-- 蒼い月の秘密 --

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26.彼女の頬が染まる時

 

 艦は霧の宗谷海峡を通過し、北海道日本海南下を始める。

「日本海ね。島国だけに、何処の海域も気が抜けないわね」

 訓練機はもっと南下しなさい。
 そんな葉月さんの指示が、『対領空侵犯措置』の訓練を行っている雷神パイロット達に告げられる。

 ここ数日で、英太はすっかり気が抜けた。
 なーんだ。あれ以降、葉月さんは『まったく当たり前』に戻ってしまったなあと。
 そりゃ、あのギリッギリの冷や汗ものの演習訓練をやらされた身としては『こんなことやらせるな!』と、散々な気持ちにさせられたものだが。そんな度肝を抜かれるミセス准将のチャレンジはそれっきり。あんな身につまされ冷や汗をかかされ、なおかつカッとさせられ。振り回されるだけ振り回された英太としては、なーんにもない無難な葉月さんの側にいるのが『あんまりにも平和すぎ』て、ほんっとうに気力抜けなのだ。

 しかも。こうして英太は大人しく葉月さんの側に控えているが、あれだけ苛酷なテスト飛行を強いられていたフレディも、ここ数日は『流しテスト』しか指示されていない。
 その代わり、葉月さんは、まだ実務に100パーセント参加は出来ない『雷神』の訓練に重心を置いていた。

「フレディは、パターンA、その後、パターンBをもう一度繰り返して」
 ――ラジャー。

 共に通信機を眺めている英太は、そこで溜め息をこぼした。
 フレディも、初日の初っぱなから連続させられた緊迫感から解放され、精神的にも肉体的にも疲労から回復しつつあった。
 初日から飛ばしたが、今、テスト飛行は『小休止』と言ったところらしい。

「退屈そうね」
「甲板にいるパイロットほど、退屈なものはないッすよ。俺、次に通過する小松基地で降りてもいいっすよ」

 慣れてきたせいか、そんな生意気を叩いていた。
 だが、葉月さんはそこで面白そうにして、少しだけ笑ってくれる。

「本当に降ろすわよ」
「どうぞ、どうぞ」
「嘘。本当にそうしたら、また大喧嘩だわ」
「望むところっすよ」

 慣れた分だけ、英太の口も軽くなっていた。
 生意気三昧で飛び出した言葉に……。葉月さんが、どこか憂う微笑みを見せ、視線を遠くに馳せている顔。その顔に、何故かドキリと英太の胸が……。

「いいわよ。慣らしがてら飛んできなさい」

 今度の英太は、『え』と固まった。
 一瞬の憂い顔はなんだったのか。もう目の前の葉月さんは、どこか英太を挑発するような余裕のミセス准将の顔になっていた。
 そんな英太の反応など構わず、葉月さんは手元にある通信機のレーダーを指さした。

「わかっているわね。日本海も特に要注意だって。ADIZを考慮し、この海域だけで飛びなさい」
「パターンは……」

 慣らしは慣らしでも、まさか『遊んでこい』とは言わないだろうと、一応、聞いてみたのだが。

「テストなんてしないから、好きに飛んできなさい」

 マジですか! と、英太は飛び上がりそうになった。
 自由に放たれた喜びなんかじゃない。自由をあっさりと与えた葉月さんの気持ちが計り知れないからだ。

「だから。この海域で、だけよ。それから私からの指示には絶対に従うこと」
「了解……です」

 顔がにやけてしまった英太だが。

「怪しい顔ね。もう一度言うわよ。指示に従わなかったら、本当に小松で降ろすわよ。でなければ、一時寄港する岩国で解任するわよ」
「イエス、マム」

 真顔で敬礼をした。とりあえず、とりあえずな……と、英太は密かに微笑みを噛みしめた。

 コックピットに乗り込み、白い作業服を着込んでいるハリス中佐の手合図で英太はカタパルトの上に向かう。
 車輪に向かって、カタパルトフックが英太の視界から機体下へと消えてく……。
 見えない足下で、ハリス中佐チーム員がフックに固定している感触。
 いつもの発射前のステップを肌に感じながら、英太は目を閉じてイメージを繰り返す。

