-- 蒼い月の秘密 --

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14.憧れ初め

 

 乱れてしまった栗毛をかき上げて、葉月は夫を見送る。

「いってらっしゃい」
「うん。帰りは八時頃になると思う」

 あっという間の夫妻の睦み合い。
 真っ白な光の中、着ているものもそのままに、隼人と愛し合った。
 一瞬の睦み合いでも、昨夜よりも強く夫は葉月の体の中を駆け抜けていった。短い分、彼は一点に全てをぶつけるかのように、夢中になって。眉間にしわを寄せて、そんな苦しそうな、でも切なそうな顔でどうして私を愛すの。そう聞きたくなるほどに怖い顔で必死に愛してくれて。

 あっという間だったから、隼人は力尽きると直ぐにまた眠ってしまった。
 ほんの少しの残り時間。泥のようにぐっすりと眠っていて、もう葉月が用事で傍を行ったり来たりしても決して起きなかった。

「夕飯は海人と先に食べていて良いから。俺のは残しておいてくれ」
「はい、貴方」

 一時、見繕いをした妻の顔をひと眺めし、隼人が背を向け歩き出す。
 白い夏シャツ姿。大佐の星がついた黒い肩章。きっちり締めた黒いネクタイを翻し、アタッシュケース片手に、凛々しく夫が出かけていく。

「いってらっしゃい」

 もう一度声をかけると、玄関を出ようとしていた隼人が振り返った。
 その顔がまた、どうしてか真顔で葉月をじいっと見ている。そんな目で見つめられたら、葉月だって胸が狂おしくなる。
 葉月の顔も、これまた隼人を捕らえてしまったようだった。彼がまた出て行こうとした玄関を、葉月の目の前へと戻ってきた。
 そして真っ正面からそのまま強く抱きしめられた。

 もう、今日はおかしくなりそうだった。こんなに、女でいられる自分として愛して愛されて日が暮れて。もう今日は胸がいっぱいだった。

「隼人さん……」

 葉月も隼人を両手いっぱいに抱き返す。
 抱きしめる力を緩めた隼人の顔が、すぐ目の前で葉月を見つめていた。葉月もそのまま見つめかえす。隼人の瞳が揺らいでいるのを見た。
 彼の手がそっと葉月の頬に触れ、癖がついて乱れてしまった栗毛を指にすいた。

「だいぶ表情が柔らかくなっている」
「……お陰様で。貴方のとんでもない気遣い、嬉しかったわ」
「俺も。……時々、お前は『ミセス准将』だけで生きていけるのかもしれないと思ってしまう時がある。それだけでは生きていけない、お前もここに帰ってきたいんだと分かって……分かっているんだけれど、それが間違いないと分かって、お前がここに帰ってきてくれて俺も嬉しい」

 どちらともなくまた互いを引き寄せるようにして抱き合った。

「航行に出かけるまで、なるべく一緒に眠ろう」
「うん……そうね」
「帰ってきたら、本島に出向いて二人きりで食事をしような。そして海人と杏奈と一緒にどこか近場で良いから一緒に出かけよう」
「うん、いいわね……それを楽しみにして……」

 耳元で大きな手が栗毛をゆっくりとかき混ぜ、その耳に隼人が柔らかく囁き続ける。葉月はそれを目を閉じてうっとりと聞いていた。

「もう行って。鈴木君が待っているわ」
「ああ、そうだった」
「あの子を、よろしくね――」

 穏やかな笑顔で、隼人が『うん』と頷く。
 そしてもう一度、二人は口づけ合った。またこれが少し長く……。唇が離れても、惜しむようにまた塞ぎ合い、やっと離れる。

「行ってきます」
「気をつけて」

 今度は振り返らずに、隼人は颯爽と基地と同じ大佐の背を見せ玄関を出て行った。
 葉月は暫くそこにいた。隼人が車で出ていった音――。

 さて今度はお夕飯の支度でも始めようかと思った時だった。玄関が勢いよく開いて、大人が残したしっとりしていた空気を一掃するように、元気な男の子が二人飛び込んできた。

「ただいま、母さん!」
「ただいま、准将!」

 息子の海人と、お隣の海野家長男の晃だった。
 葉月は思わず、どっきりとしてしまう。夫と熱く触れあっていた見送り際をまさか? 見られていなかったわよね??と。玄関も閉まっていたし、大丈夫のはず。
 なのに――

