-- 蒼い月の秘密 --

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32.オープナー

 

 日中は遠くホーネットやホワイトが飛ぶ音を耳に、夜は潮騒を耳に。真夜中にヴァイオリンの音も聞こえた。
 その時、英太はだいぶ昔の小笠原記念式典でコリンズ大佐と変形タッククロスをするビーストームの演技を見ていた。

 ラングラー中佐が挟んでいたメモに『御園葉月中佐、24歳』と記されている。『御園葉月大佐、27歳』と記されているものは、コリンズ大佐とのコークスクリュー四回転チャレンジ。その演技が成功した直後に墜落未遂に遭遇している衝撃的な映像もあって、英太は震えた……。こんなこともあったのかと。
 今の俺と同じぐらいの年齢の頃だと、その怖れも知らぬ切り込み方に英太は鳥肌を立てた。本当に自分と同じものを本当に感じた。自分がやった滑走路侵入飛行と似たような、そんな思い切りを。コックピットで死ぬほどの重力で押しつぶされそうになって、きっとあの細身ではいつ気を失ってもおかしくなかった状態の中で……。あの人は薄れゆきそうな意識の中でも、操縦桿を離さず動かし空母に帰ってきたに違いないと。そう思った。

 墜落未遂からその後は『御園葉月大佐、34歳。ラストフライト』と記されたディスクまで、一度も飛んでいなかった。
 この間に『コックピットを降りる』と決したようだ。このラストフライトまでの空白の期間に、彼女は男に襲われ、そして御園大佐と結婚し、さらに二児の母になっている。
 この間、あんな墜落未遂に遭遇しながらも、何故未練もなくコックピットを降りられたのだろうか……。今までなら、英太はここでモヤモヤしたのだろうが。今は、何となく透けて見えてくる。

 暗がりの中に浮かぶホーネットの映像。そして夜風に乗って聞こえてくるヴァイオリンの音は、英太が気に入ったと呟いた『調律』だけの音だった。音階を静かに刻む音、波の音、そして暗がりの中にパソコンモニターの発光、そこに『生の隙間』を見つけて、ギリギリの飛行で空を行くホーネットが一機。映像の中の彼女は燃え、いま聞こえてくる音は穏やかだった。
 静かなメロディーは、階下の暗がりにいる英太に囁いてくれているよう。
 その彼女の音の向こうに、あの大佐の姿が浮かぶ。二人が英太に囁く。『一緒に生きる人がいれば……』。きっと葉月さんはそれを見つけたに違いないと――。

 映像の中でどこに行けばいいかわからず彷徨っているパイロットから、英太は目を離さない。俺と同じ思いで飛んでいた人の彷徨いを一晩中、刻み込んだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 謹慎二日が明け、終日の夜に英太は解放へ。
 迎えに来てくれたのは、ラングラー中佐だった。

 ひたすらノートパソコンのモニターを未だに凝視していた英太を見て、彼もやや驚きの顔を見せていた。

「気が済んだか」
「はい」

 会いたいと知りたいと望んでいた、在りし日の彼女とのやっとの出会い。だから別れるのが少し名残惜しかった。
 しかし、英太はそれ以上に『もう行かねばならない』という思いが強かった。

「飛んで欲しいと何度も我が儘をぶつけましたが、これで俺は、御園というパイロットのことを少しは知ることが出来たと思います」

 ついにパソコンの電源を落とし、英太は全てのディスクをケースにしまい、ラングラー中佐に返した。

 受け取った中佐が、じっと英太を見つめている。

「良い面構えになったな」

 彼が静かに笑う。そして英太も無精髭の顎をさすりながら、無言で微笑んだ。

「あの、中佐にお願いがあるのですが」

 『なんだ』と問われ、英太は言う。

「俺はミセスのやり方が気に食わないし、あの人がコックピットを捨てたことが納得出来ないし、そして予備機であることも納得していない。そのままでもいいですよね」

 まるで反省無しの言葉に、中佐は面食らった顔に。しかし彼は、穏やかに落ち着いている英太の眼差しを暫しじっと見つめ、やがて微笑みを見せてくれた。どうやら、英太の意図を察知してくれたようだ。

