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13.ヘッドハント

 

 なんと今夜、ミセス准将の葉月さんが狙っていたのは『ヘッドハント』!

 英太の元上司で、パイロットとして一番最初に育ててくれた男、橘慎吾中佐を口説き落とそうとしている。

 しかも。『来てくれたら、大佐にする』と葉月さんは好条件を突きつけて。
 だが、橘中佐が『うーん』と黒髪をかき上げ唸ってしまっている。

「そーきたかー」

 『アンタの嵐には巻き込まれない。何を言いだしても聞かない』と豪語していた橘隊長。だが流石に、『雷神に来い』は想定外だった様子。

「俺はてっきり、横須賀にホワイト戦闘機を配備した後のフライト指導者になって欲しいだの、それを手配するチームの仕事を率先してやれ――とか。横須賀の意向はお構いなし、ホワイトに関しては『当然先輩面』の小笠原部隊が、毎度独自の企画を押しつけにきたのかと思っていたんだけどなあ」
「確かに。二年内には横須賀にも同様にホワイトを配備する予定です。その為に現在、長沼さんが『横須賀にもエースチームを作ろう』とか『ホワイトに搭乗させるパイロットの審査を始める』など。とても活発に活動されていますから。こちらからもホワイトを配備する上で、横須賀のお役に立てるよう、既にホワイト機フライトの管理ノウハウの指導計画を準備中ですけど……」
「それだよ、それ。絶対に現場からは離れようとしない俺と相原には、その仕事が確実に回ってくると構えていたんだよ。でもな。俺達は小笠原が既に執り行っている管理ノウハウは聞かせてもらっても、あんた達小笠原と同じようにはならない。俺達は俺達横須賀のフライトを、または雷神に張り合えるチームを作ろうと……」

 横須賀空部隊を支える男としての情熱に溢れていた。特に長沼中佐と相原中佐、そして橘中佐は空部隊を支える三人衆として知られいてる。そのうちの一人を引き抜こうだなんて……。そして橘中佐だって、そうそうは今まで培ってきた居場所に同僚を裏切れないだろう。

「横須賀空部隊の『男の夢、ロマン』ということですね。それが雷神より魅力ということなのですね」

 やんわりと橘中佐の意思をなぞりながらも、葉月さんは『どっちなのだ』と二者択一を迫っているように英太には見える。
 しかし。橘中佐は唇を噛みしめ、落ち着かない様子で黙り込んでしまう。彼も窓の向こう、ピンクの薔薇を見つめていた。

 橘中佐が『小笠原と同じにはしない。俺達横須賀は横須賀で築き上げる』と言い切ったその情熱。男のロマン。それは確かにやり甲斐があるだろう。英太もそう思う。

 男の情熱に燃えていた中佐の沈黙が暫し続く。葉月さんもただじっと、黙って待っている。そこに英太も『ジレンマ』を見た気がした。
 やはり。パイロットならば。『雷神』は伝説で憧れだ。特にシアトル湾岸部隊の雷神の総監をしているトーマス准将は、元祖雷神のパイロット。紺の夜空に走る黄金の雷(いかずち)。そのワッペンがパイロット達の憧れ。
 そのフライトをルーツにして、師弟が復活させた雷神2チーム。1チームは元祖パイロットがいるトーマス准将の空部隊に。2号チームは愛弟子で、このフライトを復活させると言いだし見事にやり抜いた功績者でもあるミセス准将、葉月さんの空部隊に。
 たった2チームしかない。そのチームへスカウトされることは、連合軍の空部隊の中でエースチームに行くことを意味する。
 どんなに横須賀で、小笠原の雷神に負けないチームを作ろうと燃えても。実際にはそれに値するネームバリューを得るまでには、何年もかかり、そのうえ遅れを取ること常に後を追う立場になることは間違いない。
 それでも自分達の手で新しいエースチームを生み出す苦労を取るか。それとも……。男はそこに苦悩する。英太にも伝わってくる。そして英太はこんな時、連隊長の言葉が蘇ってきた。『理想通りに行くと思うな。理想を追っている間に現実があっという間に過ぎていく』。スコーピオンとの正面対決をしたかった。だが現実は違う。そんな『それが最高の男だ』と謳われる苦難の道を選ぶことが全てではない。もっと他の道でベストを尽くせることもある。それを知ったばかり。あの時、本当は英太と同じ気持ちを持ってくれていた葉月さんが英太の代わりに連隊長にぶったたかれたから。英太は夢ではなく、現実を見ることが出来た。
 隊長もいまそこに立たされている。男の夢、苦難を越えた栄光。否、既に王者と確定しているポジションへ今ならストレートに掴めるチャンスか。

