■ 奥さんに、片想い ■

TOP BACK NEXT

シーズン5 【 スイートテン 】後編

 

 この支局にいた十年前、沖田は『美佳子さんとは何もなかった』と言い張っていたのに、十年経って当時付きあっていた恋人のために切り捨てたはずの『年上女』の美佳子と『実は深い仲だった』と言いだすだなんて――。
 僕は思った。あの時、僕が営業部長に彼の不手際がばれてしまうような判断をしたこと、そして若気の至りだったかもしれないが僕を殴ったことで異動になってしまったこと。これだけでも再接触すれば彼にとっては怒りを再燃させるには十分な理由。
 でもまさかな。田舎の支局に飛ばされたはずだったのに、本部の営業に返り咲いていただなんて。それだけで、あの強気で自信に溢れている彼の貪欲なバイタリティを感じさせられた。必死にやってきただろうし、諦めずにやってきた証拠だ。だが、野心家であるのは確かなようだ。
 そんな苦労をして念願の本部に配属されたら、そこに因縁の男の妻となったさらに因縁が絡んだ女が復帰していた。過去に『やられた』から、今度は『やりかえした』。今度は自分が先にいたテリトリーから、美佳子を追い出してやったのだろう。
 帰路につく運転中。いつも混雑している神社の三叉路、信号待ち。僕はハンドルを握りながら悶々と考える。
 課長を引き受けたら、間違いなくあの沖田と仕事をすることになる。
 争いやいざこざの『リスク』を覚悟せねばならないだろう。
 さあ、どうする――。

 

