城山の麓、お堀にある散策道のベンチでサンドウィッチを頬張るのが好き。
木々に囲まれたここはちょうど木陰で風も心地よい。本部に転属して来た時は桜が綺麗だった。初夏の今は緑。これから先の秋は紅葉。冬は……寒いから街角の珈琲店がいいかな。昼休みのほんのひととき、ぼうっとしてからっぽになって一人になりたいのよ。
「落合主任ーーーっ」
その声が聞こえ、千夏は固まる。座っているベンチの真っ正面。水面が煌めく堀の向こう岸から手を振っている大男。
そんな彼を知った千夏は慌てて食べかけのサンドウィッチを袋に包み直す。そこらに出していた物全てを手早く片づけ、肩にバッグをかけすっくと立ち上がる。
来た、来た、また来た。大きな体なのに、なんだか俊敏。さっき堀の向こう岸にいたのに、お堀の橋を渡ってもう千夏の目の前に来ている。
「やっぱりー。今日もここだったー」
膝に手をつき背を丸め、息を切らす大男。流石の彼も全速力で走ると息切れがするようだった。
「なに。河野君」
彼を見ずに言う。千夏の目の前、堀の向こうで路面電車が通り過ぎていくところ。
「あの、俺も、昼飯で、さっきコンビニに行ったら、佐川課長に会って、今日、落合主任が、一緒じゃないから、どうしたかって聞いたら、先に昼休みに行かせたって、聞いて」
もうまどろっこしい――。顔をしかめてしまう。結論から言えないのか、と。長い前置きを、さらに息切らしながらの話し方で余計にイラッとする。
「きっと、ここだろうっておもって……」
もうここでランチをするのはやめにしよう――。千夏は本気で思った。すごく気に入っていたのに。ここで一人でのんびりと昼休みを過ごすこと。ある日、この彼に見つかってから、あまり安心できる場所ではなくなってしまった。
「落合主任。もう、食べ終わったんですか」
「ええ。帰るところ」
「一緒に食べたかったなあ」
彼の手にはコンビニのレジ袋。そこに幕の内弁当がちらっと見えたのだが。なんとその他に、おにぎりが三つと唐揚げパックも入っていてギョッとしてしまった。
「それ、お昼なの。それともおやつとか夜食ってこと」
彼がバツが悪そうに短い黒髪をかいた。
「ぜんぶ昼飯ですよ」
すごいっ。思わずそう漏らし、素直に驚いて彼の顔をつい見てしまった。目が合い、彼が嬉しそうににっこり微笑み返してくれる。本当に嬉しそうに。やっと俺を見てくれたとばかりに。
「この身体でしょ、俺。すっごい食べるんですよ。イメージ通りってよく言われます」
彼は本当に大きい。身長はゆうに180センチはあると思う。千夏の目線からだと確実に見上げてしまう。身体もがっしりしていて、見るからに学生時代はスポーツをしていたと窺える体つき。だからって木偶の坊みたいにぼやっとしているわけじゃなく、ゆったりしているわけでもなく、先程あっという間にここに来たように俊敏でキビキビしている。
「前から思っていたけど。なにかスポーツしていたの?」
にまーっと、いつも以上に口角をあげ頬を緩めた彼の笑み。千夏はやや後ずさり……なんだか嫌な予感。
「やっと俺に興味を持ってくれましたか!」
うざっ。早速そんな言い方! すぐそう思うなんて、なんだかストレートすぎ。もうちょっとスマートに三十代の男女としての『控えめな会話』が出来ないの? なんて思うが、相手は自分より五つも年下なのであからさまに邪険にする幼稚な女にはなりたくない。だから自分が大人の女として落ち着いた顔を保ち、でも興味なんてないんだからと素っ気なく答えてやる。
「聞かなくてもわかるわよ。柔道でしょ、柔道」
