-- エースになりたい --

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15.彼女と空は

 

 吉田大尉を乗せたストレッチャーが廊下を疾走する。
 英太も御園大佐の先導で後ろを押し、医療センターを目指した。

 

 工学科科長室の男達が医療センターの産婦人科に担ぎ込む。
 吉田大尉はすぐに処置室に移り、そのまま検査に入ってしまった。

 一時期ざわついた産科の廊下に、科長室の男達が取り残される。

「吉田さん、大丈夫でしょうか」

 一人の工科員が処置室を眺め、心配顔。
 一緒に手伝ってここまで来た英太だが、その英太が見る限りでも、あの吉田さんという女性は彼等にとても慕われているよう。

「俺が付き添っているから、お前達は科長室に戻って留守を頼む」

 御園大佐の指示に、どの男も頷いた。そこに科長がいれば安心だということらしい。
 では、なんだかよくわからなかったけれど『俺もとりあえず講義室に戻ろう』と、英太も工学科の先輩達の後をついていこうとしたのだが。

「鈴木、お前は俺と一緒にいろ」

 英太は『何故?』と目を丸くした。
 えっと、もしかして宿題を出すまで逃がさないとか? と思い、ポケットに突っ込んだ原稿用紙を取り出そうとしたのだが。

「そこに座って待ってよう」

 静かになった廊下にある長椅子に、御園大佐が力無く座り込んでしまった。
 その顔が青ざめている……。滑走路を占領して准将の度肝を抜いた人には見えない。だから英太には意外に見えた。なによりも、吉田大尉が青ざめた顔で倒れたと知った時の御園大佐が、ものすごい剣幕だったのがとても印象的だった。  ただ黙って座っている御園大佐にはなにも言葉をかけられなくなってしまい、英太も致し方なく隣に座った。

「鈴木、有り難う」

 倒れていた吉田大尉を迷わずに科長室に運んできてくれたことを、御園大佐がねぎらってくれた。

「よく、妊婦だと分かったな」
「ああ。大尉がポーチに妊婦だと判るようなストラップをつけていたんですよ」
「そんなのがあるのか? 知らなかった」
「横須賀で、そんな女性隊員がちらほらいたので」
「そうか。横須賀も女の子多いもんな」

 そんな会話のせいか、やっと大佐の顔色が明るくなってきて、英太もほっとした。

「えっと……。准将は、妊婦さんだった時はつけなかったんですか?」

 確か、子供が二人いると長沼から聞いた記憶。あの人も二人、お腹をおっきくして産んだんだなあと改めて英太は考えてみる。
 だが、御園大佐は奥さんのなにを思い出したのか、急に可笑しそうに吹きだした。

「つけるもんか。そういう『女らしさ皆無』なんだよ。あの准将は」
「女らしくない? ってーことは、やっぱりパイロットだっただけに『体育会系な奥さん』ってことっすか」
「いやー。それともまた、違うというのかなー。うーん。あの奥さんは、いわゆる『乙女チック』の到来が遅かったと言えばいいかなあ」

 『乙女チックの到来』ってなんだ? と、英太は首を傾げてしまった。

「やはりね。十三歳の時から予備訓練生として空との人生を選んだ人だから、少し違うよ。他の女の子達が一番女の子らしくしていた時に、彼女は空の上を目指して飛行機に乗っていたんだから」
「じゅ、十三歳……。予備訓練生からと言ったら、殆どの子供が親と共にその道を望んでということですよね」
「そうだよ。知っているだろう。彼女の一族は殆どが軍人職に携わっていたんだから」
「知っていますよ。でもまだそんな幼い娘を男社会に投げ込みますかね?」

 すると。御園大佐が少し黙ってしまった。そして英太も『まずいところに触れた』とドキリとしてしまったのだが……。

「いや。彼女から望んだそうだ。親の反対を押し切って……空を飛びたいと。結局、その才能があったみたいで親もそのままってところかな」

 十三歳の少女が空を飛びたいと望んだ?
 英太はそれを知りとても驚いた。少なくとも、英太が空を飛びたいと思ったのは高校生の時だったからだ。横須賀市にいただけに軍隊は身近な存在だった。時々眺められる軍用機戦闘機を見て、空へと気持ちが傾いていった。決定的だったのは、やはり一般公開で見た航空ショーだった。あんなふうにギリギリのところに行ってみたい。ただ地上で苛々として生きているこの何かを解消してくれるような気がしたのだ。そんな衝動が英太をパイロットへと誘った本当の『理由』だ。
 だけれどミセス准将は、十三歳でなにを思っていたのだろう? とても不思議でとても気になった。