 自宅に帰ると、変わらず夕食を作る匂いがした。覇気はないが淡々と主婦業をこなして過ごしている美佳子。
「あ、お帰り。徹平君」
「うん……」
 エプロン姿の美佳子が玄関にやってくる。今までのような溌剌とした笑顔ではないけれど、少しずつ戻ってきている。
 そんな美佳子に『あの男がいる本部に行くことになったよ』と告げたならば、どう思うのだろうか。靴を脱ぎながら、僕は小さく溜め息をついた。
「……なにかあったの。徹平君」
「え、なにもないけど」
 とてつもなく心配そうな顔の美佳子がそこに立っている。けっこう鋭くて僕は慌てる。細かい仕草を妻はしっかり見届けていたようだ。
「また一人で我慢していない? だいぶ前になるけど『嫌なことがあった』とか急に言いだして、私、あの時びっくりしたんだから」
「嫌なことなんてないよ。仕事は順調」
「本当に。あの……聞きづらかったんだけど……」
 美佳子が口ごもった。
「なに。なんだよ。聞くから言ってくれよ」
 『その、』と俯く美佳子だったが、一時すると何かを吹っ切るように真っ直ぐに顔を上げ、僕の目を見て言った。
「私があんなふうに辞めたことで、夫の徹平君がなにか悪く言われていないか心配で」
「あはは。なーんにも言われていないよ」
「私が気にしないように。本当は悪く言われていること、隠していない?」
 妻だけに、僕が女性にどう接するか良く知っている。そして美佳子自身が一番『自分がどれだけ駄目だったか、どう駄目だと言われているか』知っていて身に染みているのだ。それを毎日、美佳子自身が持つ心のナイフでその身に刻み込んで過ごしているから元気がないのではないか。
 靴を脱いだ僕は、その日は寝室へ着替えに向かわず、スーツ姿のままリビングへと足を向けた。美佳子がその後をついてくる。
 ダイニングテーブルにビジネスバッグを置いて、僕はそのまま美佳子へ向いた。彼女が構えた顔をしている。夫の僕が、今日はすこし違う様子で、しかも妻だからこそ分かる顔を僕は今しているのだろう。
「そうだよ。美佳子。美佳子は『甘えた主婦だからすぐに辞めた』と言われている。でも僕に直接言う人なんていないよ。遠くで言っているのをたまに耳に挟んだりね」
 正直に告げた。妻だから、遠回しに慰めるのはやめた。彼女が遠回しに僕を気遣って思い悩んでいるのが余計に重くしてしまうなら、気にしていること言った方が良い。
「やっぱり……。そうよね」
 だが。妻の顔はそこで急にほっとしたように緩んだのだ。勿論、安心した笑顔ではない。本当のことが分かって、分からなかった時より肩の荷が降りたといったような解放された顔だった。
「でも僕の迷惑になるようなことはなにも起きなかったよ」
「それなら、いいのだけれど」
 ホッとしつつも、やはり『続かなかった主婦』と言われている事実を重く受け止めている神妙な顔の妻。
「それどころか……」
 どうしよう。まだ迷っている。だけど、いつかは言わねばならない。
「本部の法人コンサル室の課長候補になっているらしいよ、僕」
 だから、僕にマイナスになっていることなどないよ――という意味も込めて、妻に告げた。
「それ、本当?」
「ああ、本当だよ。今日、課長から内々に話をもらった。まだ候補だけど、僕以外に候補になりそうな人間がいまのところいないみたいだから、ほぼ決定で内示がでるだろうって」
 僕たち夫妻にとっては、間違いなく喜ばしい話――の、はず。
 でも今の妻は? 喜んでくれるのか、喜ばないのか。
 心の中のざわめくものを必死に抑え、僕は密かに妻を伺う。
「お、おめでとう……」
 やはり。美佳子の顔が瞬時に青ざめていく。思った通りだった。でも彼女が精一杯の笑顔を僕に見せる。
「いつかこうなるって思っていたのよ。だって、徹平君は本当に一生懸命、誠心誠意、仕事に取り組んでいたもの」
「やるべきことやっていただけだよ」
「徹平君のそこがすごいのよ。当たり前のようで、それが出来ている人って少ないと思う。すぐに不満を言ったり、なにかのせいにしてやろうとしなかったり。誰かになすりつけて逃げてやらなかったり。そんな人ばかり。ただひたすら不満も言わず、何かに転嫁せず、まるで『損している』と言われるようなことも、それが格好悪く見えてしまいそうなことでも徹平君はちゃんと真っ正面から取り組んでいたもの」
 なんだか。僕の目が熱くなり始める。
