-- 蒼い月の秘密 --

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29.花のお守り

 

 じんじんと脈打つように燃える頬。こんな痛さを味わったのはいつぐらいか。
 高校生の時、よく喧嘩した。いや、中学の頃からか?

「これで冷やせばいい」

 簡単に氷を入れたタオルを差し出してくれたのは、殴った本人であるラングラー中佐だった。
 だが英太も素直に受け取り、黙って頬を冷やす。

 今、英太は艦長室に『引っ立てられた悪ガキパイロット』として、この部屋にある小さなソファーに座らされていた。

 件の騒ぎの後、ラングラー中佐ではなくダグラス少佐に引っ立てられるようにして艦長室に連れられてきた。
 現場になった細い通路から、艦長室前の太い通路に出ると、まだ秘書事務官の男達が好奇の目でこちらを眺めていて完全に退出はしていなかった。だからなのだろうか
 ――『この悪ガキめ! なんでもかんでもミセスに反抗しやがって。今度という今度は“悪ガキの反抗”と許すわけはいかない。現行犯逮捕だ。直ぐさま審議にかける!』
 いつもは穏やかにのほほんとした様子で葉月さんの側にいるだけの少佐が、いつにない強面になり声を張り上げていた。英太は首根っこを掴まれ、言われるまま引きずられ従った。もう抵抗する気なんて一切ない。ダグラス少佐が言うように、すぐに審議をうけ、どのような処分も受けねばならないと覚悟をしているから……。

 だが、艦長室に連れ込まれると、ダグラス少佐はちょっと呆れた顔をしただけで、いつもの穏和な顔に戻っていた。
 『ここに座って』と、落ち着いた口調が意外で、英太は言われるままに今座っているソファーに促されたのだ。

 やがて、ラングラー中佐がミセスに寄り添うように付き添い、二人揃って艦長室に。戻った葉月さんは直ぐに『着替えてくる』と、この艦長室の壁にある一つのドアに入っていってしまった。どうやらそこが、彼女が寝泊まりしている『艦長寝室』らしかった。
 葉月さんの姿が見えなくなると、ラングラー中佐が室内にいるダグラス少佐、佐々木女史、そしてハワード中尉に言った。
 ――『葉月さんと彼だけにしてやってくれ』と。
 そう決めた中佐の心中を英太は推し量ってみた。あっさりと『二人きりにしてくれ』と、それを他の同僚や後輩の男に頼む。そこにはもう英太に対して何かを受け入れてしまったかのような静かさが漂っているのを感じた。
 そして、この部屋に居合わせた佐々木女史にダグラス少佐、そしてハワード中尉も、なんの一言も言わずに出て行ったことも英太には気になった。
 それが、この部屋にいる誰もが『葉月さんと俺が二人きりになっても充分に納得出来る理由を知っている』ことをありありと匂わせてくれたからだ。

 そうして、ついに艦長室にラングラー中佐と二人きりになってしまった。当然、英太は硬直した。
 この人。本当に『噂』にあったように、ミセス准将の恋人みたいな真剣さだったと。まるで恋人を襲われたみたいに怒り狂って……。そんな男と二人きりにされ、英太は構える。また殴りかかられることはないだろうが、ズケズケとした説教をされるのか、嫌味のひとつふたつでも言われるのか。だが、ラングラー中佐が無言でやってくれたのは『氷タオル』だった。
 英太が黙って受け取り、火照る頬に当てたのを見届けると、ラングラー中佐は艦長席の後ろにある丸窓へと行ってしまった。一人静かに佇み、そこから見える夕焼けが消えそうな紫色の水平線をじっと見ているだけ。そんな中佐のことで、気になったことが一つ思い浮かび、英太は密かに確かめる。息を潜め、目で探ったのは彼の『左薬指』。
 ――『ない』。英太が慕っている吉田大尉の夫であるはずのラングラー中佐。まだまだ新婚のはずなのに、小夜さんが冗談交じりに教えてくれたとおり、彼の薬指には本当に『結婚指輪』がなかった。
 そんな様子を見ると、本当にこの人は葉月さんが好きなんじゃないかと穿つ英太。しかし妻になる身重のフィアンセが倒れ、血相を変え職務を放り投げ駆けつけてきたラングラー中佐の姿も英太は忘れていない。どのような心境で、『指輪をつけ』、または『指輪を外す』のか見当などつけられなかった。どちらも愛している? そんなふうにだって取れてしまう彼の生き方が英太には理解出来なかった。

