-- 蒼い月の秘密 --

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25.三日月タトゥー

 

 護衛秘書官のアドルフを従え、葉月は艦長室に戻る。
 戻るなり、被っていた紺色のキャップを机に放り投げた。

「おかえりなさいませ。どうでしたか。『作戦成功』……では、なかったのですか?」

 この日、テッドには艦長室の留守を任せていた。葉月の帰りを待っていてくれた彼の迎え入れ。だが葉月が仏頂面だった為か、『元より狙っていた日』であった今日の演習が上手くいかなかったと感じたらしい。
 艦長席の椅子に座り、葉月は溜め息混じりに伝える。

「もの凄い成果だったわ。奈々美さん、大喜び。予想以上の収穫」
「そうでしたか。それは良かった……と言いたいところですが」

 そこでテッドが『くすり』と可笑しそうにこぼす。

「あの威勢の良い青年ですから、やっぱり大喧嘩してきましたね」

 まったくその通りで、葉月は黙り込む。
 どのような喧嘩だったか振り返るのも、それを言葉にしてテッドに語るのも、もの凄く疲れる。もう一度あの喧嘩をするのと同じぐらいの精神力がいる気がしたのだ。でも……。

「ただの飛行馬鹿ではないと、それは分かったわ」
「ふうん、そうでしたか。また胸ぐらを掴まれて、今度こそ貴女があのがたいの良い青年を甲板に投げ飛ばすと予想していましたけれど。そして明日の朝にはクルー達がまた『じゃじゃ馬ミセス』だの『恐ろしい女だ』と噂するかと思っていたのですけれどね」
「彼も相当我慢していたわね。ぐぐっと我慢していた顔だって、ありありと分かったわ」

 そうですかと、テッドはくすくすと笑いながらも、事務作業をこなしている。

「ただ飛ぶことしか考えていないような無茶飛行ばかりして、その上に隼人さんが世界史を教えるほどに飛行以外は無頓着かと思ったら。自分が空を飛ぶことについての知識に言い分も判断も、これはきっちりしている」
「なるほど。それは期待大――ということですか。ミセス的に言えば……」

 そして先程の言い合いを、葉月は自分の頭の中だけで反芻する。

「宗谷海峡のこと、きちんと捉えて判断していたわ。見事な論破だった……。あそこであれだけ言い返せる男だったなんて」

 あの無鉄砲で喧嘩っ早い青年が。これまでの勢いをぐっと押し殺し、頭を冷やして向かってくる姿と来たら……。予想外だった。

 そして葉月は呟く。

「そして、死ぬのも死なせるのも『出来ない』ことが分かったから」

 『そうでしたか』と、神妙に受けてくれたテッド。

「あれなら。当時の私より『ずうっとマシ』。いいえ。当時、デイブ大佐とサラに叱責され愛の鞭で殴られた程、そんな馬鹿だった私なんかより、ずっと……分かっている」

 そんな呟きにも、テッドは黙って聞いてくれるだけ。

「お陰様で私は、ADIZ優先ではなく通過通航権を優先させた『阿呆准将』にされたわね」
「はあ。ということは、彼もまだまだですね」

 溜め息をこぼし、テッドは手元で集中させていた書類を束ねた。

「貴女が馬鹿になってでも、彼の後先考えない無茶飛行を自覚させる為の演習だったとは気が付かなかったのですからね。彼に『ここはこれだけ怖いのだ』と叩き込む為の演習であったことも、本当の馬鹿か、そうではない防衛パイロットに相応しい思考をいざとなって発揮できるのかどうか。まんまと『試された』ことにも気が付かない」
「気が付かれても困るわよ。私の立場がない」
「でも。貴女が試した結果は、良好だったようですね。あの命知らずが、命と防衛の重さを思い知る。命と防衛を軽んじるような芝居をした貴女からすれば、充分な結果でしょう」

 なんだか棘がある言い方ね――と、葉月はふてくされた。
 実際に、テッドには大反対をされていた。『なにもあの佐々木女史の強引さに合わせなくても』と。どんなにADIZを飛行する為に飛行計画を届け出ても、新型で領空瀬戸際で演習をするだなんて――と。その手続きをしてもらうのに、葉月とテッドは既に揉めに揉めたのだ。
 それでテッドは今日は艦長室で待機している。本当に大事になった時に、直ぐに対処できるようにと――。だがそれも無く終え、ただの留守番で済んだのだ。