 誰も僕のことなど。『男』だなんて思ってくれていなかっただろう。目立たなくて平凡で女の子達は僕の目の前を通り過ぎていくばかり、そんな青年だった。そんな中、同期生だった彼女がコンサルに配属されて僕はいつの間にか『美佳子さん』を好きになっていた。だけど、諦めていた。僕は絶対に彼女が望むような男じゃなかったから。
 結婚してからも僕は『本当に夫として相応しいのか』といつも思ってきた。結婚前、華やかな社交性でキラキラしていた彼女は、いつだって『イケメン』と言われる魅力的な男性の存在が側にちらついていた。そして彼女だって、そんな男性を見て女性としての夢を膨らませていたはず。なのにそんな華やかな世界で傷ついて、そして僕の腕の中に飛び込んできた。夢敗れて選んだ結婚。理想じゃない結婚。ずっと昇進しない男の妻。そんな男を選んだのだって……。
「絶対に、徹平君はコンサルのプロになるって思っていたの。ほら、やっぱりチャンスがやってきたわ」
 でも彼女は。僕のそんな少ししか持っていない力がいつか大きくなるとずっと信じてくれていた? それを結婚十年目にして初めて知り、僕の胸が熱くなる。とてつもない感激が襲ってくる……! だが美佳子がそこでまた、大きな瞳から涙をぼろっとこぼした。
「なのに……。私はまた、貴方のチャンスに大きなリスクを負わせてしまうのね」
 本部に行くことは、あの沖田と仕事をすることを意味する。それを美佳子もすぐさま思い浮かべたのだろう。
「美佳子、僕は……」
 『大丈夫だよ』と言って見せようとしたら、その前に美佳子が泣き崩れ、ぺたりと床にへたれこんでしまった。
 そして許しを請うように僕の足にすがってきた。
「私、本当に貴方の疫病神だわ。本当に、あんな男に関わったばかりに……。あの男、徹平君が本部のコンサル室に行ったら、絶対になにか仕掛けてくると思うの。彼、私達のこと酷く妬んでいる。だって、私が本部のコルセンを辞めるって言いだしたのも……」
「知っている。今日、課長から聞いた」
 沖田と寝た関係だという噂を流された――なんて、美佳子の口からは絶対に聞きたくなかったから、僕から言った。やはり彼女が涙の顔で一瞬驚き、またボロボロと涙をこぼし僕にしがみついてくる。
「黙っていても知られると思ったんだけど……」
「そんな噂、聞き流せば良かったじゃないか。前みたいに」
「そうしようと思ったの。でも、出来なかった。今度は絶対にあんな男と深い関係だったなんて少しでも思われたくなかったの! 誰が想像しても私を抱く男で思い浮かべて欲しいのは徹平君じゃなきゃ駄目なの!」
 そして美佳子は、そのまま僕の足にしがみついて、ずっと声を殺してすすり泣いている。
「あの男、とっても執念深い男よ。徹平君が、私みたいに追い込まれてせっかくの室長の座を追われるなんてことになったら、私、私……」
 それは僕も懸念していることだった。彼と仕事をするにはあまりにもリスクがありすぎる。僕が頑として自分の立場を守ろうと、真っ向勝負を挑んだら、きっと僕も沖田も傷だらけになることだろう。そしてそれは職場の空気を乱すことにも繋がるはずだった。
「徹平君がその内示を受けて頑張ってくれるのも嬉しいけど、貴方が傷つきながら私達を守ってくれるのは耐えられない。でも……だからって辞退なんてしたら、私……私と結婚したことが間違いだったって……私を、私のあの時の愚かさと浅はかさを呪うわ。自分を殺してしまいたい!」
 僕の紺色のスラックスが熱く湿ってくる。美佳子の涙をいくらでも吸い込んでいく。
 すべて、美佳子と沖田が関わって繋がっている僕たちは。そしてそれはずっとついてくる。
 僕はそれでも片思いだった女性が美佳子が隣りに寄り添ってくれた時の幸福感を忘れない。今だって……。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 答が出ない。
 あれから数日。美佳子が精神不安定になってしまい、夜も眠れなくなってしまったようだ。
 僕の昇進の足枷になっている自分を酷く責めている。僕がどんなに『大丈夫だって、僕たちを信じてくれている味方もいるんだから』と言ってもだった。
 僕が課長になってもならなくても、美佳子は気に病むだろう。でもどちらかを選ばねばならない。どっちを選んでも美佳子も僕も苦しむだなんて……。

