-- 蒼い月の秘密 --

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11.朝まで忘れたい

 

 いつもどっしりと構えているミセス准将だから、『重い』というイメージがあるのだが、そうではなかった。
 英太が掴んだ彼女の両襟。気が付けば彼女の表情は苦しそうに歪み、そして軽々とつま先が甲板から離れそうになっていた。そう『軽い』。そして細い。彼女の身体はまさしくか弱い女性だった。
 息苦しそうな表情なのに、その女性の目は英太を強く見つめ返し、それどころか笑っている。

「私、知っているわよ。貴方が空で『いつ死んでも良い』と思っていること。そうでしょう?」

 そして彼女の英太の心を覗くような目――。どうしてか胸が大きくどくんと動いた! 『私、知っている。いつ死んでも良いと思っていると。死にたそうだったから、死なせてやろうと思った』。その言葉にどこか衝撃を感じる自分がいる!?
 そんな英太の手は、彼女の襟を掴んで動かせない状態になるほど固まっていた。だが、英太のその手にそっと彼女の手が重なる。ふりほどこうとかそんな手つきじゃない。添える、そっと静かに。そんな手に英太はまた我に返りそうになる。ひんやりしている指先にも、目が覚めそうになった。
 そして彼女がうっすらとした微笑みを浮かべ、言ったのだ。

「安心した。『俺を殺すのか』――。そう言えるってことは、少なくとも殺されるのが怖いってね」

 英太はそこでぱっと両手の力を緩める。
 がたいの良い青年に首元を締め上げられていた彼女が、そのままぐったりと甲板に手をつき跪き項垂れる。そして、ごほごほと咳き込んだ。
 すぐさま、側にいた主席側近のラングラー中佐が『准将、大丈夫ですか』と飛びつきそうになったが。

「言ったでしょ、誰も私に触らないでと!」

 気丈な彼女の一声に、流石のラングラー中佐も動きを止める。
 それどころか、見渡してみると、英太の周りにいる彼女の補佐大佐達は悠然と構え、硬い表情でこちらを窺っているだけだった。

「大尉。怒るなら、悔しいなら、あと二日でフレディのアタックを返すことね――」

 甲板に跪いていたミセスがゆらりと立ち上がった。
 英太よりずっと小柄なのに、本当に彼女は英太と同じぐらいの背丈なのではないかと思わせるほどの視線を突きつけてくる。だから英太はおののき、思わず一歩後ずさりしそうになったほどに――。それでも彼女が詰め寄ってくるように、英太に一歩近づいてくる。

「貴方は、私の指示とフレディの飛行で『本気で殺されそうになった』という恐怖を味わったでしょうね。でも違うのよ。フレディは、的確に一分の狂いもない飛行をしてくれたのよ。彼は『ここまでなら大丈夫』という自信を持って貴方をアタックした。あのホワイトでそれだけ正確な飛行が出来る。そんな彼だから、私は彼を選んで使った。なのに、貴方はなに? なんの確かさもなく、一ミリ単位に自信を持って臨むフレディの的確な操作の飛行に対して『逃げた』だけじゃなく、この総監の私に向かって『殺す気か』と喚いた――」

 先程、英太の手に触れた冷たい指先が、ぴしっと鼻先に突き出される。
 そして今度こそ、英太は迫ってくる彼女に恐れ、一歩後ずさっていた。

「もう分かるわね。今の自分がどれだけ実力不足で訓練不足で、そして雷神に来るパイロットとしてもどれだけ情けない男であるか!」

 それは自分を引き抜いてくれたミセス自身から、はっきりと引導を渡されたようなものだった!
 初めて――。英太は愕然とした『敗北感』に襲われていた。目の前が真っ白になりそうだった!