「おまたせ」

 寝室から葉月さんが出てきた。
 今度は白いタンクトップ一枚で出てきて、英太は思わずドッキリとしてしまう。

「あら。皆、出て行ってしまったの」

 男二人だけしかいない艦長室を見渡した葉月さんが『しかたないわね』と呟いて、疲れたように笑った。

「気を遣わせてしまったわ」

 葉月さんはそのまま艦長席に向かい、そこの立派な椅子に腰をかけた。
 その椅子の背には、ラングラー中佐が無言で佇んでいる。そして彼は葉月さんに返事をしなかった。

「テッド。まだ怒っているの」

 なにも反応がない側近が、あの騒ぎで取り乱し拗ねていると思っているのか、葉月さんの案じている声掛けは優しかった。
 それでもラングラー中佐は無言で、じっと暮れる水平線を見ている。英太の目にも、白い星が輝き始めたのが見えた。
 だが暫くすると、ラングラー中佐が動いた。彼は葉月さんの背にある窓辺から身を翻すと、艦長席の側にある小さめのデスクに行った。そこが彼の仕事場であるらしい。そこに幾重にも重なっているバインダーの山から何かを探し始めた。ひとつ、黒い薄いバインダーを探し当てると、そこからさらに薄く束ねられている白い書類を取り出す。それを手にして、中佐は艦長席の前に規律正しく立った。

「かねてよりお察しのものです。私の判断で、准将の目には触れないよう抜き取りました」

 いつもそうしているのか。ビシッとした凛々しい仕草で、上官である葉月さんに厳かに差し出し、深々と頭を下げたのだ。

「私もお叱りは幾らでも受けます。独断で申し訳ありませんでした」

 ラングラー中佐も『お叱りを受ける』? 英太は眉をひそめた。それになに、この騒ぎになって、この中佐が持ち出したその書類。なんだか英太の中で嫌な予感も過ぎった。
 そしてそれを差し出された葉月さんも、どうしようもない当惑した顔をしていたのだが。

「だから何だと言うの、今更。全部わかっていたわよ。テッドも、私が薄々は勘づいているとわかっていて隠し通そうとした。お互いにわかっていたことでしょう」

 呆れた顔で、差し出されている書類をそのまま受け取っていた。
 葉月さんがその書類を受け取った後の、中佐も素早かった。

「どうぞ彼と二人で。とことん話し合った方がよろしいでしょう」

 葉月さんがハッとした顔になる。

「別に私は、テッドが側で聞いてくれていても平気よ。だって、そうでしょう。貴方は私のことを何でも知っている男性の一人なのよ。だから私から傷……」
「いえ。私は邪魔です。外に出て行きます」

 あのミセス准将が言いたいことを、ばっさりと遮られていた。葉月さんの方が困惑している。しかしラングラー中佐は止めとも無駄だと言わんばかりの、いつものひんやりとした横顔に戻り、そのまま艦長室を出て行ってしまった。

 葉月さんがちょっと心苦しそうにラングラー中佐を見送る顔。それを見て、何故か英太の胸もにわかに痛んだ。不思議な感触の痛み。
 そしてついに、葉月さんと二人きりに――。

「ちょっと待っていて」

 そう言うとまた、葉月さんは艦長室内の寝室へと消えてしまった。それ程間も置かずに出てきてくれたのだが、戻ってきた彼女の片手には黒くて大きなケースを提げている。その形ですぐに判った。『ヴァイオリン』だった。
 葉月さんは、そのケースをどっかりと艦長席に置くと、ゆっくりと留め金を外す。

