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16.箱根の山は天下の?

 

 この日も『ミセス准将』としての仕事がある。
 そこで夫が優雅にカフェオレを片手にくつろいでいても、葉月は濃紺のスーツに着替えた。
「貴方、そろそろ行ってきます」
 声をかけると、彼がカップをテーブルに置いて立ち上がる。
「うん。俺も後で行く」
 妻はフォーマルに近い紺のスーツなのに。同じ食事会に出席するはずの夫は、麻のスラックスにマリン風に碇の刺繍がしてあるカジュアルなネクタイ。
「それで行くの? ずいぶんカジュアルね」
 白い飾り気のないブラウスに、飾り気のない濃紺のスーツ。妻は正統にまとめているのに、夫はかなり砕けていた。だが彼が笑う。
「だって。俺は飛び込み参加みたいなもんだし。オフ活動だから」
 そして隼人は葉月が着ているジャケットの襟をすっと直しながら……。
「お前はこれでいい。スーツであっても『制服の替わり』のつもりで、この紺のスーツだろ」
 ミセス准将として顔を出すのに。でも紺のスーツを選んだのには訳がある。それを夫が口にする。
「今日の主役は、雷神エースの『バレット』。鈴木英太大尉。本日のミセス准将は一歩下がって『引き立て役』だろ」
 まったくその通り。その続きを葉月も――。
「白い正装が映えるのは、紺だと思うわ」
「うん。そして海軍の色、ネイビーだ」
 そこまで言われて、葉月は降参。ミセス准将としての心構えをジャケットを羽織ると同時に固めていたが、妻として微笑んでしまっていた。その上……。昨夜の柔らかな時間を運んできてくれた旦那さんを思い返し、自分からそっと抱きついてしまう。隼人のちょっと驚いた息が耳元に落ちてきた。
「な、なんだよ」
「ううん。まだ二人きりだからいいでしょう」
 まだ一歩も外に出ていない。外に出たらたとえ夫妻でも『ミセス准将と澤村大佐』になってしまうから。いまはまだ少しだけ……。
 それが通じたのか、隼人もそっと抱き返してくれる。
「無理すんなよ」
「うん」
 栗毛のつむじに、彼の暖かい頬の体温を感じた。
 だが隼人はひとしきり妻を抱きしめると、胸元から離し今度は妻の胸元を見下ろしていた。そしてそこを指さす。
「だが。これは今日はミスマッチだ」
 そこには昨夜、夫と息子から贈られた天然石のペンダント。
「そうかしら。別に……」
 判っているけど『それでもたまにはいいではないか。そんなこだわりなんて……』という一種の気の緩みであったかもしれない。
 だが夫は妻として母としての気持ち、ミセス准将としての気の緩みは決して見逃してくれない。
 上質できっちりとした制服同等に着こなした紺のスーツに、無造作な天然石。色合いも質感も確かに合っていないかもしれない。でも気持ちが……。
「エド。しっかりアドバイスしてくれ」
 仲睦まじい朝を迎えている夫妻の向こうには、空気のように仕えているエドが主の声でふっと姿を現す。
「申し訳ございませんでした。お嬢様がどうしてもと……」
「ミセス准将としての格が優先だ」
 夫なのに。昨夜はあんなに優しかったのに――。妻がミセス准将となると、彼はまるで鬼になるように感じる時がある。葉月は密かに唇を噛みしめる。
「これはプライベートの一品だ。ミセスに、今日の格好に相応しいものを持ってきてくれ」
「かしこまりました」
 エドがまたすっと気配を消した。奥に用意した彼専用の控え室に向かったよう。
 隼人の手が容赦なく、息子が母のために贈ったクンツァイトのペンダントを外してしまう。妻の首裏にある金具をそっと……。
 少し哀しい気がした。少しぐらいとも思ったが。
 いや……。これだからこそ。この人に空部隊を任せられるのだ――。
 だから葉月は奥の奥で密かに噛みしめ、自分も堪える。きっとこの夫だって……。心の中で『ごめんな』と思ってくれているのだろうと信じて。
「俺だって……」
 見上げると、彼も少し眼差しを曇らせている。
 ペンダントの鎖をつまんで、そっと大きな手のひらに石を落とす。
「息子が一生懸命に選んだのを見ているんだ。ママがそれをどこにでもどんな時にでも身につけてくれている方が、息子も喜ぶと思っているんだ」
 でもな……と、彼が申し訳なさそうに続ける。
「でもな。それ以上に、海人はきっと。空の男共が知っている『ミセス准将』であることが誇りだと思うんだ」
「その前に、私はママなのに」
「そう。ママも忘れずに。こうして忘れていない。海人にも俺はそう伝える。お前が傍にいない時はな」