 だから、どことなく彼が機嫌が悪いのは、葉月も仕方がないかと諦める。

「貴女の尊厳に関わるような、荒療治はもうこれきりにしてくださいよ」
「分かっています」

 長年連れ添ってきた後輩に、ぴしりと言いつけられる。
 昔は、『御園中佐、日本語を教えてください』と、葉月を見つけてはおっかけてきていた青年が。今では、手厳しいお目付役で、敵わないこと敵わないこと。

「なんだか不満そうなお顔をされていますね。私に文句があるならはっきり言ってください」
「ありませんとも」

 と、葉月も渾身の笑みを浮かべて、突き返してみたが。やっぱり冷たく見下ろされ、葉月は肩をすくめた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 くそ。くそ。なんだかムカムカしてどうしようもない。

 なーにが『届け出はしているわ。当然でしょう』、『海軍パイロットの貴方達もそれぐらい分かっているでしょう』、『その危険を身近に空を飛ぶのが空軍パイロットでしょうが』、『随分と正当なことで逃げたことを誤魔化すのね』――だ!
 葉月さんの一言一言を反芻している英太は、その度に胸の奥から渦巻くむかつきに襲われている。

「日本飯は、そうやって食べるものなのか?」

 また、どうしてか目の前の席に座っているフレディが訝しそうに聞いた。
 茶碗の中の白飯を、箸でぐさぐさ刺しながら食べている英太の姿が気になるらしい。

「そう見えるのか」
「見えないな。平井中佐とは違う食べ方だもんな」
「だったら聞くな。お前こそ、嫌な言い方するなっ」

 数席離れた場所で、フライトキャプテンである平井中佐が丁寧な手つきで箸を操り白飯を頬張っている姿があった。それをフレディが見て、英太の乱暴な箸使いを見て『嫌味』を言っているのだ。
 だが彼がまた溜め息をこぼし、パンをかじる。

「まだミセスの無謀さに腹を立てているのか」
「別に」

 いや、腹を立てているのは一目瞭然だと思う。
 それでも英太は強がった。なんとも思っていない。もう俺は冷静さと……。無駄と分かりながら。

「俺もな。主機を交替させると聞かされた時には血の気が引いたね。あの人の言うことを聞いていればいいと思っていたけれど、あの人の言うことを丸飲みしていたら、とんでもないところに弾き飛ばされる恐怖を改めて実感した」

 まったく同感だな。と、英太も思う。

「俺も。フレディが言っていた、『主機』と『予備機』というポジショニングに意味がないというあれ、なんとなくひっかかるようになった」
「だろ! あんなに簡単に『勝った方を主機にする』なんて入れ替えようとするんだ。結局、俺でもエイタでも最初からどっちでも良かったかのような口振り――」

 もしそうだったら、喜んでいた俺はなんだったのか。そんなフレディの悔しさが、彼の口元に浮かぶ。

「……でも。きっとミセスはフレディは『主機』が合っていて、俺は『予備機』が似合っていると思ってそうしたんだろうな」
「はあ? なに急に納得しているんだよ。出航前、あんなに『何故、俺は予備機なのだ。御園大佐に問いただしにいく』とかなんとか、平井中佐に口答えしていたくせに」
「あー、うーん。そうなんだけれどなあ?」

 残っている白飯を口の中に全て頬張る。フレディは『どういう心境の変化だ』と首を傾げているのだが。

「なんだろう。どっちも主機と予備としての役割がきちんとあってさあ……」
「なに言っているんだよ。そのまんまじゃないかっ」
「うわ、なんていえばいいんだっ。だから、主機と予備機は『主役と代役』ではなくて……」

 うまく言えねえっと、英太は箸を放って黒髪をかき回した。
 だがフレディはなにか気が付いてくれたようだった。

「なるほど。主役と代役ではなくて、『どちらも役が宛われている』ということか?」
「お、それそれ。そういうかんじだな。とりあえず、フレディは『主役』な。俺、『脇役』――」

 くそ。自分で閃いておいてなんだが、『脇役』もかなり悔しいぞ。などと、英太は顔をしかめた。
 だが今までの『予備は動かなくても良い、いざという時までは不要の補欠』と思っていた時よりは楽になったと思う?