「好きに飛んでいいと言ったのは葉月さんだ。驚かせてやる」

 この前の仕返しだ。
 ハリスキャプテンの手合図が見え、英太はそのイメージを固定し日本海を見据える。

「空に来てくれないなら、そこで空にいるように、パイロットの血を思い出させてやる」

 ハリス中佐の手合図で、グンと機体が海上へと突き進む!
 カタパルトフックから車輪が離れ、機体は海上へと飛ばされる。それと同時に英太は操縦桿を握り、機体を上昇させた。
 空へ空へと上昇するホワイト。コックピット後方を振り返ると、あの人がいる艦が灰色のトランプカードのように小さく浮かんでいるのが見えた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 隣でニヤニヤしている彼女を見て、葉月はまた溜め息。

「あのね、奈々美さん。もうなにもやりませんからね」
「わかっているわよ。この前ので充分――」

 とか言いながら、『英太』がカタパルト発進にて上昇、旋回している機体を眺め『きっと何かが起こる』と期待して止まないらしい。
 だが、そうは思いながらも彼女が口うるさくなくなったのは、先日の『宗谷上空演習』にて、葉月がギリギリにテストパイロットの彼等を追いつめ、思わぬ結果を既に手に入れているから――。そうでなければ、この結果を得る為なら貪欲な鉄の工科女に、葉月が逆に追いやられていたことだろう。
 こんな時、奈々美と敵対してる隼人の気持ちがなんとなくわかってしまうのだ。あの我慢強い夫が、初っぱなから警戒して強固な態度に出る程の女性。それだけ奈々美はいつだって強気なのだ。

「流石、葉月さんよね。『本命』だったシークレットの予備機をあれだけ追いつめ、パイロットの鈴木大尉が秘めている瀬戸際の力業を引き出す……」
「私ではなく、彼の実力そのものよ」

 どことなく気分がすっきりしていない葉月は冷たく切り返した。
 『あら失礼』と、奈々美がおどける。

「まさかファーストステージで、有効なデーターを取れるとはね……」

 そこは感慨深げに奈々美が空を眺めた。
 葉月も『何かが起きるだろう、いや、起こすだろう』と思っていたが、やっぱりあの青年は『ただ者ではない』と痛感させられた。

「流石、スワロー・チルドレン……」

 ふいに口から出てきてしまった言葉に、奈々美が反応した。

「なに。ツバメの子? あの大尉のこと?」

 ああ、なんでもないのよ。と誤魔化そうとしたが、好奇心でいっぱいの目をいつまでも向けられ、突き刺され、葉月も観念した。

「そうよ。鈴木大尉の元隊長が『スワロー』と呼ばれていたパイロットだからよ」
「あの……追い出されたとかいう、折り合いが付かなくなったフライトのこと?」
「ええ。橘中佐のアクロバットテクニックは横須賀ではトップだったし、小笠原でも有名だったわよ」

 へえと、奈々美の目がさらに輝いた。
 そして彼女の目は大空へと白い機体を追いかけ始める。

「橘さんは訓練中にも『お遊び』で、部下達にもアクロバットをさせていたらしいのよ」
「あの鈴木大尉も?」

 奈々美の質問に、葉月はそっと微笑んだ。
 なんだか自分でもよくわからないが、そこを考えると葉月自身どうしてか胸騒ぎがするのだ。あの子が、あの橘が飛ぶような『スワロー』であるかと思うと、とてもワクワクすると言うか。
 だが、そこをまだ誰にも悟られたくなく、葉月はそっと微笑むに留まる。

「そうよ。だから鈴木大尉は、ただ飛ぶだけでは満足できないのよ。きっと……。それほどに橘さんが自由に飛ばせていたのね」
「なるほどね。だから、荒技が瞬時に出来るし、その度胸もあるってわけね」
「たぶんね」

 ただ黙って聞いていない女ではある奈々美。やはりそこで、葉月の腕をつつきまくってきた。

「ねえねえ。それなら貴女も『スワロー男』に負けない『遊び』をさせてみてよ」

 そら、来た……と、葉月は顔をしかめる。
 言葉少ない葉月を表情だけで推し量るのも、この頃の奈々美はお手の物。

「なによ。あの大尉を使い切れなくて捨ててしまった横須賀の隊長より上手く使ってこそ、ミセス准将でしょう」
「奈々美さんらしい手厳しさね」

 なんでもシビアに突きつけてくるので、本当に参る。

「本当に今日は慣らしよ。あの子だって身体が鈍るでしょうしね……。少しでもいいからランニング程度の操縦運動は……」

 そう、空をちょっと好きに飛んで帰らせれば、少しはストレス解消に……。
 葉月はそう思っただけのことだ。あの子だって喜んで飛んでいってくれたし、これで少しは気も晴れて、『次のステップで飛んでもらう』までは大人しくしてくれるはず……。と、葉月なりの『彼の使い方』を頭に描いていると……。『あら?』と、葉月は空母の先端を見つめた。上空から鋭い飛行音が近づいてきた。『ま、まさか』、葉月が空を見上げた時。