柔道か剣道か空手か相撲かしらないけど、正解でも不正解でもどーでもいい。自分から振った話とはいえ、千夏はさっさと切り上げて彼から離れようとするのだが。
「俺、市内商業高の出身なんです」
それを聞いて千夏はまた目を丸くした――。
「まさか、野球とか!?」
「そうっす。野球」
市内商業高校といえば、野球の名門。全国大会甲子園で何度も優勝を遂げている歴史ある野球部がある高校。そこの出身だという。そんな彼を知り、千夏がすぐに思い浮かんだこと。
「もしかして、キャッチャーだった?」
彼がまた嬉しそうに笑う。本当に邪気なんてナシ、無垢で赤ん坊のまま大きくなった男の子のように――。
「正解です!」
「ド、ドカベン!」
「あはは。実力なかったし、万年補欠だったからそこまでは言われなかったけど。でも、時々はそういわれました」
でもあのイメージそのもの。つぶらな目がにっこりすると糸のように細くなり柔らかに緩む。おおらかそうな雰囲気はあのキャラを思わせる。
「あ、これ。主任、探していたんじゃないですか」
そんな彼がもうひとつ別に持っていた小さなレジ袋から四角い箱をひとつ。こちらに差し出してくれる。それを見て千夏はまた彼に引き留められてしまう。
「これ。季節限定の生チョコ! そこのコンビニではぜーんぶ売り切れで最近全然買えなくなっちゃって」
「ここらあたりにはなかったけど、今日外回りで出かけた先のコンビニにはあったからお土産に」
「……いいの?」
「もちろん。俺は甘いのは苦手っすから。最初から主任に食べてもらおうと思って」
また彼がにこっと笑う。
「あ、ありがとう。頂きます」
さらににこっにこっと満足そうに微笑む彼。そこに邪気はひとつもない。まっすぐに千夏を見て、裏表なく千夏の為にしたことで千夏が喜ぶことを喜んでいる――。嘘じゃない笑顔だと信じられる。彼はそういう人。
流石に、その笑顔には千夏も釘付けになってしまっていた。
でも。だからこそ。素直になれない。
まっすぐすぎて。綺麗すぎて。近寄りがたいという感覚。この感覚、誰かわかってくれるだろうか?
―◆・◆・◆・◆・◆―
まだ昼休みの時間は残っているが、千夏はそのままコンサル室へと戻る。
最近の大ヒット商品と謳われているコンビニ発『季節限定、生チョコ』。春は苺、五月の連休は抹茶味が出ていた。そして今回はミント。冷やして食べるのが美味しいから、コンサル室に戻った千夏は冷蔵庫がある給湯室へと向かう。
するとそこでコンサル室の男の子が二人、お客様接待後の湯飲みを洗っているところだった。
「おかえりなさい、主任」
「もうお昼も終わったんですか」
『まあね』と答え、冷蔵庫を開けようとする。そこではたと思いだしたことを、彼等に言う。
「だんだん暑くなってきたから、冷たい麦茶を用意しておこうと思うのよ。後で買ってきておいて」
すると彼等がにっこり顔を見合わせる。
「買ってありますよ」
え、若い彼等にしてはすっごい気が利くじゃないと千夏は驚いた。
「佐川課長が同じ事を言ったから」
「ああ、そういうことね。なるほど」
流石、佐川課長。なんて良く気の付く人。あの人は『この仕事は僕の仕事』と決めたらとことんやり尽くす人だった。それでここまでやってきた男性。育ててもらった部下として感無量、感動の瞬間。
冷蔵庫を開けると、ちゃんと大きなペットボトルがある。
「こうしてくれると、私もガミガミ言う鬼ババにならなくて済むのにねえ。ほんと、課長のおかげでまたうるさいお局様にならなくて済んだわ」
なんていつもの『鬼ババ局様』の異名を自分から口にしてみた。すると若い彼等がまた顔を見合わせて、ちょっとおかしそうだった。
「なによ、なに」
「冷蔵庫の奥、見てください」
なになに?
