-- メイビー、メイビー --

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1.秘密のランジェリー

 

 急げ、急げ。いつもギリギリだ。

 左腕にある銀色のパイロット時計を眺める。
 鈴木英太大尉は、制服姿で走っていた。目指しているのは、横須賀基地の定期便滑走路。
 基地にはもう到着した。いま、基地前に停車するバスを降りて、正門でIDチェックをして基地に入ったところ。あとは『小笠原基地行き』の便が出発する待合室へ行き搭乗チェックインをしなくてはいけない。

 やっと待合室に到着――。
 チェックインを済ませ、搭乗機が待機している滑走路へと出るためのゲートに向かう。いつはもうゲートが開けられ搭乗客を滑走路に向かわせた後なのに、まだゲートは開いていなかった。ゲート開通待ちの搭乗客の列がそこにあり、小笠原行きの人々が並んでいた。
(良かった。まだ整備が終わっていないんだな)
 ギリギリで焦ってきた割には、まだ搭乗出来ない状態だと知り、制服の黒ネクタイをほっと英太は緩めた。

 ゲートが開くのを待っている人々の中には、スーツ姿の民間企業の営業マンもいるし、勿論制服姿の隊員も、家族と休日を楽しんだだろう私服姿の外人ファミリーも混じっている。最後尾に並んだ英太のすぐ目の前の人は、女性の二人連れ。日本人の割には背が高い女性と、年配の女性で、二人とも品の良いスーツ姿で並んでいた。

「母様、そこに座っていたら。疲れてしまうわよ」
「いいのよ。それにしても、遅いわね」

 どうやら母娘のよう。あたりが待たされてざわついている中でも、二人の会話はとてもゆったりしていて聞き心地がよい。ちょっと微笑ましい思いで、英太はつい横目でちらり。言葉も品が良くて……、どんな娘さん? 華子より背が高い。長身の英太の鼻先につむじがあるぐらいの女性は、日本人でも珍しい。お母さんは日本人らしく小柄なのになあ。と、姿をもっと確かめた時だった。

「あら。英太」

 すぐ前の女性に、そう呼ばれ、今度の英太は真っ直ぐ真っ正面へとその人を見た。

「は、葉月さん……!」

 振り向いた『娘さん』は、なんと、ミセス准将、葉月さん!
 英太は『嘘だろ』と、一人胸を押さえそうになった。大袈裟かもしれないが、いまにも心臓が飛び出しそうな気がしたから。そんなどっくりと鼓動が重くゆっくりと動いたものだから。
 汗がだあっと背中に広がった気がした。こんな不意打ち……。いや、違う、違う。俺がこんなにドキドキしているのは……。

「叔母様のお見舞いの帰りね。お元気だったかしら」
「は、はい。元気でしたよ……」

 絶対に甲板では見せない満面の笑みで接してくれる葉月さんがそこにいて、英太は余計に硬直した。
 それだけじゃない。笑顔はあの滅多に会えない『気の良い姉貴』であるばかりか、今日の葉月さんは制服ではなくて私服。
 かっちりとしたタイトな黒いスーツは、オーソドックスなテーラードと若さを抑えた膝丈のタイトスカート。アンクルストラップがついている黒くて華奢なハイヒール。

「そう、良かったわね。貴方が来ると喜ぶでしょう」
「え、ええ。そうですね」

 そんなシックで上品な、大人のエレガンスいっぱいの葉月さん。あのネクタイの制服姿でもなく、首元まで厳格に着込んだ紺色の訓練着でもない。
 しかも、英太の目を引いたのは葉月さんの胸元だった。よくある『セクシーな胸元』とか、そんなものじゃない……。当たり前だろ! この人は訓練着だって首までぴっちりと隠してしまうそんな女性。その人の胸元に目が行ってしまったのは、普段の『冷たい女将軍』の彼女からは想像出来ないほどにフェミニンな、フリルいっぱいの白いブラウスを着ていたからだった。しかもそこから、あの日の『夜明けの花の匂い』が漂ってくる……!