「きゃあ、なんなの!」

 隣の奈々美が突然の飛行音に驚き、飛び上がった。
 ギュンっと目の前を、あの白い機体が横切っていったのだ。

「また、やってくれるわね!」

 だが葉月はそこで無線を手にせず、クリストファーが座っているデーター採取システム機へ駆けよった。

「クリス、全部、非公開で取っておいて」
「勿論っすよ。そのつもりで、英太が飛ぶ前からスタンバイ済み」

 流石、クリストファーと葉月は微笑む。
 その通りに、クリストファー配下のデーター採取スタッフの青年達が慌ただしく各々のノートパソコンを叩き始める。

「また来るわ!」

 あの奈々美がデーターそっちのけで、自在に飛び始めた『サンダーZ機』を目で追っている。
 それだけ、データーで感じ取るだけでは判らない『実際の飛行絵図』を目にして釘付けになったのだろう。

 また英太の機体が空母艦を取り囲むような旋回をし、低空飛行で母艦船主を目印にするようにして向かってくる。

「かなりのスピードで突っ込んできていましたよ」

 クリストファーの報告に、葉月も頷く。

「見たわ。尾翼のあたりに、白いコーンが出来ていた……」
「マッハは出ていないし海の水上だったから、おそらくヴェイパーコーンかと」

 『ヴェイパーコーン』は、音速に近い速度で水上を低空飛行した際に機体周辺に発生する『水蒸気の円錐雲』。音速を超える時に出来る『ソニックブーム』とは別物。それをあのホワイトの機体にまとわりつかせ英太が飛んでいく――。
 葉月自身、こうして甲板指揮をするようになってから、他のパイロット達の飛行で何度も見てきた現象ではあるが……。隣にいる奈々美はもの凄い興奮だった。

「こんな目の前で見たのは初めて!」
「また来たわ」

 葉月の呟きと同時に、またぎゅんっと低空飛行のホワイトが目の前を過ぎっていった。また尾翼に白い円錐の雲が……。

 葉月はたまらずに無線のインカムを手にする。

「英太、ほどほどにしなさい!」

 返事がない。当然かと葉月はため息を吐く。好きにしろと言ったが、やはりある程度の制約をするべきだったかと。
 まだ音速を超えていないからいいが、まだ不確かな機体で『限界に挑まれる』のは困る。希に音速越えをしたホーネットが爆破してしまう事故を耳にすることがある為、ここは指揮官としては釘を刺さずにはいられなかった。

『大丈夫っすよ。見てくれたんでしょ』

 やっと帰ってきた返事がそれだった。
 安堵した葉月も、ようやく気持ちを据え答える。

「見えたわよ。ヴェイパーが出来ていたわ」
『そこにいる女史も腰を抜かしている?』

 そこはどうしてか、葉月は密かに笑いたくなり……。でも隣の奈々美と目が合いかみ殺す。だが『ええ』と答えていた。
 すると向こうからちょっとした余裕ある笑い声が聞こえてきた。

『じゃあ、女史が喜ぶものを見せてやるって言ってくださいよ』
「何をする気なの」
『葉月さんも、見ててくれよ』

 なんなの、その妙に親しげな口の利き方。
 葉月はそっと眉をひそめる。昨日までは反抗的な口をきいても『ミセス』と呼び敬語でしっかりしていたのに。なのになんで今日、空に出た途端に『葉月さん』なのよ、と。
 だが英太は、真っ白な機体を上昇させると、また空母周辺で旋回し、今度はある程度の速度で降下してきた。

「極限的なチャレンジはやめなさい」
『わかっているよ。でも今日は遊んでいいんだよな、葉月さん』

 そうだけど……と、言ってやりたいが。まだ『葉月さん』になれそうにない。そのまま黙っていたが、黙っていれば彼にとっては『黙認』となるらしく、そのまま降下し目の前の海面へと向かってくる。