 すとんと、葉月の中で落ち着いた。そして隼人は手のひらに落とした石のペンダントを、今度はポケットから出したハンカチにしゃらりとチェーンごと落とした。それを丁寧に包んでしまう。
「肌身離さずなら、こういうことも……」
 ハンカチに包んだそれを、葉月に差し出したかと思ったら。隼人のその手がブラウスのボタンを外して、胸元へと滑り込んできたので葉月はハッと我に返る。
「な、なにしているのっ」
 しかもその手が、乳房を包んでいるランジェリーへと滑り込んできた。
「だから、肌身離さず。ここに隠して持っていけよ」
 十何年も触れることを許してきた夫の手だから怒りはしないが、それで平然と妻の乳房のそこに、朝からつっこんできた夫のすることに葉月は少しばかり顔をしかめる。
 それでも隼人はそこにきっちりとペンダントを包んだハンカチを収めてしまった。
「これで、お前も満足だろ」
「……隠すところ、もっと別にあるような気がするんだけど」
 でもニンマリと勝ち誇った笑みの旦那さんは、奥さんが不服そうに睨んでもなんのその。
「心臓の近くが一番いいだろ。そうだろ」
 ついに葉月は黙ってしまう。息子がみつけてくれた新しいお守りの『パワー』を信じるならば、確かにそんな安心感も得られる場所なのかもしれない。
 そして隼人もいつも通り。外したボタンを丁寧に閉じて、きちんとしたミセス准将に戻してくれる。
「お待たせいたしました」
 夫妻の肌の触れ合いが済んだのを見計らったようにして、エドが背後に戻ってくる。たぶん、見ていたんだろうな……と葉月は思っている。でも隼人は平然と微笑んでいる。
 これがもう少し若い頃なら、隼人も『見られた』と照れていたのかもしれないけれど。最近はエドとジュールへの信頼故か、彼等を空気として側に置くことに慣れてきたのか、堂々としていた。
 そのエドがビロードのアクセサリーケースを数点持ってくる。
 それらの蓋を開けて、ひとつひとつ。葉月ではなく、隼人に見せた。
「こちらは、お嬢様用に新しく取りそろえておいたものです」
「若々しいけど、これはお洒落用だな」
「こちらも……」
「駄目だ。カジュアルすぎる」
 どれも葉月が私服で華やかに着飾る時につけるようなものばかりだった。
「もっと重みがあるノーブルなのはないのか」
 こちらを――と、エドが差し出したが隼人は『豪華すぎる』と首を振る。
 エドがそこで一時躊躇う。だが彼の目線は最後の古ぼけたケースをじっと見つめていた。ついにそれを決心したように手に取り蓋を開けた。
「では。最後ですが、こちらを」
 見た瞬間、隼人の目が満足そうに輝く。そして葉月は息を呑んだ。
「これがいい。ぴったりだ」
 サファイヤ一粒、ぐるっと小粒のダイヤで装飾されているシンプルでオーソドックスなペンダント。だが葉月には見覚えがある。
「それ……。ママの……」
 そう言った途端、隼人も驚いて葉月を見た。
「お義母さんの?」
 葉月はこっくりと頷く。
「いつもフォーマルな場所でママがつけていたものよね」
 エドに尋ねると、彼も静かに頷いた。
「お母様から、お嬢様へと。少し前にお預かりしたものです。登貴子奥様はもう公式な場へお顔を出すことも少なくなりましたので、これからはご活躍中のお嬢様へ。しかるべき時には使って欲しいとのお言葉で」
「ママが――」
「お義母さんが――」
 葉月は隼人と顔を見合わせた。
「オーソドックスすぎて、一歩間違えると、お若いお嬢様には老けた印象を与えてしまいますので……。いまは未だかとお出ししたことはなかったのですが。本日はシックな装いですので、これだけの重みと華やかさがあればこちら一点で存在感が出るかと思いまして」
 母親からの品だと解り、葉月は躊躇していたが、夫の隼人はそうではなかった。
「ピッタリだ。エド、それをミセス准将に」
「かしこまりました。よろしければ、隼人様から……」
 エドの提案に隼人も満足そうに頷き、ケースから登貴子母のペンダントを手に取った。
 彼の温かい手が、ひんやりとしたプラチナのチェーンを葉月の白い首にかけてくれる。
 シンプルな白いブラウス、開いた首元にスーツと同じ濃紺のサファイヤ。それを隼人が見下ろす。
「お義母さんも味方だ」
 心臓に近い乳房には密かに息子と夫の想いを、そして胸元には母の想いを。隼人がサファイヤを指先に乗せ微笑んでいた。
「そうね。ありがとう、貴方」
 葉月も微笑むと、夫がいつもよりも長く見つめて微笑んでくれている。
 ――そろそろお時間です。
 エドの声に、今度は葉月自身が襟を正す。
「お先に。行って参ります」
「いってらっしゃい。ママ」
 葉月はミセス准将に切り替えての行ってきます――だったのに。彼は夫として見送ってくれた。
 
