◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 26.やはり、あなたはパイロット  

 

 大佐殿は、出航後最初のホットスクランブルの指揮に立ってもまったく動じていない。
 任務展開中の空母艦がいちばん近い位置にいたということで、対領空侵犯措置のスクランブル指令が、横須賀にある中央管制センターから送られてきた。
 ホットスクランブル。雷神の6号機『スプリンター』と、7号機『バレット』のエースが一番手に待機していた編成として空母から離艦していく。
『不明機を、肉眼で確認』
 ネイビーホワイト機に備えられている撮影用のカメラが、不明機を捕らえ、その映像が雅臣の目の前にあるモニターに映し出される。
『Su-27、国籍は……』
 鈴木少佐の落ち着いた声で、捕らえた戦闘機の機種と国籍と、機体番号が報告される。
 モニターに写し出された他国籍の戦闘機には、最北にある大国の国旗がペイントされている。
 雅臣も落ち着いていて『よし、いつもの接近で間違いない』と、一人で頷いている。
「スプリンター、いつも通りに送り返せ。バレットは背後で備えてくれ」
『ラジャー』
『イエッサー』
 二機のパイロットからも落ち着いた返答が無線で返ってくる。
 だが、心優は入り口のドアでひとり冷や汗をかいていた。心優にとって『本番』である侵犯措置で、外国の戦闘機を目にするのは初めてだからだった。
 静かに暮らしているつもりで、本当にギリギリの領空のところに頻繁に諸外国機がやってくる。そして、自分と普通に親しくしてくれていた男達がそれを当たり前の顔で対処してくれている。
 目の前の、自分を大事にしてくれた男もまた、復帰したばかりだというのに当たり前の顔でなんら焦ってもいない。
 そんな心優がドアが開いているそこで立ちつくしている姿に、無線のインカムヘッドホンを装着している雅臣が気がついてしまう。
「園田。大丈夫か」
 心優もなんとか気を確かにして頷く。
「そっか。本物は初めてか、本番も……」
 落ち着いていないのは心優だけ。レーダーに向かっている管制官も、雅臣も、甲板にいるスタッフも、誰もがいつもの訓練通りの顔をしていて誰も慌てていない。
 それでも雅臣がふと、懐かしい微笑みを見せてくれる。
「大丈夫だって。ここのあたりでは良くあることなんだ。俺も現役の時はここに何度も飛んできたし、ミグにもスホーイにもギリギリに接近したこともある。向こうも同じだ。きっとこの空母がどの航空団で、どんな飛行隊を艦載しているのかチェックしに来たんだろう。近づいてこちらの戦闘機を上空まで誘っての偵察ご挨拶。もちろん、俺達もそうだ。近くを通るけど『そっちには入らないし、そっちも入ってくるな』という牽制にすぎないよ」
「そうなんですか……」
 指揮指令のレーダーとモニターがあるカウンターにいる雅臣がにっこり頷く。
「こっちに来てみるか。ほら、いま6号機スプリンターのクライトン少佐が退去のアナウンスをしている」
 雅臣にもうひとつの無線インカムを差し出され、心優もドアから管制室にはいる。そっと大佐殿からインカムを受け取り耳に当てると、『こちらは日本国――』と、6号機のフレディ=クライトン少佐が英語で外国籍機にむかってアナウンスをしているところだった。
 それでも、雅臣の目の前にあるモニターにはクライトン少佐の『6号機、スプリンター』の少し離れた、でも近しいところにスホーイSu-27が悠々自適といわんばかりの姿があり、退く気配もない。
