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7.ウサギを追え!

 

 しっとり濡れた柔らかい妻の溜め息が、何度も零れる夜中。

 夜明かりに滲む白い肌がじんわりと汗ばみ、隼人の身体に吸い付くほど。彼女の身体は熱いはずなのに、いつだってそんな時の妻の肌は夏でもひんやりと心地よく感じてしまう。

 いつもより強引に彼女の足を割り開いた男の手は、無条件に許されているはずの茂みの奥に激しく侵入し、その指という指がとろとろに溶けてしまいそうになっていた。
 夫の指を溶かしてしまうほどに熱くとろけた蜜をこれほどにこぼしてくれているのに……。でもこの夜の隼人は、それでも『もっと俺を溶かせ』と貪欲に彼女の中で意地悪く要求していた。
 『はあはあ』といつまでも弾む押さえられない喘ぎに、妻の葉月ももう……執拗な夫の腕の中でぐったりと降参状態。
 いつもは優しい気持ちで彼女と抱き合っているが、今宵の夫は妻を後ろから羽交い締めにするようにして責めている。夫の膝の上で悶える妻。首筋には強い口づけ、執拗な愛撫、熱い息で責められる耳元では意地悪な囁きに彼女は何度も耐えている。

「なあ。そろそろ、教えてくれよ」

 そう尋ねては、妻の乳房の先を唇で弄び、溶けそうな指先は妻がいつも泣いて泣いて許しを請う泣き所をぬるりと行き来した。捕獲したウサギを固く抱きしめている隼人の腕の中で、葉月は『ああん』と泣くと背をぎゅっと反らしてよがる。
 口の中でツンと固くなった赤い胸の蕾をさらに吸い上げると、今度は溢れる蜜で濡らされた指が、彷徨わせているそこできゅっと強く締め付けられた。

「いつもの貴方じゃない」
「お前もな。いつもの身体じゃない」

 自分がそこまでいつもより意地悪く執拗に責めたてておいて、それに過敏に存分に責めた分だけ応えてくれている身体に勝手な言い分。
 妻は苦しそうだった。唇を噛みしめ、夫が責めるままに喘ぎたいのを我慢しているようだった。
 その唇をまた意地悪く割りひらくと、堪えに堪えている喘ぎ声が僅かにこの潮騒の寝室に響いた。

「やめて」
「大丈夫、聞こえやしない」

 同じ二階で眠っている息子に気づかれまいと、妻はいつも声を抑えている。今度は、妻のはあはあと弾む息を弄ぶように、割り開いた唇に指先を忍ばせ、彼女に愛してくれるよう要求した。その通り望むままに妻は応えてくれる。快感に震えている彼女の舌先が、そろりと隼人の指先を愛撫する。そこも、足と足の間から入ったままの男の指同様に、妻は熱く濡らしてくれる。
 悩ましい唇がけなげに夫を愛している。そうしてくれるほどに、今度は夫の男の指先が妻の身体の奥の奥へ入り込み、何度も何度も出入りする。妻の身体から『女の匂い』が強く立ち込める。その甘い香りがそこら中に漂い、それを吸い込む隼人ももう朦朧としそうだった。
 じっとり湿った肌に、柔らかな栗毛が隼人の身体にまとわりつき、艶やかに濡れた唇が懸命に夫の指を愛し、そして夫は妻の泣き所をいつまでも責めたて、彼女が惜しみなく応えてくれた蜜でその指を溶かしている。

