◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 6.投げてください、ボサ子様  

 

 もう葉桜。基地の中は桜が多い。基地の中に広がる芝庭、葉桜がさざめく舗道を警備門まで城戸中佐と歩く。
 警備門には、実弾を込めた銃を構えている警備隊員が今日も佇んでいる。そこで基地を出たというIDカードにて、警備口でチェックアウトをする。
 心優の場合、基地内の独身女性専用の寄宿舎に住んでいるのでチェックアウトをすると『外出した』という扱いになる。
「寄宿舎、だよな」
「はい。最近の外出申請は、IDカードのチェックアウトと、いま外出申請も記入したので、大丈夫です」
「懐かしいな〜」
 ほとんどの独身隊員が体験する寄宿舎暮らし。個室で食堂もあるし、煩わしい通勤時間も気にしなくていいので、今はとっても暮らしやすい。ただ共同生活のルールがあるので、そこを慣れるか慣れないか。
「中佐は今は官舎住まいなんですよね」
「うん。秘書官になってからな。コックピットを降りた途端、外に放り出された気分だよ」
 幹部になると、独身でも官舎に住めるようになる。外で住めるというのは、自分の自宅を持てるという意味でもあって、若い隊員が目指すひとつの区切りでもあった。でも中佐はそんなステップアップは要らないようだった。
「食事はどうされているんですか。自炊ですか」
「まさか。やったとしてもそれは、男の簡単料理のみ。もう慣れ親しんでいる食堂に行くよ。なんだろうな、あの麦が混ざった飯が普通になってしまったんだよな」
「あー、あの麦飯は、最初は衝撃でしたね」
 だろう、俺も! と、中佐が笑う。
 そんな彼を心優は見上げる。外に出ると違う顔。いつもはなんでもこなす秘書官という、張り詰めた空気を感じているけれど、今日の中佐はどこか気易い。秘書官になる前は、こんな男っぽくて人懐こい人だったのかなと思ったりする。
「でも。園田も選手時代は、食事管理が厳しかったんだろう」
「そうですね。実家では玄米を混ぜているのは普通でした。家族みんながアスリートなので母が栄養士の資格をもっているぐらい、普段の食事は母はしっかり管理してくれていました。後は寮生活がほとんどでしたから、食事はそこで管理してくれていました」
「で、ホルモン焼き」
 また心優の頭の上でクスクスと抑えきれない笑い声が落ちてくる。
「もう、なんですか。うちの兄貴達と食事に行ったら、わたしなんて子供扱いだし、女の子に見えますよ。兄貴達の食べる量を知ったら、中佐だってひっくりかえりますから」
「俺だって、パイロットだったから凄い食っていたほうだけどな!」
 なんでそこで、張り合うんですか。と、言いたくなった。
 もしかしなくても、この人、根っこがやっぱり体育会系なんだと、やっと実感が湧いてくる。まさか、うちの兄貴達と同じ素質だったりして! それは違っていて欲しいと、心優はひとり頭をぶるぶる振った。
 基地を出て、一般道路の舗道を中佐と並んで歩く。海がすぐそばにある小さな港町。微かな潮の香りがする夕暮れ。自転車で帰宅する制服姿の男性もいれば、外に買い物に出てきた若い隊員の姿。女の子同士で楽しそうに外食にでかける女性隊員もいた。
 城戸中佐の顔は誰もが知っているので、誰もが会釈をする。その度に、中佐が軽い敬礼を示して返礼している。その顔がもう、あのつくりもののにこにこ笑顔に戻っていた。
「中佐って、ほんと人気者ですよね」
「できれば、そっとしておいて欲しいけれどな」
 誰もが知っている中佐殿になると、それなりに苦労はあるのだろう。
 基地付近にある飲食店街は、隊員向けのお店が多い。いまどきのファミレスもあるが、ほとんどが長らくここで商売をしてきた古い食堂ばかり。
 隊員が通う小さなスナックが並ぶ通りや、夕方になって肉を焼く煙が漂う路地もある。そこに城戸中佐が入っていく。
 古びた食堂が並んでいるけれど、どの店も隊員が入っていて夕食時でもあって活気づいている。まるで昭和時代を思わすような細い路地を歩いていると、小さな店の前で中佐が立ち止まった。
 店先に、『ホルモン焼き』とそのまんまの紺色ののれんがかけてある。
「ここですか。いかにも!」
「だろう。年季が入ってる」
 こういう古くから続いているお店が実は美味しいのよ――と、心優の喉が鳴る。心優が喜ぶ顔を見て、城戸中佐の頬も緩んだ。
「パイロット達が集まる店なんだ。俺も久しぶりなんだけれど、ほんとに美味いから」
 心優の喜びも束の間――。パイロット達が集まる店? つまり現役時代によく通っていた店ということになる。しかも『久しぶり』? いつから? まさか現役引退以来とか? 避けていたお店に、急に来ることになったとか?