「私の、幼少の時からの宝物よ」

 いつも冷たく凍っているようなロボットの目が、熱帯びた。まるで、その楽器を手にすれば彼女に魂が宿るかのように英太には見えた。

「それが、いつも夜になると聞こえるヴァイオリン」

 しかし、なんにも興味が持てなかったはずの英太は、とても強く惹きつけられていた。だから、無意識にふらりとソファーから立ち上がり、艦長席へと吸い寄せられていく……。

 艦長席の上に開けられた黒いケース。それを目の前に出来た英太のすぐそこに、艶々と煌めく褐色の楽器が横たわっていた。
 生き物みたいだった。どうしてこの形でこの世に存在するようになったのか、そんな神秘に囚われた。ヴァイオリンという楽器を知らなかったわけでもないのに、実物をこんなに目の前にするのは初めて。本当に初めて知った物体に出会ったような気分だった。
 その神秘的な生き物を、怖れもまったくないとばかりに、葉月さんがそっと手にする。まるで飼い慣らしているかのような……。いや、そんな飼う飼われるじゃない。葉月さんの手にあって当たり前のように、手と柄が一つの植物のように同化したようにさえ見えた。

「触ったことがある?」
「ううん。ない」

 すっかり、懐いてしまった少年のように答えている自分がいた。ちょっと驚き。すぐに照れくさくなったが、葉月さんは柔らかい微笑みを見せてくれた。

「いいわよ。持ってみても」
「でも」

 とても畏れ多い気がした。その楽器が懐いている者しか触ることを許してくれないような……。楽器なのにそんな気高さを感じずにはいられなかった。
 そんな英太を見て、葉月さんは何もかも分かっているとばかりに、彼女からそれを手にして艦長の椅子から英太の側にやってきた。

「これはね、幾つか持っているうちの一つで、私のお祖母様が歳が離れている従兄の兄様に贈ったものなの。その兄様がとても大事に毎日弾いていたヴァイオリンだったのに、ある日急に、私に譲ってくれたのよ」

 そんな優雅な口調を使う葉月さんが初めてだったので、英太は傍に来ただけに急に身体が固くなっていくのを覚えた。でも葉月さんは、それでも自分よりずっと長身である英太の左肩にぽんとヴァイオリンを乗せてしまった。まるで今から弾かされるみたいに……!

「両親は忙しく海外を飛び回っていたので、私は鎌倉の叔父の家に預けられていたの。だから従兄の兄様とは兄妹同然でね。従兄はピアノやヴァイオリンをやっていたから、私はそんな兄様の真似ばかりしていたのよ。ピアノが最初の物真似。何歳から弾いていたか覚えていないわ」

 そんな如何にも資産一家のお嬢様らしい昔話を聞かされ、英太は戸惑っていた。だが黙って聞いているうちにも、葉月さんは英太の肩にヴァイオリンを固定し、その柄を英太の左手に持たせた。心ならずともヴァイオリンを構えてしまっているうちに、葉月さんはケースの中から長い棒を取りだした。あれだ。弦の音を出す棒だ。

「ヴァイオリンもいつが最初に構えた日なのか弾いた日なのかもわからないほど、物心ついた時には弾いていた。この従兄のヴァイオリンは、私の憧れだったから、譲ってくれた時はとても嬉しかったわ」

 左肩にヴァイオリンを構えさせられ、ついに英太の右手にはあの棒が。

「固くなっているわね。コックピットよりもヴァイオリンはとても優しくしてくれるわよ。まあ、気難しいところはあるけれどね」

 緊張している英太を見て笑った葉月さんは『大丈夫』と耳元で囁いて……。それだけでもう、英太は違う意味で、何処かに走って逃げたくなった。だが『こう、弦の上にボウを置いて』――葉月さんは止めない。

「ゆっくりボウを引くのよ」

 彼女の手添えで、英太と葉月さんの手が一緒に棒をゆっくりと下へ滑らす。

 ――ボウ

「わっ。思ったより、でっかい音!」

 耳元でダイレクトに入り込んできた音に、英太は飛び上がってしまった。でも、すごい重厚で、それでいてどこか湿り気をきちんと持っている『なまもの』だと感じさせるウェットさもあった。
 初めて聞いた『生音』の衝撃は、どうしてかかなりのものだった。英太の心など渇ききっていたはずなのに。それは英太の停まっていた鼓動を再び動かそうとする振動のようだった。
 たった一音。今度は英太の頬が赤くなっているのではないかというほど、殴られていない頬も熱く火照っていることに気が付いた。
 ヴァイオリンを肩から外し、そのずっしりとしている気高い生き物の柄を持った英太は、しげしげと眺めてしまった。
 それだけで妙な興奮があった。息が荒くなっている。俺、いま、すっげーおかしくね? 