 すげー、すげー。今日の葉月さん、優雅な大人の女!

 栗毛で日本人離れしている顔つきに細長くすらっとしたスタイルは、華やかではないけど、独特の香りにムードが漂い英太は既に『酔っていた』。初めて目にしたから、余計に酔っている。

 だが、そんなぼうっとするばかりで甲板での生意気な口がまったくきけない英太を、葉月さんの隣にいた品の良い年配の女性が見ていることに気が付いた。
 判っていた。『葉月さんのお母様』。小柄な女性。どこから見ても典型的な日本人なのに、この人が隣にいるすらっとした栗毛の茶色の瞳の女性を産んだ人? だけれど品の良いスーツを娘以上に着こなしていた。淡いグリーンのスーツをいともさらりと――と言った感じで。
 そんなスーツをお揃いで着ている母娘は、混血の娘と生粋の日本人母なのに雰囲気はそっくり。母娘と言われたら、とてもしっくりするほど馴染んでいた。
 そんなお母様と英太は目が合い、あちらからにっこりと微笑みかけてくれる。

「葉月、こちら様は」
「鈴木英太大尉。雷神の若手パイロットよ」

 葉月さんの紹介に、エレガントなグラスコードがついている眼鏡をかけているお母様の目が『まあ』と驚きで開いた。その黒い目で見つめられ、英太は何故か背筋が伸びる。

「鈴木英太です。はづ……いえ、准将にはいつもお世話になっております」

 思わず、敬礼をしてしまっていた。
 そして葉月さんが、英太にそのお母様を紹介してくれる。

「私の母よ。今日は小笠原の私の自宅まで遊びにくるの。孫や昔の軍仲間に会いたいらしくて」
「葉月の母、登貴子です。こちらこそ、娘がいつもお世話になっております」

 とっても優雅なご挨拶に、英太も思わずつられてお母様と一緒に頭を下げてしまっていた。
 そんなお母様が、頭をあげると、英太をじいっと眼鏡の奥の黒い目で見つめていた。

「お噂は婿からも聞いております。横須賀のスワロー部隊にいらっしゃったとかで、素晴らしいアクロバット技術をお持ちだとか」

 『婿』! それがあのおじさんのことだと分かっても、英太はなんだか笑い出しそうになった。
 でもそうなんだ……。あのおじさん、やっぱり御園の婿、この葉月さんの紛れもない旦那さんで、この品の良いお母様の『婿殿』なんだって、現実。
 しかし、英太は。そんな隼人さんが、奥さんの軍人一家だった実家で、元軍職だった舅や姑の前で、英太を『素晴らしい』と評してくれていたことの方が嬉しさを覚えさせてしまっていた。

「そんな、御園大佐はそんなことを……」
「ええ、いつもいつも。娘の葉月も『あれほど飛んでくれる男はそうはいない』と、婿殿と揃ってそれはそれは」
「ちょっと。母様……!」

 うわ。葉月さんも、実家でそんな褒めてくれているんだ!
 英太は飛び上がりそうになる。甲板では本当に冷たい人。しかも訓練では英太には人一倍手厳しい要求をして、成功したって滅多に褒めてくれないのに!
 その心情を母親にばらされてしまったせいか、あの葉月さんが久しぶりの頬を染めている顔にも遭遇してしまった。
 だけれど、そのお母様の視線も英太から外れない。お母様はますます、そのエレガントな眼鏡の奥からキラキラとした黒目で英太を見てばかり……。こちらの頬も染まっていて、英太はなんだか照れくさくなって何処かに走り去っていきたくなった。

「……本当、葉月が言った通りね〜。お父さんの若い時にそっくりだわ」
「もう、母様。やめてよ……っ」

 母親のジャケットの袖をつまんで、葉月さんは妙に焦っていた。
 だけれど、お母様は英太を惚れ惚れとした目で見つめたまま。

「お父さんも若い時は、彼みたいに背が高くて、鍛え抜かれた引き締まった身体で」

 え。そうなんすか? 葉月さんのお父さんと俺、似ているの?
 英太はちらりと、葉月さんを確かめる。目があった葉月さんは恥ずかしそうだったが、もう諦めた溜め息をついて英太を見てくれた。