 そんな男の苦悩を、葉月さんもしっかり汲み取っているようだった。だからとて。ただ黙っているのでは『説得という使命』は果たせない。
 やっと葉月さんが口を開いた。

「何度か同じ空母艦での任務に就きましたわね。貴方は『悪ガキ』。私は『小娘』。細川総監にいつもそう呼ばれていた」

 今の細川小笠原連隊長の父親が上官だった時の話になったようだ。

「英太を見て、本当に貴方が見つけた、貴方らしい人選人材だと思っていました。この彼を初めて連れて行った航行任務でつくづく感じたものです」

 急に自分が話題になったので、英太はドキリとした。それに……元上司だった中佐と自分がまるで『師弟で似ている』と葉月さんが言いだして。
 腕を組んでだんまり考え込むだけだった橘中佐もチラリと目線をあげた。

「橘さんも『自由に飛びたい』と言い張って、着艦前に細川中将の指示も無視して『ローアングルキューバン』をやってみせたでしょう」

 それを聞いた英太にデジャヴが起きる。二年前に初めて葉月さんと航行に出たある日の飛行を鮮やかに思い出していた。

「ホワイトをやっと乗りこなした英太が自由に飛びたがっていたので『遊んでいい』と任せたら、あの日の貴方そっくりに『ローアングルキューバン』をやってくれたんですよ」

 知らなかった! その時、二人の男が同じように顔を見合わせた。
 それぞれの時に、それぞれの場所で。でも見ていた女は同じ。そしてその女が別々に見たものも同じ。
 しかもその『それぞれをそっくりにやった』のは、スワローという燕部隊での元師弟。

「4ポイントロールも、スローロールも実に見事。一糸乱れず美しい飛行軌跡でした。いつか貴方が魅せてくれたそのまま、そっくりだった。流石、スワロー飛行隊。そう思いました。そして貴方の得意技、バーティカル・クライム・ロールも。今や雷神で一番にこの技をこなすのは、エースの『バレット』なんですよ」

 だから、あの時。あんなに興奮したように頬を染めていたのか! 在りし日の印象深く英太に刻まれている葉月さんの顔を鮮やかに思い出す。
 そんな偶然なのか必然なのか。その一致に巡り会った女が言った。

「雷神のエースになった『バレット』を、私以外に誰が指揮できるというのですか。私の代わりにこの若きエースをリードしてくれる男は一人しか浮かびませんでした」

 エースの誕生。そのエースを見出した元々の男、そしてミセス准将と出会うまで密かにリードしてきた男。だからこそ……これからはもっと貴方が必要で、貴方がピッタリだと葉月さんは言っている。
 英太は勿論、橘隊長も驚きのまま言葉も出ない……。
 それだけ葉月さんが説いた『偶然のようで必然』を前置きにした『適任の理由』はあまりにも説得力があり、二人の男は揃って納得せざる得ない。

 だが。それでも橘中佐が気を取り直したように姿勢を正し、ワインボトルを手に取る。それを先ず、葉月さんのグラスの注ぎ自分にも注いで一口。心を落ち着けているようだった。

 彼がグラスを置くと、今度こそ『ミセス准将』に真っ正面向かい合う。

「いや。やはりおかしな話だ」
「どのようにですか」

 落ちついている指揮官ふたりが真剣勝負のように真向かう間にいる英太の方が、緊張するはめに。

「なんかおかしいだろ。『私以外にバレットをリード出来る男がいない』と聞こえるが。そこ、おかしいだろ?」

 英太もそこは同感だった。
 いったい、なんなんだ。葉月さんは何を考えているんだ。どうして今になって橘隊長が必要なんだ? 葉月さんとミラー大佐とコリンズ大佐に指導してもらえば充分だというのに。
 英太の胸に湧き上がった疑問。それをそっくりそのまま橘も口にした。

「そちらには、シアトルのトーマス准将の部下でもあったミセスの兄弟子ともいえるミラー大佐という息が合う片腕に、長年、貴女を見守って常に力になってくれる先輩のコリンズ大佐もいらっしゃる。そのうえ、ご主人の御園大佐が元甲板要員で空部隊員、空軍管理官の経験もあり、そのうえ機体の性質を知り抜いた工学者でもある。それだけの人材がいて、どうして余所者の俺が『今すぐ』必要だとおっしゃるのですか」

