-- 蒼い月の秘密 --

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28.柔肌の悪夢

 目を見開き、英太の呼吸が止まる。

 指先に触れた皮膚は、湾曲を描いてふっくらと盛り上がっていた。
 彼女の白くて柔らかな胸元に。本当に、本当に、噂通りに……『三日月のような傷跡』が!

「あった、ほ、ほんとうに……あった」

 震える声で、その傷に触れる自分には、その傷の持ち主である女性のことなど頭の中から吹っ飛んでいた。
 彼女が女で、男の自分が力尽くで彼女を組み伏したことも。それによって彼女がどんなに困った顔をしているかも。そして絶対的権力を手にしている『艦長将軍』に、自分がとんでもないことをしてしまったことも。ただ、今見えているのは『胸の傷』。

 真っ白ではなかった。うっすらと紅色の。だいぶ白い皮膚と同化したようだが、その傷は明らかに刺された時の悲惨さを物語っていた。
 こうして目の前で確かめると『三日月型』であるのが、余計に痛々しく見えた。それを英太は何度もなぞる。刃物で刺された傷の尻尾はえぐるように曲がっていた。だから『三日月』に見えるんだと。

 やっと葉月さんになにをしてしまったのか我に返った英太は、彼女の顔を見た。

「だから、だから。飛べな……」

 だがその途中、英太の視界に再び新たなる衝撃が。
 胸元から外れた視線の先に飛び込んできたのは、ちらりと見え隠れしている左肩。
 英太が引き裂いてしまった黒いキャミソール、レエスで縁取られた肩ひもがくたりと力無く流れているその下にも、妙に馴染まない『流線』が混在していた。『これは……!』、引いた息。その驚きに後押しをされるよう、英太は躊躇いもなく、葉月さんが着ている服をさらに開いてしまった。

 それも『傷』だった。
 胸元の、赤さをほんのりと残している三日月とは違う……。もっと肌に食い込むように、もっと長いもの。それを見て、英太は彼女の身体の上で息を震わせた。それを見ただけで、身体も震えた。それは『噂の銃創なんかではない』、そして三日月の傷よりももっと痛々しいものだとすぐに判ったからだ!

 震えるまま、英太は葉月さんをやっと見た。
 自分がしたことで、彼女がどう困っているとか傷ついたとか、そんなことは二の次になるほど。彼女に『どうしてこんな傷だらけなんだ』と、彼女を真っ直ぐにみつめ、答を切実に求めた。

「気が済んだの――」

 そして彼女は、いつもの『氷の顔』をしていた。
 甲板にいる時となんら変わらない。男に襲われ怯えている女性でもなく、傷ついて絶望している女性でもなく。そして部下にふいをつかれ、屈服させられた上官としての怒りも悔しさも見せていない。まさに彼女のあだ名通り『氷のミセス准将』、『甲板のロボット指揮官』そのままだった。

「それが見たかったの?」

 組み伏しているのは英太なのに、彼女は馬乗りにされ身動き出来ない下からでも、英太を気高く見つめ返している。

「噂で……」

 やっと出た言葉に、葉月さんが判っていたかのように冷笑を見せた。

「いろいろな噂がありすぎて、判らなくなってしまったわけ? どの噂が本当か確かめに来たって事なの」
「あ、ああ、そうだよ……」

 彼女の身体の上で、英太はがっくりと項垂れた。
 そして葉月さんに、こうなった経緯をまるで言い分けるかのように、『先輩から聞いた噂』を告げる。
 ――『上着のボタンを首までぴっちりと締めている訳』から始まり、『コリンズ大佐に啖呵を切った時にやってみせた入れ墨』の話も。
 だがそこで、英太の足と足の間で寝そべっている彼女が『はあ?』と顔をしかめたかと思うと、急におかしそうに笑い出した。