「バレット、ギリギリに寄ってみてくれ」
『ラジャー』
 鈴木少佐の『7号機、バレット』が退去する様子もないSu-27へと少しずつ寄っていく。
「おまえが侵犯するなよ」
『わかってますよ、キャプテン』
 空母にいる指揮官のことはそこに誰がいても『キャプテン』と呼ぶことになっているらしい。
 モニターに映っているSu-27に接近し、その機体が大きく見えてくる。他のモニターには、クライトン少佐と鈴木少佐がヘルメットに装着しているヘッドマントディスプレイで写し出されているメーター数値が映っている。
 これもホワイトシステムの成せる技だった。コックピットにいるパイロットの目線がそのままモニターに送られてくる。彼等がいまヘッドマントディスプレイで見ているフライトのデーターやメーター値が見えるので、そこで指揮する元パイロットの上官もそのコックピットを体感できるようになっている。
 その鈴木少佐の目で見えているヘッドマントディスプレイの映像に、黄色のリングが点滅した。同時に、そのモニターが『ピピピピ、ピー』と異様な音を発信する。
『捕捉された』
 鈴木少佐のバレット機の背後にいたもう一機のスホーイが、バレット7号機をロックオンしようとしている。
 また心優の身体が強ばり、汗がドッと滲む。『うそ。まさか、近づきすぎて、本当に本当に鈴木少佐が空でドッグファイトに展開!?』
「か、艦長を呼んで参ります!」
 一大事だと思った心優はインカムヘッドセットを放って、飛びだそうとした。
 なのにその手を掴まれたのでびっくりして、心優は立ち止まり肩越しに振り返る。
「いい。休ませてあげろ。これぐらいなんでもない。良くあることなんだ。パイロット同士の『茶化しあい』なんだよ」
 そういうと、雅臣はインカムのマイクを口元に寄せると――。
「いいぞ、バレットもやってやれ」
 なんて、とんでもないことを言いだした!
『イエッサー。待ってました、大佐殿!』
 やんちゃが本性の鈴木少佐が嬉々として機体の片翼を下げ、大きく旋回したのか、空と雲が斜めになる映像が見えた。
 捕捉をしたSu-27の背後へと、『弾丸』という名の7号機バレットが急降下をする。ヘッドマウントディスプレイと同様のものが映るモニター、鈴木少佐が空の気流と雲を切り裂いて、どんどん高度を落としていく水平メーターが忙しく動いている。
「無茶すんなよ。そこで体力使うな。着艦後、またアラート発進があるかもしれないだろ」
 雅臣の先輩らしいアドバイスに、鈴木少佐は――。
『先輩、うるさい。先輩だって、これぐらいやっていただろ』
 生意気な通信が返ってきた。なのに、雅臣はそこで顔をしかめるどころが、楽しそうに笑っている。
「早く背後を取って、捕捉しろ」
『ラジャー』
 それでも、急降下の急速Gの負担で息苦しそうな鈴木少佐の声が届く。
 降りたと思ったら、やがてバレット機は急上昇を始める。蛍光グリーンで示される水平計と高度計の定規のようなラインが、今度は上昇の数値を弾き出し、ラインが急速に動き始める。
 モニター横のスピーカーから、鈴木少佐の苦しそうな息づかいが聞こえるが、雅臣は止めない。おそらく、これがパイロットの常。いまの状態で最高8Gの世界。それを動じずに見守っているのは、雅臣もまったく同じ世界で飛んでいたから。
 心優は黙ってバレット機のメーター表示を眺めている雅臣を見つめる。その険しい横顔は、秘書官だった男の顔ではなかった。
 彼はいま、パイロット。パイロットになって、鈴木少佐と一緒に空を飛んでいる!