「あと二日よ。分かっているわね! それ以上はもう私も待たないわ。貴方が、それっぽっちの青年だとあと二日で判断させてもらうわ。その時はさっさと叔母様の所に帰りなさい!」

 彼女はそれだけ吠えると、英太からさっと背を向けてしまう。
 それでも肩越しに少しだけ振り返ってくれるミセス准将。栗毛が潮風になびき、そして再び英太を見る目が、不思議と澄んでいたように見えハッとさせられた。哀しそうで裏切られたような目でもなく、そして嘲笑っているかのように冷ややかで意地悪い目でもなかった。何とも言えないただの視線が英太へと振り返っている。茶色の目は、本当に綺麗なビー玉のようだった。だがそれもふいっと逸らされ英太の目の前から消えていった……。

「ミラー大佐。雷神の訓練に戻りましょう」
「やっとですね――。フレディは?」
「二戦休ませて、また飛んでもらうわ」
「ラジャー、ミセス」

 もう総監である彼女や補佐大佐達には英太など、英太の訓練など頭にないようだった。
 つまり。今日はこれで打ち切られたと言うことだ……。

「諦めろ。今日、もう一度飛んでも、お前は同じことを繰り返すだけだ。帰って作戦を立て直そう」

 誰かが英太の肩を叩いた。
 誰もが英太を甲板から切り捨てた中、たった一人だけが、英太の側にいる。訓練教官の御園大佐。彼だけだった。
 英太は項垂れ、ただ彼の指示に頷くだけだった。

「しかも総監督であるミセスにあれだけの行為をしては、誰もかばってもくれないだろう。俺もどんなにあいつが女房でも、甲板では空部隊天下のミセス様。かばえないよ。その代わり、誰もお前とミセスの間の邪魔もしなければ、お前を締め上げる男もいなかった。そこはミセスの配慮。感謝しておくんだな。本当だったら謹慎処分くらってもおかしくないぞ」

 御園大佐の説教にも、英太は素直に頷くしかなかった。

「でも俺。そんなつもりは……」

 カッとなってしていた。女性のミセスを締め上げ、後先考えずに――。
 女性より確実に力を持っている己の手を広げ、英太は眺めた。それを御園大佐も冷ややかに見ている。

「彼女の身体、軽かっただろ。でも実は誰よりも重いんだよ」

 御園大佐はそれだけ言うと、英太より先に甲板を出て行く艦内へのドアをくぐった。
 英太もそのまま薄暗い艦内へと、ただついていく。

 そして御園大佐の言葉を噛みしめる。
 彼女は軽々と持ち上げられる女性。だけれどどうしてだ。彼女が女性だと忘れるほどに掴み上げたのに、それ以上投げることも出来なかった。振り落とすことも出来なかった。
 ――『死にたそうだったから、死なせてやろうと思ったのよ』。
 あの言葉が何度も何度も英太の頭の中を駆けめぐり始める。
 まるで俺のことを知っているかのような、全て見透かされているかのような衝撃があった。それを知った途端、彼女の身体がずっしりと重くなった気がしたのは確かだ。
 御園大佐は、そんな妻の意図を良く知っているかのような口ぶり。何故、彼女が『重い』のか。そして英太が彼女を重く感じたことすらも良く知っているかのような。

 ふいに。御園夫妻という二人に英太は恐れを抱く。
 この二人は揃っていったい? 英太を本当はどう見ているのだろうかと。

 甲板から薄暗い艦内へ。そして通路へと降りていく鉄階段。連絡船乗り場へと向かう御園大佐の背を見て、英太は立ち止まってしまう。
 いったい、貴方達は、俺をどんなふうに見ているのかと? そんな感触。
 英太が立ち止まった為か、先を歩いていた御園大佐が訝しそうに振り返った。

「どうした」
「いえ」

 暫し、二人で見つめ合う。
 この夫妻、英太の何を見て、どうしようとしているのか。
 だが大佐の眼はそれを少しも見せようとはしない隙のない眼差し。そうだ。先程の、ミセスの感情を宿していないただ透き通って見えた眼と同じだと英太は気がついた。その大佐が今度は英太に尋ねる。