「あれ。うちの奥さんが十三歳でどうして空を目指したか気になるか?」
「い、いえ。別に……」
「ある意味ではすごく羨ましいね。俺もパイロット志望だったんで、その能力を持っていた奥さんを羨ましく思うことがあるよ」
「ええ、大佐ってパイロット志望だったんすか」

 もう甲板要員の整備士の姿が焼き付いているだけに、そんな若い時の大佐の夢が意外で英太は驚いてしまった。

「良くある話さ。パイロットに憧れる男は沢山いる。俺も例外なくこの道に入る時の第一志望はそれだったよ。ダメモトだったんで第二志望に定めていた整備士になったんだけれど。身体的な理由で適性検査をパスできない者が沢山いるんだ。女といえども彼女はまずはそこを通ったという『才能』がある。そう、鈴木――お前もな。しかもお前はミセス准将よりずっと体格が良い。彼女が空で出来なかったことを、存分に発揮できる体力がある。でもきっと――うちの奥さんに言わせたら、体力があっても『感覚と技術がまだ甘い』と言われるだろう。お前のこれからの課題だ」

 急にそんなことを突きつけられ、英太はムッとした

「では、その感覚と技術とやらを、ミセスがこれから訓練で俺に叩き込んでくれるってことですか」
「おそらくね。彼女だけじゃない。技術では右に出る者なしと言われているミラー大佐も厳しい。きっと准将以上。シアトル湾岸部隊で『精密機械』と言われていた男だ。その精巧な飛び方は緻密な判断力と感で出来上がったものだ。つまり小笠原の『雷神2』はそういうレベルのフライトということだ。だから鈴木もそうなっていかなくちゃいけない」
「俺は、そんな冷たい精密機械のようなロボットみたいにはなりたくありませんね」

 イラッとしたまま英太は大佐様に堂々と突きつけていた。
 当然、御園大佐の驚いている顔――。でも彼はすぐに可笑しそうに笑い出した。

「そりゃそうだ。パイロットはロボットじゃない。ああ、鈴木はそれで良いと思うよ」

 そして何故か、大佐が小さく呟いた『安心した』と――。その意味は英太には分からなかった。

「大佐。検査と診察終わりました。今、眠っておりますが面会されますか?」

 やがて処置室から男性の産科医が顔を見せ、二人は共に立ち上がった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 御園大佐が『一緒に』と言うので、英太はちょっと居心地が悪いが彼の後をついて処置室に入った。

 ベッドに寝かされている吉田さんは眠っていた。そして点滴なんかされている。
 それを見てしまうと英太も少しばかりぞっとさせられた。子供は、彼女は、大丈夫だったのだろうか?

「先生、あの――吉田は」

 側にいた医師に御園大佐が尋ねる。

「お子さんは大丈夫ですよ。問題はお母さんの方ですね。重度の貧血に過労。まだ安定期ではありませんから、あまり無理をさせないように。それからちょっとつわりが人より辛いようですね。気候も暑くなってきて食欲が減ってしまったのも原因でしょう」

 吉田大尉は重度の貧血と過労とのことで、流産とかいう切迫した症状でないと判明し、英太はほっとした。
 医師が去ると、御園大佐はそのまま脱力するように椅子に座って彼女を見守っていた。
 だが、あれだけ食えない男でいつでも余裕綽々といった様子の彼が、とても落ち込んだ顔で青ざめていた。

「悪い、吉田。俺が……やっぱり気を付けておくべきだったんだ。すまない」

 眠っている吉田さんの手を、御園大佐が握って労っている。
 ちょっと変な光景だった。まるで彼が旦那さんのような??

(うーん、まさかなあ……??)

 大佐の子とか言い出すなよ――と、英太は変なことを勘ぐってしまった。
 それほどに、御園大佐はショックを受けている顔なのだ。本当に自分の妻か子供が危ない目にあったかのように思わされる顔をしている。疑ってしまっても仕様がないような。

 そんな疑いで悶々としてると、処置室のドアが開いて一人の男性が飛び込んできた。

「小夜――!!」

 飛び込んできた男性を目にして英太は驚かされた。何故なら、あのラングラー中佐だったからだ!

