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14.愛しすぎて

 

 四十を過ぎた男が二人、土曜の夜だというのに肩を寄せ合ってブランデーグラスで乾杯をしている。

「妻のお相手、有り難うございました」
「いいえ、旦那さんに礼を言われるようなことではありません。『彼女と二人で約束した』だけのことですから」

 まあ、隼人自身だって妻が男と食事に出かけたことに対して『お相手有り難う』だなんてわざわざ言いたくなんかない。ただの社交辞令だっていうのに。この同年代の彼と来たら……。なんだか大人げなく真っ向から『旦那にいわれるような用事の相手をした訳じゃない』なんて切り返してきた。
 苦笑いを浮かべたいが、なんとかいつものにこやかな笑顔を見せてみる。
 それにも向こうがなにもかも解っている顔でにんまりと返してくる。

「ズバッと行きましょうよ」

 若干、自分より若い彼からそう申し出てくれる。
 隼人も妻からある程度は聞かされている。『橘さんはね、細川のおじ様に悪ガキって呼ばれていたのよ。まさに英太の元上司ってかんじ』とか『あのね、ちょっとね……。私ともね、いろいろあってね……』。いつになく少女のような恥ずかしそうな顔で妻がモジモジ。それを見ただけでも隼人にはすぐに分かった。案の定、遠い昔の若き頃、その男が葉月に交際を申し込んでいたんだと――。『向こうの誘いも強引だったのに対して、私も頑なに酷く拒否したから……』。良くない別れ方をしてそれっきりだという。たまに空軍の指揮官同士で顔を合わせるが周りに補佐に部下がいるので事務的に言葉を交わすだけで語り合うことはナシ……で十数年、ということらしい。
 『だからわだかまりを解いてからじゃないと、お願いできない』と妻が真顔で言ったので、当然、夫の隼人も『そうだな。そうしてこい』と見送ったところ。
 だが。彼が葉月のリスクをフォローしてくれる甲板指揮官として新たに妻のブレーンに参入させることは、隼人も賛成だった。しかしそれには『何故、引き抜くか』と彼に言わなくてはいけない。
 そしてきっとその時。その訳を話す時。葉月はある程度の発作を起こし、あの薔薇模様の入れ物の蓋を開けることになるだろう……。

「話してすぐに、発作が起きたでしょう」

 ズバッというから、こちらもスッとはいってみる。すると橘中佐も自分で軽く振った割りには表情を強ばらせた。

「ええ。すぐって言うか。横須賀で刺されたというところで、ひどく顔色が悪くなって……」

 彼もショックだったのか、綺麗に締めているネクタイをスッと緩めてしまった。

「妻がなによりも一番、凍り付く瞬間なんだそうです」
「でしょうね」
「あれがいつ起きるか分からない。最近はそんなものですから、貴方のような指揮官を妻は必要としています。お話を頂いたばかりでしょうが、ここは是非……」

 案ずる夫らしいことを並べていたが、隼人としてはすべて本気。だが、隣の男はグラスの口を指で持ってぶらぶらさせ、まるでこちらをバカにしているようにふっと笑った。

「ほんっとに、嫌味なぐらい良い旦那さんってわけですか」
「どう思われても結構ですが、私がお願いしたいのはそこなので」

 すると。急に彼の顔つきが険しくなる。そして飲みかけのグラスを彼がかつんと強くカウンターに置いた。

「馬鹿馬鹿しい。俺じゃなくて、一番心配している男がそうすればいいでしょう」
「いえ、職務上……」
「職務上?」

 彼がわはははと爆笑する。遠くにいる妻と青年も。そして他の店の客までもがこちらに視線を集める。それでも橘中佐は隼人の目の前で笑っていたが、徐々にその声は小さくなり人々の視線も散っていった。だが妻と英太の視線だけはこちらに残っている。

