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15.クンツァイトの夜

 

 まるで夫に連れ去られるようだった。
 来るだなんて聞いていなかったのに。でもなんとなく予感していた。彼なら『心配して来てしまうのではないかと』。

「酒、飲まなかっただろうな」
「うん、薬を飲んだ後は」
「それならいいけど」

 黒いスーツ姿のジルが運転する車、後部座席。そこで隣りに寄り添うようにしている隼人が、ホッと安堵した溜め息。
 時々、『心配し過ぎよ』と思うのだけれど。でも……時々、葉月でも予想できないことが起きるから、彼も居ても立ってもいられなくなった気持ちも分かるし、葉月自身も結局すごく安堵している。

「海人はどうしたの」
「いま、男ばかりのファミリーで盛り上がっているところに預けた。喜んで泊まる準備をしていたよ。晃も一緒だ」
「義兄様のところに」

 それを聞いて、葉月は携帯電話をすぐさまバックから取り出す。

「貴方、私は大丈夫なのに。海人をひとりにしないで」

 本当は迎えに来てもらって嬉しかったくせに――。
 でもあの息子なら、我慢してしまっているのではないかという心配が先立ってしまった。

「わかっている。でも、実は……」

 そんな隼人も父親として心苦しいまま、案ずる妻のところに駆けつけたというのが窺える躊躇いの眼差し。しかも言い訳に口ごもるだなんて。

「義兄様、葉月です。ええ。いま隼人さんと一緒よ。海人をお願いできるかしら」

 義兄の携帯電話に連絡をする。『ああ、もう寝かそうと風呂に入れたんだが。どうにも興奮して寝そうにない』との報告。その通りなのか、義兄の声の向こうではキャアキャアとした男の子の声が……。二人じゃなくて、三人? ひとりは大人の男の声?

「もう、しんちゃんまで?」
『そうなんだ、もう。海人と晃がチビだった時と全然変わっていない』

 義兄の呆れて疲れた声。でも最後におかしそうに笑ったので、義兄もそれなりに楽しませてもらっているようだった。

『遊び相手のでっかい兄貴もいるし、料理上手の金髪のおじさんもいるから大丈夫だ。たのしくやっている』

 長期滞在を予定しているジュールに、そして休養中で父親との生活で骨休みをしている甥の真一。彼等に囲まれて海人も寂しさを紛らわしてくれているようだった。

「あの、義兄様……」
『わかっている。預かるのは初めてではないからな。それより、引き抜きは……。あ、いや、仕事の話はまた聞こう』
「ええ、また連絡します」

 電話の主との会話が終わると、義兄がすぐに『海人、母ちゃんからだぞ』と息子を呼んでくれる

『母さん』
「海人。ごめんなさいね。なんだかお父さんまでこっちに来るようになってしまって」
『……うん。いいんだけど』

 やっぱり、元気のない声。父親が母親を心配するあまり来てしまったこと。彼は従兄のお兄さんとおじさん達と一緒だから大丈夫だって口では言っても、心では本当は寂しくて……。瞬間、葉月の胸が痛んだのだが。

『母さん、昨夜は眠れたの? 横須賀に出かける前の晩も夜中に起きて、テラスをウロウロしていたでしょ』

 え? 息子が思わぬ言葉を呟いたので、葉月は呆然とする。

「あれは……」
『なにか嫌な仕事でもあるのかなと思って。父さんも落ちつきなかったし』
「そうなの?」

 ママは思わず、隣りに寄り添ってくれているパパを見てしまう。
 そのパパが息子との会話の内容を察したのか、目を逸らしてしまった。どうやら知られたくなかったようだ。

『父さんに行ってこいて言ったのは、純一伯父さんだよ。真一兄ちゃんも行ってきてあげて言うし。だから俺もここで留守番するって』

 夫が迎えに来てくれた経緯を知って、また葉月は驚く。そして……情けなくもなる。

「あのね、海人。お母さんはね、大丈夫なのよ。隼人お父さんがいなくても。それよりもお留守番をしてくれる海人の傍にお父さんがいないと……」
『俺、母さんが眠れなくて辛そうだったり泣きそうだったり苦しそうな顔をしている方が、怖くなるんだもん』