「佐川係長」

 今日も変わらずインコールが鳴り響く中、僕は専用デスクでデーター入力。そこへ、あの落合さんがやってきた。
「なに。クレームでもあった?」
「いえ」
 あれから五年。僕は変わらないが、やはり周りだけが変わっていく。それはあの魔女のようだった彼女すらも。
 あんなに激しかった彼女も、今では誰よりも周囲を気遣える気の利いた女性になっていた。そんな彼女だから気づいてしまったようだ。
「なんだかここのところ、お疲れではありませんか」
「そうかな。僕はいつも通り……」
 彼女が呆れたように笑う。
「係長っていつもそうですね。何事にも『僕はいつも通り』と何が起きていても、平気な顔をしてしまうんだもの」
 僕のことをよく見ている女性がいるとしたら、美佳子と、お母ちゃんの田窪さんと、そしてもう一人増えてこの落合さんだ。
 あの天敵ともいえた落合さんが、何故、今となっては僕のことをよく見ている女性と言えるのか。――やはり彼女も変わったからだった。
 魔女のようになり爆発してから今日まで五年間。彼女は無口な女性になってしまっていた。でも誰よりも真剣に仕事に取り組むようになっていた。元々要領も良く度胸もあるので雑念なくクリアに集中できるようになった彼女の能力は見る見る間にアップしていった。しかも反省を踏まえてか、それが真っ当だと心に決めたのか、係長である僕のことを田窪さんのようにサポートしてくれるようになった。それもさりげなく、会話も少なく、押しつけがましくなく。礼を求めるわけでもなく。そのうちに彼女もコンサル室のお局様となったが、コンサル一のキャリアレディになり、若い子達から畏怖されるようになっていた。そう、いつの間にか僕の片腕に匹敵していた。
 ある時。既に数名いる主任職に新たに一名選出して増員することになり、課長から『徹平は誰がいいか』と聞かれた時、僕は迷わず『落合さん』と答えていた。だが、その時は落選。過去の汚点がこんな時に響く結果に。行いとはそんな時に自分の足を引っ張る。彼女から痛手を被った僕自身からの推薦でも、だった。だがその後『私を推薦してくれたと課長から聞きました。有り難うございました』と涙ぐむ彼女から礼をもらった。『それで許して頂けたと思っても良いでしょうか』と聞かれたので『とっくに許しているから推薦したんだけど』とも答えると、彼女はまた涙をいっぱい目に溜めて、今度は逃走するように走り去ってしまったのだ。僕は唖然としたが、翌日からも彼女は無口で平坦なバリキャリ姉さんに戻っていて、さりげなく僕をサポートしてくれていた。
 そんな片腕とも言える彼女には隠せそうになく、
「うん。ちょっと疲れている」
 僕は溜め息をつきながら小さく笑った。
 急に気の毒そうに僕を見た彼女が、周りを気にして耳元に囁く。
「沖田のことではありませんか」
 僕はドキリとし、あからさまに驚いた顔を彼女に向けてしまった。
「やっぱりね」
 今日、残業をする時に話をする時間を取って欲しいと彼女からの申し出。僕は思わず頷き約束をしてしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 空が暗くなり、女の子達が全て帰ってから落合さんと喫煙室で向かい合った。
 クールな女に成長した彼女は、前置きもなく僕に言った。

「今だから言わせて頂きますが。私が貧乏くじを引いたように、係長の奥様も沖田に関わっていた以上やはり『貧乏くじ』を握らされていたということです。美佳子さんも私同様『男を見る目がなかった』と思うんですよ」

