-- 蒼い月の秘密 --

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23.ハウンド・ファイ

 

 空に真っ白な飛行機が二機、並んで飛び立っていった。
 それを見届け、葉月はほっと一息つく。

「とうとう、送り出したわね」

 コックピットを写し出すカメラ画像を眺めていると、満足げな笑みを浮かべた奈々美が傍に来ていた。
 葉月が椅子に座ると、隣の、空へと旅立っていった青年が座り続けていた椅子に奈々美も座った。

「私が、二日の予想。葉月さん、貴女は三日の予想だったわね」
「そう。二人とも『ハズレ』ってわけね」

 夫のせいだと、葉月は少しばかりふてくされた。
 奈々美とあらゆる予想を張り巡らせてきた。今回のテストをどのようにコントロールしていくか。機体の性質から、パイロットの状態、彼らの性格。そしてその摩擦で起こりうるあらゆることを想定し『私達が思い描く結果』に如何に近づけ、引き出していくべきか。
 その中で、専ら二人が話し合ったのは『二人のテストパイロットの使い方』だった。その中でも、奈々美と二人でまるで賭け事でもするかのように言い合ったのが、『鈴木英太がどこまで我慢できるか』だった。奈々美は『スピード馬鹿で、余程にストレートな青年のようなので、二日』、葉月は『いえ、隼人さんが出かける前に説教をしたらしいから、それを気にして今までよりは少しは我慢できる。一日足して、三日』だった。
 葉月の予想は少しだけ当たっていた。英太は三日目に『交替したい』と一度だけぶつかってきた。彼にとってあそこがまず最初に来た限界だったのだろう。だけれど、非常に苦痛な様子で、でも退いてくれた。それを見て、実際、葉月も奈々美も『あれは驚いた』と後に話したほどだった。
 今までの彼なら、あそこで葉月と喧嘩していそうなものを……。きっと、夫の隼人が出かける前に『少しばかり脅かしておいた』と教えてくれた『釘刺し』が余程効いてるのだと思った。

「五日間ね。よく我慢してくれたわね。予定がずれてしまったけど、まあいいでしょう」

 と、奈々美。そう言っているが、声は笑っている。
 彼女にとっては願ってもいない『好条件』が揃ったのだ。
 追いつめられたパイロットが、どのように危機を脱するか。その時こそ、その機体の本質が問われる。つまりホワイトの能力が最大に活躍する。その時の数値と動きを待っているのだ。

「優等生と問題児の演習。楽しみよ、葉月さん。貴女の采配を目の前でこうして見ていると、ワクワクして堪らないわ」

 本当に奈々美は興奮し始めていた。

 如何に、その状況に持っていくか。その上での『芝居』に葉月は労力を使う。
 そして今からも。もう一芝居打って、彼らを『奈々美が望む状況』にもっていかねばならない。
 若い彼らはまだ、葉月の意図には気が付くことがないだろう。そんな彼らだから、『悪者』になってでも、葉月は引っ張って行かねばならない。
 彼らに『悪魔』だ『魔女』だ、『冷酷女』と言われても……。恨まれても。

 こんな時、葉月の心には鬼の目をしていた『父親のような人だった』ある人が思い浮かぶ。
 ジャックナイフといわれた昔のパイロットは、甲板で指揮するその目も『ジャックナイフ』だったと葉月は思い出す。

『そうか。また日本を一周する旅にでるのだな。気を付けて行ってこいよ。また、開発機の話を聞かせておくれ』
『はい、おじ様。いえ……細川中将』

 航行前に子供達と挨拶に出向いた。
 すっかり気の良いお爺さまになっていたが、自分が去った小笠原空部隊のことはいつも気にしている。
 息子が連隊長を務めていても、空部隊のことは『葉月、隼人。お前達に任せたぞ』と毎回言ってくれる。
 どれだけ怒鳴られてきたか。時には、男性先輩達と同様に張り飛ばされた。女だからと鬼おじ様は手加減はしてくれなかった。でも、『俺を恨んでもいい。お前は俺を憎む為に空から戻ってくればいい。俺は死神には負けない』と、そう思っていてくれた恩人だ。