 ……強く言い切った息子の声に、葉月は無言になる。
 夜中なのに。見られていた。息子にしっかり、母親じゃない駄目な自分を見られていた。血の気が引く思い。子供にだけは悟られたくなかったのに――。しかも、まだこんな年端もいかない子供に心配させて……。涙が溢れてきた。

「海人。ママが眠れないのは……ずっと昔からだからいいのよ」

 つい。彼が小さかった男の子の時のまま、ママと言ってしまう。時々言ってしまう。今でも彼に子供でいてほしい時に、知らぬ間に使っている。

『それ、ずっと治らないものなの。これからも、治らないの』
「なかなか治らないの。だからいいのよ。そうしてママはこの歳まで、眠れない自分と付きあってきたんだから。貴方は、ママのために頑張らないで良いのよ」
『でも。今日は父さんといて。本当に出かける前の母さん……辛そうだったよ』

 どうしよう。どう答えてやったらいいのだろう。毅然とした母でいるべきなのに……息子の気遣いに崩れ落ちそうになる。すると隼人パパに電話を取られてしまった。

「海人。今日の母さんの仕事は大成功だ。父さんは迎えに行っただけ。また名が知れたパイロットをひとり引き抜いて、小笠原に連れて行くから待っていろ」
『それって、ほんとう! どんなパイロット!!』
「まだ極秘だ。でも母さんじゃないと引き抜けないパイロットだ」
『そうだったんだ!』
「成功したら、海人も会える。母さんが絶対に連れてきてくれるから待っていな」

 パイロット大好きな息子の興奮する声が、葉月の耳にも伝わってきた。
 ――『父さんがいるから今夜は大丈夫だね。母さん、おやすみ!』。そんな声も。もう我慢できず、葉月は泣き崩れた。

 隼人が電話を切り、葉月の携帯電話を返してくれる。

「本当にお前のこと心配していたんだ」
「知らなかった……。まさかそんな明け方近い深夜の私を見られていたなんて」

 確かに。無性に胸に迫り来るものがあり、あの夜、寝付けないまま波の音を頼るようにして、テラスをウロウロしていた。
 いつも隣で寝てくれている夫もよく眠っていたので、起こすまいとそっと抜け出したはずなのに。二十分後には、隼人に見つかってしまった。夫の彼はいつもそう。いつからかずっとそう。葉月が目覚めたら、だいたい彼も目が覚めてしまう。そういう夜を結婚してから重ねてきたから。それだけ彼も浅い眠りが習慣付いてしまったと言うことになる。

 そんな夫が、いつにない神妙な顔で呟いた。

「そろそろだな。子供達に誤魔化せなくなってくる」

 ママにはなにか辛いことがあった。
 子供達が察している。離れて暮らしている杏奈でさえ。毎月送ってきてくれる彼女が作ってくれた曲は増えるばかり。その曲は優しいだけじゃなく、時には葉月の心を踊らせる軽快で陽気な物もあったりする。たまに娘にもなにか思うところあるのか、アクが強い曲も送られてきたりして、その時には母親の自分が気にかけるようにしていた。
 そして日々を共にしている息子はもっと敏感だった。ただでさえ、父親にそっくりで自分の本心より周りとの調和を気にしてばかりいる長男。葉月は常に『まずは自分の気持ちを大切に』と口にしているのだが、長男のそれは父親同様自分のためより人のためであることが多い。パパのような気苦労が自然になってしまわないかと気にしながらも、やはりパパの息子、『優しい子』と嬉しくなることもある。
 そんな息子の優しさに。母親の自分が癒されている。

 ある意味、夫より深く感じ入ってしまう。

「大丈夫だよ、葉月。子供達だって、いつかは必ず大人への道を歩いて行かねばならないんだから」

 申し訳ないまま涙をこぼしていると、隣の夫が肩を抱き寄せてくれる。
 『大丈夫』って。大人になる険しさだけではなく。これから子供達が御園家が今でも降ろしきっていない重い闇を、家族として共に分け合うその日が来ることが、葉月には苦しい。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 昨晩と同じ部屋。そこに今夜は夫がいる。