 そして隼人は、また彼女の耳元に囁いた。

「なあ。本当はどこに出かけているんだ。そろそろ教えてくれよ」

 妻だけじゃない。悩ましいばかりに悶える女の身体を、自分のものだけにしている男も、もう息も絶え絶え。そろそろ彼女が陥落してくれないと、ずっととっておきにと堪えている自分の男の身体が暴走しそうだった。こんな意地悪な囁きだって、まだ優しくしているんだと隼人は本気で思っている。俺がこうして切なく囁いているうちに、お前も降参してくれないかな? そうじゃないと……答を聞く前に俺の身体がお前の身体に負けてしまうだろ。そう心で密かに訴えながら、あともうもう少しでお前が俺の手の中に落ちると願って、隼人はさらに濡れた指先を、妻の泣き所に執拗に滑らせた。
 くるくると意地悪く細かに責められている葉月も、足と足を震えさせ、足の指先をもどかしそうに開いたり閉じたりしている。それを目にして『あと少し』と思いながら、隼人はまたもや答えてくれない妻に囁いた。

「もういいだろ。教えてくれよ。基地の外に出て、どこに行っているんだ? お前が答えてくれないなら、俺が言う。いいな?」

 そう責めた途端、隼人の肩先でぐったりと頭を預けていた葉月が、力無くゆっくりと首を振った。それでも声にはならないようで、ひたすら『はあはあ』とよがっているだけ。

「いや」

 やっと聞こえた声。答えてくれた唇を、望んだ答じゃないのに隼人はまた愛おしくなって口づけ塞ぎ、また激しく吸ってしまっていた。

 『……どうして』『いつも、』『貴方と……』。僅かに唇が離れる間に、やっと葉月が懸命に言い返してきた。それでも隼人は何度も葉月の唇を吸う。『どうして』『……二人きりにしてくれないの。意地悪』。彼女の栗色の瞳が、熱く潤んだ。

「二人きりだろう? どうして、今ここに俺達以外の誰かがいるというんだよ」

 『答え』を知っているから、隼人は妻を責める。
 俺の『どこに行っているのか』という質問に、『二人きりにして』と答えた妻は既に充分な『真実』を答えていると気が付いているのだろうか?

「もう、いや。意地悪。離して。もういや……」

 唇を解放された葉月が、泣いて頼んだ。
 こんなふうに好きなように身体という身体を言うことをきかせながら、身も心も女としてとろけ落ちそうなその時に、答を知っているくせに意地悪な夫の質問。妻はそんな夫の責めに泣いている。
 身体が既に夫の好きなままに操られ、心も持っていかれそうな中、僅かな抵抗の涙。その涙がまた悲しみの涙でもなんでもなく、もう夫の思うままに可愛がられて最後に見せる感涙の。

「お願い。お願い。貴方、私を連れて行って」

 『貴方の手で指先で、唇で、そしてその逞しいまま固くして待っている男のその矢で私を貫いて、私を連れ去って』。
 最後、妻が恥ずかしげもなく夫に乞う呟きに、結局は隼人も負けてしまうのだった。

 『わかった』と答えた後の方が、男として容赦ないというのに。

「あっ、貴方……貴方……隼人さん……」

 ついに隼人の男の指先は、妻の身体の中、熱くて濃厚な蜜に溶かされてしまった。
 それと同時に、ぱあっと葉月の身体から甘くむせかえる女の匂いが強く放たれる。

 いつもの、妻がつけている香り。妖しいジャスミンの匂い。それを知って、隼人は今ここに誰も知り得ない彼女を手に入れたと確信する。

 咲き誇った妻が、ほころんで咲くだけ咲いてあっという間に花びらを散らしてしまう前に。隼人は乳房のツンと立った固い蕾を吸いながら、こぼれ落ちる前に腕の中の妻をそっとシーツの上に。

 今度は指じゃない。隼人の全てが彼女の身体の中で溶かされる。
 結局はすべて、隼人が彼女に負けてしまっているのも、いつものこと。

 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そろそろ『わかっている答え』を『互いに知らない振り』にしておかないで、夫妻の間で明確にしておこう。
 隼人はそう決意し、翌日、動き始めた。