「いいから見てくださいよ」
彼等に言われて冷蔵庫の奥を覗くと、そこには千夏がよく食べているものが……。
「ティラミス!」
「俺達のお土産です」
「主任がよく食べているから買っていこうって、なったんですよ」
なに。今日はスイーツデー?? しかも若い男の子達からわんさかと貢がれて?
でもそれだけで、彼等が楽しそうに笑っている。何故そんなに笑うのか眉をひそめる千夏だが。
「落合さんは、鬼ババなんかじゃないですよ」
「そうですよ。甘いものを見てそんな優しい顔もするじゃないですか」
「な、なによ。なんのつもりなのよっ。胡麻をすっても、鬼ババのままですからね」
素直にならないお局姉様をみて、彼等がまだ楽しそうに笑う。
「佐川課長が言っていましたよ」
「な、なんて?」
千夏の胸がドキッとする。
「自分に厳しいから他人にも厳しくなるだけで、とっても良く気が付くところは、女性らしくなくちゃできないて」
「仕事は男顔負けの姉御でも、たまには男の僕たちが女性らしいところもフォローしてあげないとって言われたんですよ」
突然、千夏の胸がずきゅんと縮まり、血液が熱く顔や耳に集まってくる感触。でもでも、若い彼等に絶対に悟られまいと必死に平静を装う。
「ありがとう。これ、今日の中休みに頂くわね」
にっこり微笑みを返し、なんとか余裕のお局姉様でいられた。彼等もほっとした顔。
「主任、ちょっと背負い込みだって。みんなで言っているんですよ」
「前年度のロスを背負って法人コンサル室にきたから、仕方がないですけど。少し息抜きしたほうがいいですよ」
キリキリしている鬼ババをにっこりさせる余裕を持たせる。その為の『スイーツ』かと、一気に良い気分が霧散する。
「なに言っているの! そのロスを早く解消しなくちゃ貴方達も仕事がしづらいでしょ。貴方達の失態でもないのに顧客に怒られてばっかりで!」
自分でも思うが、こういう性格で、つい厳しく変貌してしまう。やっかいな性格、嫌になる。それでも……。
「佐川課長がどんなに……」
何故、こんなに必死になってしまうのか。そう思うと、いつもいつも、千夏の中で熱いものが込み上げる。その思いがついに溢れ出てしまう。
「佐川課長が転属してきてすぐ、どれだけ頭を下げまくって、けなされまくって、会社の失態をフォローしていると思っているの? 足蹴にされているところ、貴方達見たことがないでしょ」
『す、すみません』。気遣ってくれた彼等が揃って頭を下げてきたのを見て、千夏もハッと我に返った。
「ご、ごめんなさい。カッとなっちゃって。う、うん。来たばかりの私に……有り難う。これ大好きだから」
「いえ……。俺達も、去年から厳しい状況下の中、主任が来てから何度も庇ってもらって。それだけでたいぶ気が楽になったもんだから」
「ちょっとでも、その、気分転換になればと思って」
「ごめん、本当にごめんなさいね。やっぱり私もてんぱっているわ。ほんとこれ食べてゆったりさせてもらうね」
やっと彼等も嬉しそうな顔になってくれる。河野君からもらったチョコレートを冷蔵庫にしまい、千夏は給湯室を後にする。
コンサル室があるフロアの、非常階段へと出る扉を開ける。
―◆・◆・◆・◆・◆―