「またか。相変わらず……。だけど、なにをするってんだよ」

 データーを採っているクリストファーも、音速越え手前レベル程のインパクトがない飛行を見せられても、逆に落ち着きがない。
 それは葉月も一緒。だが隣の奈々美はもう目をキラキラさせて『次はなに』とすっかり舞い上がっている。

 そんな中、海の水上ギリギリに一直線に英太の機体が飛んでいった。今度は先程とは打って変わって落ち着いたスピード、低空での直線飛行。だがそのまま真っ直ぐ飛び去っていくと、英太の機体は上昇し……

「まあ、すごい。綺麗だわ!」

 奈々美がまた大喜び。
 葉月も青空を笑顔で見上げてしまった。

「ローアングル・キューバンっすね! 久しぶりに見た!」

 クリストファーも、少年のような笑みを見せ立ち上がり空を見る。
 それだけじゃない。甲板を動き回っていたメンテナンス員も、クリストファーの横にいたデータースタッフの青年達も。誰もがちょっとした歓喜で上空へと視線を揃える。

 海上すれすれを一直線に飛んでいった英太の機体は、上昇したかと思うとくるりと弧を描きながらの背面飛び。そのまま綺麗で大きな半ループを描き始める。まるでジェットコースターのレールのような軌道。
 戦闘や防衛を目的としている機体には、アクロバット飛行隊のようなスモークを出す機能は補充しないとない。その為にループ軌道が一目瞭然となるものは残らなかったが、青い空に真っ白な飛行機の優雅なループ飛行はとても映えた。

「あれが、私達が造った飛行機……」

 奈々美の感動している顔。
 昨日までは『データ、データ。もっとデーター』と喚いていた鉄女の顔ではなかった。彼女も頬を紅潮させ目を輝かせる少女の如く。気のせいか、その目がうっすらと濡れて煌めいているようにも見えた。でも、葉月もそう思う。『夫達が造った飛行機』。それは戦闘の為、防衛の為かもしれなかった。でも、彼等は何を思って真っ白にしたのだろうか。いつもそう思う。いつしか人々はあの飛行機をまだ正式名もついていないのに『ホワイト』と呼ぶようになった。フライトパイロットの飛行服はネイビーラインに真っ白な飛行服。整備員も甲板要員も全てネイビーラインの白。そして機体も、ネイビーラインに白。
 それが訓練でもテストでもなく、あのように美しい軌道を描いて真っ青な空の中へ白く輝いて煌めいて飛んでいる姿は、とても綺麗だった。

 隼人さんに見せたい。
 葉月もそう思った。

 そう思ったミセス准将は――

「しようがないわね。少し一緒に遊んでみましょうか」

 そう言うと、奈々美とクリストファーの目が一緒に喜んだ。周りの青年も期待の顔。
 インカムのマイクを口元に引き寄せ、葉月は言う。

「とても綺麗だったわ。女史が感動している」
『そう……すっか。でしょ、きっと……女史も気に入ってくれると……』

 息苦しそうな声が聞こえてきた。
 それもそうだろう。あの美しさの裏に、超人的な状況に置かれたパイロットの苛酷なコックピットがある。そして技術……。

「さすが、スワロー・チルドレンね」
『……チルドレン? なんのことっすか』
「橘部隊の、教え子だって事よ」

 今度は返答を思わせる息づかいさえ、葉月の耳に届かない。
 それだけ『元隊長、直属の上司』だった橘との関係は、英太にとっては痛手。思い出すには、辛いものがあるのだろう。

 だが、判っていながらも葉月は続けた。

「4ポイントロール」

 その演目名に、やっと彼の息づかいが届く。

『ラジャ』

 また空母を中心起点にして、Z機が大きな円を描きながら旋回。
 ゴウと鳴り響く轟音が目の前に来た時、葉月は演目開始合図を『レッツゴー』と指示。やってきた英太の機体が葉月の声を聞き届け、水平飛行から翼を下に向け90度回転、さらに90度回転で背面飛行、さらに90度回転でまた翼が下に向き、また90度回転水平に戻る。90度ずつ4回転、回転毎に固定して飛行するので4ポイント。それを見事にこなしてくれる。葉月の口元が自然と緩んだ。――『これはかなり仕込まれている』と。同時に、やはり空母艦の男達が歓喜に湧く声。