「野口、いくぞ」
「はい、大佐」

 なにをしでかすかわからない科長室の爆弾娘を常に側においている毎日。
 そのお嬢ちゃんを従え、隼人は駐車場へと向かう。

 車が並んでいる外へ連れてこられ、野口真美が訝しそうにしている。構わず、隼人は自分が通勤で乗ってくる白いワゴン車へと連れて行く。

「助手席に乗って」

 『え』という戸惑いの顔を見せた真美。それでも隼人は素知らぬ顔で運転席に乗り込んだ。訳もわからないが、それでも上司の指示だからと真美も助手席にやっと来た。

「持久戦だ」

 まだ真美の不思議そうな顔。そんな彼女に、隼人はここに来る前にカフェテリアで買ったドーナツを彼女に渡す。

「まあ、それで退屈をしのいでくれ」
「大佐は?」
「俺はいい。すぐに運転できるようにスタンバイしておきたいんで」

 『頂きます』と、真美がドーナツを頬張る。彼女がいつも飲んでいる無糖の健康茶のペットボトルを差し出すと、とても驚いた顔。

「あの……私が、これをいつも飲んでいるってご存じだったんですか」
「側近癖と言ってくれ」

 『ああ、なるほど』と、彼女も納得してくれたようだ。

「やはり、側近をされてきた方て、皆さんそうなんですか」

 真美の質問の間も、隼人はハンドルを握りいつでもエンジンスタートの体勢、そして眼鏡の奥の視線は絶えず駐車場のある一点を見据えていた。

「うん、俺なんか序の口。海野とかホプキンス中佐にはいつまでも敵わない。彼等はもっと細かく人を観察して……」

 おじさんぽい説明をしている時だった。隼人が待っている瞬間が来た。

 赤い車に近づいてくる、栗毛の女。
 予感的中。今日、妻はいつもの『内緒のおでかけ』の為に出てくると予想していたがその通りに。

「来た。野口、行くぞ。シートベルトをしてくれ」

 頬張っていたドーナツをすぐにしまい、真美も出かける心積もりに整えてくれる。そして彼女も、隼人が見据えている先を知る。

「御園准将……ですね。奥様を待っていたのですか」
「ああ。でも気づかれないようにな」

 まだエンジンはかけない。妻が赤い愛車に乗り、その車が先に行ってからだ。
 あのテッドの目すら騙して誰にも内緒ですり抜けてきただけに。憎たらしいくらいに、妻は悠々とした様子で赤い車に乗り込んだ。

「奥様、側近もつけないでお一人で?」
「今に始まったことじゃないが、基地の外にサボりに行くのは今までになかった」

 また真美が驚いた顔をする。あのミセス准将が『たった一人で基地の外にまでサボタージュに出かけていた』というのが、驚きだったのだろう。
 そりゃそうだ。主席側近のテッドか護衛のアドルフが一緒ならまだしも、たった一人で出かけるというその『仕事の雰囲気ゼロ』のところがもう、域を超えているというもの。
 それでもある程度、『大佐嬢時代』から葉月のサボタージュは有名な話で、基地では容認されている。逃げる上司を追う秘書官達の手際の良さも有名だった。それが……今回に限って、テッドですら『未だにミセス准将を捕まえられない事実を、とても口外できない』と、優秀と誉れるミセス准将秘書室の連敗に嘆いていた。『わかった。時期を見て俺が追跡するから、今は負けている振りを続けてくれ』。そうテッドに告げ、妻を油断させる作戦に出た。
 そうしているうちに、隼人の中である違和感が生まれていた。
 ミセス准将が外に出て行くという事態になっているのに、いつまで経ってもあの正義が気が付かないことだった。そして予想している『サボタージュ先』になろうそこの主も知らぬ顔をしていること。さらに、こんな時、いつだって密かな情報を流してくれるリッキーですら何も知らない様子でいること。
 ――おかしい。じゃじゃ馬が好き勝手に出来るのは、それだけ彼女より敏腕な男達がこの基地に揃っているからだ。なのに……その男達が、なにも気が付かないこと暫く。夫の隼人が知る前に知っていることだって良くあること。それを……まったく無関係な部署とも言える場所にいる工学科大佐の隼人がこうして追跡するまで野放しとは。