「となると、俺が主機としてどのような『役』をするのか、エイタはどのように『演じればいいか』だな」

 二人で妙に頷き合った。
 そして、英太はトレイを持ち立ち上がる。そしてまだ食事中のフレディを見下ろした。

「一応な。俺、『予備としての演じ方』。見通しつけているから。そうすることにした」
「なんだよ、それ」
「なんだろうな。俺も分からないけれど、やってみないと、それこそミセスの思惑から外されて弾き飛ばされそうだからな」

 そのままトレイ返却棚まで向かうのだが、フレディが急に慌ててパンを頬張り『ちょっと待てよ。それどういうことだよ』と必死に引き留める声。
 それを背に聞いて、英太は微笑む。

「そういうことなんだろ。葉月さん」

 佐々木女史の言葉でうっすらと思い描いていたことが。今日の葉月さんの『やり口』を肌に感じ、最初は頭に血がのぼったものの、後になってすうっとそれらは英太の脳にすんなりと染みこんでくるような奇妙な感触を得ることが出来た。
 彼女に振り回されていると思って、いちいち英太は『悪ガキ』のまま抗っていたが。彼女のひとつひとつ繰り出してくる衝撃が、実はひとつひとつ、英太の中の空洞を知らず知らずの内に埋めている……。そんな感触。
 だが、もし。英太が思っていることが『正解』ならば。
 たぶん。それはおそらく――。また彼女との衝突を意味していると予感していた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その日の晩だった。
 夕食後。フライトのミーティングがあり、甲板階にある詰め所にパイロットとメンテナンスが集合した。
 勿論、ミセス筆頭のミーティングだった。だが、進行は毎度のことラングラー中佐。そしてサポートにダグラス少佐。彼らが喋るだけで、ミセスはいつもどおりだんまりでメモを取っているだけだった。
 いつもの定例会なので、毎度の確認に注意喚起などで終わる。ミセス一行はすぐに退室する。だが、ここからは『現場野郎』共の情報交換や交流の時間になる。
 ミセスもいない。鬼の目と言われている程に監視が厳しいラングラー中佐もいない。コリンズ大佐も、フライトキャプテンの平井中佐も、そしてメンテキャプテンのハリス中佐もミセス共に出て行く。
 あちら様一行は、艦長室にて『幹部ミーティング』や『慰労会』をするのだとの噂――。逆にこちらは残った男達で、気軽に現場なりの意見を言う聞ける時間、空間と化するのだ。

 英太はいつもこの時間に参加しなかった。
 それはフレディも然り。
 何故か、こんな所が気があって驚く。
 フレディ曰く――『どれも本当でも嘘でも、俺は飛ぶだけだから』だそうだ。英太も『そうだ。俺達、関係ねえ』だった。
 だから二人で船室に戻る。いつのまにか『フライトの若者二人は仲が良い』なんて言われているが、英太もフレディもそこは顔をしかめ合う。そんなつもり一つもない。性格や考え方は正反対なのに、妙なところが合致することがある。ただそれだけのことなのに……。表面的にはそれが分かり難いらしい。

 この日も、特に二人で示し合わせたわけでもないのに、入り口のドアで一緒になってしまったのだが。
 背後から二人の足を止める話し声が聞こえてきた。

「今日のミセス、危なかったな」
「一歩間違えたら、侵犯寸前だったぞ」

 テスト機の演習の話題になっていると知り、英太もフレディも共に足を止める。
 揃って振り返ると、その話題を持ち出した輪の男達の目が、二人に向かってきていた。だがそれだけで。メンテナンス員とビーストームのパイロット達が数名囲っているそこは額を付き合わせ、さらに話題に入っていく。

「でも飛行届けは出しているらしいし。俺達ビーストーム監督のコリンズ大佐も同意していたみたいだしな。なにか狙っていたんだろう」
「しかし、指示されたパイロットは堪ったもんじゃないだろう。いくら命令でも」
「それでもあの人は、そうして結果を出してきた人だからな……」

 もう自分達の中でも散々、噛み砕こうとした話題。そう思って、英太とフレディは顔を見合わせ、今度こそ出て行こうとしたのだが。

「なんでもするだろ。ミセスがこの暑いのに、あの長袖の訓練着の胸元も開けず、ぴっちりと首元まで閉めているわけ、知っているか?」

 その問いに再度、青年パイロット二人の足が止まり振り返ってしまう。
 そしてメンテ員とパイロット達の輪は、その声の主へと顔向きが揃っている。誰もが『どうしてなんだよ』と先を急かした。
 英太も……なんだかよく分からない胸騒ぎが。