「入れ墨、なにそれっ」
「だから、これが……このこれが、野郎達は入れ墨だと思って……」
「馬鹿馬鹿しい噂もあるもんね。笑えるわね」

 と言いながら。もう彼女の顔は笑っていず、ぷいっと顔を逸らされた。
 そしてその目が、もう陰っていた。それを見た英太は、もう一方の『そうだったら俺を理解してくれ、でもそうだったら俺は間違いを犯していた』ことを意味する噂を……ついに、本人を目の前に口にしようとしていた。

「じゃあ、もう一つの。横須賀で刺されたって噂が……本当……なんだ……」

 言った途端、彼女の頬が強ばったのを英太は見た。

「フロリダの雇い傭兵と何があったか判らないけど、そいつに狙われたって……。中将の娘だったから? たったそれだけで、狙われ……」

 寝たまま横を向いている葉月さんの表情が、甲板にいる時以上に強ばっていた。
 氷の、ロボットの、冷たい女准将。だけれど、英太はその顔に『熱』を感じていた。そこに『憤り』を秘めていると、何故か直感で感じた。

 ――俺と一緒だった!
 胸の三日月を、英太はもう一度凝視した。
 まだ赤みを残している傷が、自分の首元にある傷と一致するかのような痛みを覚えた。
 そこは完治したと言われながらも、一度切られたという事実を忘れさせないかのように、ずっと筋張りしこりとなり違和感をもたらしてきた。疲れたりすると、たまに赤くなり、時には歯がゆいような疼きを持ち、掻きむしりたい衝動に駆られることもある。その度に『事件に遭遇してしまった境遇』を呪い、その発端となった父を恨んできた。
 そんな傷が、女性の象徴とも言える胸元に!
 赤い三日月が浮かぶ肌が真っ白で、見るからに柔らかそうで、それに仄かにあの女らしい香りを漂わせているそこに。まるで巣くっているように意地悪く存在している。それは自分が持つ傷以上に、見た者誰もが『これは痛そうだ』と目を背けたくなるよう存在していた。しかも『三日月』と言われる由来になっただろう、下方に湾曲しているそれが、『犯人である傭兵男の執念』を思わせた。

 刺して、えぐった。
 この人はその時、俺以上に真っ赤な血に染まったに違いない。真っ赤な涙だって流したはず!
 本当に、ほんとうに、この人は――。

「ほんとうなんですか」
「刺されたのは本当。パイロットとして致命傷になったのも本当」
「それが飛ばなくなった理由……」
「違う。私が何度も言った『子供の為』が本当の理由」
「どうして! こんな胸のど真ん中、一度傷つけられたら、血管をやられていたら……どうしたって適正で跳ねられる。だからだろ! もう隠すことないじゃないか!」

 そして英太は再び叫んだ。

「あんな『命知らず』の飛行を繰り返してきた葉月さんが、どうしてあっさりとコックピットを捨てられたのか! 俺はその本当の理由が知りたいんだ! こんな胸を傷つけられて『無理矢理』コックピットから降りることになって、どうしようもない気持ちの行く先を『母親』とか『子供達の為』ってこじつけて納得したのかよ! だから、だから、何度も何度も俺が問うても『子供の為』と言うのかよ! それってまだ気持ちが晴れていない……」

 また、何度も繰り返してきたことを英太は叫んでいた。
 英太だって何度も言うのは疲れてきていた。だが言って欲しいのだ。『どうしてコックピットを捨てても、そんなに幸せなのか』。
 そして英太はその胸の傷を見て、久しぶりにあの男性を思い出す。『どうしてあのおじさんに愛されるようになったのか。どうしてあのおじさんは愛してくれたのか』。そして――『どうしてそんな哀しいことが身体に刻まれるほど起きたのに、二人は愛し合えたのか』!
 誰もがそうであるように、この二人も漏れなく『ありきたりに出会って愛し合って、普通に惚れた腫れたで結婚した』のかと思っていた。だから『それだけで、あの才能を捨てたパイロットが許せなかった』、しかも『女』という英太にはさっぱりわからない理由で、英太だって驚愕した才能を捨てたから。
 ――でも、違った!
 この人は、俺以上に身体を傷つけられ、そして自分でも傷つけ、そして血を流し、あのおじさんに抱きしめてもらって、やっと、やっと……。