(絶対に、俺に何か隠しているな)

 もっと気になっているのは、正義の変貌だった。
 今までは、隼人と同調してウサギの手綱を一緒に持ってきてくれたはずだったのに。隼人の手綱が駄目なら、正義兄様の手綱。そうして連携してウサギをコントロールしてきたはずなのに。
 それがここ最近、なんだか正義がその手綱を放し、ウサギを野放しにし、ウサギの願いを聞き入れているような錯覚に陥っているほど。

(なにを話し合って決めたんだ)

 そして、『あの男』がこれまたこっそりウサギの味方についていることにも気が付いていた。
 だからこその、昨夜の意地悪。でも……結局は、あんな時の意地悪なんて……。

 ハンドルを握りしめ、隼人は密かに狂おしい溜め息をこぼした。
 昨夜、妻と溶け合ったそこが妙に熱く疼いた。そうだ……昨夜のあの熱い分かち合いがあったからこそ。隼人はそんな妻を追いかける決意をした。

「奥様の車、行ってしまいましたよ」

 焦る真美の声に、隼人は目を見開く。エンジンをかけたが、まだアクセルは踏まない。

「行く場所はだいたい見当がついている。ゆっくり後をつける」

 落ち着いた余裕の旦那さんに、真美がまたまた驚いた顔をして黙ってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 基地の外に出ると、赤い車はもう見えなくなっていた。
 だが海岸沿いを走っているうちに、いくつか先のカーブを曲がる赤い車を遠くに見つける。
 恐らく、予想通り。そうあってくれ……。
 これで外れた場所に出かけている方が、夫として不安になる。だからといって、平日の昼下がりに『そこ』に出かけて居ついていることに気が付いた時だって、本当はなんだかスッキリしない気持ちにさせられたが……。

「見えなくなっちゃいましたね」

 平日の昼下がり、島の海岸道路はとても静か。その道を隼人も低速で走って余裕の追跡。
 そしてついに。見当をつけていた場所に、辿り着く。妻がそこにいるかはまだ確定していないが、ともかくその場所の道ばたに車を停めた。

「ちょっと待っていてくれ。あ、その間、車を動かすとか俺の後をついてくるとかするなよ」

 こうしていちいち『これをやっちゃ駄目』と釘を刺しておかないといけなかった。『変に気配りをしたばかりに周りに迷惑をかける』爆弾娘がなにをしでかすか判らないからだった。
 真美がこくこくと頷いたのを確かめ、隼人は車降りる。
 目の前は『丘の坂』。坂の上には懐かしいマンション。そう、義兄の丘のマンションに辿り着いていた。

 車で坂をあがると、見晴らしがよい義兄の部屋から一目で判ってしまうので、隼人は坂の壁づたいに隠れるようにしてマンション駐車場を徒歩で目指した。そこへ到着して隼人は確認する。『あった。いた』赤い車が停まっていた。
 あまりにも予想通りで、かえって隼人はホッと安堵の溜め息が出てしまった。

「だろうな。あいつが外に出て安心できる場所は、ここかうちぐらいだ」

 だからといって、日中誰もいない自宅にサボタージュしても彼女にとって仕事に利点はなく。だが、義兄の城に居ついている訳も分からない。
 今でも愛しているはずの男『義兄』の自宅へ、平日の昼下がりに訪ねていく――というのは、過去に愛し合った男女が夫に隠れてすることには少々よからぬ行動ではあるが、いまこうして隼人が安堵しているのは訳がある。現在の義兄の自宅には、留学帰りで骨休めをして長期滞在をしている甥っ子が居ついていること。さらには、義兄の一番部下で、私生活でも弟分という『ジュール』までもがずっと滞在していることだった。
 そうして義兄の谷村家は今、息子と弟分の三人で家族ぐるみの日々を送っていて男ばかり賑やかにしていた。隼人も夜はよく訪ねては、酒を共にしたり、ジュールといろいろと話し合ったりしている。
 そして妻は昼間に通っている。それは何故? それが判らない。