「だから馬鹿馬鹿しいんですよ。ああ、もう。心決まりました。ミセス准将からの申し出はお断り」

 彼が席を立とうとしている。

「待ってください」

 止める隼人の声が、どれだけ気に入らなかったのか。笑っていた彼がとてつもなく鋭い目で振り返った。

「職務? 職務より、女房の状態が一番だって言うなら、それを飛び越えてあんたが守ってやればいいでしょう!」

 そして彼が隼人に語気を強めて一喝。

「いつまでも女房の後ろをパーフェクトに守ってやれる騎士なんかやめて、女房の前をパーフェクトに守れる『キング』にはなれないのかよ。他の男を宛にすんじゃねーよ。しかも女房に『こんな状態だから、助けてほしい』なんて旦那以外の男に頭を下げさせやがって。それでも妻が独立した職務人ミセス准将として頭下げている、それを夫は黙ってみているならともかく――。その後に、心底心配しているカッコイイ旦那の顔で、女房が他の男に頭下げたことと同じ事繰り返して頼むな!」

 こちらが目上だろうが、階級が上だろうが、思ったら迷わず噛みつく。『なるほど。妻が言ったとおりだ。これは元悪ガキ。英太を見つけた男らしい!』、ある意味感動。隼人は思わず興奮して、『はあ』と感嘆と興奮のため息をこぼしていた。そして……思わず微笑んでしまう。やはりそんな隼人を見て、噛みついたはずの悪ガキが不可解な表情に変わった。

「今の何処が笑えるんですか。大佐」
「いや、だって。妻が言ったとおりの、悪ガキで!」

 この歳になって『悪ガキ』と、しかも滅多に会わない男にいわれたせいか、橘中佐も目が点になっている。
 だが暫く向かい合っていた男と男はついにクスリとこぼし合った。

「なんだよ、葉月ちゃんは。どんなことを旦那に話したんだよ」
「いえ。特には。ですが、鈴木を見つけたパイロットだというのがよく分かっただけです。それに妻、彼女は……、昔から夫の自分にも沢山のことは話してくれませんよ」
「そうなんですか?」
「そうですよ。なにもかも内に秘めて『目』で話してくれる、みたいなものです」

 『目で、話す』――。彼がそこを重ねるように呟いた。

「どうぞ。もう一杯、いかがですか」

 隼人の再度の誘い、今度の彼は快い微笑みを見せやっと腰を落ち着けてくれた。

 もう一杯。昔、ここで右京が初めて飲ませてくれた香がよいブランデーを頼む。再度の乾杯。互いに一息飲んで、同じようにカウンターにグラスを置くと、ピアノの音が流れてくる。
 店の奥。昔からあるアップライトの古いピアノ。生演奏とあって、店にいる中年の客の目線がそこへと向かっている。そこには、妻が……。

 流れる穏やかな曲で、店の中が急に柔らかい空気にまとまった気がした。そんな優しい曲を妻が弾いている。そしてその傍らには、パイロットの青年が。

「あのガキ。奥さんに惚れていますね」

 橘中佐が笑ったが、どこか遠い目。在りし日の自分でも重ねているのだろうか。隼人もグラス片手に笑う。

「わかりやすいでしょう。彼の周りにいる大人の大多数が見抜いてしまうほどに。ですが彼は一度とて『あの人が好きだ』だなんて、誰にも言ったことがないんですよ。いつだって『あんなオバサン』と……」
「なるほどね。人妻だから、迷惑はかけまいと、最後まで意地を張る覚悟なんでしょう」
「……でしょうね」
「ある意味、純粋で真っ当だ。その気持ち、墓場まで持っていく。その代わり、俺の心の中では誰にも邪魔されないほど、ずっと好きでいたいってね」

 そんなこと。とうの昔に隼人も分かっている。だからこそ……。
 それにしても、この橘という男。やはり妻が見定めた男だけある、と隼人も唸ってしまう。

「食事中、彼女の顔色が真っ青になった時。英太がすぐさま、彼女に薬を握らせてやる。震えた手先がままならない彼女の代わりに、真っ先に薬を出して飲ませてやる。大人の俺が落ち着いて対処しようと思ったのに、頑として譲らず『ここは俺が助ける』だなんて真剣な顔。アレを見て『惚れているのか』とすぐに分かりましたよ」
「そうでしたか」