『見えた』
 カメラ映像のモニターに、再度Su-27が現れる。しかも今度は、尾翼が見える背後。
「行け。バレット」
 雅臣の声が重く響いた。
 鈴木少佐目線のヘッドマウントディスプレイのモニターに、Su-27を捕らえようとする捕捉リングがくるくると回り始める。Su-27に重なったり、外れたり、動いている戦闘機を狙っている。そのうちにそのリングが赤く変化する。
『捕捉』
 これでいつでも迎撃撃墜ができる体勢。だがこれは『茶化しあい』だから、鈴木少佐もそれだけでなにもしない。そして、それもわかりきったようにして、Su-27が片翼を下げ旋回し、急降下をしてカメラ映像のモニターから消えてしまう。
 それでSu-27は退去したものと、心優は思ったが、雅臣はまだじっと黙ってモニターを見たままで警戒を解かない。
 またモニターのスピーカーから『ピピピピ……』と捲し立てるような警報音。
『捕捉されました』
 今度は、退去せよ――のアナウンスをしていたクライトン少佐の報告。
 鈴木少佐がやったように、急降下をした上で姿をくらまし、上昇して相手の背後を取る。まるでコピーするかのようなやり方。
 まさか。これも『茶化しあい』のひとつ? 俺も出来るぞ、おまえと同じ事。バカにすんなよ――と、Su-27が言っているように心優には見えてしまう。
「かまわない。スプリンターはそのまま、退去勧告を」
『ラジャー』
 だが、6号機から捕捉の追尾は終わらない。
 子供の喧嘩とは思いたくはないが、茶化し合う小競り合いがちょっとしたきっかけで喧嘩になることも。
「キャプテン、退去する様子がありません」
 管制官からの報告に、雅臣が苦虫を噛み潰したような顔になる。
「相当、バカにされているな」
 雅臣が考えあぐねている横顔――。
 もう一度『茶化しあい』をしても大丈夫なのか。心優は『もうそこそこでやめて。臣さん、危ない橋は渡らないで』と思ってしまう。そして心優は踵を返す。御園艦長を今度こそ呼ぼうと……。

「一度では駄目よ。三度ぐらいやってやんなさい」

 振り向いたそこ、目の前に紺の指揮官訓練着に着替えたミセス准将がいた。
 慌てて着替えてきたのか、白いタックトップの上に上着を羽織っただけの恰好で、心優が先ほど手放したインカムヘッドホンを手に取った。
「スプリンターはそのまま退去命令を。バレット、あと三度ほどやってやんなさい」
『キャプテン、どこ行っていたんだよ!』
「私の指示がないと、怖くてできないの?」
『バカにすんな』
 コックピットにいる鈴木少佐は、噂通りの『悪ガキ』だった。心優の目の前では気の良いお兄さんの顔をしていても、パイロットになった彼は荒っぽい男に変貌する。
「艦長。申し訳ありません。俺だけでできればと思って……」
「いいのよ。ありがとう、雅臣。上出来よ。向こうにはこれぐらいやってやるのが『礼儀』だって、覚えていたのね」
 同じ紺の指揮官服、そしてインカムをセットしたキャプテンとして御園准将と並んだ雅臣は嬉しそうだった。本当に彼が復帰した喜びを噛みしめている。前だったら『ミセスのことは女性としてみている訳ではないけれど、でもやっぱり女として辛い』と思っていたのに、いまはそうは思わない。
 雅臣の満ち足りた微笑みを見ただけで、心優も嬉しくなる。彼が望んでいたことがいま実現している。彼はあのパイロット部屋から出てこられたのだから。
「バレットを一番手に配備しておいたのは、出航後、必ず北方から偵察に来ると思ったからよ。そして『ネイビーラインの白い戦闘機』が飛んできたと言うことは、雷神を艦載している『私』が乗っている艦だと認識してもらえる。私の癖も知っているでしょう。本国にそう報告して『いつもの対応をしてくれる』はず。さらに、白い戦闘機の7号機がエースだという情報も既に持っているはず。エースを最初に送ればそれだけ自分たちに警戒してくれているという敬意にもなり、または、エースをからかってみたいというお遊びも、ご挨拶というもの」