 今度は私の番。

 葉月はそう思って空を冷たく見つめる。

「嬢、待たせたな」

 そうしていると、艦内からデイブがやってきた。
 彼にはテスト訓練中は管制室を任せている。だが、今日は来てもらった。

「申し訳ありません。デイブ大佐」
「なんの。良いところに来たと報告されてはね。管制室でじっとしているのも飽き飽きしていた頃だ」

 彼も根っからの『甲板現場男』だなと、葉月は微笑んだ。

「では。私の予想通りの展開になったら、その時は『投げる』ので、よろしくお願い致します」
「オーライ。では、始めるか」

 デイブが隣に並ぶと、上空の二機からスタンバイが完了したとの報告。

 奈々美がひっそりとほくそ笑む。

「優等生と問題児の摩擦熱で、どんなことが起きるか楽しみね」

 その『摩擦熱』を起こさねば意味はないのだが。  葉月とデイブは、今からそれにチャレンジする。カメラ画面とレーダーを見つめ、頷きあった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 真っ白い飛行服の長い袖、その袖口にマリンブルーのライン。
 操縦桿を握りしめながら、英太はその袖口を見つめていた。
 黒いグローブに包まれた手でしっかりと操縦桿を握る。

『サンダーZ 行くわよ』

 司令官の声が聞こえ、英太は『イエス』と返事をする。
 いよいよ。この冷たいミセスの指示で空を飛ぶ時が来た。
 今回の彼女は俺になにを要求するのか。どんなことをさせようとするのか。何とも言えない胸騒ぎがした。英太特有の、地上では決して感じられない期待感もあるし……。そして、フレディと警戒したミセス特有のシビアな指示に緊張をしていた。

 その時に何故か、ヴァイオリンを調律するあの音が。ゴウと響き渡る飛行音に紛れて聞こえてきた。

 ヴァイオリン。いつから弾いていたのだろう。何故、弾いていたのだろう。
 そんな疑問がどうしてか浮かんだ。
 ――なんだ。あの人もコックピットで己を痛めつけるように飛んでいた人だと思っていたのに。ヴァイオリンという趣味で、和んでいることもあったんじゃないか。
 英太のように『何にも楽しみを感じなくなる』ような、『囚われ』を知らない人間。彼女も今まで出会ってきた人間同様、漏れなく同様だったのだと。

 と、思って英太は我に返る。
 俺、なにを彼女に期待していたのかと。
 いつからそんなふうに?

「あんな飛行をするくせに。なんで、あの人はあんなに幸せなんだ」

 キャノピーの縁が太陽に照らされ、英太の目を突き刺すように光っている。
 その眩さのむこうに、先日の、優しいひとときを交わし合う夫妻の姿が浮かぶ。
 妻を愛おしそうに慈しむ夫の指先。その夫に包み込まれるようにして幸せそうに微笑んでいた妻。その妻は、『子供の為』と女の幸せを選び、コックピットを降りた。英太が必死にしがみついて、そしてこのコックピットに全てをぶつけているというのに。そしてこのコックピットでしか全てを見いだせないと言うのに。だからここでは『俺は一番でありたい』と思っているのに。あの女は、このコックピットで、この俺にあれだけの恐怖をなんども見せつけながらも、あっさりとここを降りて、幸せが待つ世界へ容易く帰っていく。

 そんな女に何故、俺は押さえつけられている?