転属して三ヶ月が経とうとしている梅雨間近の夜。なんとか山場も乗り切れそうだと、佐川課長が口にした頃になると、夜の七時半にはだいたいのコンサル員が退出が出来るようになった。
少しは落ち着いたコンサル室の残業時間、デスクのパソコンに向かっているのは課長補佐主任の千夏と課長席で黙々とデーターを解析している佐川課長だけになる。
彼が腕時計を見たので、千夏もキーを叩いていた指先を止め一息ついた。
「キリがないから、明日にしよう」
「はい」
毎晩、彼はそう言う。『キリがないから』『どうせ明日も同じ』『ここらでいいよ』と、終わらない苦情処理の後始末、その一日の区切りを何処かでつける。それで根を詰めている千夏も終わる気になれる。
そこで彼が携帯電話を手にするのもいつものこと。
「美佳子、僕。うん、ごめんな。今日は河野君とバッティングセンターに行って憂さを晴らしてくるよ。食事も一緒にしてくるから。なにか買うものある? 陽平のもの」
『陽平』とは、四十歳過ぎた佐川夫妻に生まれた男の子のこと。遅くに出来た息子だけに、佐川課長は可愛くて仕方がないよう。大きくなったら父子でなにをすると男親の夢も描いているようだった。
「わかった。えっとー、哺乳瓶の消毒錠剤に、」
課長ほどの男性が、乳幼児用品をメモしてドラッグストアに買いに行く準備をする姿。
「おしりふき、な」
おしりふき! 千夏はついにおかしくなって笑い出しそうだったがなんとか堪え、肩だけ震わせた。
電話を切った課長には気づかれてしまう。
「笑っていただろっ」
「だって。本部コンサル室の課長が、奥さんに頼まれて仕事帰りに赤ちゃんの『おしりふき』を買いに行く姿なんて……!」
あの佐川課長がふてくされた顔で、でもメモを綺麗に折りたたんでシャツの胸ポケットにしまう。
「いいんだよ。僕はこれで」
「素敵ですよ。奥さんのお手伝いが出来る旦那さんって」
「ドラッグストアで買い物するだけだよ」
「それが出来ない男が結構いるんですって」
「かもな。若いと格好悪いと男は思うかもしれない。でも僕はもういいんだよ、ほんと、もう恥ずかしがる歳でもなし」
『そうかな』と千夏は思う。それもあるかもしれないが、出来ない男は何歳になってもできないし――と。
そう思うと、羨ましいと心底思っている。彼が奥さんも家庭も大事にしている姿。なによりも『この歳でできたせいか、余計に可愛い』と小さな息子を愛おしむ姿は会社でも評判。しかもこの本部に転属してきてから、佐川課長の女の子からの好感度は抜群だった。
まさかね。十年前は『地味でなんにもない佐川主任』――なんて思っていたけど。『化けたなあ』とほんと思う。
そしてあの美佳子さんは、本当にいい男を見る目があったと痛感する。佐川夫妻が結婚した時、美佳子さんのことを地味な男に逃げた女と後ろ指さして勝ち誇っていたことがある。でもあの時にはもう――彼女は誰に何を言われても、佐川課長の良さを見極めて惚れ込んでいたのだと今ならわかる。
男四十、生き様が魅力として滲み出てくる年齢。この時、どんなに焦がれても、その男は既に他の女の夫。若い時に見極めた女が勝ち。
ああ、悔しい。どんなに悔しがっても、当時、ひとつも格好良いだんなんて思わなかったのだから、どう足掻いても千夏の手に届く男性ではなかったのだ。つまり男を見る目ナシ!