「エド、大尉の面倒を見てくれた?」
 暖かで甘く浸れた部屋を出て、葉月はホテルの通路をエドを従え、颯爽とエレベーターに向かう。
「はい。着映えするように、昨夜のうちにチェックさせていただきました」
 黒いスーツのエドがさっと先を行き、エレベータのボタンを押してくれる。
 葉月なんかより、ずっとキャリアがあるお兄さんなのに……と、こんな時、いつもため息が出てしまう。
 でも。葉月の前ですっと直立不動の佇まい。背中が……義兄に似てきたわね、なんて思ってしまった。
「エド。いつもありがとう」
 絶対に嬉しい顔などしてくれない。肩越しに申し訳なさそうに会釈をしてくれるだけ。
 ジュールといい。このお兄さん二人はたぶん、最期までこのように生きてくれるのだろうなと思う。
「お嬢様。良い青年を見つけられましたね。まだ荒削りですがリード次第では……」
 尊敬している彼の目から見ても、あの青年で良かった――。そう言ってもらえ、葉月の胸にじんわりと広がるものがあった。
「貴方にそう言っていただけると、安堵します」
「ですが。まだ若すぎます。油断は出来ませんよ」
「はい、エド兄様。ありがとう」
 ジュールもエドも、御園の家族。どんなに仕えてくれても、やはりそこお兄さん。そこでやっとエドの唇が和らいだのを葉月は見る。
 大人の、葉月より経験がある彼からの励ましの言葉に、アドバイス。嬉しかった。
 エレベーターがやってきて、エドの無駄のないエスコートで乗り込む。
「すでに大尉は待っているかと思います」
 彼の言葉通り、昨日と同様のティールームに今日は青年が先に来てくれていた。
 だが今度、そのティールームで人目を引いていたのは、真っ白な軍正装姿の英太だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 昨夜のうちに、宿泊させてもらっている部屋にエドが訪ねてきて、英太が持ってきた正装一式をチェックしてくれた。
 しわになっていないか、着崩れるような保管をしていないか。そして少しばかりの所作のアドバイスをもらった。それは軍隊で礼儀とされている仕草とは異なるものだった。
『明日のお相手は、民間のご婦人方です。男性には軍隊同様の仕草で結構。ですが女性にはソフトに繊細に気遣う紳士で接してください』
 ああ、それってつまり。葉月さんが言っていた『おば様ににっこり微笑んでもらうとか、おば様に握手をしてあげるとか、おば様と一緒にダンスをしてもらうとか、おば様のお皿にお食事も盛ってあげるとか。おば様にシャンパンのグラスを差し上げるとか。おば様に……」 』の為の準備なんだな――と思ったのだが、『マジでやらなくちゃいけないのかよ』と内心げんなり。だが、いつも口悪叩ける姉御の葉月さんよりも、エドの崩れない強面が英太になにも言わせない。そういうオーラーを確かにその男性は持っている。だから大人しく従って覚えたのだが。
「おはよう、大尉」
 周りの宿泊客の視線を窮屈に思いながら一人待っていたテーブルに、その彼女が現れる。
「ありがとう。今朝は先に来てくれて」
 濃紺のシンプルなスーツ姿に、英太は唖然とさせられる。
「あの、ミセスも正装かと……思って……」
 だが葉月さんは、こんな時『にっこり』とする。彼女が満面の笑みを湛えた時は『なにかを企んでいる時』。
「いいのよ。今日はこれで」
 まるで。『目立つのは貴方の方で結構』とばかりの、輝く白と質素な紺。きっとそんな意味なのだろうと英太も察する。
 ということは。今日は大々的に英太を前面に出して『広報をする』ということなのだろう。少し緊張してきた。
「早速、行きましょうか。ランチでも早めに始まるから」
「イエス、マム」
 英太だけがコーヒーを飲み干し、葉月さんは席にも座らず外に出ようとしている。
 それでも輝く白い男を従えているのは、その抑えに抑えた服装で身を固めた女だった。昨日とは打って変わって、なんとも飾り気のない。なのに、軍正装青年を連れるシンプルな女性へと周囲の視線が集まっているのが英太には判っていた。先ほどまで誰もが英太を目に留めても、今はすべてが葉月さんへと向かっている。
 彼女にもオーラが滲み出ていた。そんな質素で飾り気がなくとも。抑えに抑えている濃紺の影から立ち上る匂いみたいなもの。それは彼女が制服を着て、女を偲ばせているのととても似ていた。
 