「なるほど。承知しました。では、バレットを自由にさせていただきます」
「貴方が現役だった時のようにね」
 そこでミセス准将がインカムはつけたまま、指揮カウンターから一歩下がった。代わりに雅臣がモニターに手をついて身を乗り出す。艦長が愛弟子にしようとしている男に指揮を譲った瞬間を心優は見てしまう。
 だがその男は雄々しく、インカムマイクに告げる。
「バレット、もう一度捕捉してやれ。二機、両方ともだ。出来るな」
『もちろんっすよ。よっしゃ、行ってくる!』
 悪ガキのエンジンが全開になる。
 二機、両方とも――。その指示通りに、鈴木少佐のバレット機は自由を得た鳥のように軽やかに気流をかき分け、スプリンター機の側から離れない一機を捕捉する。その一機が気がついたのか、片翼を下げ降下をはじめた。
「行け、バレット。逃がすな。執拗に追ってやれ」
『ラジャー、キャプテン』
 鈴木少佐も再度の急降下。またモニターに雲を切り裂いて高度を下げていく映像と、忙しい水平高度メーターの目盛りが動く。
 カメラモニターが降下して逃げたSu-27を写し出す。鈴木少佐が容赦なくロックオン捕捉をする。そして今度はロックしたまま外さない。もういつでも撃ち落とせるという脅しでもあった。
 スプリンター機は冷静に退去のアナウンスを続けている。パイロットのクライトン少佐は、悪ガキの鈴木少佐とは対照的にクールな男性で、熱くなりすぎる悪ガキをコントロールするお兄さんと言ったところ。だからこその役目ではあるのだが。
「スプリンターも、やり返してこい」
 雅臣の大胆な指示に、心優は目を丸くする。退去命令を続けなくてはいけないのでは? でもミセス准将は雅臣の後ろで、ふっと静かに微笑むだけ。
『ラジャー、キャプテン。待ってました』
 あのクールなクライトン少佐まで。鈴木少佐より落ち着いた冷たい声なのに、その返答には闘志が秘められていた。
 パイロットにとって、上官の命令が第一ではあっても『からかいのご挨拶には腹が立つ』というところなのか。そして雅臣はそんなスプリンターの隠し持ったパイロットとしての気持ちもわかっている。
 二機のモニターが揃って、捕捉をしてきたSu-27を完璧に捕捉した。だが、その捕捉から逃れたSu-27も負けずに雷神二機を追っては捕捉するの繰り返し。それが本当に三度ほど。
「もういいだろう。スプリンター、再度の退去勧告をしてくれ」
 再度の退去のアナウンス。クライトン少佐の声が淡々と流れる中、二機のSu-27がモニターから消える。
「二機とも、退去。ADIS(アディス/防空識別圏)から出ました」
 管制官の報告に、雅臣がほっとひと息ついて項垂れた。それなりの緊張はやはりあったようだった。
「スプリンターにバレット、着艦だ」
『ラジャー』
『ラジャー、キャプテン』
 雷神二機も旋回をして空母へと帰ってくる。
「初仕事、お疲れ様。城戸大佐」
「ありがとうございます。艦長」
 御園准将が彼を労うと、雅臣も嬉しそうだった。
「いまのデーター、あとで私のところに持ってきて」
「ラジャー、艦長」
 ミセス准将はそれだけいうと、艦長室へと戻っていった。心優も後を追う。
「艦長。すぐに報告しなくて申し訳ありませんでした」
 だが彼女が意味深な笑みを浮かべる。
「私が眠らないという話をテッドから聞いたのでしょう」
「は、はい……」
「私がいなければ、雅臣が駆けつけると思ったのよ。橘さんも来なかったでしょう。二人で決めていたの。先ほどのような北方の偵察がよく通るエリアは、横須賀のパイロットだったなら慣れた相手に仕事だから、Su-27が来たならば、雅臣に任せてみようってね」
 そう聞いて、心優はハッとした。
「え、では……。眠るというのは見せかけで……」
「うとうとはしちゃったけれどね。雅臣なら出来ると思っていたし、ミユも側にいるからね。安心はしていたわよ」
 それでも、眠ったふりをして、どうしても『俺がやらなくてはならない』という雅臣の為の状況をわざと作っていた??