「エド、有り難う。今日はもういいよ」
「お嬢様……いえ、奥様のお薬ですが。こちらに揃えておりますので……」
「わかった。あとは俺がやるから」
「それでは。おやすみなさいませ、ご主人様」

 常に葉月に付き添ってくれていたエドが退出する。
 横浜の港町が見渡せる部屋で、夫が窓辺でジャケットを脱ぎながら眺めている夜景。

「明日は箱根で、蘭子さん主催のランチ会か。朝、何時だ」

 ネクタイを緩める姿が、ガラス窓に映っている。
 ソファーでぐったりしている葉月へと、肩越しにちらりを振り返る。

「ここを10時に。一階ロビーで英太と集合よ」
「そうか。俺はジルの迎えで、別行動。箱根で合流だ」
「貴方も箱根のランチ会に出るの?」

 全てが予定外で、葉月は驚いて隼人を見た。
 ところが、肩越しから見せている夫の眼差しが、基地にいる大佐の如く険しかったのでドキリとする。

「出席する各所お偉いさんから、いろいろなことを聞いておきたくてね」
「いろいろな、こと?」
「そう、いろいろなこと」

 またこの人はこの人でなにを企んでいるのか。自分が夫に内緒で行動していることも多々ある。夫がそれを『なにをしているんだ。ちょっとでも仄めかせるなら教えてくれ』と暗に示しても、誤魔化して流すことの方が多い。
 だが逆に、夫も同じ。妻に内緒で何かの網を勝手に張って勝手に捕獲して内緒で握っていることがある。今がその予感。そして妻同様、夫も夫妻だからって教えてはくれない。
 そこで葉月は、疲れている身体にもう一度力を入れ、立ち上がる。
 夜景を見ている夫の背に迫った。

「貴方にひとつだけ、お願いがあるのだけれど」

 『なに』と、また肩越しからの目。その目が冷めていてびっくりする。が、それが『澤村大佐』というもの。ミセス准将でも妻である葉月でも、そんな時の夫は『大佐』でしかない。

「この前の、工学科のデーターベースを野口さんを使って開けようとしていた隊員のことなんだけれど」

 そう言っても、隼人はぴくりとも反応しない。それが判った日には、家に帰ってもかなり憤っていたのに。その時は逆に、葉月が冷めた顔で『そうなの』と流していた。でもその時でも頭の中では『何故、そのようなことが起きたか』を推測し、直ぐにテッドに連絡をして行動を起こした。
 しかしそれは夫も同じなのか。その落ち着きは……。