「どうした。来いよ」
 ぐるぐると考えているうちに、中佐は平然とした様子でのれんをくぐってしまう。
 ――っらっしゃい!
 威勢のよい声が店内に響いた。大将らしき強面の親父さんと男性スタッフが二人ほどの店。平日のせいか、まだ客はいなくて心優と中佐の二人が最初のお客さんのようだった。
 慣れた様子で中佐が席に座る。心優も促された席に静かに座った。
 強面の大将が、水のコップを持ってきてくれる。
「おう、久しぶりやないか。心配しとったで」
 低くて重厚感ある声に、眉間に皺が寄る真顔。心優はそのままの厳つさに硬直する。
 でも城戸中佐は柔和に微笑んだ。
「ご無沙汰しておりました。まだ、来ています?」
「城戸と一緒だったパイロットは、最近は見ないな」
「それぞれ転属、または結婚して……というところですか」
「そんなところだな。エースさんは久しぶりだよ」
 そう言いながら、強面の大将が心優を見下ろした。すごい眼光。睨まれているよう。
「女の子を連れてくるパイロットなんて滅多にいないからな、びっくりしただろうが」
 そんな怖い顔で怖い声でびっくりしているのかと、強面だけれど喋る内容は普通のようなので心優も勇気を出してちらりと見てみる。
 がっちりと目があって背筋が伸びる。それを見ていた城戸中佐が、またおかしそうに笑いだした。
「ホルモン焼きが好きというので、連れてきたんですよ。彼女、護衛官として採用したんです」
「ご、護衛官だと!」
 大将がびっくりのけぞる。でも中佐が誇らしそうに心優を紹介してくれる。
「空手の世界選手権、日本代表選手団の一人で、全国三位の選手だったんです。怪我で引退して、父親の職業である軍隊に転向して、一年前俺のところに」
「ほんとうか! ってことはよ、彼女が男の将軍様を護衛するってことなのか」
「はい。塚田を投げ飛ばしたんですよ。一瞬で、ですよ。俺ももうびっくりして」
「はあ? あの塚田を!!」
 え、少佐を一瞬で床に落としたことはそんなに凄かったのかな――と、心優もびっくりしてしまう。
「あの日、塚田が悔しがって大変だったんですよ。やけ酒に付き合わされて。あの塚田がですよ」
 親父さんも『はあー、すげえな』とおののいていたが、心優も塚田少佐を投げた後のことを初めて聞かされて唖然とさせられる。
「そんなに、塚田少佐が悔しがったんですか?」
「ああ、そうだよ。少しは女の園田を困らすことができると思っていたようだけれど、まさかの一発ダウンだったもんな。『ああ、世界が目の前だった選手の実力がよくわかりました』と泣いて泣いてさ」
 『へえ、そりゃあたいしたもんだ』と大将も感心しきり。
「おう、そういうことならちょっと待ってな」
 挨拶もそこそこに、まだオーダーもしていないのに大将は厨房に消えてしまった。
 そのうちに、大将がホルモンが乗った銀皿を二枚持ってきて、心優と城戸大佐の前に置いた。
「これ食って、精つけな。ホルモン焼きが好きなんていう女子、初めてきたからサービスな」
 びっくりして、中佐と一緒に目をしばたかせる。
 強面だった親父さんが、こんな時に顔を赤くして照れている。
「ん、ほらよう。いざという時、国を護れるよう踏ん張らなきゃいけねえんだろ。食えよ、もう、とにかく食え!」
 大将の言葉に、あの城戸中佐が嬉しそうに微笑んだ。
「大将、変わらないですね」