「なるほど? まだまだ悪ガキでいた方が効果がある。または、そうでなくては今回の『でっちあげ』にも真実味がなくなるってわけか」
「それだけではありません……」
「空のことも、か」

 全てを言わずとも通じてくれる中佐は、やはり流石の男だと英太は感銘する。それなら……と、英太は続けた。

「どうせ『幽霊機』ならば、今まで同様に勝手に飛ぶつもりです」

 『ふむ』とラングラー中佐が、面白そうなこと思いついたとばかりに、勝ち誇った笑みを浮かべている。

「では、まったく反省なしの悪ガキのまま、予備機で大暴れをしようというわけだな」

 そう。それだ。英太がやっと気が付いたのはそれ。
 英太も企みいっぱいの笑みを、ニンマリと浮かべてみる。

「かっ飛ばすだけが芸の若僧パイロットを放し飼いってところっすかね。監督は見て見ぬふりってところっすか? 自分は甲板で威張っているだけの、出来上がり待ちってところなんですかねえー」

 口は以前通りに。だが気持ちは、もう前とは違った。そしてラングラー中佐は、そんな英太に気が付いてくれている。この人が解ってくれていれば、もう怖いものはないだろう。英太は『秘密の後ろ盾』を得た気持ちになった。

「俺は大尉になんて言えばいいのかね……。言っておきたいことがあるが悪ガキには言わない方がよさそうだな」

 英太の気持ちに気が付いたからこそ、ラングラー中佐は言いたいことが言えないようだった。
 でも英太には聞こえた。『幽霊機が最高の記録を密かに打ち出してくれることに期待する』と。だが『気が付いていない若僧』のままにしておくならば、それを言ってはお終い。大人の嘘ではなくなる。この人達が構築してきた本日までの状況を無駄にすることになるのだろう。
 その為に、英太は最後に中佐に言った。

「ここは、葉月さんを騙せてパーフェクトだと思うんですよ」

 そこだけはしっかりやり遂げたいので、言葉にした。でもラングラー中佐にもその意図が通じたようだ。

「なるほどな。俺とお前で、一番目の前にいるあの人を騙すことができて、全てが成功。全員の目を違う方向に背くことが出来たということだな」

 頷き、そして英太は……ある日を思い出しながら微笑んだ。

「そうすっよ。あの御園大佐が准将室から、氷の如くいつでもクールでいるミセスを、カンカンに怒らせて甲板まで引き寄せたほどの……。あの滑走路侵入飛行を決行した時のように。とびっきりのことをして葉月さんを騙せてこそ、だと思うんです」
「いいな、それ。面白そうだ。乗った」

 いつにない笑みで目を輝かせ、ラングラー中佐は既に楽しそうだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「英太、勝手に動かない! こっちの実験に合ったアクションをするのよ!」

 うるさい、うるさい! 甲板で声を張り上げているだけのヤツは黙っていろ。飛んでいるのはこの俺だ!

「英太! 何度言ったら分かるの? そんな無茶な飛行は要求していない!」

 権限で俺を押さえつけるな!
 英太は叫んだ。その向こうで、あからさまな葉月さんの溜め息も聞こえてきた。

 謹慎が解けた英太は、コックピットに戻っていた。そして葉月さんも、もうすっかり以前通りの『甲板の女』として君臨する日常に戻っていた。
 艦は、温暖な太平洋をゆっくり東へと帰路に向かい始めたところ。
 あれから、英太は頻繁に空へ飛べるようになった。当然、その度に特に指示もされない為、好き勝手に飛んだ。
 スピード狂のようにひたすらかっ飛ばすこともあれば、派手な低空飛行に、スワロー部隊で叩き込んできたアクロバット技をホワイトで試したりした。そして今日も――。