 とても慌てた様子で入るなり大声を張り上げたので、側にいた看護師に『静かに!』と注意されてしまうラングラー中佐。
 しかし彼を目にした御園大佐がまた青ざめた顔で、慌てて立ち上がった。

「テッド、すまない。やっぱり俺が無理をさせすぎて」
「子供は!!」

 あの大佐にラングラー中佐は恐れることなく、飛びついた。

「だ、大丈夫だ。流産とかそんな危険はなくて、重度の貧血と過労だと」
「そ、そう……ですか」

 ホッとしたラングラー中佐は、そこで我に返ると大佐に『取り乱して申し訳ありません』と、あの品格で大佐に頭を慌てて下げている。だが、御園大佐も『いいや。俺もかなり取り乱した』と笑って流していた。

「テッド。彼が倒れている吉田をみつけて、すぐに俺のところに届けてくれたんだ。講義室へ行く踊り場で倒れていたらしい――」

 大佐と一緒に、処置室に残っていた英太。
 他の科長室の隊員達は返されたが、何故か英太だけ『一緒に残っていろ』と言われたのは、どうやらこの為だったらしい。
 ラングラー中佐、それが英太と知ってか、とても驚いた顔。しかしそれも一瞬、すぐに初めての面談で会ったとき見せていた凛々しい顔つきになった。

「鈴木大尉、有り難う」

 きりっとしたあの顔で、彼が英太に手を差し出してくれた。
 その丁寧さにも英太は驚き、戸惑うばかり。でも彼の気持ちだろうから、英太もちょっと躊躇いつつ……中佐殿の手を握り替えした。

「いえ、科長室へ向かう途中に偶然通りかかっただけで。それに科長室の側の階段でしたから。後は御園大佐に言えば何とかなると思って……」

 ちょっと照れながら呟くと、上司のミセス准将と姉弟かと思うほどに似ていた冷めた顔に微笑みが広がった。

「それでも有り難う。……まあ、もう説明することもないだろうけれど。彼女、吉田は……俺の婚約者でね。もうすぐ結婚、そして子供が生まれるんだ。なのに彼女は、工学科科長室にいないと気が済まない質で。忠告しても聞かないから、御園大佐とどうしたものかと心配していた矢先だったよ」
「そうでしたか。仕事熱心な奥さんなんですね」

 と言うと、ラングラー中佐はちょっと照れた顔。
 しかし、それも若い部下の手前かなんとか堪えて、いつもの中佐の顔に整えようとしているのが見え見えだった。しかもそれを背後にいる御園大佐が、もうあの悪戯っぽい笑みを湛えて眺めているのだ。

「今、眠っているから側についていてあげな。葉月には?」
「いえ、気が動転して――。秘書室を飛び出してきてしまいました」
「いいよ。俺から准将室に連絡しておくよ。それに秘書室の隊員がもう知らせてくれているだろうな」

 安らかに休んでいる吉田大尉のベッドの側で、大佐と中佐のやりとり。
 御園大佐がラングラー中佐の肩を励ますように叩くと、彼は大佐と入れ替わりでベッドの側の椅子に座った。
 ラングラー中佐は婚約者の側に寄りそうと、場にかまわずそっと彼女の手を握りしめ、小さく『小夜』と呼んだ。

「まったく。ここまで葉月さんに似なくてもいいじゃないか」

 もう中佐の顔ではない、穏やかでそして心配している男性の顔の中佐。
 彼女の手を撫で、額の黒髪を撫で、頬を撫で――。とても愛おしそうな手つきに、流石に英太もちょっと頬が熱くなる程に見とれてしまった。

「行こうか、鈴木」

 そんな婚約者同士の二人を微笑ましそうに見守っている御園大佐に呼ばれ、英太はハッと我に返る。
 そのまま静かに彼と外に出たのだが、

「は、隼人さん!」

 出た途端に、この処置室をめがけて駆け込んできた女性とドアの前で鉢合わせをした。

「葉月。来たのか」

 ミセス准将の葉月サンだ。
 彼女は息を切らし、夫が目の前に現れたのを見つけて飛びかかってきた。

「は、隼人さん! 小夜さんが倒れていたって」
「お、落ち着け。大丈夫だったよ。今、テッドがついている」
「つ、ついているって!?」
「流産じゃない。重度の貧血と過労だって」
「重度の貧血と過労ですって!?」