「一応、聞いておく。彼女が公然と『二日で見切りをつける』と言ったからには本当にそうすると思う。万が一、鈴木を引き抜いた本人であるミセスが『雷神には要らないパイロットだ』と判断した時は、鈴木自身はどうするのか――」

 その問いにも英太は愕然とした。この大佐がそんなふうに尋ねると言うことは、彼にとってももう助ける道もないということを意味するからだ。

「そんなことはなにも……俺は……」
「横須賀に帰りたいなら俺がなんとかしてやってもいいけど。お前はどうなんだ? 横須賀に帰りたい部隊があるのなら教えてくれ」
「横須賀にはもう……」
「浜松でも岩国でも、三沢でも小松でも千歳でも沖縄でも。パイロットを続けたいならどこでもいいだろう? それとも? 横須賀でそう決めていたように、きっぱりと軍人から足を洗って叔母さんの看病に専念するか?」

 万が一の場合の進路を、こんなにも具体的に問われ、英太は茫然とさせられた。
 それだけミセスが本気になってしまったと言うことらしい。そして大佐ももう、英太をかばえないほどの状況に流されてしまったのだと。
 彼の横顔がどこか硬い。彼も覚悟を決めているかのように――。

「叔母には、パイロットを辞めるだなんて言えません」

 英太の一言に、御園大佐のどこか厳しい目線がこちらに向かってきた。

「そうか? 小笠原に送り出してくれたとかいう叔母さんではあるだろうが、お前がパイロットであろうがなかろうが、元気であればそれで安心してくれると思うな」

 そんな。御園大佐まで、英太を見捨てるかのような言葉。

「それでもパイロットを続けたいというなら、それがどうしてか。自分で分かっているのか?」

 その言葉にも英太は初めて言われたような気がして、本当に初めて自分で問い返していた。『俺はパイロットを続けたいのか?』と――。

「葉月が言うように、本当はお前、パイロットである以上、どうでもよい飛び方をして死んでも良いと思っているのか?」
「まさか。俺は……!」

 死のうだなんて思って飛んだことはないと言いたい。
 だけれど、いつ死んでも良い覚悟で飛んでいることはある。だから否定は出来ない。それが故に無茶が出来たこともある。そして小笠原に来てそれを何度もやった。

「本当に『ただ好きなように飛びたい』というだけでパイロットを続けたいのなら、雷神でなくても……」
「いやだ! ここまで来て雷神の白い飛行服を諦めるだなんて! 横須賀でも浜松でも岩国でもない。俺は、俺はこの小笠原であの白い飛行服を着て、この新しい海の上をあの白い飛行機で飛んでみたい!!」