 そんな密かな作戦に心優は唖然としてしまう。
 ああ、でも。それならば、ミユがいるから安心して眠れる――というのは嘘なんだと、ちょっとがっかりした。
「あー、今度こそ眠らせてもらうわね。ちょっとうとうとしていたのに、もったいなかったなあ。でもこれで暫くは来ないでしょう。よろしくね〜、ミユ」
 また伸びをして欠伸をして、ミセス准将は艦長室に戻ると、またベッドルームに入ってしまった。
 今度こそ、ミユが側にいるから眠ってくれるのか? そう思った心優は、艦長室で事務仕事をしながら、しっかりと艦長室を守ることに専念した。
 少しでも、眠れますように。そう願いながら。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 艦長デスクの側に、心優専用のデスクも置いてくれた。
 そこでラングラー中佐から預かった事務処理に心優は勤しんでいる。
 そのうちに、艦長室のドアがノック音なしで開いた。
 雅臣だった。黙って静かに入ってくる。そして心優のところにやってくる。
「お疲れ様。艦長がまた仮眠を取っていると聞いたから……」
 彼が小声で話しかけてくる。心優もそっと頷いた。
「いまお休みです。先ほどの措置のデーターですか」
「うん。艦長に渡しておいてくれ」
「かしこまりました。大佐。……そして、お疲れ様でした」
 心優がそっと頭を下げると、雅臣も微笑んでくれる。
「……ありがとう、心優」
 いまは大佐と園田という関係のはずなのに。また懐かしい穏やかな声で呼ばれ、心優は彼を見上げてしまう。
「大佐がパイロットに見えました」
「そうなんだ……。そう見えたなら、嬉しいよ。なにせ、心優には……」
 そこで雅臣が黙ってしまう。でも、心優にはその先がわかる。
 小笠原に戻りたいくせに。甲板に戻りたいくせに。秘書官ではなくて、甲板指揮官になりたかったのではないのか。そう言い放った女に、パイロットに見えたと言われれば、あの時に理不尽な言葉を浴びせた女を見返せたというもの。
「あの日、酷いことを言いました。あの時……」
 今こそ、伝えたかったことを。そう思った。でも雅臣に遮られる。
「俺は、ラングラー中佐が言っていたことを聞きたい」
「それは……、いま、ここでは……」
「わかった。今日はいつ終わる」
「いえ。本日は、艦長に一晩付き添うシフトになりました」
「そうなんだ……。わかった。また」
 雅臣はそういうと背を向けてしまった。でも、立ち止まる。なにも言わず、そこに立ちつくしたので心優は首を傾げる。
「心優。俺が馬鹿だったのか。なにも知らなくて」
 心優は即座に首を振る。
「そんなことはありません。……どうしても、言えなかったのです」
「きっと心優は正しい。気に病むことはない。俺なら、先に知っていたら秘書官として恋人にも絶対に口が裂けても言わなかった。それが秘書官だ……。なのに、俺は、」
 なのに、俺は?
「やっぱり。雅臣が来ていた」
 二人でいるそこに、御園艦長がベッドルームから出てきたのかデスクに戻ってきてしまう。
 耳が良いとはこのことか。話し声と彼の声を聞き分けてしまったらしい。内容まで聞き取れてはいないとは思うけれど、艦長の耳ざとさは本当のようだった。
「あ、その……。園田に渡しております。失礼いたしました」
 雅臣も驚いたのか、妙に焦った様子で艦長室を出て行ってしまった。
 そんな雅臣が去る姿を、御園艦長がじっと見つめている。
「ふうん」
 また意味深な声色で、御園艦長はデスクの皮椅子を引いて、静かに座った。
 そして今度は心優をじっと見ている。
「こちらが、先ほどの措置のデーターです。モニター映像を再生させますね。そちらのパソコンを立ち上げてください」
 パソコンの電源を入れた御園艦長だったが、それを終えると、また心優をじっと見つめている。
「あの……?」
「これね。先ほどのスクランブル。どれどれ、私がいない間、どうしていたのかなー」
 マウスをクリックして映し出された先ほどのスクランブル映像へと、艦長が集中する。明らかに目つきが変わる。そして黙り込んでしまう。彼女をとりまく空気が、彼女だけの空間で隔たれているような雰囲気が漂う。