 ある高度でひたすらスピードを出させ何処までも真っ直ぐに飛んだ後、次は徐々にスピードを上げながら高度を上げてみる。
 苛酷なダメージが機体に加わることを、ワザと選び試す日々。
 握っている操縦桿がブレそうなほどの重力。座っているシートがガタガタと揺れ始める。ここが限界だろう。英太自身もそう思う。
 いや、まだ。あと少し。あともう少しだけ。
 無茶は承知。しかしこの飛行機の可能性を少しでも引き出すことを英太は目標とした。フレディが毎日こなしている『どれだけ安全か』というデーターではない。英太は『どこまで安全か』を密かに試みる。
 誰も、ここまでやれだなんて指示はしていない。そして実際は、葉月さんも望んではいないだろう。でも何処かで『もしそれが出来るならば』と思っているはずだ。
 それを英太はやっている。そして次こそ、この雷神のシンボルになるホワイトを実務ラインにのっけてやる。いつまでもまどろっこしい実験を繰り返していると、このホワイト自体がなくなりかねない。
 そんなこと、させるものか。俺はこの真っ白い飛行機が気に入ったんだ。
 だから、英太はギリギリに挑む。ただし前とは違う。もっともっとという飢餓感をどこかで抑え引き返さねば――という意識はもてるようになった。ただ、その引き際がまだわからない! 今の状態なら、あと1分2分は行けるのではないか……。その葛藤と戦っている。

「鈴木大尉。着艦しなさい。さもないと本気で貴方だけ横須賀への帰還命令を出すわよ。──本気よ。分かるわね」

 俺を呼び戻す声。ひんやりと静かな、あの人の。
 『私は貴方を陸で待っている。空に行かせたままにしない。それを忘れないで……』
 あの夜明け、彼女の涙と心地よい指先。花の香りに、ヴァイオリンの音色。それが轟音の中、空を飛んでいる英太を包み込む。

「イエス、マム。総監」

 熱気に包まれたチャレンジの渦から、英太は静かに引き返す。
 どんな極限に挑んでも、あの人の声を英太は忘れない。見失わないように飛んでいた。

 着艦後も、『悪ガキ』らしい反抗をして、また葉月さんと一悶着。やりすぎてしまい、彼女の手に荒っぽく触れてひっかき傷を残してしまった。
 ミセス准将の真っ白い手に赤い傷が浮かんだのをみて、あの夕に彼女にとんでもない迷惑をかけた出来事がフラッシュバックし内心青ざめた英太。だが、あくまで悪ガキを貫き通した。それでもどうしても気になってしまい、ついつい艦長室まで謝りに行ったら、あの鬼男に吠えられ英太は追い返された。

「くそ。俺が言いだしたことだけれど、中佐ったら徹底してんな」

 『面白い。乗った』――と、英太と一つの作戦を共に実行しているはずなのに。英太を葉月さんに近づかせまいとする『若僧パイロットを毛嫌いする愛人部下』になりきっているので、実は本気で俺を嫌っていて二度と葉月さんに近づかせるものかと、あの作戦に乗ってくれたんじゃないか。時に疑心暗鬼になるほどに、中佐はきっちりとその役割をこなしていた。

「鈴木、伝言だ」

 自室に戻ると、平井中佐がこっそりと一枚のメモ用紙を渡してくれる。
 そのメモには『先日の反省室まで』と書かれていた。サインは小さく『テッド』とある。ラングラー中佐だった。
 平井中佐は、英太とラングラー中佐との繋がりを知っているようだったが。素知らぬふりなのか、それだけで去っていってしまった。

 伝達どおり、英太は謹慎を過ごした階下へと出向いた。
 薄暗い廊下に、ラングラー中佐がひっそりと佇んでいた。

「ご苦労」

 英太と目が合うなり、彼がなにかを投げてきた。
 弧を描いて飛んでくるそれを英太はキャッチする。

「厨房の裏メニューだ。艦長室にいると偶に食べられる。差し入れだ」
「へえ、そんな特別なもんがあるんだ」

 開くと、それは確かに一般乗務員では目にしたことがない、美味そうで凝っているホットドック。ケチャップとマスタードの匂いに、英太はつい喜んでかぶりついてしまった。

「また随分とギリギリのチャレンジをしているようだな。傍目に見ていると、本当に反省をしていない悪ガキのまんまで始末が悪い」

 彼らしい物言いに、英太は早速、カチンと来た。

「だって、そういう作戦でしょ。そういうラングラー中佐だって、マジで俺のこと毛嫌いして、もう二度と葉月さんと口をきかせるもんかってあの勢い、本気にしか思えないっすよ」
「なんだ。葉月さんとじっくり話をしたいのか? だよなあ。あの人と一晩過ごせるだなんて事、一般乗務員にはあり得ない出来事だろうし。また同じ夜明けを迎えたいのか?」