 そう思ったら、涙が滲んでいた。
 自分のことではないのに――。

知らぬ間に、英太の涙が一粒だけ……。三日月の上に落ちていたようだ。だからか。彼女の声がいつもと違う、いや、あの姉さんのような声が聞こえてきた。

「どんなに言っても、貴方はきっと納得出来ないと思う」

 その通りの繰り返しだった、今日まで。

「だから。それは貴方が私の中から探してくれた方が、よく分かると思う」

 だからその貴女の中の何かがはっきり見えないから、こうして。
 でも、だからとて。こんな強行に及んでも、その胸の真実を目の当たりにしても、余計に混乱させられただけだった。

 もう一度、英太は葉月さんの身体を見つめた。
 昔は鍛えていたのだろうが、今はその痕跡もないのか、本当に華奢に見える白い身体だった。綺麗な肌は年齢の割に艶があって柔らかかったし、露わになった途端にぱあっといい香りが広がった。『胸の傷を確かめる』という絶対的な名目の片隅で、その芳醇で熱気を含んだ肌の匂いが微かに英太の胸を締め付けたのも事実。その上、力一杯に引き裂いた肌着の切れ目から、ほんの少しだけ見え隠れした乳房の白い丸み……。そんな艶っぽい姿を目にしたら、どんなに歳が離れている若い俺だって、かなりそそられるよ――。そう思ったが、胸の谷間にある薄赤い三日月が、そんな男の欲情を霧散し、もの悲しさで覆ってしまう。

 自分が力任せに引き裂いてしまったキャミソールにタンクトップ。露わになった胸元を、彼女の柔肌に沿うよう英太は静かに閉じた。自分がやってしまった痕跡を『今や遅し』という、どうしようもない気持ちを噛みながら。その時はもう、胸の傷も、そしてこれ以上聞けそうもない『もっと悲惨そうな過去を秘めていた肩の傷』も、直視出来ずに顔を背けてしまっていた。
 そして英太は、震えながら彼女に告げた。

「どんな処分も受けます」

 当然のことだと英太だってわかっている。
 これで雷神のパイロットを降ろされても。衝動を抑えられなかった『ガキ』のまんまの俺が悪い。
 それ以上に。その胸の傷と、左肩のもっとさらなる過去を秘めて生き抜いていただろう女性に、もっと真っ向から向かえずに、後先考えない『力尽く』を選択した自分の愚かさに、なにもかも――英太は自分を責めずには居られなくなったのだ。
 もっと思慮深く、この人と話し合えていたら。そうしたら、こんな彼女の過去をえぐるような、力尽くは思いつかなかったはずなのだ。そして英太は、『自分こそ、絶対にやって欲しくなかったことを、彼女に強いた』この行為が、三日月の傷を作り出した『傭兵の男』がやった悪行と同等の行為だと気が付いたから……。

「その前に。私にも教えて。何故、ここまで私のフライトとコックピットを降りたこと、そして『噂』を気にしたのか教えて」

 その問いに、英太も答える気はあった。何故なら、この人と同じ過去を持っていたから。
 だがいざとなると、口が動かない……。そして彼女の怒ってもいない、透き通っている茶色い瞳の真っ直ぐな眼差しが、それだけで英太を責めているようで、上手く言葉が出なくなってしまった。
 それでも葉月さんは何もかも判っているかのように、静かに繰り返した。

「ここまでしたのはそれ程の訳があると、そう信じたいの」

 『俺は』と口を動かしたのに、声になっていないことに気が付き、自分で驚いた。その様子を葉月さんも察知したのか、彼女自身も少しばかり困惑したように眉をひそめている。
 そこで何かを確信したように、葉月さんも思いきった一言を英太に投げかけてきた。

「きっと同じだったと思う。私も、貴方のフライトで同じ事を感じたわ」

 英太の胸がどくりと動く。
 いつも葉月さんと話した時に、よく湧き起こる『鼓動』。英太自身、どうしていちいち葉月さんの言動に心を掴まれた感覚になったのか。それを彼女が先に言った。

「英太、貴方のフライトは私と一緒。死にたいと願ってでも死ねない。……貴方も? まさか……」

 首元にある傷がズキンと動いた気がした。
 今だ、言え。同じ者なんだ、言ってしまえ。

「実は俺も」

 そっと口を開く。葉月さんが寝そべったまま、英太の口元をじっと……その濡れたような目で、じいっと。
 変な気持ちにさせられた。いったいこの人が誰でどんな人なのか、忘れそうになった程。その眼差しに吸い込まれそうな、このひととき。英太の胸に、妙な疼きが生まれた瞬間?