「ごめんなさいね、大尉。うちの母、最近、歳をとって逆に乙女チックになっているの。私の部下を見れば、素敵、素敵って。父や父の同僚が軍人さんばかりだったから……」
「いいじゃない〜。最近、軍人さんに囲まれなくなったから、懐かしくなっただけよ」

 はあ、そういうことか。と、英太も納得し、キラキラとした目で見つめてくれるお母様に、にっこりと白い歯を見せる笑顔を返したら、また『あら素敵、爽やか。若いっていいわね』と言ってくれてるばかり。
 あの葉月さんのお母さんにしては、可愛らしい人だなあという印象だった。

『お待たせいたしました。小笠原行きの搭乗を開始します』

 アナウンスが流れ、やっとゲートが開いた。

「やっと搭乗ね。英太も間に合って良かったわね」
「ほんとうっすよ〜。千葉のホスピス、結構、遠いもんで……」
「大変ね。……貴方も、通うのが大変なら、きちんと相談してね。週明けに遅れて帰ってきても良いようにしてあげるわよ」

 人の列が動き出したざわめきに紛れるように。葉月さんが、そっと耳打ちをしてくれた。そんな気遣い……。ミセス准将ではない、英太が慕っている『葉月さん』としてのものだと分かったから……。

「大丈夫だよ、葉月さん。俺が訓練をさぼったら、逆に叔母に叱られるから」
「それならいいのだけれど。本当に、必要だと思ったらちゃんと私の耳にはいるようにしてよ。テッドでも小夜さんでも。『うちの人』だって……。貴方が困っていたら、きっと親身になってくれるから」

 葉月さんは、冷たいミセス准将。英太の直属の上司。女ボス。
 でも本当は気の良い姉貴みたいな人。――でも、それを分かっていても、英太はこの人のこんな優しい姿に出会えることは滅多になかった。それが今……。
 でも、ちょっと胸が痛んだ。『うちの人』って言った。甲板では旦那のことだって『サワムラ、大佐』と言っているのに。優しい顔をして英太を心配してくれる時、この人は、あのおじさんのことを『うちの人』、夫という。

「有り難う、葉月さん。もし、そうなったら頼りにするから」

 素直にそう言うと、あの葉月さんが、にっこりと輝く笑顔を見せてくれる。
 共に滑走路へ出ていたから、英太の隣の女性は、横須賀の潮風に栗毛をなびかせ、そして明るい午後の陽射しに、茶色の透明な目を煌めかせている。栗色の睫が、ぱっちりと瞬き、英太に微笑みかける。……もう、それしか見えていない青年は、そんな彼女の顔ばかり見て、ただ彼女の隣をついていく馬鹿な少年のようになっていた。

 

 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 やはり今日は、偶然の日なのか。

 チケットの座席番号を見ると、後方の席。やっと辿り着いて、肩にかけていたボストンバッグを上の棚に入れた時だった。

「え、英太もそこなの」

 また葉月さんの声。振り返ると、英太のすぐ後ろにチケットを握りしめている彼女がいた。

「そうっすけど……。あれ? 葉月さんはお母さんと一緒だったのでは?」

 だけれど、先程まで仲良く並んでいたはずのお母さんは、葉月さんと違って既に前方の席で座ろうとしていた。

「ううん。実はうちの母、昨日になって急に小笠原に行く気になって。急遽、空いている席を取れたところだったの」

 だから娘とは予約が一緒ではなかったから、バラバラになったということらしい。
 そして葉月さんの予約席の隣は、今回はこの英太という偶然!