「嬉しいわ。貴方にも興奮してもらえて」

 隣でそんな英太を静かに見守ってくれていた葉月さんが、いつも以上に嬉しそうに微笑んでいる。
 すぐそこに。あのビー玉みたいな茶色い瞳があった。凍った氷のように見えていたあの目が、今日はヴァイオリンのボディのように熱くしっとりと艶やかに濡れている。この楽器と同じ目の色、触感。その目が英太をじっと見つめている。なんだか……、その瞳を見てもヴァイオリンの音と同じ、妙な昂りが身体の芯から湧き起こっているのが自分でも解る。当然、頬がもっと熱くなる。
 だが次の瞬間。英太の中で湧いた『ときめき』が瞬殺される。

「それが私の全てだったの。私の一番大事なもので、未来永劫、ずっと私の側にあるものだと信じて疑わなかった」

 ――瞬殺だった。
 その言葉を口にした葉月さんの目も口元も頬の色も、いつも甲板でそうであるように、ピキリと凍てついたのだ。そう、あっという間に逆戻り。
 それを目前にさせられた英太も一瞬で凍り付いた。頬も彼女と同じように冷え、その温度差が窓辺が結露するかのように英太の背筋にひんやりとした汗を残したのだ。

 何故なら、英太もその言葉が何を告げているか。すぐに理解出来たからだ。

 構えたのは左肩だった……。
 彼女のその左肩には、無惨な傷跡が。
 では……『宝物をある日突然に奪われた』と言うことか?

 そんなことを即座に思い浮かべられたからだ。

 また硬直してしまった英太を置き、葉月さんはあっという間に密着したひとときを切り捨て艦長椅子に戻ってしまった

 艦長席に落ち着くと、葉月さんは椅子を少し回転させ、窓辺へと視線を逃がしてしまう。英太の目をもう見てはくれない。
 すっかり冷めたその横顔は、睫の動きしか見て取れない。しかもそのまま葉月さんは黙り込んでしまった。

 静かな艦長室に、艦のエンジン音。甲板の整備活動をする機械音。そして波の音。聞き慣れた艦の夜の音の中、窓からは潮の匂いがする涼やかな夕の風が入り込み、葉月さんの栗毛を揺らしていた。
 何故。会話が途切れたのか、英太にも分かっていた。『言えない』のだ、やっぱり。そして『どう話して伝えればいいのか分からない』のだ。
 自分も同じだから……と、英太は持たせてもらったヴァイオリンを厳かな敬う気持ちで、静かに丁寧にケースに返した。
 暫く待ってみたが、やはり葉月さんは顔を背けたまま、何も声をかけてくれなかった。だから、解っている英太から意を決す。

「奪われたのは、いつなんですか」

 答えたくないなら、それでいいと思っていた。
 二人きり。出会ってから今までの『ひっかかり』について、とことん話し合う場を設けてもらうまでに行き着いてしまった。それでも尚、言えないことなら、英太もそれで諦めがつく。実際に、自分も言えないことについては言えるまでそっとして置いて欲しい気持ちを何度も噛みしめてきたから……。

「十歳よ。なにも知らず、本当にただただ兄様や姉様に可愛がってもらっていた……一番幸せな時だったわね」

 涼風の中、その凍ったままの横顔で葉月さんが答えてくれる。
 そっか。どこから話せばいいか分からないのか。だったら俺が気になっていることだけ答えられるように質問すればいい。そう思った英太はさらに。

「ヴァイオリンを弾けなくなって、パイロットに?」
「そうね。思うように弾けなくなったの。分かるでしょ。ヴァイオリニストになると疑わなかったから」
「十歳で全てを奪われた気持ちになったんですね」
「それだけじゃない……それだけじゃ……」