 それだけで、彼女がなにもかも知っていることを僕は悟った。
「なんで、知っているの」
「本部に同期生が何人かいるんです。女性も男性も」
「あ、そういえばそうだったね」
「奥様が辞められたと知った時から、もしやと思ってそれとなく探ってみたんです。でも、係長に話せばきっと気に病むと思って……」
 五年経って変わった彼女は、今やこんな気遣いも上等だった。田窪さんのように、僕の様子を見て『事実』を告げるタイミングを見計らう優しさを持って。
「有り難う」
「いえ。私も沖田のことになると黙っていられなくて」
「貧乏くじかあ。なるほどねえ」
 美佳子が疫病神なのではなく、貧乏くじを引いてしまっただけ。そう思えば、僕以上に美佳子も気が楽になるだろうか?
「そっか。貧乏くじを持っているから、仕方がなかったのか」
「そうですね。貧乏くじのマイナス効果は少なくとも一度は受けないと、良い方向には進めないようです」
 『はあ』と疲れた溜め息をつく落合さん。彼女自身がそうだったから。沖田と関わってすさんだ心を綺麗に浄化するまでに自分自身で酷く追い込んだ。そこを抜けて今の彼女がいる。それは美佳子も同様、再就職でその呪いを受けたことになるのだろうか。
「係長。今度、本部コンサル室の課長候補になっているというのは本当なのですか」
 まだ誰もこの支局では知るはずもないことを知っていて僕は驚く。
「どうして知っているの?」
「本部ではもう噂になっていますよ。特に営業では、佐川係長が来ることを待ち望んでいるようです」
「本部ではもうそうなっているの!?」
 支局との情報公開の差に僕は唖然とする。
「それだけ、法人コンサルが荒れているということですよ。私も佐川さんが適任だと思っています。ですけどね……」
 その時、大人の女性と変貌したはずの彼女の目が、いつかの魔女のように鋭く僕へと光った。
「あの沖田が」
「やっぱり、彼がなにか?」
 いったい本部では何があったのか、起きているのか。怖い顔をした彼女が教えてくれる。
「あの男、相変わらずの調子良さで上手く営業本部まで行き着いたけれど、根本は変わっていないので時々人間関係でトラブルを起こすそうです。それを暫くは営業本部を目指す為に上手くやってきたみたいだけれど、本部でのポジション争いの為にまた荒っぽいことやったみたいで。そのせいで、奥さんに八つ当たりして昨年離婚しているぐらいです」
「あ、それ田窪さんがそんなことを言っていたけど、彼のことだったのか……」
「沖田の話題のことは、田窪さんも係長の前では名前を出して言えなかったんでしょうね。そんなことが重なって大口顧客の担当争いから脱落したそうです。そこへ美佳子さんが来て、ご主人も奥様も幸せそうだったから腹いせに美佳子さんを貶めたんですよ」
 そうだったのか……。僕の目に、僕に殴りかかってきた彼の燃える目が蘇る。もうずっと会っていないのに、恐ろしいほど側に感じる強い結びつきにゾッとする。
「失礼ですが。奥様の足の指に黒子とかあります?」
 は? 話が唐突に切り替わり、僕は呆気にとられた顔で彼女を見てしまう。だが彼女も言いにくそうに僕から目を逸らしたのだが。
「あの男、当時、美佳子さんと交わした会話の一部始終を喋りまくって美佳子さんが駆け引きで沖田を誘ったことなんかも『年上の色気で俺をくわえこもうとしていた』とかなんとか、赤裸々に暴露していたみたいです。それだけじゃありません。必死に否定する奥様に対して、ロジスティックコルセンの若い女の子達に『小指の裏側、内側に小さな黒子があって、そこを舐めるとよく感じてくれた』とか言ったらしいですよ。女の子達もふざけて、沖田が何を言ったかも知らない美佳子さんを裸足にさせて確かめて、それで『寝た証拠』とされたようです。もう美佳子さんの弁明はそれ以後は『みっともない』と見なされたようで……」
「なんだって……?」
 聞いて。つい先日収めたはずの拳がぎゅっと復活した! 美佳子が『あんな男と夫が一緒に仕事をする』と知って青ざめたわけも、『執念深い男だから、絶対になにかやられる』と大袈裟と思えるほどに震えて泣いて怯えていたわけもこれで、よくわかった。
 沖田。お前が『疫病神』だ! なんて汚いことを平然と、うちの女房に……美佳子に!
 落合さんがハッと僕を見る。僕だって今僕自身がどんな顔をしているかわからない。だが、あの落合さんの顔色がさっと血の気が引いて真っ白になった。
「いえ、す、すみません。やはり美佳子さん、そんなことご主人に言えなかったんですね。あの、その……お耳にいれるべきではないお話で……した……」
「ある、あるよ。黒子。確かに誰もが見られる場所じゃない。でも、でも、美佳子は……」
 そんな女じゃないと信じてきた。いや、僅かに『本当は身体の関係もあったかも』と疑わずにはいられなかったが、僕はこの十年『あったとしても、なかった』ことを真実として彼女を信じてきたから。美佳子自身もあんなに『沖田と寝たことになっているなんて耐えられない』と泣いていたぐらいだから、きっと、きっと……きっと……。
「ええ、そうですよ。そう。下着で隠さなくてはいけない場所にあることを知られているならともかく、足なら裸足になれば目に出来ることもあるでしょうし。夏なんて女性は素足になってサンダルを履きますから」
 彼女の方が慌てていた。僕を宥めるように……。そして僕は『そうだよな、そうだよ』と、落合さんの慰めに軽く頷き、気持ちを落ち着かせていた。
「そんな下劣な男なんです。あの沖田って男は。だから営業本部でも煙たがられているようで居場所もないみたいです。そんな居づらくなった沖田が異動願いをだしたそうなんですが……」
 異動願い? なんだあの本部から出て行ってくれるのかと僕は思ったのだが。落合さんの次の一言で僕はどれだけ彼に嫌われているかを知る。
「沖田が希望した異動先は『本部コンサル室』です」
 コンサル? 営業一筋だった彼がコンサル? 僕の目が点になる。
「え、僕が候補になっているところへわざわざ?」
「でしょうね。対抗心なのでしょう。沖田もわかって異動願いを出しているに決まっています。それを知って佐川さんが尻込みをして辞退してくれると高がくくっているか、あるいは、佐川さんとおなじオフィスで働くことになっても、佐川さんを蹴落としてやろうとか思っているんでしょうね。営業一筋だったとはいえ、コンサル業務とは外勤と内勤という差ぐらいだから出来ないこともないでしょうし。なにせ、コンサルの課長の地位はまだ盤石ではありませんから、狙い目だと思ったんじゃないですか」
 そこまでして彼は、僕と美佳子をとことん撃退したいらしい。もうそこまで睨まれると、やっぱり僕は彼とはちょっとでも関わりたくないとおののいた。だがそんな僕の様子を落合さんは見逃さず、すごい剣幕で詰め寄ってきた。
「お願いです、係長。ここは遠慮せずに、本部コンサル室の課長を引き受けてください。本部は佐川係長は欲しいから、沖田を退けてくれると思うんです。いつものように遠慮しないで、ここは沖田をはね除けて本部へ行ってください」
 あの落合さんにここまで応援してもらえるようになったことは、僕にとってもとても嬉しいことだった。彼女の必死な瞳に僕はどこか幸せを感じていた。
 そこで……。僕には何かが見えてしまった。
 僕が課長になることは、誰もが祝福してくれるだろう。そんな手応えを今感じている。でも僕が課長を引き受けると……美佳子が、沖田が……。
 僕は、何故か笑った。
「係長?」
 訝しそうな落合さんに、僕は笑って言う。
「彼に殴られるほど恨みをかった僕もまた……貧乏くじをひいていたんだよ。落合さん……」
「ど、どうしてですか。係長はいままでなにも間違っていませんよ。あんな酷かった私のことだって……!」
 僕は答えなかった。ここまで僕を助けようと本部の様子を探ってくれ、必死になって訴えてくれる落合さんに言いたくなかったから。