「あの人、身体中、傷だらけらしいぜ。顔はクールビューティでもな。肌は見せられないほど、酷いらしいぜ」

 周りの男達がざわめいた。

「任務のときに、海野准将が撃ちやすいようにと、テロリストの人質になって的になったんだとよ。犯人を窓辺に誘って、『私ごと撃て』と言ったらしい」

 また周りの男達のどよめき。
 今度こそ、英太は驚き、同様に驚きを隠せない顔を見せたフレディと共に室内に戻ってしまった。
 その話題はまだ続いた。

「これは本当だぜ。俺、フロリダ出身で、その岬任務の時に基地にいたから。まだ新米だったけど、かなり話題になったし……」
「俺も。だいぶ昔だけれど、東南アジア向けの援助遠征でも負傷したという噂を聞いた頃がある」
「へえ、なるほど。自ら人質になる、撃たせる、撃たれる。それだけ自分を粗末にする人ってことなら、『貴方達も命を投げ出せ』ってか。自分だけやっていろってかんじだよな」

 そんな感覚が狂った女だから、侵犯間際の演習を強いる。
 パイロットが気の毒だ――と、またそこで彼等が出て行かなかった英太とフレディを一目した。

「あの、その岬任務の話は本当なのですか」

 堪らなくなったのか、フレディがその輪に入っていてしまった。

「たぶん本当だな。フロリダの特攻が彼女に頭が上がらないのはそのせいだって言うのは、陸部では割と言われている話だからな」

「それならもう一つ、俺も聞いたことがある」
「俺もだ」
「俺も」

 どうしたことか、次々と『ミセス准将の噂』が繰り出されることに。
 その内容に、誰もが耳を傾ける。英太も、そしてフレディも――。岬任務の話から、遙か昔の任務まで。ミセスの父親であったフロリダ元中将が娘を使っては、戦場に放り込んで重宝していたとか。家族ぐるみで、軍隊で活躍することには娘を案じることはなかったとか。御園派独自の連帯があって、秘密隊員の中の誰かが、ミセスのバックアップをしていたとか。さらには航空ショーでの思い切りに、マルセイユ部隊での藤波?とかいうパイロットとの飛行練習のエピソードやら、出てくるわ、出てくるわ。
 その度に若い男達は『ほんとうかよ、それ』と、どよめき。

 そんな中、いやいやもっとすげえ事があるぜ――と、手を挙げて話し出す男も。

「あの女将軍。昔、すんげえ命知らずのパイロットだったとかで、コリンズ大佐の目の前で『女は捨てる』証拠とか言って、おっぱいとおっぱいの間に、ナイフで入れ墨を彫ったらしいぜ」

 それもあって、暑くても薄着にならない胸元を開けないんだと彼の見解。
 先程の岬任務でのスナイパー射撃の噂と相まって、これもどうしてか誰もが『マジかよ』と騒いだ。

 流石にその噂には、英太もフレディも固まっていた。

「入れ墨って……。そんなことするようには見えない。だって、あの人、品が良い感じだし」

 やはりフレディにとっては、綺麗な人なのだと思った。
 だが英太は思った。

「若気の至り。あの人、やっているかも」

 夜中、コックピットでも晴れない鬱積を吹っ飛ばす為に車を飛ばした若い日々。
 それを聞いていた英太は、『カーチェイス』同様に『タトゥー』も興味本位でやっているかもしれないと簡単に信じそうになる。確かに資産家のお嬢様だと聞いている。だがお嬢様だから、真っ直ぐに生きてきたとは限らない。むしろ一族が軍人で、噂通りに親に『御園家の軍人』としてあれこれプレッシャーをかけられていたならば、そんな『ぐれた素行』に走っていてもしかたがないだろう? そんなイメージを英太は思い浮かべることが出来た。