 ミセスは子供は無事と分かっても、母体の症状が良くないことにも悲鳴を上げた。
 まるで夫の首を締め上げるのではないかと言うぐらいに動転しているミセス准将を目の当たりにして、英太も目を丸くしてしまった。
 本当にあのミセス准将?  この前もこの旦那さんの悪戯で初対面ではまったく想像もつかなかった『ちょっと可愛らしい怒り顔』を見ることが出来た英太。だが今日も、この人は旦那さんの目の前でこの動転ぶり。

「貴方ー。それでも、お母さんの身体がちゃんとしていないと子供に生きていく力が伝わっていかないのよー。そんなの駄目だわ、駄目だわ」
「ああ、もう。医者に任せておけば大丈夫だって。お前だってそうだっただろう。それに今はテッドも付き添っているから、そっとしておけ」
「そ、そうね……?」

 葉月さん、やっと落ち着いた様子。
 夫の隼人さんの胸元で、ちょっとほっとした様子の奥さんの顔。
 それはこの前の甲板でも見たことがない二人の姿に、英太はこれまたちょっと見とれていた。
 すると、そんな御園大佐の胸元から、葉月さんがそっと背後のにいる英太の気配に気がついたのか顔を覗かせた。

「す、鈴木君」

 鈴木君と呼ばれ、目が合い、英太はドキリと固まった。

「お、お疲れ様っす・・じゃない、お疲れ様です、准将」

 英太は一礼をする。
 でも耳には『鈴木君』と呼ばれた声が何度も響いていた。
 そんなふうに呼ばれたのがとても意外だった。何処にいても『鈴木大尉』か『鈴木』か『英太』と呼び捨てにされる。だいたいが男に。それなのに『鈴木君』なんて呼ばれたのはいつぶりか。しかも女性に――。それもこの人の声で。それは准将として出てくる彼女の声とは全く違った。彼女の冷たい声の底に忍ばされていた柔らかさだけで今呼ばれた気になった程。だから英太の胸がドキドキしていた。

「彼が、講義室から科長室へ向かう途中に、階段の踊り場で倒れていた吉田を見つけてくれたんだ」
「そうだったの!」
「的確な判断だったよ。吉田のことをすぐに妊婦と判断した上、すぐ側にある俺がいる科長室まで運んできてくれたんだ」

 ミセスはそれを知って『まあ、お手柄だわ』と微笑んでくれたのだ。
 それだけでもう、英太の頬が熱くなった。

(お、俺――。どうしちゃったの!?)

 熱くなった頬を少しばかり触れて、そっと彼女から背けてしまった。

「ああ、ほっとしたわ。でもまずは小夜さんが回復するようにしなくちゃね」
「今後の対策も大事だな。吉田の大丈夫という言葉を俺も過信しすぎた。あいつ若い時から『必要以上に熱血』だってこと忘れていた」
「そうね。でも自宅でもテッドが彼女をコントロールするの大変だって言っていたわよ」
「判る、判る。結構、強気のお嬢ちゃんだからな。言い出したら聞かないし。俺の周りにいる女共は逞しくて頼もしいやら、過信していたら大変なことになるやら。テッドにも『旦那さん同盟』に今からは加入することお勧めしているんだ」
「なーに。その旦那さん同盟って!」

 どうやら、働く女性達に振り回される男性陣ということらしい。
 それを聞いて、またぷっと頬を膨らませて怒ったミセスを見て、側で見ていた英太はちょっと笑ってしまった。
 そこで二人も英太の笑い声ではたと我に返ったか、共に顔を見合わせ夫妻の会話をやめてしまった。
 だがその間を見計らったように、夫の隼人さんがすっと歩き出してしまう。

「じゃあ、俺は帰る。お前も、今日のところはテッドを早退にさせて秘書室をなんとかしておけよ」

 ちょっとした間に、旦那さんから切り離されて葉月さんはハッとした顔。
 もちろん、英太も。一緒に連れて帰ってくれるのかと思ったら、御園大佐は来た道とはまったく反対の通路へと向かっていく。そこを真っ直ぐ行くと医療センターのもっと奥になり工学科へとは繋がっていないのに。