「野口にさんに近づいたその男。あまり構わないで。そのまま泳がしておいて」

 そう告げると。やっとニッコリと微笑みを浮かべた夫が、葉月へと振り返った。

「何故」

 ドキリとする。何をどう考えているのか妻でも考えあぐねるその微笑み。

「テッドに調べさせたら……」
「ジュールに調べさせたら、だろ」

 手の内をズバリと突かれ、葉月は押し黙る。やはりこの人に隠し事をしたり、判らないように行動するのは無理だ。そう思わされた。

「で、ジュールに調べさせたら何が出てきた」

 適わず、葉月は落ち着くための一息をつきながら、栗毛をかきあげる。そして思わず葉月は敗北感を噛みしめるかのようにして、致し方なく夫に告げる。

「私に落ち度がないか見つけるための『隠密』の可能性が強いわね」
「なんだって」

 夫から笑みが消えた。

「驚かなくても。『隠密』は常に放たれているもの。そんなの上層部に関わるようになれば、誰だって知っていることよ」

 ――通称『隠密』。秘密隊員と似ているが、異なるのは『幹部偵察、監視』を主にしていること。
 不正をしていないか、隠匿をしていないか。良い面ではそのように用いられる。つまり一握りのトップ陣の指示でしか動かせない。さらに『一握りの、選びに選ばれた秘密偵察部隊』ということ。
 悪い面では、落ち度もないのに落ち度があるように仕掛けるために、ターゲット幹部の弱点を探し出すこと。
 この力に関して幹部達は賛否両論。用い方によっては正義であり悪用ともなる。それなら清く正しくしていれば良いと思うだろうか、世の中そんなに甘くはない。あちらの王様が気に入らなければ、あっという間に陥れられる可能性がある。どのような手を使われるか判らない。監視される名目も判らない。望まれて能力を測られているのか、失脚を望まれて調べられているのか、目的による。
 こちらもどのように見られているのか図り、あるいは『見せておけば良いのか』。その駆け引きが必要となる。

「もしかすると、正義兄様の周りにもいるのかも。若く統率力もあり、しかも今までのやり方にもきっぱり反論する。そんな正義兄様に反感を買っている旧式頭脳のオジサマも多いでしょうしね。もしかすると正義兄様に宛てられている『隠密』が、部下である女の、また過去が暗い『ミセス准将が弱点』だと見定めて、夫の貴方から探っているのかも」
「だとしても! 工学科のデーターベースを開いても……」
 そこであの夫が、さっと青ざめたのが判った。
「いや。何事もなく収めることが出来たが。正義さんの弱点は『女部下で過去があり情緒不安定になりかねないミセス准将』、ミセス准将の弱点は……『夫の御園大佐』。そして俺の弱点は『ミスを連発し、警戒心が薄い新人女部下』?」
 そこが狙い目。そこがまず細川&御園一派を切り崩す『小さな穴』。そこからほつれていく崩壊していく『名家一派』。

「野口さんを引っかけた軟派な青年だけれどね。彼、辿りに辿ったら上層部に取り入って地位を築いた幹部オジサマの遠い遠い縁者だったらしいわ」
「だけどな。それぐらいの調べが『御園の力』ならつくこと、『隠密クラス』は判っているだろう」
「そこよ。その使われた青年が『捨て駒で乗せられてやってしまっただけの馬鹿』なのか、あるいは『隠密の顔を隠すために、馬鹿なふりをして油断させている』のか。ジュールと義兄様に言わせれば、『縁者という調べに辿り着いたのも怪しい』と言っているわ」
「つまり、御園に調べられても構わない『作られた経歴』を施してまで乗り込んでいるってことか」
「誰が隠密を送ってきているのか。あるいは隠密など送られてなどいない、本当にただのボンが馬鹿をやっているのか。何のために……。それとも、真っ向からこちら一派のやり口を『どのように対処するのか』テストをされているのかもしれない」

 そこまで説明し、やっと夫が『わかった』と頷いた。
「野口を口説いて科長室に入り込んだその男が、馬鹿なのか馬鹿ではない真打ちの隠密なのか。それを見極めるには『騙されたふりをしろ』ってことだな」
「そういうことよ。でも普段通りの御園大佐で、わざとらしくならないように騙されるの」
「わかった」

 話がまとまると『ついに、そんなことになったか』と、今度は隼人が大きなため息をついて、ソファーに座り込んでしまう。
 眼鏡をとり、疲れた目元をほぐし、またため息。それだけ脱力してしまったようだ。

「でもね、貴方。安心して」

 座り込んだ夫の側に寄り、葉月は隼人の耳元に身をかがめる。

 聞いて、貴方。そっと密かな息だけの声で。
 なんだ。小さく息だけの返答をした夫に、その『秘策』を囁いた。
 夫が驚いた顔で、葉月を見上げる。

「いつの間にそんな準備が進んでいたんだ」
「こちらには、フロリダ本部にも強い味方がいるのよ。マイクの部署から、まずは正義兄様の秘書室に転属してくるから。彼――」

 夫がさらに力無く笑う。

「ったく。なんなんだよ。俺に隠れてしていたことって、そういうことだったのかよ」

 葉月は密かにほくそ笑む。
 基地を出て、義兄の家でなにをこそこそしているのか。そろそろこの夫にもばれる頃だろうと思っていた。
 『現場引退』のことを嗅ぎつけられないか案じていたが、『丁度良く』、都合の良い『不都合』が起きたので、妻はそのことで水面下で黒猫を使ってまで動き回っていた――と『信じ切ってくれた』ようだ。