「代わろうか? お母さんと」

 せっかくの母娘揃っての搭乗だから……。英太にとっても『せっかくの偶然』と思ったが、そこは心から気遣ってみた。だが葉月さんは首を振る。

「いいのよ。最初から別々に座るつもりだったし、すぐに着くんだから」

 そんなに長時間ではないフライト。たったそれぐらい、ということらしく、葉月さんは英太がそれ以上気遣わないよう、持っていた旅行バッグをこの座席の棚に収めようとしていた。
 華奢なすらりとした手が、英太の目の前を過ぎり、棚へと伸びる。

「俺がやるから、座って」

 華奢な手からバッグを取り、背が高い自分がさっと棚にバッグをしまう。
 自分より背が高い男が素早く気遣ってくれたことに、葉月さんは目を丸くしていた。いや、違うな? この悪ガキだった英太が、ちょっと大人の男みたいな手際をみせたせいかもしれない。

「葉月さんが奥の窓際だろ。早く座れよっ」

 照れくさいから、今度は甲板でそうしているように、ぶっきらぼうな口になってしまう英太。
 だが今度の葉月さんは『はいはい。失礼します。お先に』と、くすくすと笑いながら流してくれた。

 搭乗が済み、乗務員のチェックも素早く終わり、ついに離陸の体制に入った。
 隣には、あの夜明けの花の匂いがする人。英太は早まる鼓動を必死で抑えながら、ちらりと横目で、本当に俺の隣にいるのかと確かめてしまう。
 ――機体が離陸の助走に入る。葉月さんは窓の外を見ている。その目が、英太が良く知っている『空の女』の目になっていることに気が付いた。
 俺と同じように。マッハで空を飛んでいた人。隣の優雅な女性に、今はその面影はない。だけれど、眼だけは、英太にも通ずる気配を感じ取れた。

「身体が忘れないのよね」
「うん。わかる」

 葉月さんの独り言のような、唐突な言葉さえ。英太にはなんのことかすぐに応えられた。

「軽飛行機を操縦することがあるけど、やっぱり戦闘機で空を飛ぶのは別世界だったわ」

 既にその世界を去った人の言葉に、現役の英太は何も言えない。
 彼女と出会ってから、『引退したパイロット』の気持ちを考えるようになれた。男性パイロットだって、戦闘機乗りだった者達は、今でもその誇りをコックピットに乗せている。そんな情熱を忘れられず、彼等は皆言う。『あのまま空の彼方に行ってしまいたかった』と。ただし、それは無事に空から降りられたからこそ感じてしまう幸せな証拠だとも言っていた。何故なら、本当に空の彼方に砕け散った同志が存在してしまう、そんなパイロット達の苛酷で哀しい現実があるからだった。
 だから英太は、今の葉月さんに言ってみる。

「でも、葉月さんは無事に空から降りられたんだ。俺もそうなりたいよ」

 彼女と出会って二年。まだまだ大空を駆けていたい若僧の英太ではあるが、あの航行任務以降、空を降りることはどういうことかを葉月さんとの衝突で目の当たりにした。だから、ふいにそう言えていた。
 だからだろうか。隣の女性が、離陸で飛行機がふわっと上昇するのと同時に、英太をじっと見つめてくれていた。

「嬉しいわ。英太も、それを心がけて飛んでくれるようになって」

 実は。まだまだ無茶野郎と言われてしまう英太であり、それを制御する役、女ボスとしてはらはらしているだろうミセス准将という間柄の毎日を送っていた。
 それでも。やはり最後はそこで通ずる。どんなに互いに『ギリギリ』まで攻めても、二人でそこで踏み耐えて戻ってくる。二人で。

 英太と葉月さんが強く繋がれるのは、今はそこしかなかった。
 だから英太は行く。そして、彼女の元に戻ってくる。貴女が見えなくなるところに、俺は行かない。
 そんな甲板での語り合いも少ない二人の関係は、『意思疎通』という曖昧で不確かなところで、でも実感を持っている。少なくとも英太は。 
 でもこの日。やっぱり俺達は、そうして信頼してギリギリまで行けているんだという確証を得られた幸せな気持ちを英太は味わえていた。