「今、父さんが出かけていったね。父さんも一時帰宅だったんだってね」

 父親が制服姿で出かけるところに出くわしたようだった。

「え、ええ。そうなのよ。今、お父さんも……その、横須賀から来た新しい雷神のパイロットの最終研修で詰め込んでいてーー」

 何故かしどろもどろ。
 自分とそっくりの目をしている栗毛の息子と、若き日の達也とそっくりなきりりとした侮れない鋭い目をしている晃。そんな二人の視線が同時に葉月に向かっていた。
 そして男の子二人が顔を見合わせ、ちょっと呆れたため息もお揃いで。

「准将ママって分かりやすいよなー」

 と、達也とそっくり晃君。

「どうせまた父さんと出かける前の『ちゅーちゅー人間』をしていたんだろ」

 なんて、臆することなく突きつけてくる海人君!
 そして極めつけの一言。兄弟の如く、口を揃え言ってくれた。

「准将ママ、顔赤い」
「母さん、ほっぺた赤い」

 ただそれだけで、葉月はかあっとそれ以上に頬を赤くしてしまったようだ。
 どうして? 甲板で氷のミセス准将と言われているのに。家では、子供達の前では特に、葉月は敵わない素に戻されてしまう!

「ほーんと。昔からだよな」
「見慣れたし」

 そして葉月も『すみません、いつもいつもで』と呟いて、あとは言い返すことも出来ず言いなりだった。
 二人の男の子はこれまた息があった靴の脱ぎ方をして家に上がる。

「腹減ったよ。准将ママ、なにかある?」
「今日は暑かったから、ホットケーキはやだな」
「アイスクリームがあるわよ」

 元気にキッチンへ駆け込んでいった賑やかな男の子達を見て、葉月はそっと微笑む。
 早速、争うように二人で冷蔵庫を開けている賑やかな音が聞こえてきた。

 晃と海人は兄弟の如く育った。
 そして二人はいつも一緒で、二人のその日の気分で帰ってくる家が違う。
 だから、晃がこっちに来ようが、海人があっちにお邪魔しようが、両家の両親は当たり前のように迎え入れる。それはもうずっと前から自然になっていること。そんな今日のボーイズは御園家に帰宅する気分だったようだ。

 キッチンをのぞくと、手際よい分担作業であっという間に二人はガラスの器にアイスを盛りつけスプーンを手にして食べようとしているところ。しかも海人のセンスで、ナッツにベリーソースまでかけて美味しそうに盛りつけている。
 『ちゃんと手を洗ってからにしなさーい』と叫んでも、この息子達に『家庭では一番手がかかるお嬢ママ』の位置づけにされてしまっている葉月の声など威厳のかけらもないようで、返事をしてくれなかった。

「もう、しようがないわね」

 でも実は、ここでそうして『ダメママ』にして変に持ち上げない子供達に癒されているのを、そして自分も素直になっているのを葉月は知っていた。

 ここは私達の楽園。
 海の側にある、蒼い色の。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 紺色のフライトキャップに、紺色の指揮官服。
 そしてサングラスに赤い口紅。
 肩下の栗毛が甲板を滑る潮風になびき、黒いグラスの影に潜む眼差しはただ空へ――。

「昨日はいったいなんだったのかね」
「ですから。実家でいろいろありましてね」

 ぶすっと不機嫌そうな銀髪の男ミラー大佐を、いつもの澄まし顔で受け流す。
 いつも甲板にいること、空に接することを生き甲斐にしている『女』が突然に欠場するだなんて『信じられない』という顔だと、葉月もわかっていて目を合わせない。
 昨日は彼に突然に前触れもなく、指揮を委ね任せ押しつけた――ことになる。だから『俺には納得できる本当の理由を教えてくれ』という責めなのだろう。
 でも葉月は絶対に絶対に、口が裂けても『夫に愛されすぎる一日を過ごしました』なんて言うつもりはない。

「そんなに『当家の事情』をお知りになりたいと?」
「……君さえよければ、だよ。勿論」

 御園家の『当家の事情』程、時には誰とて耳にしても困ることがどれだけあることか。
 そう言われると、テッドが予想したとおり、このミラー大佐ですら怯むのだ。

「教えて差し上げても構いませんわよ。ご覚悟があるなら。当家の、そうね、私がまだ十代の――」
「わ、わかった。ストップ。もういい。君がそれを持ち出すなら、それが嘘でも本当でもそれほどのことだとわかったから」