 よかった。これで暫くは、疑われないだろう。
 隼人もきっと、『隠密』から細川&御園一派一族を守るために集中してくれ、妻がこの先『リスクを恐れて、引退する』など思いつきもしないだろう。

 だがやはり。拠点は黒猫事務所である義兄の部屋に移した方が良いと実感した。正義も黙認してくれたから、葉月は外に出ている。
 ただまだ、テッドには隠密が基地に潜入していることは説明できたが、『引退を視野に入れている』ことは言えずにいる。
 知っているのは、正義と義兄とジュールだけ。真一には真向かって告げてはいないが、あの子のことだから黒猫事務所がいつにない活動を始めたことに何かの察しをつけているかもしれない。そして、達也の側にいるリッキーが、正義とどのようなやりとりをしているかはまだ未確認。
 ――達也にも、近いうちに説明して味方につけておかなければ。
 葉月はそう思った。とにかく、隼人に知られないよう基盤固めをして、気がついたらひな壇最上段に担ぎ上げられていた――というシナリオを進めて行かねばならない。

 この夫ほど、トップという椅子に座らせるのに手こずる男はいないだろう。
 優しいだけに。自分より人に譲って影に徹するのが性分なだけに。そして『妻は俺の上に立つ』と誓ってくれているだけに。

 これも今後の空部隊を思えばこそ――。
 夫妻なのに、騙し合い化かし合いの大仕事。そっとため息をついてしまった。

「大丈夫か」

 ふと夫から気を逸らした間に、ソファーに座っている彼の手が葉月の腕を優しく掴んでいた。

「大丈夫よ。私には沢山の助けてくれる味方がいるもの。……貴方もね」
「嘘だ」

 そう言われ、葉月は少しドキリとして固まってしまう。
 眼鏡を外したいつもの、じんわり柔らかな眼差しが葉月をじいっと見ている。

「様々な外敵に障害、問題、責務。プレッシャーに押しつぶされそうで、強がって『大丈夫』と言って、自分で自分を奮い立たせている。俺が『力を抜いてもいいんだ』といっても、お前はその『力の抜き方』をよく知らない。だから、発作が起こる」
「――やめて」
「いいんだ。それがお前にとって『楽なやり方』なら。力が抜けなくて、最後のしわ寄せが発作になる。それならそれでいいんだ。でも、『その時だけは』一人にはしたくないだけだ。だから……」

 ……だから、来てしまった。お前は今夜とても疲れているのだから。

「やめて」

 夫に背を向け、葉月は顔を覆う。
 隠せないことばかり。でもそれが、夫だからこそ為せること。
 ――その通りだったから。ついに涙があふれてしまった。

「泣ければ、またそれもよし。安心した」

 いつの間にか。座っていたはずの夫が、立ちつくしている葉月を背中から抱きしめてくれていた。

「風呂に入って、今夜はぐっすり眠ろう。一緒に」

 それだけ言うと、隼人は葉月の栗毛をひとなでし、耳元にささやかな口づけをして離れていく。
 振り返ると、もうシャツの袖をまくって、浴室に向かっていくところ。

「お前が好きな入浴剤、持ってきたから。一緒に入ろう」

 なんか当たり前のようにサラッと言っているけど。旦那さん、けっこう大胆なこと申し込んでいる――とか思ってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ローズとグレープフルーツの香り。いつか彼が誕生日にプレゼントをしてくれてから、大のお気に入り。
 湯が張れたと呼ばれたので、葉月もスリップドレス一枚になって浴室へ向かう。