 御園大佐に『諦めろ』と言われ、一度は割り切ったはずなのに、やはりどうにも腹立たしく思うことはまだ収まっていない。
 でも。でも。と、英太は操縦桿を握り返す。

 でも。俺はあの人の飛行に惹かれてしまったのだ。

 答はそれだった。
 だからこだわっている。
 でも。もう……彼女と空を飛ぶことは決してないことなのだ。
 それなら、彼女を知るなら。こうして彼女の指示を耳にしながら己の操縦で飛ぶ。それが彼女と飛ぶことではないか?
 やっとそんな心境になる。

『なにをしているの。背後にいるわよ』

 厳しく冷めた声に、英太ははっと我に返る。
 ピーピーと、ロックオン寸前の警報音がコックピットに響いていた。
 コックピットから後ろに振り返ると、目視でフレディのX機が背後を取っているのに気が付く。

 しまった。ぼんやりしすぎた!

 翼を傾け、英太は下降。回避を試みる。だがフレディも同じ方向に同じ操縦で背後に食らいついてきた。

『操縦桿の操作に気を付けなさい。細やかに繊細に――』
「オーライ、分かっていますよっ!」

 口うるさい指示が常につきまとってくる感覚。まるで叔母の春美がそこにいるかのようだ。
 そういえば。この人も春美と同世代。そして……彼女も両親がいない甥っ子と暮らしていた時期があって。今の俺と彼女は、そんな若叔母と甥っ子のような関係性なのだろうか。

『なにを考えているの。集中しなさい』
「くっそ」

 甲板にいるくせに、英太の状態を見抜かれている。
 それだけ英太の操縦にムラやブレを、あのカメラ映像で感じ取っているのだろう。彼女の感覚は、やはり今でもパイロットなのだと痛感させられる。

 なんとか、フレディのロックオンから回避する。

『またX機が、4時の方向から背後を狙いに、』
「下から――来ている」

 彼女の指示の先を、英太もシンクロしたようにキャッチする。

『はやく背後をとりなさい。ロックするのよ』
「分かっています、ミセス」

 だが。どんなに英太が上昇下降、左右の揺さぶりをかけ、フレディと抜きつ抜かれつの飛行を交わし合っても、向こうもなかなか。背後を譲ろうだなんてしてくれない。

『Xの癖は、回避する時に左が多いこと――』
「イエス、マム……」

 そう言われてから、横に並び背後取りで接戦するフレディの飛行を観察すると、確かにその癖を感じ取った。
 流石か……。ミセスは部下の飛行癖をきっちりと押さえ済みということらしい。
 あれならば、空など飛ばずとも、あのカメラ映像とレーダーとパイロットのデーターを駆使すれば、甲板にいても部下を容易に動かせるということなのか。

『どうしたの、いつもの威勢は。やはりフレディとはそれほどに差がないようね。いえ、違うわね。疲れ切っているフレディと接戦して、ようやっと互角ってところかしら』
「く……っ。いや、絶対にロックオンする!」

 向こうから僅かに微笑む声が聞こえてきた。

『そうこなくちゃね』

 その余裕ある声にも英太の闘志に火がつく。
 疲れ切っているフレディを追いつめるだなんて。そう思っていた。だが、上下左右の目が回るような飛行を互いに繰り返す接戦を交えても、フレディの飛行に疲れなど、まったく感じられなかった。

『英太、そのままでは埒が明かない。ここは相手との接戦に執着しないで、一度は離れて一呼吸おくことも大事よ』
「……と言いますと?」
『誘うのよ。逃げて、誘う』

 逃げる? この俺が? 今までならそう思ったことだろう。だが英太はミセスの指示に初めて『あのこと』を感じた。長沼中佐が言っていった『ミセスの裏』という話だ。
 これがあの人の『裏』――。

「ラジャー。一度、接戦離脱。前進します」
『北上して』
「イエス……マム」

 イエスと答えたものの、英太の肌にぴりっとした緊張が走った。 
 レーダーを確認しても、パイロットならこの地域まで飛んでみて感じ取る危機感。そろそろ『やばい地域』という予感だった。