 突っ込まれ、英太は急に頬を熱くしてしまった。

「べ、べ、別に。そういうわけじゃ……」

 慌てた英太を見て、ラングラー中佐がやっと笑った。

「それは艦を降りてから、自分で勝負するんだな。あの人の傍に近づけるように」
「勝負って……」

 頬を熱くしたまま、英太は口ごもる。
 だが当たっているのだ。あれから英太の頭の中は、葉月さん一色。そして彼女と結ぶ空に今まで以上に夢中になっていたからだ。

 しかし、どこか面白そうだったラングラー中佐が、溜め息一つ。

「あの人、本当に騙せているのだろうか。俺でも解りかねるな……」
「そんな中佐ほどの人が」
「そんなもんだ。俺だってなあ、鈴木ぐらいの歳の時からあの人を見てきているが、未だに掴みにくい人だよ。一人でさっさと行ってしまうしなあ」

 葉月さんを、旦那の御園大佐の次によく理解していそうな男性なのに。その男性でも、葉月さんを時には遠く感じるらしい。
 それなら。まだまだ下っ端の英太なんか、どうにも捕まえられない女性ということなのだろう。

 また、あんなふうに。話せる日が来るだろうか。
 潮風の階段で微笑んでくれていた姉貴のような人。
 紫の夜明けの中、花の香りを漂わせていた人。
 もう、彼女は誰もが知っている『ミセス准将』の姿しか、英太にも見せてくれなくなった。

「もしかすると。『騙されたふり』をしているのかもな」

 そうかもしれない。英太も思っていた。
 一晩、彼女と過ごした夜に、共に何処かで通じたものを感じ合ったのに。
 なのに甲板では、英太は悪ガキに逆戻り。減らず口を怖れず、ミセス准将に叩き付けていた。きっと葉月さんは不自然に思っていることだろう。そしてその不自然さは何故なのか、それも見通しをつけている。つまり英太の『過剰な演技』に気が付いているということだった。

 それでもいい。今はあのミセスに敵うことなどないだろう。それでも。
 それでもいいから、英太は見出した役目を全うしたい。

「そうだ。飛行データーだが。鈴木の『勝手なチャレンジ』で得た非公開データーがかなり有効らしい。佐々木女史が一足先に帰るのだが、持ち帰ったら直ぐにさらなるヴァージョンアップをすると言っている。これで最後、ホワイトという戦闘機を確実なものとして生産が出来るだろうと……」

 その報告に、英太は喜びを見せる。

「ほんとうっすか! やった。これで雷神はホワイトで活躍出来るんですね」
「たぶんな」

 『おっしゃ』と、英太はガッツポーズをする。

「だから極限的なチャレンジはもうほどほどにしておけ。いいな。あれでも、葉月さんは密かに案じている」

 密会を持ちかけてきたのは、英太を自制させたい為、そして成果の報告の為のようだった。
 だが、英太は安堵した。これで俺の役目は……。

「わかりました。明日からは、スワローで遊んでいたアクロバットだけで流します」

 『そうか』と、ラングラー中佐もホッとした顔に。悪ガキの態度は演技でも、極限を試みている飛行は本気だった為、流石の中佐も案じてくれていたようだ。
 仕事では、立派な鬼男。クルー達はミセス准将よりも、彼を怖れていた。だけれど、その内側に隠している『穏やかな男らしさ』。それに英太は触れている。

「でも、中佐も意地悪いっすよね。俺が演技で葉月さんに反抗を繰り返しているだけなのに、さらにポイントを減点してくれて。とうとうあと2点になっちゃったじゃないですか。しかも、さっき、艦長室に近づいただけで『次は即刻、横須賀へ強制送還だ』とか吠えてくれたりして」