 そして、誰もがその噂を信じようとしていた。
 英太同様に、『あれだけ命知らずの怖いもの知らずの女だったら、やっている』と――。誰もがそう思えたのだ。
 だが英太はなんだか、気分が良くなかった。『命知らず、怖いもの知らず。自分を粗末にするから、部下も粗末にする』。皆がそうしてミセスを吊し上げる。英太だって、今日の演習では『俺達、現場の男をぞんざいに扱う上官』だと思った。しかし、『命知らず、怖いもの知らず』なら『俺も一緒だ』と思う。そして、自分のことではないのに胸にグサリと来たのは『自分を粗末にするから、他人も粗末にする』という人々の声だった。
 英太は胸を押さえる。『俺もそうじゃないか?』。ギリギリの飛行をいつも手の中に握りしめ、そこへ向かうことを逆に望んでいる。それはまさに後先考えず、自分がこれからどうなっても良いと思っている英太の感覚と一緒だった。だが、それを人々は『自分だけでやっていろ』と言う。そして俺は今日、その粗末にされたことで頭に血が上ってミセスと衝突した。
 ある日の言葉が、この時になってようやっと英太に浮かんだ。
 ――『ギリギリで帰ってきなさい。それが出来たら一流のパイロットになれる。私はそれが出来なかったから、一流になれもしなかった』。
 英太はハッとした。もしかして今日の、瀬戸際に追いつめられた訓練は、もしかして! 『ギリギリ』から帰ってこられる気持ちを持つように、そう俺に知らせたい為に?

 葉月さんの心の奥底が透けて見えた時だった。

「入れ墨じゃないだろう? 二十代の時に家の事情に絡んでいた男に、胸をぐっさり刺されて死にかけたって噂も聞いたことあるぜ。それでパイロットを辞めるしかなかったんだってさ」

 今度は『シン』とした。
 やがて、一人が笑い出す。

「まさか」
「いや。俺、横須賀だから。滑走路駐車場で一台だけ停められないよう塗りつぶされているスペースがあるんだけれど。そこで刺されたという、かなりリアルな噂もあるし」
「噂だろう」

 入れ墨の噂より、刺されたという噂のほうが誰も信じられず、馴染めないようだった。
 だが、英太の心臓がドクドクと動き出している……。
 刺された? 胸を? それでパイロットを辞めた? 俺が本人から聞いた理由とは随分違うじゃないか――。
 それだけじゃない。ナイフを振り上げる男を思い描く英太の額に、冷や汗が滲みはじめる。

「そりゃ、噂だけどな? 入れ墨だって噂じゃないか」
「なんでそんな物騒な噂があるんだよ」

 入れ墨も噂は噂。だが入れ墨が本当だったら驚きで。でも嘘だったらそれはそれで『おっぱいと、おっぱいの間』を含めながら想像し、男達は楽しんでいるのだ。
 なのに……。対する噂は『胸の傷は刺された傷』と来た。
 信じたくないのはこちらのようだ。
 だが、横須賀の男は続ける。

「刺した男がフロリダ本部が重宝していた雇い傭兵だったらしい。御園とどんな確執があったかは知らないが、軍としてマイナスになる事情があったから、あまり大々的に語り継がれないようタブーになっているみたいだな。だから、あまり大きな口を開くと左遷されるとか。その為に、横須賀では上層部にいる幹部ほど知っていても口をつぐむ。そして小耳に挟んだら『もみ消す』。教えてくれた先輩が『あの人の噂をする時は気をつけろ』と教えてくれたもんでね」
「お前、喋ってしまっただろ。大丈夫なのかよ」

 だが、覚悟を決めたかのように横須賀の男は言った。

「だから、『入れ墨だ』と根も葉もない噂で茶化すなと忠告しているんだよ。あの人の身体の傷、ひとつひとつが軍と関わっていて、それで女身で准将までのし上がったと思えば、しっくりするだろ」

 そして横須賀の彼はさらに付け加える。

「入れ墨でも、傷害被害者でも。あの人は何度も死の崖っぷちを覗いただろう人。恐ろしい女だって事だ。変な噂で煽ってクルーを乱すと連帯が乱れる。あの『鬼の目』のラングラー中佐はとことん底辺まで洗いざらい調べ上げる徹底した人だからな。噂一つ、気をつけた方がいいぞ」