 何か、奇妙な変化に置かれているような気がしてならない。

 だがひとつだけ。夜の男同士の晩酌で、義兄とジュールが教えてくれた情報がある。
 『女艦長が乗り込む空母艦が、年に数回、日本の領海を航行するという噂が良く聞こえるようになった。なにか悪いことにつけ狙われないよう、警戒を強化するよう、正義にも報告しておいた』――という話。
 それを聞かされ、隼人自身も連隊長の正義と意思疎通の話し合いに出向いた。正義も『最悪のケースを想定した上での、警戒を計画している』とのことだった。
 それは妻とも話し合った。『私も黒猫情報を教えてもらったので、私のリスクを考えた上で』――そして妻が、隼人に教えてくれたことは――『横須賀のある男を、引き抜くことにしたの。貴方も協力してね』。その案を聞かされた隼人は、妻が考えたことに抜け目がないことを改めて感じ、大賛成をしたばかりだった。

 それでも、なんだか。『俺が知るまでに、誰もが知っているようなかんじだった』感が拭えない。
 そして悟ったのだ。この連携の発信源はやはり『黒猫』。この義兄のアジトで、妻がなにかを相談しているのだと。

 どうして俺に教えてくれない。

 自分も妻にわざと言わずに事を進めることがある。それが最終的には結果として妻のため、御園のためになっているから、妻に言わなかったことを許してもらってきた。だが……今度は妻がそれをしている気がしてならない。
 いや、それならそれで。自分同様に、『夫に黙っていても、結果的には夫のため、家のため』と妻も思っているのならば、それは隼人も黙って待っているべきなのかもしれない。

 そんな葛藤と苛立ちを、昨夜は葉月の身体にぶつけてしまっていた。

 でも。ある意味、いちばん任せられるところに忍んできているのなら、もういいか――と、隼人は背を向け坂を下りた。

 車に戻り、真美がちゃんと待っているか確かめようとして、隼人はそこでびっくりする。
 真美が乗っている助手席に話しかけている自転車の男がいた。なんと、またもやおっぱい魔女っ子ちゃんに近寄る男が!
 しかし驚いたのも一瞬で、自転車にまたがっている長身の男が栗毛であるのを知って、隼人はほっと胸をなで下ろした。

「隼人兄ちゃん!」

 留学帰りで、懐かしい小笠原に暫く滞在中の甥っ子、真一だった。

 もう三十歳になろうとしている大人の男に成長したというのに、『兄ちゃん』と微笑む顔は今でも無邪気。隼人から見ればまだ可愛かった。

「とうとう、ばれちゃったんだね」

 若叔母が、誰にも内緒で基地を抜け出し、隠れ家にしていることを甥っ子ももう良く知っているようだった。

「まあな。一度、見当だけでなくしっかり確認しておこうと思ってね」
「さっすが、兄ちゃん。葉月ちゃんのこと、なんでもわかっちゃうんだね。それに落ち着いている〜」

 いやいや、と、照れながらも。本当は昨夜、奥さんを捕まえてちょっと荒れたんだけどね……とか、胸の内で密かに囁きつつも、男として口が裂けても言えないこと。それなのに甥っ子に、昔変わらぬ綺麗なきらきらした目で尊敬されてしまうのがちょっと申し訳なく情けない。