「スローロール」

 今後は4ポイントと回転軌道は同じだが、固定操作せず、ゆっくり滑らかに機体を回転させる。それを直線飛行で行う。地味な演目だが、ゆっくり滑らかに翼が時計の針が回るよう美しく見せるにはかなりの技術を要する。
 だからこその期待を寄せての指示。しかし、目の前にやってきた白い機体は、また真っ青な空に美しい白色の機体をゆっくりと回転させ過ぎていった。

「やるっすね。遊びには見えないな」

 クリストファーも釘付けになりながらも、データーはしっかり採ってくれている。
 青年達と奈々美に至っては、すっかりショーの観客と化してしまっていた。でも葉月はそんな彼女と彼等の顔をみて、どこか嬉しく思う。

「なかなかやるわね」
『スワローでは朝飯前っすよ』

 朝飯前だなんて、生意気なことを言うわね――と、葉月は元パイロットとしてちょっとした悔しさを覚える。やはり嫉妬と言うべきなのだろうか。もう……飛べないパイロットの、終わった夢を見せられているような気持ちにだってなる。
 それでもこの目で見て益々思った。あの橘も手元に置いて育ててみたいと思っていたのだと。だから扱いにくくても、手元に置いていた。そして短い間だっただろうが、彼がこれだけ仕込んでいる……。それを葉月はもっと見てみたいと、次なる指示を送る。

「バーティカル・クライム・ロール」

 今度の演目は、垂直上昇をしながら、機体を垂直で回転させていく。空に向かってコイルを描くような演技――。
 無線音がザザッとさざめくように聞こえる中の指示後、英太の反応がない。

『ラジャッ』

 やっと聞こえた短い返答に、多少の迷いがあったのを葉月は嗅ぎ取った。
 まだホワイトに対しての絶対的信頼がないのだろう。それとも『演技回数が少ない技』だったのか。あるいは、慣れない基地外上空、そして海の他にはなにもないこの上空で、何を目印にして飛ぶか考えていたのか。同じパイロットとしてそんなことを考える。――『私なら、空母を目印にして飛ぶ』。その考えを反映するかのように、英太の機体は目前から、空母を目印に出来るような海上へと遠ざかっていく。位置取りを決めたのか。そこから機首を上にして上昇、青い空へ向かってクルクルとコイル回転させていく。

「機首を上にして、四回転。すげーなーっ」

 ついにクリストファーも、仕事を忘れ空を見上げるばかりに。『スモーク機で見たかった』と悔しがっていた。

「さっすが元スワロー部隊。正式部隊名ではないけど、橘隊長のフライトは燕の如く。技術も、すっごい定評があって見られたヤツはラッキーって言われているんすよね。俺、葉月さんと一緒の出張で、橘隊長のアクロバットを見られた時はすっげー嬉しかったもんな!」

 まだ英太が入隊していないだいぶ昔の話。そして橘もまだ若く、脂がのっていた時期。あの頃は葉月もまだ大佐嬢。視察業務で付き添ってきたクリストファーは、その時、橘のフライトを目にして喜んでいた。今日はあの日と同じ顔をしている。

『……どうっすか』

 無線の雑音からそんな青年の声が聞こえてきた。
 今度の葉月は素直に笑みを浮かべ、伝えていた。

「お見事。甲板の誰もが魅入っているわ。スモークがなくて残念よ」
『いつか、いつか……ホワイトで、俺達で……』

 俺達の『雷神』でこんなことを皆でやってみたい。
 いつも自分勝手な青年から、そんな言葉が聞こえてきて葉月は驚かされる。この青年の心の奥底にある『本音』を見たような気がした瞬間。だが、そっと目を閉じ。葉月はそんな青年の気持ちを思いやった。

「そうね。私も白い機体のライディング、見てみたいわ。そう小笠原の空で」
『絶対っすよ……』
「ええ。いつか必ず」

 まだ不安定な機体だけれど。まだ正式に空を飛べない飛行機だけれど。
 でも、葉月は今日、あの青年が見せてくれたアクロバットを見て思った。彼はこの飛行機を愛し始めているし、そしてまだ馴染んでもいないだろうにフライトに愛着を持とうとしてくれていると……。