「アホ。うちはパイロット御用達だぞ。今も昔も、ずうっとな。あんたらに護ってもらってきたんだから。たまーにだけど、そのたまのサービスなんだから、有り難く受け取れ」
「では。頂きます。あ、それからいつものコースでお願いします」
 『了解』とやっと強面の大将が、にこやかな顔に崩れた。
「俺達を大切にしてくれる店なんだ」
「塚田少佐とたまに来るんですか」
「うん、ほんとうにたまにな。一年ぶりかな。会いたいパイロットも時々いるし、ここなら現場の声も聞けるから」
 そうだったんだ。それならよかったと心優も安堵した。現役引退以来の来店で、それまで他のパイロットにも会いたくないぐらいに避けていた店なのかと心配してしまった。
 つまり。それぐらいに、秘書室では城戸中佐に現役時代の話題を振ることはタブーだという空気が濃かったのだ。
 でも、いまここにいる中佐は、とてもリラックスしているように見える。
「よし、食おう」
 中佐から焼き網の上にホルモンを乗せてくれる。
 心優も『いただきます』と箸を持った。
「おい、おまえさんたち、ビールはいらねえのか」
 次の銀皿を持ってきた大将に尋ねられたが、心優と中佐は揃って首を振っていた。
「園田は遠慮しないで飲んでいいんだぞ」
「いえ。わたしはお酒はあまり飲みません。選手時代からそうなので慣れていないんです。中佐こそ、どうぞ」
「俺も変な癖で、飲むのが怖くてそれなら飲まないという習慣になっているんだよ」
 パイロットの時も、秘書官になっても、いつ何が起こるかわからないから飲めないという。
「そっか。ほんとうに、あんたらご苦労さんやなあ。おもいっきり飲ませてやりたいわ」
「いいですよ。そんな。それなら、大将、ライスをお願いしますよ」
 中佐が頼んだので、心優も同じく。
「わたしもお願いします」
「わかったよ。ライスは、大と小、」
「俺は大で」
「わたしも大で」
 と言った途端、また中佐と、今度は大将まで目を丸くして心優へと視線を走らせた。
「え? あの」
「園田、おまえ……ライスは大なのか」
「はい。……二杯はいけますけど……」
「二杯!?」
 中佐が後ろに引いたのがわかった。
 大将まで、びっくりおののいている。
「そのほっそい身体の、どこにそんなにはいるんや」
「父と兄貴達は、三杯、四杯は食べるのでわたしは少ない方なんですけど」
 そうしたら、また城戸中佐が『わはははは』と大声で笑い始めた。そばにいた大将も、今度は笑い飛ばす中佐を見て目を丸くしている。
「た、大将。ライス大で、その、彼女に、二杯、持ってきてあげて」
 涙目で息を弾ませながら、中佐が注文してしまう。しかも、二杯。
「その子にはたまげたわ。もうライスもサービスにつけちゃるわ。たらふく食ってけ」
 そうして、心優の前に『ライス大』が二杯置かれた。
 焼けてきたホルモンを、中佐と一緒に食べ始めても、彼はずっと笑っていた。やっと笑いが収まったと思ったら、心優と目が合うとまたクスクスと笑う始末。
「中佐。笑いすぎですよ。わたし、傷つくんですけど!」
「あはは。どうして。俺は気に入ったよ。ほんと、マジで」
「ほんとですか〜? もう、絶対に大食いボサ子だって笑っている」
「大食いボサ子!」
 また笑い出してしまって、もう、今日の中佐はどうしようもない。
 厨房にいる大将が、そんな城戸中佐を見て、なんとなく涙ぐんでいるように見えたのは気のせいだったのか……?