 変な噂話で盛り上がっていた男達が、急に神妙になる。

「わーかったよ。噂話一つでも『魔女』に食われるってことがな。忠告サンキュ」

 フロリダの男が不機嫌そうに去っていく。
 だが、彼も身に染みたようで去っていく足が速かった……。

 やがて、いつもの座談会が解散する。
 当直の者だけが残り、夜の静かな時間が滲みはじめる。

 英太もフレディと放心状態で船室へ向かう。

「どちらも嘘だよな。いや、スナイパー射撃は本当だな。ミセスが自分から教えてくれた話と一致していた。ということは、銃創があるってことか。その銃創が胸にあって……。いや、スナイパーなら即死だよな?」

 フレディが側でぶつぶつと、なにかを言い分けるかのように呟き続けている。
 だが英太は汗を滲ませながら黙っていた。

「エイタはどうなんだよ」

 返事が出来なかった。
 訝るフレディが顔を覗く。

「エイタ、顔色悪いな」
「な、なんでもない」

 手の甲で額の汗を拭った。

 刺された? あの人が?
 撃たれた? 自ら的になって?
 何度も死にかけた?
 どうして……。

 また彼女の声がこだまする。
 ――『ギリギリで帰ってきなさい』。
 一緒に死んであげるわよと、笑って言った人。
 車を飛ばして、海に落ちても良いと思っていた人。

 子供の為にコックピットを降りた?

 違うだろ。胸をぐっさりやられて、二度とコックピットに戻れなくなったんだろ?
 胸は致命傷だ。一命を取り留めても、そこを一度傷つけたなら、パイロットにはこの上ない……。

 『違う』と、英太は首を振る。
 何故なら。『女の幸せを選んでコックピットを降りた、意気地なしのパイロット』と散々に思い、時にはぶつかってきたからだ。

「嘘だ。だったら……何故、そう言ってくれない?」

 そしてまた、先程の横須賀からきた男の言葉が。
 ――軍と深い関わりがある事件で、軍自体も伏せたがる。知っている者はタブーで口をつぐむ。

 彼女に言えない理由がある?

 だが英太には、知りもしないで彼女を責めていた以上に汗が滲む訳があった。
 まだ心臓がドクドクと動いている。船室に戻って、フレディと共にベッドに横になっても呼吸が息苦しい感触。

 やがて艦内が静かになる。
 夜勤で働く男達。そして明日の為に眠る男達。

 英太の目の前に、父親がいた。
 血だらけの、父親が。真っ赤になった目で顔をぐしゃぐしゃにして英太を見下ろしていた。

「うわーーー!」

 叫びながら起きあがる。
 息を切らしながら目を覚ました英太は周りを見渡した。
 これだけ大声を出したのに、先輩達もフレディも静かに眠っている。
 どうやら、夢の中でだけ大声で叫んでいた錯覚だったらしい。
 それでも『いつもの如く』、この夢を見た時は身体中が汗で湿っている。

 英太は一人で小さく息をつく。
 首元の汗を確かめた時、『葉月さん』の冷めた顔が直ぐに浮かんだ。

 違っていて欲しい。何も知らずに俺は彼女を『パイロットとして意気地なし』と責め続けた。
 でも……。もし真実ならと僅かに願う自分がいる。
 葉月さんの胸に傷。そして英太の首元には小さいが僅かな傷跡がある。

 同じだ。俺と同じだ。

 また心臓がドクドク動く。
 空を飛ぶ時、操縦桿を動かす時。時に彼女の訳の分からない言動が引っかかる時。だから英太は『葉月さん』がいつの間にか気になっている。

 静かな船室には艦が進む音と波の音だけ。
 ヴァイオリンは聞こえない。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 翌朝。再び甲板の上で『葉月さん』に会う。

「昨日はご苦労様。演習テストはひとまず終了とします。またパターンのテスト飛行に戻ります。フレディは離艦準備を――」

 『イエス、マム』と敬礼をする。
 彼の声があまり元気がないことが英太にも分かったし、葉月さんも訝しそうに暫し彼を見ていた。
 そして彼女の目が、英太に向けられた。

「英太は再び甲板待機よ。良いわね」
「イエス、マム」

 素直に敬礼を返した。これまた葉月さんが不思議そうな顔。

 ここ最近のお決まりで、フレディだけが一機で空へ行き、英太は様々な機材がどどんと目の前を占めているミセス准将総監の隣で待機する。
 今日も同じ椅子を並べられ、葉月さんの隣に英太は座っているだけとなる。