 葉月の十代がどれだけ重いか。
 葉月が死にかけたこと、さらには『二度と空を飛べなくなったこと』を知っている男達は、なおさらに避ける。その向こうに、一族を苦しめ、葉月の心を縛り付けてきた黒い男の影が見え隠れするからだ。その話は既に『タブー』。たとえ、あの黒い男が死んでしまった今となってもだ……。
 一瞬、『幽霊』と呼ばれ続けてきた男の顔を思い浮かべてしまった葉月は、キャップのつばをつまんで顔を隠してしまう。その仕草をミラーは見逃していなかった。『そうか。君を殺そうとした男を、二度も殺そうとした男を、君から操縦桿とコックピットを奪った男のことを思い出しているんだな』。ミラーがそんなふうに思って、葉月から少し身を離したのがわかった。本当ははったりだったのに、それを自分で建前にしておきながらも、やはり今でも敏感にならざる得なかった。
 でも葉月は心の中で、潔く退いてくれたミラーに手を合わせて詫びていた。しかし葉月にとっても、昨日は不可抗力だったとはいえ、自分にとって大事な一日だったとも思っているのだ。

 それが証拠に――。

「鈴木、慌てるな。勝つなんて考えるな。まずは6号機に追いつけ。甲板まで飛んでこい!」

 フレディと鈴木の一騎打ち。演習中。
 葉月とミラーがいる隣の指揮通信機には、インカムヘッドホンをキャップの上からつけている御園工学大佐の姿。
 葉月もミラーと共に、訓練中だったことを思い出し、レーダーと通信システムに視線を戻す。

「まだまだフレディの一人勝ちだな」

 ミラー大佐の溜め息。
 レーダーには、もうすぐ目の前に空母を射程距離に入れた6号機フレディの点が、もう肉眼で確認が出来る上空まで来ている。片や、その後を少し遅れてこちらに向かってくる点は鈴木大尉。残念ながら、追いつける距離でもなく、このままではフレディの完全勝利。そして既に二機の見守り役の為だけに背後を飛行しているだけの雷神1号機の平井キャプテンの赤い点が最後尾に。
 平井も葉月が訓練再出場したこの日、『昨日の鈴木のテスト飛行訓練を見ていた限り、もう俺のサポートも要らないと思う。フレディと一対一で大丈夫だろう』という判断をしていた。ベテランの彼から見ても、それだけのステップアップをしているということ。だが葉月は『まだこの目で見ないと私自身も判断が出来ないから、せめて今日一日だけ、引き続きのサポートをお願いします』と頭を下げた。
 長年の同僚でもある為、そして平井自身も葉月と『賭け』をしているため、そこは葉月に従い、今日もただ新人の為に静かに背後を飛行してくれている。

「6号機、空母ロックオン」

 ミラーの声に葉月は上空を見上げる。
 フレディの6号機が悠々と上空を過ぎっていくところだった。

「本日、これで三回目。まだやるのか」
「勿論ですよ」
「時間の無駄だな。一つ目の約束である『三日でホワイトを乗りこなす』。これはもうほぼクリアだろう――」

 その通りに、少し遅れて6号機を追いかけていた鈴木7号機が空母艦の目の前にやっと姿を現した。
 そして葉月とミラーはふと、揃って隣で研修生鈴木大尉の指揮に専念している御園大佐を見る。彼は満足そうな笑みを浮かべ、空に現れた教え子の真っ白い機体を見上げている。

「いいぞ、鈴木。よくやった。これならもうじき、お前の感覚のままで演習に参加できる。あと少しの我慢だ」

 空母上空を、真っ白い機体がとても落ち着いた様子で、優雅な姿で飛び去っていく。
 それは一人勝ちの勝利で通り過ぎていったフレディの悠々たる飛行となんら変わらない、むしろ雄大な海と空を美しく彩る白い光のように飛んでいた。
 葉月はそんなホワイトの美しい姿を見て、惚れ惚れとした。

「そうね。操縦はクリアね。まだ彼の力をそのまま発揮するにはあと少し」
「そうだな。だから、今日と明日でフレディに勝ち、ミセス准将を再びコックピットに戻して一緒に空を飛ぶだなんて賭けは、まだまだ無理。元より君の勝ちというわけだ。まあ、そんなこと、わかっていたけどな」