 途端の口悪。鬼男が見せては行けない優しさを滲ませる顔をしていたから、英太もつい照れ隠しだった。
 勿論、こちらもカチンと来たようだった。

「それぐらいした方が、真実味があるだろうに」
「ま、いいっすけどね。0点にはしないでくださいよ。後三日でも!」

 照れ隠しついでに、もう用事は済んだろうからと英太はツンとして背を向ける。なるべく早く二人が接触している場を去った方が良いから……。
 しかしラングラー中佐が『待て、英太』と、慌てて呼び止める声。英太は振り返る。

「呼び出したのは、もっと他の報告があってだな」
「なんすか」

 眉をひそめると、また鬼男が穏やかな笑みを見せている。

「叔母さんの手術が成功し、今は安静に過ごしているそうだ。工学科科長室の小夜から、さりげない報告を昨夜、もらった」

 海にいる間は、気にしてもどうしようもないこと。だが時に、どうしようもなく不安に駆られていた叔母の病状。そして任せた華子の負担。でも大佐が気遣ってくれたことで、とても安心して航海に出ていた。でも……

「そ、そうですか。有り難うございました」

 深々と頭を下げた。今度はラングラー中佐が照れくさそうだった。

「まあ、なんだ。たぶん、御園大佐の配慮だろう。任務から帰ったら、大佐に礼を」
「わかっています。任せている友人からも、出航前に大佐が気遣ってくれたと聞かされていましたから」
「そうだったか。良かったな。それでも、まだこれから大変だろうから、横須賀に着いたら直ぐに単身で入院先に見舞ってやると良いだろう」

 通常は、一隊と共に一度は小笠原に帰還しなければならなかった。だが、そこを直ぐに休暇を取って駆けつけても良いと言ってくれているのだ。

「よろしいのですか」
「それは葉月さんの気遣いだ。そうしてやってくれ」

 また、英太は……。胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じていた。ギュッと唇を噛みしめ、濡れそうな目を我慢する。
 この夫妻が俺を、ここまで気遣って労ってくれる。夫の大佐も、そして同じ過去を持ち合わせていた奥さんの葉月さんも。それが今までいい加減に生きてきた英太を熱くさせていた。

「……葉月さんに、なんてお礼を言えば」

 もう、この航行では近づけないだろう。でも直ぐにすっ飛んで有り難うを言いたかった。

「伝言は俺が承っていたから、俺から礼を伝言しておこう」
「そうっすか。よろしく頼みます」

 声が震えていた。涙が、もうこぼれそうだったから。
 そんな英太を察したのか、『では』と今度は中佐が気遣い背を向け歩き出す。英太を一人残して……。

 だがラングラー中佐が、ふと立ち止まった。彼が振り向かずに言った。

「……あの夜明け。葉月さんが英太に聞かせた曲だが、なんという曲か知っているか?」

 英太は首を振った。クラシックなんて、まったく知らないし興味が無かったから知っているはずもない。

「ヘンデルの『私を泣かせてください』という曲だ。あるいは『涙の流れるままに』とも」

 泣かせてください――。あの夜明けに泣いた葉月さん。そして今、どうしようもなく涙が出てしまう俺。そういうことを感じさせられ、英太は驚かされた。

「俺もクラシックなど興味はなかったな。英太ぐらいの年齢の時に、彼女の側近に抜擢され、それから勉強した。なんなら、小笠原に帰還したら小夜を訪ねたらいい。いくつか選んで聴けるようにしておく」

 鬼男の気遣いにも、英太は驚くばかり。今度は落ちそうだった涙が一気に乾いてしまった。

「あ、有り難うございます」

 背を向け、既に歩き始めていた中佐が、肩越しに手を振って行ってしまった。

 静かな暗がりに、独り。乾いた涙の跡を、英太は指で触れる。

 もしかして、俺は。もう独りで空を飛んでいるわけではないのかもしれないと。指先に小さな熱が宿った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「本日は、少し遊んでみようと思っています」

 航行もあと数日、艦は太平洋を北上。一路、横須賀を目指していた。
 そんなある日、葉月さんは久しぶりに雷神パイロット七名を甲板に集めた。

「雷神でも、編成を組んで展示飛行のように飛ぶ試みをしてみましょう」

 アクロバット飛行隊のような『遊び』をしようと言いだしているのだ。先輩達の顔が輝いた。実務でも役立たず、思い切り空を飛べない任務中、彼等も腕が鈍って仕様がなかったのだろう。