 子供のように叫んでいた。
 すると益々厳しい眼差しで御園大佐に射抜かれる。彼のそんな目は初めてだった。あのミセスの重厚な眼差しより、英太に突き刺さった気がした。

「つまりお前は、自分自身のために飛びたいと言っているんだな? 自分のために空を飛ぶんだよな!」

 彼からの強い問いに、英太は少しばかりたじろいだが、でも直ぐに答えた。

「そうです。俺が、俺自身がまだまだ空を飛んでいたいんです!」

 そして英太は、立ち止まっていた鉄階段を駆け下り、御園大佐の足下に土下座をして頭を下げていた。冷たい床に額を押しつけ、彼に懇願する。

「お願いです! 俺、あと二日でホワイトを操縦できるようになりたいんです! もう一度最初から順序通りに教えてください!!」
「順序通りに?」

 不思議そうな御園大佐の声。英太は慌てて顔をあげ、土下座したまま大佐に告げる。

「俺が無視した『テスト飛行』。あれの飛び方を教えてください。あれが出来なくては、あれこそが『ホワイトの基礎』だとやっと解ったんです、俺!」
「ほう。なるほど」

 御園大佐が顎をなぞりながら、それでもまだまだ厳しい目で英太を見下ろしている。

「甲板に出られないなら、チェンジでも構いません。俺、大佐の指示には二度と逆らわない。無視しません!」
「へえ、お前がねえ?」

 彼がどこか可笑しそうにニヤリと唇の端を上げ、また顎をさすっている。
 そして英太は再度、額を床にこすりつけ、隼人に叫んだ。

「無駄でも、そのテスト飛行さえ出来れば、まだ今よりかはマシかと。お願いです。俺を助けてください!!」

 もしかすると。今までの英太なら、たとえ上官であってもこれだけの懇願をするのは『屈辱』だったかもしれない。
 しかも二度と逆らわない、指示を無視しないと、絶対服従すらも宣言したのだ。

「いいだろう」

 御園大佐のその声に、英太は感謝の笑みを浮かべ、彼を見上げた。
 屈辱など、どうでもいい。今、俺はこの人を信じることが出来るし、そしてもうその道しか残されていないのだから。

「テスト飛行が『実は基礎だった』と、よく気がついたな。俺の、立て直そうとした作戦はまさにそれだ。いいだろう。俺も『あの女』にあそこまで研修をしたお前を弄ばれたのは、やや腹立たしかったんでね。一矢報いろうじゃないか。ただし、俺も大佐といえども、あのミセスに逆らうんだ。お前としっかり組まないと俺も危ない。ちゃんと従ってくれるな」
「はい、大佐!」

 やはりこの人は、今までの上官とは違う。英太はほっとした。

「とりあえず、工学科に戻ろう。今日、もう一度、ホワイトに乗れるチャンスをどう狙えるか、作戦を立てよう。先ずは一敗、撤退ってことにしてな」

 御園大佐が背を向け、英太の先を力強く歩き始める。
 英太も迷わず、彼の背についていく。

 それにしても。夫妻なのに彼女を良く知っている口ぶりを強調したり、かと思ったら、『あの女に腹が立って』と天敵扱い?

 本当に不思議な夫妻だなと英太は思っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 あー、今日もなんだかんだで散々だった。
 この日、遅く帰ってきた隼人は書斎でもう一仕事。夕方、工学科でなにも仕事が出来なかったので持ち帰ってきた。
 それでも小笠原の初夏はもう暑い。そろそろシャワーでも浴びて、くつろごうと寝室へと向かう。

 ドアを開けると既に妻は入浴後のようで、白いガウン姿でドレッサーに向かっているところだった。それを目に留め、隼人も寝室のバスルームに入り、一風呂。さっぱりと気分も良くなって、バスローブを羽織り、寝室に戻った。

 ところが。先に寝支度を済ませ、もう寝ているかもしれないと思っていた妻が、隼人がバスルームに入った時と変わらぬ格好でドレッサーに向かっていたのだ。
 彼女は肌の手入れをしているのかと思っていたのだが、どうもそうではないようで、ただ単に鏡に映っている自分をじいっと見ていた。自分自身をただじいっと見ている。

「どうかしたのか」

 問いかけても彼女は鏡の端に写り込んでいる夫を、ちらりとも見なかった。
 部屋の灯りはほんのりと、ベッドサイドの灯りだけになっていた。そして、いつのまにかオレンジのような甘い香り。彼女がアロマを楽しむ時はいつもほの明るいだけの部屋になる。それに気がついて、隼人は葉月の側にそっと歩み寄る。
 ドレッサーのスツールに座っている彼女の背、そこと対等になるベッドに腰をかけ鏡の中の妻を見て隼人は呟く。

「疲れているんだな」

 疲れている時、彼女が良く選ぶ香り――だと、隼人は勝手に思っている。

「なにか飲むか? リクエストあれば俺もビールを取ってくるついでに、何か作っても良いけど。暑くなったからヴァンショーはいらないよな。レモネードとかどうだろうか……」