 つい、英太も頷いてしまっていた。
 そんな時、葉月さんがジッと英太をみつめていたので思わずびっくり。いや、反対とかそんなこと言える立場であるはずもなく……。

 しかし葉月さんが英太に告げたのはもっと違うことだった。

「英太。貴方がいま膝に持っているものをテーブルの上に出して」

 硬直する。そして一瞬、彼女が何を言いだしたのか理解できなかった。
 だって。いま英太の膝の上にあるのは『知られてはならないもの』ではないのか。この英太を含めた特定の数人しか知らないミセス准将の秘密……。

「出して。私も出すから」

 当の本人は。既にそのことも覚悟して来たということなのか。
 英太が躊躇している間に、先程英太が握らせた拳がテーブルの上に乗ってしまった。
 まだその気には決せない英太をよそに、ついに葉月さんはそれを橘中佐が見えるテーブルの上に置いてしまう。

 冷めてしまった魚料理の白い皿。ロイヤルブルーのテーブルクロス。その上に映える『小さな白い粒』。
 つい、英太は顔を背けてしまった。そんなこと、部外者の中佐に、しかもパイロットとしても指揮官としてもずっとライバルだろう横須賀の指揮官に見せてしまうだなんて。

「英太」

 柔らかい声だったが、そこには甲板で常に英太を制してきた芯のある厳しさを含めたもの。
 ついに英太も。膝の上に持っていた『花のお守り』、薔薇模様のモザイク小物入れを置いてしまう。その上、葉月さんがその小物入れの蓋を開けてしまう。

 橘中佐も最初は小さな白い粒だけを見た時は不思議そうだったが。薔薇の小物入れの中にある銀色のシートを目にすると、なにかを察したように見る見る間に表情が凍り付いていくのを目にしてしまう。
 それでもさすがミセス准将。甲板で見せている氷の横顔で相手の目を離さず、真っ直ぐにみつめ言った。

「察してくださいましたか。私は『PTSD』です。軽度の過呼吸に動悸、時に微熱。不眠症も。結婚してから特に重くなり、夫の前でパニック症状を起こすことも希にあります」

 そんなプライベートでの様子まで語られ、英太も凍り付いた。
 『よく見ておくんだ。この人が乗り越えてきた夜を――』。初めての航行で知った葉月さんの、葉月という人間としての『夜の闇』。誰よりも気を許している夫だからこそ、そこで取り乱すこともある。そう聞こえた。
 そしてそれは、橘隊長にとってもショックだったようだ。

「……かもしれない。でも嘘だ! アンタは俺達と空を飛んでいたじゃないか。もし……それが本当なら、適性検査にひっかかってパイロットではなかったはずだ」

 確かに。今まで詳しくは触れなかった英太も、そこに初めて気が付いた。だったら、どうやって葉月さんはパイロットの適正を?

「横須賀で刺されるまで、姉を襲った一行の主犯格であった男の顔を忘れていたからです」

 忘れていた?
 隊長も英太も。そう言い返したいが返せない無言の疑問を、ただ彼女を見ることで示していたようだ。
 葉月さんが二人の顔を確かめ、いつもの氷の顔で続ける。

「子供の時、殺されかけたものですから。あまりの恐ろしさに記憶に蓋をしたようです。それが主犯格だった男を十何年も自由にさせ、実行犯でありまたはその男の被害者でもあった訓練生を犯人だと思い込んでいました。だから適性検査の際PTSDの兆候はみられなかったんです。明らかに発症したのは結婚後、つまり……男がナイフを振り上げた瞬間を……横須賀で刺される瞬間に思い出し……あの男があの時と同じようにナイフ…………ナイフを振り上げたから、思い出し……て」

 テーブルの上にそっと置かれていた葉月さんの拳がぶるぶる震え始める。
 英太も橘隊長もハッとする。だが二人が案じる前に、葉月さんは先程テーブルクロスの上にポツンと置いた薬をすぐさま口に放り込み、水が入っているグラスで飲み干した。
 それでひとまず大丈夫なのか。互いの不安を拭うように、英太と橘隊長の目が合い確かめ合う。