 『東京急行』。
 このあたりは、そう呼ばれたルートに近いはず。
 冷戦時代、旧ソ連空軍機が、『決まった曜日(ほぼ水曜)』に『同じ機』で『同じ航路』で、北海道東から太平洋上空を通って東京近辺まで偵察に来る。その為、在日アメリカ軍がそのように名付けたと。
 いまでも度々あるため、スクランブル発進がかかるところだ。

 まだ充分国内領空に位置しているが、逆に言えば、うっかりしているとこちらから向こう側に警戒させてしまう空域のはず……。
 この空母艦自体は、航行する届けを出していることだろうが。だが、まだ世にもそれ程に知られていない開発機のテスト飛行を『飛行計画』として届けているかどうか。英太は聞かされていない。まだ企業秘密的なところがあるだろう。そんな機体が領空外間近でテスト飛行をする。そんなこと、わざわざ届け出るのだろうか?
 そもそも。こんな地域でテスト飛行をするのだって、あまりにも無防備ではないのだろうか……。

 だがまだ大丈夫だろう。ミセスも危なくなったら引き返せと言ってくれるだろう?
 そう思いながら北上をする……。レーダーを見ると、フレディも必死に付いてくるのが分かる。

『まだよ、まだ。向こうがムキになるほどに逃げなさい。そう、あのクールな彼を燃えさせるのよ』
「ラジャー」

 なるほど。主機に任命され躍起になっているフレディの『予備に負けるか』という闘志をかき立てるわけかと、英太は憮然とした。
 だが、目がレーダーを気にする。もう危なくはないか。

『英太、良いことを教えてあげるわ』

 もうすぐ向こう国家のADIZ『アディズ(防空識別圏)』に触れるのではないかと、英太はハラハラしている。
 どの国も独自で設定している為、どこからがその国のADIZアディス、防空識別圏になるのかは、こちらからは分からない。無論、こちら本国の防空識別圏も分からないように設定している。それを分からないようにスクランブルをかけるのも、各々空軍の駆け引きとされている。
 どこを飛んだら、対岸国に警戒されるのか――。
 ミセスの指示を耳に挟みながら、そんな不安を抱きはじめていたのだが。

『この演習で、X機をロックオン成功した暁には、明日からの主機は貴方に任せるわ』

 ―― 成功すれば、明日からは『俺が主機』!?

「ほ、ほんとですか」
『ええ。フレディにもそう告げたわ』

 だからか。だから、彼がムキになっているのか。
 英太はミセスの無情さにぞっとした。
 四日間、彼一機で基礎データーを取るだけとって、最後に演習での成果をみて、『駄目ならそこまで、主機交替』と。
 ただ控えていただけの英太も『なんの意味がある予備なのか』と、空も飛べない日々を悶々と送っていたが、苛酷な指令の中、それでも使命感を胸に己を駆使して主機として誇り高く飛んでいたフレディを今度は切り捨てる。
 これでは、今、瀬戸際に追いつめられているのは英太ではなくフレディだった。

『どうしたの。また予備機としてただ甲板でレーダーを眺めているだけの日々を送りたいの? ここでX機を撃墜すれば、明日から貴方が主機。好きなだけ空を飛べるわよ』

 操縦桿を握っているグローブの手を、英太はぎりっと鳴らす。
 なんて冷酷な女だろうか。なんて嫌な手を下す人だろうか。こんな上官は初めてだった。横須賀には確かにいない。
 だが、英太も『主機として交替できる』と言う言葉に心が揺らぐ。この五日間は辛いの一言だった。

 そうだ。これは『演習』だ。
 それにフレディだって甲板に降ろされても、屈辱を味わうことにはなるだろうが、今日の俺のように演習相手として飛ばせてもらえるはずだ。それにあいつ、一回甲板に引きずり降ろしてでも『休ませないといけない』。それぐらいしないと、『俺は主機だから』と無理をするに決まっている。

