-- エースになりたい --

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16.生意気副社長

 

 それも何処か、『愛とは如何に』という宿題と似ているなと、英太は思った。

「何故、空を飛ぶか――。面談の時に俺、言いましたよ」
「――パイロットになろうと思ったきっかけは――『覚えていません』だったわよね」

 ちゃんと覚えていると、英太は唸った。
 だがそんな手応えのない返答でも、葉月さんは不満そうではなく、ただ微笑んでいる。

 滑走路、そして向こうの海と空。そこまで真っ直ぐに彼女の視線が遠くへと走っていったような気がして、英太も同じような軌道で遠くの空を見た。
 海風がそよぐ非常階段の一番上で、奇妙な関係の二人がただ黙って空を見ている。

「私も理由はない――そう思って飛んでいたわね」

 英太はドキリとした。
 先程、彼女の旦那さんから聞いた『十三歳でパイロットを目指すと言い出したのは本人だった』という話を思い出したからだった。だが彼女個人から、彼女がパイロットだった時の話が出てこようとしている。それは英太が遠くから聞いてきた彼女のエピソードよりもずっと重みがあり、そして英太はそれを欲している。
 だけれどその答が理由が、彼女には『ない』? 十三歳で飛ぼうと決めたそこには英太のように『戦闘機の迫力ある飛行に惹かれた』とか必ずなにかしらあるはずなのだ。

「漠然と、ただ飛んでいたかったのよ。でも……ある時、きちんとした理由をやっと見つけたわ」
「理由を、みつけた?」
「そうよ。漠然としていたものを、はっきりとした手応えで見つけたの」

 それは何か。
 英太は問い返したかったが、彼女の眼差しがそれをさせてくれなかった。
 ずっと遠い空を、彼女は彼女だけの世界をみるように、とても真っ直ぐ、そしてどこか哀しそうに見つめている。
 何故だろう。その哀しそうな眼に英太は釘付けになった。吸い込まれそうだった。ときめきとかそんな類の胸騒ぎではなかった。なんというか、英太の心の奥底に押し込めたはずの『考えると面倒なもの』を彼女が掻き乱しているからだ。
 やがて、それに堪えきれなくなり英太は彼女から目を逸らしてしまう。

「どのパイロットにも、コックピットを目指したなんらかの理由はあるはず。その理由も様々。そして、その理由がはっきりしている者もはっきりしていない者も様々。それでも良いと私は思っている。そして私が思うのは、その答を見つけて『コックピット』と別れられるのはとても幸せだという事よ」

 彼女は空を真っ直ぐに見てそれだけいうと、持っていた缶ジュースを傾け飲み干す。

「そういうことよ。貴方にも、その理由を見つけて欲しいわね」

 だけれど、英太にとっては彼女が言っていることこそ『漠然』だ。

「そんなもんすかね。俺はいちいちそんなこと考えて乗っていないですよ」
「まあ、そうかもね。でも、少しだけ。常にとは言わないわ。少しだけ、頭の隅に置いて忘れないで欲しい」

 そういうと、彼女は満足そうに立ち上がった。
 吹き上がってくる海風に、彼女の肩までの栗毛がなびく。日の光を受けて綺麗に光っているように見えた。そして風に乗って、またあの柔らかい香りが英太のところにやってくる。
 非常階段のてっぺんで、彼女は手すりに背を持たれまた空をまっすぐに見ている。それはもう。彼女の目にはそれしか見えていないのかと思うほどに、彼女は常に空の向こうにある何かから視線を逸らしたくないよう。それだけ焦がれるものがあるのだろうかと、英太もずっとその向こうを見つめてしまった。

「雷神にきた貴方への、私の願いってところかしらね。まあ、どのパイロットが来ても偉そうに言っていることなんだけれどね」

 でも今日。英太には、そんなお姉さんの顔で葉月さんはここまで連れてきてくれたようだった。

「それじゃあ、帰りは一人で大丈夫よね」

 空になった缶を手にした葉月さんが英太を見る目は、子供を見るような目。
 その目は叔母の春美が英太を見る目とよく似ていた。まあ、見ればミセスも春美と同年代な訳だが……。そんな子供のように見られると、英太はちょっとムッとした。