 それにもミラーは呆れた口調で、僅かに葉月を責めている眼差しも見せてくれた。
 でも、葉月はふと微笑む。

「負ける賭けはしないわよ」
「だろうね。ああ、そうだね。俺がハラハラしても、君もサワムラもぴったりと息が合っていて、きっちりと舵取りをしていらっしゃる」

 なんとまあ、不機嫌な大空パートナーであることか。今度は葉月が溜め息をついてしまった。

「別に示し合わせたわけでもなく――」
 言い訳、いや正当な言い分を口にしてみるのだが
「わかっている、わかっている! それが君たち『御園夫妻』だとね」

 もうどう言っても、自分の入る隙などどこにもない。ミラーのついに諦めた顔。そして彼は再び、隣の指揮台にいる隼人を静かに見た。

「しかし。あの暴れん坊を上手く手なずけたな。流石、サワムラだ」

 ミラーの感心顔が隼人に向けられている。
 葉月も同感なので静かに頷く。やはり隼人だと葉月も思っているところ。

「これから雷神に来たら俺と君であいつの手綱を持たなくてはならないだろうが、それにしても雷神に来るまでに馴らしてくれたサワムラの手綱の握り方は流石だったな」
「そうですね。私ではとても。あの反発は私では駄目だったでしょうね」

 するとミラーが何を言っているんだと、これまた葉月を呆れた顔で見た。

「君もワザとだろ。反抗するならとことん自分に向くよう反抗させて、あの暴れ馬の尖った矛先を受け止める役をかってでる。そして、サワムラに帰るよう預ける――。御園夫妻の、息のあった采配に俺もコリンズ大佐も振り回されているかと思いつつも、やっぱり感心しているんだ。なのに、君と来たら――いつも『私は知りません。なにもしていません』と、しらっとした顔をするんだな。相変わらず、嫌味な女だ!」

 『嫌味な女』と突きつけられ、流石に葉月も『なんですって』としかめ面にはなったが、すぐに彼がいつも嫌がっている『澄ました顔』に戻して見せた。

「なんだか自然とそうなっていたんですよ。考えすぎだわ。ミラー大佐」

 実際に隼人と詳しい作戦など語り合っていない。
 今回だって本当にそうなっていたのだ。
 だが、葉月と隼人の『エースに育てる』という決意が最後には上手くひとつにまとまっているだけなのだ。

 たぶん、人々はそんな夫妻のことを『それが御園夫妻』と見てくれているのだろう。
 夫が敵対してきたり、上手くフォローしてくれたり。見ているとなにがなんだかわからない夫妻の駆け引きに、最後は誰も口出しをしなくなる。そう今回のように――。

 そして今回の夫妻の目的を達成した葉月は、『夫妻の采配』に納得してくれた様子のミラーに言ってみる。

「訓練が終わったら、鈴木大尉に准将室にくるように伝えてください」

 それが何を意味するか。ミラーはまた葉月が言いだしたことに面食らった顔をしていたが、すぐに納得の落ち着きを見せてくれた。

「わかりました、准将。私も異存はありませんよ」
「ほっとしました。ミラー大佐の同意がなくては、私も不安ですし」
「嘘を言うな、嘘を。俺なんかいなくても、君は……」

 最後は結局は最愛の、そして最大に信頼を置いている『夫』、そして『工学大佐』を頼っているのだというミラーの少し寂しそうな横顔。そんな彼の横顔に、今度の葉月は真顔でしっかりと告げた。

「貴方がシアトルに帰らないよう、私が引き留めた日を忘れないでくださいね」

 一緒に小笠原で。
 遠い日の空母艦での二人の結託の時。

「空を飛ぶ男達を守るのは、工学大佐ではありません。私とミラー大佐です」

 その葉月の顔に、ミラーの表情が引き締まる。

「勿論ですよ。ミセス准将。私とて、貴女なしの甲板などもう生き甲斐ではない」

 そこまで言い切ってくれた銀髪大佐の凛々しくも頼もしい顔に、葉月はつい嬉しくなり頬をほころばせそうになったが。そこはミセス准将、若い頃より『無感情令嬢』と呼ばれてきた如く、意地っ張りにも表情は変えなかった。

「あとの訓練をお任せしてもよろしいですか。航行前の手続きがあれこれあって准将室にもいなくてはいけないので」
「お任せ下さい。元より准将はお一人でなんでもやりすぎだからね。俺に任せてくれて嬉しいよ」

