-- 蒼い月の秘密 --

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13.奥様的休日

 

 側近の声は冷ややかだった。以上に容赦なく。

『本日は、丸一日お休みください。出勤して頂かなくとも結構です』

 もう制服に着替えて、苦手なネクタイも締め終わったというのに。
 主席側近ラングラー中佐に連絡をすると、彼のそんな言葉。

「こんなことになったのは謝るわ。そんなに怒らないでよ……」
『呆れてはいますが、怒ってなどいませんよ』

 仕事中のテッドはいつだって抑揚のないしゃべり方。それは昔から変わらないもので、そんな見込みある後輩だったから葉月も彼を側に置いた。そして元側近だった夫の隼人も、テッドならばと彼に妻を任せて側近職を辞め、外の部署に出て行った。
 仕事中のこのしゃべり方をされると、葉月でも時々、テッドの本意が分からなくなる。
 今、隣にいれば――。彼の目や口元、仕草などで、それが本心なのか嘘なのか分かるのに。

「ええと。だから、訓練はもう今更、出場はできないけれど、午後の業務――」
『本日は准将が欠席されてもさしつかえないミーティングばかりです。その他業務の貴女の代行、穴埋めは手配済みです。ご安心を――』

 なかなか。やる――。
 すっかりやり手になった後輩部下に、葉月もぐうの音もでなくなる。

「つまり――。休むことで反省をしろと?」
『お疲れであったのは私も同様に感じていましたから。航行前にどこかで貴女を嘘八百ひっかけてでも休日を取らそうとは思っていましたよ。逆に貴女がそうしてくれねば、俺自身も休みなしですし――』
「そんなの、私だって考えていたわよーー。それでなくても貴方達新婚さんなんだから。せめて、貴方だけでもって――」
『その、貴方だけっていうのが困るんです。ご主人の今回の不意打ち、俺は賛成ですよ』

 なんなの。この男二人の息の合方! 葉月はおののいた。
 そして側近は言う。

『だから今日は休んでくれませんか?』
「今日は嫌! それでなくても甲板に穴を開けたことが一番痛いのに――」

 もう、情けなくて。
 手で顔を覆って項垂れ。なのに、携帯電話の向こうから、これまた冷めているテッドからの呆れたため息が聞こえてきた――。

『俺が一日休むようにして欲しいというのも、その訓練のためですよ』
「どういうこと?」

 やり手の側近が、時に葉月を守るためにこうして先手を打ったり、許可無き行動に出ることがある。今回もそんな感覚。

『鈴木の雷神入りの最終テスト。後三日で判断をすると言い出したのは貴女の方ですよ。澤村大佐の最後の仕上げを奪ってまでね――。そのやり取りを甲板の誰もが見ていたんですよ。そして見守っていたんです』

 だからなに。と、葉月はまだ首を傾げていたのだが。

『昨日の、あれだけの鈴木との激しいやり取り。貴女の情のない徹底的な鈴木への要求に追及に彼の未熟さに対する言及。昨日のあれは、どの隊員が見ても流石は氷の女だミセス准将だと思ったことでしょう。あれでいい。俺も、貴女の荒っぽさに時には戸惑うけれど、結果は満足でした。そして貴女をやはり尊敬しましたよ』

 ところがですよ?
 と、テッドが言葉を翻す。

『昨日の今日。貴女が訓練を欠場。その間に、澤村大佐と鈴木大尉の師弟コンビは鬼が居ぬまにここぞとばかりに、只今、甲板でテスト飛行の訓練中。俺もちらっと様子見に甲板に行ってみたのですが、あの鈴木――やはり勘がよいのでしょうかね。貴女にあれだけ瀬戸際に追いつめられたことも手伝ってか、昨日夕方の極秘訓練と本日の午前の訓練でだいぶ飛行が安定していましたよ』

 その報告に、葉月は驚いた。
 いや、予想はしていたのだ。そして鈴木青年を信じていた――。
 彼なら、気持ちさえひとつにまとまって落ち着きを取り戻せば、ほんの少しのことほんの少しの期間でものにしてくれるだろうと。
 きっと夫もそれを分かっていたのだろう。だから、自分がやってきたことを取り上げられたような気にさせられつつも、葉月が急にやり出したことを黙って見守って譲ってくれたのだと。