 カチカチとマウスを動かして、何度も見直している。一人でメモをしている。そんな集中している艦長になると、心優は空気になろうと努力する。
 そういえば……。まだ艦長がランチを取っていないことを、自分もスクランブルの時間帯がランチタイムで逃してしまったことに気がつく。
 どうされるか聞きたいが、いまは……。
 そこでノックの音。
「どうぞ」
 艦長の声に、指令室側のドアが開く。
「失礼いたします。お目覚めだとお聞きしましたので、ランチをお持ちいたしました」
 コックコートを着込んだ男性が入ってきた。艦長専属の軍調理師『是枝(これえだ)大尉』だった。
 集中していた艦長が微笑みを浮かべ、立ち上がる。
「是枝さん、お久しぶりね。昨夜はお会いできなかったけれど、相変わらず美味しかったです」
「ありがとうございます。御園艦長。まだランチがお済みではなかったので、おもちしました」
「……あ、気がつかなかった。あ、もしかしてミユもまだだったの?」
 心優は艦長の付き人という立場なので、食事も専属シェフのものを食べられることになっていた。ただし、艦長と共に食す。ということになっている。
「いえ、私も先ほど気がつきました。その、初めてのスクランブルを目にして、かなり興奮してしまったみたいです」
「えー、そうだったの? やだ、私も気がつかないで。眠っている間に行かせるべきだったわね」
「とんでもありません。眠っている時こそ、お側にいさせてください。それが女性護衛官としての私の役目です」
 そこにいた是枝シェフが静かに笑う。
「艦長室の雰囲気が変わりましたね。ですが、また気持ちが落ち着かずに、不規則にされているのでしょう。少しでもかまいませんから休憩をすること、食事をすることは忘れないでください。明日から無理にでも運んで参ります」
「そうね。是枝さんを困らせないようにいたします。今回から、私のこの部屋では園田少尉が同行します」
「初めまして。園田少尉。出航前の食事アンケートにお答えくださって有り難うございました」
「初めまして。是枝大尉。食べること大好きなので、楽しみにしておりました」
 無精髭のシェフが僅かに微笑んでくれる。寡黙そうな三十代の職人というイメージ。そのシェフが、アシスタントの調理師を呼んで食事を運んできた。
 艦長室の端にある小さなダイニングテーブルに、軽食程度のランチが並べられる。
 艦長の目が急に輝く。
「艦長のお母様である御園博士風のパンケーキでございます。アメリカ出身の隊員のための物資がフロリダからも届いておりますので、艦長がお育ちになられたフロリダの味にしてみました」
 可愛いパンケーキだけれど、スパムやハチミツといった組み合わせで、グリーンサラダにはグレープフルーツが入っている。もちろんホイップに冷凍のベリー類も添えられている。
 これが専属シェフがつけられる艦長の食事! すごいと心優は艦長付きの側近になったことを幸運に思ってしまったほど!
「そうそう、これこれ。ママの味」
「ご堪能いただければと思います。後ほど、デザートと食後のドリンクをおもちいたします」
 そういうと是枝シェフは、助手の調理師達と下がっていく。
「遅くなったけれど、食べましょうか」
「はい」
 准将と向かい合って座り、丸窓から太陽の光が差してくる明るい席で、遅いランチを共に堪能する。
「とても美味しいです。でも、このようなスタイルのパンケーキは初めてです。准将はフロリダにいた頃は、このような朝食をされていたんですね」
 御園准将は十歳から十八歳まで、父親が赴任していたフロリダ本部のそばで育ち、早い内から訓練校に所属していたとのこと。帰国子女だった。
「うん。このスパムがね。小笠原のアメリカキャンプにも売っているから、いまは私も作るけど、ママの味には敵わないわね」
「おふくろの味、ですか。それがパンケーキだなんて、やはり帰国子女らしいですね」
 それでも、御園准将はすこし眼差しを翳らせた。
「いちばん荒れていて、両親にとても心配させた時期でもあったけれどね」
 なんのことかわかって、心優は返答に困る。鎌倉の叔父に預けられていた時に傭兵の男に襲われ、アメリカの親元に引き取られ、ヴァイオリンを辞めて早々に訓練校に入校し、パイロットを目指した十代だったのだろう。