「分かりました、ミセス。その約束、守ってくださいよ」
『勿論よ……』

 ミセスに上手い具合に『本気』を煽られただろうフレディのX機が、彼女の読み通り英太をぐんぐん追いかけてくる。
 そろそろ頃合いだろう。旋回、方向転換をし、フレディの正面へと戻る。『真っ正面からの一騎打ち』。

 タイミングを見定めた英太は、旋回。機首を、こちらに向かってくるサンダーX機に向ける。
 レーダーを見るとフレディも分かっているのか、回避する様子もなく、英太が乗るZ機へと向かってくる。
 真っ正面からの対決だ。どちらかが回避せねば、正面衝突。まるで頭と頭を付き合わせたチキンレース。

 身体中の血が、ぐわっと煮えたぎるのが自分でも分かった。
 これだ。これだよ。久しぶりの、この熱気! 英太は操縦桿を握りしめ、親指はロック捕捉のボタンを探る。

『さあ、英太。どうするの』
「絶対に退かない。絶対に俺が先にロックする!」

 フレディの機体を、コックピット正面に目視で確認。
 その瞬間に英太はロックオン捕捉を開始。緑のリングがくるくるとX機を追う。だが同時に、英太の耳にピーピーという警報音。

「だよな。同じ事を考えているだろうなっ」

 向かうフレディも英太のZ機を捕捉、追い回している。
 どちらも同じ事をしている。回避をすれば、捕捉が出来ない。背後を取るしかない。しかしそれも難しいだろう。これは絶好のチャンス。だがそれはフレディも同様に。
 一瞬の勝機を見出した者が勝利をする。

 絶対に俺が獲る!

 互いの機首は、もう直ぐ側。
 だが、どちらも左右に振る操縦をしているため、または、相手の捕捉に集中している為に、回避と捕捉という実行行動に集中力が分散される。

 ヒュンと、英太の真横を白い機体が掠めていった。
 ギリギリで回避したのは、フレディ。だが、それも彼ならではの、的確な飛行が出来るからこその寸前での回避だった。

『どうやら、おあいこのようね。惜しかったわね』
「まだです。まだ側にいる。もう一度、チャレンジします!」

 そして俺が主機になる!
 そしてフレディはそれを阻止する。

 本気になった二機がまた接戦を開始しようとしていた。
 どちらかを落とさないかぎり、当然だが決着は付かない。ミセスが『そこまで。着艦せよ』と言いだす前に、英太は勝ち取らねばならない。

『いいわ、とても。英太、そのままフレディを北に追いつめなさい』

 その指示に、英太はひやっとさせられた。

「し、しかし。これ以上は……」
『いいから。私の指示に従いなさい』
「いいのですか。本当に……やっても……」

 彼女の口振りだと、飛行計画を出していると思わせる落ち着きだと英太には思えた。
 だがそれを確認しない限りは……。

「あの、ミセス。この演習の飛行計画は……」

 確認しようとしたら、またピーピーという警報音。
 戻ってきたフレディに捕捉開始されている。

『どうしたの。やりなさい。主機になりたくないの? 今、フレディは背水の陣。これ以上北に追いやられたら堪らないでしょうね。でも彼にとってはこれが最後のチャンス。絶対に貴方を逃さない』

 そしてミセスは英太を奮い立たせる一言を。

『フレディの、的確な操縦を貴方はその身体で知っている。彼は追いつめられたら、あれを発揮するわよ』

 研修中、フレディに完敗した時のあの屈辱が蘇る……。

「……そうだ。まだ侵犯じゃない」

 レーダーは既に北海道陸上に位置しているが、ミセスが『行け』と指示するのだから、まだ大丈夫なのだろうと言い聞かせ揺れる心をなだめる。それでも、彼女の指示の恐ろしさを英太は突きつけられている。その一方では、自分にとって明日からのポジションを左右する瞬間。
 英太に葛藤が生まれる。だが、まだ大丈夫だろうと、そしてミセスの指示だからきっと大丈夫だろうと。彼女を信じて飛べばいい。俺がいままで出来なかったことを、今度こそ。御園大佐の顔を思い浮かべながら、英太は言い聞かせ舵を切る。