「エイタだけ、自由に飛べて面白くなかったんだ。俺もとっておきのやってやる!」

 フレディも、いい加減にくそ真面目なテスト飛行はもう懲り懲りらしく。近頃は、自由に空を飛びまわっていた英太に嫉妬を見せていたほど。今日は英太の隣で、拳を握って意気込んでいた。

「では。飛ぶ前に打ち合わせをしよう」

 葉月さんの隣には、平井中佐。元ビーストームでアクロバット展示飛行を経験済みのチームメイト同士で、既にある程度の話し合いをしていたようだった。

 平井キャプテンを中心に、真っ白い飛行服を着た七人の男が、飛行図を描いているスケッチブックを取り囲んだ。
 平井中佐とベテランの先輩達が緻密な飛行軌道の話し合いをし、それを若い後輩であるフレディや英太や他の先輩に告げていく。
 七人の白い男達は揃って頷く。それほど一緒に飛んだこともないのに、どうしてか雷神の男達は『七人で飛んでみよう』という足並みを揃えている。

「では、行って参ります。ミセス准将」

 手短なミーティングを終え、平井中佐を筆頭に白い飛行服の男達はミセス准将に『離艦』の敬礼も揃える。

「いってらっしゃい」

 真夏の陽射しの中、あの凍った顔で葉月さんも敬礼をする。

 キャプテンの『行くぞ』という掛け声に、雷神のパイロット達は『ラジャー』と駆け出した。
 英太とフレディも、ヴァージョンアップ版のホワイトへと向かう。

「英太」

 その声に、英太は立ち止まる。振り返ると、葉月さんがミセス准将の顔のまま英太を睨むように見ていた。だがそんな顔はミセスのいつもの顔。それでも彼女のそんな威嚇する目が恐ろしかったのか、フレディは先に行くぞと行ってしまった。
 英太と葉月さんの視線が鋭く交差する。

「なんですか。まさか、また甲板で待機とか? 俺はまだ雷神のパイロットとして飛ばせられないとでも?」

 そんなことは思っていないが、最後まで悪ガキは悪ガキらしく。
 そして葉月さんの氷の顔に氷の眼差しも変わらない。

「貴方は私の代わりに飛ぶのよ。分かるわね、私が言いたい事──」

 その顔でその言い方は、やっぱり偉そうな女将軍様。英太のことを『ハウンド、猟犬にすぎない』と言い放った高飛車な女指揮官にしか見えなかった。
 でも……。英太には分かっている。

「わかっていますよ。葉月さん」

 この時だけ。英太は彼女にめいっぱい微笑んで見せた。

 

 貴女の気持ち、わかっているよ。
 偉そうな言い方だけど、『私の代わりに自由に飛んで』という願いも、『貴方が落ちたら、私も一緒に墜落する。だから帰ってくるのよ』と言っていることも。
 俺な、葉月さん。貴女の代わりに飛ぶよ。
 葉月さんの翼になる。
 そんな答を込めた微笑みを、今だけ、貴女に。

 

 そんな英太の一瞬の素直な笑み。
 勿論、悪ガキと冷たい女上司の関係を崩すまいと心がけているだろう葉月さんも驚いたことだろう。
 だが、彼女も笑ってくれた。あの非常階段でそうだったように、姉貴のように。

「スワロー・フライトを楽しみにしている。撮影をするからね。持って帰って横須賀の上層部を驚かせてやりたい」
「オーライ。任せてくれよ」

 彼女からも一瞬の微笑みをもらい、英太はヘルメット片手に青空の中待ちかまえている白い戦闘機へと走った。

 一年後、正式にホワイトが実務ラインに乗る。
 小笠原のフライト雷神のシンボルとして、英太は真っ白い飛行服の戦闘機乗りとして防衛の前線で活躍。たまに行う『アクロバットショー』も好評で、『小笠原のフライト雷神』は、国内のどこの空部隊にも知られる真っ白な飛行隊として、その名を馳せた。

 