 ガラス張りの広い浴室、バスタブにはもう既に裸になって浸かっている夫がいた。湯気の中、遠く見渡せる港の方を見つめている。

「実家と同じぐらいの高さかな。ここ」

 高台にある澤村家からも、遠く港町が見渡せる。

「そうね」

 よく考えれば、ホテルで泊まって夜景を見たところで、彼にとっては実家と同等なのかもしれない。
 すっかり妻を同じ空間に迎える気になっている眼差しが、微笑みが、『早く来いよ』と促しているのが判る。葉月も躊躇うことなく、最後のランジェリーを肌から落とした。

 良い香りがするだけで、気分がほぐれる。少しぬるめで入れてくれているのが、また旦那さんらしい。足を入れ、静かにバスタブに身体を沈める。旦那さんと向き合おうと思ったら、思いの外強引に腕を取られ、彼の胸の中に抱きしめられてしまう。また背中から抱きしめられ、夫の膝の上に収められた。

 背中から回っている片腕が葉月をがっしりと抱くと、旦那さんにぴったりくっつくように引き寄せられた。そしてもう片方の手が葉月の毛先が濡れた栗毛をかき上げ、うなじを撫でた。そしてそのうなじに、先ほど耳元に寄せてくれたような、優しく触れるだけの口づけを……。いつもの挨拶のような愛撫。そこはいつも、くすぐったくてゾクリとする場所だけに、それだけで力が抜ける。旦那さんはよくわかっている。どこをどうすればいいなんて、もう……とっくの昔から。
 だけど、違った。旦那さんが向き合わず、顔も見えないよう妻を背中から抱きしめ自分へと引き寄せ、うなじを撫でたのには『訳』があった。

「これ。届けないと、俺が叱られるんだ」

 え。
 首筋になにかヒンヤリとした冷たい感触、そして急に胸元に小さく優しい輝きを感じた。
 見下ろすと。小さな石のペンダントがつけられている!

「これ、なに……?」

 振り向こうと思ったが、それを止められるように、隼人が今度こそ強く後ろから葉月を抱きしめる。
 後ろから回している腕と手が葉月の胸元に、そして耳元にまた口づけられている。それが『じっとしていて』という合図のようで、葉月もそのまま説明を待った。
 隼人の指が、湯の中でゆらゆら揺れて煌めくペンダントトップの石をつまんだ。

「海人と俺からのお守りだ」

 また驚く。今度は振り向くことを許された。湯気で湿っている黒髪の旦那さんと目が合う。

「海人、義兄さんの本棚を物色するの好きだろ。お前みたいに。伯父さんの本棚は冒険しているみたいで楽しいって。その中で『鉱物』の書籍に興味を持って……。そのうちに『パワーストーン』がお守りとして女性の間で流行っていることをジュールから聞いてますます興味を持ったみたいで」
「それで、海人が? これを選んでくれたの?」

 パパが笑顔で頷く。

「そのうちに真一がパワーストーンの本を海人に買ってきてくれたんだ。それを読みあさった海人が俺のところに来た。『父さん、母さんにぴったりの石はどれがいいかな』ってね」
「そ、そうなの?」

 素肌に突如に現れたその石は、淡いピンク色、薄くライラック色。そして石の下だけ少しだけ若葉色。不思議な色合いの石だった。

「なんて言う石なの?」
「クンツァイト」

 初めて聞いた石の名。それを今度は葉月自身が手のひらにのせ、まじまじと見つめた。

「不思議な色合いだわ」
「ちょっと珍しい石で、他の石に比べて少しだけ高値なんだ」

 でも、宝石店にあるような石ほどではないという。

「それに値段ってわけじゃないんだ。選んだ理由がある」
「パワーってこと? どんなパワーなの?」

 小さな石がそんな魔法を持っているわけないと思っても、葉月は息子と夫が揃って選んでくれた理由を知りたい。

「意味じゃなく、海人が『母さんにはこれが良さそう』というものを何点か選べ――と、俺から言った」

 すると海人が本当にインスピレーションだけで、いくつか候補をあげ、父親の隼人のところに持ってきたという。

「すごいインスピレーションだった。どの石も、お前を案ずる息子の気持ちが表れていたよ」
「そうなの?」
「やっぱり薄々気がついているか、それなりに状況判断をして予測をしていると。俺も……実際、その時、さっきのお前のように泣きそうになった」