 昼下がり。そんなお嬢様育ちの艦長との遅いランチはとても優雅だった。
 本当に美味しかった。そして女二人で、全て平らげてしまう。大食漢の女二人。お手の物だった。
「今後の食事だけれど、心優もたまには一人になりたい時もあるでしょうし、親しみあるメニューもカフェテリアにあるでしょう。。一般のカフェテリアに行きたい時は前もって是枝さんに報告してね。私もたまにそうしているの。それから、木曜日のモーニングはミーティングを兼ねて、主要幹部で揃って会議室で食事をすることになっているから」
「了解です」
「朝からいろいろあって疲れたでしょう。そろそろ休憩してきなさい」
「ありがとうございます」
 朝の出航見送り。その後のラングラー中佐からの大事な話、突然のホットスクランブル。そして艦長室のお留守番と付き添い。やっとランチを取れたところ。
「今回の艦には、日米を合体させたコンビニがあるみたいよ。部屋で休んでも良いし、自由に散歩してきても良いわよ」
「では、初めての航海ですので、艦内を散策して参ります」
 食事を終え、心優は指令室にいるラングラー中佐に報告をしてから、休憩時間にはいろうとした。
 ラングラー中佐は、デスクにて事務仕事をしている。報告をすると、心優に穴が開いている箱を差し出された。
「なんですか、これ」
「艦長へのリクエスト。好きな曲名を書いて入れてくれ。艦長が抽選をし、それをヴァイオリンや娯楽室のピアノで弾いてくれるんだ。氏名記入は任意。当たりやすいのは誰もが知っている曲であったり、楽譜を入れること。名前を書く者も多いかな。艦長に名を知って欲しいとかね。今日は指令室と管制室の隊員が対象」
「それでヴァイオリンを持ってこられたんですか」
「当初は、葉月さんの習慣でもあるから気晴らしだったんだが、そのうちに音を耳にする隊員からリクエストされるようになったんだ。いまは俺がこうして応募を受け付けている」
 それならば……と、心優はラングラー中佐が差し出してくれたメモ用紙にその曲名を書いて出した。
 やっとの休憩になり、心優は准将が教えてくれたコンビニエンスストアやカフェテリアがあるエリアへと向かう。空母の中は街のよう。人が集まるエリアは様々な人種が入り乱れ、外国のよう。とても活気があった。
 自分の小部屋で使うものや、ちょっとした夜食になりそうなものを購入して、心優はまた艦内を歩く。たまに心優の顔を見た者が『艦長のところの?』と声を掛けてくれたり、日本人なら『広報誌の!』と驚いてくれたりした。
 また管制室側の通路に戻ってくるとホッとする。指令がある中枢なので一般隊員は近寄ったりせず、とても静かだった。
 心優の休憩が終わると、日が傾き始める。
 艦長室で夕の事務に勤しんでいた心優は、丸窓から見える海の様子に感嘆する。
 茜を広げ始めた海の色、本当に燃えるという表現がぴったりの赤い太陽が水平線に近づいている。
「わあ、すごく綺麗ですね」
 窓辺に思わず駆け寄った心優を見て、御園艦長も微笑ましそうにして窓辺にやってくる。
「そうね。海の様々な表情をみられるのも、航海の楽しみ」
「ほんとうですね……」
 心優が見惚れているのをそっとして、御園准将は艦長デスクに戻っていく。
 燃えるような夕日とはまさにこのこと――と、心優が見ていると、背後から『ボゥ』という音が聞こえる。
 振り向くと、御園准将がヴァイオリンを構えていた。艦長デスクにはヴァイオリンケースが置かれている。
 ボゥ、ボゥ、ボゥ……。優しい調律の音色が艦長室に響く。
 それが聞こえたのか、ラングラー中佐が指令室のドアを開け放した。そして通路に出るドアも開けて、管制室へと音が通るようにドアを開け放つ。
 御園准将が肩にヴァイオリンを構え、弓(ボウ)を弦に置く……。暫く、御園准将が引く前の呼吸を整えている。そしてそっと目をつむると、静かにそのボウを引いた。
 突然響き始める軽やかなメロディ。そして心優は目を見張る。『私がリクエストした曲!』。

【 Just The Way You Are/Bruno Mars 】

 氏名は書かなかった。でも艦長がその曲を今日選んでくれた? 心優の文字のクセを知っていてくれたのだろうか?