「いいな。葉月さんはお嬢さんだから、軽飛行機持っているんだ」

 旦那の隼人さんからも聞かせてもらっている話だったし、二年も彼女の傍にいると、他の先輩達からもいろいろな話を聞けるようになったから知っていた。

「そうよ。小笠原のエアポートに一機、預けているの。英太も今度、乗ってみる?」
「え! いいんすか!」
「いいわよ。気分転換にいらっしゃい」

 うわっ。今日という日は、神様が俺にプレゼントしてくれたのか? 英太は本気でそう思った。
 基地では本当に近寄り難いミセス准将。もしかしたら、葉月さんが連れて行ってくれた『非常階段』でいつか会えるんじゃないかと、英太はたまに出向くのだが。あれから一度もあそこで、葉月さんに会ったことがない。『私の新しい隠れ場所』って教えてくれたのに……。それに准将室に一介の隊員が私用で訪ねるだなんて、縦割り社会の軍人には畏れ多い行為だから出来なかった。
 だから葉月さんとプライベートでゆっくり話したことなどない。逆にこの二年で親密になったのは、この人ではなく、この女性の旦那との付き合いだった。

 そんな葉月さんが、プライベートでは軽飛行機程度でフライトをしていると知った時は、英太も嬉しく思ったものだった。
 教えてくれたのは、勿論、旦那の隼人さんだった。

「いつ、乗せてくれるんすか」
「そうね。……すぐには分からないから、分かったら『うちの人』に伝えておくわ」

 ……英太は固まった。
 『うちの人』経由。
 そう、英太が葉月さんの情報を知る時は、旦那の隼人さんのお喋りから知ることが多い。それと一緒だった。
 結局、葉月さんと繋がるには、その間に必ず『旦那の隼人さん』がいるのだ。こうしてやっと、葉月さんのプライベートに近づけても……。気易く近寄れない日常で、葉月さんに気軽に近寄れる時は、その旦那経由が一番の近道だと。英太は分かっていて、痛いほど思い知らされた。

 気の良い笑顔で会話をしてくれている葉月さんの隣で、英太は密かに拳を握っていた。
 ……悔しい。あのおじさんがいないと、俺はこの人の傍にすら自分の力では行くことが出来ない。出来るのは空で、ギリギリの限界に挑む時。空の上だけ。甲板の上だけ。それ以外では……近づけない遠い人。
 今日はせっかくの『偶然』で、夢のようなひとときだったはずなのに。英太はずっしりと重い気持ちに引きずられるように黙り込んでしまっていた。

「英太、どうしたの」

 甲板の声と違う、柔らかで優しい声がすぐそこ耳元で聞こえるのに。
 やっぱりこの人は遠い人。近い日に、この人と軽飛行機でフライトが出来ても、それも一時の……すぐに消えてしまう時間。そしてその時はあのおじさんもいるのだろう。
 拳を握りしめ、英太は……。いつもいつも抑え込んでいる気持ちが、胸の中で渦巻く。それを懸命に抑えようとしているのだが、隣から漂ってくるあの日の香りが、それを狂わそうとする。渦巻く気持ちに飲み込まれそうになり、汗ばんでいる拳を握りしめ、英太はついに――。

「お、俺……。葉月さんと、もっとゆっくり話したい」

 ついに、そう言っていた。
 そっと隣の人を確かめると、彼女も驚いた顔をしていたのだが。すぐにふっと穏やかな笑みを浮かべ、優しく目元を緩めながら静かに英太を見つめてくれていた。