『甲板では、貴女と澤村大佐は夫妻でありながら対立を見せていた。それも誰もが見ていて、相変わらずだと思っている。でも、それでも貴女達は夜はひとつの家に戻り、互いに夫妻としてなんでも話し合える。一夜明けて、貴女は訓練を欠場。その間に澤村大佐が一日もうかったとばかりに、鈴木に基礎訓練させている。誰もが鈴木の飛行が安定してきたのを目にして思ったでしょうね――』

 そこまで側近に言われて、葉月はやっとハッとした。

「つまり。甲板では鈴木大尉を攻め抜く上官である妻で、夫はその大尉を最後まで責任を持って見守る教官として対立しても――」

 テッドが一日休めと言いだした真意を葉月も理解できた。

『そうですよ。甲板での対立は夫妻の息のあった芝居。夜に話し合って、鈴木の最終テスト期間を一日延ばすために、貴女はワザと休んだ。そして澤村大佐はその間に、こっそりと研修生を有利にするために訓練させている。さて、甲板の諸君は、訓練だけ欠場し午後はいつもどおりの業務を基地で励んでいるミセス准将を目にしたならばなんと思うことでしょうね』

 夫妻でワザと示し合わせて、ミセス准将は休んだ。
 元より三日の期間なんて口から出任せ。対立したとみせかけて、実際、夜の家庭ではしっかりと二人で話し合って期限を延ばしたんだと――。

 それに気が付いた葉月はさらにがっくりと肩を落とし、制服に着替えた格好のままリビングのソファーに座り込んだ。

「分かったわ。私が一日休むとなると、それ相応の理由があるからと皆が思ってくれて、なにも鈴木大尉のためにこっそりと休んだわけではないと――」
『そうです。ご主人の隼人さんは半日で良いと言ってくれたけれど、ご自分の鈴木の教官という立場から一日休ませたいとは言えなかったのでしょう。おそらく、俺がそこは察してくれると信じてくれていたのかと思って――』

 流石だわ。本当にテッド、流石よ。と、葉月は力が抜けてくる。

「休む理由は、もう、どこかに?」
『ええ。貴女が欠勤と知った各部署から問い合わせが続々と。鎌倉のご親戚の都合と言っておきました。御園の一族事情となれば、この基地の者は誰も口を挟まないし、挟みたくても下手につっこむと御園一族を不快にさせるかもしれないと、とりあえず遠巻きにみているでしょう』
「妥当ね。そうしておくわ。適当に理由を考えておくわね」
『そうしてください』

 なにもかもが完璧な側近にこれ以上なにも言う気もなく、逆らう気もなく……。自分自身に呆れるまま、葉月は電話を切った。
 そしてそのまま、力無く着たばかりの制服を脱ぎ始める。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今頃、基地ではランチタイムでカフェテリアが混み合っているところだろう。
 普段着に着替えた葉月は、洗い上がった洗濯物を入れた藤籠を抱え、リビングで時計を見上げた。

 こんなふうに、家にいることは滅多にない。
 十代の頃からパイロットというポジションを目指していた生活だったから、訓練でかなり身体は鍛えられている。そのせいか、案外丈夫で風邪をひくなど滅多にない。
 怪我をして動けない――。そうでもなければ、こんなふうに家にいることもない。そんな時は動けない状態だから、こうして家事をしていることもない。

 小笠原はもう夏だった。
 特にこの日は天気が良い。隼人と吟味して建てたこの家。リビング。そこの庭へ続く大窓を開けると、リビングに煌めく陽射しが降り注ぎ爽やかな潮風が舞い込んでくる。
 夏らしい薄手のワンピース。近頃気に入って休日に着ている、白黒花柄の――。それに淡いグリーンのエプロンをして、栗毛をシンプルなヘアゴムでひとつに束ね、葉月は洗濯籠を抱えている。
 まさしく、家にいて家を守っている主婦の姿だった。