 妻がピアノを弾く姿など、空母の航行任務の時には艦内でみたことがあるだろうが。それでも英太は妻の真横にいて、じいっと見つめている。

「でも。ここから見ていても、どーみても『姉弟』みたいだな。やっぱ葉月ちゃんの大人の色香を受けるにはまだまだガキ臭いわ、あの小僧は」

 だから安心。余計微笑ましい――と、橘中佐が笑った。それは、隼人も同感だった。だからいつも好きにさせている。そして……。そう思った先も、橘が呟く。

「ま、若い男の留め金が外れても、『あの女』なら一枚も二枚も上手。どんなにでもかわして『明日もう一度いらっしゃい』なんて澄まして言いそうだな」

 そんな妻を思い浮かべ、隼人もあまりにも分かりすぎて笑ってしまった。

「そんな旦那さんも、やられているんでしょ。あのじゃじゃ馬奥さんに」
「そりゃ、もう」

 いつものように『僕なんか妻の振り回されてばっかりで』と笑い飛ばしつつも。隼人はそこでいきなり橘の目を真っ正面から射抜いた。

「今回だって、なにやらきな臭いんですよねー。妻が私にそれなりのことしか告げていないようで。なにか聞いていませんか」

 いきなりの先制攻撃。隼人の今夜の目的は『どうぞ妻を助ける補佐として小笠原に来て欲しい』だなんて、妻を心配する出来た夫として来たのではない。もっと他のこと。妻の本当の今夜の目的は『ヘッドハントだけじゃないはず』!
 すると隼人の予想通り? 何事にも余裕だった男の表情が一瞬で固まった。『やっぱり!』。隼人はそう確信したが、だからって『なにが起きているのか』は判らない。それに橘も流石、すぐににこやかで悪ぶった微笑みに戻った。

「彼女がきな臭いのはいつもでしょ。自分だって今日、いきなり食事をしませんか――なんて二十年ぶりに真向かうことになったのだって『食事とかそれらしいことを言いだして、この胡散臭いミセス准将め』――と腹立たしい限り」
「ですよね。二十年ぶりにプライベートで話すというのに」
「そうですよ。本当に」

 グラスを煽った姿も、既に隼人には『怪しい』。
 まあ、今夜全てが判るわけでもあるまい。なにかあったと掴んだだけでも良しとするか――とそこでやめる。

 今度はきちんと『大佐』として。彼にいたいことがある。

「橘さん。妻のことお願いしたい気持ちも勿論本気ではありますが、私も是非、雷神に来て欲しいと『大佐』としても思っているんですよ」

 こうしてありきたりで綺麗事のような切り出しをすると、ほらやっぱり、元悪ガキ男がまたもや気に入らない目をする。

「俺みたいな元パイロットは沢山いますよ」
「雷神のエースには、いえ、あの鈴木という青年には貴方が必要です」

 彼が黙った。そこに妻が『貴方ではないと駄目だ』と決めて出かけていった説得が伝わっていると、隼人も悟ることが出来た。今がたたみかけるチャンス。

「貴方は先程、私に『職務など関係なく守りたい者がいけ』と言いましたけど。まあ、夫としてそうしたい気持ちはもちろんありますよ。ですが、それは葉月にとっても私にとっても『最後に考えるべきこと』であって、葉月も私もなによりも『最優先』にしなくてはいけないのは、やはり『空を護ること』。どんなに肩書きを取れば私達夫妻も一個人になれるなんて言われても、それはやっぱり『肩書きを持ったものには最優先にはならない』と思うんです。背負った限り、決意してこの職務に当たっている限り、私達のすべきことは『防衛』です」