 そうだ。あの時、営業部長に自己判断で取り次いだ時。僕は貧乏くじを引いていたんだ。
 彼が大好きで堪らなくて彼を信じたからこそ、自分のために美佳子を貶めた落合さんのように。
 瀬戸際の三十女だった美佳子が、つい彼に惹かれてしまったように。
 そして。僕も……。
 そんな貧乏くじを引いた男が本部に行くと、きっと僕も疫病神になることだろう。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 まだ雪は舞うが、春を告げる祭が始まった頃。僕は答を出した。
「椿祭、今日で終わってしまうな。今夜いこうか」
 帰宅するなり告げた僕に、美佳子も娘の梨佳も目を丸くしていた。
「どうしたのパパいきなり! だって今からもうご飯だよ」
 その通りで、食卓は既に整っていた。
「せっかく作ってくれたのに、ごめん美佳子。それでも今夜はママと梨佳とでかけたいんだ」
 美佳子がまた、僕をじっと訝しそうに見ている。やがて、彼女から笑ってくれる。
「いいわよ。これはまた明日食べられるし」
「え、ママ。今から行くの?」
「うん。だってパパがどうしても行きたいって言っているのよ」
「梨佳。お参りが終わったら、お寺の近くにあるパスタ屋に行こう」
「ほんとう!? いくいく!」
 娘がコートを取りに部屋へとすっ飛んでいった。
「美佳子もほら。支度して」
「うん」
 いきなりの家族での外出。心なしか美佳子の笑顔が戻ったような気がした。

 

 

 

Update/2011.1.29
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2011 marie morii All rights reserved.