「昨日の今日。また文句を言われると私は思っていたのだけれど」

 彼女から話しかけてきて、英太は固まった。

「大人しいわね。『昨日は飛べたのに、今日は待機だなんて。俺は飛びたい』とか言わないの?」
「……貴女が俺を飛ばさないんでしょう」
「飛びたいと言ったら、飛ばせてあげても良いけれど?」

 なんだ、そのいい加減な決め方は。と、また彼女にむかついている。
 だが、英太の目も見ずに、冷たくなってきた空をただ見上げている葉月さんの横顔を見ているうち、すうっと熱が冷めていく。

「なんとなく。冷たさに触れたくて……」

 不意に出ていた言葉がそれだった。
 案の定、葉月さんはぽかんとした顔。

「なにそれ」
「さあ。オーバーヒートですよ。昨日のあれで」
「ああ、そういうことね。まあ、今日はフライトではなく甲板で宗谷の冷気を堪能ね。涼しくて良いわ」

 その通り。艦は道東から宗谷海峡に差し掛かってきていた。

「本日も飛行計画は出しているけど、昨日は流石にこの上空で無茶をしてしまったし。この海峡は霧が多いから、今日のテストは早めに切り上げるわ」

 そう独り言を呟く葉月さんを、英太はひたすら眺めていた。
 飛ぶよりも、今日はそんな気分。この人の隣にいて、彼女の顔に言葉に眼差しを見ていたかった。
 ひとつひとつの仕草から、何かを感じ取りたかった。
 このひやりとした海峡の気候に包まれながら、彼女の冷めた横顔を見て、英太は彼女が着込んでいる紺色の訓練着を見つめる。
 噂通り。この日も彼女の襟元はぴっちりと閉められている。
 その胸に、そして肌のあちこちに。本当に傷があるのだろうか? 本当に胸の傷は元傭兵だった男に強いられたものなのか。そして彼女はどうやってここにいるのか。

 ストップウォッチを手にして、空とカメラ映像を交互に見ているミセス准将――。
 だが、彼女の口元が僅かに微笑んでいるのを英太は見つける。その僅かな笑みに気を奪われていた。
 冷たい横顔ばかりだった彼女の、一瞬の暖かみ。あの階段で見せてくれたような、親しみを覚える姉貴の顔。

「昨夜は眠れたの?」

 こちらからも不意の質問。今度は英太が戸惑うのだが。

「は、はい」

 嘘だが、そう答えた。

「寝ないと駄目よ。目の下にクマができている。それでは飛ばせたくても飛ばせない」

 はっとして英太は目元を押さえた。
 じゃあ、本当は俺を飛ばそうと思ってくれていたのか? その驚きで葉月さんを見たら、その親しみある笑みを僅かに見せてくれている。

「私みたいになって欲しくないからね。眠れない夜は辛いでしょう」

 英太は固まっていた。その顔は、昨日のミセス准将ではなかった。あの日の……。
 若き頃、コックピットでは事足りず、夜中も車を飛ばして憂さを晴らしていた人。それでも眠くならずにコックピットに向かっていた日々。いったい彼女はなにに囚われていたのだろう。
 昨夜の英太のように悪夢に追われる日々も……あったのだろうか? だから俺の眠れなかった夜を彼女は嗅ぎ取れるのだろうか?

「調律している音が一番、心地よい…かな。ヴァイオリンの、音」

 今度は彼女が固まって英太を見つめている。意外そうな顔。
 そして、彼女が微笑む。あの顔で。

「そう。考えておく……」

 それだけの会話だった。

 彼女は空を見上げ、ストップウォッチを押す。
 その横顔が見る見る間に凍っていく。
 肌寒い朝の海峡は、海面にうっすらと靄を漂わせている。

 気に食わなくて、むかつくミセス准将。
 でも、その奥底に英太を知っているかのような柔らかさを隠し持つ。

 英太は拳を握った。
 この人をもっと知りたい。
 そして、この人の思惑に適うようなパイロットになってやるのだと――。

 あの噂話で、誰かが言っていた。
 『ミセスの胸の傷は、三日月のような形』だと。それも噂ではあるのだが。
 彼女の横顔に、三日月が重なる。海上の冴え冴えとした紺色の夜空とヴァイオリンの音色。ぴったり……。

 

 

 

Update/2009.9.3
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