「なんすか。こんなところまで俺を引っ張ってきて、置いてけぼりっすか」

 英太も缶コーヒーを慌てて傾ける。

「あら。帰り道、分からないの」

 嫌みで切り返したのに真顔で問い返されてしまい、英太はコーヒーを吹きそうになってしまった。
 また葉月さんのその顔が、またもや子供に問いかけるような目、そして案じる顔。本気で心配している顔なのだ。

「わかりますよ! あんたの子供と一緒にしないでくれよ」

 つい。いつもの口調が出てしまい、英太はハッと口を押さえる。
 だが、葉月さんは笑っていた。

「あら、ついつい。だって貴方はまだ小笠原基地では赤ちゃんじゃない」

 今度は真顔ではなく、妙な笑みを浮かべた上でのからかい。
 なんか、その顔。旦那の隼人さんと似てる気がするんだけれど!

「ちょっとムカッと来た!」
「あはは。その調子なら大丈夫そうね。今日はお疲れ様。甲板で会えるのをまた楽しみにしているわ」

 手を振りながら、彼女は本当に英太を置いて非常口のドアを開けてしまう。
 だが、英太も意地になって彼女の後を追わず、階段にとどまる。

「でも。甲板では『ここの私』はどこにもいなくなるわよ。それも覚えておいてね」

 急に英太が良く知っているミセス准将の顔で、冷たく切り捨てていく葉月さん。
 なるほど。こんなふうにすっぱりしている人なんだと英太はやっと分かってきた気がした。
 甲板ではあんな冷たい女将軍になる。でもこの階段では……?

 ドアがぱたりと閉まった。
 彼女はもう颯爽と准将の背中で歩いている。あのきびきびとした足取りで――。
 英太はそれを暫く見送り、そしてもう暫く――『葉月さんの場所』で、葉月さんが見ていた空を眺めた。

「変な人だ」

 そう呟いた英太の心はまだ掻き乱されている。
 何故、空を飛ぶのか。その答を見つけろとは――。
 何故、あの人は空を飛んだのか。そしてなにを見つけてコックピットを降りたのか。そんな彼女は理由を見つけたから『幸せだ』だなんて言っていた。でも、英太はそうは思わない。コックピットを降りて幸せなんか俺にはない。そう思っている。コックピットを降りてもまた苛々するばかりの日々が繰り返されるだけだ。それを華子の女体にぶつけて、悶々と過ごすだけの日々など絶対に耐えられない。叔母の為にそれも覚悟したが、今はもう、英太の目の前には新しい白い機体に乗るという日々が毎日到来してくることしか頭にない。

 そして英太は思い出して、胸ポケットにしまっていた原稿用紙を取り出した。
 御園大佐からの宿題。『愛とは如何に』。それを広げてもう一度眺めてみる。

「旦那も変な人だ。なんだよ、夫妻そろって似たような質問を投げかけてきて」

 愛とは如何に。
 空を何故飛ぶのか。
 そんな漠然としたよく分からないことを何故、よく考えろと言うのだろう。
 英太にとっては今は毎日をこなしていくだけで精一杯でそんな余裕はない。
 ああ、そうか。こんな答を探せと言ってこんな答を俺も私ももう見つけたわよだなんて教師面するのは、やっぱり奴らが『おじさん、と、おばさん』だからなんだなと思った。いわゆる年の功。

「ちぇ、余計なお世話だ」

 なんだか急にムカムカしてきた。
 むしろ、旦那の隼人さんに投げかけられた時よりも、妻の、女の、年上の、葉月さんに投げかけられたことの方がむかついている。それも何故なのか、今の英太には分からなかった――。

 とりあえず、握りつぶしたくなった原稿用紙をまた綺麗にたたみ直し、英太は非常階段を後にする。
 そろそろ御園大佐も科長室に戻っていることだろう。約束通り、英太は宿題とやらを提出しようと工学科へ向かう。