 大人しく真顔で耳を傾けてくれている姿を見て、隼人はさらに続ける。

「何故でしょう。空を飛べるのは選ばれた一握りの者だけ。しかも若い。その空を身体を張って護っているのは経験ある熟練パイロットばかりではない。唯一、空の苛酷な状況に耐えられる青年ばかり。そんな彼等に最前線へ行ってもらい判断を委ねる。私達の空はそんな若者に護ってもらっている。でも、それだけではないでしょう。それを地上から海上から離れていてもしっかり繋がってしっかりサポートをしなくてはいけないのは、私達指揮官です」

 言いたいことが通じたのか、橘の手がグラスをぐっと握りしめたのがわかった。彼も一点を見据え、他のことは聞こえないような顔をしてくれている。

「私が空母に居ても、空を飛んでいる彼等の役には立ちません。私は甲板要員達を指導できる術は知っていても、空を飛ぶ操縦者の経験はなし。パイロットのことはパイロットではないと駄目なんです」

 だから、妻と一緒に若いパイロットを、これからの『雷神』を牽引できるのは御園大佐なんかじゃない、橘中佐、貴方だ――。そう言い切った。

 隼人とて、空に携わっている男。それでも『出来ないことがある』。指揮できる権限を持っている大人が、皆でそれぞれの役割を担って、自分達の代わりに空へ行く青年達をパイロットを守ってこそ、『防衛』が成り立つ。
 その思い――。通じたか。通じぬはずない。空を飛んだことある男こそ、それを身に染みて分かっているはずなのだから。

 彼がグラスを傾け、一気にブランデーを飲み干しカウンターに置いた。

「ミセス准将は、来月の航行に俺を連れて行くと言っていた。だとしたら、遅くとも二週間後には小笠原にいなくてはならない」

 彼の目が、隼人へと向かってくる。

「ぐずぐず考えるつもりはありません。三日で答を出します。それでよろしいですか」
「長くて一週間。そうして頂ければ有り難いです」

 男同士の話は終わった。彼から席を立つ。椅子を降りた男が背を向けたまま言った。

「奥さんのことも、よく分かったし。貴方の男としての心配も分かっているつもりですよ」

 やっと素直になってくれたようだ。彼の答などまだ分からない。だが、この男なら大丈夫だろうと隼人も確信する。
 多少荒っぽいようだが、きっと……熱い情熱的な男なのだろう。空への思いはきっと妻とシンクロしてくれるに違いない。そして妻の身体のことも……。

 そんな橘中佐の目線は、遠く妻を見つめていた。

「まさかね。彼女のあんな優しい顔も姿も見られる日が来るとは思わなかった」
「そうですね……。まあ、母親になったことも大きいでしょう」

 背を向けている男は、妻をみつめ何かを探している。そんな男の横顔。それを隼人も思い遣る。既に隼人とおなじ中年の男だが、その横顔には青年の面影を見た気がした。
 隼人にも心の奥にずっと残っている。あの日の木陰、マルセイユの初夏の風、そして煙草の匂い、陽射しの中、風に舞う栗毛。あの時を思い出す自分もそんな時だけは『青年のまま』だと信じて疑わない。それに似たものを彼も思い描いていると思った。

「でも。俺が惚れた彼女はああいう女じゃない。氷の目、ぞくっとするあの目。そしてずっと向こうに敵意を抱いている冷たい女。その顔を真っ赤にしてやりたかったんだよ。ゾクゾクするだろ。その女が頬を真っ赤にして甘やかに微笑む……俺にだけ。意地でもそれを俺がやってやるってね。ドキドキしていたもんだよ」

 同じ男なら分かるだろ。背を向けていた男が肩越しにふっと隼人を確かめる。そして隼人もそっと微笑む。

「分かりますよ。私も躍起になりましたからね」
「他の男に持っていかれちまったなら、もう興味もねーけどな」

 だからもうあの女には興味などない。だから共の甲板にも興味はないとも言いたいようだった。  夫で彼女のなにもかもを手に入れた男への当てつけのようだった。だがそこで隼人も椅子を降り、彼に向かって不敵に笑ってみせる。