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 また来いよ――と、大将に見送られて店を出た。
 初夏の夕は長くなってきたけれど、もう空は薄闇。城戸中佐と港町を歩く。
「いっぱいご馳走様でした。美味しかったです」
「そうか。でも本当に平らげたな」
 また中佐が笑い出してしまうので、心優はもうこの人が上官だというのも気にせずにむくれてみた。
 夕凪の海、紺碧の海。そして、燃ゆる茜が水平線に一筋。もうすぐしたら、海も真っ暗になる。
 基地へ向かうまでの道、途中に小さな芝の公園があって、中佐は何故か公園の中へと小径を歩き始めた。
 柔らかな潮風が吹く芝を往く彼の背中に、心優もついていく。
 空から飛行音。甲高い音と轟音。翼の端と尾翼のライトが点滅している。夜間訓練で沖合の空母に帰還する戦闘機だった。
 それを城戸中佐が、どこか憂いある眼差しで見上げている。心優も一緒に見上げた。
「あー、今日はすごい笑った。汗をかいた」
「申し訳ありません。ご馳走してくださるとおっしゃるから、つい遠慮なく地が出てしまいました。食い意地がはっているんです」
 また中佐が吹き出しそうな顔になっている。
 でも、いつのまにか。あの優しい目で心優を見つめていくれている。
「こんな腹の底から笑ったのは、久しぶりだったよ。楽しかった」
 もう心優は、そのたまにしか見せてくれない柔らかな眼差しにドキドキ。言葉が出なくなってしまう。頬も耳も熱くて、顔がほんのり染まっていることがどうしてなのか、彼にばれてしまいそうで余計に身体が熱くなる。
「あ、ここで座って待っていろよ」
 芝の道脇にあるベンチに座らされる。なのに中佐は制服姿のまま、芝の上を駆けていく。
 どこへ行っちゃうのだろう? まさか、イタズラで置いてかれちゃうとか? なんか、今日の中佐ならやりそうで怖いとすら思ってしまった。
「おまたせ」
 でも直ぐに戻ってきてくれた。
「大将の店、こういうのがないからな。俺もちょうど食べたかったんだ」
 彼の手には、ちょっと贅沢な気分の時に食べたくなるアイスクリームのカップが二つ。公園のそばにあるコンビニエンスストアで買ってきてくれたとわかった。
「あ、甘いものはだめだとか」
「いいえ、大好きです。頂きます」
 笑顔で受け取って、早速、カップの蓋を開けた。中佐も隣に座って、同じようにアイスを食べようとしている。
 今度は心優がクスリと笑ってしまう。
「中佐も、甘いものを食べるんですね」
「ああ、食べるよ。秘書官の仕事をしていると、訪ねた先々でお茶菓子が出るからな。出されたものは食べる主義なんだ」
「中佐はいつでも秘書官の心構えなんですね。部下のわたしにまで、こんなに気遣ってくださって」
「この仕事、向いていたといえば、向いていたのかもしれない」
 また、彼の眼差しが曇った。せっかく気構えない楽しそうな笑顔を見せてくれていたのに。
 そんな彼に『コックピットに戻りたいですか』と聞きたくて聞きたくて、でも心優はその衝動を抑え、どうにかして聞きたい言葉を飲み込む。
 中佐も空気が重くなったのを察したのか、食べかけのアイスのカップを放って、立ち上がった。
「園田。あれ、教えてくれないか」
「なんでしょう」
「塚田を投げたあの技。コツがあるんだろう。俺も秘書官だからさ、いざというときは使えるようになりたいんだよな」
 中佐が空気を変えようとしたから、心優もそれに乗ることにした。
「いいですよ。でも、あれは空手ではなくて、上の兄に教わった柔道に近い技です。コツはあってもそれが直ぐに使えるかといえば、そうではないんですよ」
「わかってる。でも、俺をあの時みたいにひっくりかえしてみろよ」