 そこは本当に嬉しそうにミラーが笑ってくれた。
 葉月はテッドを伴い、訓練途中ではあるが甲板を後にする。

 去り際に、まだ鈴木大尉のホワイトを見守っている隼人に声をかけた。

「澤村大佐。ミラー大佐にも伝えましたが、大尉に訓練後、准将室に来るようにしましたから」

 それを聞いた隼人も、妻が早々に下した判断に少し驚いた顔。でも直ぐに笑顔になった。

「有り難うございます、准将。鈴木も喜ぶことでしょう」
「彼自身が実力で引き寄せた真っ当な結果です。そう貴方からも労ってくださいね」
「わかりました。彼にとっても良い経験だったようですから、身に染みていることでしょう。きっとこれからの彼の糧になりますよ」

 隼人の喜びの顔は、紛れもなく心底から来ているものだと知り、葉月は少しだけ驚いている。
 やはり教え子を旅立たせる『教官としての喜び』。夫はそれをやり甲斐として生きているのだと、改めて知った気分にさせられた。

 葉月は思う。夫の背中がどこか、自分をここまでにしてくれたシアトルの恩師と似てきた気がすると。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 訓練が終わるなり、御園大佐に『身なりをきちんと整えて、准将室に行くように』と言われた。
 英太は甲板からあがり、直ぐにシャワーを浴び、久しぶりに訓練着から白い夏シャツの制服を着込んだ。
 ――『お前。なんでも適当すぎるから、准将室に行く前に工学科科長室に来いよ』なんて御園大佐に言われた。
 その通りにして、ロッカーで身なりを整えて科長室に行くと『なんでそんなに制服がしわだらけなんだ』とか『髪、ちゃんと乾かしていない!』、『肩章、痛んでいるじゃないか。定期的に買い換えて、ほころびのないように!』――めちゃくちゃな駄目だしをされた。
 ――『ちょっと、吉田。手伝ってくれ!』
 妙に懸命になっている様子に、英太は『准将室に行くだけで何故?』と思ったのに、お腹が膨らんできた吉田女史がドライヤーを持ってきて髪を乾かしてくれたり、シャツにアイロンをかけてくれたり、さらには大佐の部下が新しいシャツ用の肩章を買ってきてくれたり。なんだかすんごいぴっしりと身なりを整えられた。
 そしてきちんとした自分が写る鏡を見て、英太は『わはは。俺じゃないみたいだ。変な奴だ』と自分で自分を指さして笑ったら、『今までのお前が、変な奴だ!』と御園大佐に頭を軽く叩かれ、窘められた。

 そして吉田女史も笑顔で教えてくれる。『きちんとした男は、いい男なのよ』と。
 そうかな。関係ないと思うけどなーなんて、彼女にはいつもの気兼ねない口をきいたら、大佐席にいる御園大佐に再び睨まれた。
 とにかくそれで准将室に行ってこいと、工学科科長室から送り出された。

「なんなんだよー、まったく。また説教でもされるのかよ」

 高官棟三階にある御園准将室を目指しながら、英太は歩く廊下で溜め息をこぼしていた。

「……まあ、俺。今まであれこれやったもんな」

 そろそろ。あの澄まし顔のお姉さんから、びしっと説教されるかもと覚悟していた。
 なにせ。あろうことか英太はあのミセス准将を、この大きな手で掴み上げてしまったのだから。本来なら最低でも謹慎処分。御園大佐のあの言葉は間違いないと思う。その他諸々の、我が所行を思うと、どんなに喧嘩腰で向かってきた『いけすかない女』とはいえ、准将たる上官からなにかしらの叱責があっても当然のところかと、英太も反省をしているのだ。

 高官棟の一階は静かだった。
 中庭では紫陽花が揺れている。そして真っ赤な百日紅が愛らしく咲いていた。そして上空は小笠原の真っ青な空――。
 そこだけまるで基地とは別世界のような穏やかで美しい楽園のように英太には見えた。
 どうしてかそんな眩さから目を背け、英太はエレベーターに乗った。

 三階に辿り着くと、転属第一日目に足を運んだ『空部隊大本部』がすぐそこにあった。急にざわめきが英太の耳に飛び込んでくる。
 小笠原の空部隊を統括している大部隊。流石のざわめき。そして、隣にはミラー大佐が管理している『空部隊システム管理室』。
 そしていよいよ。その隣にある『御園准将室』に辿り着いた。何故か……そこだけとても静まりかえっている。同じフロアの、向こうの廊下、空部隊本部はあんなに人が出入りしてざわざわとしているのに。この重厚なドアの前だけ、誰も寄せ付けないかのようにシンとしていた。

 英太がこの准将室に来るのは初めてだった。
 流石に、英太も背筋が伸び、緊張させられた。
 咳払いひとつ。ネクタイの結び目をもう一度真っ直ぐになっているか確かめ、前髪もかき上げ整える気持ち。ついに英太はそのドアをノックした。