「是非、小笠原の甲板へ。貴方はまだ、本当のミセス准将を知らないようですから。それとも十数年は長すぎたんですかね。あのままの女だと?」

 案の定、負けず嫌いだろう悪ガキ男の目が隼人に向かって光った。夫のくせに『俺の女にゾクゾクしてみろよ。だから甲板に来いよ』――と挑発されたことに、彼が一瞬で燃えたのがわかった。

「どれだけミセスがいい女になったか是非、ご覧頂きたい」
「いいんですか。俺、マジで燃えますよ。夫がいようがいまいが、女は女だ」
「どうぞ、望むところです」

 怯まない夫のさらなる挑発。揺るがない夫としての余裕が想定外だったのか、ぎりっと歯を軋ませるその素直な男の顔。年甲斐もなく? 隼人はそうは思わない。男として真っ直ぐで今でも若々しい。気持ちに衰えがない。くたびれた男など、妻の横にいても意味がない。

 なるほど。これはいい男だな。葉月。
 隼人の心も燃えた。間違いない男をお前はきちんと見つけた。あとは『俺達二人』で落として、小笠原に引っ張るだけ。
 この男はこれから必要だ。妻の判断にまたもや隼人は満足を隠せない。そして未だにそんな感動をさせてくれる妻をミセス准将の采配に、いま、夫の自分がゾクゾクしている。

 なにをしてくれるんだ。じゃじゃウサめ。本当の目的はヘッドハントだけじゃないはず。それにも隼人はゾクゾクしていた。

 男達の火花を分かってか。妻のピアノはすぐに優しい空気に変えてしまう。そんな音に包まれ、橘と隼人も駆け引きはこれまで。表情を緩めた。

「良い曲ですね。聞いたことがないな」

 店内に柔らかなメロディーと情緒的にアレンジしている音がそろそろラストを思わせるクライマックスな弾き方。
 自分は夫だから自宅でも良く耳にするが、それでもこの公衆の面前で堂々とメロディックに聴かせることが出来る妻の姿に惚れ惚れ。そして、この曲……。

「最近、妻はこれを気に入ってよく弾いています」

 とだけ答えておく。
 そして隼人は心の中で『自慢したい気持ち』を抑えていた。
 何故なら……。初めてこの曲を耳にした中年男が『良い曲』と言ってくれたこのメロディ。いま妻が弾いているのは『娘が作った曲』だったから。

 すぐにそう言いたいが、小さな娘がさらさらっと作った曲を親馬鹿みたいに『娘が作ったんです! いいでしょ!』なんて言いたくても言いたくても、そこは我慢の『大佐の顔』を懸命に保っていた。

 ここ一年。娘は曲を作っては『ママへ』と送ってくるようになっていた。
 キッカケは『ママが眠れる曲』だった。それが何曲にもなり、ママがピアノやヴァイオリンでアレンジしたものをパパが録音。その曲と曲を送り合うことが、近頃の母娘の交流だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 長い航海の任務に退屈しないよう、空母艦にも様々な娯楽がある。
 食堂の近くにあるブレイクルームには、いま葉月さんが弾いているようなアップライトのピアノもあって弾きたい者がよく弾いている。
 だが。艦長の葉月さんが来ると誰もがその椅子を明け渡す。そして彼女が弾き始めると、自然と人が集まる。
 ――『口べたな艦長には丁度良いコミュニケーションツールでもある』。ラングラー中佐が良くそう言っている。
 普段はどこまでも冷たい顔に、笑わない目を保っている女艦長の葉月さんが、ピアノやヴァイオリンを構えた時は優しくなる。それを知って、クルー達は表情ではない、女艦長の秘めた心の奥にある優しさを知る。気持ちを知る。
 そして英太もそんな葉月さんを見るのが好きだった。でも艦内ではクルーみんなのお姉さんでお母ちゃん。でも今は……。今は俺だけ。俺だけ。

 知らない曲だった。でも、英太はその曲をすぐに気に入った。
 最後の鍵盤に落とした指がそっと離れ、ピアノの音が止む。店内からちらほらと拍手が聞こえてきた。英太も満足――。

