-- 蒼い月の秘密 --

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10.悪魔のような女

 

 平井中佐と共に、英太はホワイトへと向かう。

「ミセスを侮るなよ。空にいても甲板にいても、彼女は予想できないことを本当にやる女だからな」

 あの一辺倒の表情で言われるが、一号機へと向かうキャプテンは英太にグッドラックのサインを向けてくれた。

「ラジャー、中佐。俺、絶対に負けませんよ」
「俺もだ。『お嬢』には何度もやられているが手の内は良く知っているつもりだ」

 冷静そうな大人の彼の表情が歪んだ。それだけ若い頃から良く知っていると言うことらしい。

(お嬢ねえ……)

 どうも、昔なじみの男達は葉月のことを『お嬢』と呼んでいたようだ?
 英太はふと、葉月へと振り返った。
 フレディと顔をつきあわせ、忠実な青年にあれこれと指示をしている様子。それにフレディがうんうんと頷いていた。

(上官にしっぽを振るだけの男に負けてたまるか)

 英太の闘志に火がつく。
 しかも相手は女。いや……それでも英太の中ではもう『女』ではなかった。今までに会ったことがない元パイロット。なのに彼女は『女』を漂わせ、コックピットを捨て甲板に君臨している。
 理解ある、そしてやり手の夫。可愛い子供達。幸せな家庭なのだろう。コックピットを捨てるほどの――。なのに、周りの中佐や大佐達を見事なまでに従えて、彼女はこの孤島基地空部隊の女王としてそこにいる。
 そう思うとなんだか腹立たしかった――。あの『女を選んで幸せに順婦満帆な奴』に、俺の、この空に全てを懸けている何がわかるというのだろうか。俺は懸けているんだ。俺の全てのなにもかも。だから、甲板に降りてしまった『幸せ優先の女』に勝てないとしても、絶対的に負けるとも思えないのだ。
 俺の思いが強ければ勝つ! 英太は拳を握りしめ、コックピットに乗り込んだ。

 キャノピーを締め、ヘルメットを被り、無線環境を整えた途端だった。

『鈴木、聞こえるか』
「御園大佐――」

 コックピットのフロントを見ると、いつかのようにそこには誘導灯を手にした御園大佐が立っていた。
 彼が誘導灯を振りながら、もう片手で『こっちを見ろ』の手合図を送ってくる。

『とうとううちのじゃじゃ馬に捕まったな。こうなると俺でも止められないから覚悟しておけよ』
「そうっすか。俺は願ったり、叶ったり。こんな燃える訓練を提案してくれて、わくわくしているんすけど」

 なーにが『うちのじゃじゃ馬』だと、英太は鼻白む。
 本当にこの大佐はあの冷徹なミセス将軍を将軍以上に妻として支えているのだなと――。そういう夫婦仲を垣間見せられて、時々心を掻き乱されてしまうのだ。苛々させられたりもする。
 だからこの前の帰省で、御法度だった春美のマンションで華子をめちゃくちゃに抱いてしまったじゃないかと……。はっきり言ってそれだけの仕事を互いに維持しているのに、時々、夫妻としての『呑気さ』を見せられているようで苛ついてしまうのだ。世の中にそんなことあるのだろうか? そんなバランスがとれている『幸せな形』が。英太の中ではあり得ないという気持ちが絶対的だったのに、あり得ない夫妻が目の前をうろつくようになったのだ。
 しかもその夫妻が苛つかせるどころか、英太を知らない世界へと突風を伴って連れ去っていってしまう。乱されっぱなしだった。

『俺はお前の教官だ。平井鈴木陣営についているからな。通信の許可をミセスにもらった。何かあったら直ぐに俺に報告するんだ。無理は絶対に駄目だ』
「わ、わかっています」
『俺がカタパルトから見送る。着艦も俺が誘導する。待っているからな』

 絶対に帰ってこい。俺が待っているから。
 そういうことらしい。目の前で若い甲板要員を従え誘導灯を振る御園大佐の顔は、命令違反をした時に怒り続けていた時のように真顔だった。それだけ真剣だと言うことらしい。