「……笑う人がきっといるわね」

 リビングの姿見に映っている自分を見て、葉月は眉をひそめた。
 制服を脱いだら葉月だって間違いなく主婦のはずなのだ。夕食だって作るし、子供の面倒だって見るし、休日は夫と分担で掃除洗濯など家のことをする。
 でも――。基地に行けば誰もが『家事なんてするのか』と言う。ミラーにもそう言われ、どうしてそんなイメージなのかと彼だからこそ聞いてみると――。
 ――『先ずは君が昔からコックピットにいる女性という第一印象。次にお嬢様だという第二印象。極めつけが、旦那の方が家事が上手いというイメージ、いや、事実かね』だった。
 パイロットであるとか、お嬢様だ……は、十代の頃から言われ続けてきて慣れているから、もうなんと言われてもいい。一番ガツンと来たのは『夫の方が家事が上手い』ということだった。
 いえ、事実。そう事実だわと、葉月だって分かっている。出会った時から、この扱いにくい女が情緒不安定に一人暮らしをしていた中、彼のちょっとした生活面でのフォローがどれだけ助かっていたことやら。それに甘えてきたのも事実だし、生活だけでなく、彼の葉月の仕事に対するバックアップだって相当なもの。
 今回だってそう。仕事では対立しているとみせかけ、葉月にあれこれふっかけ、どんなに意地悪にされても最後は『ミセス准将にとって良い方向』に行くよう向かされている。こうして『休みたい』と言えば、葉月が『これだけで、よかったのに』と思っても『ここまでは大丈夫。お前がそれは無理と遠慮しても、俺がそうさせない』とばかりに、口で言うのではなくてあっと驚く行動で葉月を押し流してくれている。そうして結局、葉月は心身を休め、また外の向かい風の中へと自分から進んでいくことが出来る。
 全てはミセス准将の為。それが夫の生き甲斐。
 兼業主婦のほとんどが『外に出たらキャリアウーマン、家では立派な主婦』として立派な両立女性を目指していることだろう。なのに葉月の場合は、そんな夫がいるものだから『基地ではキャリアウーマン、家庭ではお嬢様で主婦じゃない』と見られてしまうのだ。

 庭に出て、目の前の海の光を見つめながら、夫の制服シャツと息子のティシャツを干す。
 潮騒に潮の匂い。基地からちょっと離れている新興住宅地であるここに越してきたが、とても気に入っていた。
 こうして昼間の煌めく海を眺めながら洗濯物を干すのは気分がよい。しかも平日。
 夫の白いシャツと息子の小さなティシャツが並んで、ぱたぱたと風にそよいでいるのを見上げる。空っぽになった藤の洗濯籠を抱え葉月は微笑んでいた。

 ブランチを取ったので、今からなにをしようかと考えながら、葉月は庭からリビングに上がった。
 ランドリーに空になった籠を持っていこうとしたら、リビングの入り口に、制服姿の隼人が立っていた。

「ただいま」

 葉月はとても驚き、暫くたたずんでしまう。

「貴方、どうしたの?」

 今日、寝坊の置き去りをされたことを先ず責めてやろうと思っていたのに、あんまりにも予想外のことをされるのでそんなことしか口から出てこなかった。
 だが、夫の隼人もとても眠たそうな顔。葉月の問いにも今すぐ答えたいけど、欠伸が先立つというようにそこに立ったまま。
 ひとしきり欠伸を出し切ってしまうと、やっと隼人が答えてくれる。

「いや、もう限界。眠りに来た」
「大丈夫なの? 貴方までそんなんで」
「ああ、大丈夫。そうだ、テッドから聞いた。本当に良く気がついてくれるなあ」

 彼も妻の側近に感心しきり。
 テッドが『隼人さんは口では言わないけれど、貴女を一日休ませたいと思っているはず』と察してくれたというのに、隼人は『いやー俺はそこまでは勧めてはいなかったのに』なんてとぼけた顔で言う。本当にそう思ってくれていたのかどうか分からなくなってしまう。

「まあ、俺の場合、一時帰宅な。仮眠を取ってまた夕方でかける」

 ネクタイを緩めながら、隼人はリビングに入り、ソファーにアタッシュケースを放った。

「また基地へ帰るってこと?」
「ああ」

 ネクタイをほどき終わり、夏制服のシャツボタンを隼人は開ける。そのまま気怠そうにソファーに座り込んだが、彼の顔が急に真剣味を帯びたのを葉月は見る。

「午前中、みっちりテスト飛行をさせた。夕方もまた空に出す」

 鈴木青年のことだと葉月は思った。

「彼、どう?」

 昨日の今日。あれだけ精神的にも立場的にも、権力地位のある女がとことん隅っこまで追いつめた青年。
 だが、隼人はふと頬を緩ませ微笑んでいた。

「お前の目に感服したほど」

 どこか勝ち誇った笑みをみせてくれる夫。

「なんとかなりそうなの」
「なりそうだなんてもんじゃないな。やっぱりあれは『天性』だ」

 ――『天性』。不確かなことなど滅多に口にしない夫が言い切り、自分がスカウトしてきた青年のこととはいえ、葉月は驚かされた。
 だが夫はとても満足そうに、そして心地よさそうに微笑んでいる。