 その頃に、英太はやっと気が付いた。
 年上の冷たい女上司である、姉貴のようなこの人を。どうしようもなく好きでたまらなくなっているってことに。
 空に夢中になっているあの人と、同じものを見て、同じように飛ぼうと。ただ追いかけるだけの……。
 でも。彼女が見ているものの中には、必ず、あの『おじさん』がいた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 二年後、小笠原――。

 週末の休暇は、なるべく本島に帰省する。千葉にある終末ホスピスにいる叔母を見舞って、また小笠原に戻ってくる。
 今日もまた、夕方の便で帰ってきた英太は、滑走路に降り夕暮れる水平線を目にして、やっとの帰りに一息。それでも腕時計で時間を確かめ、そのまま宿舎に帰らずに、基地棟内へと足を向けた。

「きっと、まだいるな」

 いつも、なんとなく……だった。
 なんとなく、なのに。その人は必ずと言っていいほどに、英太が訪ねるたびにそこにいてくれる。
 叔母と幼馴染みの彼女と一家団欒のようなひとときも英太には大事なものだが、それらから離れても、この離島の基地で暮らせているのは、きっと……。

「おつかれ〜っす〜」

 だらしのない腑抜けた挨拶が出てしまうのは、日曜の夕方で彼以外誰もいない事務所だと判っているからだった。

「あら、お帰りなさい」

 ドアを開けると、英太の目の前には、優雅に微笑む『奥様』がいた。一瞬、目を見張り。英太はドアの上にある事務所の部署名を確かめる。『第六中隊教育隊/工学科科長室』とあるのだが?
 もう一度、事務所の中を見ると、そこには『ミセス准将』が吉田大尉のデスクに座っているのだ。

「おう、帰ってきたか」

 そしてやっと彼の声が聞こえた。英太が見慣れているとおり、彼は日曜の夕方だというのに基地の仕事場のデスクに向かって、黙々とペンを動かしている。

「叔母さん、変わりないか」

 彼『御園隼人さん』はペンを動かしたまま口も動かす。まだ英太の姿も見ずに、ひたすら紙面に向かっていた。

「ちょっと貴方。それに夢中になるのやめて、ちゃんと英太の顔をみなさいよ」

 奥さんの葉月さんが、しかめ面になる。そこでやっと、夫の大佐が顔を上げ、ペンを手放した。

「疲れた。でもなあ。お前も頭の運動をしておいたほうがいいぞ。歳ばっかりとっていくしなあ」
「いやよ。今さら。数学の複雑な問題なんて。脳の為になる問題集なら、流行でいくらでもあるじゃない。いつまで待たせるのよ。せっかく、一緒に帰ろうと思って、工学科に迎えに来たのに」
「誰が迎えに来てくれだなんて、頼んだんだよ。待てないなら、先に帰っていろよ。あ、義兄さんに会いに行ったらどうだ? そろそろ会いに行った方が良いだろう。あの義兄さんは、お前に会うのが脳の活性化だから、介抱してやれよ」
「なんで、そんなこと言うのよ。本気で言っているの」
「あー、俺はいつだって本気だぞー。義兄さんに会いに行ってこいよ」

 しらっとした夫の勧めに、早速に葉月さんがむくれた顔になった。……いけない、俺、笑うな。英太はにやけそうになった顔を堪える。
 あのミセス准将が、夫の大佐にやられて子供みたいに拗ねている顔。そういうの、夫妻だからこそ見せる顔を、今、英太も目にしていた。

 しかし、英太も複雑な心境。夫妻のことはいつも微笑ましく思うこともあるが、たまにこうして他の誰もが知り得ない一面を垣間見せられると、どうしようもなく切なくなることもある。

 英太は、夫妻のどちらも好きだった。彼等が英太に親身になってくれるから、こうして離島で家族と離れても、今にも儚く逝ってしまいそうな叔母がいても、なんとか踏み耐えることができる。
 夫の隼人さんは兄貴のようだし、ある意味『恩師』。小笠原に来て最初に面倒を見てくれた教官だった縁もあり、今ではプライベートでの付き合いも親身になってくれる大人の男。
 片や、奥さんの葉月さんは……。俺の前を果てしなく走っていってしまう、恋しい人。

 

 

 

 

Update/2009.11.30
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