それどころか、課長はいい大人の男になったと思う。結婚してから少しずつお洒落になってきたのも、きっと奥さんの美佳子さんがそうしているのだろう。いつもパリッとしているシャツに、その時々に流行っているネクタイをさりげなく選んでいる。シャツも本部に来てから急にスタイリッシュになった。悪いが昔から同じ支局にいた同僚としては、佐川さん自身にこのセンスがあるとは思えない。絶対に奥さんが揃えている。でも似合っている。
(はあー。美佳子さんがそうしているとわかっていても……)
今の千夏にはいちばんときめく……
「佐川課長、お疲れ様です!!」
密かに課長と二人きりの時間を和んでいたら、コンサル室の入り口からそんな大声。すっかり気を緩めていただけに、千夏の胸は飛び上がるほどびっくり。
「あ、落合主任も!!」
うわっ。そうだった。今日は彼と課長が約束をしている日。またもや千夏は急いで帰り支度をはじめる。
もうもうもう。毎日毎日、最後に佐川課長と一日を労うひとときを励みにして頑張っているというのに。その大事な時間を邪魔された気分。
そっちはこれからプライベートで存分に佐川課長と親睦を深められるんだから、他部署の男はこのコンサル室に入ってくるな。とさえ、思ってしまう。
だが千夏の気持ちを乱したのは、なにもこの元気な年下男だけじゃない。河野君が現れた途端、なにやら意味深な笑みを浮かべている課長。
「お疲れ、河野君。あ、そうだ。僕、営業にこの書類を持って行かなくちゃけいないんだ。ちょっと待っていて」
なんてわかりやすいことをっ。あんまりにもべたな行動を取る佐川課長を千夏は睨んでしまいそうだった。
だけれど、それすらも『ベタで結構』とばかりの悪戯っぽい笑みを浮かべ、佐川課長が素早くコンサル室を出て行ってしまった。
――ついに、河野君と二人きりにされる千夏。
「やだな。佐川課長ってなんかわかりやすいっすね」
千夏だけじゃない。若い彼も意外と困った顔をしている。いつもいつも堀端にいる千夏を追いかけてくるから、二人きりになるのは初めてじゃない。でも……。こんな静かな部屋に、しかも夜空が見える部屋に二人きりは、昼間の騒音の中で向き合うより奇妙な気持ちにさせられる。だから彼も途方に暮れているではないか。
だからって彼と何を話そうとも思わない。千夏はひたすら机を片づけ、帰り支度。明日すぐに仕事にかかれるように、散らかしていたファイルやプリントを整理しながら……。
「仕事している主任の眼鏡の横顔、カッコイイっすね」
ちょっと驚いた。どこか垢抜けないままの元球児を思わせる彼から、そんな女を褒める言葉がさらっと出てきたことに。しかも彼の目を見ていると、いつもの素直な目。裏表ないお世辞じゃないって……。だから。
「あ、ありがとう」
胡麻すっても……。と言ういつもの言葉が何故かでてこなかった。それに彼もとっても満足そうな笑み。
そんな純粋そうな彼だからこそ。千夏は裏表ない素直な青年に言ってもらえて嬉しい反面、心苦しくなるのだ。
「でも。私、酷い女なのよ。性格悪いしね。男の子達を平気で叱りとばす鬼ババだしね」
言っておかねば。今の自分の姿を見ているだけではわかり得ないことを。この素直で屈託ない彼を傷つけたくないから――。
「俺、落合主任が格好つけずに本気でガミガミ叱りとばしている姿に惚れたんですけど」
ええっ? 思わぬ言葉が返ってきて、千夏はつい……避けていた彼の顔を直視してしまった。やっぱり彼があのにまーっとした邪気のない目を細めた微笑みで千夏を見ている。
「性格悪い奴は自分から性格悪いだなんて言わないっすよ」
「いまはともかく! 本当の私は」
「もしかして、ずっと前のご自分のことを仰っているんですか? どんなことを気に病んでいるのか知りませんが、誰だって二十代の時にはあるんじゃないですか。そういうこと。そんなのもう関係ないでしょ。このとおり、カッコイイ素敵な女性になられたんだから」
はあ、はあ? なに、そんなに臆面もなくすらすらと『素敵』とか言ってくれちゃうの!? なのに。迂闊にも『もう関係ない』という彼の言葉に、じーんと来てしまった……じゃないの!?