「良い曲だな。葉月さん、それ、なんていう曲?」

 俺、すごく気に入ったよ! しかも葉月さんがすごく優しく情緒的に弾いてくれて。こんな夏の終わりの夜、一人でしんみり聞いて浸りたい。そんな胸が熱くなるメロディーだった。

「なんてタイトルだったかしら。ええっと『小舟に揺れて』……だったかしら?」
「誰の、誰が歌っている曲? それとも誰が作った曲? 俺、今夜帰ったら探してダウンロードするんだ」

 それほど気に入ったから教えてくれよと……。本気で興奮して英太は葉月さんに詰め寄っていた。
 すると葉月さんがなんだかとても予想外のものを目の前で見てるように、困惑した顔になっている。

「え。どうしたの葉月さん」
「うーんっと。ダウンロードでは、みつからないと思うわねえ」
「そんなマイナーな曲?」
「え、ええ……。そう、マイナーなんでしょうねえ。あ、良かったら。この曲を私がディスクに落として持ってきてあげるわよ。小笠原に帰ったら准将室まで取りに来て」
「良いんですか。俺、絶対に取りに行きます! で、作った人の名前は?」

 また葉月さんが困った顔。暫し唸って、やっと答えてくれる。

「うーん。それまでに思い出しておく」
「はあ、わからないで弾いていたのかよ」
「う、うん。ほら、最近、物忘れがあるの。おばさんだから!」

 なんだよ、それ。甲板でトップパイロットを束ねている将軍様のくせに。そんな時だけとぼけたオバサンになってしまえるものなのか?

「葉月、帰ろう」

 夏の爽やかな紳士とでも言いたくなるほどの白いシャツに水色ネクタイの旦那さんが現れる。
 葉月さんが見上げるそこには、優しい笑みを湛えた男。目が合った途端、あの葉月さんがそれだけでにっこり笑顔になる。
 それは夫妻だけの交わし合いなのに。その笑みは旦那さんのものなのに。それでも英太はときめかずにいられなかった。この人、妻となると、いや好きな男性の前ではこんな顔になるんだって。

「男同士のお話はもういいの?」
「ああ。仲良くお話しできたよ」
「うそ」

 苦笑いを浮かべる葉月さん。英太も側にいて、男同士で険しい顔をしたりなにやら駆け引きめいた激しいやりとりをしているのを遠くにいても感じていた。そして隣にいる女性も……。あのミセス准将たる葉月さんが落ち着きなかったこと。

 だが、旦那と顔をつきあわせていた橘中佐もやってきた。

「航行に出ると、ミセス准将はヴァイオリン片手にやってくる。夜の甲板に響くヴァイオリンにピアノ……。横須賀でも有名だ。聴けた乗員にパイロットから聞かされて、共に艦に乗船したことがある男なのにと羨ましく思っていた。初めて聞かせてもらって嬉しいよ」
「ありがとう、橘さん」

 その時はもう、夫も旧知の男も目が合っても微笑みあっている。それを見た葉月さんももうなにも言う気は起きないようだった。

「葉月ちゃん、良い曲だったな。なんていう曲」

 橘中佐も尋ねてきた。だがやっぱり葉月さんは困った顔で黙っている。そして何故か隼人さんはにこやかで、奥さんとは対照的に満面の笑み。
 曲の話題を避けるためか。葉月さんがピアノの椅子から立ち上がった。

「橘さん。これ、私の携帯番号。よろしかったらいつでも」

 小さなバッグからすかさずそれを出して、夫の目の前で違う男に電話番号を手渡すという奇妙な光景。
 それでも橘中佐はなに食わぬ顔でそれを旦那さんの前で受け取っている。

「じゃあ、これは俺の」

 しかもそこで橘中佐も名刺を差し出していた。既に番号は記されているよう……。

「英太にも渡しておくわ。これから私と一緒にいることが多いでしょうから。プライベート用よ」

 え、俺も!? この二年、このお姉さんとの接点は甲板だけ。プライベートで繋がることなんて……とてもとても。でも、躊躇いつつも嬉しさで打ち震える胸を抑えつつ、部下らしく『いただきます』なんて丁重にしながらもらってしまう。