 夕が迫ってきた非常階段を後にし、英太はもう一度振り返った。

 そこにはあの空を見つめている彼女がまだいた。
 英太の目に残った幻。そこには『葉月さん』という人がいる。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 吉田大尉が倒れた時は気が動転していてよく分からなかったが、『工学科科長室』という所はとても雑然としている仕事場だと思った。
 狭い事務室に十人ばかりのスタッフ。どの隊員も若く、御園大佐ほどの年齢の男性が一人二人いるぐらいだった。
 だけれど皆、ノートパソコンや資料とにらめっことして悶々と仕事をしている。この狭い部屋に男達の熱気がむんむんとこもっている気がした。
 それは『男の仕事場』。一言で言えばそんな印象だった。

「なんだ。提出する物はもっと綺麗にして出せよ」
「いえ。吉田さんを抱き上げる時に、ポケットに突っ込んだので」

 その室内の奥にある大きなスチールデスク。それが御園隼人工学大佐の席だった。
 その席も雑然としている。書類の山に、分厚い書籍の山。ディスクの山。ファイルバインダーの山。そして何故かデスクトップのパソコンの他に、ノートパソコンが大小二台。どんだけ操っているんだという感じだった。その中に埋もれている御園大佐に英太は原稿用紙を一枚だけ提出した。

「それでもなあ。書き直す時間ぐらいあっただろうに」
「申し訳ありません。以後、気をつけます」

 本当は奥さんとひっそりとお話ししていたなんて、ちょっと言えなかった英太。
 御園大佐はぶつぶつ言いながら、デスクの端に置いていた眼鏡をかけ、その原稿用紙に向かった。

「本当に少しだけしか書かなかったんだな」
「でも、ストレートにぱっと思ったことを書いてみました。……それ以上は、俺には無理です」

 その短い文章に御園大佐が向かう。
 妙な題材を投げかけてきた割には、本当に真剣に眺めている。しかも長く……。俺、そんな長い文章書いていないぞー、と英太は首を傾げてしまった。それだけ御園大佐が何度も読み返している様子。短い文章から何処かに隠れている英太を探しているかのような強い眼差し。だから英太自身がちょっと何処かに隠れたくなった。

 やがて、御園大佐が一息ついてデスクに頬杖。

「なるほどね。ストレートだな。『俺には愛なんてまだ分かりません。でも、守りたい人達がいる。その人達は大事にしたい』か――」

 他の工科員がいる目の前で読み上げるなよー!――と、英太は頬が熱くなりそうだった。
 それを見て、御園大佐はふと笑った。

「正直だな。変に立派に理解しようとあれこれ書くタイプじゃないんだな。それに、守りたい人が一人じゃなく二人以上いるってことか。一人は叔母さんかな」
「そうです」
「あとは……。まあ、俺の勝手な想像ってところかな」

 そこには『恋人がいるのではないか』と言いたそうな御園大佐の含み笑い。
 だが彼は少し嬉しそうに笑ってる気がした。

「では、先生からの添削な。すぐ終わるから待っていろ」

 本当にこの宿題の意図はなんだったのだろうと英太は思う。まったく解らない。
 それに葉月さんの問いかけもだ。彼等はなにを言いたいのだろうか。
 御園大佐は赤ペンを手にして、英太が書いた短い文章のすぐ隣に、続きを付け足すような形ですらすらと何かを書き込んでいた。

「これを忘れないで空を飛べ」

 原稿用紙を差し出され、英太は添削先生の赤ペンを確かめてみる。

 そこにはこう書いてある。
 ――守りたい者達の為に、必ず空から帰ること。それがパイロットの一番の使命――
 それを読んで英太は御園大佐を見た。
 そう言えば、英太はそんなことを考えて飛んでいたことなどないと、初めて気がついたのだ。
 空を飛ぶ時は思い切り、ギリギリまで自分を追いつめて飛ぶ。それはこの前の滑走路上を飛んだ時もそうだった。だからあれだけのことが出来たのだ。でもその向こうにある『帰らねば』という気持ちで飛んでいたことはない。でも確かにそうだ。自分が帰らねば、叔母も華子も悲しむ……。だから帰ってくることが使命。
 その言葉がなんだかずしっと来たので、英太は何度も読み返してしまった。すると御園大佐が急に言い出した。