 気のせいか。艦長の椅子に納まっている葉月さんは、いつもの動じない氷の人になったと思ったのに、その声が震え始めたような。空耳か。

「もしヴァイオリンだけだったなら、家族の励ましを素直に受け入れて、私はリハビリをしたと思う。でもそうじゃなくて……そうじゃなくて……」

 英太の中に、ドクリとした何かが蠢いた。椅子に座って窓だけを見ている葉月さんの胸元が激しく動き始めたからだ。そしてその感触にシンクロしている自分がいた。
 左肩の傷、胸の三日月の傷。それがついたのは何故か? 英太も首筋の傷跡に触れる。これがついた時の……。ほら、俺も……胸が……。もう少しで自分も何か叫びそうになった時、急に葉月さんが『あの男、あの男が』と早口でばばっと何かを喋り始めた。

「そう。あの男よ、あの男が。姉を襲って側にいた私を盾にして、何でも言うことを聞かせたの。主犯格であった男の命令を実行することが出来る数人の男と、姉妹二人だけの所に押し入ってきてね。何日か監禁さて……最後に……私の肩を……ヴァイオリンを弾くからと……」

 ドン――という、落雷のようなものが英太の脳天に落ちた!

 その後、英太の口から容易な質問すら出なくなってしまった。
 聞けるか、そんな酷いこと! 全てを聞かずとも、だいたいのことがもの凄いスピードで英太の頭の中に次々と浮かび上がったからだ。
 十歳の時、姉妹二人きりの所を、その肩の傷を付けた張本人の男と、その男が引き連れた男数人に襲われ監禁されたのだと。
 若い女が男に囲まれて監禁されることが何を意味するか、言葉にする必要もなく想像が出来てしまう。その対象が彼女の姉だったと言うことか。それを見せられていたのか。そしてその男に何らかの流れで、葉月さんは傷つけられ純真に追っていた夢を断たれたのだって。
 そこまで分かっただけでも、もう、そんな残酷なことを質問し完全たる被害者であろう彼女本人の口から語ってもらおうだなんて気も失せた。
 だが、それでもまだ聞かずにいられないことが――。

「胸の傷も……同じ男?」

 今度は流石の英太も、譫言のように呟いていた。
 しかし荒くなりそうな息を懸命に整えているふうの葉月さんがしっかりと返してくれる。『そうよ』と。

 また静かになってしまった。
 英太も気が済んだ、いや、気が失せたのだ。
 俺、なんでこんなことを知る羽目になったのだろう? 分かっている。俺がそこまで深く切り込んでいったからだ。でも、こんなこと望んでいたわけではない。でもある意味では『何かが叶った』ような妙な感触が生まれ始めている。

 黙ったままの二人だったが、英太から今度は葉月さんの椅子まで向かっていった。

「葉月さん。俺も、これ……!」

 ゆったりとした黒革の艦長椅子に座っている葉月さんの足下に跪く。どうしてそんなことを私の目の前でするのかと、血色を失っている葉月さんの顔が驚きで少しだけ顔色を戻した。

 今度は俺の番だ。
 英太にも迷いが消えた。そして、ついに全てを解消出来るだろう瞬間を、この人に伝えることが出来る。そう思いながら、目の前に静かに在る彼女の柔らかな手を取っていた。
 勿論、跪かれた男に急に手を取られ、葉月さんも僅かにピクリと躊躇っている。だが英太は構わず、その手を白い飛行服の襟の奥、首筋のそこへと連れて行く。
 戸惑い顔の葉月さんの目を、今度は英太がじっと見る。だが葉月さんもその顔の何処かで予感してくれていることが分かった。
 英太の日焼けしている皮膚の上を、冷たい指が伝う。この人の指がこんなに冷たいと知った時、その指先がついに英太の過去に触れた。

「……これっ」

 ぴくっと指先がほんの少し『短い傷跡』に触れただけで、ヒュッと白い襟の奥から飛び退いていってしまった。そして葉月さんも、予感していただろうに酷く驚いた顔を見せてくれてる。