 なのに。旦那の隼人さんって本当にいつもニコニコか、澄ました顔で、うっすらと余裕の笑みを浮かべているなあと、英太は感心してしまう。

「では。これで妻と帰らせて頂きます。ここまで連れてきた家の者に行き同様帰りも申しつけているので、どうぞ、よろしければまだゆっくりしていってください」

 御園家の婿殿、次期当主。そんな顔に変わった隼人さんが、さりげなく妻の腰を抱いて自分へと引き寄せた。
 私服のせいなのか、既にそんな心積もりなのか。葉月さんもそんなところは夫に任せて、しんなりと引き寄せられるまま夫にくっついてしまう。
 その女らしさにしとやかさ。愛らしい眼差しが、甲板のミセス准将からは考えられない甘さで、途端に英太の胸が騒ぐ。だがそれはすぐに痛みに変わる……。

「おやすみなさい、英太。また明日」

 ミセス准将じゃない。旦那さんに包まれている奥さんの顔で言われた……。

「お疲れ様でした……准将」

 その女性の顔にときめくのに。でも英太はあくまで自分の上司として別れようとする。奥さんになったら、あの人のもの。俺のことなど見えなくなってしまうだろうから。

 その通りに、眼鏡越しにジッと妻を見下ろす旦那さんの眼差しに捉えられてしまい、そっと頬を染めている葉月さん。夫の腕に抱き寄せられたまま背を向けてしまう。もう彼女の瞳にはどんな男も世界も見えないようで、英太との仕事もクローズアウト、そんな顔。
 彼女より背が高い黒髪の、爽やかな男。その男の大きな手が彼女の細いウエストのくびれから、まろやかな腰の丸みに手を滑らせていく。まるで素肌を愛撫するようなじっくりした手。妻への愛着を滲ませる仕草に、英太もドキッとさせられた。基地ではあんなに隼人さんは奥さんに触ったりくっついたりしないから……。そんな隼人さんがそれでも、ぐっと自分の身体に寄せて離さない。そして妻はその眼差しにも手にも全てを預けてうっとりと幸せそうな横顔。――そこに氷の女将軍と男達に言わせている面影はない。

 二人の姿が店のドアから消えた途端、英太の側にいた橘中佐がガックリ項垂れて溜め息。そのままカウンターに戻って酒を一杯頼んだ。

「まったく。なんだあれ。澄ました顔して、結局、女房をガッツリさらっていきやがって。しかーも。なーんかえろい手でみせつけてくれて。ああ、今夜の夫妻のベッドは熱そうですね……なんて言わせたいのか。このっ」

 どうやら隼人さんが葉月さんをあたりまえのようにして、連れて帰ったのが気に入らなかったようだ。

「薬を飲んだ夜は、隼人さんも気をつけているんじゃないですか。葉月さんも薬を飲んだからもう今夜はお酒は飲めないからと、ジュースを頼んでいましたから」
「そうなのか」
「俺が初めて同行した航行で、あの症状を初めて見た時、話してくれた後も、一晩中艦長室の寝室で微熱にうなされていましたよ。それもあって『きっと症状が出た』と思えたから迎えに来たんじゃないですかね。自分の手が届く時はちゃんとしているんですよ、あの大佐は」

 夫妻のプライベートを多く知っているわけでもない。でも英太にはそんな隼人さんが見えてしまう。彼はそう言う人だ。
 そんな橘中佐もなんかすとんと納得できたようだった。彼が最後の一杯とグラスを煽る。

「愛しすぎて……。相手を思えばこそ、今は本心隠すか。そんな夫妻もアリかもなあ」

 急に落ち着いた大人の目。橘中佐の目が優しく遠くを見ている。
 英太も隣りに座って同じ方向を見つめた。でも……よく分からなかった。大人の男が思っているものが。

 

 

 

 

Update/2011.2.15
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