「貴方、ムーンライトビーチというショットバーを知っている?」

 知っていた。だが、観光客以外は古株のおじさん隊員達の溜まり場だという噂で、英太世代の若い隊員達のテリトリーではなかった。

「私、そこにずっと通っているの。独身の時から。行くなら木曜日って、それも決めているの。今は家庭があるから、行ったり行かなかったりだけど」

 ――行くなら木曜日!
 そんな習慣を持っていたことに驚き、そしてそれを教えてくれたことにも英太は驚いた。

「でも。私の周りにいる男性隊員も集まりやすいから、それでも良かったら、いらっしゃい」

 げ。やっぱり! この人のプライベートに踏み込むには、『おっさん軍団』も黙っていないかと、英太は改めておののいた。

「特に、私が行く日はミラー大佐がいることが多いから」

 まじかよ〜……と、英太は大型情報を掴めたかと思ったのに、それは『リスク高っ!』と叫びたくなった。

「でも、私が夜に自分一人で出かけるとしたら、そこだけよ。だから空部隊の男達がそこに会いに来てくれるんだから」
「なるほど。分かりました。もし……葉月さんに相談したくなったら、そこに行ってみる」
「そうしてみて」

 それでも良いことを教えてくれた――と、英太は微笑んだ。葉月さんも、にっこり。

 その後も、会話と言えば、やっぱり『雷神』とか『訓練』の話になってしまうのだが、甲板の氷の人ではない『お姉さん』との会話は和やかに弾んだ。
 だけれど、会話がふと途切れたある時。葉月さんが窓辺の空を静かに見て、それっきり。黙ってしまった。

 こうして空の青を見ると、やっぱり何処か物悲しくなることもあるのだろうか。
 そう思って、英太も次には彼女をそっとしておこうと、自分も静かにシートに身を沈めた。ところが。

「ふ……う」

 そんな大きな溜め息が聞こえたので、葉月さんを見ると。なんとすやすやと眠っている! まじかよ? 静かに空を見ていると思っていたら、あの一瞬で眠りに落ちたのかよ! と、英太は突っ込みたくなった。
 でも――。ゆっくりと柔らかに上下に呼吸しているフリルの胸元からは、あの夜明けの香りが漂ってくる。それにウトウトと頬を染めて眠っている彼女は気が緩んでいるかのように、さくらんぼ色の唇をふんわりと色っぽく開いていた。
 間近で、すぐ隣で。警戒心一切なしの、ミセス准将の寝顔。それを英太はじいっと見つめずにいられなかった。

「口、閉めろよ。まったく」

 すっかり気を許しているような寝顔に、英太はどうしようもない気持ちにさせられた。
 それって俺に気を許してくれているのか。それとも……。

 無防備だな。どの男が隣にいてもこんな顔されたら、隼人さんも気が気じゃないだろうに。俺だってそうだよ。他の男に、こんな顔、してほしくない。

 でも、そんな自分の目の前で。今にもその唇を奪いたくなる、奪えそうな顔をしているから、英太はすっかり舞い上がりそうなときめきに渦巻かれていた。そんな彼女を直ぐ傍で見つめていられるのは喜びでもあったが、男としては襲えそうで襲えないのはそれはそれで複雑なもの。

「隼人さんが、怒るぞ」

 呟いてみたが、やっぱり葉月さんはウトウトしたままだった。

 

 機体が着陸態勢にはいり、高度を下げ始めた頃。それだけで、葉月さんがハッと目を覚ましたのは流石というか。

「やだ。私、眠っていたの?」
「……みたいっすね」

 本気で知らない間に眠っていたようで、葉月さんは英太の手前、ちょっとバツが悪そうな顔をしていた。
 可愛い寝顔だったよ〜って、からかえばいいのだろうか? 旦那の隼人さんなら、余裕でそういって彼女の寝顔をからかうような気がしたが、若僧には出来なかった。

「……英太が隣だから、つい。安心してしまったわ」

 目をこすりながら、まだ眠くて唸っている葉月さんの口から何気なく出てきた一言に、英太は飛び上がりそうになった!
 俺の隣だから、安心して眠れた?
 それって喜んで良いのか。でも男として『襲うはずもない保証済みの青年。対象外の男』って意味にも聞こえたんだけど!!
 いちいち英太の心境は複雑で、結局、隣にいても一喜一憂しているばかりだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 いつもの小笠原総合基地の滑走路に到着。
 憧れの女性と肩を並べての、夢のような時間はあっという間に終わった。