絶対に奥手そうな体育会系の大男。簡単に言うと、熊系? 太ってはいないけど、背が高くて大きいからどーしても熊にみえる。そういうスマートそうじゃない男が、すらすらと女を褒めるのが意外で千夏は仰天。調子が狂いっぱなし。
いや、いや。こんな簡単にほだされるものか。こっちは恋でたくさん痛い目にあっているんだから。それに……どんなに嬉しくても。素直な彼にそこまで良く言われても、それは『嬉しい止まり』でしかない。何故なら千夏は……今の女としての千夏は……。
「有り難う。素直に嬉しいわ。でもね、今……そう言う気分じゃないの。わかるでしょ。私が本部法人コンサル室に来たのはどうしてか。私は今、仕事で頭がいっぱいで、それに没頭したいし、これが今、一番やりたいことなの」
だからもう、女として構わないで――。遠回しに断ったつもりだった。
もし彼と真剣に向き合おうとしても、今の千夏は佐川課長の側で彼と一緒に仕事をして、なによりも彼の役に立ちたい。それがいま女として一番やりたいこと。だから彼とは向き合えない。不倫を毛嫌いしてきた自分の正義感を絶対的自信にして、単なる噂でしかないのにそれを逆手に取って彼の妻を傷つけたこともあるのに……。まさかその傷つけた女の夫に惚れてしまうだなんて本当に皮肉で滑稽、そして酷く罪深いこと。――だから、黙って押し殺して。自分に出来ることでこの気持ちを昇華していくしかない。そんな恋仕方しか出来なくても苦しくても、それをしていきたい。それにこんな素直な彼を巻き込みたくない。自分の寂しさを埋めるために、その時だけの相手として都合良く扱いたくない。彼がいい人だってわかっているからこそ。
そんな千夏だけの密かな思い。それをひた隠しにして、彼にはそられしい理由で諦めてもらおう――と、思ったのに。
「……主任。本当に課長のことがお好きなんですね」
嘘。千夏は熊青年を見上げる。いつも笑っている彼のつぶらな目が、真剣にどこか厳しく千夏を見据えている。
「な、なにいっているのよ」
どうして。恋沙汰にはいちばん疎そうな青年に見抜かれていた? 誰にも知られないよう努めてきたはずの千夏には見抜かれただけでもパニックなのに。思わぬ男に指摘されたことも、すごいショック。もう顔に出てしまった!
「俺、構いませんよ。今の主任の気持ちのままでいいから。一度だけでいいから、俺に付きあってくれませんか」
一度、ゆっくり俺と話してください。
いつもニコニコしているだけの彼の険しい横顔。彼がそのまま胸ポケットからボールペンを取り出し、千夏のデスクにあるメモ用紙に何か記した。
日時と、電鉄の駅名が記されている。
「ここで待っています。来ても来なくても」
それだけ言うと、彼が背を向けてしまう。
「い、行かないから。待っていなくて良いから」
早い内に断っておけば、彼だって無駄な労力を使わなくて済む。
だけど、次に千夏が見た彼は、やっぱりいつものにっこり笑顔に戻っていた。
「主任。野球はですね。9回裏2アウトからが勝負って言われているんですよ」
だから、待っている。俺、諦めません!! 好きな男がいても来てください!
そんな顔でニコニコしている年下の元球児。もう千夏には全てが予想外で、何故か身体がかあっとしていた。だってだって私の大人の女としての余裕って、全然どこにもなくなっている。全然大人の女じゃない。素直な彼に気圧されているのは年上の私?
「ただいまー。お待たせー」
なに食わぬ顔で、佐川課長が帰ってきた。
千夏は急いで荷物をまとめ、今の顔を課長に見られないよう、逃げるようにコンサル室を飛び出していた。
バカ! 野球と恋を一緒にしないでよ!
なにが9回裏2アウト、よ!! まるで頑張れば、そこから奇跡が起こせるみたいな言い方。そんな上手い話があるわけない!
ぜったいにぜったいにぜったいに。あんなに素直な彼と、こんな私が上手く行くはずない!
Update/2011.2.20