 もう一度旋回。再度、フレディの機体と真っ正面向き合う。
 今度のX機は、凄い勢いでこちらに向かってきている。そうだろう。向こうは領空の境を背に控えている。国内路線から向かってくる英太に押し切られると、彼の機体は向こうの国の戦闘機を刺激することになりかねない。

「やるぞ、俺はやるぞ」

 言い聞かせ、英太は『位置はもう考えるな』と、親指をボタンに宛う。
 ピーピー。向こうが捕捉を開始。英太も同様に。互いがまたクルクルと緑のリングで追い回す。

『同じ勝負をしても、時間の無駄。先程とは違うやり方で接近しなさい』
「ラジャー」

 彼女の戦略の意味を、英太はもう分かっていた。 
 逃げて、誘う。つまりあれに似たことをして、相手の意表を突けと言っているのだと……。

 また正面に向き合う。だが、今度は英太から回避。

『ほら、引っかかった。X機が猛烈に貴方を追ってくる。勝負を逃げたと怒っているでしょうね』

 さあ、ここからが『勝負所』よ。

 ミセスの勝ち誇った声が聞こえてきた。

『今、背後にフレディがいるけれど、慌てないで落ち着きなさい』
「ラジャー」
『逆に捕捉をさせて油断させるのよ』
 彼女の『裏』がまた出た。
「ラ、ラジャー……」
『貴方を撃墜する最後のチャンスだと躍起になっているはず。いい、そのまま位置など気にせずに思いっきり飛ぶのよ』

 徐々に冷たい汗が、英太の額に浮かぶ。
 嫌な予感がした。
 そしてついにミセスの最後の指示が――。

『X機を、もっと北に誘いなさい。そう宗谷岬へ――』

 宗谷岬。もうそこまで来てしまえば領空線は目の前。なのに……!? 脳天に電気が落ちたかのような衝撃が英太を襲った。

「待ってください! 出来ません」
『この艦の長である私の命令でも? このテスト飛行の演習を指示している私の命令でも?』
「なにを言っているか、分かっているのですか?」
『この私に考えがないとでも? 私はね。あの時、貴方を追いつめたように、今度はフレディを追いつめてみたいのよ。そうして、あのクールな彼がどうなるかをね……』

 だから、『やりなさい』。
 彼女の冷徹な声が英太を貫く。

 そうだ。彼女に考えがないはずがない。
 この人は裏をかいて……。そうだ、だから『やればいい』。

 背後にフレディの機体が追いついてきた。しかもミセスの予想通り、フレディが英太のZ機をロックオン捕捉に入る。
 コックピットにピーピーという音が途切れることなく鳴り響く。英太はただ操縦桿を握りしめ、捕捉から逃げ、じっくりと北へ……。

『ほら。フレディは貴方を追い落とすことに夢中で気が付いていない。それとも? それも覚悟でやっているのかしら』

 どれが本当なのか分からなくなってくる。英太の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 それでも操縦桿はミセスの指示通りに動かしている。彼女が言うとおり、レーダーを見ると、フレディは英太の逃げの誘導に吸い寄せられるようにして危ない境界線に近づいている。

『もう、一息……』

 彼女の声だけが、冷ややかで。
 だが英太の身体は汗でぐっしょりになっている。緊迫と集中と戦意と……全てが入り交じっている。

 フレディの捕捉から逃げつつ、指示通りに……彼の、機体を……。

「で、出来ません!」

 英太は舵を切る。国内へと回避した。
 フレディもそれに気が付いたのだろうか。英太同様に国内上空へと戻ってきた。しかも彼も慌てていたのか。英太の機体背後からかなり外れて回避したようで、あっという間に彼の捕捉が外れる。
 コックピットが静かになった。

『逃げたわね。なにをやっているの。自分一機の時だけ好き勝手に飛び無茶はできるくせに。ただ威勢がある悪ガキに過ぎなかったってわけ。これが任務本番だった場合は、そんな情を持っている余裕などないはずよ』
「教えてください。飛行計画は届けているのですか」
『飛行計画……?』

 なんのことかという口振りに、英太は固まった。
 この女、なんて無謀なことを……!