「それだけ解ればOK。明日、システムの説明を終えたら、翌日からはすぐにシミュレーション訓練に移行だ。頭より身体で覚えていった方が早いだろうからね」

 英太は驚いて顔を上げた。

「もう、ですか?」
「ああ。ただでさえ、俺が五日間謹慎になって研修が遅れているからな」

 ついに、シミュレーション訓練といえども、ホワイトの感触に触れられる! 英太は嬉々とした。

 

 その翌日だった。また講義の研修が始まると一人で待っていると、御園大佐がやってくる。

「おはよう、鈴木」
「おはようございます、大佐」

 席を立ち、敬礼。大佐も教壇から敬礼を返してくれる朝の挨拶。
 席に座りノートを開くと、御園大佐が教壇から降りてきた。

「これ。うちの奥さんからことづかったから」

 彼の長い指先が、すっと小さな封筒を英太の手元へと差し出した。
 本当に小さい。手のひらに入ってしまう名刺サイズの封筒。
 もしやと思って、英太がそれを開いてみると、中には十円玉が。そして小さなメモ用紙に『merci!』とフランス語でひとこと。
 早速、返してくれたんだと英太は微笑みたくなったが、それを持ってきた人を思わず見上げてしまった。

「うちの、裸で小銭をポケットに入れていただろ」

 彼がにんまり笑っている。
 英太はどこかぎこちなく『は、はい』と答えてしまっていた。
 これでは、昨日、この旦那さんがいなくなった後、奥さんと二人で話していた時間があったのを認めるようなもの……。

「な、女らしくないだろう? 若い時からあんなかんじ。それで部下にお疲れ様の一杯をご馳走しようと缶コーヒーを買ってあげようとしたら十円足りなくて借りてしまったと」

 なんだ、奥さん。旦那さんにちゃんと話しちゃっているじゃんと、英太は何処かがっかりしてしまう。
 だが大佐がちょっと違うことを呟いた。

「格好悪い准将だと、俺は笑ってしまったね。でも彼女らしい。『通りかかりの自販機』でご馳走しようとして、部下に十円を借りているところがね。まあ、ああいう准将だけれど、よろしく」

 通りかかりの自販機――。
 そんな状況ではなかった。
 あの人、やはり自分の内緒の場所に英太を連れて行ったこと、旦那さんにも丸々話したわけでもないんだと知った。

「さて。今日もスピードアップで、ホワイトのシステムについて説明しよう。あと、これまでの飛行データーと照らし合わせて、従来までのコックピットでの操縦の違いなど。まだ解決されていない機能など……」

 御園大佐がチョーク片手に黒板へ向き、英太に背を向けた。
 彼がすらすらとシステム名を書き込み、その特徴をポイントとして箇条書きにする。英太もそれをノートに記した。
 だが黒板の文字を見ながら、英太は御園大佐の背を見つめていた。

 英太よりかは小柄だが、それでも日本人にしては体格が良い方だと思う。背も高いし、腕も甲板要員のせいかがっしり逞しい。その腕も長いし、チョークを持つ指先も長い。英太はつい、自分のがっちりしている手ごっつりしている指と見比べてしまう。大佐の手は骨格の線が綺麗だった。それに、とても器用そうだ。整備士をしているというイメージもあるからなのだろうか。どこか繊細に見える。

(ふうん。あの手で奥さんを愛しているわけだ)

 若い男はすぐにそう考えてしまう。
 それであの冷たい顔の奥さんが、あの旦那さんの手立てでどう乱れていくのかなんて……邪な青年の妄想。
 それともあんなに冷たい顔の女性。しかもキャリア女。まさかあっちはお互いに淡泊? いや、そんなはずはない。あの奥さん。旦那さんの前ではちょっと違う顔をする。あの顔は夫には可愛い顔を見せられる女の顔だったと英太は思う。
 そうだなあ。華子も日頃は外でかなりつっぱっているけれど、英太と寄り添っている時はあんな顔する。それを思い出させるような顔だったと思う。
 あの奥さんはあんな顔で、この目の前の食えない旦那の胸の中に飛び込むわけだ。冷たい顔ではない彼女は全て旦那の前でだけ――。