「帰ってきます。無理しないし……。もうアンコントロールは御免です」
『そうだな。まあ、じゃじゃ馬との駆け引きは楽しんでこい』

 そこはどこか楽しそうな笑顔の大佐。
 その気持ちの変化がまったくわからなくて英太は困惑したが、操縦桿を握る。

 だがこの人が側にいると、どこか安心感があるのも確かだと――英太は既に自覚していた。この人は小笠原に来てからずっと、俺を自由に動かしてくれた。横須賀にいた時の燻りを解消するように、燃焼させてくる。それが英太が『違反』をしたとしても、当然のように彼を怒らせて迷惑をかけても、最後には彼がどうにかまとめてくれたのだろうと。そんな『後ろにいてくれる』という安心感だ。
 白い作業服に身を包む『雷神メンテナンサー』が動き回る中、紺色の指揮官服を来ている御園大佐がカタパルトから英太を送り出してくれる。

 英太も彼に『帰ってくる』のグッドサインを投げて空に向かう。
 言葉には出来なくても、気持ちはあった。

 きっと彼という教官に一番に教えてもらったことが『帰ってくる』。英太はそう思っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 目の前を、青年達を乗せた真っ白い戦闘機が飛び立っていく。
 葉月は甲板から空を見上げ、それを見送った。
 葉月の背後には佐々木奈々美女史。彼女に『澤村大佐では慎重すぎて全く駄目。葉月さんならなんとかしてもう一度、鈴木大尉の能力を引き出せるのではないかしら』と相談された。さらに――『お願いよ。甲板では口出ししないから、貴女が鈴木大尉を飛ばしてみて』と泣き付かれたのだ? 様子を見ただけで『犬猿の間柄』とでも喩えたくなる夫となにかすれ違ったらしいことはわかった。訓練では口出しはしないで欲しいと言う条件と『総監の私にも思うところがある』という奈々美との利害一致にて今回の『期限三日の最終テスト』を独断で決行した。

 あの通り。奈々美は、犬猿男である隼人唯一の油断ならぬ相手としている『妻』に、自分の仕事を持って行かれる様を見て、葉月の隣でくすくすと笑っていたのだ。しかも――『貴女という可愛いはずの妻にやられっぱなしな澤村大佐の顔。ああ、すっとした』なんて言って気が済むと、自ら指揮官達が群がる通信機器から離れ、背後で楚々と無言の見学を決め込んでいる。
 あとは、鈴木青年が空でどのような動きをするかを楽しみに待っているのだろう。

(なんで。奈々美さんと隼人さんは、同じようなタイプの工学者なのに……) 

 あれほどに仲が悪いのだろうか? なんて、葉月はいつも腑に落ちなくなるのだ。
 そして『してやられた』はずの夫も、もう落ち着きを取り戻していた。

「まったく。勝手だな。一言も相談がなかった」

 一戦を仕掛ける前。手駒の『フレディ』が上空へと到達するのを待っている葉月の横に隼人が並んだ。
 彼の不満そうな顔。だがいつもの『じゃじゃ馬夫』故の余裕か、怒り顔ではなかった。だから葉月も遠慮なくほくそ笑む。

「相談したら、今度は貴方が私の先手を打って、先に動いてしまうでしょう。そうされると私の計画がめちゃくちゃにされるの」
「相談をされなかったら、俺がやろうとしていたことも、お前に突発的にぶっ壊されているけどなっ」