 エドが用意した黒塗りの車に乗り込み、ミセス准将と英太は箱根へ向かう。
 その行く道、後部座席で並んで座っているのに英太と葉月さんの間に会話はなかった。
 こんなに近くにいるのだから、なにか話そうと思っても。やはりなにを話して良いのかわからない。甲板でパイロット同士、悪口たたき合っている方が気兼ねがない。今日はまるで、ビジネス。そんな横顔を見せているミセス准将とは、話せる気がしなかった。
 葉月さんも頬杖、ぼんやりと窓に流れる景色を目で追っているだけ。その眼差しが遠い……?
「あの、」
 やっと声をかけると、瞳だけちらりとこちらに動いた。
「昨夜は眠れたのかなと思って……」
「ああ……そうだったわね」
 目がぱっちりと開いて、英太へと顔を向けてくれた。
「そうよね。英太の目の前で、薬を飲んだ夜に微熱を出して唸ったことがあったわね。大丈夫よ。おかげさまでぐっすり」
 その笑みが急に満ち足りた女性のような、柔らかなものだったので、英太はドキリとしてしまう。そしてまた悟る。やっぱり隼人さんが迎えに来て正解だったんだと。
 なんだよ。橘中佐が言うとおり『お熱い週末』だったってことか。密かにむくれてみるのだが。
「海人がね。眠れない私を心配して、心が安まるようにとそんな石のペンダントをプレゼントしてくれたの」
 そんなペンダントはしていないのに。葉月さんは何故か胸元にそっと手を置き、とっても安らかな笑みをみせてくれた。
「そ、そうだったんだ。海人が……」
 なんだか解るような気がした。英太はこちらの長男とは親しんでいる為、その少年がどのような男の子かよく知っているつもりだった。
 顔はママそっくりなのに、中身はパパによく似ている。元気いっぱいの兄貴分、海野の長男をどんどん前に行かせて、自分はその後ろでしっかり周りを見て動かしているというのか。性格なのか、父親と過ごしている時間が多かったからなのか解らないが、そんな男の子だった。
「知られないよう気をつけていたつもりなんだけれど。子供にちゃんと見られているの。でも、嬉しかった。昨夜は子供二人が夢に出てきてくれたほどで――」
「ふうん、良かったですね」
 母親の顔だった。あまり見たことがない。ミセス准将の気が緩んでいる顔。ちょっぴり自慢げに親ばかな笑顔。でも英太もホッとする。
「こんな時。今まで、いつ死んでもいいだなんて思っていた自分を恥じるわ。今は絶対にそんなこと考えない」
 急に真顔で強く言い切る葉月さん。その言葉の裏に『だから英太も投げ出すような生き方は駄目』と言われているような気がした。
「葉月さんを変えたのは、家族なんだな」
 英太から理解したと思える一言を伝えたからなのか、葉月さんが少し驚いた顔に。でもすぐにあの気の良い姉さんの笑みを見せてくれる。
「そうよ。そんなのありきたりとか、自分には絶対にない――なんて、そんなことなかった」
 今日、隣にいる女性は確かに『御園葉月という人』なんだと英太は思った。甲板にいるミセス准将でもない、御園大佐の奥さんでもなく、海人という少年の母でもなく。家族が出来るその前から歩んできた重みを感じさせた。
 故に。もうすぐ一人になってしまうだろう英太にも『諦めるな』とほのめかしてくれている気もする。
 この人が言えば。英太は信じてしまう。この人なら……。
 とても間近い隣にいるそんな葉月さんの顔を英太はじっと見つめてしまっていた。葉月さんも気がついてくれる。彼女の茶色の瞳と、英太の黒目が合う。静かに……。
 そんな時に限って、葉月さんのハンドバッグの中から携帯電話の着信音。
 あっという間にかき消される二人だけの……。だが英太は携帯電話をさっと手にした葉月さんを見て、逆にホッとしていた。こんな『二人だけ』なんてものが、何度もあったら。『俺、たぶん……どうなるかわからない』と、改めて感じた。
「昨夜はありがとうございました」
 ホッと胸をなで下ろしている英太の隣で、葉月さんのそんな会話。
 昨夜――。橘中佐からの連絡だと解った。途端に葉月さんの横顔が、よく知っているミセス准将の冷めた眼差しに変貌している。
「……それで、よろしいのですか」