 いや。俺にも――? 俺にもいろいろな顔を見せてくれた。

 ふとそう思った自分に英太はちょっと自分でびっくりしてしまう。

(いきなりあんな場所に連れて行くからだ)

 煩悩を振り払って、英太は懸命にノートを取る。
 それにあの人は、俺のことは『子供扱い』。少なくとも冷たくない顔は、偉そうな姉貴面だった。彼女にとって、その冷たい顔をふと和らげてふんわりと微笑むことが出来るのは、きっとこの旦那だけなのだ。
 そして目の前の中年のおじさんは、あの柔らかい匂いを毎日側に、好きなだけ抱きしめているのだろう。夫妻なのだから当たり前だ。

「ここでも、ホーネットとおなじ機能を搭載しているので……」

 大佐の講義はどんどん進み、チョークはどんどん黒板の端まで走っていく。
 でも英太はその中年おじさんの背を見て思うことがある。
 どうしてだろう。このおじさんの背と、あの准将の背がとてもよく似ている気がした。
 これも夫妻だからなのだろうか。この人達、どうやって結婚したのだろう?
 それに彼女の空を遠く見ていた目がとても印象的で、英太の中に残っている。
 ――十三歳。本当は彼女にも『乗ろう』と思った確かなきっかけがあったはずだ。その時には解らなかったと言うなら、コックピットを降りて知った答はなんだったというのだろう。
 旦那の大佐も、そんな少女の思いを知って、彼女を愛して結婚したはずだ――。

 いつもは人様のことなど無関心の英太。
 だけれど、この夫妻はちょっと気になり始めていた。

 英太はノートを取りながら、そっと小さな封筒を胸ポケットに入れた。
 女らしくないだなんて。そんなことない。小さな封筒はとても可愛らしく、緑の葉と青い小花の押し花がポイントになっている。どこかざっとしているようだけれど、こんな細やかな女心だってあるようだ。

 それから、英太の胸ポケットからこの花の封筒がなくなることはなかった。
 どうしてかずっと忍ばせていくものになることに――。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ついに! 窮屈だった講義室から解放され、英太は飛行服で訓練場へと向かう。
 工学科がある六中隊の棟舎の裏に寄り添うように建っている真新しい建物が、室内訓練場ということだった。
 大佐に渡された地図を見ながら、英太は宿舎から直接向かう。

「来たな」

 その場所にたどり着くと、その建物の入り口に御園大佐が立っていた。

「おはようございます」
「いよいよだな。今日は慣らしでいこう。飛び方は一緒でも少し訳が違う。戸惑うこともあるだろうけれど、鈴木ならすぐに乗りこなせるだろう」

 そう言いながら、大佐が首に下げているIDカードを手にした。
 厳重な入り口にあるセキュリティチェックシステムにそのカードを差し込み、さらに指を当て指紋照合。網膜照合。そこまでの念の入れよう。

「パイロットがここに入る時も、俺や准将、そして他の空部隊大佐達の許可がいるんだ。他の誰もここには入れない」

 つまり空部隊の上層部だけが入室を許可出来るとうということらしい。
 それもごもっともかと英太は思う。それだけの『最新システム』を疑似搭載しているシミュレーション。セキュリティが固くて当然と言ったところだろう。
 それだけのものに今から触れることが出来る。英太はぞくぞくしてきた。

 どのような建物かと思ったら、なんと体育館のように広いフロアに高い天井。二階建てというわけではないようだった。その広いフロアに白い大きな鉄の箱が三つ並んでいた。

「これですね!」
「そうだ。外見は従来のシミュレーション機と一緒だが、中に入ってシートに腰をかけてもらうと解ると思う」

 そして御園大佐が自信ありげな笑顔で言った。

「本当にコックピットにいるかのような操縦感が抜群だ。俺も初めて乗ってみて『これが戦闘機か』と初めて体感できた。でも残念。やはり目が回って数分でギブアップした。それだけコックピットでの体感を細やかに再現できるよう、澤村精機が開発してくれた」
「ということは、かなりバーチャル度が高いと言うことですね」