 まったく強気な妻の言葉に対し、夫のそんな愚痴に不満。しかし夫妻はこれで長年やってきたのだ。しかも殆ど、妻の葉月が最後には譲ってもらってきたかもしれない。

「俺の手で鈴木をしっかり卒業させてから、お前に引き渡そうとしていたのに。お前が卒業を言い渡すのか? まるで仕上げにかかっていたものをもぎ取られた気分だ」

 確かにと、葉月はそこは静かに怒りを揺らめかせ始めた夫と目が合わないよう、目線を逸らす。だけれど――と、そのまま夫に呟いた。

「ただ雷神入りを許可するかどうかの最終テストをするだけよ。最後はきちんと貴方に締めてもらおうと思っているわ」

 そして今度の葉月は夫の顔をきちんと見て言う。

「特に『メンタルな部分』。貴方なら、あの子が持っているだろう葛藤が手に取るようにわかるはずだわ――。『いつかの私』を誰よりも良く知っているのだもの」

 さらに葉月は隼人の目を真っ直ぐに見つめた。
 そこには葉月なりの『カマ掛け』があった。
 葉月自身、こんなにあの青年の中に若き頃の自分を感じ取っているのに、それを夫の隼人が感じないはずはないと。もし、夫がそれをわかっているなら――。隼人はとっくに、鈴木という青年の過去を握っていて、しかも妻である葉月に訳あって隠しているのだと。
 だが、夫は葉月のように目線は逸らさない。出会った時から変わらぬ大きく煌めく黒い目が、なんの躊躇いもなく葉月をただただ真っ直ぐ見つめ返している。その動じない強さ――。たとえ、妻になにか隠し事をしていてもそれすらも『お前のためだ』と言わんばかりの。だから、葉月はいつもその黒目の強さに屈してしまうのだ。

「まあ、今はいいわ。でも貴方に最後の教官としての見送りは是非お願いしたいと思っていますから。あの子を気持ちよく送り出して下さい」
「わかっている」
「ただ、飛行面については私が専門だわ。だから今日から三日だけはあの子と私だけにさせてちょうだい」
「それもわかった」

 夫妻の間ではこれでわだかまりなく共に訓練に挑むことが出来るとわかり、『青年との勝負』という啖呵を独断で言い放った葉月ではあったがほっとした。
 それに、隣で黙って眺めていたミラーもいつもの小言も言わないし、あれこれと口出しをしてくるデイブも黙っていた。

「――にしても。お前、すごい自信だな。フレディ一機だけで、あの未知の鈴木に勝とうと? 万が一負けても、お前はもうコックピットには戻れないんだぞ」

 途端に夫がいつもの呆れた顔、でも表情を和らげて笑い出した。
 隼人の肩の力が抜けたのを確認したからか、今度はミラーもいつものように割って入ってくる。

「そうだ、そうだ。いいのか? ミセス。あんな出来もしない約束をして――」

 そしてデイブも――。

「まあ、嬢ちゃんのはったりに引っかかるほどの『ガキ』じゃあ、仕方あるまい? 嬢がどうあってもコックピットに戻れないことは知っている者は知っている訳だ。それを知らないほどの『下っ端若僧パイロット』。まだ世の中がどれだけ広いか見えもしないと言うことさ」

 デイブの言葉に、ミラーがうんうんと頷いている。

「それにたとえ甲板でも、君があの下っ端に負けるとは俺は思わないね。あんな出来もしない約束をたきつけたのを黙ってみていたのは、俺にもそんな確信があるからだ」
「まあ、有り難う。ミラー大佐。貴方にそこまで評価して頂いているなら、これは益々気を引き締めて総監として勝利を得ませんと」
「当たり前だ。君が負けたら、俺は君の首根っこを引っ張ってでも一緒に甲板を降りる」

 『まあ、責任重大』と、まるで心中を覚悟しているかのようなミラーの……実はそうして葉月に油断するなと釘を刺している彼の怖い目に、葉月は少しばかりおののきそうになった。
 そんなミラーが今度は真顔で葉月に囁く。

「あれを見初めた君自身が一番わかっているだろう。まだなにも出来上がっていない下っ端の若僧パイロット。だが、あれは……小笠原に来て既に二、三回、俺達を引っかき回した『未知を秘めた青年』だということを。油断するな」
「わかっております。油断どころか、手など抜きませんわよ」
「いいね。それでこそ、俺達のミセス准将だ」

 微笑みを消した葉月を見て、ミラーも安心したようだった。

『ミセス、到着しました』

 フレディからの報告が聞こえ、葉月はヘッドホンに集中する。
 葉月の前のホワイト通信機にはフレディと英太のコックピットが映し出される。隣には隼人、そしてミラーとデイブもヘッドホンをし固唾を飲み見守る姿勢。