 それでも葉月は無反応だった。
 まるでいつかのように。自分の世界だけで済ませようと、夫にその隙を与えてくれないのだ。
 そうなると隼人でもどうしようもない。若い青年の頃だったなら、隼人もムキになって彼女の傍にいてあげたいと無理矢理に隙を作らせて入り込もうとしていたかもしれない。だけれど今はもう、逆にいつもいられる夫妻だからこそ、妻が入ってこないでと仄めかしている時は、無理して入らないようにしていた。だったら、自分一人でビールでも傾けて寝るかなと思ったその時――。

「肌が荒れちゃって……」

 妻がふいに呟いた。
 そうかな。と、隼人は鏡の中の妻をもう一度良く眺めた。

「どこが? お前、お手入れだけはお祖母様譲りで欠かさないほうだろ」

 肌だけは。化粧はあっさりでもそんなお手入れだけは、若い頃から妻はきちんとしていた。というか、それが妻のストレス解消でもあるようだった。良い香りがするリラックスが出来る化粧品を使ってお手入れをして寝る。翌朝、するんとファンデーションが乗っただけで、凄く気分が良いそうなのだ? 男の隼人には分からないが、それでもいつまでもナチュラルな肌で笑顔を見せてくれる妻のことは気に入っているつもりで……。

「でもほら。こんなところに吹き出物が」
「どれ」

 やっと振り返り、夫の顔を見てくれた葉月。そんな妻が指さしている頬を隼人もついつい立ち上がって覗いてしまう。

「本当だ。暑くなってきたからじゃないか。それかおやつにまたチョコレートを沢山食べたとか。いつだったかもそれが重なって、唇の端に大きな吹き出物が出来たって、お前、慌てていたじゃないか」
「そうかも。実はちょっとこの前、お化粧も落とさないで寝ちゃって……」
「あー、あの日なー。お前、帰って来るなり夕飯も食わないで、そのままここで寝てしまったもんな」
「それに、確かにチョコレートも准将室でいっぱいつまんだわ」
「あー、いつもほどほどにと言っているのに」

 でもお前はチョコレートだけは何歳になっても大好物でいっぱい食べてしまうんだなと、隼人は少し呆れてみた。
 そんな妻がちょっと隼人を甘い眼差しで見つめている。流石の隼人もどっきりとした。

「これって絶対にストレスよね?」
「え? あ、ああ……そうだな」

 いつになく甘えた目で見つめてくるので、ついつい隼人も妻の言葉通りに頷いてしまう。
 しかし、それは否めなかった。彼女はもう少しすると、熟睡も出来ない環境下となる『空母艦航行任務』へと就く。とりあえず横須賀から日本を一周。一ヶ月程、海の上の生活を再び。それだけでなく准将の仕事に、さらにはあのアンコントロール問題でホワイトの実務ラインへの実現が遠のき、あれやこれやと会議に飛び回り、連隊長からのプレッシャーに……数えればその重責は限りない。
 その上、あの問題児青年との真っ正面対決中。自分がスカウトしてきただけに、ギリギリまですんなりとものにならなかった責任を感じているのかもしれない。

 そんな妻を見て、隼人はついに葉月を抱きしめていた。

「ごめん。俺がちょっと遊びすぎた」
「なんのこと?」
「鈴木のこと――」

 最初の、滑走路飛行をさせた時から、彼とはじっくりとやりすぎたかと隼人も反省はしているのだ。
 だけれど葉月は可笑しそうな声。

「どうせ、誰が受け持っても、あの子はあんなだわ。いいの、これで良かったのよ。それにまだ終わっていないわ」
「うん。お前の賭け、なんとかなるといいな」
「知っているのよ。貴方、今日――夕方、コリンズ大佐に頭を下げて、ビーストームの訓練中に、あの子をもう一度ホワイトに乗せて『基礎』から指導をし直しているって――」