「貴方。何処に行くの?」

 奥さんの声かけにも、大佐は振り返らずに肩越しにちょっとだけ手を振って歩き去っていってしまう。
 英太も途方に暮れた。まさか、この女性と置いて行かれるとは思わなかったからだ。

 でも暫くは、その妙な去り方をした旦那さんの背を彼女はじっと見つめていた。やがて、深いため息を――。

「あの、俺……」
「あら。隼人さんは、貴方まで置いていったのね。仕様がないわね」

 英太も取り残されたことに気がついてくれた。
 そんな彼女と再び目があって、英太は緊張する。『講義室に戻ります』と言おうとしたのに、その言葉が出てこない。

「まあ、いいわ。せっかくだから、いらっしゃい」

 ん? なんか誘われた?
 英太はまさかと固まった。だけれど、葉月さんは英太の目の前を歩き出す。旦那さんが去った方とは逆の軍へと帰る道へ。
 なんだかついてこいと言われたような気がした英太だが、まだそれが信じられずに、もう一度その言葉の意味を教えてもらえまいかとばかりに彼女の背を眺めていた。

「なにしているの。いらっしゃい」

 聞き間違いではなかったようだ。
 振り返った彼女の顔は既に、あのミセス准将の顔だった。それに声も。ミセス准将の人を上から命令する時の自信ある響き。
 それでもやはりその声の奥に、柔らかさを英太は感じ取った。

「は、はい。准将」

 だから英太はそのまま、葉月さんの背を追ってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼女の背を追うようについていく英太。
 不思議だった。自分より小柄な女性がきびきびと歩くスピードに、大股で歩く男が必死になってついていくのだから。
 それだけ彼女が日頃、前へ前へと前進している人なのだと感じさせられた。

 何処へ連れて行かれるのだろう?
 医療センターを出て、軍の棟舎へと戻る渡り廊下に出て英太はその背に尋ねてみる。

「あの准将。どちらへ?」
「いいから。黙ってついてきなさい」

 やはりもう偉そうなミセス准将の声。
 まさか。先程。御園大佐が『これからお前がうちの奥さんに叩き込まれること』なんて、ちょっとイラッとしたような『これから貴方に知っておいて欲しいお話』をするんじゃないだろうなと、嫌な予感を馳せてしまう英太。

 だが、ミセス准将は、自分が帰るべき『高官棟』にやってきても准将室と空部隊大隊本部がある三階へと帰ろうとしなかった。
 葉月さんはそのまま高官棟の一階を、中庭がある廊下をどんどんと向こうへと突き進んでいる。そこまでくると流石に幾人かの人と出会う。
 こちらは誰もが知っている『ミセス准将』だ。彼女が知らなくても隊員達は一礼をする。彼女ももれなく礼を返すが、ほとんどが知らない隊員のようだった。だがやがてそんな彼女の顔見知りと出会った。

「お疲れ様です。准将」

 そこでミセス准将もやっと足を止めた。
 彼女が足を止めた男性は、白い整備士作業服を着ている男性だった。とてもにこやかな顔でミセス准将に微笑みかけている。

「あら。ロニー。お疲れ様。今、甲板上がり?」

 そしてミセス准将もとても親しそうな口ぶり。笑顔も柔らかかった。どうやら彼の年代から見ても『同僚的』な存在のようだった。

「うん。今、ホワイトのシステムチェックを一通り終えてね」
「ご苦労様です。キャプテン」

 その会話に、英太はびくっとした。
 そしてもう一度『ロニー』と呼ばれた栗毛のおじさんを見つめた。そしてやっと気がついた。何故、彼の整備士作業服が白いのか。そして、その真っ白な作業服の腕には真っ白な下地にくっきりとした黄金の稲妻が走っているワッペンが――。

(雷神の整備士!)