「フレディ、わかっているわね。言うとおりに飛んで。そうすれば、貴方は間違いなく大尉に昇進よ」
『イエスマム。お任せ下さい』

 フレディは、どちらかというと『ミラー大佐タイプ』の正確な飛行を冷静にするパイロット。このアメリカ青年も葉月がフロリダで自らの目で見初めた男だ。
 片や、葉月が新たに見初めた青年は『コリンズ大佐タイプ』。いわば、元祖ビーストームタイプだ。

「水と油だな」

 葉月の人選に夫は既に気が付いていたようだ。

「そう。同世代で水と油。でも化学反応があれば、こっちは儲けもの」
「なるほど。それにお前なあ。なにが『これで大尉にしてあげる』だ。フレディはもう既に大尉クラスの人材で、今回のことがなくても近々大尉になっていただろうよ。それを如何にも『今回、この私の作戦に貢献してくれたら大尉にしてあげる』だなんて煽って、上手く使いやがるな」
「いくら夫でもそういう言い方、やめてくれないっ?」

 夫の隼人は職場だと妙にねっちりと嫌味な時がある。まあ、昔からだけれどと葉月もわかっているのだが。それでも葉月が『ミセス准将』という地位を確立させればさせるほど、みょーに喧嘩を売ってくるように意地悪な時が目立つようになった。それを見ているミラーとデイブはこれまた『早く喧嘩しちまえ』みたいにニヤニヤしながら物見しているのもよくある光景だった。

「ほら、フレディが待っている。早く始めろ」

 これまた偉そうな旦那さんの言い方。『今、ここで一番偉いのは貴方じゃなくて私じゃないの?』と疑問符を頭上に浮かべたくなってしまう夫の態度に眉をひそめることもしばしば。

 だが葉月も今からは空に集中する。

「フレディ。行くわよ」

『ミセス、どうぞ。正確に指示に従う自信はあります』

 そうね。それが貴方の良いところであって、悪いところでもあるのだわ。――葉月は心でふと呟いてみる。
 だがそれはフレディに限ったことではない。誰にでも当てはまること。要は、この場面では如何に『良い点として引き出してあげるか』だ。
 そして――。

(さあ、鈴木大尉。フレディの良いところは、貴方には無いものだと思い知ると良いわ)

 葉月の彼に対する真剣勝負は、真剣な育成を意味している。

「鈴木がどこにいるか確認できているわね」
『四時、上空に――』
「向こうも時を狙っている頃よ。いい、そのまま高度を下げながらこちらに向かってきなさい。潜水艦が音もなく近づくようにね……」
『おびき寄せるのですね』
「その通りよ。そしてその後はね……」

 レーダーでは、高度を下げているフレディ機が少しずつこちら空母艦へと向かい始めていた。
 それを確かめながら、葉月は淡々とフレディに大まかな作戦を告げる。

『ラジャー、ミセス。行きます』
「頼んだわよ、フレディ」

 ホワイトの通信機。六号機のコックピットを映し出す映像。黒いグローブに、マリンブルーのラインがある白い袖。フレディの手が操縦桿をぎゅっと握りしめたのが見える。
 一方、隼人の目の前にある鈴木青年のコックピットはまだ動き無し。隼人も隣でミセスとフレディの作戦を耳にしてはいるが、それを鈴木青年に告げるようなことは決してせず、じっとことを眺めているだけだった。

「フレディの動きに、鈴木が気が付いた」

 隼人が教えてくれた一言に、葉月はそっと微笑む。
 ほら。食いついた。さあ、いらっしゃいと――。

 そして既に葉月の脳裏には、真っ赤な顔で怒っている鈴木青年の顔。それを思い浮かべてはどうしようもなくこぼれてしまう笑みを、隣にいる青年の教官である夫に知られないよう、ひっそりと噛み殺していた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 レーダーに動き始めた六号機の点を目で追う英太は思った。
 ――どこかで見たことがある動きだと。

『鈴木、背後に気をつけろ。下を走って上に来る。ミセスの得意技だ――』

 ただサポート役として飛んでいるだけの平井キャプテンからのアドバイスに、英太はハッとさせられる。
 まさか、まさか――! 英太の脳裏に、葉月とシートを共にしたあの日がぱっと浮かんだ時だった。

『来ているぞ! 下、いや、後ろ……いや、上……!』

 早い! 英太はそう思った。
 『何処かで見たことがある軌道取り』――そう判断した時にはもう、敵の六号機は英太と同じ高度に来ている!?