 やっぱり知っていたかと、隼人はため息をついた。
 空部隊のことは、なにをしても妻の耳にはいるだろうと覚悟はしていたが。どんな風にしても、やっぱりばれるのだなと。
 それでも葉月はそっと微笑み、抱きしめる隼人の背を同じように抱き返してくれる。

「知らないふり、しておくわ」
「ああ。そうしてくれ。あいつから気がついてくれたんだ。退屈だと無視したテスト飛行こそが、ホワイト操縦の基礎だったと」
「あの子、気がついてくれたの? テスト飛行が大事だって――」

 『ああ、そうだよ』と、隼人はスツールに座っている妻の栗毛を撫でた。
 彼女がそのまま隼人の肩に、くったりと頭をもたげてくる。鼻先に、彼女愛用のシャンプーの匂い。エキゾチックで少し妖艶なシプレーの。この香りに慣れていても、吸い込んだ瞬間、隼人の全てが『夜』へと溶け込んでいく、そんな香り。

「もう、やめよう。仕事の話は……」
「そうね」

 隼人も疲れていた。もう基地でのあれこれも、手を焼く部下のことも、そして彼女が妻でありながら気を抜くことが出来ない『ミセス准将』であることも。
 ふとそう思いながら、妻の顔をもう一度良く見つめた時だった。隼人の腕の中にすっかり溶け込んでいた葉月が、ふいにスツールから立ち上がった。

「貴方、もう一度そこに座って」

 葉月がもう一度、ベッドの縁に座ってくれと指さした。隼人もその通りに座ってみる。そこでもう一度、夫の胸に甘えてゆったりとくつろぎたいのだろうかと隼人は思ったのだが――。しかし目の前では、もっと違う刺激的なことが起きていた。妻が静かに白いガウンの腰ひもを解き、ゆっくりと肩からすべらせ素肌になろうとしていた。
 ベッドサイドの仄かなだけの灯り。淡い柑橘の香り。そして妻の――。
 いつも通り、葉月はガウンを脱いでしまうとなんのランジェリーもつけていない。するんとした裸体が隼人の目の前に、優しく現れた。

「どうした……葉月」

 分かっているくせに。
 既に妻の肌に手が触れているくせに。それでも葉月から求めるかのように裸になったのだからと、隼人は決して自分から妻を引き寄せようとはしなかった。
 いつもの妻ならそんな夫のことを『意地悪な人』と呟きそうな所。なのに葉月はどこか満足そうに、肌を触れている夫の手を優美な微笑みで見下ろしているだけ。

「すごくそんな気分なの」

 葉月の腰を撫でている隼人の手、彼女のひんやりとした指先が触れる。
 座っている夫の目の前に、なんの恥じらいもなく全裸で立っている妻。そっと夫を見下ろしている瞳が、まだ湿っていそうな栗毛の隙間からじっと見つめている。
 妻からの誘い。しかも、何年も昔に南仏の初夏出会ってからずっとなにかしら揺らされてばかり来た栗毛の女からの……。
 断るはずもなく、隼人からその冷たい手を引き寄せてやろうと思ったのに、その栗毛の全裸の女から、大胆にベッドの縁に座っているだけの隼人の膝の上へと足を開いて座り込んできたのだ。

「葉月――」

 お前らしくないな。なんて言いたいのは、もう少し若かった頃のことで――。
 結婚十年を迎えようとしている今となっては、こんなことも偶にはあること。隼人は自分の身体の上に、あられもなく股を開いて座り込み抱きついてきた妻を、迷うことなく抱きしめた。
 その上――。妻からの隙も与えない口づけが、隼人の唇を激しく求めてきた。彼女の舌先が隼人の唇を強引に開こうとする強さ。流石の隼人も少しばかり、驚きのうめき声を漏らしてしまう。それでも葉月の舌先は狙った獲物を逃さないかの如く、夫の舌先を捕まえる。それがために、かなり強く唇を吸われている。なのに隼人はそれにはついに『うっとり』恍惚となり始め、妻に任せてしまっていた。