「えー、中佐をですかあ。怒らないですよね」
「怒らねえってば」
 そうですかと、心優は仕方なく城戸中佐の前に立ちはだかった。
「まずは、こことここを持ってですね……」
「うんうん」
「ひねるために、持った瞬間の手首はこのようなねじれで……」
 城戸中佐は、塚田少佐より背が高い。筋肉のハリと重厚感は、お二人ともおなじぐらい。感覚的には、心優の父親ぐらいの体格か。そう思って、制服グレージャケットの衿を掴み、そして足を払う。
「え、ちょっと、まっ」
 足を払い、男が重心を失った瞬間に心優は腕をひねらせる。『ちょっと待った』とも言わせない間に、心優は芝の上に城戸中佐を軽々横転させていた。
「は? ちょっとわからなかった。もう一回」
「え、もういいじゃないですか。一度ではできませんよ。塚田少佐に教わった方がよろしいですよ」
「いいや、だめだ。日本代表選手団にいた園田に教えてもらうんだ」
 なんだか急に上司が子供っぽくなったように見えて、心優は困惑する。
「もう一回!」
 ムキになって向かってくる上司の衿をまたひっつかんで、同じ事を繰り返した。
「いや、ぜんぜんわからなかった。もう一回」
 三度。心優は上官の彼を芝に沈めた。
「なんだよー! ものすごく楽々投げているだろ。どういうことなんだ」
 ますますムキになってしまい、これ、いつ帰してくれるんだろうと不安になってくる。
「投げられるより、わたしを投げてみますか」
「よし! やる!」
 女の子の身体を投げる――という気遣いもすっとんでいるようだった。
 でもその方が変に気遣われたり意識されるより、やりやすいと心優は彼の手を取った。
「ここを持って」
 自分が着ている制服ジャケットの衿を中佐に握らせる。さらに各ポイントを掴ませ、足を払う方法を教え……。
 でも、心優も甘くない。すぐに投げられないように、抵抗した。投げ方をわかっているから、防御のポイントもわかっている。だから城戸中佐はすぐには投げられない。
「この、手加減なしかよ」
「当然です。それとも簡単に投げたいですか。わたし、投げられる動きをしましょうか」
「くそ、そんなことすんなっ!」
 子供っぽいのか、真剣なのかわからないけれど、いつもの大人の中佐ではない。むしろ心優の方が、この場では落ち着いている。
 自分より大きい彼が『わたし』のジャケットの衿を掴んで押し倒そうとしている力んだ顔を、ただ澄まして眺めている。
 そのもたつく手元が、じれったかった。
「全然、だめです。中佐ったら」
 ちっとも慣れない彼の手首を掴んで、また足を払って、また心優は中佐殿を芝の上に落とした。
「どうしてだー! なんで俺より華奢な女に倒されるんだー! んがー!」
 ついに城戸中佐は、黒髪をくしゃくしゃとかきむしって癇癪を起こした。
 もうこうなってしまうと、今度は心優の方がおかしくておかしくて、笑いが止まらなくなった。
「なんだよ、園田」
「だって。中佐が子供みたいで……」
 『んがー!』なんて悔しがる中佐殿は、絶対に基地ではみることができない。
「そんな中佐、女の子達が見たらがっかりしちゃいますよ。だからやめましょうよ」
「いや。まだやる!」
「えー、もういいじゃないですかー」
 日が暮れた芝の公園で、三十半ばの男を相手に、心優も立ち向かう。
「もう無理ですって。また今度、練習しましょうよ」
「うるさい。ここをこう持って、こう……」
 あれ、上手い? そう思った時にはふわっと足が浮いた感覚?
 そして気がつけば、ドンと背中に重い衝撃。そして目の前は、星の空――!
 え! 一瞬だった。でも、上手い! 心優が教えたコツを完全に捉えて、とうとう地面の上に落とされた!