『ホワイトは操縦性が軽いだけじゃない。軽い分、操作慣れしたら機敏な動きも出来るし小回りも効くし、そのうえ――』

 ――軽い分、動きも早い! 追いつきも速い!

 英太も悟った。
 だからこのまえ、その軽さと細やかさとスピードについていけなくてアンコントロールを起こしてしまったのだと!

『二時の方角、斜め上、だ!』

 平井中佐の声が聞こえた時には、時既に遅し!
 あの時と一緒だ! ミセスとチェンジに乗った時、彼女のあまりの命知らずな操縦に流石の英太も驚愕したあの『ニアミス』――。
 英太の七号機フロントには、真っ白い戦闘機の下腹が迫ってきている。だが英太は『そこまでだろう』と高をくくっていた。ミセスならともかく、この実践であのミセスほどの操縦が出来る度胸ある男などそうそういるはずはないのだと――。
 だがそれは英太の甘さを思い知らされることに。

「う、嘘だろ――」

 六号機、フレディは本当にミセスの忠実なロボットだと思い知らされる。
 彼は下方にいる英太の機体へと躊躇うことなくプレッシャーを掛けてくる。あと数秒すれば、衝突する! そんな距離感でも、彼は舵を切って回避する気配がない。つまり、英太が舵を切って回避しない限り、彼は『衝突する覚悟』なのだと。

「こいつ……!」

 致し方なく、英太は舵を切り回転回避する。だが、いつもの癖が出た! 繊細さを心がけろとあれだけ思い知らされたのに、なのにあまりの焦りからいつものように豪快な舵切りをしてしまったのだ。案の定――途端に機体が不安定に揺れ、英太の機体は今度は意志とは関係なしにまたゆらゆらと機首がブレ始め思わぬ方向へと飛び始めた! また、アンコントロール!? 『わあああ』と叫びながら舵をあちこちに動かそうとした時だった。

『鈴木、操縦桿を固定しろ。変に動かすとこの前のようなアンコントロールに陥るぞ!』

 平井中佐のアドバイスが聞こえ、英太はハッとして動かそうとしていた手首を固定させた。
 それはそれで、不安定にあさっての方向へと流されていってしまう機体に身を任せることになり、自衛本能が爆発している今は余計に不安にさせられたが堪えた。すると、そこで機首のブレが止まった――。

『舵をそっと水平に戻せ。落ち着け』

 彼の声になだめられるかのようにして、英太はそっと静かに操縦桿を動かす。
 本当に、なんて繊細な機種であることか――。なんとか水平飛行に戻せたが、第一接触では『完敗』だった。

(あんのやろうーー。ミセスのためなら、死ねるってことか!?)

 あの美人上官のためなら死ぬのも名誉だって?
 彼女の横で照れていた同世代青年の情けない姿を思い出して、英太の心は益々燃えてきた!
 女に命を投げ出した男になんか、負けてたまるか! 再度、操縦桿を握りしめ、レーダー見た時、英太はまた『あっ』と声を上げてしまう。

『来ているぞ! 鈴木、横だ、横!』

 今度は真横にフレディ機が迫っていた。しかもまたあの命知らずのニアミスプレッシャーを掛けてくる!
 今度の英太は落ち着いて操縦桿を切ったが、それでもくるりと意志とは関係のない回転が加わり、行きたい方向へ逃げたい方向へと行けない!
 ――なんで? なんでこんなに操縦が出来ないんだ!
 勝負する相手である男に闘志を燃やす前に、英太自身、ホワイトという機種に馴染めないこの情けなさが大波となって襲い始めていた。そんな時、『ある日の教官の声』が聞こえてくる。――『最初のカリキュラムになる図形を描くようなテスト飛行。これは最初は退屈かもしれないが、大事なステップを踏むための……』――あの退屈な基礎的な飛行が、実はホワイトを如何に操縦するためにあるか。それを今、やっと思い知ったのだ!
 今の英太はその基礎ステップを飛ばし、ミセスの特別許可で演習という『英太の得意とするところ』で最終テストをしている。だがその『得意とするところ』で、英太は叩きのめされている!?