「どうするの。踏み込まないの、兄ちゃん」

 踏み込むって……。なんだかなあ。妻の情事の現場を押さえる旦那みたいな言い方に思えて、隼人は苦笑い。

「いや。俺が見つけたことも、確かめに来たことも言わないでくれ」
「それはいいけど……」

 今度は夫が内緒の行動。でも昨夜の様子で、妻も『そのうちに旦那さんはここにいるとすぐに気が付いてしまう』と判っていたようで、だから『どこに行っているのか』という夫の意地悪な問いに『今は二人だけにして』と答えられたのだろう。熱い二人だけの蜜月にしたいのに、その問いに素直に答えれば、そこには『義兄様』という男を登場させなくてはならなくなる。だから……。
 本当は互いに何をしているかなにを気づかれているかも判っているし、互いに確認し合っている。それが昨夜、判ったから。

「もっと知らないとこや危ないところに一人で踏み込んでいないかそれだけが心配だったんだ。でも義兄さんにジュールがついているから、大丈夫だな」

 そう言うと、真一も隼人が安堵したことに気をよくしたのか、あることを隼人に教えてくれた。

「葉月ちゃん。親父の本ばかり読みに来ているよ」
「なんで、義兄さんの本なんか」

 経済の本ばかりじゃないか。葉月があまり興味を持たない本ばかりだったのにと、隼人は驚かされた。

「それから……」

 真一が自転車に乗ったまま、ちらりと助手席で待っている真美を気にした。だがそこは気が付く甥っ子。そっと隼人の耳元で囁いた。

「基地ではだめなこともあるでしょ。ミセス准将ほどになると」

 ん? それはなんのことだ――と、隼人もすぐには見えなかった。

「兄ちゃんも気が付いているんじゃないの。彼女についている虫のこと、葉月ちゃんはもう調べ始めているよ」

 ギョッとして、隼人はつい真美を見てしまった。彼女と目が合い、ちょっと怯えた顔。

「まさか。俺のところのデーターベースを開こうとした男のことか」
「うん。尻尾を出して失敗したようにみえるけど、甘く見ない方が良いとか言ってね。基地だとそいつに動きを察知されるから、親父のところであれこれ」
「それ、正義さんは……」
「正義おじちゃんも知っているんじゃないかなー? そこまでは俺もちょっと……」

 でも、側近のテッドにも知らせずに、どうして義兄やジュールに頼っているのか。隼人はまた奇妙な気持ちになり、妻が分からなくなる。

 ハッとすると、目の前にいた甥っ子がくるりと自転車を反転させ、また真美のところに行ってしまった。

「君、可愛いね。俺、ミセス准将の甥っ子。いま暇しているんだよね。ねえねえ、今度、俺と一緒に食事でも行かない?」

 あの真一が、叔父の目の前で叔父の部下をナンパしていて『オジサン、びっくり』!

「こら、真一!」

 だが真一はお構いなし、にっこりなにやら企みの笑顔。そーいう笑顔、父親の純一より、叔母の葉月にそっくりったら!
 だが、それで隼人には真一の意図が見えてしまった。

「いいだろ、大佐。隼人叔父さん」

 急にそこだけ、男らしい強い口調。しっかりと大人になった『男』を見せる甥っ子。

 変な虫が寄ってこないよう。俺が暫く彼女を見ているよ。

 そう聞こえてきそうな意味深な笑み。

「の、野口は……どうなんだよ……」

 すると戸惑っている真美が、恥ずかしそうに俯きつつも言った。

「……私でよろしければ」

 くーっ。お前、そこで一度は慎ましく断ってくれよ!
 上司のオジサンは心で泣いた。そのほいほいついていく甘さで、変な男を工学科に近づけたんだから! と。

「決まり。ケイタイ持っている? 貸して」

 だが、隼人がそうして戸惑っている間に、甥っ子が目の前でテキパキと携帯電話の番号を赤外線で交換。

「二日内に連絡するよ。食事に行く日を決めようか」
「は、はい。よろしくお願いします」

 なんて、手慣れているんでしょう。うちの坊ちゃん!

 ウサギを追跡してきたら、なんだか小ウサギがとっても立派になっていたというお話。

 

 

 

 

Update/2010.11.30
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