 すごい、中佐! できましたね! 心優は起きあがって、彼と一緒に喜ぼうと思ったけれど。
「うおー! できた、やった! すげえ、羽みたいに軽かった。まじかよ!」
 拳を掲げて、あの中佐殿が『よっしゃーっ』と渾身のガッツポーズ。その凄まじいはしゃぎっぷりに気圧され、心優はぽかんと彼を見上げるだけに。
 しかも海が見えるほうへ走って行ってしまい、そこで『ロックオン完了、撃墜、撃沈!』なんて……。パイロットのような敬礼をしてまだ飛び上がっている。
「あの人、だれ?」
 ゆっくりと芝から起きあがった心優は、唖然とするしかない。
 でも――。もう、心優は柔らかく微笑んでいた。
 あれが、きっと本当の城戸中佐。
「あ〜。やっぱり兄貴達と同類かも……」
 クールな大人のビジネスマンだって、憧れていたのに。
 それでも心優はずっと笑っている。そんな自分も、基地にいる時のような部下であるための堅い心構えが解けている。
 あ、園田。ごめん。
 やっと我に返ったのか、中佐が慌てて戻ってきた。その姿もおかしい。
「わるい、一人で勝手に盛り上がって。女の子を投げ落としたのに」
「大丈夫ですよ。むしろ、ここで女の子扱いされるほうが腹立ちます」
 身体についた芝を払いながら、心優も立ち上がる。二人で元のベンチに戻ると、アイスが溶けかけていることに気がつく。
「せっかくのアイスクリームだったのに」
「悪かったよ。また買ってやるよ」
 そんな、またこんなふうに誘ってくれるってこと? そうだったら……、嬉しいけれど……。心優は密かにそう思いながら、溶けかけたアイスを頬張った。
 隣の人が、兄貴みたいなもんだと思うと気が楽になった。心優より六歳も年上だから、どんなに無邪気な一面を見られたとしても、ずっと大人の男だけれど。
 中佐も黙って頬張っている。でもやっぱり、すぐ隣にあのパイロットの横顔があるかと思うとドキドキする。スッとした鼻筋に、湧き上がる力を秘めているシャーマナイトのような黒目がいつも心優を惹きつける。彼の瞳が石になって心優の手にあったのなら、もの凄い熱を持って体温とパワーを上昇させてくれる気がする。
「中佐の目て、パワーストーンみたい」
 彼が少し面食らっている。
「石ってことか」
「シャーマナイトっていう、ネイティブアメリカンが愛用してきた石です」
「へえ、そんなのがあるんだ」
「母が試合の前に、プラス思考になるようにと、わたしによく握らせた石です。母はそういうことを割と信じている方なので」
「お母さんからのお守りって意味か。俺の目がそのお守りと一緒? 畏れ多いな」
 自分の目に中佐が触れる。
「ふうん、やっぱりそんなところが、女子なのかもな。面白い」
「でも。その石を思い出すぐらい、目の色が綺麗です。今も、そして映像の中の……パイロットの中佐の目も、同じでした」
 彼が満足そうに微笑んでいる。
 そして、今度は彼から心優の瞳を覗き込んできた。
「俺は、おまえの目は、猫みたいだなといつも思っている」
 猫!? びっくり大きく見開くと、それだけで彼があの優しい笑みを目の前でみせつける。
「ここ、アイスついているけどな」
「あ、」
 唇の端を指さされる。
 だって。とろとろになっていたんだもの。でもちょっとお行事悪かったかも。と、ハンカチをポケットから取りだして慌てて拭こうとする。
 恥ずかしい。中佐の前で、アイスがついた顔になっていたなんて――。
「ほら。猫のような目になっている」
 そこで心優は手からハンカチを落とした。彼が、中佐殿が、心優の鼻先まで顔を近づけてジッと見つめている。
「ちゅ、中佐?」
「嫌なら、今のうちだ」
 ど、どういうこと?
 でも、まだ返事もしていないのに、心優の唇の端に熱いものが押された。
 手のひらじゃない。唇に、彼の熱いものが触れている。
 しかも舌先でちろっと舐められた。
 また中佐は心優の唇から離れて、心優の目を覗き込んでいる。
「その、俺はいつも、勢いで」
 勢いって、その時の気分次第ってこと? 
「じゃないと、女を誘えないというか」
 中佐のほっぺたが赤くなっている。あの中佐が照れていて、誘ってくれているのに目を逸らしてしどろもどろ。
 ああ、やっぱり。そんな男性なのかな? どこか近いものを感じてしまっていた。
「嫌では、ない、です」
 そんな返答をしたら、中佐が一時固まっていた。けど、直ぐにまた唇を重ねられる。何度か、唇だけをちゅっちゅっと吸われただけ。すごく熱い唇。もう心優の腰は抜けそうだった。
「行くぞ」
 もう力が入りそうもない身体を中佐に抱き起こされ、力強く手を引っ張られていく。
 行くぞって、どこへ?
 彼が心優を引っ張って連れてきたのは、『官舎』。彼の住まい。

 

 

 

 

Update/2014.11.23
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