『まだだ。鈴木、今度は上!』

 なんとか回避したのも束の間。また六号機が英太へぶつかるのではないかという勢いでぐんぐんと衝突を仕掛けるかのようなプレッシャーを掛けてくる。

「くそ!」

 何度も操縦桿を切る。その度に、思わぬ方向へ流されていく。落ち着いたところでほっとする間もなく、フレディ機にニアミスを仕掛けられる。
 そして気が付けば、もうかなり高度を下げられていた。逃げていくのが横か下か。決して前進と上昇は許されず、英太の七号機は既に海面へと押しつけられそうな高度に追いつめられていた。

『なにをやっている。だいぶ空母から遠ざかっているぞ』

 流石の平井キャプテンがサポートに飛んでくる間もないほどに、英太はフレディにアタックされては逃げるしか道がない。しかも今は瀬戸際。直ぐ下は海面。あともう一回、フレディに上からどかんとアタックされたら英太は海面すれすれに降下するしか道がない。それは海面との激突を意味する。だがひとつだけ回避する道筋が残されていた。まるでワザと残されたかのように本当に一カ所だけ、フレディが逃げ道を残してくれている。だがその道を通ることは、パイロットとして『惨敗』を意味するとんでもなく情けない逃げ方をするしかない道筋だった。それだけは、英太のプライドが許されないほどの……。
 そんなフレディが迷いなく下にいる英太の七号機へと機体を押しつけてきた。

 馬鹿野郎――! それをやったらお前も俺と一緒に死ぬぞ!
 流石の英太も顔面蒼白――。だが相手もどんだけの覚悟?

 お前を潰して、俺も死ぬ。それがミセスの命令だ。

 何故かそんな声が六号機から聞こえてくるようだった。
 それだけの気迫で、フレディがミセスに忠誠を誓い従順に操縦をしているのだと。

「……こ、この野郎。覚えていろ」

 英太は泣く泣く『惨敗』を選択した。みっともない逃亡的な回避をしてフレディから逃げた。
 しかも空母上空を通り過ぎ、陸へ向かい、とにかくフレディやミセスが訓練にもならない空域、基地上空へと逃げてしまったのだ。こんな情けない逃げ。初めてだった。
 最後に残されたたったひとつの『逃げ道』。きっとミセスが『死にたくないならこの穴道を通るしかないわよ』と言わんばかりに、フレディにそこまで追いつめるよう計算し尽くされたアタックを指示していたのだと。息も絶え絶え、海上から陸へと流れ、たった一機になってから身に染みさせられた。

「あの女――」

 英太はコックピットのパネルに拳を振り落とす。
 ギリギリと歯を軋ませていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「流石だな」
「うん、流石だ」

 甲板では、葉月の横でミラーとデイブがにやりとした笑みを浮かべていた。
 だが、もう一方に控えている隼人は神妙にモニターを見て無言だった。葉月はそちらの方が気になる。

「あいつのプライドを散々傷つけたわけだ。パイロット同士、何が嫌か解りすぎているだろうに、えげつないことをするな」

 ほらね。貴方のその冷たい眼差し。葉月は嫌なため息をこぼした。
 本当に工学科へと去っていき、葉月の補佐でなくなってからは、ずっとこの手厳しさ。だがそれは葉月を、妻を、そしてパートナーを思い上がらせないためでもあるのだとわかっているのだ、葉月も。だから自分も負けじと言ってやる。

「生死の世界で、えげつないなんて批判し合う暇はないわよ。生きるか死ぬか、それだけ」
「ごもっとも。だが、お前がそこまでやるようになるとはね。相当な覚悟な訳だ」

 『覚悟』に葉月は黙り込んだ。
 そして夫はなにもかもを見透かしたように既に笑っている。
 隣にいるパイロット戦友の、ミラーやデイブと違うのはそういうところだ。彼等がどんなに『流石のミセス』と褒め称えてくれても、夫の隼人はまったく違う視点で妻が見ている方向を探り当ててしまう。