『そして、葉月さんも……』

 聞こえてきた声に、葉月は目を開ける。

「私がなに?」
『これだけ俺にやらせようと要求したと言うことは、葉月さんもやっていたんだろ』
「まあね……。そうだったわね……」

 だいぶ昔のこと。まだ葉月もこの青年ぐらいの、勢いがあって後先考えることなど皆無で、だからこそ出来た数々の『思い切り』。デイブ達、ビーストームの『いたずら飛行』で同じようなワザに挑戦した。あの細川がそこは目をつむって、遊ばせてくれたあの頃。
 でももう、自分は飛べない。軽飛行機でフライトは出来ても、今日の英太のようなアクロバットはもう……。葉月はそっと胸に手を置いた。
 だが英太は、今日の葉月が柔和な応対をしてくれることで、気を緩めたのか、さらに。

『俺も葉月さんの、見てみたいよ。コリンズ大佐とやった、あのタッククロスとか』

 『だから、無理だと何度も言わせるな』と、葉月は口を開きかけ、でもやめた。
 心の何処かで『これ以上、私の胸の奥に眠らせたものに触らないで』と妙な感情を揺さぶられている。

『きっと葉月さんのことだ。俺以上に、そこにいる男達を驚かせてくれる。俺はそれを見てみたい。出来るんだろ、魅せてくれよ。そこにあるビーストームのホーネットで』
「無理よ。私はもうきっぱりコックピットとは別れたの」
『葉月さんの飛行を一目見れば、それは今のパイロット達の力になるはずなんだ。だって、あんたは今、その艦で一番偉い人だろ。ここにはあんたより上の連隊長も師団長もいないじゃないか』

 また始まった。どうして彼はそこに拘り続けるのか。もう納得してくれたのではないのか? 隼人からも『未練はあるようだが、どうしても叶わぬ願いと割り切ろうとしている』と聞かされている。
 なのにまた? しかし葉月は頑としてはねつけねばならない。どうしても、どうしても、出来ないからだ!

「英太。もう一度言うわよ。私はもう、乗らないの」

 正確には『乗れない』だった。
 だがそれを口にすると若い彼から『何故、乗れなくなったのか』と、納得できるまでの追及をされるのは目に見えていたから避けてしまう。
 しかし『乗れない訳がある』と言えない以上、『乗らない』という自主的な理由は、今の彼にとってはもっと納得が出来ないだろう言葉。だから英太はなかなか退かない。

『葉月さんが仕切っているこの航行、たった数十分ぐらい……ミセス准将の力で』
「その私がブランクというリスクを背負って空へ行き、万が一事故でも起こしたら? 以前に艦長が自ら空へ行く事はこの艦を放棄したことになる。つまりこの艦への責任も貴方達クルーへの安全も保証も放棄したことになるのよ」

 そこまで言うと、ようやっと英太が黙った。
 もっと……今までのようにガンガンとやられるかと思ったが。

『わかりました。もういいです』

 きっぱり言い切ると、それっきり口を閉ざしたようで、逆に葉月は変に思う程。今までと違う引き際、もうなんの言葉も返ってこなかった。

「好きに慣らし飛行で近辺を回ってきなさい。時間になったら着艦を指示するからそれまで」
『サンキュー、マム』

 さらに素直な返答。
 そして葉月の目の前で、威風堂々と燕のように飛び回ってた青年が静かに空母から離れていってしまった……。

「なんすかね。あのこだわり。俺もずうっと気になってるんですよねー。一度や二度じゃないみたいでしょ、あの願望」

 普段はなにもかもを目にしたり聞いたりしても、あまり口を挟んでこないクリストファーでさえも、『あれはしつこい』と怪訝そうだった。
 そしてクリスもそっと囁いた。

「まあ、本当の『乗れない理由』を知ったら納得するでしょうけどね。同じパイロットならその痛みがわかるはずですもんね。でも……言えないっすよね〜」

 葉月も静かに頷く――。
 まだ自分の手元に来たばかりの、新入の青年。そんな若い青年に自分の過去を、胸の傷のことを直ぐに語るなど出来やしない。
 過去を知られてしまうことや、過去を話すことに抵抗があるのも勿論だが、誰が聞いても……きっと戸惑う話。特に若い彼等には……。

 しかし、葉月の心の中で『あそこまで拘るなら、告げた方がいいのか……』という迷いが初めて生じていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 着艦の指示があり、空母周辺をドライブするように飛んできた英太は帰還する。