「じゃあね、英太。また明日、訓練で」
「さようなら。鈴木大尉。次のショーで貴方のフライトを楽しみにしているわ」

 飛行機から滑走路に降り、御園母娘が揃って英太に笑顔で別れの挨拶をしてくれた。

「有り難うございます。お母様。准将もお疲れ様でした」

 機体から降りた人々の中。そこではもう、上司と部下、ミセス准将と鈴木大尉でしかない。でも英太は笑顔で、母娘に敬礼をした。だが母娘は御園の女性としての雰囲気そのまま、優雅な会釈を揃って英太にしてくれた。
 英太も物足りないのは仕様がないことであるが、あるはずない時間を過ごせたことは満足だった。

 今日はあの寝顔と一緒に、俺は俺のベッドで眠るだろう。

 黒いシックなスーツを着ている彼女の後ろ姿。英太の鼻先にはあの香り。そして目に焼き付いている寝顔に、フリルの胸元。
 それを頭の中に描くだけで、胸が熱くなる。

 そんな葉月さんの後ろ姿をひらすら見送っている英太の目は、葉月さんの肩から腰、そして丸いヒップから長い足のラインをずうっと追っている。
 やがて、ぶるっと身体が奮い立ってしまった。

「ちっくしょー。脱がしてえー」

 くそー、くそー。隼人さんがすっげー羨ましいぞ! 絶対にあの大人っぽいエレガントなブラウスに触るんだ! 触らないはずない。だって隼人さんだって、男だろ。しかも夫! 触らないなら、俺にくれ!

 心で叫んだついでに、英太はさらに呟いた。

「今日の葉月さんの下着、絶対に『白』。エレガントレースがゴージャスな、大人の女のシルクランジェリー!」

 そんな時だけ、自信たっぷりに英太は『よっしゃ。俺、間違っていない』とガッツポーズ。……後で虚しくなるだけの。

 そんな手に届かないだけに、毎日が、邪な妄想の青年。横恋慕の日々を送っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 海が見える寝室で、いつもの潮騒を耳にしてホッと一息つく瞬間。
 我が家に帰ってきた安らぎが、葉月の身も心も包み込む。

 さて、くつろごうかしら――と、かっちりとしているテーラードの黒ジャケットを脱ごうとした時だった。

「おかえり、葉月」

 寝室に、夫の隼人が姿を現した。

「ただいま、貴方。またお留守番、ご苦労様でした」

 週末に、仕事以外で葉月は横須賀の実家に出かけていた。その間、息子の海人と夫の隼人は留守番。息子のことを夫に任せて出かけた。
 だが夫の隼人は、ひとつも文句も言わず、いつも完璧な留守番をこなしてくれる。それどころか、もしかすると子供達の扱いは父親の彼の方が上手いかもしれなかった。

「気にするなよ。登貴子お母さんの実家の法事の付き添いだったんだから」
「うん、有り難う。あちらの親戚は久しぶりで、緊張しちゃった」
「あはは。甲板では氷の女と呼ばれているお前も、流石に親戚付き合いには疲れるんだ」
「失礼ね。甲板でだって疲れているわよっ」

 帰って来るなり意地悪い言い分に、葉月は早速むくれながら黒いジャケットを脱いで、ベッドに放った。
 だがそこで、目の前で余裕で笑って楽しんでいた夫の目が変わった。ギョッとした目。なんのことだか、葉月も解っていて『知らぬ振り』をする。
 だけど、そんな夫が静かにベッドの傍でブラウスを脱ごうとしている妻の傍に寄ってきた。

「なあ、それ。わざとなのか」
「なにが?」

 じっと白いブラウスを見ている夫の視線から、葉月は顔を背ける。そう、そっぽを向く。
 だけれど、彼が急に葉月の背から長い両腕を回して、葉月を囲いぎゅっと抱きしめてしまった。