「だから……。あの時が、コックピットを降りる潮時でもあったんです……。記憶の蓋が開いてしまったあの時から、こんなことが徐々に、私に起きて……」

 また葉月さんがグラスへと手を――。だが震える手がそのグラスを倒し、ついに水をこぼしてしまう。
 薬を飲んでも、まだ葉月さんは息を荒げ手先を震えさせていた。

「英太、どけ!」

 橘隊長がすぐさま立ち上がり、葉月さんの側に座っている英太を押しのけた。
 だが、英太はどかない! ここは俺が……! 目の前にある『花のお守り』からすぐにもう一粒英太は銀箔から取り出す。

「葉月さん、これ。ひとつでいいんだよな」

 自分が飲んでいた水グラスを彼女に差し出した。葉月さんも迷わず薬を頬張り、英太のグラスでゴクゴクと水を飲み干す。
 目の前で『ハッハッ』と呼吸を荒げているが徐々にその息が緩やかになってくる。だが葉月さんの額がびっしょり、玉の汗を浮かべていた。

 ナイフを振り上げる男。それが一番辛いようだった。だから英太の父親が鉈を振り上げ、息子を襲った――という話にひどくシンクロしてくれたんだと。葉月さんと秘密を打ち明け合った夜を英太は鮮烈に思い出す。

「英太。先程挨拶をした『麻生さん』に、『いつものお水をください』とお願いしてきて」
「わ、わかったよ。水だな」
「そ、そう。水よ。いい、麻生さんじゃなきゃダメよ。他のスタッフはダメ。いいわね」

 息が落ち着き、椅子の背にもたれた葉月さんがゆったりと額の栗毛をかき上げる。その顔色が徐々に赤み帯びてきたのを確かめ、英太は席を立った。

『葉月ちゃん、大丈夫か』
『ええ。失礼致しました』
『バカだな。なんで俺にそんな話を……』

 英太の席にすぐさま橘中佐が座り込み、ぐったりしている葉月さんの顔を間近で覗き込んでいた。
 ピンク色のブラウスのリボンをそっとほどいて首元を楽にしてやろうとしている手つきを肩越しに見る。英太はまた大人の男の手にドキリとしつつ……。今日の席はオリエンタルな造りのパーテーションで人目が避けられるようにセッティングされているのも、葉月さんがこうなることを見越して頼んだことなのか。英太がそこを出てしまうと、パーテーションの向こうでは人目に触れず大人の彼等が二人きりになってしまう。だが、こんな店だから。それに葉月さんがあんなになっているのだから、橘中佐もなにもしないだろうと、頼まれたことへと急いだ。

 急いでもどらなくちゃ。そう思ったのに。

「かしこまりました。お嬢様のいつものお水、ですね。お待ちくださいませ。あるかどうか確かめて参りますので」

 言われたとおりに支配人風の『麻生さん』にお願いしたのだが、彼は殊の外ゆったりとした様子で受けてくれたのだが。

「申し訳ありません。いま、いつものお水の確認をしておりますので、こちらで暫しお待ちくださいませ」
「いつものお水ってどのようなものなのですか」
「お嬢様お好みの銘水ですが。置いていたり置いていなかったりしているものですから」

 違和感を持った。これだけの店なら、御園葉月様がいらっしゃるなら『いつものお水』ぐらい用意していそうなものを。それをあるかどうか確かめるだなんて悠長なことをいい、しかも確認にすごく時間がかかる。

 その間、英太はなんどもフロアのホールを振り返る。ずっと奥のパーテーションで目隠しをされたテーブル。オリエンタルな藤造りの透かし編みの向こう、そこで額と額をくっつけるかのようにして、隊長と葉月さんがしきりに話している姿が見え隠れする。
 ――早く戻りたい! 俺も彼等が何を話しているのか聞きたい! ひとつ漏らさず、葉月さんが何をしようとしているのか聞いておきたい!
 だがどうしたことか。麻生さんの元にそれらしいものが用意されない。そうだ。俺がその水を運ぶ訳じゃないんだから……。

「では、私は准将の元へ戻らせて頂きますので、お水を早めに」

 すると麻生さんが腕時計をチラリと見た。

「かしこまりました。急いでお届けすると葉月様にお伝えください」

 丁寧にお辞儀をしてくれたが、英太は良い気分ではなかった。
 これほどの店が、どうして。こんな対応……。
 そこまで思って、英太はハッとした。
 ――やられた! 葉月さんにやられた! 『下っ端の俺をどこかに行かせ、指揮官の二人だけで話したい時間を一瞬でも作ったんだ』と。
 それを麻生さんに最初から頼んでいた? 『部下が水を頼みに来たら、五分でも良いから引き留めて置いてください』と?
 だから、ここに来た時麻生さんは『お手伝いさせてください』と言ったのだろうか?