 キャノピーを開け甲板に降りると、メンテナンスの男達からの『ヒュウッ』という口笛がいくつも飛んできた。『楽しませてもらった』とか『良かったぜ〜』という賞賛が、次々と英太に向けられ驚かされる。
 ――遊びでやったのに。横須賀では橘によくやらせてもらっていただけのことなのに。
 でも甲板の男達は笑顔で迎えてくれていた。なんだか気恥ずかしく、英太はどう応えて良いか分からないまま、その熱気の中ミセス准将の元へ急いだ。

 いつもの指揮台、通信機の前でその人は待っていてくれた。
 一足先に帰還したフレディも、既にミセスと向き合って英太の到着を待ってくれている。

 待機しているフレディの横に並び、英太はミセスに敬礼をする。

「只今もどりました」
「ご苦労様」

 これも毎回冷めている彼女の声。
 だがこの日の彼女は、何故か頬が赤く見える。英太はそれに目が釘付けになってしまった。

「どちらも的確な飛行、お見事でした。本日はこれまで。艦内で休んで結構です」

 これまた毎度の淡泊な評価。冷めた顔。なのに頬が赤い。まるで何かに興奮していたかのような……。『まさか』と一瞬、英太は自身に期待してしまう。
  甲板の男達からの歓迎。英太はコックピットにいたからわからないが、この様子だと、自分の演技でどれだけ湧いてくれていたことかと密かに思った。特に最後の上昇縦回転をするロール飛行は、それほどにやったことがない技で自信はなかったが、『葉月さんに見てもらう』という必死の思いで集中してチャレンジした。彼女の返答は清々しい声での『お見事』。正直嬉しかった。

 その彼女が、いつもは真っ白い冷たい顔なのに、今日は頬を染めている。

「俺の、バーティカル・クライム・ロール。そんなに良かったですか」

 唐突な投げかけに、ミセス准将が驚いた顔になった。

「頬、赤いですよ。いつも真っ白い冷たそうな頬なのに。どうしてですか」

 それは部下が上司に言う言葉ではなかった。それなのにミセスも部下の言葉にはっと我に返ったように反応、すぐさま自分の頬に触れ確かめている。その仕草に顔が、女性だった。その慌て方がミセスではなく、『葉月さん』だった。
 そんな葉月さんを見た英太は『何故、頬が赤くなったか身に覚えがあるんだ』と確信。そこで空で諦めたこと、再び葉月さんに突き出した。

「本当は、葉月さんもまだ飛んでみたいんですよね。わかりますよ。俺だっていますぐ飛べなくなったら、もの凄い未練が残る。本当はそうなんでしょう、葉月さん」

 また、ミセスではなく『葉月さん』に対しての『突撃』に、今度こそ、彼女の顔が強ばった。

「だから、なんだというの。どのような形で降りたにせよ、パイロットの誰もがコックピットやフライトを懐かしがるのは当たり前だと思うわ」

 それらしい返答だった。
 だが英太は、ストレートに突っ込んだ。

「本当に、子供さんの母親に徹する為だけにコックピットを降りたんですか」

 その問いに、ミセスより先に、周辺にいる補佐達が表情を固めたのを英太は見抜いた。
 彼等の顔が『その問いはタブー』だと答えてくれたように思えた。

「本当は、本当は……」

 その先を、言えば。答えてくれたら、俺はきっともう、貴女のフライトにはこだわらなくなるだろう?
 そう感じていた。何故なら『もし、彼女が』、『俺と同じなら』。彼女のフライトに惹かれた訳を見出すことが出来るから――もう彼女に『飛んで欲しい』、そこから俺が欲しい答を探したいから――だなんて、二度と言わないだろう。そうだ。本当の理由を『貴女の本心』を俺に教えて欲しい!

「本当は、戦闘機パイロットとしてはコックピットに戻れなくなった身体的な欠損があったから――」
「エイタ、やめろっ」

 先輩達の噂話。それを真に受けて、だから相棒の英太がここで真っ正面から張本人のミセス准将に問いただしている。フレディは顔面蒼白で、英太の腕を握りしめ止めようとしていた。
 噂話の彼等が言っていたように、軍の上層部でさえ『タブー』としている『その傷の真相』を、いち隊員に過ぎぬ若僧パイロットが彼女に正面切って突きつける。そして益々、彼女の周りを取り囲む男達の顔が引きつっていた。

 

 

 

Update/2009.10.12
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