「同じなの? 英太、貴方も……私と、同じだったのね」

 こくりと英太も頷いた。

「貴方はいつ?」

 あの葉月さんが落ち着きなく先を急かす口振り。どこか心地よかった冷たい指先が去った首筋を英太は手で押さえながら告げる。

「俺は十二の時に」
「十二の時? 事件に巻き込まれて……?」

 うんとも言いたいところだが、英太は首を振っていた。

「父親に」
「父親……!?」

 何事も冷めた風の葉月さんの顔は驚きの連続で固まっていた。そして彼女も、英太同様、それ以上は問えなくなってしまったようだ。
 分かりすぎる互いの心情を察し合うその間、そんな彼女の気遣いも分かっているから……。だが英太も彼女の目を直視出来なくなり、そこから離れ、同じように葉月さんから背を向け続ける。

「葉月さんの実家ほどじゃないけどさ。俺の、家もさ。父親が起業家だったんで割と裕福な家庭だったと思う」
「お父様、社長さんだったのね」
「うん。でも『その時』、子供の俺にはまったく分からなかったんだけれど、なんだが二進も三進もいかない借金苦になっていたみたいでさ……」

 後はもう、お決まりのパターンだった。きっと葉月さんにも想像はついただろう。でも、敢えて英太は言葉にして伝える。

「いわゆる『無理心中』? いつもと同じように学校から帰ると、母さんが血だらけで倒れていて、驚いて駆けよったら、背後から急にナタを振り降ろす父親に襲われていた。親父も血だらけで、すごい形相で。『英太、許せー許せー』って叫んでさ。最初の一発目はこの傷の通りに食い込んだけど……。でも後はまったく命中しなかった」

 背を向けたまま、英太は淡々と話す。一気に話そう。さっきの葉月さんの早口がどうしてか英太にも分かってきた。
 背後に葉月さんの息づかいが届かないだけに、余計に英太は独り言のように続ける。

「やっぱり親父は、息子の俺は殺せなかったみたいだった。ショックで身動き出来ない無抵抗の俺を血だらけの顔で見下ろして泣きながら何処かに走り去っていったよ。俺、そこで気を失ったみたいで……。気が付いたら病院にいて。叔母の春美が傍についてくれていた。両親はどうしたのかと聞いたら、叔母が泣きながら『お葬式も済んでしまった』と教えてくれた。俺が見た、最後の親父の顔は血だらけで目が血走っていて、でも涙でぐしゃぐしゃで……。情けない背を丸めて走り去っていく。あれが親父と母親との別れで、それっきりの……」

 これだけ、人に告白するのは初めてかもしれなかった。ここまですらすら言えたのも、珍しい……。
 だがそこで、背後から『どさり』と何かが崩れ落ちた気配がし、英太が振り返ると、椅子に座っていたはずの気配もなかった葉月さんが床に崩れ落ちていた。

「は、葉月さん!?」

 まるで気絶したようにして、床の上にうずくまっているので、慌てて駆けよった。
 丸まったままうずくまっている背を撫でると、葉月さんはゼエゼエとした荒い息を吐いていた。

「お、お父様を、み、見たのは、ナタを振り上げられた、それが、最後……最後の姿で、別れですって……!?」

 徐々に呼吸が荒くなってきていて、英太は驚愕する。

「葉月さん! だ、大丈夫かよ」

 まさか。この沢山のことを背負っているだろうミセス准将がこんなふうに崩れ落ちてしまうだなんて、英太にはショックな光景。
 だが、彼女の顔は苦しそうに歪んでいたが、まだ毅然としていた。