「昨日の夕、今日の午前、そして今日の夕。これだけで、三日分の訓練時間はあるはずだ。見事な集中力。やっぱりあいつは上手くコントロールしてやれば、化けるな」
「本当にそう思っているの」
「あれ、お前が見つけてきたパイロットだろ」
「そうだけれど――」

 だが夫の顔は、『お前が見抜いた男』というよりかは、既に『俺のデキル教え子』に変化しているような気がした。
 それに。葉月も予想はしていたが、あの青年、あっち行きこっちへ行きと落ち着きはないが、一点に定まった時に発揮する力は想像以上に素晴らしいようだった。そう思うと自分も誇らしいのだが……。

「明日の甲板を楽しみにしていろ。お前が待っていたものがきっと見られるからな」

 自信そのもの。何事も確実でなければ前面に出さない夫が、こんなに確信を持って言う。
 葉月はどこか夫の指導力に期待をしていたものの、ここまで見事にやり遂げようとしている夫に、御園大佐に恐れを抱いた。

「いやあ、マジで眠い。シャワーで汗を流して一眠りする」

 また欠伸をかくと、隼人はソファーから立ち上がる。

「十五時に起こしてくれ。十六時から二時間、日没までもう一度飛ぶから」
「分かったわ」

 妻にそれだけ告げ、本当にもう今にも力尽きそうにぐったりとした背を見せ隼人は二階へ上がっていった。
 その背を葉月は申し訳ない気持ちで見送った。

 妻を休ませ、妻が見つけてきたチャンスをなんとか壊すまい駄目にすまいと心身を投げ出してくれているのは、間違いなく夫の方だった。

「ありがとう、貴方」

 もっと早く言えば良かったのに。
 そう呟いた時にはそこにいた夫は去っていて、葉月の耳に寝室のドアが閉まった音が返ってきただけだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 前日干しておいた衣類。入れ替わりで取り込んでおいたものを葉月はリビングでゆったりとたたみ始める。
 二階でシャワー室を使っている音、出てきた音、また入っていく音。寝室で夫がバスルームを行ったり来たりしている音が聞こえてきた。やがて静かになる。眠ったのだろう。
 葉月が寝坊したぐらいだ。同じように夜明けまで起きていた夫、さらにきちんと朝から仕事に訓練を終えてきた夫は、もっと疲れているに違いない。すぐに眠りに落ちることだろう。そんなことを思いながら、葉月はうららかな昼下がりの陽射しに包まれ、主婦の姿で洗濯物をたたんだ。

 静かな時間。こんなにゆったりとこの家の妻として主婦としていられる時間に、葉月は無心になる。
 そのうちに洗濯物がたたみ終わる。時計を見ても、朝食と昼食が一緒だったのでまだ早い時間。
 ここまでゆっくりさせてもらったら、葉月もだいぶ心がほぐれてきた気がする。
 もう……甲板に出たくなってきた。

 たたんだ洗濯物を各所に振り分け、しまう。
 キッチン、バスルーム、子供部屋、そして夫妻の寝室。
 寝室に入ると、ベッドには隼人が素肌で眠っている。そっと息を潜めて近づいたが、やはりすうすうとした寝息を立てている。妨げにならないよう、葉月は静かに気配を殺すよう、クローゼットを開け、それぞれの洗濯物をしまう。
 隼人が開けたのか。寝室の窓も開け放たれていた。私達の楽園と称している青い海が見えるこの部屋。彼がそうしたくてこの土地を選んだ。隼人こそが『ここがいい。丘のマンションと同様に海が見える』と気に入ってそれ以上の土地は全て却下されたほどだった。
 そこから青い潮風も入ってくる。そして葉月が着ているワンピースの裾を柔らかに揺らして通り過ぎていく。

「ここが一番ね」

 葉月は微笑み、夫が眠っている足下、ベッドに腰をかけ海を眺めた。
 静かな初夏の昼下がり。青い風――。安らかに眠っている白いシーツに包まれている夫、恋人だった人。
 懐かしい匂いが葉月を取り巻いた。初夏の、青い海、潮風、マルセイユ。