 『そうだ』と御園大佐は笑う。
 彼にとっても自慢の機材のようだ。

「早速、シートに座ってみよう」

 白い大きな鉄箱ではあるが、ひとつのコンテナのよう。白い外装には『雷神』の白いユニフォームを意識したか、マリンブルーのラインで縁取られている。
 その一機に向かう途中、大佐が上に向かって手を挙げた。

「新しい雷神のパイロットだ。頼んだぞ!」

 その方向へ英太も見上げてみると、配線を巡らせた壁の上に細長い窓がある。アリーナの放送室や映画館にある上映室のような、そんな部屋が見えた。そこにインカムのヘッドホンをした紺色のジャンパーを着ている男性が数名、そして女性が一人。御園大佐の声に合わせて、手を挙げ『オーライ』の合図を返してきた。

「あそこは、このバーチャル機の統括室だ。あそこでシステムの切り替えやデーターを取っている。鈴木がどのように飛んだかを向こうでもすぐに見ることが出来る。あそこには工科のシステム隊員が操作するが、今日はこの機械を開発したメンバーと副社長がわざわざ来てくれたんだ」
「澤村精機の……ってことですか」

 すると御園大佐がちょっと照れくさそうに笑った。

「まあ、今日いずればれるだろうから言ってしまうけれど。『俺の実家』だ」

 それを聞いて、英太はとても驚いた。そう言えば……と英太は思い出す。大佐の旧姓は『サワムラ』。奥さんが通称としてそう呼んでいたと!
 澤村精機は横須賀では古い老舗の出入り業者で有名だった。
 まだ社長は老体ながら健在だが、若くして就任した副社長が息子で、その息子が今めきめきと頭角を現していると――。なによりも、御園大佐の講義で教わった『覚えておかねばならない開発会社』の中で『ホワイト専用として開発されたシミュレーション訓練機、チェンジ。は、澤村精機の副社長を筆頭に開発。ソフトは彗星システムズの青柳佳奈女史』と――。彼等が時折、メンテナンスに来るから名前を覚えておくようにとも言われていた。
 そこまで英太は思い出して、ふっと御園大佐が声をかけた二階統括室へと視線が行ってしまった。

「も、もしかして、ふ、副社長って――。大佐の兄弟……ですか?」

 するとまた、御園大佐がちょっとばつが悪そうに笑う。

「ええっと。俺の、弟」
「弟!」
「長男の俺が十代から軍隊浸りで、しかも婿養子に行ってしまったんで弟がね。きちんと継いでくれたんだよ」

 そういうことっすか! と、英太はおののいた。
 この大佐。根っからの機械野郎だったんだと納得。それはどうも血筋ということらしい。

「兄貴。そのパイロットが義姉さんが見つけたっていう、横須賀の?」

 その声がいきなり聞こえて振り向くと、そこにはいつの間にか、紺色のスタッフジャンパーを着込んでインカムヘッドホンを首にかけている若い男性がいた。
 黒髪の、ちょうどこの大佐と同じような背丈の青年がいる。このおじさんの弟だと言うから同じようなおじさんかと思っていたら、なんと『わ、若い』! 英太は目を丸くしてしまう。
 それに、いまどきに洒落ている青年の雰囲気を漂わせ、かなりの男前。確かに輪郭や口元はどこかこの大佐に重なるが、でもそっくりではなかった。

