で『ほう』と顎をさする。

「で、今回はなんだ? 俺のところで受け持った現役メンテ員の、整備向上の研修に来たって訳か」
「はい。短い間ですがよろしくお願い致します」

 だが、彼がとても渋い顔をしている。
 周りにいるチーム・クロードのメンテ員達も、遠巻きにこちらを見ている。
 キャプテンが太鼓判を押して小笠原に返そうとした男が『まだ、そこにいる』からだろう。
 目の前のキャプテンにしたって同じだ。あれだけ『特別』に自ら指導をして、大胸を張って小笠原に送り返したはずなのに。何故にそれを無にしたのだという納得していない顔。

 だが、吾郎の中では違う。
 太鼓判? そんなのはキャプテンの自己満足に過ぎない。
 特別指導した? あれだけじゃあ、吾郎は納得していない。単にキャプテンが他の研修生より長く吾郎の横にいただけだ。
 俺が指導したから送り返しても大丈夫? それはまるで、クロードというブランドの焼き印さえあれば、どんなに不出来なメンテ員でもトップレベルとして胸を張っても良いという無茶な刻印をしてくれたようなものだ。

 あの亡霊が、キャプテンに取り憑いていたと知ったからには、吾郎は納得できない。
 だが、それをキャプテンに言うつもりはなかった。

 しかし、クロードは深い溜息を落とすと吾郎に言った。

「もしかすると俺は、キシモトに言ってはいけないことを言ってしまっていたか」

 ドキリとした。
 彼がバツが悪そうに、キャップを被っている頭をかいている。

「部下達に新卒研修が終わった後に、ちょっとした指摘を受け、『俺としたことが、しまった』と思ったことがあってね」

 彼はそれ以上は語らないが、だとして何を先輩達がキャプテンに指摘していたのか……研修中の雰囲気で吾郎は悟ることが出来た。
 ハヤトという男に対してムキになっていただけで、そこにいた吾郎自身のことは見えていなかったということ。
 それを彼がそれとなく認めてくれたことをほのめかしてくれただけで、吾郎には充分。

 吾郎にとってそれは、きっかけに過ぎない。
 だからクロードに吾郎ははっきりと伝える。

「なんのことか……分かりませんが? ただ俺には俺の目標が出来ただけです」
「それはなんだ」

 即座に問われ、吾郎は口ごもったのだが……。

「勿論……。澤村中佐です、彼が目標です!」
「ほう。そうか、それはいいな」

 クロードがにやりと笑う。

「それなら、これからが本当の修行だな。みっちり叩き込んでやる。もうオガサワラに帰りたいと泣くほどにな。覚悟は出来ているのだろうなあ?」
「勿論です」

 吾郎は迷わずに答える。
 さらにクロードが満足げに微笑んだ。
 そして彼は吾郎の背を、ぽんと優しく叩いた。

「よし、行くか」
「ラジャー、キャプテン!」

 ふたたび、マルセイユ空母艦の甲板を吾郎は走り出す。

 目標は『澤村キャプテン』。そう言った。
 それも本当なのだが、あれは実際には『嘘の答』。

 

 吾郎の奥に、まだ誰にも打ち明けていない、新たなる目標はここにある。

 

 俺の目標は、このチームに誘われること!
 小笠原に帰るまでに、クロードの口からそれを言わせるのが目標だ!

 

  吾郎は前を走るクロードの背を見つめながら、心の中で強く叫んだ。

 

 その後、吾郎は片っ端から現役メンテ員の研修を受けまくった。
 クロードのチームだけでなく、他のチームやジャンのチームが受け持った研修も全て。さらに訓練校である現役メンテ員向けの強化講義も受けまくった。
 隼人がそうであったように、新しい機材にシステムに部品、それらについても徹底的に学ぶ姿勢を取った。

 もしかすると、吾郎こそ……。ハヤトという亡霊に取り憑かれているのかと思う。
 しかし前とは違う。これは本当の意味でなにもかもを越える為には、必要なだけなのだ。それをやると、やはり隼人が辿ってきた道になってしまっているだけだ。

 

 夏の終わりには、基地中の隊員が吾郎のことを『研修荒らし』と囁くようになっていた。

 

 

 

Update/2007.10.12
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