『そんなことは私が管理すること。貴方は言うとおりに飛べばいい』

 なんて言いだしたが、英太はもう信じられなかった。
 絶対に、この企業秘密であるテスト飛行の届け出などしていない。小笠原基地内でのテストとはまったく状況が違う。航行中の実務と平行してやっているテスト飛行だ。いつものホームを出た空でやっているというのに、こんなすれすれの空域で彼女はとんでもない無茶ばかり言う!

「パイロットは物言わぬ駒で、誰もが貴女の命令なら従うミセスの信奉者だと思っている!」
『だとして? その代わり全ての責任を私は負っているのよ。気に入らないなら、私を辞職させるほどの飛行をやってみなさい。ほら、ADIZアディズに触れ、もっとその先にある領空ラインを割ってしまえばいい。だけど、貴方は逃げた』
「逃げた? 俺が? 不明確なADIZに触れて対岸国空軍を刺激することの方が危険だという判断をしたのに。それが逃げた? だったら葉月さん、アンタがホーネットに乗って、フレディを追いつめればいいじゃないか。お手の物だろ!」
『私は飛ばない。その代わりに貴方が飛んでいる。そして貴方は今、私のハウンド。猟犬に過ぎない。その役にも満たないのなら、もういいわ』

 『もういい』。
 そこでミセスの無線がぶつっと切れた音が聞こえた気がしたのだが?

「ミセス、ミセス?」

 ずっと無茶ながらも落ち着いた指示をくれていた彼女の声が聞こえなくなった。
 また……嫌な予感がした。
 『もういい』あの後、英太にはこう聞こえた。『もう貴方は私の猟犬ではない』。

 猟犬ってなんだよ。
 俺はアンタの飼い犬で、しかも猟犬。ただ言うことを聞かされる為の。しかも仲間を同僚を危険にさらすような指示を平気でさせる飼い主なんて……。

 ピーピー。と、またコックピットが騒がしくなる。
 またフレディが英太を追ってきた。

「しつこいな」

 無理もないか。主機のポジションが危ぶまれているのだから、ここでライバルを徹底的に叩いておかねば、彼のプライドの炎も収まらないだろう。
 英太は彼の捕捉を回避する、操縦桿を握り、彼の飛行を避け……。

 そのうちに、英太はレーダーを見てハッとした。
 今度は俺の機体が、境界線に追いやられている!?
 フレディの機体が真横に来た! 捕捉音は止んだが、フレディがあの日を彷彿とさせるようにジリジリと、蝿を追い払うかのような飛行で英太を北へ追いやる。

『あんな無茶指示を平気で突きつけてくる冷徹な人だぞ』
『俺だってな、あの時、お前にぶつかるか、俺がしっぽを巻いて退陣するか。もの凄く死ぬ思いでやり抜いた作戦だったんだ』

『これが任務本番だった場合は、そんな情を持っている余裕などないはずよ』

 二人の声がこだまする。
 任務に命令は絶対。それをこなせないパイロットなど空軍にいらない。

 だからフレディは、分かっていて俺を追いつめている。
 そして、俺は……逃げたんだ。

 ハウンドが入れ替わった。
 彼女にあっさりと切られた。
 今度はフレディがミセスの猟犬になったのだと、英太は愕然とする。

 

 

 

Update/2009.8.24
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