 こんな男前の若い青年が『副社長』?
 で、こんなでっかい精密なシミュレーション訓練機を開発したって? 英太はおもわず、側にある白い鉄壁を触ってしまった。

「そうだよ。今日は慣らしだけれど、全サポートのデーターを取ってくれ。あとでミラー大佐とミセス准将に届ける」
「OK」

 弟さんは、どうも兄貴の大佐よりクールでスマートな雰囲気。
 その彼と目があった。

「澤村和人です。よろしく。鈴木大尉」
「鈴木です。本日からよろしくお願い致します」

 すると彼がじっと英太を見て、にやっと不敵な笑みを見せた。

「楽しみだよ。葉月義姉さんが引き抜いてきたっていうんだから――。よろしく頼むぜ、大尉」

 急に生き生きとした笑顔をみせ、澤村副社長は意気揚々と二階の統括室へ戻っていった。

「若いっすねー。弟さん」
「ああ。俺と歳が離れて生まれたからな。でも、歳が近い鈴木とは気が合うんじゃないかな」

 聞けば今年二十九歳とのこと。
 まだ俺と同じ二十代じゃん! それで副社長? それでこのでっかい繊細そうなシミュレーション訓練機を開発!?
 英太は驚愕――。世の中、どんな同世代の男がいるか分からないもんだと――。

「兄貴! はやく鈴木大尉をシートに乗せてくれよ。採りたいデーターいっぱいあるんだ。はやく義姉さんに届けたいんだよ!」

 そんな声が上の統括室から飛んできて、兄貴の御園大佐は苦笑い。

「ったく。婿養子だけじゃなくて、実家の弟にまで手厳しくされるとは。やれやれ」

 隼人さんはそう言いながら、英太をシートへと促した。

「コックピットと同じだ。ただし操縦の感触はまったく同じ感触とは限らない。だがかなり近いものに仕上がっていると俺は思う」

 そう言われながら、英太は暗い室内にあるシートへと腰をかける。

「ベルトのかけ方もコックピットと同じように」

 言われたとおりに、身体を四方のシートベルトで固定する。

「操縦桿もそれだ。あと見慣れないものはホワイトに搭載しているシステムに関するものだ。飛びながら触ってみよう」

 だが英太は戸惑う。シミュレーション機は初めてではない。でもこの室内は異様だった。画面があちこちにあるし、一番気になるのは……。

「上から垂れ下がっている『ゴーグル』。それを頭に装着してくれ。それにはヘッドホンもついている」

 目の前にぶら下がっていて気になっていたがっしりとしている大振りのゴーグルを、英太はこわごわと装着する。

「それが景色を映し出す。あと、シートごと回転する」
「回転!?」
「ゲームセンターにもそんなバーチャル戦闘機ゲームのカプセルみたいなシートのやつ、あっただろ。あれと同じだと思ったらいい。ただこっちは精密に動く。振動も計算されて体感する。まあ、今日は好きなだけ操縦してみな。三半規管を鍛えてるパイロットならどんだけ回っても倒れることはないだろう。俺はギブアップしたけれどな」

 つまりそれだけ常人には耐えられないパイロット仕様の過酷な回転もお手の物と言うことらしい。

「飛んでいるデーターを取りたいから、最初は、副社長の指示に従ってくれ。俺もこのドアをロックしたら統括室へ行く。操縦中、身体的に辛いことが生じた場合は我慢せずに報告。それ以外でも停止を望む時はこの赤いボタンが非常ボタンだ。それだけは忘れずに」

 さあ、始めるぞ。

 そのひとことを残して、ついに英太はこの異様な空間に取り残される。
 大佐がドアを閉めると、室内は真っ暗になった。いつもキャノピーから空や雲や太陽の光を浴びて飛んでいるパイロットには考えられない程の圧迫される暗闇空間。

『鈴木大尉、大丈夫かなー』

 ゴーグルのヘッドホンからそんな副社長の声が聞こえてきた。

「だ、大丈夫っす」
『あはは。今、すごく息苦しいと思うけれど。ちょっと待ってくれ――』

 彼のその声の後、室内がぱっと明るくなった。
 だが英太はさらに驚愕する。

 空に、雲!
 四方、どこも青空に雲!
 頭上も左右も、それどころか英太の足下もずっと雲の海。
 それが壁に映し出されているだけじゃない。ちゃんと奥行きがあって立体感、空間を感じさせる。きちんと三次元を体感させていた。

「す、すごい――。俺、浮いている」

 それは機体という囲いがないままに、コックピットだけが空に浮いているような感覚だった。

『では。カタパルト発進から行くよ。大尉、操縦桿を握って――』

 英太は副社長に言われるまま、操縦桿を握った。

 

 

 

Update/2008.7.28
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