 それとも偶然? そして心優は指令室の入り口に集まった男達の中に、背が高い雅臣もこちらを見ているのに気がつく。
 雅臣も少し驚いたような顔をしている。それもそのはず。この曲は、雅臣が横須賀の官舎で食事の支度をする時によく聞いていた曲のひとつで……。だから、心優には想い出の曲。こんなふうに、茜が差す海辺の官舎で、キッチンで、二人で笑いながら食事の支度をしていたあの短い日々の想い出。
 燃えるような夕日とこの曲は、心優の気持ちをかき乱す。切なくさせる。そして、振り向くとその曲を一緒に聴いた人がいて、その人が心優を見つめてくれているのにも気がつく。
 わたし達、忘れてない。臣さんも、忘れていない?
 ミセス准将のヴァイオリンは、涙を誘う。彼女のウェットな重みを含んだ音は、ただの趣味で音を奏でてきた人のものではなかった。その音を航海中に聴きたいというクルーが多いのも頷けるもの。
 栗毛の艦長が美しく奏でる夕の曲。それが終わると拍手が響いた。
 演奏が終わり、艦長がヴァイオリンをケースに置くと、ラングラー中佐が開け放したドアを閉め始める。音を聞きに来ていたクルーが少しずつ散っていく。
「艦長、わたしのリクエストを弾いてくださって、有り難うございました」
 心優は御礼をすると、御園准将が驚いた顔をする。
「え、あの名前を書いていないのは、ミユだったの」
「はい、そうですが……」
 字のクセを知って、初航海である心優のために選んでくれたというのは、心優の思い上がりかと一瞬恥じた。たまたまだったようだ……。
 だがそこへ、指令室から雅臣が入ってくる。そして嬉しそうに艦長デスクにやってきた。
「艦長。自分のリクエストを受けてくださって、有り難うございました! 俺、空母で弾かれる准将のヴァイオリンを楽しみにしていたんです。なのに初日に俺のリクエスト……」
「えっと、うん……あのね……」
 ミセス准将が困惑している。心優も嬉しそうにすっ飛んできた雅臣が言うことにも驚いて……目を丸くする。
 え、臣さんも、同じ曲をリクエストしていた!?
 そこへ、御園艦長が二人の目の前に、二枚のメモ用紙をデスクの上に広げた。
「雅臣の名前が書いてあったというよりも、この限られたスタッフしかいない指令室と管制室の中で、同じ曲をリクエストした者が二名いる。それだけのことだったんだけれどねー」
 その用紙を見て、心優は絶句する。雅臣はしっかり氏名を書いた上で心優と同じ曲【Just The Way You Are】をリクエストしている。
「本当だ。俺の他にも……」
 不思議そうだった雅臣だが、直ぐに顔色を変えた。そして心優をあからさまに見た。心優はもう、顔が熱くて目を逸らしてしまう。
「もう一枚は、心優のリクエストだったみたい」
 御園准将がにっこり微笑んで、そのメモ二枚を雅臣に握らせる。
「いい曲よね。私も自宅では息子と良く演奏するの。息子も娘もこの曲が好きだから」
 それだけいうと、御園准将は、皮椅子に腰を掛けヴァイオリンをデスクの下にしまう。
「そうでしたか……。有り難うございました。では、失礼いたします……」
 気が抜けたようにして、握らされたメモ用紙を持ったまま、雅臣が艦長室を出て行ってしまう。
「はあ、じれったいな。私のせいなんだろうけど」
 艦長もぼそっとそれだけいうと、元の事務作業に戻ってしまう。
 丸窓に振り返ると……。夕日は短い。もう群青のベールが水平線に漂っている。
 雅臣も、岩国の夕日を見て、心優のことを思い出してくれていたのだろうか。そう思いたい……。
 彼と通じあっている? 胸のドキドキが止まらない。

 

 

 

 

Update/2015.3.16
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