 つまりミセス准将が統括している『フライト雷神2』の、メンテナンスチームのキャプテンということらしい。

「おや。そちらの青年は? 新しい秘書官?」

 英太と目が合う。

「いえ。鈴木英太大尉です」

 葉月がそれだけ言うと、ホワイトメンテキャプテンはとても驚いた顔。

「この前の、滑走路であれをやったパイロット!」

 驚き顔のキャプテンに指さされ、英太はたじろいだ。

「そうよ。隼人さんの悪戯でね」
「いやー。あれはすごかった! 俺も久しぶりに血がわあっと沸いたね。あれは君やコリンズ大佐、ビーストームそのものだったよ」

 キャプテンの輝く笑顔が英太に向けられ、圧倒されてしまう。
 あの飛行。どのように皆に思われているか英太はその後を全く知らない。ただ、御園大佐が謹慎五日を食らった出来事になってしまった。そんな後味の悪さだけが残ったものだったのだが……。
 でも今の言葉を信じても良いだろうか。このキャプテンはどことなく嬉しそうにエキサイトしているし、彼は言った。『君にコリンズ大佐、ビーストームそのものだった』と。つまり、彼女と似た飛行が出来ている。つまり、彼女好みの飛行が出来ている。さらに――彼女にはそのような飛行が望まれ、かつ、認めてもらっている! 横須賀では爪弾きされた英太の飛行が、ここでは……! そんなふうに英太も心の中が熱くなってくる感触が。

 だが、そこも葉月さんが冷たく切り捨ててしまう。

「ハリス中佐。困りますわよ。ビーストームと雷神は違いますから。それに私とコリンズ大佐の飛行は過去の物です」
「これはこれは。申し訳ない。君は相変わらず、手厳しいなあ」
「ごめんなさいね。またゆっくり。さよなら、ロニー」

 彼女にすっぱりと切り捨てられ、『ハリス中佐』はちょっと寂しそうな顔に。
 それでも致し方ない笑顔で手を振って、そこで別れた。

「雷神の整備士なんですね。今の方」
「そうよ。ホワイトを扱っているから雷神だけ専属でやってもらっている選りすぐりのメンテチームのキャプテンをやってもらっているの。貴方もそのうち、あのキャプテンの手で甲板から飛んでいくのよ。どこへ行くにもあのメンテチームと一緒よ。これからお世話になりますから、よく覚えておいてくださいね」
「はい」

 急に准将に戻ってしまったようだ。
 でも、今の中佐の英太を知って嬉しそうな顔。あの飛行を喜ばれるのが意外だった。それがどうしてかも不思議だった。

(横須賀では、あんなに受け入れられなかったのに……)

 小笠原では御園大佐をはじめとして、若干手応えが横須賀とは違うと感じている英太。
 でもそれは喜んで良いことなのか、悪いことなのか。
 一番の問題は、まだ甲板でその訓練を受けてはいない『ミセス准将の反応』なのだが。

 でも葉月さんは、何事もなかったようにどんどんと進んでいく。
 本当に何処まで英太を連れて行くつもりなのだろう?

 隣棟の陸部四中隊も過ぎた。陸部五中隊も過ぎた。英太が今お世話になっている教育隊の六中隊も過ぎていた。
 陸部の訓練棟にさしかかって、やっと葉月さんはエレベータに乗り込んだ。しかも押した階が最上階の五階だった。

 陸部の訓練棟には、パイロットが身体を鍛える為のジムがあるようで、そのうちに英太もお世話になる場所だと教えられているが来たのは初めてだ。
 なので五階になにがあるかは知らない。
 その五階に到着したのだが、とても静かだった。

「五階はロッカールームなの。クラブ活動をしている隊員が使っているから夕方は賑やかよ。今は静かなの」

 そんな人気のないところに連れてこられ、英太はちょっとだけ妙な気分になった。
 目の前の、栗毛の女性。先程から後ろからついてきたが、ふんわりと柔らかい香水の匂いがずうっと漂っている。そんな女性らしさあるんだなと思った。それに英太が知っている若い華子の匂いとは別物だった。芳醇な、落ちいて、柔らかな、さりげない。そう、やはり大人の女の匂いだと思った。

「いらっしゃい。私の内緒の場所だから、誰にも教えないでね」

 その言葉にも訳もなく『ええ?』と、たじろいでしまう英太。
 まさか、まさか。それぐらいの地位になると? 若い男も? 簡単に?? それって旦那さん、知っているんですか!?