 

「――准将!? そこにいるのですか!」

 

 二人の背後から、そんな声が響き渡り、共にはっと顔を見合わせた。

「まずいわ!」

 さっと動いたのは葉月さんだった。だが起きあがろうとした彼女の動きを、どっかりと座り込んでいる英太が遮っている。
 だが英太も『やばい』という危機感は襲ってきたが、既に遅し? 背後に並々ならぬ気配を感じ取った。

  薄暗い通路、英太が待ち伏せしこの女性を引きずり込んだ光射す出口に、数人の男達が駆けつけてきた影。その影から『ミセスがいたぞ』、『誰かに襲われている』、『中佐、こちらにいましたよ』というざわめきの声が聞こえてきた。

「英太、早くどきなさい」

 彼女の両手が、やっと本気で動く。力一杯、その両手で英太を押しのけようとし、そして英太もはっとして、やっと葉月さんの身体から退こうとしたのだが。やがて、ざわめく影の中から一人の男性が、ざっと薄暗い通路の中へと駆け込んできた。
 その男の足音はあっという間に、英太の背後に。

「准将? これは、どうして……」

 振り返った英太の肩越しに、呆然としている栗毛の男が突っ立っていた。そして彼は、彼が信奉している女性の身体の上に、長身で体格良い男が馬乗りになっているのを見下ろし、見る見る間に恐ろしい形相に変化していった。

「テッド、これは……」

 まだ立ち上がれない葉月さんが、乗り上げたままの英太を庇うように押しのけた。だが彼の形相はさらに悪化し、震える拳を握りしめていた。それに英太は気が付いたが、間に合わなかった。

「やってくれたな! 鈴木!」

 栗毛の中佐に、英太は腕を掴み上げられていた。浮いた身体はなんの抵抗をする気もない英太をそのまま、通路の向こうへと弾き飛ばす。それはまるで、自分が葉月さんに不意打ちをしたように……! 床にどさりとなぎ倒されていた。しかもこれまた葉月さんにやってしまった仕返しのように、あれよあれよと言う間に、ラングラー中佐が英太の身体の上に馬乗りに。

「待って、テッド――」

 恐ろしい形相の、栗毛の中佐が拳を振り上げる向こうで、そんな葉月さんの声だけが聞こえた。
 それを耳にして、英太は目をつぶった。既に彼の拳が、葉月さんの言葉が聞こえなかったように振り下ろされたから――。
 ――『テッド!』 さらなる葉月さんの声と同時に、英太の頬は激しく床にたたきつけられ、叩かれていた。痛みはない。今はない。

 だが、やはり徐々に頬が燃え始めた。その痛みと熱と衝撃が一気に頬に襲ってきた時に英太が見たのは、さらに振り上げられた拳を全身で止めている葉月さんの姿。

「テッド、待って。この子は、私の……」
「なにがですか! 貴女にこんな力尽くの攻撃を――!?」

 だがラングラー中佐の怒りはそれに勝ったらしく、彼女の制止を振り払い、再度、英太の顔面に向かってきた。
 同じ頬に二度目の衝撃。

「やめなさい! 貴方らしくない!」

 それもミセス准将の声ではなかった。葉月さんという、感情ある女の人の声。
 だが英太は再度の痛みに歯を食いしばっていた。二度目の痛みはかなり効いた……。痛みで目が霞んで、もう、彼女が見えない。
 だが、身体の上にいるラングラー中佐は、まだ『取り乱していた』。