「わかっているなら。貴方も手出ししないでよ」
「どうぞ、どうぞ。見ている方が楽しそうだ?」

 まあ、この夫だけは本当に悠長というか。余裕というか。
 だが葉月はまだ続ける。

「フレディ、徹底的にやりなさい。今、ホワイトを自由自在に操って、しかもテクニックがあるのは間違いなく貴方よ」
『イエス、マム!』

 陸へと逃げた鈴木青年すらも葉月は見逃さなかった。
 やがて陸へと逃げたはずの鈴木七号機がまた海上に戻ってくる。フレディに追いかけられ、連れ戻されたかのように。鈴木青年の情けない逃亡飛行の姿が、この空母艦上空を過ぎっていった。
 それは今までの、雄々しい滑走路飛行も、誰もが驚愕したアンコントロール飛行も忘れさせるほどに、惨敗する姿。
 空を見上げた男達の、恐れを抱いた眼差しが葉月へと注がれる。――あの女は、やる時は徹底している悪魔だとばかりに。
 それすらも出来なくて何が一大部隊を束ねる准将だと言えるのか? 時には悪魔であり時には母のようでなくてはならないだろう。夫が言う『覚悟』とは悪役も務められるのかという覚悟も含まれている。
 天使のように優しいだけの『理想的な女性』になどなれないのだ。やっていけるはずがないのだ。そんな聖母は余所にいればいい。甲板に要らない。だから自分は優しい聖母になどならなくて良い――。

 だがその裏で『甲板だけで、あれだけのダイナミックな飛行をした現役パイロット青年を追いつめた』――そんな女であることが所々で囁かれているのを葉月も耳にする。
 そうでなければ、誰があんな出来もしない約束を盾に、体力では敵うことも出来なくなった現役青年と勝負をしろと?
 こちらには、キャリア経験にスキル、そして『権力』がある。まだまだ若者に『操縦が出来るだけ』のことで自由に空を飛ばす気はない。

 小一時間した頃だった。

『……お嬢、もう良いだろう。ここまで鈴木を徹底的に追い込むだなんて』

 何事も冷静で有名な平井から『見ていられない』という懇願するような『着艦したい』という声すら届いてきた。
 フレディの徹底した執拗な攻め。まだ操縦も慣れていない鈴木青年には、どうにも勝負にならなくて、しかも葉月の『殺してしまうかもしれない』というギリギリの攻撃に息も絶え絶えと言ったところのようだ。

『もう解っているだろ。お嬢の勝ちだ。まだ第一日目だ。これ以上やって、精神的に潰さないでくれ!』

 あの平井からの悲痛な要請。彼も彼なりに葉月が見つけてきた今までにない人材だと密かに大事に見守ってくれているのだと――。そんな平井に諭されるような気持ちで、葉月もやっとそれを口にした。

「三機、着艦するように……」

 どこからもほっとした隊員達の顔が見えたような気がした。空気が緩んだように急に甲板を白いメンテナンサー達が動き始める。
 だが葉月と、その側にいる大佐男達は『ほっとした』だなんてことはなかった。ただ、彼等は言う。

「嬢、お前もいつの間にかムキになっていたな」
「第一日目であそこまで徹底的にするとは、君の悪魔っぷりには流石の俺も鳥肌立ったよ」

 あの暴れん坊の青年を、あんな情けない姿に追い込むことが出来るのは『ミセスしかいない』。そんな彼等に『真の准将』として良い意味で評価してもらえたようだ。
 そして夫はただただ葉月を見ている。

「なに。可愛い教え子を追い立てた『えげつない女監督』だと呆れているの」

 だが隼人はそこで無言にて微笑んだだけだった。
 なにもそこまで言わない。ただお前が徹底的にやる時に見せる鬼のようなやり方には昔から敵わない――。夫がそう言いたそうにしているのが、妻の自分には聞こえてくる。そんなやるせいない笑みだけを夫は葉月に見せている。