 だがそんなはずもない。
 彼女が立ち止まったのは、廊下の隅っこにある自販機の前だった。

「あー。驚いて走って騒いだら喉が渇いたわ。ちょうど、ここに来たかったのよね」

 そう言って、彼女は制服のポケットに手を突っ込んで小銭を取り出した。
 女性なのだから、小銭入れでも持っているのかと思ったらそうでもない。ほんと、そこらの親父がやるようにポケットから直に小銭を握りしめて取り出したようで、英太は眉をひそめてしまった。

 葉月さんはその自販機に小銭を入れて、まずは自分のお好みを一押し。
 手に取ったのは冷たそうなオレンジジュース。それを早速、かしゅりとプルタブを開けて一口。これまた親父のように『ぷは』と息を吐く始末。英太、ちょっぴり目を覆って逸らしたい気持ちに陥った。

「貴方もどうぞ。お疲れ様の一杯よ。あとね、この前のお詫び」
「お詫び?」
「うちの旦那さんの、とんでもない悪戯に巻き込まれたでしょ。確かにあの飛行はすごかったわ。私も……血が騒いだ。あれを見て血が騒がないパイロットはいないと思うわ。でもね。ルールはルールよ。分かるわね」

 それはきっちりと処分を言いつけた奥さんと、きっちりと奥さんから突きつけられた処分に甘んじた旦那さんの姿を見て英太も分かったつもりだ。
 だから頷くと、彼女がそっと静かに微笑んでくれた。

 葉月さんはそのまま小銭を入れて、続ける。

「貴方、なにが飲みたい?」
「えっと。冷たいブラックコーヒーです」
「えー。ブラックなんだ」

 何故か驚きながら、彼女が小銭を入れる。
 ちゃりん、ちゃりんと落ちていく小銭。どんだけ細かい小銭をポケットに入れているんだよと思うぐらいの……。

「暫く、うちの旦那さんの訳の分からない教育を受けるかも知れないけれど、悪戯っぽくても、意味があるから……」

 意味があるから……?

 話が途中で切れたので、英太はちょっと不思議に思って彼女を見た。
 すると葉月さん、すんごく疲れたように自販機に寄り添っている。

「じゅ、准将?」
「ごめん、鈴木君――」
「え?」

 自販機に額をつけて項垂れている彼女が、そんな英太に手を伸ばしてきた。

「あの、准将? その手は……?」
「十円、足りなかった――。貸してくれる?」

 え。おごってくれるという准将を見せておいて、最後はそれ?
 しかも裸の小銭をポケットから何枚も何枚も出しておいて、最後はそれ?

 英太は唖然として、暫く、そんな彼女を見ることしかできなかった。

 だが最後にはついに笑い出してしまっていた。

「かっこわるー!」
「うるさいわね! 早く貸してよ、十円!!」

 顔を真っ赤にして怒る葉月さんを目にして、もう一度笑ってしまう英太。
 もう可笑しくて可笑しくて。英太は震える手で最後の一枚十円を自販機に入れて、奇妙なご褒美のブラックコーヒーを手にした。

 

「ここよ」

 冷たい飲み物を片手に葉月さんが英太を連れてきたのは、その自販機のすぐ側にある非常口。そこのドアを開けた非常階段だった。
 そこを開けただけで、この基地特有の海風に二人は煽られた。
 でもその鉄階段に、彼女は腰を下ろしてしまう。

「昔はね。あっちにあるグラウンドの芝土手でさぼっていたんだけれど。すぐに見つかってしまうようになってね。今は、ここなの」
「そんなことしていたんですか?」
「昔っからよ。まあ、今は監視が厳しいので出来ないけれどね。今日は特別。貴方もそこに座りなさい」

 准将の特別な場所。それを教えてもらった英太はちょっと心が……。
 彼女が一段下に座ったので、英太はその上に腰をかけた。

 一番端の棟舎だからだろうか。さらにその端にある非常階段からの眺めは、意外に素晴らしい。
 すぐ隣には管制塔。そして目の前にはこの前、英太が急降下を繰り返した滑走路。そして海。横手には、准将がさぼっていたという陸部のグラウンドが見える。
 この基地の外が良く見通しが出来る場所。空も雄大に広がって、心地よい風もあり、確かに開放感がある。

「なんで准将はここにくるんですか」

 なんとなく聞いてみた。
 するとすぐに返事は来なかった。一段下にいる彼女の横顔を見ると、ちょっと困った顔で微笑んでいる。
 そんな理由があるのかと英太もそれ以上は……。

「鈴木君は何故、空を飛ぶのかしら?」

 逆に唐突な質問を投げかけられてしまい、英太は戸惑った。

 

 

 

Update/2008.7.26
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