 慌てて戻ると、どうしたことか直ぐ側で顔をつきあわせていた二人が、静けさの中無言で俯き合っていた。

「水……あったのか」

 英太が帰ってきたのを見て、どこかガックリしている様子の橘隊長が英太の席から立ち上がり自分の席へと戻っていった。

「麻生さん、すぐに持ってきてくださるそうです」
「そう。英太、有り難う」

 いつもの余裕あるお姉さんの笑顔に戻っていた。それだけで英太はとても和んでしまうし……。そして、あっさりと流されていた。
 何を話していたか聞きたかったのに。何故、水を俺に頼んだのか聞きたかったのに。でもきっと教えてくれない。このお姉さんがそこまで前もって作戦を下準備していたならば……なおさら。

 英太は諦めた。
 だが席に戻った橘中佐が無口になり、眉間に皺を寄せたまま難しい顔。そして葉月さんはそんな彼の様子を窺うように、なんだか申し訳なさそうな顔をしている。
 やはり。気になる。俺を追い出して何を話した? PTSDだって包み隠さず英太には打ち明けてくれた葉月さんが……ここまで部下として『極秘ヘッドハント』のお供もさせてくれたのに。いったい、英太に聞かれて困るどんなことを葉月さんは隠しているのか?
 重苦しい席のムード……。葉月さんがずっと俯いていた。睫毛を伏せ、徐々にその顔が少し乱れてしまった栗毛の中へと沈んでいきそうだ。そんな力無く俯く哀しい横顔の葉月さんなんて……。だから。

「魚、冷めちゃいましたね。肉、なにかな。俺、肉をすげえ楽しみにしてきたから」

 ガキならガキになってやろうじゃないか。英太は冷めた魚を頬張った。
 一人で懸命に食べているうちに、俯き合っていた橘中佐と葉月さんが顔を見合わせ、やっと微笑み合ったではないか。

「英太らしいわね。たくさん食べなさい。エースなんだからスタミナを付けておかなくちゃね」
「俺、焼き肉だったら際限なく食べれますよ」
「そうなの? じゃあ、小笠原に帰ったら雷神一行で『出航決起会』として焼き肉パーティーでもしましょうか」
「マジっすか。やった。あ、葉月さんは知らないかもしれないっすけど、俺、すげえ食いますよ」
「貴方、私が何人のパイロットを見てきたと思っているの? ビーストームのお兄様方が『なぎ』の売り物を食べ尽くしたという胃袋伝説、知らないでしょ」
「なにっすか、それ! 今度、大将に聞いてみよう。でもそれって、すげえなあ。葉月さん、そんなパイロット大食らいパーティー主催しちゃってお財布大丈夫なのかよー」
「違うお財布から出してもらうに決まっているじゃない」

 いつもの不敵な笑みを浮かべ、悪戯に『ふふ』と葉月さん。
 そのお財布がどのお財布か――。英太もすぐに分かったのだが。どうしたことか黙っていた橘中佐までもが『ぶふっ』と噴き出していた。

「じゃじゃ馬奥様の旦那さんは大変そうだな!」

 やっと橘中佐もいつもの笑みを取り戻した。

「そうっすよ。葉月さん。隼人さんは婿養子でしょ。葉月さんのお財布の方がざっくざくのはずなのに」
「いやね。この適当でおおざっぱな性格の私に、あの人が財政を任せると思っているの? がっちり家計を握ってデーター管理はお手の物。しかも『家計簿ソフト』に関してはうるさくて、兼業主婦の女性隊員達からも『比較まとめ』を求められて嬉々としてデーターを作って書類にして配っていた人ですからね」
「うわー。隼人さんらしいなあ。細けーっ」

 甲板の上司と部下ではない話しぶりに、橘中佐も目を丸くしていたが。でも最後には彼も笑いっぱなしになっていた。

「あはは。まるで御園大佐の方が奥さんみたいだな!」

 先程までの沈んだ空気も一転、そしてヘッドハントの話ももうどこかに行ってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 最後はパイロットらしい『フライト』ばかりの話題で和やかになり、無事に食事会は終わった。
 エドが運転する車が横須賀市内へと向かう。今度の英太は助手席に座っている。後部座席には他愛もない仕事の話を和やかに交わす葉月さんと橘中佐が並んで座っていた。
 『お返事はゆっくり考えてください。今から美味しいお酒をもう一杯ずついかが』。その誘いを断る男でもないようで? それともまだ尽きぬ大人の話があるのか。たった五分でも席を外された英太は釈然としないまま。