 『はい』とドアを開けたのは、ラングラー中佐だった。
 目が合うと、いつも硬い表情をして常にミセスの側を離れない中佐が『ご苦労』と言った。その様もまさに淡々としており、なおかつ、准将室の主席側近である彼の常なる警戒心と緊張感をみなぎらせている威厳をつきつけられ、英太は益々背筋を伸ばした。

「准将。鈴木大尉が参りましたよ」
「そう。入れてあげて」

 ドアの向こうから、あの声が聞こえてきた。
 甲板とはまた違う。しなやかでしっとりとした女性の声。
 彼女がもう紺色の指揮官訓練服を脱いで、本当の『ミセス』としてそこにいるのだと英太は感じた。

「失礼いたします!」

 どこでもしてきた上官への礼儀、敬礼をしてから英太は准将室に入った。

 ――風が、英太を包み込んだ。

「待っていたわよ」

 その柔らかい声と共に、すうっとした『香り』を英太は嗅ぎ取った。

 その部屋は光に溢れていた。
 広く綺麗に整えられた上官がいる為の上級な事務室――ということもあるだろうが、それだけではなかった。
 開け放たれたドアから、爽やかに風が入り込み、そして滑走路、その上の小笠原の青空、向こうには海。それだけじゃない、陽射しに溢れていた。
 そしてそんな南国の色彩に包まれた部屋の壁際、大きな木造の机に、その人はいた。

「あら。いつもと雰囲気が違うわね。もしかして大佐に、綺麗に直されたの?」

 そこの席から薫る風。
 甲板とは違う微笑みを見せる『ミセス准将』がいた。
 彼女が英太を見て、いつになく目元を緩めていた。そう、暫く見ることがなかったあの階段で会った『葉月さん』がそこにいた。
 でも英太は言葉が出なくなり、そこに立ちつくしていた。
 だって。この眩い部屋のそこにいるだけの人から、すごくいい匂いが漂ってくるからだ。
 しんなりとしている栗毛の毛先がそよ風によそぐたび、その風に彼女の白いシャツの襟とネクタイが揺らされるたびに。そして彼女がそっと席から立ち上がっただけで――。その匂いがした。
 あの日。横須賀で彼女と会った時も匂いがしたが、それがここには溢れていた。

 すごく美人というわけではないけれど、見目はいつも麗しく感じさせる人。
 華子のような、艶やかさや華やかさもない、以上に愛らしさもない『年上の女性』。
 むしろ、冷たい顔ばかりで、普段はそんなことも感じさせないのに。

 やっぱりこの人、綺麗だな。

 ふとそう思ったことを、英太はすぐに自覚することが出来なかった。

「テッド。持ってきてあげて」

 そんな英太の停止状態などお構いなく。ミセス准将はすぐに呼びつけた用件に移ろうとしている。ラングラー中佐もテキパキと彼女の指示に従い動き始める。
 英太もやっと正気に戻り、厳かな気持ちで准将席の前へと、おずおずと歩み寄った。そこへいくと、彼女の目の前に行くと、その匂いが濃厚になる……。
 これだけの身なりに整えられた訳がわかったような気がする。こんな眩い部屋に訪れるには、やはりこれだけ自分の気持ちを整えるが如く身だしなみを整えるべきだったのだと。
 だが、それは英太の勝手な感覚だったようだ。御園大佐と吉田女史が懸命に英太を整えてくれた訳を、英太はこのあと直ぐに知ることに。

「准将、こちらです」
「ありがとう、テッド」

 常に丁寧な仕草で准将の身の回りを動いていたラングラー中佐が用意したのは、黒い漆の大きなトレイ。それを彼女の前に置いた。
 そして英太はそれを目にして、驚きのあまりに硬直し、さらには葉月の顔を何かを求めるように見てしまった。
 でも彼女はただ英太を讃えるように微笑んでいる――。

「ホワイトスーツよ。貴方がこれから着て、空を飛ぶ飛行服よ」

 漆塗りの黒い大きなトレイには、綺麗にたたまれている真っ白な飛行服と紺色のキャップ。袖に縫いつけられた『ホワイトサンダー』のワッペンが見えるように袖を上にしてあった。
 雷神のパイロットだけが着ることが出来る飛行服――。
 それが今、英太の目の前に差し出されていた。

 

 

 

 

Update/2009.2.4
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