「やめてよ。早く着替えたいんだから」
「だから、どうしてこんなことをしているんだと」

 抱きついてきた隼人は、いつまでも教えてくれないことに焦れているのか、ついに葉月の首筋に吸い付いてきた。
 まるで怒っているようで……。まあ、彼が怒っても仕様がないかなと葉月は思う。だって、葉月も本当は『わざとやった』のは間違いない確信犯というべきか。
 なんで旦那さんがそうして『しかめ面で』、教えてくれない奥さんに迫っているかと言うと……。
 とうとう、旦那さんの大きな手が、葉月が着ている白いブラウスに隠れている乳房をぐっと大きな手で持ち上げた。

「お前、白いブラウスに黒いブラジャーってどういうことだよ。すけすけじゃないか。これじゃあ、男共に『私の下着を見てください』と言っているようなもんだぞ。ジャケット、どこかで脱いだりしたのか」
「……していないわよ」
「じゃあ、なに。わざと黒いのを付けて、俺を驚かそうとしたわけか?」

 葉月は黙りこくる。正解なので……。口をつぐんだ。
 なにも答えないので、旦那さんが『ああ、そうなのか』と白けた口調で、さらにぎゅっと葉月の両胸を握りしめる。

「痛いから、やめて」
「ああ、忘れていた。奥さんは『優しく怒られる』のが好みだったな」
「ちょ……っ、いや……」

 怒っていた隼人の手が、急に……ゆっくり柔らかに妻の乳房を揉んだ。その手が既に葉月を、いつもの熱く焦がれる瞬間へと引きずり込もうとしている愛撫の手。それどころか、ブラウスの生地の上からも、器用にブラジャーのカップの下へと指を滑り込ませていく。そういう器用さに、葉月はいつだって驚かされ、身体を、いや乳房の先を震わせ固くした。彼の指が辿り着いたのは、女の泣き所。既につんと尖ってしまったそこを、隼人の指先が意地悪く撫でる。

「もう。今はだめ。あん、やめて……あん、」

 熱くしっとりとした息を小さく弾ませながら葉月は許しを請う。そこでやっと隼人も意地悪な手を止める。そして耳元で『じゃあ、続きは今夜な』と囁いた。

「脱いでしまうのか。もったいないなあ。そのまま夜まで着ていて欲しかったなあ。着たままのお前をさあ……」

 さらに囁いている彼の唇が葉月の耳たぶに、ゆっくりとした甘噛みを。彼の息も熱く、男らしく乱れている息を必死に抑えているのが伝わってきた。葉月ももうその気になっている夫の声に負けて、溶けてしまいそう。ついに、旦那さんの腕の中にくったりと力を抜いてしまい、さらに抱きしめてもらった。

「お前って時々、確信犯だな」

 やっと葉月なりの『いたずら』に気が付いてくれたらしい。

「いいでしょ。貴方しか見ないんだから。白いブラウスの下に、透けるような黒の下着を付けているなんて、秘密……」

 『秘密』。妻のいたずら。でも、それが実は夫のための『秘密』。それを聞いた途端、彼が嬉しそうに微笑んだのを葉月は見逃さなかった。だって、それが最後には見たかったんだから。

「上出来だ」

  ――『んっ』。葉月は急に息が出来なくなって、目をつむった。喜んでくれた旦那さんが、熱烈な口づけをしてくれる。
 そのまま葉月も、旦那さんの激しい口づけにとろけていく。そこではもう、負けても良いと思った。

 でも、心の中で少しだけ。『旦那さんをまだまだ驚かせる妻でいたかった』とひっそりと呟いていた。
 まだこんな『いたずら』をして御園大佐をその気にさせる妻だって事を知らない青年がいるとも知らず、ミセス准将は大佐と二人きり。その青年が、まさか白いブラウスの下は、清純な奥様の白をまとっていると信じているだなんて知らず。

「ウサギさんは、ほんっとうに面白いな」

 そう。知っているのは、この旦那さんだけでいいのだから。

 

 

 

 

Update/2010.1.5
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