「……ど、どうした?」
「疲れているの。ねえ、なにもかも忘れさせて――」

 『いいよ。俺もだ』――。
 そんなつもりはない夜だったはずなのに、妻の葉月の今の状態が良く分かる。夫の隼人もまさにそんな気分だ。だから、ほら。妻の誘いに、もうこんなに流され、彼女にさらわれていく。

 いつまでも繰り返される妻からの熱烈な口づけ。
 大胆に足を開いて隼人の膝の上に座り、抱きついて、その肌が既に火照っているのを隼人の手先は知る。その手で、妻の乳房を愛で、背中を抱きしめ、膝の上でもどかしそうに揺れる柔らかな尻をそっと握りしめ……。

「あ、ん……。チョコも駄目よ、アロマも駄目。もう、隼人さんだけよ」
「そんなに。それは大変だな」

 やがて、葉月の手で隼人はバスローブを乱され、素肌に探り当てられる。身体は火照っているのに、また指先はいつもどおりにひんやりしている妻。その手が隼人の肌の上を、物欲しそうに這っていく。
 そんな妻の欲求を受け止めてやろうと、隼人は目の前で揺れている葉月の乳房をやんわりと握りしめ、そっとその先を口に含んだ。

「んっ……。あっ」

 ――『でもまだ。もっと強く吸って』。
 隼人の頭を抱き寄せ、葉月がすこしの恥じらいか、小さな掠れる声で囁いていた。だから、その通りに隼人は少し強く吸って、いつもそうしているようにほんの少しの甘噛みをする。また切なそうに呻く葉月の顔は、ほんの少しだけ泣きそうな顔。隼人の身体ももうすっかりその気に火照り、燃え上がろうとしていた。
 自分の身体の上で、もうどうにでもなりたいとばかりに荒れ狂って夫を欲しがる妻を暫く見上げていたが、隼人もそのまま妻を抱えベッドに共に倒れた。
 直ぐに葉月の身体の上に覆い被さる。まだ身体にまとわりついてるバスローブを、隼人は取り払う。
 素肌と素肌の夫と妻が、オレンジの匂いがする空気の中、ベッドの上で重なろうとしていた。

 ほの明るい灯りの中、葉月の茶色の瞳はいつもどおりに、綺麗に隼人を見つめている。
 ずっと変わらない彼女の眼差しを見つけると、何年経っても隼人にとってはその瞬間が『激恋』と言っても良かった。そんな眼差しで、葉月の艶っぽい唇がそっと動く。

「……今夜は、誰の名前も言わないで」

 近頃、隼人の妙な趣向で夫妻の睦み合いに『基地の男の名』を挟んでしまうことがあった。隼人のちょっとした意地悪ではあったが、今夜はどうもそれはしない方がよい雰囲気。だから隼人も素直に『分かった』と、葉月の頬を撫でた。
 すると安心したのか、葉月がまた隼人の首に下から強く抱きついてくる。

「私のこと、『奥さん』って呼ばないで」
「わ、分かった」
「私のこと、『ママ』とか『お嬢さん』とか……。『ミセス准将』とか呼ばないで……」

 それにも隼人は頷いた。
 いつになく隼人に自分から熱く抱きついてくる葉月を見て、隼人も悟った。彼女は今、本当に疲れているんだと。

「お願い。葉月って呼んで」
「葉月――」

 そのままシーツの上で哀願するような葉月を、隼人も強く抱きしめる。

「お願い。なにもかも忘れさせて、朝まで――」

 そして葉月は隼人の耳元で泣くように囁く。
 ――『今夜は、ただの女にして』と。
 隼人もこっくりと頷き、そっと彼女の唇を吸った。

 

 

 

Update/2009.1.5
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