 車は基地近くのこじんまりとしたバーへと辿り着く。
 繁華街、よくある飲み屋街にあるひとつのビル、その地下へと葉月さんが降りていく。その後を橘中佐と一緒に英太もついていく。
 地下にある渋い佇まいの、しかも年季が入った店からは、ジャズが聞こえてきた。

「俺も横須賀は長いけど、この店は初めてだな」
「音楽好きだった従兄のいきつけでしたのよ」
「へえ、あの王子様みたいだった音楽隊長の」

 葉月さんがバーの扉を開けた時、英太の目の前で橘中佐がなにやら躊躇うように立ち止まってしまっていた。
 どうしたのかと扉の向こうを、隊長の肩越しから覗くと。バーのカウンター席に、ネクタイ姿の良く知っている男がグラス片手に座っている。

「貴方。来ていたの」

 葉月さんも驚いていた。  ジャケットを脱いで、真っ白なシャツに爽やかな水色のネクタイ。ピンストライプのグレーのスラックス。橘中佐とはちょっと違うムードで、爽やかな紳士顔でそこにいる男はミセス准将の旦那さん。

「やっぱり。食事の後はここにくると思っていた」

 夫の御園大佐が、妻のやること全て分かってるようにこの店に先に来ていたようだ。

 だが、英太にはピンと来た。
 ああ、隼人さんらしいな。平気な顔して、やっぱ奥さんが心配なだけじゃんか。と。
 これ。また細川連隊長が見ていたら『いつまでも甘やかすな』とか手厳しくやりそう……。

 心配できたのかどうなのかは分からないが。そんな旦那がいつもの余裕顔で席を立ち、男の色香を放っている橘隊長の目の前へとやってきた。

「お久しぶりです。橘中佐」
「そうですね。御園大佐」

 隊長も分かっているのか、ちょっと苦笑いで答えている。そしてやはりそこは英太の悪ガキ上司? 隼人さんにきっぱりと言い放った。

「奥様が男二人と夜のおつきあい。ご心配でしたか」

 それでも隼人さんは、黒縁眼鏡を光らせいつものにっこり笑顔。

「はい。非常に心配なことがありまして。つい……」

 あれ。いつもなら『まさか。じゃじゃ馬のことなど勝手にさせている』と言いそうなのになあと、英太は不思議に思った。
 そんな隼人さんの眼鏡の奥が急に冷たく光り、それが橘中佐を突き刺したので英太はドキリとする。隼人さんが本気の、怖い時の顔。

「うちの女房、薬を飲みませんでしたか」

 橘中佐の顔も凍り付いた。

「貴方、私は平気だから……橘さんにもちゃんと話しましたわよ」

 だが隼人さんは首を振った。そして何故か、その凍った目線が英太に注がれる。

「英太。暫く、葉月を頼む」

 そういうと、半ば強引に隼人さんは橘中佐をカウンターの奥へと連れて行ってしまった。

 だが。葉月さんは困った顔をしても止めなかった。

「いいのかよ。葉月さん。なんだよあれ。おじさん達が怖い顔つきあわせてなんか話し合っているじゃん」
「いいわよ、もう。ここで下手に拒んでもあとで喧嘩になるだけだから。そうしたら負けるの絶対に私なんだもの」
「え。そうなんだ?」
「あっちが『負けて勝つ』時もあるけれどね。勝たせてもらっていることが多いかもしれないわ。そんな時はあとですっごく悔しくなるのはこっちなのよ」

 『だから下手に動かない』ということらしい? 夫妻なのに仕事では本気で張り合うことがある二人。英太には未だによくわからない大人の二人だった。
 どこか不服そうな顔で、葉月さんは夫達がいる席とは真反対のカウンターへと腰をかけてしまう。英太も仕方なく……。まるで兄貴に頼りない姉貴を預けられた弟のような気分で、葉月さんの隣りに座った。
 すると葉月さんが不可解な一言を呟いた。

「それにしても。やっぱり隼人さんは手強い。鋭いわね。ほんとうに、『敵』だとやりにくいったら」

 え、それ。なんのはなし? 葉月さんは男二人の話し合いを心配そうに見ていた。

 

 

 

 

Update/2011.1.11
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