 今度は彼が泣きそうな目元を隠し、ため息をこぼした。

「その候補の中から、父親の俺が『これが母さんにいいのではないか』というのを三点ほど選んで、色から海人が選んだらそれだった。でも――驚いた。この石の効果を知って、ぴったりすぎて。俺は効果なんて正直信じていないから、どの石でも良いと思ったんだ。息子が気持ちで選びさえすればって。だけれど『もし、本当に効果があるなら、俺が選ぶならこれだ』と思っていたものを、海人も黙ってそれを選んでくれていた。父子だから好みがあったのか、インスピレーションなのか、それとも本当に『この効果であって欲しい』という願いを持って同じ石を選んだのか――。とにかく驚きであって、不思議な感覚で……そして『嬉しかった』、父親として」

 いつの間にか交わしていた、父子の妻と母を案じる話し合い。葉月ももう泣きそうだった。

「その石は、慈愛と献身、周りに愛を与える。成熟した精神など。持つ者への効果は……」

 そこで一時、夫が黙ったが。そこで再び、葉月を湯の中抱き寄せる。きつく自分の肌へと妻を求め、そして彼がどこか切なそうな息を一息。葉月の栗毛へと頬ずりをして、『大丈夫だよ』と前もって何かを訴えているよう。

「不安に苛む、ストレス過多、不安定な精神を落ち着ける。自分を愛せなくて、他人にどう自分を伝えたらいいかわからない。そして信念を貫く、故に強いプレッシャーに圧されている。そのストレスを緩和する。一説には『パニック障害』にも効果があると……」

 そんな者向けの石だった。夫が小さくつぶやいた。
 そして葉月も一時呆然とし、暫くして震えそうになった。息子がそんな石を選んでくれただなんて――。

「海人は、いつも隊長として頑張っている母さんでいて欲しいけど、これで少しでも楽になれたらいい。不安が消えたらいいと言っていた。石も綺麗だって。優しいピンクは女性にはぴったりだし。ちょっとだけグリーンが入っていると『葉っぱママ』にぴったり。その色合いの石を探してきて欲しいと頼まれて、俺が探した」

 そして思い通りの色合いの石を見つけ、ペンダントに加工したという道のり――。横須賀への出張の度に、義兄やジュール、ジルやエドからもらった情報を頼りに石の店に足を運んだという。

「昨日、完成品が送られてきた。見た海人も喜んでいたよ。母さんにぴったりだと。早く届けてくれって。それもあって、海人は大人しく留守番。俺はプレゼンターを仰せつかったわけ」
「そうだったの……。そんな、全然……」

 夫が笑う。

「次の航行任務のお守りにしてほしいってさ。妹は音楽でママを楽しませているから、自分も力になりたかったんじゃないかな」
「そんな、側にいるだけで……。あの子が毎日、お帰りって……迎えてくれるだけで。元気いっぱい走り回っているだけで……幸せなのに」
「子供も、同じように親を思ってくれいるんだよ。海人も杏奈も」

 もう堪えられず、涙を流していた。

「う、嬉しい……」

 確かに、張りつめた日々の中にいる。時にどうしようもなく自分の身体が言うことをきかなくなって来て不安になっていた。
 夫に助けてもらいながら。でも、『ミセス准将としての最後』を相談できないまま。一人で動いて。

 気持ちもほぐれる暖かい湯の中、肌の温度が伝わる素肌の夫に抱きしめられ、お気に入りの香り。
 そして息子と夫からのお守り。なにもかもがほどけていく……。

 だいたい、身体になにかあった夜は、良くない夢を見て目覚めることが多い。
 しかし。この日の夜は……。旦那さんの暖かい肌を側に優しい色の石を胸に眠った葉月は、夢をみることもなく、目覚めることもなかった。
 でも眠る前。自分にそっくりな栗毛の少年と長い黒髪の女の子が、海辺で手を振ってくれている瞑想はした。

 

 

 

Update/2011.4.26
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