 片耳に携帯電話を当てたまま、葉月さんはじっと黙って前を見据えている。
 橘中佐がなにを話しているのか英太には聞こえないが、『断りの電話』だろうと感じ取ったのだが。
 葉月さんがため息を一度つくと、やっと話し始める。
「長沼さんより先に大佐に昇進されることを気にされてのご辞退なのですか」
 やっぱり。橘中佐は葉月さんのヘッドハンティングの申し入れを断ろうとしている。しかも同僚の長沼中佐より先に昇進することを気にして?
「放っておいても、長沼さんなら一年か二年の内に確実に大佐に昇格されるでしょう。しかも次期業務隊長候補。約束されているようなものです」
 葉月さんの説得に、英太も隣で頷いた。
「勿論、橘さんもいずれ空部隊を支える重鎮として大佐になられますでしょう。それならば、今でも何年後でもおなじではありませんか。それに先になったとかならなかったとか、そんなことこだわっている場合ですか。長沼さんとのビジョンがあるならば、『なれる時になる』方が早道だと思いますわよ」
 ズバリ、言い過ぎ。でもその通り――と英太はおののきながらも、またまた納得。
「まさか長沼さんがそう言ったとかおっしゃりませんよね。そんな了見が狭い見方をする人だとは思えません。むしろ貪欲に獲れるものはどんどん獲っていけという方だと思いますが……」
 ということは。橘中佐自身があれこれ理由をつけて怖じ気づいているだけだとばかりに、つきつけるミセス准将。普段はなにを考えているかわからないほど喋らない葉月さんが、ここぞとばかりに相手をたたみかける姿。
 最後、葉月さんははっきりと橘中佐に切り込んだ。
「一年だけでもお願いできませんか。小笠原で私と共に甲板に立ち、空母に乗船してください。小笠原ホワイトのノウハウを根こそぎ手土産に横須賀に持って帰ることが出来ますわよ。その方が長沼さんも喜ばれるのでは……?」
 なんて大胆な。英太は吹き出しそうになった。手の内ぜんぶ見てあげる。見せたもの、一年後にごっそり持って帰って結構――なんていう説得!
 い、いいのかよ。いいのかよ? ラングラー中佐がいま隣にいたら止める? 止めない? 英太の胸がざわついて止まない。だが葉月さんはお構いなしに続けた。
「それだけの覚悟を持って、貴方をお誘いしていると理解していただけましたか」
 それを最後に葉月さんが黙った。暫く、あちら橘中佐の言い分を黙って聞いている。
「もう一度、お考えくださいませ。良いお返事、お待ちしております」
 ついに。電話を切った。
 葉月さんじゃない、英太が『ほう』と驚嘆の息をついていた。
「あの、ほ、本当にたった一年で返しちゃうんですか」
「ええ。橘さんが来てくださった以上。彼が一年後に帰ると言えば横須賀にお返しするつもりよ」
「でも」
 そこで葉月さんは面倒くさそうに窓辺に頬杖をしてもたれた。
「一年で小笠原空部隊のノウハウ根こそぎもっていけるほど甘くないでしょう。せめて二年よ。本気でホワイトを横須賀にと考えているならばね。それにね。なにもライバル会社に手の内を見せようと啖呵を切ったわけでもないから。小笠原も横須賀も切磋琢磨するためライバル意識は持つけれど、最後は『同志』でしょう。同じ国内の防衛に勤しむ間柄。同じように前に進むべきだと思っているけれど」
 そこまで言い切られたなら、英太のような若造はなにも言えない。
 だが、葉月さんは急にニンマリとあの笑みを浮かべた。『たくらみ』を秘めている笑みを。
「絶対に来るわよ。言い訳並べていたけれど、それって迷っている証拠。半分以上はこちらに傾いている。絶対に来る。だって『雷神』だもの」
 『だって雷神』。それが御園葉月だから言えること。彼女が言い出さなければ復活しなかったフライトなのだから――。
 言葉が続かなくなる。きっとこうして、彼女の隣にいれるようになった今から。もっともっとミセス准将の手の内に驚かされていくのだろう。そう実感した。

 

 

 

 

Update/2011.9.16
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