「こんなことまで、されたのですか!」
「違う、これは」

 今度、ラングラー中佐の怒りの矛先は、葉月さんの白い胸元に。
 引き裂かれたミセス准将の乱れちぎれた胸元をラングラー中佐は掴みあげ、取り乱すままに彼女の身体を激しく揺すっていた。

「これのどこが、『違う』のですか!」
「ちょっと、しっかりして! この子は私の胸の傷を――」
「これは貴女に一番してはいけないことでしょう!?」
「でも――」

 まるで恋人同士のように、上司と部下であるはずの二人が開かれた胸元を挟んでもつれ合い言い合っている。
 だが、そこで葉月さんが彼を落ち着かせる為なのか、不可思議なことを叫んだ。

「でも――。テッドだって本当は、私と英太が『こんなに引き合う訳』を判っていたはずよ!」

 ここでも葉月さんの声は、いつものミセスではなかった。
 そして向かうラングラー中佐も栗毛を振り乱したまま、何故かその一言で静止した。

「ど、どうされたのですか」

 そこにハワード中尉がやっと間に入ってきた。
 徐々に頬の痛みが収まり、状況を見渡せるようになった英太は、床から寝返って辺りを見渡した。
 殴られて倒れている英太には周りの状況は全て見えなかったが、最初に自分達を見つけた声はこの中尉だったように思えた。なのに今、やっと上官と先輩秘書官の間に入ってきたのは、それだけ呆然としていたのか。ミセス准将が襲われていることよりも、いつも自分を指示するクールで『鬼の目、鬼の男』と呼ばれている先輩が拳を振るうほどに取り乱していたからか。その通りなのか、通路の出口入り口では、他の事務官達も近寄り難そうにして、ひそひそと囁き合っている。
 だかその遠巻きにしている事務官達の中に、慌てた様子で割って入ってくる金髪の男も姿を現した。

「アドルフ! いたのか!? 葉月さんは――?」

 こちらもいつも彼女と一緒のダグラス少佐。駆けつけてきた彼も、一目状況を確かめ青ざめた顔。しかもいつも二人で結束している様子を見せていた『付き添い人同僚』だろう、ラングラー中佐が取り乱しているのを見てさらに驚きを見せていた。なのに彼はどうしてか、葉月さんを見ても、そこは当たり前のような顔。ハワード中尉やラングラー中佐とはまた違った反応を見せた。

 だがこの大人の中で、一番の落ち着きを見せたのは、この『ダグラス少佐』だった。

「アドルフ。外の事務官を元の部屋に帰すんだ」

 先輩の落ち着いた言葉に、ともあれ後輩のハワード中尉がウンウンと言葉なく頷いた。
 さらに落ち着いている彼は、後輩の中尉に小声で囁いた。

「冷たい女上官の無謀な指令に疑問を持った、問題児パイロットの反抗。『大人げない喧嘩』だと言え」

 金髪少佐の言葉に、またハワード中尉がはっとした顔に。だが、彼は今度は強く頷くとすぐさま走り去っていった。

『准将と鈴木の、いつものアレだ』

 通路の向こう側でそんな中尉の声が響き渡った。
 ――『アレってなんだよ』と、ふと英太も眉をひそめてしまった。なのに『アレ』が余程の説得力があったのか、秘書室の事務官達が『またか』『なんだ』とため息をこぼし合う様子が見て取れた。その上、本当に彼等が散っていく……。

「葉月さんもテッドもそれでいいよな」

 ダグラス少佐が咄嗟に決めたことに、俯いているミセスと中佐が静かに頷いた。
 誰が一番偉いのかわからない状態に、頬を押さえ寝そべっている英太はただ眺めているだけ。俺が一番の原因だろうに、なんだか既に囲いの外に追い出されているような気持ちになった。

 通路の向こうで『ラングラー中佐があんなに取り乱したのは、変じゃないか』という囁きも。
 そして誰かが言った。『若い男がつきまとって、愛人として頭に血が上ったんだろ』。ちょっとびっくり、『他の噂』もあるようだった。

 

 

 

Update/2009.10.27
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