「だ、大丈夫。英太、そ、外、すぐそこに、テ、テッドがいると思うの。よ、呼んで」

 直ぐさま頷き、丸まっている彼女を置いて、英太はドアに走った。

 ドアを開けて外の通路を見渡すと、すぐそこの曲がり角にラングラー中佐が一人でひっそりと構えていた。

「中佐、葉月さんが急に苦しそうになって」

 そう叫ぶと、彼もとても驚いた顔でこちらにすっ飛んできた。
 艦長室に戻ってきた中佐は、一目散にまっている葉月さんへと駆けていく。

「葉月さん、しっかり。待っていてくださいよ」

 驚いて慌てているが、ラングラー中佐の次なる行動はとても落ち着いていた。中佐のデスクの引き出しを開け、花のモザイク模様が綺麗な入れ物を取り出し、そこから……。

「鈴木、その角にあるクーラーから、ミネラルウォーターのボトルを一本持ってきてくれ」
「はい」

 言われたとおりに英太も手伝った。ボトルを一本手にして、中佐に渡した。

「葉月さん。これ」

 中佐の手には、薬があった。それを見て知った英太の衝撃も計り知れない。
 やっぱり心の傷も身体の傷も、この人の場合は尋常じゃなかったのだと。俺も俺で苦しい夜はある。でも、これはその比じゃない!? 俺はこの人の過去を触発し、そしてこんな危険に苦しむ爆弾を抱えている人の、心の底にそっと沈んでいた泥を我が儘という石を一個投げ入れ、巻き上げてしまったんだと……!

 ラングラー中佐が葉月さんの口を塞ぐようにして、薬を口に押し込んだ。そのままペットボトルの水も無理に飲まそうと突っ込む。葉月さんの唇から、力無く落ちていく水。それが着替えたばかりの白いタンクトップの胸元を濡らした。

「またにしましょう。ね。また彼と話したければ少しずつ、いっぺんでなくていいでしょう。さあ、少し休みましょう」

 徐々に落ち着いてきた葉月さんを、ラングラー中佐が支え立たせた。葉月さんもこっくりと頷いて従う。

「ごめんなさい、英太。最後まで、ちゃんと話せなくて」

 なのに、葉月さんが申し訳なさそうな涙を浮かべ、英太を見てくれた。英太は即座に首を振った。そんな顔をして欲しかったわけじゃなかったのにと、後悔ばかりが押し寄せてくる。

 そのまま側の寝室にラングラー中佐が連れて行ってしまった。

 

 一人艦長室に取り残され、暫し途方に暮れ、英太も脱力感いっぱいにソファーに座り込んでいた。

「もう大丈夫だ。寝付ついてくれたから」

 ラングラー中佐が寝室から出てきた。

「あの、俺は……」

 とても申し訳ないことをしてしまったのだと、ラングラー中佐にそれでも何か言い分けようとしたが、彼の手が英太に向けられ『なにもかも分かっている』とばかりにその先の言葉を制した。

「こうなることも想定内だった」

 葉月さんが凄惨な過去を語る時は、これぐらい起こる。それが分かっていたから『外に出る』と告げても、側に控えていたということらしい。

「よく、あのようになるのですか」
「いや、滅多にない。でも偶にあるので注意している。軽度なのでかかりつけの専門医からも業務に差し支えはないと許可も出ているしな」

 英太の中であることが浮かんだ。実際に自分もいつそれになってもおかしくないことを英太は知っていたから。しかしあんなことがよく起こるなら、やっぱりパイロットとしてコックピットに存続することは不可能だったのだと改めて認識させられた。
 だが、ラングラー中佐は、英太の予想とは少し違うことを教えてくれた。

「実は彼女があんな症状を見せるようになったのは、ここ数年。結婚されてからだ」

 結婚してから? 英太は眉をひそめた。幸せになって、心の安定を得たのではなかったのか?
 致し方ない様子でラングラー中佐は、先程の綺麗な花柄の入れ物を手にした。

「これは葉月さんが泊まりの出張に出るたびに、御園大佐が俺に預けてくれるものでね。大佐も奥様の為に、いつもこれを傍に置いている。そうだな。大佐が言うには『花のお守り』だそうだ」
「花の、お守り?」
「そうだ。この入れ物は、大佐が小笠原に来た時にはもう彼女が持っていたらしくてね。つまり葉月さんが独身時代からずっと愛用してきたもの。だが結婚されてある時から、大佐が持つことになったらしい……」

 あのおじさんが、結婚後、予想もしなかった奥さんの変化を知り、どう付き合っているかを英太は知ることになる。

 

 

 

 

Update/2009.11.11
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