 やがて、三機のホワイトが着艦体制に入った。
 最初に戻ってきたのはフレディ。コックピットを降りた彼は、完全勝利に笑顔に輝いていた。
 その次は、あの鈴木青年――。

 そこで葉月は両隣にいる男達に呟いた。

「いい。誰一人と、私と彼の間に入らないで。手を出した者は容赦なく甲板から退去してもらうわよ」

 ミラーとデイブはなにもかもお見通しなのか無言で頷いてくれる。
 そして隼人は葉月の側から離れ、黙って見学をしていた奈々美の隣へと『無関係』の体勢を取るかのように後退していく。その代わりに、黙ってみていた側近のテッドが隣に戻ってきた。

「准将、まさか――」
「テッド。貴方でも私と彼の間に割って入ってきたら、ただじゃおかないわよ」
「しかし、准将――」

 いつでも、葉月には『指一本触れさせまい』と徹底してきた主席側近のテッド。
 そんな彼が危惧していることは――。

 甲板に『ガン』という音が鳴り響いた。音がした方向を見ると、そこではコックピットを降りたばかりの鈴木英太がヘルメットを力一杯甲板に叩き付けた姿があった。
 そして、テッドが危惧していることが現実となる。鈴木青年の怒りに満ちた眼差しが、躊躇うことなく真っ直ぐに、指揮台にいる『ミセス准将』を捕らえていたからだ。

 鈴木青年の敵意をみなぎらせた視線に葉月は既にロックオンされていた。
 その目は上官を恐れてなどいない。ただ、たった一人の『惨敗を導いた者』への敵意しかない眼差し。その英太がゆらりとこちらへと一歩踏み出している。明らかに、こちらに直進してくるような勢いを秘めていた。

「ミセス、あの目は危ないですよ。やっぱり俺は――」

 だからこそ危機感を持ったテッドがそんな葉月を庇おうと前に立ちはだかったのだが――。葉月は敢えて、テッドに退くよう彼を横へと追いやっていた。

「大丈夫よ。テッド。ようやっとあの子と真っ正面、ぶつかるチャンスが来たんだから」
「チャンスって――」
「テッド。あの子のあの姿は、あの頃の私と似ているわ。『空だけじゃ足りない』のよ。そして私とはぶつける場所が違うだけ。そうね、陸での私は夜の峠を車で飛ばして、港でチキンレースをしてまぎらわしていたもの――」

 そんな昔話。既に知っているはずのテッドではあるが、それでも急に彼もハッとした顔になり、何かを悟ったのか不満そうでも大人しく葉月の後ろへと退いてくれた。

 真っ直ぐに葉月を射抜く青年のその眼差しは、痛いほどに熱く感じた。
 痛いからこそ、熱い。そんな青年に葉月は、不敵に微笑み誘いかける。

 ――さあ、いらっしゃい。

 葉月のそんな語りかけるような『笑み』を見た英太が、なにかの留め金が外れたようにこちらにすっ飛んできた。
 ――誰も邪魔をするな。
 ミセスの命令に誰もがただ黙って見ている中、英太は易々とこの甲板の女王である葉月の目の前に辿り着いていた。
 そしてあろうことか、最高司令官であるはずの『ミセス准将』の首元を、その大きな両手で締め上げていたのだ。

「お、俺を本気で殺す気だっただろ!」

 青年の燃える目に、葉月は首を締め上げられながらもふと微笑んだ。
 そして、構わずに言ってやるのだ。

「そうよ。死にたそうだったから、死なせてやろうと思ったのよ」

 ぎりっと締め上げられた首元。徐々に苦しくなる喉。少しだけ浮いているつま先。流石、体格の良い若い男に無防備に飛びかかられると、葉月もどうにもなりそうになかった。
 それでも葉月は目線があった青年に微笑んでみせるのだ。
 それだけで、英太が驚愕の表情に一変した。

 最高司令官で、部下を、パイロットを守るはずの総監が『死なせてやろうと思った』。
 その一言は、たとえ、鈴木青年でも驚きでしかなかったようだった。

 

 

 

Update/2008.12.3
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