「うん……。葉月、いるのか」

 急に。寝返りを打った隼人の唸る声。葉月も振り返り、シーツをまきながら午後の陽射しを気怠そうに避けようとしている隼人を見た。

「起こしちゃった?」
「いや、なんとなく。目が覚めた」
「あんまり眠っていないわよ。貴方」
「そうなのか。でもすっごく眠ったような……」

 そう言って、隼人が素肌で起きあがる。
 彼の肌からさらりと白いアップシーツが落ちていく。男らしい肌を見て、葉月はほんの少し頬が熱くなる思い。……見慣れているはずなのに。ゆうべ、あんなになったから。

「さて。私は買い物に行ってこようかな」

 まだ眠そうだから。もう一度寝るだろう夫をそっとしておくために、葉月は立ち上がった。

「うーん、頭が痛いなあ」

 急に。まだ眠たくて気怠そうにしていたのかと思ったのに、隼人が額を抱え、項垂れてしまったのだ。
 やはり無理をさせているに違いない。そう思って葉月は足下から隼人の隣へと急いだ。

「隼人さん。やっぱり無理させてしまったのだわ。駄目よ、私の我が儘ばかり聞いていたらきりがないわよ。そうでしょう。そんなに頑張って貴方が疲れ切ってしまったら、私が……」

 額に手を当て俯いている夫の顔を覗き込んだ。
 彼の黒い目がちらりと手のひらの隙間から見える。その目が葉月をじっと見ている。――と、その黒い目に囚われていた時だった。「んな、わけないだろ。ひっかかった!」――と、隼人に飛びつかれ、葉月はそのままベッドに押し倒されていた。
 驚きのまま、身体の上に乗っているほとんど裸の夫を見た。だが彼はいつも仕事でも見せているような『意地悪笑み』を見せ、葉月の目など見ていない。彼が見ているのは、押し倒した妻が着ているワンピースの裾。そこをすかさずたくし上げるのを喜んでいる顔だった。

「な、なにしているのよ」
「目覚め前の運動を」

 と楽しそうに笑って、その手が葉月の素足を上へと這ってきた。
 思わず、隼人の手首を葉月は握りしめ阻止した。昨夜とは違う阻止。今度こそ、阻止。

「また俺のやろうとしていることを阻止するんだな。それとも? また昨夜のように、その口で俺を満足させてくれるのか」

 なにを根拠にしてそんな勝ち誇った顔をしているのか。
 隼人はにやりと笑いながら、もう片方の手で葉月の唇に触れると、その柔らかさを確かめて直ぐについと指先を口の中に含ませてきた。それは昨夜、葉月から求め、葉月から愛したことを再現させるかのように――。
 葉月の頬が熱くなる。恥じらいだけじゃない。この真っ白な昼下がりの光の中、昨夜の有様を露わにされているような感触だった。

「い、意地悪」

 そういって顔を背けながらも、葉月は軽く隼人の指先を噛んだ。
 またどうやって葉月をからかって、楽しもうと考えているのか。まったくこの旦那さんは、時々変に意地悪なんだから――と、諦めた。なのに。彼の笑い声はもう聞こえなかった。ふと視線を見下ろしている隼人へを戻すと、殊の外真剣な顔で葉月を見ている。

「……葉月」

 途端に覆い被さってきて、隼人の唇が耳に触れた。
 その息がもう熱くなっていて、葉月はそっと目を閉じる。
 すっかりその気になってしまっているのだなと、葉月も簡単に彼を許してしまう。自分の身体の上に乗ってきた男の身体、その背を葉月も両手で強く抱きしめた。

「もう眠れなくなっても知らない。そんなに頑張れるの? 夕方の訓練がきつくなるんだから」
「お前が、そんな『奥さん』の格好で家にいるからいけないんだ」

 いつもと違って、髪を束ねて。
 休日のワンピースを着て。奥様らしいエプロンをして。
 静かな平日の我が家に帰ってきたら、光が降り注ぐリビングに、空っぽになった洗濯籠を持った奥さんが立っていて……。俺を見ていた――。

 隼人がそんなことを葉月の耳元で囁きながら、するりとショーツを脱がしてしまった。
 直ぐに重なり合った唇を、今が昼なのか夜なのか忘れて二人は貪る。まるで昨夜と夜明けの続きのようだった。
 濡れた息がふたりの口元で熱く混じり合った。

 

 

 

Update/2009.1.22
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